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Art History

1977–1985

Neo-Expressionism

絵画、人物、歴史、巨大画面

1970年代末から1980年代前半、美術館やギャラリーで巨大な絵画が再び強い存在感を持つようになります。人物、動物、神話、歴史、都市、戦争、個人的な記憶。荒々しい筆触、強い色彩、厚い絵具、大きな画面。こうした傾向はアメリカではNeo-Expressionism、西ドイツではNeue Wildeや「激しい絵画」、イタリアではTransavanguardiaなど、異なる名称で語られました。しかし、それらは一つの国際運動として同じ理念を共有していたわけではありません。

「絵画の復活」という言い方も注意が必要です。1960–70年代に絵画が実際になくなっていたわけではありません。Georg Baselitzは1960年代から人物画を続け、Philip Gustonは1970年に抽象から具象へ大きく転換し、Susan Rothenbergは1970年代半ばから馬の像によって抽象と具象を接続していました。Gerhard RichterやSigmar Polkeも絵画を継続しています。1980年代に起きたのは「死んでいた絵画が突然蘇った」というより、Conceptual Art、Minimalism、Performance、写真、映像が広がった後の美術界で、絵画が巨大な画面、人物像、物語、歴史的引用を伴って再び国際的な注目を集めたことでした。

しかも、その絵画はAbstract Expressionismへ単純に戻ったものでもありません。Anselm Kieferはドイツ史と神話を扱い、Julian Schnabelは割れた陶器を画面へ埋め込み、David Salleは写真や雑誌から異なるイメージを重ね、Jean-Michel Basquiatは文字、解剖図、黒人史、美術史、街の記号を同じ画面で衝突させました。筆触は再び目立つようになりますが、その筆触は「純粋な内面の直接表現」としてだけでは読めません。すでにPop Art、Conceptual Art、Pictures Generationを経験した後の絵画として、引用、歴史、メディア、自己演出、市場まで含んだ複雑なものになっていました。

CONTENTS

  1. Neo-Expressionismとは何を指すのか
  2. 一つの国際様式ではない
  3. 「絵画の復活」という物語を疑う
  4. 1970年 Philip Gustonという重要な前史
  5. 1969年 Baselitz — 人物を逆さにする
  6. 逆さまは表現を強くするためではなかった
  7. 1974–79年 Susan Rothenberg — 馬が画面へ戻る
  8. 具象でありながら平面性を保つ
  9. 1977年 西ベルリン — Galerie am Moritzplatz
  10. Rainer Fettingとベルリンの壁
  11. 都市、音楽、夜、分断
  12. 1978年 New Museum《Bad Painting》
  13. 「Bad」は下手という意味ではない
  14. 進歩という一本線から降りる
  15. 1979年 Transavanguardiaという名称
  16. Achille Bonito Olivaと批評家の役割
  17. Chia、Clemente、Cucchi、De Maria、Paladino
  18. 一つの様式に忠実でなくてもよい
  19. 1980年 — 絵画の国際的な可視化
  20. ヴェネツィアのドイツ館 — BaselitzとKiefer
  21. ドイツの過去を絵画へ戻す
  22. Kiefer — 神話、戦争、記憶
  23. 藁、鉛、木版、写真まで絵画へ入る
  24. Baselitz《Modell für eine Skulptur》
  25. 歴史的イメージを使う危険
  26. 《Aperto 80》— 若い作家と絵画
  27. Transavanguardiaが国際舞台へ出る
  28. Schnabelも同じ場に現れる
  29. 1980年「Neue Wilde」という名称
  30. 古い世代と若い世代を混同しない
  31. ベルリンの「Heftige Malerei」
  32. 1980年 Mülheimer Freiheit
  33. 意図的な「下手さ」
  34. 1981年《A New Spirit in Painting》
  35. 若手だけの展覧会ではなかった
  36. 「新しい運動」より「絵画をめぐる気候」
  37. Julian Schnabel — 割れた皿の上に描く
  38. Plate Paintings
  39. 1981年《Bones and Trumpets…》
  40. 絵画の表面が物体になる
  41. 1981年《New York/New Wave》
  42. Basquiatが美術界に認識される
  43. 「graffiti artist」だけでは説明できない
  44. 文字を描く/消す
  45. 1983年《Hollywood Africans》
  46. 黒人表象と美術史
  47. BasquiatをNeo-Expressionismだけで囲わない
  48. David Salle — Pictures Generationと絵画の交差
  49. 写真の断片を絵画へ移す
  50. Pictures Generationの「次」ではない
  51. 1982年 — 《Zeitgeist》
  52. Berlinで国際的な絵画が並ぶ
  53. Documenta 7と国際的な可視性
  54. ギャラリーと市場の急拡大
  55. 若い作家が急速に有名になる
  56. 巨大画面と「男性的な絵画」という批判
  57. 同時代の女性画家を消さない
  58. 本当に「Expressionism」の再来なのか
  59. Abstract Expressionismとの違い
  60. 歴史画が別の形で戻る
  61. 引用された筆触
  62. 厚塗りだけがNeo-Expressionismではない
  63. Conceptual Art以後の絵画
  64. Postmodernismとの関係
  65. 名称が作品を単純化する危険
  66. 1977–1985年に何が変わったのか
  67. Neo-Expressionism以後
  68. 次の時代へ — East VillageとDowntown New York
  69. 参考資料・出典

