Art Library
Art History

1987–1996

AIDS CrisisとActivist Art

ACT UP、Gran Fury、喪失、公共空間

1980年代後半のAIDS危機は、美術に新しい「主題」を与えただけではありません。誰に、どこで、どれだけ速く情報を伝えるのか。作品に作者名を付ける必要があるのか。美術館の中で展示するのか、それとも地下鉄、バス、街頭、新聞、ポスターへ出るのか。死や病をどのように記録し、追悼するのか。AIDSは制作の内容だけでなく、美術が社会の中で機能する方法そのものを変えました。

1987年にニューヨークでACT UPが結成され、同年New Museumの窓に《Let the Record Show…》が設置されると、広告のように短く強い言葉、統計、政治家の発言、公共空間への直接的な介入が作品と運動の中心になります。そこからGran Furyが生まれ、1989年《Kissing Doesn’t Kill》のようなキャンペーンをバスや街頭へ展開しました。一方、Nan Goldinが企画した《Witnesses: Against Our Vanishing》では、亡くなった友人や生きている仲間の作品を集め、喪失と怒りを美術館・ギャラリーの中で共有する別の方法が試されました。

同じ時期、David Wojnarowiczは個人的な身体と国家の無関心を激しい言葉とイメージで結び、General IdeaはRobert Indianaの《LOVE》を《AIDS》へ置き換えて、その四文字を「ウイルス」のようにポスター、壁紙、広告、雑誌へ広げました。Felix Gonzalez-Torresは二つの時計、空のベッド、減っていくキャンディといった静かな形式を使い、AIDSや同性間の愛を一つの説明的なメッセージへ固定しませんでした。同じ危機に対して、街頭の大声、集団制作、親密な記憶、最小限の形というまったく異なる応答が同時に存在していたのです。

CONTENTS

  1. AIDSをめぐる美術は一つの様式ではない
  2. 1987年以前 — 危機はすでに進行していた
  3. 沈黙そのものが政治的になる
  4. 1987年 ACT UPの結成
  5. SILENCE=DEATH
  6. ピンク・トライアングルを反転して使う
  7. 作者より伝達を優先するデザイン
  8. 1987年《Let the Record Show…》
  9. New Museumの窓を街へ向ける
  10. 政治家の発言を「歴史記録」にする
  11. 統計を作品の一部にする
  12. Gran Furyの形成
  13. 個人作家ではなく集団名で制作する
  14. 広告の技術を奪い返す
  15. 1989年《Kissing Doesn’t Kill》
  16. バスを展示空間にする
  17. キスと感染を切り離す
  18. 問題を病そのものから政治へ移す
  19. General Idea — イメージをウイルスにする
  20. 《LOVE》を《AIDS》へ置き換える
  21. 1987年からの《IMAGEVIRUS》
  22. 同じ四文字を繰り返し流通させる
  23. スローガンと作品の違いを曖昧にする
  24. 1988年 Visual AIDS
  25. 1989年 Day Without Art
  26. 作品を見せないことで不在を見せる
  27. 800を超える施設が参加した最初の年
  28. New Museumの窓から「美術」を消す
  29. 1989年《Witnesses: Against Our Vanishing》
  30. Nan Goldinが企画する
  31. 匿名の「犠牲者」ではなく具体的な友人を残す
  32. 展覧会を追悼の場にする
  33. NEAと検閲をめぐる論争
  34. Wojnarowiczの文章が問題になる
  35. Artists Spaceが文章を削除しなかった意味
  36. 悲しみと怒りを分けない
  37. 1990年 ヴェネツィア・ビエンナーレ
  38. Gran Fury《Pope Piece》
  39. コンドームをめぐる宗教と公衆衛生の対立
  40. 撤去されかけた作品
  41. AIDS activismが国際美術展へ入る
  42. David Wojnarowicz — 個人的な身体と国家
  43. 診断後に強まる直接的な言葉
  44. 1990年《Untitled (One Day This Kid…)》
  45. 子どもの写真を使う
  46. 未来形で差別を書く
  47. 安価なPhotostatで広く配布できる形にする
  48. 「存在を見えるようにする」こと
  49. 個人的な身体を政治から切り離さない
  50. 1991年 Red Ribbon
  51. Visual AIDS Artists Caucusによる集団制作
  52. 個人の作者名を付けない
  53. 著作権を設定しない
  54. Tony Awardsから一気に広がる
  55. 身につける作品/記号
  56. Felix Gonzalez-Torres — 大声ではないactivism
  57. 1989年 Sheridan Squareのbillboard
  58. 1991年 空のベッド
  59. ニューヨーク24か所のbillboard
  60. 文字を使わず公共空間へ出る
  61. 個人的な喪失と公共的なイメージ
  62. 1991年《Untitled (Perfect Lovers)》
  63. 二つの時計
  64. 1991年《Untitled (Placebo)》
  65. キャンディを持ち帰る
  66. 減少と補充
  67. Robert Gober — 身体の不在と日用品
  68. 1991年《Untitled》の脚
  69. ろうそく、時間、消えていく身体
  70. AIDSを直接描かなくても危機は作品に入る
  71. 公共と私的領域が入れ替わる
  72. グラフィック・デザイン史として見る
  73. 「作品を作る」から「流通を設計する」へ
  74. 複製されるほど強くなる作品
  75. 作者性が消えたわけではない
  76. 美術館の役割も変わる
  77. 保存だけでなくケアと情報提供へ
  78. 1992年 — 喪失と継続
  79. Wojnarowiczの死
  80. General Idea内部の病と喪失
  81. 1994年 General Ideaの終わり
  82. 1995年 Gran Furyの解散
  83. 同じ戦略が永遠に有効ではない
  84. 1996年 — 医療環境の大きな転換
  85. 危機が「終わった」わけではない
  86. AIDSによって美術の何が変わったのか
  87. 観客の考え方が変わる
  88. 作品の物質性が変わる
  89. 追悼の形式が変わる
  90. activismとartを分けられるのか
  91. 美術史に残すこと自体が政治になる
  92. 1987–1996年に何が変わったのか
  93. AIDS Crisis以後
  94. 次の時代へ — Young British Artists
  95. 参考資料・出典

