1911–1914
サロン・キュビスム
キュビスムが公開運動になる
キュビスムの歴史には、同じ時期に二つの流れがありました。
一つは、ピカソとブラックが画商ダニエル=アンリ・カーンワイラーの支援のもと、互いのアトリエを行き来しながら進めた密接な共同研究です。
もう一つは、サロン・デ・ザンデパンダンやサロン・ドートンヌなど、公の展覧会を舞台に活動した画家たちです。
ジャン・メッツァンジェ、アルベール・グレーズ、アンリ・ル・フォーコニエ、フェルナン・レジェ、ロベール・ドローネー、フランシス・ピカビア、ジャック・ヴィヨン、レイモン・デュシャン=ヴィヨン、マルセル・デュシャンら。
現在、彼らはしばしば「サロン・キュビスト」あるいは「ピュトー・グループ」と呼ばれます。
彼らはピカソとブラックの方法を単純に模倣したわけではありません。
より大きな画面、より明るい色彩、人物や都市といった明確な主題、動きや時間、数学、科学、現代生活への関心。
キュビスムをそれぞれ別の方向へ展開しました。
1911年から1914年にかけて、キュビスムは二人の画家による集中的な実験から、多くの作家が参加する公開された美術運動へ変わっていきます。
CONTENTS
- 二つのキュビスム — 画廊とサロン
- 1911年サロン・デ・ザンデパンダン — キュビスムが公になる
- 第41室 — 「キュビスム」として見られる
- ピカソ/ブラックとの違い
- ピュトー・グループ — 絵画を理論的に考える
- メッツァンジェとグレーズ — キュビスムを言葉にする
- 1912年『キュビスムについて』
- レジェ — 人体を量塊とリズムへ
- ドローネー — 都市、光、色彩へ
- 《窓》— キュビスムから色彩による抽象へ
- デュシャン — キュビスムに「動き」を持ち込む
- 《階段を降りる裸体 No.2》とキュビストたちとの亀裂
- 1912年セクション・ドール展
- メゾン・キュビスト — 絵画から生活空間へ
- 一つのキュビスムから複数の方向へ
- 1913年アーモリー・ショー — キュビスムが大西洋を渡る
- 1914年 — 拡大と断絶
- サロン・キュビスムは何を変えたのか
- 次の時代へ — キュビスムから未来派、抽象、機械の時代へ
- 参考資料・出典
二つのキュビスム — 画廊とサロン
1910年代初頭、ピカソとブラックはパリの大規模な公募展から距離を取っていました。
二人の作品は主としてカーンワイラーの画廊を通じて紹介され、限られたコレクターや批評家、作家、美術家の間で見られていました。
一方、別の画家たちはサロンへ出品します。
彼らの作品を通して、一般の観客が「キュビスム」というものをまとまった形で初めて目にするようになりました。
Metropolitan Museum of Artは、レジェを論じる中で、サロン・キュビストたちの作品を、ピカソとブラックに比べて、より色彩が豊かで、読み取りやすく、公共の場へ向けられたキュビスムとして説明しています。
これは単なる発表場所の違いではありません。
作品の性格にも影響しました。
ピカソとブラックが比較的小さな静物や人物を使い、非常に密度の高い造形実験を進める一方、サロンの画家たちは大画面、群像、都市、結婚式、風景、運動など、観衆に直接働きかける主題を扱いました。
キュビスムが「秘密の研究」から「公の論争」へ変わる。
その大きな転換が1911年に起こります。
1911年サロン・デ・ザンデパンダン — キュビスムが公になる
1911年春、サロン・デ・ザンデパンダンで、キュビスム系の画家たちがまとまって作品を展示しました。
Centre Pompidouの資料では、この展示をキュビスムの最初の大規模な公開展示として位置づけています。
アルベール・グレーズ。
ジャン・メッツァンジェ。
アンリ・ル・フォーコニエ。
ロベール・ドローネー。
フェルナン・レジェ。
フランシス・ピカビア。
ジャック・ヴィヨンやレイモン・デュシャン=ヴィヨンら。
彼らの作品が近い場所に並べられたことで、観客は個々の画家ではなく、「キュビスム」という一つの現象として作品を見ることになりました。
ピカソとブラックは参加していません。
そのため、多くの一般観客にとって、最初に公の場で出会ったキュビスムは、ピカソとブラックの作品ではなく、サロン・キュビストたちの作品でした。
第41室 — 「キュビスム」として見られる
1911年のサロン・デ・ザンデパンダンでは、キュビスム系作品が第41室に集められました。
この展示は大きな論争を呼びます。
それ以前にも個々の画家が幾何学的な形を使う作品を発表していましたが、一室にまとまったことで、それは「個人の奇妙な実験」ではなく「運動」に見えました。
