1987–1996
エイズ危機が美術界から奪ったもの、そして生まれた表現
抗議、追悼、失われた作家たち
1980年代、ニューヨークの美術界では、展覧会が開かれ、作品が生まれ、写真家や画家、映像作家が互いの仕事を見せ合う生活が続いていました。その同じ場所で、若い作家たちが次々と病気になり、亡くなっていきました。1981年に米国で報告された深刻な免疫不全の症例は、その後HIV/AIDSとして理解されるようになり、社会の広い範囲に甚大な影響を及ぼしました。人々は病気そのものに加え、偏見、情報不足、治療の困難さとも向き合うことになりました。
エイズ危機は当時の美術史に、作品の主題という範囲を超える変化をもたらしました。美術家は友人を看護し、葬儀に立ち会い、治療を求める抗議活動に参加しながら制作を続けました。完成した作品の中には、病気を直接描いたものもあれば、親密な日常や都市の風景を描き続けたものもあります。病気によって制作活動が途切れた人々の仕事を、誰が保存し、どのように次の世代へ伝えるのかという問題も生まれました。
1987年にニューヨークでACT UPが結成されると、病気への無関心と差別に抗議する言葉が街頭へ広がりました。黒地にピンクの三角形を配した《SILENCE = DEATH》は、その時代を象徴する図像です。グラン・フューリーは広告の手法を使ってバスやポスターにメッセージを掲示し、エイズをめぐる政策や薬の問題を社会に問いかけました。美術とデザインは、緊急の情報を届けるための技術として使われたのです。
同じ1987年、ワシントンD.C.のナショナル・モールでは、亡くなった人々の名前を縫い込んだ《AIDS Memorial Quilt》が広げられました。家族や友人が作った1,920枚の布をつなぎ、失われた一人ひとりの存在を公の場所で記憶する作品です。1989年にはナン・ゴールディンが《Witnesses: Against Our Vanishing》を企画し、亡くなった友人と生きている仲間の作品を集めました。抗議の言葉とともに、追悼のための新しい造形や展示の形式が作られていきました。
この時代に亡くなった作家には、写真家のピーター・ヒュージャー、ロバート・メイプルソープ、マーク・モリスロー、彫刻家のスコット・バートン、画家のダレル・エリス、キース・ヘリング、デイヴィッド・ヴォイナロヴィッチ、ヒュー・スティアーズ、フェリックス・ゴンザレス=トレス、日本の古橋悌二らがいます。それぞれが異なる表現を追究し、美術史に独自の仕事を残しました。著名な作家の名前をたどることは、失われた文化の一部を知る入口でもあります。
エイズ危機への応答も一様ではありませんでした。ヴォイナロヴィッチは写真と言葉で同性愛者への差別を告発し、ゴンザレス=トレスは二つの時計や空のベッドを通じて愛する人との時間と喪失を表現しました。ジェネラル・アイディアは《AIDS》の文字を反復して広め、ロバート・ゴーバーは身体の不在や脆さを彫刻へ組み込みました。どの作品も、誰が何を経験し、どう表現しようとしたのかに目を向ける必要があります。
本記事では1987年から1996年までを中心に、エイズ危機によって美術界から何が失われ、残された人々が何を作り、どのような社会的変化を求めたのかをたどります。1981年以降の背景から、抗議、追悼、写真と絵画、映像、美術館の対応、1996年の治療環境の変化までを一つの歴史として描きます。病気による死を記録するとともに、亡くなった人々が生前に生み出した豊かな表現を、美術史の中に残すための試みです。
CONTENTS
- 危機の始まり――1980年代の社会で何が起きたのか
- 偏見と治療――なぜ美術による抗議が必要だったのか
- 沈黙を破る――ACT UPと視覚表現
- 美術館の窓が街頭になる――1987年の転機
- 広告を社会的な武器にする――グラン・フューリー
- 死者の名前を残す――エイズ・メモリアル・キルト
- 写真家たちの死――ニューヨークの文化が失ったもの
- 絵画と彫刻に残された空白――再評価される作家たち
- 若い世代の声――ストリートと具象絵画
- 1989年、展覧会が追悼の場になる
- 作品を見せない日――美術館が喪失を表す
- 身につける記号――1991年のレッドリボン
- 病とともに制作する――怒り、身体、言葉
- 親密な喪失の造形――フェリックス・ゴンザレス=トレス
- 身体を描く方法が広がる――絵画、彫刻、映像
- 国境を越えるエイズ危機――カナダ、英国、日本
- 表象の倫理――誰が誰を、どのように見せるのか
- 1996年とその後――治療、記憶、美術史
- 略年表
- まとめ
- 参考資料・出典
危機の始まり――1980年代の社会で何が起きたのか
1981年の報告と、病名が定まるまで
1981年6月5日、米国疾病予防管理センター(CDC)は、ロサンゼルスの若い男性5人に通常はまれな肺炎が生じた症例を公表しました。後にエイズとして知られる病気に関する、米国の初期の重要な公式報告です。病因が明らかになる前から患者の重篤な状態が報じられ、ニューヨークやサンフランシスコでも新たな症例が認識されました。
HIVはウイルスの名称で、エイズはHIV感染が進行し免疫機能が深刻に低下した状態を指します。1980年代前半にはウイルスに関する科学的知識が急速に蓄積しましたが、診断を受けた人が十分な治療を得る道は限られていました。人々が直面したのは未知の病気への恐怖だけでなく、生活と尊厳を守る制度が追いつかない現実でした。(参照:米国疾病予防管理センター|First Report of AIDS)
1987年までに積み重なった死と沈黙
1987年を美術史の節目にする理由は、この年に危機が始まったからではありません。1981年以降、米国では患者が増え、家族や友人、恋人を失う経験が重なっていました。1991年時点のCDCの記録を見ると、エイズが公衆衛生上の深刻な事態だったことが分かります。1980年代半ばには、感染への不安が職場や住居、人間関係の中でも差別を引き起こしていました。
亡くなった人の名前を公にできない家族、病状を隠して仕事を続ける作家、治療情報を探す友人たちがいました。美術作品に繰り返し現れる「沈黙」や「不在」は、抽象的な比喩だけで生まれた言葉ではありません。病気について語ることそのものが困難であった社会状況を背景としています。(参照:米国疾病予防管理センター|The HIV/AIDS Epidemic: The First 10 Years)
美術界が危機の当事者となった理由
1980年代のニューヨークでは、写真、映像、パフォーマンス、絵画、ファッション、音楽が交差する場で、多くの作家や表現者が活動していました。エイズ危機は、同性愛男性を中心とするコミュニティに深刻な損失を与え、その人々が築いてきた文化的な交流にも影響を及ぼしました。展覧会の準備や作品の制作が、見舞い、看護、葬儀と並行して進む状況が生まれます。
美術館で完成した作品を見るだけでは、当時の状況の全体像はつかめません。誰が病を抱えながら制作し、誰が隣で支え、誰が亡くなった作家の資料を引き継いだのか。その人間関係まで含めて見ることで、ポスターや写真の意味が浮かび上がります。エイズ危機は美術家に新しい題材を与えたと同時に、制作を続けるための時間そのものを奪いました。(参照:ニューヨーク近代美術館|AIDS activism)
偏見と治療――なぜ美術による抗議が必要だったのか
感染への誤解が人々の生活に及ぼした影響
HIVの感染経路をめぐる知識が広まり始めても、日常的な接触によって感染するという誤解や、同性愛者への根強い偏見は容易に消えませんでした。感染した人が病気を公表することには、解雇や排除、家族関係の断絶といった危険が伴いました。医療に関する問題が、社会で誰を受け入れるかという問題へ直結していたのです。
