Art Library
Art History

1980–1986

East VillageとDowntown New York

Basquiat、Haring、クラブ、ストリート

1980年代前半のニューヨークでは、絵画、写真、映像、音楽、クラブ、ファッション、graffitiが互いに近い距離で動いていました。作品は美術館やSoHoの商業ギャラリーだけでなく、地下室のクラブ、South Bronxの店舗、地下鉄駅、空きビル、路上、臨時の展示空間に現れます。Jean-Michel Basquiat、Keith Haring、Kenny Scharfらが登場した背景には、一人の天才が突然発見されたという物語だけでは説明できない、複数の小さな場所と人間関係の網がありました。

この時期を「street artがgalleryへ入った時代」とだけ説明するのも不十分です。Haringの地下鉄ドローイング、BasquiatとAl DiazによるSAMOの文章、Futura 2000、Lee Quiñones、Lady Pinkらの地下鉄graffitiは、同じものではありません。また、Club 57の実験的な展示とperformance、Colabの集団企画、Fashion ModaがSouth Bronxで作った地域横断的な場、FUN Galleryがstreetとdowntownを接続した役割にも違いがあります。重要なのは、これらが互いに交差した結果、「作品をどこで見せるか」「誰が観客なのか」「美術と大衆文化をどこで分けるのか」という境界が大きく動いたことです。

1981年頃からEast Villageには小さなギャラリーが急増し、数年のうちにこの地域は国際的な美術市場の注目を集めます。その一方で、地下鉄やclubで形成された表現が商業ギャラリーへ移ることで、価格、所有、作家のイメージ、文化的な出自も変化しました。1986年にHaringがPop Shopを開いたことは、この矛盾を象徴しています。美術市場で作品価格が上がるなか、彼はTシャツやバッジを通して作品を再び広い観客へ開こうとしました。1980年代前半のDowntown New Yorkは、反市場的な地下文化から市場へ移行した単純な物語ではなく、公共性と商業性、地域文化と国際美術、独立空間と大規模制度が同時に絡み合った時代でした。

CONTENTS

  1. Downtown New Yorkは一つの様式ではない
  2. East Village、Lower East Side、SoHo、South Bronx
  3. 安い家賃と空き空間
  4. 1970年代後半の自主運営スペース
  5. 1977年 Colab
  6. 1978年 Fashion Moda
  7. South BronxとManhattanを結ぶ
  8. 1978–83年 Club 57
  9. 教会地下の小さなクラブ
  10. 映画、performance、絵画、音楽を分けない
  11. Haringは作品を作るだけでなく展示を企画した
  12. Kenny Scharf — cartoonと宇宙空間
  13. DIYは見た目ではなく制作条件だった
  14. BasquiatとSAMO
  15. 路上に短い文章を書く
  16. Basquiatを地下鉄graffiti writerと同一視しない
  17. 1980年《Times Square Show》
  18. Times Squareの空きビルを展示空間にする
  19. 数百人規模の開かれた展示
  20. ColabとFashion Modaの接続
  21. HaringとBasquiatも参加する
  22. Nan Goldinのスライド上映と音楽
  23. 作品を安価に売る「Store」
  24. 美術界が若い自主企画へ注目する
  25. 1980年 Haringの地下鉄ドローイング
  26. 広告のない黒い紙を見つける
  27. 白いチョークという選択
  28. 描く行為自体がperformanceになる
  29. 通勤者を観客にする
  30. 地下鉄graffitiとの違いと接点
  31. 地下鉄を「実験室」にする
  32. 1980年 New Museum《Events: Fashion Moda》
  33. 美術館が企画権を作家団体へ渡す
  34. 1981年《New York/New Wave》
  35. 118人を一つの展覧会へ
  36. Diego CortezとMudd Club
  37. 20歳のBasquiatが注目される
  38. Haring、Futura 2000、Nan Goldinも並ぶ
  39. artist、writer、musicianを同じ空間に置く
  40. 1981年 FUN Gallery
  41. Patti AstorとBill Stelling
  42. uptownのgraffitiとdowntownの美術をつなぐ
  43. Futura、Lee、Dondi、Lady Pink、Zephyr
  44. streetで知られた作家へ個展の場を与える
  45. Basquiat — 文字と絵画の密度
  46. 「graffitiから絵画へ」という単純な昇格ではない
  47. 1982年 — galleryと国際展へ急速に広がる
  48. Documenta 7
  49. HaringのTony Shafrazi Gallery個展
  50. galleryを持つことと公共空間を離れないこと
  51. Haringの記号はなぜ広く読めたのか
  52. Radiant Baby、犬、人物
  53. ScharfのCosmic Closet
  54. テレビアニメを美術へ入れる
  55. Pop Artの単純な繰り返しではない
  56. East Villageのギャラリー急増
  57. 小さな店舗が展示空間になる
  58. 一つの「East Village style」は存在しない
  59. David Wojnarowicz — street、pier、stencil
  60. Martin Wong — 都市を別の速度で描く
  61. Gracie Mansion Gallery
  62. 1984年 Pat Hearn Gallery
  63. 地下文化から専門化されたgallery sceneへ
  64. 市場はsceneを壊したのか
  65. artist自身もimageとして流通する
  66. 写真がsceneの人間関係を残す
  67. 公共空間と商業空間の往復
  68. 1986年 HaringのPop Shop
  69. 作品価格が上がるほど「アクセス」が問題になる
  70. 商業化は美術の敗北なのか
  71. Warhol以後のart / commerce
  72. 1980年代半ば、sceneを変えるAIDS危機
  73. 「自由なEast Village」という神話
  74. 1980–1986年に何が変わったのか
  75. Downtown New York以後
  76. 次の時代へ — Neo-Geoと商品化されたイメージ
  77. 参考資料・出典