Centre Pompidouの研究資料は、1911年の第41室にアレクサンダー・アルキペンコ、ドローネー、グレーズ、ル・フォーコニエ、レジェ、メッツァンジェ、ピカビアなどの作品が集められ、彼らがピカソとブラック不在の中でキュビスムの代表者として認識されたとしています。
このとき美術史上重要な変化が起きています。
作品が似ているから運動になるのではありません。
同じ展示空間に置かれ、批評家が同じ名称で論じ、観客が一つの現象として受け取ることで、「キュビスム」というカテゴリーそのものが社会的に形成されていきます。
展覧会が、美術運動を作る。
これは20世紀美術を考えるうえで非常に重要な構造です。
ピカソ/ブラックとの違い
サロン・キュビストとピカソ/ブラックの違いを、単純な「本流と亜流」として考える必要はありません。
彼らは共通する問題を持ちながら、異なる方向へ進んでいました。
ピカソとブラックは1910–12年頃、色を茶、灰色、黄土色などに抑え、静物や人物を細かな面へ分解しました。
一方、サロン・キュビストには色彩を積極的に残す画家が多くいました。
作品サイズも大きく、主題も比較的読み取りやすい。
レジェは人体を円筒状の量塊として扱います。
ドローネーはエッフェル塔や都市、光、色彩へ進みます。
デュシャンは身体の運動や時間を問題にします。
グレーズとメッツァンジェは、キュビスムを理論として説明しようとします。
この多様性こそが、キュビスムが一つの技法ではなかったことを示しています。
ピュトー・グループ — 絵画を理論的に考える
1911年頃、パリ西郊ピュトーにあるジャック・ヴィヨンとレイモン・デュシャン=ヴィヨン兄弟の家には、画家、彫刻家、詩人、批評家が集まるようになりました。
参加者は固定されていませんが、メッツァンジェ、グレーズ、レジェ、ドローネー、フランシス・ピカビア、フランティシェク・クプカ、ロジェ・ド・ラ・フレネー、マルセル・デュシャンらがこの周辺で交流しました。
Centre Pompidouは、彼らがアンリ・ベルクソンの時間論、新しい数学、幾何学、四次元、科学、写真による運動分析など、同時代の知的問題について議論していたと説明しています。
ここでキュビスムは、目に見えるものを幾何学的に描く技法だけではありません。
時間とは何か。
空間とは何か。
人間は世界をどのように認識するのか。
近代科学によって変わりつつある世界を、絵画はどう扱えるのか。
こうした問いがキュビスムの周囲へ集まりました。
ただし、すべての作家が同じ理論を信じていたわけではありません。
むしろピュトーは、異なる考え方を持つ作家が議論する場でした。
メッツァンジェとグレーズ — キュビスムを言葉にする
サロン・キュビスムにおいて特に重要なのが、ジャン・メッツァンジェ(Jean Metzinger, 1883–1956)とアルベール・グレーズ(Albert Gleizes, 1881–1953)です。
二人は画家であると同時に、キュビスムを文章によって説明しようとしました。
メッツァンジェは1910年の文章ですでに、ピカソ、ブラック、ドローネー、ル・フォーコニエらの作品を論じ、一つの固定された視点に依存しない絵画について考察しています。
グレーズは大画面の人物群像や風景を制作し、キュビスムを個人の実験ではなく、より広い美術の転換として捉えていました。
二人にとって、キュビスムは単なる「物を立方体にする方法」ではありません。
一つの瞬間、一つの場所から見た外観だけで世界を表すのではなく、対象についての複数の経験を絵画へ統合できるのではないか。
この問題を、彼らは理論として整理し始めます。
1912年『キュビスムについて』
1912年、メッツァンジェとグレーズは『Du “Cubisme”(キュビスムについて)』を出版しました。
Metropolitan Museum of Artは、この本をキュビスムについて書かれた最初の主要な理論書と位置づけています。
これは重要な出来事でした。
それまで「キュビスム」は、批評家が作品の外見を見て使っていた言葉でした。
しかしここで、実際に制作している画家自身が、自分たちの方法を歴史、美学、認識の問題として説明します。
キュビスムは「奇妙な絵」という話題から、理論を持つ前衛運動へ変わります。
もちろん、この本がピカソやブラックの考えをそのまま代表しているわけではありません。
ピカソとブラックは自分たちの制作を理論書によって体系化しようとはしませんでした。
したがって『Du “Cubisme”』は、キュビスム全体の公式マニフェストではなく、サロン・キュビスト側からの重要な解釈と考える方が正確です。
レジェ — 人体を量塊とリズムへ
フェルナン・レジェ(Fernand Léger, 1881–1955)は、サロン・キュビスムの中でも独自の方向へ進みました。