AIDSをめぐる美術は一つの様式ではない

AIDS activismの美術には統一された見た目がありません。Gran Furyは広告のようなポスターを作り、General Ideaは既存のロゴを反復し、Wojnarowiczは写真と言葉を組み合わせ、Gonzalez-Torresは時計やキャンディを使い、Robert Goberは日用品や身体の断片を手作業で制作しました。

共通しているのは、AIDSという一つの主題ではなく、危機に対して美術がどのように社会へ働きかけられるかを問い直したことです。情報を伝える、怒りを可視化する、亡くなった人を記憶する、親密な関係を残す、偏見を壊す。目的が異なれば、作品形式も異なりました。

1987年以前 — 危機はすでに進行していた

MoMAはAIDS危機の初期を説明する際、1981年6月にアメリカ疾病予防管理センター(CDC)が同性愛男性に見られた症例を報告したことを重要な節目として挙げています。それから数年間、感染症についての医学的理解が進む一方、同性愛者や薬物使用者への偏見、誤情報、行政の対応の遅さが深刻な問題になりました。

1987年にACT UPが結成された時点で、危機が始まったばかりだったわけではありません。すでに多数の人々が病気と死を経験し、友人やpartnerを失っていました。1987年以降の視覚的なactivismが強い緊急性を持ったのは、それまでの数年間に蓄積した怒りと喪失があったからです。

沈黙そのものが政治的になる

AIDS危機では、何を発言するかだけでなく「発言しないこと」が政治的な意味を持ちました。政府、宗教団体、新聞、医療制度がどの言葉を使い、誰について語らず、誰の死を社会的な問題として扱わないのかが問われます。

そのためAIDS activismの代表的な表現は長い説明より、SILENCE=DEATHのような短い断定になりました。沈黙と死を直接結びつけ、見ないこと、語らないことを中立な態度として許さない言葉です。

1987年 ACT UPの結成

ACT UP(AIDS Coalition to Unleash Power)は1987年3月、ニューヨークで結成されました。New Museumは、AIDS危機と連邦政府の対応不足へ注意を向けるため、直接行動を行う組織としてACT UPが形成されたと記録しています。

demonstration、die-in、街頭行動、医薬品行政への介入、情報発信など活動は広範囲に及びます。そこで視覚表現は運動の装飾ではなく、人を動員し、複雑な問題を短時間で伝えるための中心的な手段になりました。

SILENCE=DEATH

SILENCE=DEATHのポスターはACT UPそのものより少し前に、匿名のデザイナー/活動家からなるSilence=Death Collectiveによって作られ、その後ACT UPに採用されました。Metropolitan Museumも、Gran Furyが作ったものではなく、Gran Fury成立以前のcollectiveから生まれたことを明確に区別しています。

黒地、ピンクの三角形、白い大文字。構成は極端に単純です。通りを歩きながらでも一瞬で読め、複写して何度でも貼ることができます。ここでは美術作品としての唯一性より、伝達速度と再生産性が重要でした。

ピンク・トライアングルを反転して使う

ピンク・トライアングルは、ナチス・ドイツが男性同性愛者を識別するために用いた記号を、後のgay liberation movementが再利用したものです。SILENCE=DEATHでは三角形を上向きに反転し、迫害の記号を抵抗の記号として使いました。

既存のsymbolを消すのではなく、その意味を奪い返す方法です。Pictures Generationで見たappropriationが、ここでは歴史的記号とactivismの中で非常に直接的に機能しています。

作者より伝達を優先するデザイン

SILENCE=DEATHが強かった理由の一つは、「誰が描いたか」を知らなくても機能することです。個人のsignature styleではなく、誰でも印刷・転載できるgraphicとして設計されています。

この匿名性は作者が存在しないという意味ではありません。作者性を作品価格や名声へ結びつけず、運動の共有資源にしたということです。後のRed Ribbonにも同じ考え方が現れます。

1987年《Let the Record Show…》

1987年11月20日から1988年1月24日まで、New MuseumのBroadway側の窓でACT UPによる《Let the Record Show…》が展示されました。New Museumによれば、curator William OlanderがACT UPへ窓空間を提供したことから実現した企画です。

展示は現在のAIDS情報を伝えると同時に、危機を歴史的な視点から記録し、「社会がこの危機へどう対応したかは歴史によって判断される」という考えを前面に出していました。

New Museumの窓を街へ向ける

通常のmuseum exhibitionは建物へ入場した人が見ます。しかしNew MuseumのWindow Seriesは外から見ることができました。《Let the Record Show…》は、美術館の壁を使いながら美術館の外を通る人へ直接届きます。

museum内部とstreet activismの中間にある形式です。美術館が活動家を「紹介する」のではなく、公共へ向いた建築部分を運動へ一時的に渡しました。

政治家の発言を「歴史記録」にする

展示では、AIDSをめぐり偏見を助長した、あるいは対応を妨げたとACT UPが考える公的人物の発言や姿が扱われました。題名の「Let the Record Show」は、現在の言葉や行動が将来の歴史資料になることを示しています。

政治家を風刺するだけではありません。「誰がいつ何を言ったか」を保存し、責任を時間の中へ固定する行為です。archiveとactivismが結びつきます。

統計を作品の一部にする

AIDS activismでは死亡者数、感染者数、薬価、治験情報など数値が繰り返し使われました。統計は冷たいdataに見えますが、行政の無関心を可視化する強い政治的言語になります。

《Let the Record Show…》でも情報とvisual imageは分離されません。作品を見ることが、その時点の危機について具体的な情報を受け取ることになります。

Gran Furyの形成

Metropolitan Museumによれば、《Let the Record Show…》に関わったACT UP membersの一部が、その後視覚表現を継続的に制作するad hoc groupとしてGran Furyを形成しました。core membersにはAvram Finkelstein、Tom Kalin、Marlene McCarty、Donald Moffettらがいました。