Downtown New Yorkは一つの様式ではない

1980年代前半のDowntown New Yorkを、一つの美術運動として定義することはできません。Basquiatの絵画、Haringの線画、Scharfのcartoon的な世界、Nan Goldinの写真、Jenny Holzerの言葉、Kiki Smithの初期作品、Futura 2000やLady Pinkのgraffitiは、形式も背景も異なります。

共通していたのは様式ではなく、場所と人間関係の近さでした。clubで音楽を聴き、友人のfilmに出演し、別のartistの展覧会を企画し、翌日は街頭に描き、夜には同じ場所でperformanceを行う。美術、音楽、映画、fashionを職業ごとに分離する以前の状態が、非常に小さな地域へ集中していました。

East Village、Lower East Side、SoHo、South Bronx

「Downtown New York」という言葉は便利ですが、実際には複数の地域が関係します。East VillageとLower East Sideにはartist-run spaceや小規模galleryが生まれ、SoHoにはすでに1970年代からcommercial galleryが集まっていました。South BronxではFashion Modaが地域住民とartist、graffiti writersを結び、Manhattanのdowntown sceneとは異なる文化的基盤を持っていました。

さらに地下鉄がこれらの地域を物理的に結びました。graffitiは列車そのものによって都市を横断し、Haringのsubway drawingsは駅の広告空間に現れます。1980年代New Yorkの美術は、地域ごとの違いを保ちながら移動によって接続されていました。

安い家賃と空き空間

MoMAはClub 57を振り返る際、1970–80年代East Villageの創造性を支えた条件として、低い家賃、政治状況への反発、新しい表現形式を試そうとする欲求を挙げています。荒廃や空き店舗は住民にとって深刻な都市問題でしたが、若いartistにとっては比較的低い費用で大きな空間を使える条件にもなりました。

ここで注意したいのは、都市の荒廃を「artistにとって理想的だった」と美化しないことです。安価なstudioやgalleryが可能だった背景には、自治体の財政危機、失業、住宅問題、地域住民が抱える困難がありました。文化的な活気と都市の不平等は同時に存在していました。

1970年代後半の自主運営スペース

New Museumの資料は、1970–80年代New Yorkでartist-run spacesが若いartistを支える重要な場所だったと記録しています。大規模な美術館やcommercial galleryでは扱われにくい作品を発表し、政治的問題や新しい媒体について、自分たちで展示の条件を決めることができました。

East Villageのgallery boomは何もないところから突然始まったのではありません。その前に、artistが自分たちで場所を作り、展示を組織する文化がすでに形成されていました。

1977年 Colab

Collaborative Projects, Inc.、通称Colabは1977年にNew Yorkで始まったartist collectiveです。Smithsonianのoral history資料では、40人を超えるartistが関わり、資金を共同で得ながら、展覧会、film、video、出版などを自分たちで企画していったことが記録されています。

Colabでは一人のcuratorがすべてを決めるのではなく、memberが企画を持ち込み、共同で制作・運営しました。1980年《Times Square Show》はその大規模な成果の一つになります。

1978年 Fashion Moda

1978年、Stefan EinsとJoe LewisはSouth BronxにFashion Modaを設立しました。New MuseumはFashion Modaを、artist、専門家、地域住民、子どもが関われる非営利のart spaceとして記録し、教育や経済的背景の異なる幅広い観客へartとideaを開くことを目的としていたと説明しています。

ここで重要なのは、Fashion ModaをManhattanのart worldが「graffitiを発見する場所」とだけ見るべきではないことです。South Bronxという地域に根ざし、既存の美術制度とは異なる人々を同じ場所へ集める独自の社会的役割を持っていました。

South BronxとManhattanを結ぶ

Fashion Modaは、South Bronxのgraffiti writersとdowntownのconceptual / performance artistsが出会う場所の一つになりました。1980年にはNew Museumの《Events》シリーズへ招かれ、Fashion Moda自身が展示を構成しています。

これは「中心のmuseumが周辺文化を選んで展示した」という一方向の関係とは少し違います。New Museumは企画権をartist organizationへ渡し、Fashion Modaが自ら何を見せるかを決めました。制度の内部へ入る際にも、一定の自律性を維持しようとした試みです。

1978–83年 Club 57

Club 57は1978年から83年まで、57 St. Marks PlaceにあるPolish churchの地下で運営されたclub / performance spaceです。MoMAは、最初はほとんど予算のないmusicとfilmの会場として始まり、やがてEast Villageの重要な創造拠点になったと説明しています。

ここではartistが完成作品を展示するだけではありません。film上映、performance、dance、音楽、写真、drawing、fashion、zine、展覧会企画が同じ場所で交差しました。現在「visual artist」「musician」「performer」と分類される人たちが、当時は互いの活動へ頻繁に参加していました。

教会地下の小さなクラブ

Club 57はwhite cubeのgalleryではありませんでした。地下室の暗い空間、低い予算、手作りのdecor、flyer、costumeが活動条件の一部です。MoMAが2017年の回顧展で強調したのも、完成作品の質だけではなく、その空間で異なる分野が混ざったことでした。

clubは夜に人が集まるため、作品を見ることとsocializingが分離しません。誰と出会うか、誰のperformanceを見るか、次に何を一緒に作るかという人間関係自体が制作を動かします。