Neo-Expressionismとは何を指すのか

Neo-Expressionismは、1970年代末から1980年代前半に国際的に目立つようになった、大画面の具象絵画、強い筆触、色彩、人物像、神話や歴史への関心をまとめて語るために使われた名称です。しかし、ドイツ、イタリア、アメリカの作家が一つの宣言文を共有して結成した運動ではありません。美術館や批評家が、同時期に起きた複数の絵画現象を比較するために使った広い呼称です。

GuggenheimはFrancesco Clementeの解説で、1980年前後にイタリアでTransavanguardiaと呼ばれた絵画の動きが、Baselitz、Kiefer、Schnabelらを含む国際的な絵画回帰と並行したことをNeo-Expressionismの文脈で説明しています。一方、ドイツではNeue Wilde、イタリアではTransavanguardiaという固有の名称と歴史があります。それらを同じものとして置き換えることはできません。

一つの国際様式ではない

Kieferの焦げたような風景、Baselitzの逆さの人物、Clementeの身体像、Schnabelの陶器片、Basquiatの文字と人物は、見た目も制作背景も大きく異なります。共通して見えるのは、具象、筆触、物語、絵画という媒体が再び目立ったことです。

しかし、Kieferにとってドイツの戦後史は切り離せず、Basquiatにとって黒人の歴史やニューヨークの文化は切り離せません。Transavanguardiaにはイタリア美術史、神話、個人的象徴への独自の関心があります。「Neo-Expressionistらしい激しい筆触」という見た目だけでまとめると、それぞれの作品が何を扱っていたのかが消えてしまいます。

「絵画の復活」という物語を疑う

Whitney Museumは1980年代の絵画について、写真や映像、インスタレーションが広がる一方で、多くの作家が絵画の身体性と表現力を積極的に選び直した時期と説明しています。同時に、「絵画が死んでいた」という言い方そのものは当時の批評的な雰囲気を示す修辞として考える必要があります。

1970年代にも絵画は制作され続けていました。むしろ重要なのは、美術界の中心的な議論がConceptual Art、Minimalism、Performance、映像などへ広がった後、絵画がそれらを無かったことにせず戻ってきた点です。1980年代の絵画は、すでに「絵画だけが美術の中心だった時代」を経験できません。

1970年 Philip Gustonという重要な前史

Philip Gustonは1950年代にAbstract Expressionismの画家として高く評価されていましたが、1970年のMarlborough Gallery個展で、靴、電球、煙草、時計、フードをかぶった人物などを描く漫画的な具象絵画を発表しました。Metropolitan Museumは、この転換が当時多くの批評家や同業者を驚かせた一方、その後の1970–80年代のアメリカとヨーロッパの美術へ大きな影響を与えたとしています。