Gran FuryはACT UPの「美術部門」と単純に呼べる固定組織ではありませんが、ACT UPの政治目標と密接に連動しながら、多数のposter、advertisement、public projectを制作しました。

個人作家ではなく集団名で制作する

Gran Furyの作品では、通常一人のartistのsignatureは前面に出ません。複数の人が文章、写真、layout、印刷、交渉を分担します。

これは美術市場の個人作家モデルと異なります。誰が最初にideaを思いついたかより、campaign全体が社会で機能することが優先されました。

広告の技術を奪い返す

MetによればGran Fury membersの一部にはgraphic designやadvertisingの経験がありました。彼らは商品広告の視覚言語を批判の対象にするだけでなく、実際にその技術を使います。

大きな写真、短いcopy、明快な色、公共交通への掲載。商品を買わせるために発達した視覚技術を、AIDS政策や偏見を変えるために転用しました。

1989年《Kissing Doesn’t Kill》

《Kissing Doesn’t Kill: Greed and Indifference Do》(1989)は、Gran Furyを代表する作品です。異性・同性を含む三組のcoupleがkissする写真を横一列に並べ、上部に大きな言葉を置いています。

Metropolitan Museumは、この作品がUnited Colors of Benettonの広告campaignを意識し、New YorkとLondonのbusなどへ展開されたことを紹介しています。

バスを展示空間にする

bus advertisementはmuseumへ来ない人にも届きます。通勤者、歩行者、車の運転者が観客になります。

作品が公共交通へ入ると、鑑賞時間は数秒です。そのため複雑な文章ではなく、一瞬でimageとphraseが結びつく必要があります。展示場所が作品形式を決めています。

キスと感染を切り離す

作品は「kissing doesn’t kill」と明言し、AIDSをめぐって広がっていた接触への過剰な恐怖や同性愛への偏見へ介入します。kissは性的な親密さのimageであると同時に、広告では商品を魅力的にする典型的なimageでもあります。

Gran Furyはその親しみやすさを使いながら、viewerを医学情報と政治的責任の問題へ誘導しました。

問題を病そのものから政治へ移す

題名の後半「Greed and Indifference Do」は、死の原因をvirusだけに限定しません。高い薬価、医療へのaccess、行政の遅れ、偏見と無関心といった社会的な条件を問題にします。

病気を個人の身体の問題からpublic policyへ移すことがACT UP / Gran Furyの重要な戦略でした。

General Idea — イメージをウイルスにする

カナダのcollective General IdeaはAA Bronson、Felix Partz、Jorge Zontalの3人によって1969年から活動していました。MoMAは、彼らがmass media、consumer culture、queer identity、美術市場を長く扱い、1987年から最後の主要project《IMAGEVIRUS》へ入ったと説明しています。

AIDS crisisへの応答も、それ以前から彼らが行っていた「imageはどのように社会へ感染するか」という考えの延長にありました。

《LOVE》を《AIDS》へ置き換える

General IdeaはRobert Indianaの有名な《LOVE》の四文字構成を借り、「AIDS」という四文字に置き換えました。AとI、DとSが二段に並び、鮮明な色で構成されます。

美術史上すでに広く知られたimageを利用するため、viewerは「どこかで見た形」とすぐ認識できます。親しみのあるLOVEがAIDSへ変わることで、病名が日常のvisual environmentへ侵入します。

1987年からの《IMAGEVIRUS》

MoMAはGeneral Ideaが1987年から《IMAGEVIRUS》を開始し、poster、painting、wallpaper、雑誌などさまざまな形式へ《AIDS》のimageを拡散したと記録しています。

彼らはvirusを医学的なものだけでなく、imageが社会を移動する比喩として利用しました。感染という恐怖の言葉を逆転し、AIDSについて語るimageの方を都市へ「感染」させます。

同じ四文字を繰り返し流通させる

一枚のunique paintingを重要作品にするのではなく、同じimageを大量に反復することがprojectの核心です。MoMAにはscreenprintだけでなく、歯科医向け雑誌や医学雑誌の表紙として大量印刷された《AIDS》も収蔵されています。

museum、street、professional journalの区別を越えて同じimageが現れます。作品の場所は一つに固定されません。

スローガンと作品の違いを曖昧にする

SILENCE=DEATHやGran Furyが明確な政治的messageを持つのに対し、General Ideaの《AIDS》には命令文がありません。ただ病名が繰り返されます。

意味を説明するより、社会が避けようとする言葉を見え続ける状態にする。その反復そのものがactivismになります。

1988年 Visual AIDS

Visual AIDSは1988年にRobert Atkins、Gary Garrels、Thomas Sokolowski、William Olanderによって設立されました。Visual AIDS自身の記録によれば、AIDSがart communityへ与えた影響を記録し、美術とAIDS communityを結びつける初期の全国的な取り組みの一つでした。

個々のartistの作品を支援するだけでなく、美術館やgalleryを巻き込んだ全国規模のactionを企画した点が重要です。

1989年 Day Without Art

1989年12月1日、最初のDay Without Artが行われました。Visual AIDSはこれをAIDS crisisに対する「action and mourningの日」と位置づけています。

参加施設は作品を覆う、museumを閉館する、staffがAIDS support serviceでvolunteerする、visitorへ情報を配布するなど、それぞれ異なる方法で「通常どおり美術を見る一日」を中断しました。

作品を見せないことで不在を見せる

展覧会は通常、より多くの作品を見せることで価値を作ります。Day Without Artは逆に、作品がない状態を作ります。

AIDSによって亡くなったartist、これから作られるはずだった作品、失われたcommunityの存在を、空白として可視化します。不在そのものが展示になります。

800を超える施設が参加した最初の年

Visual AIDSによれば、最初の1989年だけで800を超えるmuseumやart organizationが参加しました。個人artistの作品ではなく、文化施設全体の行動を一つのprojectとして組織した規模は大きなものでした。