映画、performance、絵画、音楽を分けない

MoMAのClub 57資料には、film、video、performance、theater、photography、painting、drawing、printmaking、collage、zine、fashion、curatingまでが並びます。これは後世が「1980年代の絵画」「video art」「performance」と分けて整理する以前の混在をよく示しています。

BasquiatやHaringが絵画史の中だけから出てきたわけではないことも、ここから理解できます。彼らがいたのは、作品形式より「今夜何をやるか」が先にある環境でした。

Haringは作品を作るだけでなく展示を企画した

Keith HaringはSchool of Visual Arts在学中からClub 57へ関わり、1979年頃には展示企画を担うようになります。MoMAはClub 57の主要な運営者の一人としてHaringを「exhibition organizer」と記録しています。

彼は自分のdrawingを見せるだけでなく、Xeroxを使った展示、匿名のstreet image、erotic artなど複数の企画を行いました。artistとcuratorの役割がはっきり分かれていません。

Kenny Scharf — cartoonと宇宙空間

Kenny ScharfもClub 57を代表するartistの一人でした。Jetsonsなどtelevision cartoonを思わせるfigure、宇宙船、鮮烈な色をpainting、object、costume、videoへ展開します。MoMAのClub 57資料には、彼がこの時期に制作した多数のvideoも残されています。

cartoonは子ども向けの低い文化として距離を取られるのではなく、幼少期から身体に染み込んだ視覚言語としてartへ入ります。Pop Artがadvertisementやcomicを扱った後の世代にとって、television animationも同じように共有された記憶でした。

DIYは見た目ではなく制作条件だった

Club 57の手作り感は、後から選ばれた「DIY風のstyle」ではありません。資金が少なく、既成の美術制度の外で活動するため、自分でflyerを刷り、壁を飾り、performanceを組み、友人に出演してもらう必要がありました。

その制約が、複数分野を自由に横断する条件にもなりました。美術館の設備を使えないことが、別の種類の制作環境を作ったのです。

BasquiatとSAMO

Jean-Michel BasquiatはAl Diazとともに、1970年代末にSAMO名義でManhattanの建物や街頭へ短い文章を書き始めました。Whitneyは、BasquiatがSAMOの謎めいた警句によってLower East Sideを中心に知られるようになったと説明しています。

SAMOでは大きなcolor pieceより、短い言葉、皮肉、哲学的なphraseが重要でした。街のwallが文章を置く媒体になり、通行者はその意味を突然読まされます。

路上に短い文章を書く

SAMOの方法は、広告のcopyやConceptual Artのtext workとも違う位置にあります。美術館の壁ではなく、街の壁や建物へ直接書かれるため、誰が読むかを選べません。

この経験は後のBasquiatのpaintingにも残ります。単語、固有名詞、価格、解剖学用語、歴史的人名を書き込み、消し線を引き、絵と文章を同じ強度で扱う方法へつながります。

Basquiatを地下鉄graffiti writerと同一視しない

Basquiatはしばしば「graffiti artistから画家になった」と説明されますが、New Yorkの地下鉄graffiti文化との違いは重要です。SAMOは主にManhattanの街頭へ文章を書く活動であり、Futura 2000、Lee Quiñones、Dondi、Lady Pinkらが発展させたsubway train writingとは制作方法も共同体も異なります。

両者にはstreetを媒体にする接点がありますが、一つの文化へまとめるべきではありません。1980年代初頭のgalleryがこれらを同時に紹介したことで、後から「street art」という広いimageの中へ入りやすくなりました。

1980年《Times Square Show》

1980年6月、Colabが中心となって《Times Square Show》を開催しました。Smithsonian Archives of American Artには、当時の会場を示す「7th Ave. & 41st St.」のbuttonと、展示を撮影した19枚のcolor slideが保存されています。Smithsonianはこの展覧会をColabが組織し、East Village周辺を含む数百人規模のartist / performerが関わった企画として記録しています。

New Museumは後に《East Village USA》で、《Times Square Show》をColabの転換点となった展覧会として位置づけています。galleryではなく、Times Squareの商業・娯楽地区にある一時的な建物を使ったこと自体が重要でした。

Times Squareの空きビルを展示空間にする

Times Squareは現在の観光地としてのimageだけではなく、当時は映画館、成人向け娯楽、広告、観光客、犯罪、商品販売が混在する場所でした。そこでart exhibitionを行うと、作品は最初からcommercial signやstreet cultureの中へ置かれます。

white cubeのneutralな壁ではなく、建物の状態、街のnoise、人の流れが展示条件になります。Land Artがremote siteへ出たのとは別方向で、artが都市の既存環境へ入り込みました。

数百人規模の開かれた展示

《Times Square Show》は厳密に選ばれた少人数のmuseum group showとは異なり、多数のartistによるpainting、drawing、sculpture、film、performance、poster、商品的なmultipleが混在しました。

その混雑自体が特徴でした。誰が中心作家なのか、どの作品が「重要」なのかを一目で決めることが難しく、professional artと街頭的なimageの境界も曖昧になります。

ColabとFashion Modaの接続

MoMAのHaring資料は、《Times Square Show》をColabとFashion Modaによる準地下的な展覧会として記録しています。South BronxのFashion ModaとdowntownのColabが協働したことで、異なる地域と文化圏の作家が同じ会場へ入りました。

このcross-overは1980年代New Yorkの大きな特徴です。hip-hop cultureがdowntownへ入り、downtownのartistがBronxへ行き、club、gallery、filmを通じて人間関係が形成されます。ただし、それぞれの文化が同じ条件にあったわけではありません。