この状況で、キスする人々の写真や、肩を寄せ合う身体を街頭へ掲示することには切実な意味がありました。親密さを見せること、病気について公に語ること、自分たちの存在を隠さないことが、それ自体で偏見への抵抗となりました。表現の自由という議論は、誰が社会の中で安全に生きられるのかという問いと結びついていました。(参照:ニューヨーク近代美術館|AIDS activism)
治療薬、承認制度、医療へのアクセス
当時、感染した人々にとって、治療薬が研究段階から患者の手元へ届くまでの時間は生命に関わる問題でした。1988年、ACT UPはメリーランド州ロックビルにある米国食品医薬品局(FDA)の本部で大規模な抗議行動を行いました。FDA自身が公開した歴史資料にも、その抗議の写真が残っています。活動家は臨床試験の方法や承認の遅さ、薬の費用に疑問を投げかけました。
こうした働きかけは、患者の経験を薬の評価や政策決定へ反映させることを求める行動でもありました。美術家とデザイナーが作ったプラカードや標語は、複雑な制度の問題を街頭や報道で伝える役割を担いました。人々の命に直結する数字や専門用語が、視覚表現の素材になった理由がここにあります。(参照:米国食品医薬品局|A History of the FDA)
誰の経験が病気の歴史として語られるのか
エイズは同性愛男性のみに起きる病気ではありません。女性、異性愛者、薬物を注射する人々、輸血によって感染した人々、子どもたちにも影響が及びました。さらに人種、貧困、住居、医療保険の有無によって、診断や治療にたどり着く条件は異なりました。CDCの記録は、1990年代初頭には複数の感染経路と社会的集団で危機が拡大していたことを示しています。
美術史も、よく知られた男性作家たちの死だけを並べると、危機の全体像を見失います。黒人のゲイ男性の表現、女性の支援や看護、患者自身の言葉、市民団体の活動まで視野に入れる必要があります。美術作品が何を描いたかに加え、誰の顔や名前が記録として残されたかを問うことが、この時代を考える入口となります。(参照:米国疾病予防管理センター|The HIV/AIDS Epidemic: The First 10 Years)
沈黙を破る――ACT UPと視覚表現
1987年、ACT UPの結成
1987年3月、ニューヨークでACT UP(AIDS Coalition to Unleash Power)が結成されました。医療制度、行政、製薬企業、報道機関に行動を求める直接行動を通じて、エイズ危機への無関心を社会問題として可視化した組織です。街頭で横たわって死者を表す行動、抗議集会、交通の要所での宣伝など、さまざまな方法が試されました。
この運動では言葉と視覚表現が切り離せません。参加者を集める告知、報道写真に写り込む標語、バッジやTシャツの記号には、それぞれ伝達の役割がありました。美術家は作品を制作する立場に加え、印刷物を配り、抗議の場所を選び、政策を調べる活動にも関わりました。美術が社会で作用する場面が急速に広がったのです。(参照:メトロポリタン美術館|Queer Activist Art: ACT UP and Gran Fury)
《SILENCE = DEATH》――六つの文字と三角形
黒い背景に上向きのピンクの三角形、その下に白い大文字で置かれた「SILENCE = DEATH」。1987年に現れたこの図像は、エイズ危機の視覚文化を象徴するものになりました。制作したのはACT UP結成以前から活動していたSilence=Death Collectiveで、その後ACT UPが広く採用しています。グラン・フューリーの制作と混同しないことが重要です。
画面には病気の写真も患者の肖像もありません。短い言葉が、沈黙を続ける社会に責任があるという主張を伝えます。歩きながらでも読め、複写や貼り出しに適しており、身につけるバッジにも展開できます。美術品として一か所に置くよりも、街中に何度も現れることによって力を持つ構成でした。(参照:スミソニアン国立アメリカ歴史博物館|SILENCE=DEATH)
迫害の記号を抵抗の記号へ変える
ピンクの三角形は、ナチス・ドイツの強制収容所で男性同性愛者を識別するために使われた記号に由来します。戦後の同性愛者解放運動で再び用いられるようになり、《SILENCE = DEATH》では上向きの形に置かれました。差別と迫害を示した記号が、自分たちの存在と抵抗を示すために使い直されたのです。
既存の意味を変える手法は、1970〜80年代の引用や流用を用いた美術とも響き合います。大きな違いは、ここでの図像の使い直しが、街でいま起きている危機に直接応えることです。印刷と掲示の速さ、言葉を受け取る人の範囲、見る人が行動する可能性までが、図像の構成と不可分になっていました。(参照:メトロポリタン美術館|Queer Activist Art: ACT UP and Gran Fury)
美術館の窓が街頭になる――1987年の転機
ニューミュージアム《Let the Record Show…》
1987年11月20日から翌年1月24日まで、ニューヨークのニューミュージアムでは《Let the Record Show…》が開催されました。会場はブロードウェーに面した窓の空間です。ACT UPは感染症をめぐる最新の情報を示すとともに、政治家や公的人物の発言が後に歴史的な責任として問われることを強調しました。展覧会名にも「記録に残す」という意志が刻まれています。
この窓展示では、人々は建物へ入場することなく作品と情報に接することができました。街路に向いた美術館の一部が、活動家のメッセージを伝える場になります。美術館の権威と、通行人に向けて急いで情報を届ける必要性が結びついた例であり、エイズ危機の歴史で重要な出来事です。(参照:ニューミュージアム|Let the Record Show…, 1987–88)
ウィリアム・オランダーの役割
展示の実現に重要な役割を担ったのが、ニューミュージアムのキュレーター、ウィリアム・オランダーです。彼はACT UPの人々を美術館の窓展示へ招き、美術館を社会の緊急事態に向けた場所として使う可能性を開きました。1989年に本人もエイズによって亡くなったことは、この企画が遠くの社会問題を扱った活動ではなかったことを物語っています。
企画した側も病や喪失の渦中にいたという事実は、美術館の歴史を読む際に重要です。展覧会の開催日や作品の設置方法を記録するだけでなく、企画者がなぜその場所を提供したのかを考える必要があります。美術館の展示方針が、そこで働く人の経験や判断によって変わることを示した事例でもありました。(参照:ニューミュージアム|William Olanderと美術館の窓)
統計と声明を一つの展示にする
《Let the Record Show…》では、グラフィック、発言の引用、感染症の統計が組み合わされました。数字は見た人に状況の規模を伝え、発言の記録はその状況に対する社会の姿勢を問います。情報をただ壁に貼っただけの展示と違い、窓という場所、通行人の視点、夜間の光を利用することで、情報が公共空間の中で直接働くよう設計されました。
制度批評が美術館の仕組みを問い直していた同時期に、エイズをめぐる活動家は美術館の機能を具体的に使い変えました。展示室で作品を鑑賞する人だけを想定していた美術館が、街を歩く人々に緊急の情報を届ける場になったのです。この転換は1989年の《Day Without Art》にも引き継がれます。(参照:ニューミュージアム|Window Series)
広告を社会的な武器にする――グラン・フューリー
1988年、グラン・フューリーの形成
ニューミュージアムの窓展示を制作したACT UPの参加者の一部から、1988年初めにグラン・フューリー(Gran Fury)が形成されました。エイズ危機の中で、街頭ポスター、新聞広告、公共交通機関の掲示などを制作した集団です。メトロポリタン美術館は、その活動を、商業広告の大量生産と流通の技術を抗議へ転用した重要な実践として整理しています。