Gustonの重要性は、単に抽象から人物画へ戻ったことではありません。大画面、太い筆触、絵具の物質感というNew York Schoolの経験を保ちながら、そこへ物語と具体的な物を戻したことでした。1980年代の具象絵画が突然始まったわけではないことを示す重要な前史です。

1969年 Baselitz — 人物を逆さにする

Georg Baselitzも1980年代になって初めて表現的な具象絵画を始めた画家ではありません。1969年、友人や妻を描いたportraitを上下逆転させる方法を本格的に使い始めました。Metはこの転換を、東ドイツの社会主義リアリズムと西側の抽象絵画という当時の二項対立から距離を取り、絵画そのものへ集中するための方法として説明しています。

人物ははっきり描かれているのに、逆さにすることで内容をすぐに物語として読むことが難しくなります。像は残るが、像の意味だけに鑑賞を支配させない。具象と抽象の間に独自の緊張を作りました。

逆さまは表現を強くするためではなかった

Baselitzの絵は荒い筆触を持つため「感情を直接ぶつけた絵」に見えます。しかしMetは、1969年の逆転がむしろ物語や個人的表現を弱め、絵具、構図、画面構造へ注意を戻すための戦略だったことを強調しています。

ここはNeo-Expressionismという名称の難しいところです。見た目が表現主義的だからといって、作家が「内面を直接表現すること」を目的にしているとは限りません。Baselitzでは像を逆転するという人工的な手続きが、表現と距離を同時に作っています。

1974–79年 Susan Rothenberg — 馬が画面へ戻る

Susan Rothenbergは1960年代末からPost-Minimalism的な制作を行っていましたが、1974年頃、canvasの上に単純な馬の輪郭を描き始めました。Whitneyによれば、当時の非具象的な抽象の影響を受けながらも、馬という認識可能な形を使うことで、抽象と具象の境界を探りました。

1978–79年《For the Light》では、巨大な馬が正面から鑑賞者へ迫るように描かれます。輪郭は大きく単純化され、背景と馬の表面は同じような筆触で扱われています。像が戻っても、伝統的な遠近法や写実へ戻るわけではありません。

具象でありながら平面性を保つ

Rothenberg自身は、馬を描きながら画面を平面的に保とうとしていたとWhitneyの対談で語っています。線が奥行きを作るのではなく、画面を横切ることで、馬を「物語の主人公」にしすぎないようにしました。

これは1980年代の具象回帰を理解する大切な例です。具象とModernist paintingの平面性は必ずしも敵対しません。画家たちは過去の問題を捨てるのではなく、像を戻しながら再構成しました。

1977年 西ベルリン — Galerie am Moritzplatz

1977年、西ベルリンでRainer Fetting、Helmut Middendorf、Salomé、Bernd ZimmerらがGalerie am Moritzplatzを共同で立ち上げました。Städel MuseumとBerlinische Galerieは、この自主管理の場所を後にNeue Wildeと呼ばれる若い画家たちの重要な出発点として位置づけています。

ここでも既存galleryに見つけてもらうのを待つのではなく、自分たちで展示場所を作りました。1970年代にA.I.R. GalleryやHallwallsなどが担ったalternative spaceの文化が、絵画の再浮上にも関係しています。

Rainer Fettingとベルリンの壁

Fettingの《Erstes Mauerbild》(1977)は、ベルリンの壁を強烈な人工色で描いた作品です。Städel Museumによれば、Fettingは実際に壁の近くに暮らしており、同作は1977年にGalerie am Moritzplatzで展示されました。

ここで「激しい絵画」は歴史的Expressionismの模倣だけではありません。分断された西ベルリンという具体的な都市環境が、色彩と筆触へ入っています。壁は政治的な現実であると同時に、巨大な平面として画面を横断します。

都市、音楽、夜、分断

Berlinの若い画家たちは、punkやrock、club、映画、夜の都市文化と近い環境にいました。Middendorf自身も音楽活動と実験映画を経験してからpaintingへ進んでいます。

したがってNeue Wildeの荒い筆触を「Expressionismの復活」だけで説明すると、1970年代末の都市文化との関係が消えます。彼らの人物や街は、戦前ドイツ表現主義の再演ではなく、同時代のBerlinの速度と人工性を含んでいました。