Institutional Critiqueがmuseumの構造を批判していた同時期に、museum自身が社会危機へどのように応答するかも問われていました。

New Museumの窓から「美術」を消す

New Museumは最初のDay Without ArtでGran Furyと協働し、1987年《Let the Record Show…》の窓展示を再構成しました。ただしmuseumの記録によれば、そこから「art」を消し、AIDS危機の統計だけを残すような構成にしました。

作品を増やすのではなく、数字だけが流れ続ける空間を作る。文化的な喪失を非常に直接的に見せる方法でした。

1989年《Witnesses: Against Our Vanishing》

1989年11月16日から1990年1月6日まで、Artists Spaceで《Witnesses: Against Our Vanishing》が開催されました。Nan Goldinが企画し、David Armstrong、Peter Hujar、Greer Lankton、Mark Morrisroe、Kiki Smith、David Wojnarowiczら多数の作家が参加しました。

Artists Spaceの資料によれば、写真、drawing、painting、sculptureを含む展覧会で、catalogueにはGoldin、Wojnarowicz、Linda Yablonsky、Cookie Muellerの文章が収録されました。

Nan Goldinが企画する

Goldinは友人やlover、drag queen、artistを長く撮影し、生活と写真を分けずに制作してきました。AIDS危機では、そのcommunityの多くが病気と死に直面しました。

《Witnesses》は外部のcuratorがAIDSを「社会問題」として調査した展覧会ではありません。当事者のnetworkの中にいたartistが、亡くなった人と生きている人の作品を同じ場へ集めた展覧会でした。

匿名の「犠牲者」ではなく具体的な友人を残す

報道では死者数が統計として表されます。しかし一人ひとりには作品、友人関係、仕事、生活がありました。《Witnesses》はその具体性を残そうとします。

AIDS crisisを「大量の死」という抽象的なhistoryにせず、それぞれの人が何を作り、誰と生きていたかを記録すること自体が抵抗になります。

展覧会を追悼の場にする

美術館やgalleryは通常、作品を評価し鑑賞する場所です。《Witnesses》ではそれにmourningの機能が加わりました。作品を見ることが亡くなった人を思い出すことと重なります。

追悼は個人宅や葬儀だけで行われるものではなく、public exhibitionの形式を取ることができます。美術空間がcommunity memoryを保持する場になります。

NEAと検閲をめぐる論争

《Witnesses》はNational Endowment for the Artsの助成をめぐるCulture Warsとも衝突しました。展覧会catalogueに掲載されたDavid Wojnarowiczの文章には、政府や宗教保守勢力への非常に強い批判が含まれていました。

そのため助成をめぐる議論は、AIDSを扱う作品だけでなく、public fundingがpolitical speechをどこまで支えられるかという問題へ広がりました。

Wojnarowiczの文章が問題になる

WojnarowiczはAIDS危機を自然災害のようには捉えませんでした。government policy、religious rhetoric、homophobia、health careの格差が死を増幅していると考え、文章と作品で具体的な人物や制度を激しく批判しました。

この直接性はGran Furyの広告的なmessageとは異なる、個人的な怒りをそのままpublic languageへ変える方法でした。

Artists Spaceが文章を削除しなかった意味

《Witnesses》の展覧会史では、作品の内容だけでなく、galleryがcontroversialな文章と展覧会をどのように守るかが重要になります。Culture Warsの最中、institutionが圧力を受けた時に展示内容を変更するかどうかが現実の問題になっていました。

前年から続くMapplethorpe論争と同様、美術館・galleryの「表現の自由」は抽象理念ではなく、資金、行政、pressとの関係の中で試されました。

悲しみと怒りを分けない

AIDS crisisをめぐる美術では、mourningとangerが同時に存在します。友人を失う悲しみは、対応を遅らせた制度への怒りから切り離せません。

Goldinの親密な写真、Wojnarowiczの激しい言葉、Gran Furyのposterは見た目こそ異なりますが、「死を静かに受け入れるだけにはしない」という姿勢で接続します。

1990年 ヴェネツィア・ビエンナーレ

1990年、第44回ヴェネツィア・ビエンナーレの《Aperto》部門にGran Furyが参加しました。La Biennaleの公式史料は、彼らのAIDSを扱う作品が宗教関係者から強い抗議を受けたことを記録しています。

New Yorkのstreet activismが、世界的な国際美術展の内部へ入った重要な場面でした。

Gran Fury《Pope Piece》

Gran Furyはローマ教皇John Paul IIの写真と、カトリック教会のAIDSへの姿勢を批判する文章を組み合わせた大判posterを展示しました。隣にはphallusのimageとcondom使用を促す言葉を用いた作品も置かれました。

宗教的権威のimageを広告形式で直接批判したため、作品は大きな論争を起こします。

コンドームをめぐる宗教と公衆衛生の対立

AIDS予防をめぐってcondom使用を促進するactivistsと、sexual moralityを重視する宗教的立場の間には強い対立がありました。Gran Furyはその対立を曖昧な象徴にせず、教皇のimageとcondomという具体的な対象を同じ展示へ置きます。

作品は宗教そのものを一般的に否定するのではなく、AIDSという緊急の公衆衛生問題に対するinstitutional positionを批判しました。

撤去されかけた作品

La Biennaleの公式記録によれば、Vaticanや一般からの抗議を受け、芸術部門のdirector Giovanni Carandenteは作品撤去を検討しましたが、最終的には表現の自由を守り展示を継続しました。

ここでも作品内容と同じくらい、それを展示し続けるinstitutionの判断が歴史の一部になります。

AIDS activismが国際美術展へ入る

AIDSはアメリカだけの問題ではありません。Gran FuryがVeniceで活動したことで、New Yorkの政策批判を国際的な宗教・文化制度の問題へ接続しました。

activismがmuseumの外へ出るだけでなく、巨大な美術制度の中心へ入り込み、その制度のvisibilityを利用する方法です。

David Wojnarowicz — 個人的な身体と国家

David Wojnarowiczはpainting、photography、film、performance、writingを横断し、queer sexuality、violence、poverty、government、mediaを扱いました。MoMAは、33歳でAIDSと診断された後、彼のactivismと作品におけるsexuality、diagnosisへの言及がさらに直接的になったと説明しています。