作品の前面には個人作家の名前よりも、共同で決めたメッセージが置かれました。誰か一人が署名を残すための作品というより、社会の中で機能するキャンペーンとして制作されていたのです。広告の写真、見出し、文字組みを学ぶことが、患者の権利や治療の問題に働きかける活動と結びつきました。(参照:メトロポリタン美術館|Queer Activist Art: ACT UP and Gran Fury)
1989年《Kissing Doesn’t Kill》と公共交通
《Kissing Doesn’t Kill: Greed and Indifference Do》(1989年)は、グラン・フューリーの代表作です。三組のカップルのキスを並べた写真と強い見出しは、当時の商業広告の視覚表現を思わせます。バスの広告などに掲示されることで、通常は美術館へ足を運ばない人にも届きました。親密な行為そのものが感染の原因であるかのような誤解への抗議でもありました。
作品の後半に置かれた「強欲と無関心」という言葉は、社会的な責任を明確にしています。薬価や医療制度をめぐる問題を、キスという誰にとっても身近な場面から考えさせる構成です。商業広告が購買意欲を喚起するために発達させた技術を、偏見を減らし、政策への関心を高めるために利用した例といえます。(参照:メトロポリタン美術館|Queer Activist Art: ACT UP and Gran Fury)
1990年ヴェネツィアで起きた展示をめぐる対立
1990年、第44回ヴェネツィア・ビエンナーレの《Aperto》部門にグラン・フューリーが参加しました。ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世の写真を使ってカトリック教会のエイズ政策を批判するポスターや、コンドームの使用を訴える図像が大きな論争を呼びました。ヴェネツィア・ビエンナーレの公式史料には、宗教関係者から抗議が寄せられたことが記録されています。
展示を撤去するかどうかまで問題となり、最終的には展示が継続されました。作品が海外の著名な展覧会へ進出したことに加え、その場で作品を公開し続ける判断が問われた点も重要です。ニューヨークの街路で生まれた表現が、国際美術展の制度と公衆衛生をめぐる宗教的な対立を可視化するまでに至ったのです。(参照:ヴェネツィア・ビエンナーレ|1990年の展覧会史)
死者の名前を残す――エイズ・メモリアル・キルト
1987年、首都に広げられた1,920枚の布
1987年10月11日、ワシントンD.C.のナショナル・モールに、エイズで亡くなった人々を追悼する《AIDS Memorial Quilt》が初めて大規模に展示されました。当時のパネルは1,920枚。発案者のクリーヴ・ジョーンズや家族、友人、支援者たちが布を縫い、亡くなった人の名前を記しました。見る人がその名前を声に出して読み上げることも、展示の重要な行為になりました。
この巨大な布は、美術館が収蔵する単独作家の作品とは異なる方法で制作されました。家族や友人が自分たちの手で断片を作り、それらを広大な公共空間へ集めたのです。一枚ごとに異なる字体、色、図像、衣服の切れ端には、亡くなった人との具体的な関係が刻まれています。死者を統計の数字へまとめないための表現でもありました。(参照:National AIDS Memorial|AIDS Memorial Quiltの歴史)
家庭の手仕事が公共の記念碑になる
キルトの一枚一枚には、縫う、切る、貼る、名前を記すという手仕事があります。家庭や共同体の中で親しまれてきた布の技術が、国の中心的な場所に広げられたとき、その意味は大きく変わりました。石でできた記念碑のように一度完成して終わる形とは異なり、新しいパネルが加わることで作品全体が成長していきます。
誰もが同じ材料や描き方を使う必要はありません。縫い目が不揃いでも、手書きの言葉が短くても、その人への記憶は一つのパネルとして受け止められます。この開かれた制作方法は、作家の専門技術を持たない人々にも、巨大な公共作品へ参加する権利を与えました。家族の哀悼が社会に向けて発言する場へ変わったのです。(参照:National AIDS Memorial|AIDS Memorial Quiltの歴史)
巡回、読み上げ、1996年の再展示
1987年の展示の後、《AIDS Memorial Quilt》は全米各地を巡回し、行く先々で新しいパネルが加わりました。1988年の巡回だけでも多数の人々が展示と制作に関わり、エイズ支援団体への募金にもつながりました。1996年には再びナショナル・モールで大規模に展示され、病気によって亡くなった人々の名前を社会の中心に置く行為が続けられました。
ここでの鑑賞者は、ただ作品を見て帰る人ではありません。名前を読み上げ、布を折りたたみ、運び、次の展示に参加する人々によって作品が維持されます。記憶の保存と行動が一体になった形式は、エイズ危機の美術を考えるうえで、街頭ポスターと並んで欠かせない存在です。(参照:National AIDS Memorial|AIDS Memorial Quiltの歴史)
写真家たちの死――ニューヨークの文化が失ったもの
ピーター・ヒュージャー――親密な肖像の記録
ピーター・ヒュージャー(1934–1987)は、ニューヨークの芸術家、俳優、友人たちを静かな白黒写真に収めた写真家です。1976年の写真集『Portraits in Life and Death』には、人物と死のイメージへの長年の関心が刻まれています。1987年にエイズで亡くなった後、その写真は同時代の人々の生きた姿を伝える貴重な資料としても受け継がれました。
ヒュージャーと交流の深かったデイヴィッド・ヴォイナロヴィッチは、写真家としての経験や友人の死と向き合いながら制作を続けました。一枚の肖像写真が、撮影時には友人との時間を記したものであり、後には亡くなった人物を思い起こすためのものになる。エイズ危機は、写真を見る時間そのものにも大きな変化をもたらしました。(参照:Visual AIDS|Peter Hujar)
ロバート・メイプルソープ――1989年と表現の自由
ロバート・メイプルソープ(1946–1989)は、肖像、花、男性裸体を、精密な光と構図で撮影しました。1988年にはホイットニー美術館で回顧展が開催され、写真家としての評価が高まっていました。翌1989年3月、エイズ関連の合併症によって42歳で亡くなりました。彼の死後には作品の性的な表現をめぐる検閲論争が広がり、公共資金と表現の自由が大きく問われます。
作品を撮った理由も美的な判断も、病気に還元することはできません。裸体の写真や形式への強い関心は、エイズ危機が始まる以前から制作の核にありました。その一連の写真が、社会の偏見と検閲の問題に直面した時代の中で、いっそう強い公共的な意味を持つようになったことを理解する必要があります。(参照:ロバート・メイプルソープ財団|美術館収蔵とアーカイブ)
マーク・モリスローとロティミ・ファニ=カヨデ
1989年にはマーク・モリスローとロティミ・ファニ=カヨデも亡くなりました。モリスローはポラロイドや実験的な印画を用い、友人や自分自身を被写体とする親密な写真を制作しました。ファニ=カヨデはナイジェリアにルーツを持ち、英国を拠点に、黒人男性の身体、性、ヨルバ文化の精神性を交差させた写真を発表していました。
二人の写真は、当時の写真文化に存在した表現の幅を示しています。身体の近さや性を描くことが、必ずしも同じ政治的な主張になるわけではありません。撮影者と被写体の関係や文化的背景が異なれば、作品の言葉も変わります。1989年に相次いだ死は、一つの作風だけで語れない写真の可能性を、制作途中で断ち切りました。(参照:Visual AIDS|1989—What We Lost)
絵画と彫刻に残された空白――再評価される作家たち
ポール・テック――身体と脆い素材の先駆者