HaringとBasquiatも参加する

Keith Haring FoundationはHaringが1980年《Times Square Show》へ参加し、この展示でHaringとBasquiatが注目されたことを記録しています。二人は後に1980年代New Yorkの象徴的なartistになりますが、この時点ではまだ大規模commercial galleryのstarではありません。

歴史を後から見ると「有名作家の初期展」に見えますが、当時は多数の若いartistが同じ場所で実験していた状況の一部でした。

Nan Goldinのスライド上映と音楽

Nan GoldinはSmithsonianのoral historyで、《Times Square Show》の頃に自分のslide showへ音楽を組み合わせ始めたと振り返っています。後に《The Ballad of Sexual Dependency》として知られる形式へつながる方法です。

静止した写真をwallへ一枚ずつ掛けるのではなく、多数のslideを時間の中で流し、音楽と組み合わせる。club cultureとphotographyの距離が近かったことを示す重要な例です。

作品を安価に売る「Store」

《Times Square Show》ではCara Perlman、Tom Otternessらが小さな作品やmultipleを販売するstoreを組織しました。Kiki Smithのoral historyでは、artist同士が安価な小物やT-shirtなどを作り、交換したり購入したりしていた文化が語られています。

これは高価なgallery objectだけがartではないという考えと、artistが自分で流通方法を作ることを結びつけています。後のHaringのPop Shopにも通じる問題です。

美術界が若い自主企画へ注目する

Kiki Smithは《Times Square Show》を、若いartistが自分たちで場所を借り、自分たちで展覧会を作った重要な転換として振り返っています。そしてその頃からcommercial galleriesが多くの参加artistへ注目し始めたとも語っています。

自主的な地下文化とcommercial art worldは完全に分離していたわけではありません。成功したalternative exhibitionは、既存制度から発見される入口にもなりました。

1980年 Haringの地下鉄ドローイング

1980年、Haringは地下鉄駅で、広告契約が入っていない枠にmatte black paperが貼られていることへ気づきました。Keith Haring Foundationによれば、彼は白いchalkを購入し、そこへdrawingを始めます。その後1985年までに数百点を制作しました。

既存の広告板を壊して塗り替えるのではなく、一時的に貼られた黒紙をdrawing surfaceとして見つけたことが重要です。都市の商業広告systemに生じた「空白」を作品へ変えました。

広告のない黒い紙を見つける

広告枠は本来、企業が料金を払ってimageを掲載する場所です。契約がない期間だけ黒紙で覆われます。Haringはその「何もない」状態を、すでに額装された巨大なblackboardのように見ました。

つまり彼は地下鉄の壁面を自由に選んだのではありません。広告systemが作った規格化された矩形を利用しました。公共空間と商業空間の境界に作品を置いています。

白いチョークという選択

Haring本人は、柔らかいblack paperにはchalkが非常によく乗ったと振り返っています。白線は黒地に強く浮かび、遠くからでも読みやすく、短時間で描くことができます。

消すこともできるため永久的なmarkではありませんでした。作品の寿命は広告が貼り替えられるまでであり、写真として記録されなければ多くは失われます。

描く行為自体がperformanceになる

Haringは地下鉄で描くこと自体をperformanceのように考えていました。警察に見つかる可能性があるため素早く描く必要があり、通勤者は制作途中を直接見ることができます。

studioで完成させて展示するのではなく、制作行為と公開が同時に起こります。Performance Artでartistのbodyとactionが作品になった経験が、drawingへ接続されています。

通勤者を観客にする

Haring Foundationによれば、通勤者は制作中のHaringへ話しかけ、絵の意味を質問しました。galleryへ美術を見に来た人ではなく、仕事や学校へ向かう人が偶然viewerになります。

この「偶然見る観客」はHaringにとって重要でした。作品が美術の知識を持つ人だけへ閉じないことが、後のpublic muralやPop Shopにもつながります。

地下鉄graffitiとの違いと接点

Haringのsubway drawingはNew Yorkのgraffiti文化と同じ都市空間に現れましたが、train carへ名前やpieceをspray paintするwriting traditionとは方法が異なります。Haring自身も黒紙に先にtagがあった場合、それを消さず周囲へdrawingしたと記しています。

相互に近い環境で活動していても、HaringをFutura 2000やLady Pinkと同じsubway writerとして扱うのは正確ではありません。一方、無許可の公共空間へ描き、広い都市の観客へ直接届く点では重要な接点があります。

地下鉄を「実験室」にする

Haring Foundationは、Haringがsubwayを自分のideaとsimple lineを試す「laboratory」と考えていたことを紹介しています。短時間で何度も描くため、figure、dog、baby、radiating lineなどの語彙が急速に整理されました。

同じmotifを何百回も描きながらvariationを作る方法は、一枚のmasterpieceを時間をかけて仕上げる制作とは異なります。反復によってvisual languageを発展させました。

1980年 New Museum《Events: Fashion Moda》

1980年12月13日から1981年1月8日まで、New Museumは《Events: Fashion Moda》を開催しました。これは《Events: Fashion Moda, Taller Boricua, Artists Invite Artists》という企画の一部で、New Museumがartist groupsへ展示空間と出版物の企画権を渡すシリーズでした。

Fashion ModaがSouth Bronxで行っていた活動が、Manhattanのcontemporary art museumへ入る重要な機会でした。しかしmuseumが内容を一方的に整理するのではなく、団体自身がcurateした点が重要です。