1907年のセザンヌ回顧展を見た後、レジェは三次元の形を、伝統的な遠近法や明暗法に頼らず画面へ構築する問題へ向かいます。
1910年のサロン・ドートンヌで《森の裸婦》を発表し、1911年のサロン・デ・ザンデパンダンではサロン・キュビストたちとともに作品を展示しました。
Metropolitan Museum of Artによれば、レジェは人物や背景を幾何学的な面へ分けながら、ピカソとブラックより強い色彩と明確な量感を残しました。
人物の腕や脚は円筒のような形になる。
身体と背景が断片化される。
しかし画面には重量感とリズムがあります。
1911–12年の《結婚式》では、結婚式の一団が巨大な画面の中で形の集合へ変わります。
Centre Pompidouは、この作品をキュビスムの急進的な解釈を示すマニフェスト的な作品としています。
レジェはその後、機械、都市、労働、現代生活へ関心を広げていきます。
ドローネー — 都市、光、色彩へ
ロベール・ドローネー(Robert Delaunay, 1885–1941)も、サロン・キュビスムから別の方向を開きました。
初期のエッフェル塔連作では、塔と周囲の建物が複数の視点から分解されます。
Guggenheim Museumは、《木々のあるエッフェル塔》について、塔が複数の視点から同時に示され、眼が時間と空間の中を動く感覚が表現されていると説明しています。
しかしドローネーは、ピカソとブラックのように色彩を抑える方向へは進みませんでした。
むしろ光と色への関心を強めていきます。
エッフェル塔は、単に分解するためのモチーフではありません。
鉄、通信、都市、速度という20世紀の現代性を象徴する対象でもありました。
ドローネーのキュビスムは、物体の分析から、都市と光の経験へ広がっていきます。
《窓》— キュビスムから色彩による抽象へ
1912年、ドローネーは《同時的な窓》の連作を制作します。
画面には、まだエッフェル塔など現実の形を示す断片が残っています。
しかし対象は次第に色彩の面へ溶けていきます。
赤、緑、青、黄、オレンジなどの色面が重なり、互いの対比によって光が生まれる。
Guggenheim Museumは、この連作をドローネー自身が「構築的」な段階と呼び、補色を重ねることで調和を作った作品群として説明しています。
ここにはスーラ以来の色彩理論も再び現れています。
しかし新印象派のように小さな点を並べるのではありません。
大きな透明な色面そのものが画面を構成します。
詩人ギヨーム・アポリネールは、ドローネーらの色彩を中心とする方向を後に「オルフィスム」と呼びました。
キュビスムから出発しながら、ドローネーは具象と抽象の境界へ急速に近づいていきます。
デュシャン — キュビスムに「動き」を持ち込む
マルセル・デュシャン(Marcel Duchamp, 1887–1968)は、1911年末頃から兄ジャック・ヴィヨン、レイモン・デュシャン=ヴィヨンらのピュトー・グループへ参加しました。
しかし、デュシャンの関心は他のキュビストとは少し違っていました。
彼が考えていたのは、固定された物体だけではありません。
身体の運動。
時間の経過。
連続する動きを一枚の画面へどう入れるか。
Centre Pompidouは、デュシャンがエティエンヌ=ジュール・マレーのクロノフォトグラフィーによる運動分析や、同時代の時間・空間論などから刺激を受けたと説明しています。
キュビスムが一つの対象を複数の面へ分解したなら、デュシャンは一つの身体の複数の時間を重ねようとしました。
ここから、キュビスムと未来派の間にあるような独特の作品が生まれます。
《階段を降りる裸体 No.2》とキュビストたちとの亀裂
1912年、デュシャンは《階段を降りる裸体 No.2》を制作しました。
人体は褐色の幾何学的な形へ分解され、同じ身体が階段を降りる連続した動作が重ねられています。
Philadelphia Museum of Artは、この作品について、伝統的な裸体の美や肉体性を取り除き、人間の身体が空間の中で動く状態を表そうとした作品と説明しています。
デュシャンはこの作品を1912年のサロン・デ・ザンデパンダンへ出品しようとしました。
しかし展示委員を務めていたグレーズやメッツァンジェらキュビストは、作品に難色を示しました。
兄たちを通じて題名を変更するよう求められたデュシャンは、作品を引き上げます。
何が問題だったのでしょうか。
裸体が階段を降りるという奇妙な主題。
画面に題名そのものが文字として書き込まれていること。
そして、キュビスムが静的な対象を再構成することを重視していたのに対して、デュシャンが運動を中心に置いたこと。