彼にとってAIDSはprivate medical conditionではなく、誰の生命が「失われてもよい」と扱われるかというpowerの問題でした。

診断後に強まる直接的な言葉

Wojnarowiczの後期作品では長い文章がimageと同じ重要性を持ちます。politician、church、media、family、schoolなど、queer peopleへ圧力を与えるinstitutionを具体的に列挙します。

Conceptual Artの冷静なtext workとは異なり、言葉は怒り、記憶、告発、autobiographyを同時に背負います。

1990年《Untitled (One Day This Kid…)》

1990年の《Untitled (One Day This Kid…)》では、幼いWojnarowicz自身のschool photographを中央に置き、その周囲を長い文章が囲みます。WhitneyとMoMAはいずれも、この作品を彼の代表的な抗議作品として位置づけています。

笑顔の子どもと、その将来に待つ差別や暴力を予告する文章の落差が作品の中心です。

子どもの写真を使う

中央の写真だけを見れば、1950年代の典型的なschool portraitに見えます。服装を整え、カメラへ笑顔を向けた子どもです。

その「無垢な子ども」というimageの周囲に、彼が後に同性を愛することでfamily、religion、government、medical systemからどのような扱いを受けるかが書かれます。homosexualityを成人後の逸脱として扱う偏見へ対抗する構造です。

未来形で差別を書く

文章は「one day this kid will…」という未来形で進みます。写真の子どもはまだ差別を経験していませんが、viewerは成人したartistの人生を知っています。

過去の写真から未来を予告することで、差別が偶然の事件ではなく社会制度によって繰り返されることを示します。

安価なPhotostatで広く配布できる形にする

MoMAは作品をPhotostatによる安価なprinted posterとして記録し、広く配布できるprotest formとして説明しています。高価な唯一作品として閉じるのではなく、複製によって社会へ出られる形式です。

Gran Furyとは異なり個人artistの強いvoiceを持ちながら、作品流通の方法にはactivist designとの共通性があります。

「存在を見えるようにする」こと

WhitneyはWojnarowiczの制作を、通常のvisual cultureから排除されてきたqueer bodyとexperienceのために空間を確保する行為として説明しています。

representationは単に「自分を描くこと」ではありません。存在そのものを否定された人々がpublic imageの中へ現れることが政治的な意味を持ちます。

個人的な身体を政治から切り離さない

AIDS crisisでは身体に起きる病気とgovernment policyが直接結びつきます。薬が承認される速度、healthcareへのaccess、研究資金、偏見が生存期間へ影響します。

そのためWojnarowiczにとってpersonal storyを語ることはpolitical structureを語ることでもありました。Feminist Artの「個人的なものは政治的」という考えが、queer lifeとAIDSの中で別の切迫感を持ちます。

1991年 Red Ribbon

1991年、Visual AIDS Artists CaucusはAIDSとともに生きる人々とcaregiversへのsupportとcompassionを示すsymbolとしてRed Ribbonを考案しました。Visual AIDSによれば、4月から5月のmeetingsで形が決まり、赤はbloodとpassion、angerとloveを表す色として選ばれました。

複雑なlogoではなく、短い赤いribbonを折ってsafety pinで服へ留めるだけの形です。誰でも自分で作れます。

Visual AIDS Artists Caucusによる集団制作

Red Ribbonは一人のdesignerの名前ではなくVisual AIDS Artists Caucus全体のprojectとして発表されました。membersは「ribbon bees」と呼ばれる集まりで、ribbonを切り、折り、pinを付け、大量に配布しました。

craftのような反復作業とmass communicationが接続します。作品はstudioから完成品として出てくるのではなく、多数の人の手で作られます。

個人の作者名を付けない

Visual AIDSはRed Ribbonの歴史を記録する際、個人をcreatorとしてcreditせず、collective projectとして扱うことを当初から重視したと説明しています。

「有名なデザイナーの作品」にすると、その人の名声や所有へ意味が集まります。匿名的なcollective authorshipは、symbolをcommunity全体のものとして保つための選択でした。

著作権を設定しない

Red Ribbonはアメリカでcopyrightを設定せず、誰でも使用・複製できるようにしました。Visual AIDSは、個人やorganizationがsymbolから利益を得るのではなく、AIDS awarenessのため広く流通させることを目的としていたと記録しています。

通常の美術市場では複製を制限することが価値を守ります。Red Ribbonでは逆に、複製されるほど成功です。

Tony Awardsから一気に広がる

1991年6月2日、Visual AIDSはBroadway Cares / Equity Fights AIDSと協力し、第45回Tony AwardsでRed Ribbonを配布しました。television broadcastを通じてsymbolは急速に知られるようになりました。

celebrity cultureとmass mediaをactivismへ利用する方法です。Warholがcelebrity imageを美術へ持ち込んだ時代から、ここではcelebrity自身が社会的なsymbolを運ぶ媒体になります。

身につける作品/記号

Red Ribbonはwallへ掛ける作品ではなく、身体へ装着されます。着ける人自身がdisplay surfaceになります。

美術館へ行かなくても、服に付けた人とすれ違うだけでsymbolが見えます。public artworkが固定した場所を持たず、人の移動とともに都市を動きます。

Felix Gonzalez-Torres — 大声ではないactivism

Felix Gonzalez-TorresもAIDS crisisと深く関わりましたが、Gran Furyのような直接的なsloganを常に使ったわけではありません。紙のstack、二つのclock、キャンディ、empty bedなど、一見すると非常に静かでMinimalな作品を使います。

その静けさは政治から距離を置くことではありません。viewerが作品へ自分の記憶や経験を持ち込める余地を作りながら、personal lossとpublic crisisを結びつけました。