美術館が企画権を作家団体へ渡す

New Museumは《Events》について、標準的なmuseum practiceを逆転し、curatorial controlをartist groupsへ譲ったと説明しています。これは単に「新しいartistを紹介する」以上の制度実験です。

誰を選ぶか、何を展示するかというmuseumの権力自体を、一時的に外部へ渡します。1970年代のInstitutional Critiqueやalternative spaceの経験が、museumの運営方法へ戻ってきた例です。

1981年《New York/New Wave》

1981年2月15日から4月5日まで、P.S.1でDiego Cortezが《New York/New Wave》を企画しました。MoMA PS1の記録では118人のartistが参加しています。

MoMAはこの展覧会を、downtownのenergyがそれまでにない規模でart worldと一般観客の注目を集めた出来事として振り返っています。clubやstreetで交差していた文化が、大きな展示空間へ一気に可視化されました。

118人を一つの展覧会へ

118人にはvisual artistsだけでなく、writer、musician、photographerも含まれました。Robert Mapplethorpe、William S. Burroughs、David Byrneのような既に知られた人物と、Nan Goldin、Jimmy De Sana、Keith Haring、Futura 2000、SAMO©などの若い存在が同じ展覧会へ並びます。

これは「次世代の画家を10人選ぶ」ような展覧会ではありません。New Yorkのculture全体を一つの波として見せようとする構成でした。

Diego CortezとMudd Club

curatorのDiego CortezはMudd Clubの共同設立者でもあり、galleryだけでなくclub cultureの人間関係を知っていました。そこで《New York/New Wave》では、通常のmuseum hierarchyでは接続されにくい音楽、写真、graffiti、paintingを同じ場へ持ち込みました。

誰を知っているかというsocial networkが、curatorial mapになります。この時期のclubは娯楽施設であると同時に、作品と作家を発見する場所でもありました。

20歳のBasquiatが注目される

MoMAは《New York/New Wave》を、20歳のSAMO©=Basquiatが美術界から本格的に注目される契機として位置づけています。Basquiatは展覧会前の数か月に、文字やsymbolを密集させたpaintingとworks on paperを大量に制作していました。

翌1982年にはDocumentaへ参加します。streetで知られる存在から国際美術展へ移る速度は非常に速く、1980年代のgallery、critic、collector、mediaが連動する状況を象徴しています。

Haring、Futura 2000、Nan Goldinも並ぶ

《New York/New Wave》にはHaring、Futura 2000、Nan Goldin、Jimmy De Sanaらも参加しました。現在は別々の美術史分野で語られる作家たちが、当時は同じsceneの中で並んでいました。

この同時性を見ると、「graffiti art」「写真」「Neo-Expressionism」といった後世の分類が、当時の人間関係より後から作られたことが分かります。

artist、writer、musicianを同じ空間に置く

MoMAは《New York/New Wave》を、118人のartists、writers、rock musiciansによる展覧会として説明しています。これはmusicをartの背景として使ったのではなく、文化生産の一部として同じ場へ入れたことを意味します。

Downtown sceneではalbum、flyer、stage、costume、film、paintingが互いにimageを交換しました。作品の媒体以上に、人とimageがどの経路を通って広がるかが重要になります。

1981年 FUN Gallery

1981年、Patti AstorとBill StellingはFUN Galleryを始めました。New Museumの資料は、FUN Galleryを1980年代East Villageの最初期のgalleryの一つとして位置づけ、Futura 2000、Basquiat、Dondiらの重要な個展を開催したと記録しています。

National Endowment for the ArtsのAstorへの取材では、FUN Galleryがgraffitiとhip-hop cultureをdowntownのgallery空間へ結びつけた場所として語られています。

Patti AstorとBill Stelling

Astorはtraditional art dealerとして訓練された人物ではなく、No Wave filmやdowntown sceneで活動していました。小さなstorefront galleryを始め、artist自身が互いに集まるsocial spaceとして運営します。

高級なgalleryの雰囲気を再現するより、boom box、party、友人関係をそのまま展示空間へ持ち込んだことがFUNの特徴でした。

uptownのgraffitiとdowntownの美術をつなぐ

AstorはNEAの取材で、BronxやBrooklynのgraffiti / hip-hop artistsとdowntownのpunk / art sceneを結ぶことにFUN Galleryの役割があったと振り返っています。

ただし「uptown cultureがdowntownによって美術へ昇格した」という一方向の物語は避ける必要があります。graffitiにはgallery以前から独自の技術、評価基準、名声のsystemがありました。galleryは別の観客と市場へ接続したのです。

Futura、Lee、Dondi、Lady Pink、Zephyr

New Museumは、Futura 2000、Lady Pink、Lee Quiñones、Zephyr、Daze、Crashらを、subway trainsで制作を始めたgraffiti generationとして紹介しています。彼らは都市の列車全体を移動するpainting surfaceへ変え、街の中で名声を形成しました。

galleryへ持ち込まれたcanvas作品だけを見れば、graffiti文化の重要な部分が消えます。列車を描く危険、複数writer間のstyle競争、citywideなvisibilityがもともとの条件でした。

streetで知られた作家へ個展の場を与える

FUN GalleryではFutura 2000、Dondi、Basquiatらのsolo exhibitionsが行われ、Haringも1983年に個展を開いています。galleryはstreetで形成されたvisibilityを、作品の販売、批評、collectionへ接続しました。

この移動によって作品サイズやmaterialも変わります。列車や壁へ描いていたartistが、保存・販売できるcanvasやpaperを制作するようになるためです。galleryは単に場所を変えるだけでなく、作品そのものの条件を変えます。