1978年 New Museum《Bad Painting》

1978年、New YorkのNew MuseumでMarcia Tuckerが《“Bad” Painting》を企画しました。14人のartistを紹介したこの展覧会は、後のNeo-Expressionismと同じ作家を集めた展覧会ではありません。しかし、正確な描写や「良い趣味」を意図的に外し、個人的で奇妙な具象絵画を肯定した点で重要な前史です。

New Museumの当時のpress releaseでは、変形された人物、high artとpopular cultureの混在、幻想的で不遜な内容を特徴として説明しています。1978年の時点で、具象と絵画が別の形で再検討されていたことが分かります。

「Bad」は下手という意味ではない

展覧会名の「Bad」は作品の質が低いという評価ではありません。Tuckerは「bad painting」という言葉を、traditional drawingやgood tasteの基準を意図的に無視する絵画へ皮肉的に使いました。

上手に描けることを隠す場合もあれば、歪みやぎこちなさを残す場合もある。重要なのは、professionalな完成度だけを絵画価値の基準にしないことです。この態度は後のNeue WildeやMülheimer Freiheitにも別の形で現れます。

進歩という一本線から降りる

New Museumの《Bad Painting》資料は、作家たちがclassical art、popular image、kitsch、個人的幻想を自由に混ぜることを、artistic progressという考えからの離脱として説明しています。

「新しい美術は古い美術より純粋でなければならない」「歴史は一方向へ進まなければならない」という前提が弱くなると、過去の様式を再使用する自由が生まれます。この点はPattern and Decorationや後のPostmodernismとも共通しています。

1979年 Transavanguardiaという名称

1979年10–11月号の『Flash Art』に、イタリアの批評家Achille Bonito Olivaが「La Trans-avanguardia italiana」を発表しました。Flash Artのarchiveは、この文章を1979年の原文として公開しています。「Transavanguardia」は、文字通りavant-gardeを「横断する/越えていく」ことを示す名称でした。

新しい一つの様式を過去の様式の後へ置くより、artistが美術史の複数の時代を自由に移動し、figuration、myth、symbol、paintingの快楽を取り戻すことが重視されました。

Achille Bonito Olivaと批評家の役割

Transavanguardiaは、自然発生した作家groupが後から命名されたケースとは少し異なります。Bonito Olivaという批評家が複数の作家をまとめ、文章、展覧会、国際的なcuratingを通して積極的にmovementとして可視化しました。

この点は、美術運動が作品だけでは成立しないことをよく示します。誰が共通点を見つけ、どの名前を付け、どの展覧会へ配置するか。その批評と制度の働き自体が美術史を作ります。

Chia、Clemente、Cucchi、De Maria、Paladino

1980年頃にTransavanguardiaの中心として定着するのはSandro Chia、Francesco Clemente、Enzo Cucchi、Nicola De Maria、Mimmo Paladinoの5人です。La Biennale di Veneziaも《Aperto 80》の歴史で、この5人をBonito Olivaが理論化したTransavanguardiaの中心として記録しています。

ただし作品は統一されていません。Clementeは身体と変容、Cucchiは土地や死を思わせる象徴、Chiaは人物と寓意、Paladinoは古代的な記号や人物像、De Mariaはより抽象的な色彩空間へ進みます。同じmovement名の中に大きな差があります。

一つの様式に忠実でなくてもよい

Transavanguardiaの重要な考えの一つは、artistが一つの歴史的方向や様式へ忠実である必要がないことでした。前衛の歴史が「新しいものが古いものを乗り越える」構図を持つなら、その進歩観自体から外れようとします。

古典的な人物、神話、Expressionism、Surrealism、地域的な伝統などを行き来し、引用してもよい。これは1980年代のPostmodernismにおける歴史様式の混在へ重要な接続を持ちます。