Philadelphia Museum of Artは、この出来事がデュシャンとキュビストたちとの距離を広げる契機になったとしています。
同じキュビスムの内部に、すでにその枠組みを越えようとする動きが生まれていました。
1912年セクション・ドール展
1912年10月、パリのGalerie La Boétieで「セクション・ドール(Section d’Or/黄金分割)」展が開催されました。
これはサロン・キュビスムの一つの頂点です。
Centre Pompidouによれば、展覧会にはジャック・ヴィヨン、レイモン・デュシャン=ヴィヨン、マルセル・デュシャン、グレーズ、メッツァンジェ、レジェ、ピカビア、クプカ、フアン・グリス、ロジェ・ド・ラ・フレネーなど、多数の画家・彫刻家が参加しました。
「黄金分割」という名称は、数学的比率や古典的調和への関心を示しています。
しかし参加作品がすべて黄金比によって厳密に設計されたわけではありません。
むしろこの名称には、新しい美術を単なる破壊ではなく、秩序や伝統と結びつけて考えようとする態度がありました。
この展覧会には、《階段を降りる裸体 No.2》も出品されます。
数か月前には仲間のキュビストから拒まれた作品が、より幅広いキュビスムの展覧会の中へ戻ってきました。
同時に、クプカ、ピカビア、ドローネーらの作品は、すでに従来のキュビスムから抽象や運動へ大きく離れ始めていました。
「キュビスム」という名称の内部が、急速に広がっていたことが分かります。
メゾン・キュビスト — 絵画から生活空間へ
1912年のサロン・ドートンヌでは、「メゾン・キュビスト(Maison Cubiste)」と呼ばれる大規模な装飾展示も行われました。
彫刻家レイモン・デュシャン=ヴィヨンがファサードを設計し、装飾家アンドレ・マレが室内を構成しました。
Metropolitan Museum of Artの資料によれば、内部にはマレの家具や装飾品とともに、グレーズ、レジェ、メッツァンジェ、ラ・フレネー、マルセル・デュシャンらの作品が展示されました。
これは興味深い試みです。
キュビスムは、伝統的な室内生活を完全に破壊する異物としてではなく、家具や壁紙、鏡、陶器などのある生活空間の中へ置かれました。
前の記事で見たナビ派が「芸術を生活環境へ広げる」問題に取り組んだように、ここでも前衛絵画と装飾・デザインの関係が問われています。
ただし、キュビスムの絵画そのものが家具のようなデザインへ溶けたわけではありません。
むしろ伝統的で洗練された室内と、幾何学的に分解された絵画との対比によって、「前衛美術を現代生活の中でどう展示するか」という問題が可視化されました。
一つのキュビスムから複数の方向へ
1912年頃まで来ると、「キュビスム」という一語では説明しきれないほど、作家たちの方向は分かれています。
グレーズとメッツァンジェは、複数の視点と画面構成を理論化します。
レジェは、人体や都市を量塊、リズム、後には機械的な形へ変えます。
ドローネーは、都市の光と色から抽象へ接近します。
デュシャンは運動や時間を導入し、やがて絵画そのものから離れます。
ピカビアは機械や抽象へ進みます。
クプカは色彩と形による非具象へ進みます。
フアン・グリスは、キュビスムの構成をより明晰な秩序へ整理します。
同じ展覧会に参加していたからといって、同じ答えを出したわけではありません。
むしろ重要なのは、キュビスムが共通の「様式」から、異なる問いを生み出すプラットフォームになったことです。
1913年アーモリー・ショー — キュビスムが大西洋を渡る
1913年2月、ニューヨークで国際現代美術展、通称「アーモリー・ショー」が開幕しました。
ヨーロッパの近代美術が大規模にアメリカの観客へ紹介された展覧会です。
そこにはセザンヌ、マティス、ピカソ、ブラック、ドローネー、レジェ、ピカビア、デュシャンらの作品が含まれていました。
特に大きな話題となったのが、《階段を降りる裸体 No.2》でした。
Philadelphia Museum of Artは、この作品がアーモリー・ショーで激しい反応を引き起こし、デュシャンをアメリカで一躍有名にしたとしています。
観客にとって、何が描かれているかすぐには理解できない。
しかし題名だけは明確に「階段を降りる裸体」と書かれている。
そのギャップ自体が話題になりました。
ここでキュビスムは、フランス国内の前衛美術の問題ではなくなります。
アメリカの新聞、批評、コレクター、美術家が議論する国際的な現象になりました。
1910年代初頭、展覧会と印刷物によって前衛美術の情報が国境を越えて流通する速度は急速に高まっていました。
1914年 — 拡大と断絶
1914年までに、キュビスムの影響はフランス国外へ広がっていました。
イタリアでは未来派が、キュビスムの形態分解を運動と速度の表現へ結びつけます。