Basquiat — 文字と絵画の密度

Basquiatの1980年代初頭のpaintingでは、頭部、骨格、王冠、数字、商品名、歴史的人名などが同じ画面へ重なります。Whitneyは彼の制作を、poetry、drawing、painting、textとimage、abstractionとfiguration、歴史情報と同時代批評を結びつけたものとして説明しています。

SAMOで使っていた言葉の感覚は残っていますが、canvasでは色、drawing、重ね塗り、消去が加わり、複数の情報が同時に見える構造になります。

「graffitiから絵画へ」という単純な昇格ではない

Basquiatのcareerを「街の落書きから本物の絵画へ進んだ」と説明すると、gallery artを上位に置く価値観をそのまま再生産します。SAMOとcanvas paintingは異なる形式であり、後者が前者の完成形というわけではありません。

むしろ彼はstreet text、drawing、美術史、音楽、歴史資料を横断しながら、galleryでもstreetでも既存の区分に完全には収まらない制作を行いました。

1982年 — galleryと国際展へ急速に広がる

1982年はBasquiatとHaring双方にとって大きな転換点です。BasquiatはDocumenta 7に参加し、HaringもDocumentaを含む国際展へ進みます。gallery representationと国際展がほぼ同時に進み、数年前まで小規模なclubやstreetで活動していた作家が世界規模で知られるようになります。

この速度は1980年代art marketの特徴でもあります。若いartistのimage、作品価格、media coverageが互いに加速します。

Documenta 7

MoMAはBasquiatについて、1982年に21歳でKasselのDocumentaへ参加したと記録しています。Haring Foundationも同年のDocumenta参加を確認しています。

New Yorkのdowntown sceneがlocal subcultureだけではなく、国際的なcontemporary art networkへ接続されたことを示す出来事です。

HaringのTony Shafrazi Gallery個展

Haring Foundationによれば、Haringは1981年にNew Yorkで個展を行い、1982年にはTony Shafrazi Galleryで大きなone-man exhibitionを開催しました。drawing、painted tarpaulin、sculpture、現場制作を組み合わせ、galleryの一部をclubのような環境へ変えました。

地下鉄で形成したvisual languageをgalleryへ持ち込む一方、galleryを通常のwhite cubeのままにはしませんでした。

Haringは商業galleryに入った後もsubway drawingsを1985年まで継続し、公共壁画や子どもとのworkshopも行います。gallery successとstreet activityを二者択一にはしませんでした。

これは「地下文化が成功するとstreetを捨てる」という単純な物語とは異なります。制度の内部と外部を同時に使うこと自体が彼の方法になりました。

Haringの記号はなぜ広く読めたのか

Haringの線は速く、輪郭が明確で、人物、犬、赤ん坊などが繰り返されます。細部の描写が少ないため、特定の人物ではなく一般的なfigureとして読めます。

この単純さは「簡単な絵」という意味ではありません。地下鉄で数秒しか見ない観客にも届き、同時にmotifの組み合わせによってsexuality、power、violence、technology、religionなど複数の物語を作れるよう設計されたvisual systemでした。

Radiant Baby、犬、人物

Radiant Baby、barking dog、踊る人物、television、flying saucerなどのmotifは、反復されることでHaring固有のvisual vocabularyになります。人物の周囲の短い線はmovementやenergyを示し、静止したdrawingにactionを与えます。

文字を使わなくても、広告や交通標識のように素早くrecognizeできるimageを作る。そのcommunicationへの関心が公共空間との相性を生みました。

ScharfのCosmic Closet

Kenny Scharfは自宅のclosetや部屋へ玩具、plastic object、蛍光色、found materialを集積し、宇宙的な環境へ変える《Cosmic Closet》を発展させました。MoMAのClub 57回顧展でも、この没入的な環境が再構成されています。

paintingを壁一枚に限定せず、生活空間をcartoon universeへ変える方法です。clubのdecor、installation、collecting、paintingが分離しません。

テレビアニメを美術へ入れる

ScharfがJetsonsのようなcartoon imageを使うことは、子ども時代のmass-media memoryをartへ持ち込むことでもありました。Basquiatがhistory bookやanatomyを、Haringがsign-like figureを使ったように、各artistは自分が日常的に吸収してきたimage archiveを別の方法で再構成します。

Pictures Generationが既存imageの引用を冷静に分析した同じ時期に、Downtownではそれがよりcolorfulで身体的な形でも現れました。

Pop Artの単純な繰り返しではない

漫画、広告、商品、celebrityを扱うため、1960年代Pop Artとの連続はあります。しかし1980年代のartistはすでにWarhol自身を一つの文化的imageとして知っています。

mass cultureを初めてhigh artへ持ち込む世代ではなく、その区別がすでに崩れた後に育った世代です。そのためmusic、fashion、television、street styleを特別な引用としてではなく、生活環境そのものとして使います。

East Villageのギャラリー急増

New Museumの《East Village USA》によれば、1981年以降East Villageのgallery sceneは急速に拡大し、1980年代半ばには小規模galleryが非常に多く存在する状況になりました。数年間で地域そのものが「次の新しいart district」としてmediaに取り上げられます。

この急成長は、artistが作品を発表できる場所を増やす一方、もともとの低い家賃と非公式な文化をcommercial successが変化させることにもなります。

小さな店舗が展示空間になる

FUN Galleryのようなstorefrontは、大規模SoHo galleryに比べ非常に小さく、設備も限られていました。しかしその小ささが、若いartistへ素早く個展を与え、openingをsocial eventにする条件にもなります。