1980年 — 絵画の国際的な可視化

1980年は、複数地域で進んでいた絵画の変化が国際舞台で一気に見え始める年です。ヴェネツィア・ビエンナーレでは西ドイツ館にBaselitzとKieferが選ばれ、新設された《Aperto 80》ではTransavanguardiaの5人に加え、Julian Schnabel、Susan Rothenbergら若い国際作家が紹介されました。

同じ年、西ドイツでは《Les Nouveaux Fauves – Die Neuen Wilden》やBerlinの《Heftige Malerei》が開催され、CologneではMülheimer Freiheit周辺の若手画家が活動を強めます。「1980年代=絵画」というimageが、この頃急速に形成されます。

ヴェネツィアのドイツ館 — BaselitzとKiefer

1980年の第39回ヴェネツィア・ビエンナーレで、西ドイツ館のcurator Klaus GallwitzはGeorg BaselitzとAnselm Kieferを選びました。ドイツ館archiveとifaは、この展示がドイツの国家的過去をめぐって強い論争を引き起こし、その後の批評へ大きな影響を与えたと記録しています。

重要なのは、彼らの絵画が単に「大きくて荒々しい」から注目されたのではないことです。第二次世界大戦後のドイツで、国家神話、軍事的象徴、記憶をどのように扱えるのかという問題が作品に直接入っていました。

ドイツの過去を絵画へ戻す

戦後西ドイツでは、ナチズムと戦争の記憶を扱うこと自体が重い政治的意味を持ちます。KieferはGerman mythology、Wagner、森林、英雄、戦争計画など、ナチスによって利用された文化的記号もあえて絵画へ戻しました。

しかし、その引用が批判なのか、危険な再魅惑化なのかについては当時から意見が分かれました。ifaのドイツ館archiveも、彼らがfascist rhetoricを利用しているのか、それともその過去を忘却させないために用いているのかという問いが批評の中心になったことを記録しています。

Kiefer — 神話、戦争、記憶

Anselm Kieferは1970年代初頭からドイツの歴史的記憶を扱っていました。MoMAは彼の制作を、German myth and historyを通して戦後ドイツの過去を検討するものとして位置づけています。1980年《Ride to the Vistula》、1982年《To the Unknown Painter》、1983年《Der Rhein》など、歴史と土地が繰り返し現れます。

そこで描かれる風景は「美しい自然」ではありません。荒れた土地、空虚な建築、焼けたようなsurfaceが、歴史の痕跡を持つ場所として現れます。

藁、鉛、木版、写真まで絵画へ入る

Kieferの作品は油彩だけで完結しません。MoMAは、photograph、straw、tar、lead、sand、dried plants、woodcutなど非常に多様なmaterialを取り込んだことを記録しています。1984–85年《The Red Sea》にも油彩、鉛、木版、写真、shellacが使われています。

そのためKieferを「伝統的な絵画へ戻ったartist」とだけ呼ぶのは正確ではありません。Post-Minimalism以後に広がったmaterialの自由を巨大なpaintingへ持ち込み、絵画を重い物体として作りました。

Baselitz《Modell für eine Skulptur》

1980年のドイツ館中央にはBaselitzの粗く削られた木彫《Modell für eine Skulptur》(1979–80)が置かれました。ifaのarchiveは、横たわる人物の身振りがナチス式敬礼を想起させるとして論争を起こしたことを紹介しています。

Baselitzはpaintingだけでなく、木材を直接削るsculptureへも進みました。表面を滑らかに仕上げず、切削の痕跡を強く残すため、彫刻にも「荒い身振り」が現れます。

歴史的イメージを使う危険

KieferやBaselitzの作品は、過去の危険なsymbolを作品へ持ち込めば自動的に批判になるわけではないことを示します。引用は見る人を不快にし、誤解を生み、別の意味へ回収される可能性があります。

しかし、その曖昧さを避けて無害なimageだけを描けば、歴史の問題そのものが見えなくなる。1980年代ドイツ絵画では、過去のimageを再び可視化することの必要と危険が同時に存在しました。

《Aperto 80》— 若い作家と絵画

1980年のヴェネツィア・ビエンナーレではAchille Bonito OlivaとHarald Szeemannが、新しい若手部門《Aperto 80》を企画しました。La Biennaleの公式史料によれば、この企画はその後1993年まで続く若手作家部門の最初の回で、1970年代のConceptual ArtやPerformance以後の新しい動向を国際的に集めました。