ポール・テック(1933–1988)は、1960年代から人体の肉片を思わせる彫刻を制作し、その後も環境全体を使った実験的なインスタレーションを発表した作家です。蝋やラテックスなど変化しやすい素材を取り入れ、作品が時間とともに傷み、姿を変えることにも向き合っていました。エイズ危機の中で1988年に亡くなり、2010年にはホイットニー美術館で大規模な回顧展が開催されました。
テックの作品をエイズの象徴としてだけ読むと、1960年代から続く造形上の探究が見えにくくなります。身体を模した物質と、展示空間全体を演出する方法は、後のインスタレーションの歴史に重要な位置を占めています。亡くなった時点で進行していた制作が途切れたことと、後から作品の位置づけが検討され直したことの両方を残す必要があります。(参照:ホイットニー美術館|Paul Thek: Diver, A Retrospective)
スコット・バートン――人が使う彫刻
スコット・バートン(1939–1989)は、ベンチ、椅子、テーブルのように人が実際に使える形から彫刻を展開した作家です。石や金属などの素材を用い、公共空間に置かれ、人が座ったり周囲で過ごしたりすることを前提とする作品を制作しました。ミニマリズム以後の彫刻と家具の関係を考えるうえで欠かせない作家の一人です。
バートンが1989年に亡くなったことは、エイズによる損失が、病気を直接描く美術表現に限らなかった事実を示しています。身体、空間、鑑賞者の行動をめぐる彫刻の探究も、同じ危機によって中断されました。作品の形が静かであるほど、死の歴史が見えにくくなる場合があります。美術史の中では作品の革新性と、作家の生涯を分けずに記録する必要があります。(参照:Visual AIDS|Scott Burton)
ダレル・エリス――家族写真から生まれた絵画
ダレル・エリス(1958–1992)は、亡くなった父親が残した家族写真を投影し、変形させ、絵画や新しい写真として再構成しました。写真の平面を光によって歪ませる過程で、家族の記憶や黒人としての自己像が揺らぐ作品を制作しています。1989年にはナン・ゴールディンが企画した《Witnesses: Against Our Vanishing》に参加しました。
エリスは1992年に33歳でエイズによって亡くなりました。Visual AIDSは後年、作品集の刊行や資料保存を通じて再評価を進めています。父親の写真という個人的な素材から生まれた独自の表現を、生涯の終盤にさらに展開する可能性がありました。エイズ危機が奪ったのは、その時点で完成していた作品に加え、続いていくはずの制作の時間でもあったのです。(参照:Visual AIDS|Darrel Ellis)
若い世代の声――ストリートと具象絵画
キース・ヘリング――公共空間での警告
キース・ヘリング(1958–1990)は、ニューヨークの地下鉄や街頭で親しまれた明快な線と色を使い、社会問題を広く伝えた作家です。1980年代には反アパルトヘイト、薬物問題、性の健康などを扱い、HIV感染の公表後にはエイズへの啓発活動をいっそう強めました。1990年に31歳でエイズ関連の病気によって亡くなりました。
ヘリングの作品は、街頭で誰もが見ることができるという性格を最初から持っていました。1989年の《Ignorance = Fear / Silence = Death》では、自身の親しみやすい人物像と抗議の言葉が結びつきます。明るい色彩は、題材の深刻さを弱めるためのものではありません。より多くの人の視線を引きつけ、知識や行動へつなげるための視覚的な選択でした。(参照:ホイットニー美術館|Keith Haring)
パトリック・アンガス――都市の生活を描く
パトリック・アンガス(1953–1992)は、ニューヨークやロサンゼルスのゲイ男性の日常や、バー、劇場、親密な人間関係を具象絵画に描きました。美術史上の画家たちを学びながら、当時の美術で目立って扱われなかった人々や場所を、丁寧に観察して描いています。晩年にはエイズと診断され、作品を残せなくなることを恐れながら制作と展示を続けました。
この絵画から見えてくるのは、抗議ポスター以外の表現における切実さです。日常生活の場面を継続して描くことが、周囲から軽んじられた生活の価値を記録する行為にもなりました。病気が制作の最後を早めた事実と、病気以前から同性愛男性の生活を主題としていたことを、同時に理解する必要があります。(参照:Visual AIDS|Patrick Angus)
ツェン・クォン・チー――国境と自己像を撮る
ツェン・クォン・チー(1950–1990)は、香港生まれでニューヨークの芸術界を拠点にした写真家です。毛沢東風の服装とサングラスを身につけ、観光名所や巨大な自然の風景の前で自分自身を撮影するシリーズを制作しました。その姿は、見る人が東アジア出身の人物へ向ける固定観念や、写真によって作られる国籍のイメージを揺さぶります。キース・ヘリングとも親しく、その活動を写真に残しました。
1990年、ツェンはエイズにより39歳で亡くなりました。彼の存在は、この危機が白人のゲイ男性の文化だけを襲ったという見方を広げます。国境を越えて活動し、東アジア人としての身体や観光の視線を作品にした写真家がいたことを、美術史の中に記録する必要があります。ヘリングの街頭作品とは別の方法で同じニューヨークの時代を形作り、その仕事を途中で断ち切られた作家の一人です。(参照:Visual AIDS|ツェン・クォン・チー)
1989年、展覧会が追悼の場になる
ナン・ゴールディン《Witnesses: Against Our Vanishing》
1989年11月から翌年1月にかけて、ニューヨークのArtists Spaceで《Witnesses: Against Our Vanishing》が開催されました。写真家ナン・ゴールディンが企画し、ピーター・ヒュージャー、マーク・モリスロー、デイヴィッド・ヴォイナロヴィッチ、キキ・スミス、ダレル・エリスらの作品を紹介しました。展覧会には、亡くなった人の作品と、生きて制作を続ける人の作品が同じ空間に並びました。
ゴールディンは、長年にわたり友人、恋人、生活をともにした人々を撮影してきた作家です。彼女にとってこの展覧会は、外から病気を調査する企画ではなく、親しい人々が直面している喪失に応えるものでもありました。作品は当事者たちが築いてきた文化を記録し、友人の名を伝え、亡くなった人の生を思い起こすための手がかりになりました。(参照:Artists Space|Witnesses: Against Our Vanishing)
個人の生活を、美術史の記憶へつなぐ
ゴールディンの写真には、友人の部屋、日常の表情、夜の集まり、恋人同士の距離感が写っています。本人が長く見つめてきた生活が、そのまま作品の背景です。エイズ危機の中で撮影された、あるいは危機以前に撮影された写真は、後から見る人にとって、そのコミュニティが何を大切にし、どのように暮らしていたかを知る記録にもなります。
その記録は、死を悲劇としてのみ描くものではありません。喜びや欲望、衝突、親密さのある生活が先にあり、その人々が病気の中で失われていきました。《Witnesses》が重要なのは、死亡者数だけでは見えない人々の個性やつながりを、写真、絵画、彫刻の集まりとして残そうとした点にあります。展示という制度が、共同体の記憶を保持するために使われました。(参照:ニューヨーク近代美術館|Nan Goldin)
助成金の停止と、展示を守る人々
《Witnesses》の図録に掲載されたヴォイナロヴィッチの文章は、政府や宗教的な保守勢力の姿勢を激しく批判していました。全米芸術基金(NEA)の助成金をめぐって論争が起こり、芸術への公的支援と政治的な発言の自由が対立する事態となります。Artists Spaceが当時公表した声明からは、助成をめぐる決定の変更と、美術関係者からの支援の広がりを読み取ることができます。
この事件では、作品の内容と同じくらい、展示を維持するために誰が交渉し、資金を確保し、発言の場を守るかが問題になりました。エイズ危機を描く作品が社会に届くまでには、こうした制度的な争いもありました。展覧会は単に作品を陳列する場所というだけでなく、何を公に語ることが認められるのかを問う場になったのです。(参照:Artists Space|Witnesses助成問題に関する当時の声明)