ロシアでは、キュビスムと未来派を組み合わせた「キューボ・フューチュリズム」と呼ばれる動きが現れます。
ドローネーの色彩研究はドイツの画家たちにも影響を与えます。
さらにキュビスムの平面性、断片化、コラージュは、その後の構成主義、ダダ、抽象美術にも異なる形で受け継がれます。
しかし1914年8月、第一次世界大戦が始まります。
多くのフランス人画家が軍へ動員され、国際的な芸術家のネットワークは大きく分断されました。
ブラック、レジェ、メッツァンジェ、グレーズ、ヴィヨン兄弟など、それぞれの生活と制作環境が戦争によって変化します。
キュビスムは戦後も続きます。
しかし1911–14年のサロンを中心にした、短期間で急速に拡大した前衛美術の環境には大きな断絶が入りました。
サロン・キュビスムは何を変えたのか
サロン・キュビスムの重要性は、ピカソとブラックの方法を一般化したことだけではありません。
キュビスムを公の運動にしたこと。
1911年のサロン・デ・ザンデパンダン以降、一般観客、新聞、批評家が「キュビスム」を共通の問題として議論するようになります。
キュビスムを理論化したこと。
メッツァンジェとグレーズの『Du “Cubisme”』によって、作品の方法が言葉として説明されました。
キュビスムを多方向へ展開したこと。
レジェの量感、ドローネーの色彩、デュシャンの運動など、同じ出発点から異なる問題が生まれました。
展覧会という制度の力を示したこと。
第41室、セクション・ドール、メゾン・キュビスト、アーモリー・ショー。
作品だけでなく、「どこで、誰と、どのように見せるか」が、美術運動の意味を作ります。
キュビスムを国際化したこと。
パリで始まった造形の問題が、ヨーロッパ各地、そしてアメリカへ広がりました。
ここから20世紀美術は、「パリで一つの運動が生まれ、そのまま次へ進む」という単純な歴史ではなくなっていきます。
異なる都市、異なる作家、異なる思想が、同じ造形言語を別々に読み替える時代へ入ります。
次の時代へ — キュビスムから未来派、抽象、機械の時代へ
1912年頃、キュビスムの内部ですでに複数の次の方向が見え始めていました。
ドローネーは、色彩の関係そのものによる抽象へ近づいています。
クプカも具象的な対象から離れ、色と形による非具象作品へ進みます。
デュシャンは運動の問題から、やがて絵画そのものを疑う方向へ向かいます。
レジェは機械と都市の視覚へ進みます。
そしてイタリアでは、未来派の画家たちが、速度、機械、都市、運動という別の問題とキュビスムの造形を結びつけていました。
ここから美術史は、一本の線ではなく複数に分岐します。
次の記事では年代を少し重ね、1909–1916|未来派 — 速度、都市、機械、運動を扱います。
キュビスムが空間を組み替えたとき、未来派はそこへ「時間」と「速度」を持ち込もうとしました。
参考資料・出典
本ページは、美術館・研究機関が公開する作品、作家、展覧会資料を参照してART LIBRARYが独自に構成・執筆しています。原文の全文翻訳ではありません。
- Centre Pompidou — Le Cubisme, repenser le monde
- Centre Pompidou — Cubism
- The Metropolitan Museum of Art — Fernand Léger (1881–1955)
- The Metropolitan Museum of Art — Cube Your Enthusiasm: Early Cubist Source Material
- Centre Pompidou — Fernand Léger, La Noce
- Solomon R. Guggenheim Museum — Robert Delaunay, Eiffel Tower with Trees
- Solomon R. Guggenheim Museum — Robert Delaunay, Simultaneous Windows
- Centre Pompidou — Marcel Duchamp. La peinture, même
- Philadelphia Museum of Art — Marcel Duchamp, Nude Descending a Staircase (No. 2)
- Centre Pompidou — Le Salon de la Section d’Or, octobre 1912
- The Metropolitan Museum of Art — Maison Cubiste / André and Nicole Groult
資料確認日:2026年10月1日 / ART LIBRARY