ここで絵画は唯一の媒体ではありませんでしたが、若い作家の間でpaintingが再び強く現れていることがはっきり見えます。

Transavanguardiaが国際舞台へ出る

La Biennaleの記録では、《Aperto 80》にChia、Clemente、Cucchi、De Maria、Paladinoの5人が出品し、Transavanguardiaが国際的に認識される重要な機会になりました。

批評家Bonito Olivaが1979年に文章でまとめたmovementが、その翌年にはVeniceという大規模な国際展で可視化されます。批評、curating、国際展が短期間で相互に作用した例です。

Schnabelも同じ場に現れる

《Aperto 80》にはJulian Schnabelも参加しました。La Biennaleの歴史資料は、Transavanguardiaの5人とともに、Jonathan Borofsky、Tony Cragg、Susan Rothenberg、Julian Schnabelら国際作家を挙げています。

この構成から分かるように、イタリアのTransavanguardiaとアメリカの新しいpaintingは一つの運動ではありません。しかし同じ国際展の中で並べられることで、「絵画が複数地域で同時に強くなっている」という歴史像が形成されます。

1980年「Neue Wilde」という名称

Städel Museumによれば、「Junge Wilde/Neue Wilde」という名称の一つの由来は、1980年AachenのNeue Galerie – Sammlung Ludwigで開かれた《Les Nouveaux Fauves – Die Neuen Wilden》です。展覧会はFauvismと当時のneo-expressionistic paintingを比較しました。

ただし、ここで展示されたのはBaselitz、Lüpertz、Kiefer、A.R. Penck、Jörg Immendorffなど、主に1940年前後生まれの戦後世代でした。後に「Junge Wilde」と呼ばれる若い画家たちは、この展覧会には参加していませんでした。

古い世代と若い世代を混同しない

この名称のずれは重要です。BaselitzやKieferをそのままBerlinのFetting、Middendorf、SaloméやCologneのMülheimer Freiheitと同じgenerationとして扱うと、十年以上の制作史が消えてしまいます。

Baselitzは1960年代から活動し、Kieferも1970年代初頭から主要作品を制作していました。彼らが1980年代の若い画家へ影響を与えたことと、同じmovementの同世代作家であることは別です。

ベルリンの「Heftige Malerei」

1980年、BerlinのHaus am WaldseeでFetting、Middendorf、Salomé、Bernd Zimmerによる《Heftige Malerei》が開催されました。Städel MuseumのCafé Deutschland資料によれば、彼らは「wild」という言葉でExpressionismやFauvismの継承者として固定されることを避けるため、「heftig=激しい」という言葉を選びました。

つまり本人たちも歴史的Expressionismの単純な復活と見られることを警戒していました。大きなgestureがあっても、その意味は1920年代のExpressionismとは異なります。

1980年 Mülheimer Freiheit

Cologneでは1980年、Hans Peter Adamski、Peter Bömmels、Walter Dahn、Jiří Georg Dokoupil、Gerard Kever、Gerhard NaschbergerがMülheimer Freiheit 110の共同studioで制作を始めました。Städel Museumはこの6人をMülheimer Freiheitとして記録しています。

同年のGalerie Paul Maenz《Mülheimer Freiheit & Interessante Bilder aus Deutschland》には、さらにAlbert Oehlen、Werner Büttner、Georg Herold、Ina Barfussらも参加し、各都市で同時に起きていた若いpaintingの動きを結びつけました。

意図的な「下手さ」

Städel MuseumはMülheimer Freiheitの作品について、意識的に様式化されたdilettantism、kitsch、banalityを利用したと説明しています。彼らは美術学校で訓練を受けていても、技巧的な完成度を前面に出しませんでした。

「上手く描ける画家が、上手く見えることを避ける」ことで、tasteとprofessionalismの基準を揺らします。これはNew Museum《Bad Painting》と共通する部分を持ちながら、ドイツの若い都市文化の中で独自に展開しました。