作品を見せない日――美術館が喪失を表す
1988年、Visual AIDSの設立
1988年、美術批評家ロバート・アトキンズ、キュレーターのゲイリー・ガレルズ、トーマス・ソコロウスキー、ウィリアム・オランダーらによってVisual AIDSが設立されました。美術界がエイズ危機から受けた影響を記録し、美術館やギャラリーと当事者のコミュニティを結びつける組織です。個々の作家の作品を紹介する活動に加え、文化施設全体へ行動を呼びかける企画を展開しました。
美術館は作品を保存し、長期にわたって公開することを重要な役割とします。Visual AIDSは、その機能を生かしながら、いま失われつつある命や制作を見つめる場へ変えることを求めました。資料の収集、展覧会の開催、追悼と啓発は、互いに離れた活動ではありません。文化を作った人々の存在を後世へ残すという目的で結びついていました。(参照:Visual AIDS|設立の歴史)
1989年12月1日、最初の《Day Without Art》
1989年12月1日、Visual AIDSが呼びかけた最初の《Day Without Art》が実施されました。全米で800を超える美術館や文化団体が参加し、展示作品を布で覆う、作品を一時的に撤去する、館内を暗くする、エイズに関する情報を配布するなど、さまざまな行動を行いました。世界エイズデーに合わせて、美術館自身が危機を社会へ伝える場になりました。
通常、美術館は重要な作品を多く見せることによって活動の成果を示します。この日は、見せるはずの作品がそこにない状態が意味を持ちました。亡くなった作家の制作が途切れ、これから生まれるはずだった作品が失われたことを、空いた場所を通して感じさせたのです。美術が持つ存在感を、作品の不在によって示す大胆な試みでした。(参照:Visual AIDS|Day Without Art)
ニューミュージアムが窓に残した数字
最初の《Day Without Art》で、ニューミュージアムはグラン・フューリーと協働し、1987年の窓展示を思わせる新しい展示を制作しました。入口と窓を黒く覆い、危機の規模や患者の状況を伝える統計が表示されました。同館の記録によれば、それまでの展示から美術的な図像を取り去り、数字だけが残る構成へ変えられています。
街を歩く人は、作品を楽しむために立ち止まる場所で、社会の深刻な現実を示す数字と向き合うことになります。これは美術館の社会的な役割を自ら問い直す行為でした。誰の作品が失われ、なぜ社会がその損失に目を向ける必要があるのかを、展示方法そのものによって伝えようとしたのです。(参照:ニューミュージアム|Day Without Art)
身につける記号――1991年のレッドリボン
Visual AIDS Artists Caucusの共同制作
1991年、Visual AIDSの作家たちによる集まりが、エイズとともに生きる人々や、支援と看護を担う人々への連帯を示す記号を考案しました。赤い布を短く切り、折りたたんで安全ピンで服に留める「レッドリボン」です。赤は血液、情熱、怒り、愛との結びつきを意識して選ばれました。形は簡単に再現でき、多くの人が自分で作って身につけられます。
デザインの価値は複雑な造形にあるわけではありません。誰もが参加できること、見知らぬ人同士が同じ意思を示せること、社会の中で繰り返し現れることが、この記号の力でした。個人の署名を前面に出す美術作品とは異なる作者性が、集団制作によって実現されました。(参照:Visual AIDS|The Red Ribbon Project)
布を切り、折り、配るという行動
レッドリボンは、完成した図像を印刷所へ発注して終わる活動ではありませんでした。Visual AIDSの記録によれば、多数の参加者が集まり、布を切り、折り、ピンを付ける作業を続けました。制作に参加する行為そのものが、危機と向き合う人々への連帯を形にしました。美術館から街頭まで、手渡しで広がる記号だったのです。
この運動では、身につける身体が表示の場所になります。広い壁や展示台を必要とせず、人が移動するたびに記号も街を動きます。簡単に作れるという条件が、そのまま普及の条件でもありました。ひとつの記号の意味が、繰り返し作り直され、異なる人々によって運ばれることで生き続けたのです。(参照:Visual AIDS|The Red Ribbon Project)
テレビ放送を通じて世界に広がる
1991年6月のトニー賞授賞式では、レッドリボンが多くの出演者や関係者の胸に付けられました。テレビ放送を通じてその姿が広まり、後に世界的なエイズへの連帯の象徴として定着していきます。作品を美術館へ見に行く人に届かせる方法から、広く知られる人物に身につけてもらう方法へ、発信の経路が変わったのです。
一人の作家の名前や限られた販売部数によって価値を示す美術市場とは、異なる伝わり方でした。リボンは繰り返し複製されるほど、多くの人が同じ社会的な問題へ意思を表明できる記号になります。美術とデザインが社会の中でどのように働くかを考える際に、レッドリボンは欠かせない例です。(参照:Visual AIDS|The Red Ribbon Project)
病とともに制作する――怒り、身体、言葉
デイヴィッド・ヴォイナロヴィッチと制度への告発
デイヴィッド・ヴォイナロヴィッチ(1954–1992)は、絵画、写真、映画、文章を横断し、貧困、性的少数者への差別、暴力、国家の無関心を扱いました。自身がエイズと診断された後には、病気と政治の関係を強い言葉で語るようになります。彼にとって個人の身体で起きる出来事は、医療制度や差別的な社会構造と切り離せない現実でした。
彼の作品には、怒りと個人的な記憶が同時に存在します。親しい人の死が激しい政治的な文章へ変わる一方で、幼少期の記憶や都市の風景も重要な素材になります。1992年に37歳で亡くなるまで、制作と発言を続けた作家の生涯を、病気の末期だけから振り返るのでは十分ではありません。彼がそれ以前から何を問い、どの表現を選んできたかも含めて理解する必要があります。(参照:ホイットニー美術館|David Wojnarowicz: History Keeps Me Awake at Night)
《Untitled (One Day This Kid…)》に書かれた未来
1990年の《Untitled (One Day This Kid…)》では、幼いヴォイナロヴィッチ自身の写真を中央に置き、その周囲を長い英文が囲んでいます。文章は「いつかこの子どもは」という未来形で、同性愛への欲望を持つことで家族、学校、宗教、法律、医療制度から受ける差別を列挙します。無邪気な笑顔と、未来に待つ社会の暴力との隔たりが見る人に強く迫ります。
作品は安価な複写技法によって制作されています。大きな文字と写真の組み合わせは、展覧会の壁面で読むことも、印刷物として広げることもできる形式です。ひとりの子どもの具体的な経験が、同様の差別にさらされる多くの人の経験へとつながります。文字が多い作品であること自体が、消されがちな経験を正面から語る方法でした。(参照:ホイットニー美術館|Untitled (One Day This Kid…), 1990)
亡くなった作家を一つの死因に閉じ込めない
ヴォイナロヴィッチは1992年7月22日、エイズ関連の病気によって37歳で亡くなりました。後年のホイットニー美術館による回顧展では、短い活動期間に制作された多様な作品が改めて紹介されています。彼の創作を「病気になり、怒りを表した」というひとつの物語へまとめると、写真、文章、初期の都市での活動、友人との交流が見えにくくなります。