1989年 Sheridan Squareのbillboard

MoMAの研究によれば、Gonzalez-Torresは1989年Sheridan Squareにtemporary billboardを設置しました。Stonewall uprisingの20周年とAIDS crisisが重なる場所で、public monumentの形式を一時的な広告看板へ置き換えました。

永久に残るbronze monumentではなく、一定期間だけ存在し、街の広告と同じように後から別のimageへ置き換えられます。ephemeralであることが記憶の形式になります。

1991年 空のベッド

1991年、Gonzalez-Torresは二人用のempty bedを写したblack-and-white photographを制作しました。枕には二人が横たわっていたようなくぼみが残っていますが、人はいません。

MoMAはこの作品を、love、intimacy、loneliness、lossを同時に連想させるimageとして説明し、artistのpartner Ross Laycockが1991年にAIDSで亡くなったことが作品に強い個人的背景を与えているとしています。

ニューヨーク24か所のbillboard

このbed imageは1991年にNew York Cityの24か所のbillboardへ設置され、1992年にはMoMA《Projects 34》でも展開されました。通常は商品広告が置かれる巨大な都市空間に、商品名も説明文もないprivate bedが現れます。

寝室という最もprivateな場所がstreetへ拡大されます。public / privateの境界が反転します。

文字を使わず公共空間へ出る

Gran Furyなら大きなphraseを使うところで、Gonzalez-Torresはbed billboardに一切textを置きませんでした。MoMAのcuratorial discussionでも、この不在が作品の重要な特徴として振り返られています。

何の広告なのか分からないため、viewerは空白を自分で解釈しなければなりません。activismは常に命令文である必要はないことを示します。

個人的な喪失と公共的なイメージ

Rossとのprivate lifeを背景に持ちながら、作品は「これはAIDSで亡くなったpartnerのbedです」と説明しません。そのため同性愛のlove storyを知るviewerにも、知らないviewerにも開かれています。

specificな経験を消してuniversalにするのではなく、specificなhistoryが作品の奥にありながら、複数の人が入れる形式を作っています。

1991年《Untitled (Perfect Lovers)》

《Untitled (Perfect Lovers)》は同じ型の二つの市販wall clockを横に並べ、最初に同じ時刻へ合わせる作品です。二つは同じ速度で進むように見えますが、機械には差があるため徐々にずれ、一方が先に止まる可能性があります。

MoMAはこの作品を、Rossの病と向き合う中で時間の不可避性を考えた作品として紹介しています。

二つの時計

二つの時計は二人のloverに見えます。しかし作品には人間のimageがありません。最小限のobjectsだけで身体、relationship、mortalityを連想させます。

Minimalismの同一objectの反復に見える形式が、同じであり続けられない二人の時間へ変換されます。

1991年《Untitled (Placebo)》

《Untitled (Placebo)》では銀色のwrapperに包まれたキャンディが床一面に敷かれます。viewerは一つを取って食べることができ、作品は少しずつ減ります。

museumはartistの指示に従って補充できます。固定した彫刻ではなく、減少と再生が作品構造になります。

キャンディを持ち帰る

visitorが作品を持ち帰ると、作品と観客の境界が変わります。一つのcandyは高価なart objectではなく消費され、消えます。

それでも作品全体はcollectionとして存在し続けます。「original objectはどれか」という問いが成立しにくくなります。

減少と補充

AIDS crisisの文脈では、減っていくcandyは身体やcommunityの喪失を連想させます。しかし補充可能であるため、deathだけを一方向に象徴する作品でもありません。

lossとrenewal、absenceとpresenceが同じ彫刻の中に共存します。mourningを固定した記念碑へするのではなく、毎日変わるprocessにします。

Robert Gober — 身体の不在と日用品

Robert Goberはsink、crib、door、drain、身体の断片など、家庭的なobjectsを手作業で再制作しました。作品にはAIDSという文字が直接現れない場合でも、1980年代末から90年代初頭のqueer life、身体の脆弱性、mortalityが強く読み込まれています。

Whitneyは1991年の《Untitled》について、AIDS crisisと深く関係するmortalityの感覚を明確に解説しています。

1991年《Untitled》の脚

Whitney所蔵の1991年《Untitled》では、wallから男性の脚の一部が突き出しています。蜜蝋で作られ、実際のhuman hairまで植えられているため非常にrealisticですが、身体全体はありません。

生きているようなskinと、切断されたbody fragmentが同時に見えます。親密さと不安が分離しません。

ろうそく、時間、消えていく身体

脚からはcandleが突き出し、vigil、祈り、時間の経過を連想させます。Whitneyは、この作品を身体が溶け、時間がなくなっていく感覚とAIDS crisisのmortalityに結びつけています。

posterのような直接的messageとは異なり、日常objectとbodyの奇妙な組み合わせから危機を感じさせます。

AIDSを直接描かなくても危機は作品に入る

AIDS artというとred ribbonやSILENCE=DEATHのような明確なsymbolを想像しがちです。しかしGoberやGonzalez-Torresの作品は、病名を書かなくてもAIDS crisisの中から生まれています。

historical contextを知らなくても作品は見られますが、contextを知ることでbody、absence、timeの意味が増えます。政治的な美術は必ずしも説明的である必要はありません。

公共と私的領域が入れ替わる

AIDS危機ではsexuality、病歴、partner relationといったprivateなものが、法律、medical policy、media、religionによってpublic issueにされました。

Gonzalez-Torresがbedroomをbillboardへ出し、Wojnarowiczがchildhoodとsexualityをposterへ書き、Gran Furyがkissをbusへ置いたことは、このpublic / privateの境界を作品から反転させる行為でもありました。

グラフィック・デザイン史として見る

AIDS activismはcontemporary artだけでなくgraphic designの歴史としても重要です。SILENCE=DEATH、Gran Fury、Red Ribbonはいずれも、短時間で理解でき、簡単に複製され、多くの場所へ移動できるよう設計されています。