美術館で数年先の展覧会を準備する時間感覚とは異なり、近い人間関係から短期間でshowが立ち上がります。その速度がscene全体を動かしました。

一つの「East Village style」は存在しない

New Museumは《East Village USA》で、East Villageをcolorfulでmock-Expressionistなpaintingだけに還元しないよう強調しています。Kenny Scharf、Philip Taaffe、Martin Wong、David Wojnarowicz、Sue Coe、Mike Bidloなど、互いに非常に異なる方法が同時に存在しました。

後にNeo-Geoやより概念的な作家まで同じ地域から現れます。East Villageはstyle名ではなく、異なるstyleが短期間に密集した地理的・社会的な場でした。

David Wojnarowicz — street、pier、stencil

David Wojnarowiczは1980年代初頭、post-punk band 3 Teens Kill 4で活動し、その告知のためにstencilをstreetへ使い始めました。New Museumは、garbage can lidへのpaintingやWest Side piersのmuralへ展開したことを記録しています。

streetは有名になるための宣伝場所だけではありません。都市の捨てられた物、sexuality、violence、politicsを作品へ入れる場所でした。East Village artの社会的な側面を考えるうえで欠かせない存在です。

Martin Wong — 都市を別の速度で描く

Martin Wongは1980年代初頭のNew Yorkで、brick wall、tenement、prison、手話、星空などを緻密に描きました。New Museumは、彼をEast Villageの多様性を示す重要な画家として位置づけています。

BasquiatやFettingのような速いgestureだけが1980年代都市絵画ではありません。Wongの時間をかけた細密なsurfaceも、同じEast Village sceneの一部でした。

Gracie Mansion Gallery

Gracie Mansion GalleryもEast Villageの初期gallery sceneで重要な役割を持ちました。New MuseumはRodney Alan Greenblat、Mike Bidlo、Stephen Lack、David Sandlin、David Wojnarowiczらを、このgallery周辺の多様な作家として挙げています。

cartoon、appropriation、figuration、political narrativeが同じ地域で並びます。「New Expressionismのgallery」といった一つの軸では整理できません。

1984年 Pat Hearn Gallery

New Museumは1984年のPat Hearn Gallery開設を、East Village sceneの重要な転換点として挙げています。Philip Taaffe、Peter Schuyff、George Condoなど、より洗練されたsurfaceやhistorical quotationを用いるartistが注目され、初期East Villageの荒いDIY imageからgallery presentationそのものも変化していきます。

数年前までの臨時的なstorefront cultureが、より専門化されたcommercial systemへ移り始めたことを示します。

地下文化から専門化されたgallery sceneへ

lighting、catalogue、collector relation、press coverageが整い、East Villageは国際art marketの一部になります。artistにとっては作品を継続的に売り、studioを維持する可能性が生まれます。

同時に、「誰でも始められる小さなscene」という感覚は変化します。成功によって家賃と注目が上がり、初期の条件そのものが失われていく矛盾がありました。

市場はsceneを壊したのか

商業化を「純粋だった地下文化が金によって壊された」とだけ説明すると単純すぎます。若いartistが作品を売ることは、制作を続けるための現実的な条件でもありました。FUN Gallery自体も作品を販売する場です。

問題は売ることそのものより、急速な価格上昇とmedia attentionがartistを一つのimageへ固定し、地域文化の複雑さを「hot new scene」として商品化したことにあります。

artist自身もimageとして流通する

Basquiat、Haring、Scharfらは作品だけでなく、club、fashion、雑誌写真、友人関係を通して人物像そのものも広く知られました。Warhol以後、artistのpublic imageと作品を完全に分離することはさらに難しくなります。

若いartistの成功物語はmediaにとって扱いやすく、とくにBasquiatはrace、youth、streetという要素を過度に単純化した物語へ回収されることもありました。作品の複雑さとpublic personaを分けて見る必要があります。

写真がsceneの人間関係を残す

Club 57やgallery opening、street activityの多くは一時的でした。そのためTseng Kwong Chi、Nan Goldin、Jimmy De Sana、Peter Hujar、Lina Bertucciらによる写真が、現在このsceneを知る主要な資料になっています。

しかし前の記事で見たPerformance Artと同じく、写真は単なる透明な記録ではありません。誰を撮り、誰がframe外へ残ったかによって、後世が思い描く「Downtown scene」のimageも作られます。

公共空間と商業空間の往復

1980年代前半の特徴は、streetからgalleryへ一方向に移動することではなく、往復が続いたことです。Haringはgallery個展を持ちながらsubwayへ描き、graffiti writersはcanvasを売りながらtrain cultureとの関係を持ち、club artistはmuseum exhibitionにも参加します。

公共と商業、合法と非合法、地域と国際美術の境界が固定されず、その移動自体が作品の意味を変えていました。

1986年 HaringのPop Shop

1986年4月、HaringはManhattanの292 Lafayette StreetにPop Shopを開きました。Keith Haring Foundationによれば、T-shirt、poster、buttonなど自分のimageを使った商品を販売し、店内の壁もHaring自身のdrawingで覆いました。

これは単なるmerchandise shopではなく、Haring自身がart projectの延長として考えた場所でした。subway drawingsで直接publicへ届こうとした方法を、別の流通systemで継続しようとします。

作品価格が上がるほど「アクセス」が問題になる

Haringは自分のpaintingが人気を得て価格が上昇すると、購入できる人が限られることへ不満を持ちました。Haring Foundationは、Pop Shopを作品へのaccessを広く維持するための試みとして本人が説明していたことを記録しています。