エイズ危機を歴史へ記録するには、死を社会の責任と結びつけて考える視点が必要です。同時に、作家本人が作り上げた作品の豊かさと独自性も残さなければなりません。亡くなった人を数えるだけの年表から、それぞれが生み出した美術を見直すための年表へ。記憶の残し方そのものが、美術史の課題となります。(参照:ホイットニー美術館|Untitled (One Day This Kid…), 1990)
親密な喪失の造形――フェリックス・ゴンザレス=トレス
二つの時計《Untitled (Perfect Lovers)》
フェリックス・ゴンザレス=トレス(1957–1996)は、二つの時計、紙の束、キャンディ、電球、写真など簡潔な材料を用いました。1991年の《Untitled (Perfect Lovers)》では、同じ型の二つの時計を触れ合うように並べ、時刻をそろえて動かします。二つの時計は並んで進みますが、いつか速度がずれ、一方が先に止まる可能性があります。
時計は時間を測る身近な道具です。その反復が愛し合う二人の関係に見え、機械のわずかなずれが生命の有限性を思わせます。ゴンザレス=トレスは、パートナーのロス・レイコックの病と向き合いながら、時間と喪失を深く考えていました。政治的なスローガンを使わずに、同性愛の親密さとエイズ危機の経験を美術の中心へ置く方法でした。(参照:ニューヨーク近代美術館|Felix Gonzalez-Torres)
《Untitled》――空のベッドを都市に掲示する
1992年のニューヨーク近代美術館《Projects 34》では、ゴンザレス=トレスが撮影した二人用の空のベッドの写真が、ニューヨーク市内24か所の広告看板に掲示されました。枕には人が横たわっていたようなくぼみが残り、シーツにも身体の痕跡があります。作品には広告らしい商品名も説明文もありません。
私的な寝室の光景が大きく引き伸ばされ、街頭の商業広告の場所へ現れました。見る人は、その空白に恋人との時間、寂しさ、親密さ、死などさまざまな経験を重ねます。美術館の外に出る方法はグラン・フューリーと共通しますが、伝達の仕方は大きく異なります。切迫した命令文の代わりに、見る人が立ち止まって考えるための余白が設けられました。(参照:ニューヨーク近代美術館|Projects 34: Felix Gonzalez-Torres, 1992)
キャンディが減り、補充される彫刻
1991年の《Untitled (Placebo)》などでは、個包装のキャンディを床に広げ、鑑賞者が持ち帰ることのできる作品が作られました。鑑賞者が一つ取るたびに形や量が変化し、作品の指示に従って補充することもできます。作品の物質的な状態が日々変わることは、保存を重んじる美術館の仕組みにも新しい判断を求めました。
減少する量は身体や喪失を連想させ、補充には継続や新たな関係の可能性が重なります。ひとつの解釈へ閉じられないことも作品の重要な特徴です。ゴンザレス=トレスは1996年にエイズ関連の病気で亡くなりました。残された作品が、現在も人々の手に渡りながら新たに実現される点には、記憶を続ける形式としての意味があります。(参照:ニューヨーク近代美術館|Felix Gonzalez-Torres)
身体を描く方法が広がる――絵画、彫刻、映像
ロバート・ゴーバー――壁から現れる脚とろうそく
ロバート・ゴーバーの1991年の《Untitled》は、壁から男性の脚の一部が突き出す彫刻です。蝋で作られた皮膚には実際の毛が一本ずつ植えられ、布や革靴も組み合わされています。身体に近い精密さと、身体全体が見えない不自然さが共存する作品です。脚から伸びるろうそくは、祈りの場や時間の経過を連想させます。
ホイットニー美術館は、この作品の身体の不安定さと消えていく時間の感覚を、エイズ危機の中での死と結びつけて説明しています。明確な病名を作品に書き込む方法とは違い、日常の物と身体の断片を組み合わせ、鑑賞者に不安や喪失を感じさせます。エイズ危機が美術へ与えた影響は、街頭の抗議だけでなく、彫刻の素材や身体の表し方にも及びました。(参照:ホイットニー美術館|Robert Gober, Untitled, 1991)
ヒュー・スティアーズ――看護と親密さを描く
ヒュー・スティアーズ(1962–1995)は、病室、浴室、寝室などを舞台に、人を支える身体、ひとりで過ごす人物、触れ合う人々を具象絵画として描きました。画面には病気への不安や孤独がありながら、誰かを気遣う動作や日常の温かさも残されています。エイズの影響を、政治的な標語から距離のある絵画の形式で深く探究した作家です。
スティアーズは1995年に32歳でエイズ関連の病気によって亡くなりました。彼は過去の具象絵画を研究し、その歴史と向き合いながら同時代の生活を描きました。伝統的な構図や描写技術を使っていても、描かれるのは当時の社会で十分に可視化されていなかった親密さや看護の経験です。この作品群は、エイズ危機が具象絵画にも新しい主題と切迫感を与えたことを示しています。(参照:Visual AIDS|Hugh Steers)
マーロン・リッグス――黒人ゲイ男性の経験を映像へ
映像作家マーロン・リッグス(1957–1994)は、1989年の《Tongues Untied》で、黒人ゲイ男性として生きる経験を、詩、証言、踊り、音楽、映像を交差させて表現しました。自身のHIV感染についても公に語り、病気をめぐる沈黙や、黒人コミュニティと性的少数者の間に生じる複雑な差別を扱いました。1994年にエイズ関連の合併症で亡くなっています。
この作品は、エイズ危機を白人男性中心のニューヨーク美術界だけで語る見方を広げます。人種差別、同性愛への偏見、公衆衛生、メディアの表現は、一人の人生の中で重なり合っていました。リッグスは病気に関する情報を伝えるだけでなく、黒人ゲイ男性が自分の声と身体によって自らを表現する場を映像の中に作りました。(参照:スミソニアン国立アフリカ系アメリカ人歴史文化博物館|Marlon Riggs)
国境を越えるエイズ危機――カナダ、英国、日本
ジェネラル・アイディア――反復する《AIDS》と1994年の喪失
カナダの美術集団ジェネラル・アイディアは、AAブロンソン、フェリックス・パーツ、ホルヘ・ゾンタルの三人によって活動しました。1980年代後半にはロバート・インディアナ《LOVE》の文字構成を思わせる《AIDS》を制作し、ポスター、切手のような印刷物、雑誌表紙などへ繰り返し展開しました。1992年の《Magi© Bullet》では、薬を思わせる形の多数の風船を浮かべ、時間とともに落ちていくインスタレーションを作っています。
1994年、パーツとゾンタルがエイズ関連の病気で亡くなり、三人組としての活動は終わりました。身体を直接描写せず、印刷物の反復や薬の形の風船によって、病気への社会的な反応や時間の不安を伝えた点が重要です。彼らの制作は、病気に向けた外からの観察から、仲間の生存と喪失に向き合う切迫した活動へと重なっていきました。(参照:ニューヨーク近代美術館|General Idea, Magi© Bullet, 1992)
デレク・ジャーマン《Blue》――視力と音の経験
英国の映画監督・美術家デレク・ジャーマンは、HIV感染を公表した後、1993年に映画《Blue》を完成させました。画面にはほぼ一貫して青が現れ、声、音楽、日記の言葉が重なります。病気や治療に伴う視覚の変化を、映像を通して伝える独特の作品です。テートの資料には、1970年代から続いていた青い画面の構想が、長い時間を経てこの作品へつながったことが記録されています。
ジャーマンは1994年に亡くなりました。《Blue》の青い画面と音声は、見ることが制限される身体の経験を映画館の中へ持ち込みます。病気を直接写す映像を避け、画面と音の関係そのものによって病の経験を伝えた点で、エイズ危機をめぐる美術表現の幅を大きく示しました。(参照:テート・アーカイブ|Derek Jarman, Blue)
古橋悌二とダムタイプ《S/N》――日本からの応答