「美しいposterを作る」ことより、information architecture、type、contrast、distributionが重要でした。designが生命に関わるcommunicationになります。

「作品を作る」から「流通を設計する」へ

Gran Furyのbus ad、General Ideaの雑誌表紙、Red Ribbon、Gonzalez-Torresのbillboardを見ると、作品本体だけを見ても全体を理解できません。どこに何部置かれ、誰が見るかまでが作品です。

制作とはimageを作ることだけでなく、imageが社会を移動する経路を設計することになります。

複製されるほど強くなる作品

美術市場ではunique objectや限定editionが価値を持つ場合があります。しかしactivist imageは逆です。100枚より10万枚、1都市より複数都市へ広がった方が目的に近づきます。

Warhol以来のmass reproductionが、ここでは消費社会のimageという問題から、政治的なdistributionそのものへ変化しました。

作者性が消えたわけではない

集団名義や匿名制作が増えたからといって、作者性が完全に消えたわけではありません。Gran Furyには実際に制作・議論を担ったmembersがいて、Red Ribbonにも具体的なArtists Caucusの活動があります。

重要なのは、author creditをどの程度前面に出すかをprojectの目的に合わせて設計したことです。作者性そのものが選択可能な形式になります。

美術館の役割も変わる

New MuseumがACT UPへwindowを提供し、Visual AIDSのDay Without Artに多数のmuseumが参加し、Artists Spaceが《Witnesses》を開催したことからも、AIDS crisisはinstitutionへ新しい役割を要求しました。

作品を収蔵・展示するだけでなく、情報を発信し、mourningの場を作り、controversialなspeechを守り、communityと連携することがmuseum practiceの一部になります。

保存だけでなくケアと情報提供へ

Museumは本来、作品を長期間保存することを重要な使命とします。しかしAIDS crisisでは、今生きている人を支えるinformationやactionの方が緊急の場合があります。

Day Without Artのように作品を一時的に見せない、Gonzalez-Torresのように作品をvisitorへ持ち帰らせるなど、保存中心の制度と異なる行為がmuseumの内部で起こりました。

1992年 — 喪失と継続

1992年頃には、AIDS crisisの初期から活動してきた多くのartistやactivist自身が病気と死に直面していました。一方、Visual AIDS、ACT UP、Gran Furyなどの活動は継続し、過去数年間に作られたvisual languageが社会へ広く定着していました。

activismは「緊急時の一時的な反応」ではなく、archive、museum collection、annual eventへ形を変えながら持続する段階へ入ります。

Wojnarowiczの死

David Wojnarowiczは1992年7月22日、AIDS関連の病気によって37歳で亡くなりました。Whitneyは彼の回顧展で、死だけによってcareerを要約せず、短い期間に極めて多様な作品と文章を残したことを強調しています。

AIDS historyでは亡くなったartistを「victim」としてだけ記憶する危険があります。彼らが病気以前から何を作り、どのような文化を形成していたかを残すことも重要です。

General Idea内部の病と喪失

General Ideaの《IMAGEVIRUS》は外部の社会問題を扱っただけではありません。group自身もAIDS crisisの中にありました。MoMAは、1994年にAIDSがFelix PartzとJorge Zontalの生命を奪うまで、AIDS projectが彼らの最後の主要な仕事となったと説明しています。

社会的なimageとprivate lossがgroup内部で一致していきます。

1994年 General Ideaの終わり

PartzとZontalが1994年に亡くなったことで、AA Bronsonとの三人組としてのGeneral Ideaは終わります。1969年から25年間続いたcollectiveの終焉が、AIDS crisisと直接重なりました。

《AIDS》の四文字は、外から危機を観察するsymbolではなく、group自身のhistoryを刻むimageにもなります。

1995年 Gran Furyの解散

Gran Furyは1995年に活動を終えました。Metropolitan Museumによれば、group内部でgender、race、classをめぐるcommunicationの難しさもあり、同時にAIDSをめぐるmedia環境自体が変化し、初期の視覚戦略では複雑化した問題を伝えにくくなったことが背景にありました。

最後の作品《Good Luck… Miss You, Gran Fury》は、自分たちの方法が永遠に有効ではないことを認識した終了宣言でもありました。

同じ戦略が永遠に有効ではない

強いsloganは危機の初期に非常に有効でした。しかしAIDSをめぐる問題が薬価、healthcare、race、gender、poverty、global inequalityへ複雑化すると、一つのposterで伝えられる範囲には限界があります。

activismにも歴史があります。過去に成功したvisual languageを反復するだけではなく、社会状況に合わせて方法を変える必要があります。

1996年 — 医療環境の大きな転換

1996年はアメリカのAIDS史で重要な転換点です。CDCは、highly active antiretroviral therapy(HAART)が1996年から広く導入された後、AIDSと診断された人々の死亡数が大きく減少したと報告しています。1996年上半期のAIDS死亡数は前年同期より13%減少しました。

それまで「診断=急速に死へ近づく」という経験をしてきたcommunityにとって、治療の変化は生活と時間の感覚を大きく変えました。

危機が「終わった」わけではない

ただし1996年をAIDS crisisの終わりとすることはできません。CDCの同時期のdataでも、人種・性別などによって死亡数の変化には差があり、治療へのaccessも均等ではありませんでした。

ART HISTORYで1996年を区切りにするのは、病気が解決したからではなく、1980年代から続いた「大量死と緊急行動」を中心とするアメリカの文化的状況が、治療技術の変化によって別の段階へ入ったからです。

AIDSによって美術の何が変わったのか

AIDS以前にもpolitical poster、collective art、public art、participatory artは存在しました。したがってAIDS activismがそれらを発明したわけではありません。

しかしAIDS crisisは、複製、公共空間、group authorship、information、mourning、care、museum responsibilityを同じ緊急事態の中で結びつけました。その組み合わせが1980–90年代美術へ大きな影響を与えます。