ここでは「高価なoriginal」と「安価なmultiple」が同時に存在します。一方を本物、他方を商品として切り離すのではなく、異なる価格帯と流通経路を意図的に作りました。

商業化は美術の敗北なのか

Pop Shopは当時から「artistが自分を商品化した」という批判を受けました。しかしHaringは、commercial projectによってgalleryでは出会えない多数の人へimageを届けられると考えていました。

この問題に単純な正解はありません。大量生産はaccessibilityを高める一方、artist imageをbrand化します。Downtown sceneが抱えていた公共性とcommercializationの矛盾が、Pop Shopで最も明確な形になります。

Warhol以後のart / commerce

Haringがartとcommerceを積極的に接続できた背景にはWarholの先例があります。Factory、Interview誌、celebrity culture、商品imageによって、Warholはartistがcommercial cultureの外側にいるという前提をすでに崩していました。

Haringはそこからさらに、artist自身が小売店舗を運営するところまで進みます。Pop Artの「商品を描く」段階から、「作品imageが商品として直接流通する」段階へ移りました。

1980年代半ば、sceneを変えるAIDS危機

1980年代半ばに入るとAIDS危機がNew Yorkのartist、performer、club communityへ深刻な影響を及ぼします。Club 57の歴史を扱ったMoMAも、後年のprogramでこのsceneのlossとAIDSを重要な問題として扱っています。

本記事の1980–86年はその危機が広がり始める時期と重なりますが、AIDS activismそのものは別の記事で詳しく扱う必要があります。後半1980年代にはACT UP、Gran Fury、General Idea、Wojnarowiczらによって、美術とpolitical activismの関係がさらに強く変化します。

「自由なEast Village」という神話

後からEast Villageを見ると、誰もが貧しいが自由で、毎晩clubへ行けばBasquiatやHaringに会えた黄金時代のように語られがちです。New Museum自身も《East Village USA》で、このsceneには「誰もがartistで、次のstarになれる村」というmythが形成されたと振り返っています。

しかし実際にはrace、gender、class、gallery access、住宅問題、addiction、violence、病気など大きな不平等がありました。神話の魅力と、そこで誰がvisibilityを得たのかという制度的な分析を両方持つ必要があります。

1980–1986年に何が変わったのか

1980年《Times Square Show》ではColabとFashion Moda周辺の多数のartistが、gallery外の都市空間でpainting、performance、film、multipleを混在させました。同年Haringは地下鉄の黒い広告紙へchalkで描き始め、通勤者を直接viewerへ変えます。Fashion ModaはNew Museumで自ら展示を企画し、South Bronxのart networkをmuseum内部へ持ち込みました。

1981年《New York/New Wave》は118人のartist、writer、musicianをP.S.1へ集め、Basquiat、Haring、Futura 2000、Nan Goldinらを同じ文化圏の中で見せました。同じ年FUN Galleryが始まり、graffiti writers、downtown artists、collector、美術関係者の新しい接点になります。1982年にはBasquiatとHaringが国際展とcommercial galleryへ急速に進み、East Villageには小規模galleryが増殖しました。

1984年頃からsceneはさらにprofessional化し、1986年HaringのPop Shopでは、地下鉄で追求していたpublic communicationと、国際的に成功したartistのcommercial circulationが一つの場所へ重なります。この6年間で変わったのは、一つの新しい絵画様式ではありません。street、club、alternative space、museum、commercial gallery、商品が互いに行き来する新しい文化回路が形成されたことでした。

Downtown New York以後

East Villageの最初の熱狂は永続しませんでした。New Museumによれば1980年代後半にはgalleryの閉鎖が開設を上回るようになり、sceneの中心性は変化していきます。しかし、artist-run space、club culture、street image、fashion、musicとcontemporary artを結ぶ方法は、その後の美術に定着しました。

また、この地域からはNeo-Expressionismだけでなく、より冷静で商品的な外観を持つJeff Koons、Peter Halley、Ashley Bickertonらも現れます。East Villageは「wild painting」の場所で終わらず、その過剰さへの反応として別の美術も生みました。

次の時代へ — Neo-Geoと商品化されたイメージ

1980年代半ばになると、巨大な筆触やstreetのenergyとは対照的に、工業製品のように滑らかな表面、幾何学、既製の商品、simulationを用いる作家が注目されます。Jeff Koonsは掃除機やbasketballを展示し、Peter Halleyは蛍光色の「cell」と「conduit」を描き、Ashley Bickertonは絵画を企業logoで囲まれた商品containerのように作りました。

次の記事では、1984–1990|Neo-GeoとCommodity Art — 商品、幾何学、シミュレーションとして、International with Monument、Koons、Halley、Bickerton、Meyer Vaismanを中心に、East Villageの熱狂と1980年代consumer cultureが、なぜ冷たく工業的な作品へ変換されていったのかを追います。

参考資料・出典

本ページは、美術館、作家財団、Archives of American Artのoral history、alternative spaceのarchiveを参照してART LIBRARYが独自に構成・執筆しています。Basquiat、Haring、地下鉄graffiti writersを単一の「street art」へまとめず、それぞれの制作背景と、Club 57、Colab、Fashion Moda、FUN Galleryなど異なる場の役割を区別しています。またEast Villageを自由な地下文化として美化するだけでなく、市場化、地域差、制度化の問題も含めて構成しています。原文の全文翻訳ではありません。

資料確認日:2026年10月1日 / ART LIBRARY