日本でもエイズ危機は現代美術の表現と活動を変えました。京都を拠点とするダムタイプの中心的存在、古橋悌二(1960–1995)は、1992年にHIV陽性であることをメンバーに伝え、1994年初演の《S/N》を構想・演出しました。題名は信号と雑音の比率を意味し、ジェンダー、セクシュアリティ、人種、国籍など社会が人々へ押し付ける区分を、映像、音、身体、言葉を組み合わせた舞台で問いかけました。
古橋は公演の中で、自身がゲイでありHIV陽性であることを公表しました。1995年10月29日、エイズに伴う敗血症によって35歳で亡くなりました。作品は古橋の死後も上演され、ダムタイプの活動は続きました。1994年の映像インスタレーション《LOVERS》も、身体が互いに触れ合おうとする姿を通じて親密さと距離を扱っています。日本で生まれた表現が国際的な舞台で危機に応えた重要な事例です。(参照:NTTインターコミュニケーション・センター|ダムタイプ《S/N》)
表象の倫理――誰が誰を、どのように見せるのか
ニコラス・ニクソンの写真と1988年の論争
1988年、ニューヨーク近代美術館でニコラス・ニクソンの《Pictures of People》展が開かれました。その中にはエイズとともに生きる人々の写真も含まれていました。作家が病気の現実を記録することの重要性に加え、その人々がどのように見せられ、誰の視点で語られるのかが問題となり、ACT UP関係者らによる批判が起こりました。
病気の人を撮影して展示する行為には、社会の関心を集める力があります。写真が苦痛や衰弱だけを強調する場合、本人の生活や主体的な声が十分に伝わらない可能性もあります。写真が何を見せ、何を画面の外に置くかという問いは、エイズ危機の中で切実な倫理的問題になりました。展示をめぐる対立もまた、この時代の美術史の一部です。(参照:ケンブリッジ大学出版局|Mapping AIDS, Seeing Bodies with AIDS)
当事者の声を表現の中心へ戻す
リッグスの《Tongues Untied》では、黒人ゲイ男性自身の声、詩、身振りが重要な位置を占めます。病気と差別を経験する人々の言葉を他者が代弁する状況から、本人が自分の経験を表す方法へと重心が移っています。視覚表現を通じて人々の尊厳を守るには、被写体がどのような関係の中で描かれるのかを考える必要があります。
ゴールディンの写真でも、撮る人と撮られる人の間に長い交流があります。その関係は作品の見え方に影響します。当事者であれば表現が常に正しいという単純な判断にはなりません。作品がどのような距離で人に近づき、何を語り、何を受け手に委ねるのか。その具体的な方法が、美術批評の重要な争点になりました。(参照:スミソニアン国立アフリカ系アメリカ人歴史文化博物館|Marlon Riggs)
検閲、助成、公的な場での発言
1980年代末から1990年代初頭には、性的な表現をめぐる論争が美術館や公的助成へ波及しました。メイプルソープの写真やヴォイナロヴィッチの文章は、何を公の場所で見せられるのかという問題の中心に置かれました。作品が人々を不快にさせる可能性と、社会的に不人気な立場の人が発言する権利が衝突した時代でもありました。
美術館やギャラリーは、作品を展示する場所であると同時に、どの声を社会へ届けるかを決める制度でもあります。批判や抗議が起きたとき、公開を維持するか、変更するか、説明するかという判断は、作品のその後の歴史に大きく影響します。表現内容をめぐる争いと、表現の場を守るための活動を一緒に記録する必要があります。(参照:ホイットニー美術館|An Incomplete History of Protest)
1996年とその後――治療、記憶、美術史
1996年、治療環境に起きた大きな変化
1996年、米国では複数の抗レトロウイルス薬を組み合わせる治療の普及によって、エイズ患者の死亡数が減少へ転じました。CDCの同時期の報告は、その変化を示しています。1980年代に診断され、友人たちの死を繰り返し経験してきた人々にとって、治療の進展は将来への見通しを大きく変える出来事でした。
その変化は、すべての人へ同じ速さで届いたわけではありません。費用や地域、医療制度による格差は続き、世界各地で多くの人々がHIV/AIDSとともに生きていました。この記事で1996年を区切りにするのは、危機が解決したことを示すためではなく、米国での治療と生存をめぐる状況が一つの大きな転換を迎えたことを捉えるためです。(参照:米国疾病予防管理センター|Trends in AIDS Incidence, Deaths, and Prevalence, 1996)
保存されるポスターと、続く支援活動
エイズ危機のさなかに作られたポスターやリボン、写真、ビデオ、展示記録は、現在も美術館や当事者団体によって収集・研究されています。Visual AIDSの《Day Without Art》は後に《Day With(out) Art》へ展開し、映像の上映や作家との協働を続けています。過去を追悼する行動が、現在の病や差別と向き合う活動へつながっています。
当時の作品を美術館へ収める際には、街頭で使われた印刷物の傷み、貼り出した場所、配布の方法なども意味を持ちます。作品の現物だけを保存すると、どのような目的で、誰へ、どのように届けられたのかという重要な情報が失われかねません。資料の保存は、作品が社会で果たした役割を次の世代へ伝える営みでもあります。(参照:Visual AIDS|Absence/Presence: 30 Years of Day Without Art)
亡くなった作家の作品を、現在どう読むか
ピーター・ヒュージャー、ロバート・メイプルソープ、キース・ヘリング、デイヴィッド・ヴォイナロヴィッチ、ダレル・エリス、ヒュー・スティアーズ、フェリックス・ゴンザレス=トレスらの作品は、現在も新しい展覧会や研究によって紹介されています。近年では、生前の評価が限られていた作家にも改めて光が当たり、その制作を詳しく見る機会が増えています。
彼らがエイズ危機の中で亡くなった事実は、作品を考えるための重要な歴史です。同時に、一人ひとりの造形上の発明や関心を丁寧に読み取ることも大切です。エイズ危機の美術史は、失われた人々の名を刻み、表現の豊かさを伝え、残された作品が新たな人々との関係を作っていく過程を含んでいます。(参照:Visual AIDS|Darrel Ellis作品集)
略年表
医学、公衆衛生、活動家の行動、作家の活動を併記しました。医療上の出来事は主に米国の状況を示しています。
- 1981|6月5日、CDCが後にエイズと呼ばれる病気に関する初期の症例を報告。
- 1982|米国で「AIDS」という名称が使われ始め、研究と社会的な議論が広がる。
- 1983|原因となるウイルスに関する研究が進み、感染経路の理解が深まる。
- 1985|米国でHIV抗体検査が導入され、検査と差別をめぐる問題も顕在化。
- 1987|3月、ニューヨークでACT UPが結成。
- 1987|《SILENCE = DEATH》のポスターが広まり、ACT UPが採用。
- 1987|10月11日、1,920枚の《AIDS Memorial Quilt》がワシントンD.C.に展示。
- 1987|11月、ニューミュージアムで《Let the Record Show…》が始まる。
- 1987|写真家ピーター・ヒュージャーがエイズで死去。
- 1988|グラン・フューリーが形成され、Visual AIDSが設立。
- 1988|ACT UPが米国食品医薬品局(FDA)で抗議行動を実施。
- 1988|ニコラス・ニクソンの写真展をめぐり、エイズの表象について議論。
- 1989|3月、ロバート・メイプルソープが42歳で死去。
- 1989|グラン・フューリー《Kissing Doesn’t Kill》が公共交通などへ掲示。
- 1989|11月、ナン・ゴールディン企画《Witnesses: Against Our Vanishing》開幕。
- 1989|12月1日、初の《Day Without Art》。800を超える施設が参加。