観客の考え方が変わる

museumへ来た人だけをviewerと考えなくなります。busに乗る人、TVを見る人、Tony Awardsを見る人、streetを歩く人、Red Ribbonを身につける人まで観客です。

どの場所に作品を置けば誰へ届くのかを考えることが、作品制作そのものになります。

作品の物質性が変わる

posterは破れ、billboardは交換され、candyは食べられ、Red Ribbonは配られます。恒久的に保存されることを前提としない作品が増えました。

その一方でmuseumは、poster、documentation、指示書、editionなどを収蔵し、ephemeralなactivityを後世へ残す方法を考える必要が生まれました。

追悼の形式が変わる

monumentは通常、石やbronzeで永久に残すものです。しかしAIDS crisisでは、Day Without Artの空白、Gonzalez-Torresの減るcandy、temporary billboard、名前や写真を集めた展覧会など、変化し続けるmourning formが生まれました。

喪失を永久に固定するのではなく、毎年繰り返し、持ち帰り、補充し、再展示することで記憶を維持します。

activismとartを分けられるのか

SILENCE=DEATHはposterなのかartworkなのか。Red Ribbonはdesignなのかactivismなのか。Gran Furyのbus adはadvertisingなのかpublic artなのか。

AIDS crisisでは、この分類自体があまり重要ではなくなりました。目的に応じて美術、design、media、politicsの境界を横断したからです。後世のmuseumがそれらをcollectionへ入れることで、さらに「art」としての歴史も作られています。

美術史に残すこと自体が政治になる

AIDSによって亡くなった人々の作品、poster、zine、photograph、oral historyを保存することは、単なるarchive作業ではありません。誰が文化を作っていたのかをhistoryから消さない行為です。

Visual AIDSやmuseum archiveが現在も資料を保存する意味はここにあります。「消えつつある私たちの証人になる」という《Witnesses: Against Our Vanishing》の題名は、美術史を書くことそのものにも向けられています。

1987–1996年に何が変わったのか

1987年ACT UPが結成され、New Museum《Let the Record Show…》はAIDS情報、政治的責任、SILENCE=DEATHを街へ向いたmuseum windowで可視化しました。そこからGran Furyが形成され、広告の技術を利用して公共交通やstreetへmessageを流通させます。同じ1987年、General Ideaは《AIDS / IMAGEVIRUS》を開始し、AIDSという四文字そのものを反復可能なimageとして社会へ拡散しました。

1988年Visual AIDSが設立され、1989年には《Kissing Doesn’t Kill》、最初のDay Without Art、Nan Goldin企画《Witnesses: Against Our Vanishing》が重なります。街頭の情報戦、文化施設全体によるmourning、友人やcommunityの具体的な記憶という三つの異なる方法が同時に現れました。1990年Gran FuryはVenice Biennaleで宗教とAIDS policyを正面から衝突させ、Wojnarowiczは《One Day This Kid…》で幼少期の自分とinstitutional homophobiaを一枚のposterへ結びつけました。

1991年にはVisual AIDS Artists CaucusのRed Ribbonが匿名・copyright-freeのsymbolとして急速に世界へ広まり、Gonzalez-Torresはempty bed、two clocks、candyによってprivate lossをpublic spaceへ開きました。Goberは身体の断片と日用品からmortalityを示し、activismは直接的なsloganだけではないことを明確にします。1992年Wojnarowicz、1994年General IdeaのPartzとZontalが亡くなり、1995年Gran Furyが解散した後、1996年にはHAARTの導入によってアメリカのAIDS死亡動向が大きく変化しました。

この約10年間に変わったのは、AIDSが美術の「題材」になったことだけではありません。作品を何部作るか、誰がauthorになるか、どこへ掲示するか、観客が持ち帰れるか、美術館は社会危機へどう応答するか、追悼をどんな形で続けるかまで、制作条件そのものが問い直されました。artworkは静かに保存されるobjectであるだけでなく、information、care、protest、memoryを運ぶ社会的な装置にもなりました。

AIDS Crisis以後

1996年以降もHIV/AIDSを扱うartとactivismは続きます。Visual AIDSのDay Without Artは後にDay With(out) Artへ名称を変え、映像programやarchiveを通して活動を継続しています。1980–90年代の作品も、単なるhistorical documentsではなく、その後のqueer art、public art、social practice、graphic activismへ影響する参照点になりました。

また、internetとSNSの時代にはimageを大量に複製し、短いphraseで社会へ広げる方法が日常化しました。SILENCE=DEATHやGran Furyが印刷物と公共交通で実践した「流通そのものを設計する」という考えは、現在のvisual activismを見るうえでも重要な前史です。

次の時代へ — Young British Artists

同じ1980年代末、ロンドンではGoldsmithsの学生Damien Hirstが1988年《Freeze》を自主企画し、若い作家自身が展示場所、作品の見せ方、collectorとの接点まで作る新しいsceneが形成され始めました。1990年代にはSarah Lucas、Tracey Emin、Gary Hume、Michael Landy、Rachel Whitereadらが注目され、Saatchi Collection、commercial galleries、newspaper、Turner Prizeが相互に作用して「YBA」という強い世代imageが作られます。

次の記事では、1988–1997|Young British Artists — Freeze、Saatchi、Sensationとして、《Freeze》から《Sensation》までを追い、YBAsを単に「衝撃的な作品を作った若者たち」とせず、artist-run exhibition、gallery、collector、media、museumがどのように一つの世代を形成したのかを詳しく扱います。

参考資料・出典

本ページは、美術館、artist estate・foundation、activist organization、archive、公的機関の資料を参照してART LIBRARYが独自に構成・執筆しています。AIDSをめぐる美術を一つの様式や単純な「社会問題アート」として扱わず、直接行動、graphic design、追悼、個人的な喪失、public art、美術制度という複数の方法を区別しています。またSILENCE=DEATHをGran Furyの制作と誤認せず、Silence=Death CollectiveからACT UPへ採用された経緯を区別しています。原文の全文翻訳ではありません。

資料確認日:2026年10月1日 / ART LIBRARY