- 1990|2月、キース・ヘリングが31歳で死去。
- 1990|ヴェネツィア・ビエンナーレにグラン・フューリーが参加し論争。
- 1990|ヴォイナロヴィッチ《Untitled (One Day This Kid…)》制作。
- 1991|Visual AIDS Artists Caucusがレッドリボンを考案。
- 1991|ゴンザレス=トレス《Untitled (Perfect Lovers)》《Untitled (Placebo)》制作。
- 1992|ゴンザレス=トレスの空のベッドの写真がMoMAと街頭広告看板に展示。
- 1992|ヴォイナロヴィッチとダレル・エリスが死去。
- 1993|デレク・ジャーマン《Blue》が公開。
- 1994|マーロン・リッグス、デレク・ジャーマン、ジェネラル・アイディアの二人が死去。
- 1994|ダムタイプ《S/N》が初演される。
- 1995|ヒュー・スティアーズと古橋悌二が死去。グラン・フューリーが活動を終了。
- 1996|ゴンザレス=トレスが死去。米国で多剤併用治療の普及と死亡数減少が始まる。
まとめ
1987年のACT UPの結成から1996年の治療環境の変化まで、美術界では異なる二つの歴史が同時に進みました。一つは、患者や友人たちがポスター、展覧会、街頭広告、記念碑を使って社会の理解と制度の変化を求めた歴史です。もう一つは、写真、彫刻、絵画、映像を制作していた多くの作家が亡くなり、残された作品と記憶を引き継ぐ努力が続いた歴史です。二つは深く結びつきながら、それぞれ独自の問題を含んでいます。
《SILENCE = DEATH》のような強い言葉、《AIDS Memorial Quilt》に縫い込まれた個人の名前、ゴンザレス=トレスの空のベッド、リッグスの映像は、社会に届くための方法が異なります。いずれも、感染症の危機の中で人々がどのように生き、誰の言葉を記録し、何を変えようとしたかを伝えています。美術館の展示だけでなく、街路、家族の手仕事、テレビ、行政への抗議を含む視野で見ることによって、この時代の美術の意味が明らかになります。
亡くなった作家を死因だけで記憶せず、彼らの作品に固有の歴史を読み取ることも重要です。ヒュージャーの肖像、バートンの公共彫刻、エリスの家族写真の変形、スティアーズの具象絵画には、同時代の危機とともに、一人ひとりが長く追究した表現の問題が刻まれています。エイズ危機を美術史に残すことは、失われた命を悼み、その人々の創造の仕事を未来へ伝えることでもあります。
参考資料・出典
本記事は米国疾病予防管理センター、美術館、作家財団、Visual AIDS、National AIDS Memorial、展覧会アーカイブなどの一次資料・研究資料に基づいて構成しています。作家の死因には公開資料で確認できた範囲を記し、作品の解釈は各所蔵機関の解説と制作当時の状況を区別して記述しました。対象の中心は米国の1987~1996年ですが、重要な英国・カナダの動向も収録しています。
- 米国疾病予防管理センター|First Report of AIDS
- 米国疾病予防管理センター|The HIV/AIDS Epidemic: The First 10 Years
- ニューヨーク近代美術館|AIDS activism
- 米国食品医薬品局|A History of the FDA
- メトロポリタン美術館|Queer Activist Art: ACT UP and Gran Fury
- スミソニアン国立アメリカ歴史博物館|SILENCE=DEATH
- ニューミュージアム|Let the Record Show…, 1987–88
- ニューミュージアム|William Olanderと美術館の窓
- ニューミュージアム|Window Series
- ヴェネツィア・ビエンナーレ|1990年の展覧会史
- National AIDS Memorial|AIDS Memorial Quiltの歴史
- Visual AIDS|Peter Hujar
- ロバート・メイプルソープ財団|美術館収蔵とアーカイブ
- Visual AIDS|1989—What We Lost
- ホイットニー美術館|Paul Thek: Diver, A Retrospective
- Visual AIDS|Scott Burton
- Visual AIDS|Darrel Ellis
- ホイットニー美術館|Keith Haring
- Visual AIDS|Patrick Angus
- Visual AIDS|ツェン・クォン・チー
- Artists Space|Witnesses: Against Our Vanishing
- ニューヨーク近代美術館|Nan Goldin
- Artists Space|Witnesses助成問題に関する当時の声明
- Visual AIDS|設立の歴史
- Visual AIDS|Day Without Art
- ニューミュージアム|Day Without Art
- Visual AIDS|The Red Ribbon Project
- ホイットニー美術館|David Wojnarowicz: History Keeps Me Awake at Night
- ホイットニー美術館|Untitled (One Day This Kid…), 1990
- ニューヨーク近代美術館|Felix Gonzalez-Torres
- ニューヨーク近代美術館|Projects 34: Felix Gonzalez-Torres, 1992
- ホイットニー美術館|Robert Gober, Untitled, 1991
- Visual AIDS|Hugh Steers
- スミソニアン国立アフリカ系アメリカ人歴史文化博物館|Marlon Riggs
- ニューヨーク近代美術館|General Idea, Magi© Bullet, 1992
- テート・アーカイブ|Derek Jarman, Blue
- NTTインターコミュニケーション・センター|ダムタイプ《S/N》
- ケンブリッジ大学出版局|Mapping AIDS, Seeing Bodies with AIDS
- ホイットニー美術館|An Incomplete History of Protest
- 米国疾病予防管理センター|Trends in AIDS Incidence, Deaths, and Prevalence, 1996
- Visual AIDS|Absence/Presence: 30 Years of Day Without Art
- Visual AIDS|Darrel Ellis作品集
- Visual AIDS|Day Without Art, 1989
- ニューミュージアム|ACT UP (Gran Fury) SILENCE=DEATH
- ロバート・メイプルソープ財団|設立と使命
- ホイットニー美術館|Ignorance = Fear / Silence = Death
- Visual AIDS|Hugh Steers: The Complete Paintings
- ニューヨーク近代美術館|General Idea, AIDS, 医学誌表紙, 1992
- ニューヨーク近代美術館|General Idea, AIDS (Stamps), 1988
- ニューヨーク近代美術館|Private Space on the Public Street
- Visual AIDS|How to Have Art (Events) in an Epidemic, 1992
- NTTインターコミュニケーション・センター|古橋悌二
- ニューヨーク近代美術館|古橋悌二《LOVERS》、1995年
- ICAボストン|ニコラス・ニクソン《People with AIDS》
資料確認日:2026年10月15日 / ART LIBRARY