1981年《A New Spirit in Painting》

1981年1月から3月、LondonのRoyal Academy of Artsで《A New Spirit in Painting》が開催されました。catalogue記録によれば、Christos M. Joachimides、Norman Rosenthal、Nicholas Serotaが企画し、Baselitz、Kiefer、Schnabel、Chia、Paladinoらとともに、Francis Bacon、Willem de Kooning、Philip Guston、Pablo Picasso、Andy Warhol、Gerhard Richter、Frank Stellaなど幅広い世代の画家を並べました。

この展覧会は、1980年代の若手だけを集めて新運動を宣言したものではありません。むしろ「絵画という媒体が過去から現在までどのように再び重要に見えているか」を大きな国際的枠組みで提示しました。

若手だけの展覧会ではなかった

Picassoやde Kooningまで含まれていることからも、《A New Spirit in Painting》をNeo-Expressionismのgroup showとしてだけ読むことはできません。新しいpaintingを歴史的な画家と同じ場へ置くことで、1970年代の「絵画は時代遅れ」という議論そのものを相対化しました。

若手画家の新しさは、過去と断絶したことではなく、過去を再び使える状況が生まれたことにありました。

「新しい運動」より「絵画をめぐる気候」

1980–82年頃に各国で起きたことを一つのmovementとして整理するより、「絵画に対する国際的な気候が変わった」と見る方が実態に近いでしょう。美術館、大規模展、commercial galleries、批評誌が同時にpaintingへ強い注意を向けます。

その結果、互いにほとんど異なる作家が「painting revival」という同じ物語へ入れられました。Neo-Expressionismという名称も、この広い気候を理解するには便利ですが、個別作品を説明するには粗い分類です。

Julian Schnabel — 割れた皿の上に描く

Julian Schnabelは1980年代アメリカのNeo-Expressionismを象徴する画家の一人として急速に知られるようになります。Metは、彼が1950年代Abstract Expressionismの大画面と力強いbrushworkをfigurative paintingへ結びつけ、割れた陶器など日常的なmaterialをpainting surfaceへ組み込んだことを特徴として挙げています。

ここでも「絵画への回帰」はtraditional canvasへの回帰ではありません。支持体そのものが凸凹した物体になり、imageとsurfaceを分けられなくします。

Plate Paintings

SchnabelのPlate Paintingsでは、割った皿や陶器片を木製supportなどへ固定し、その上から絵具を塗ります。破片は単なるcollageではなく、筆がその上を通ることでpaintingの地面そのものになります。

陶器の断片は光を反射し、絵具を受け、同時に物体として飛び出します。Post-Minimalism以後の物質性と、巨大figurative paintingが一枚の作品で重なります。

1981年《Bones and Trumpets…》

Met所蔵《Bones and Trumpets Rubbing Against Each Other Towards Infinity》(1981)では、plaster、glazed / unglazed ceramic、動物の角や脚、oil paint、waxが木のsupportへ組み合わされています。Metは、洞窟画を思わせるtree-likeなfigureが、陶器片や動物materialを含む粗いsurfaceへ描かれていると説明しています。

絵画はimageを載せる平面ではなく、破壊された物、拾われた物、絵具が積み重なる場所になります。

絵画の表面が物体になる

Greenberg的なModernismではpaintingのflatnessが大きな問題でしたが、Schnabelのsurfaceは物理的に盛り上がっています。それでもsculptureへ完全に移るのではなく、「painting」として壁へ掛けられます。

1960年代にpainting / sculptureの境界が崩れた後、1980年代のpaintingはその経験を吸収しています。大画面の絵画へ戻っても、mediumの境界まで元に戻るわけではありません。

1981年《New York/New Wave》

同じ1981年、MoMA PS1ではDiego Cortezが《New York/New Wave》を企画しました。MoMAのarchiveによれば118人のartist、writer、musicianが参加し、established figuresと若いdowntown artistsが同じ空間へ集められました。

写真、音楽、graffiti、drawing、paintingが混在したこの展覧会は、New Yorkの新しい文化をNeo-Expressionismだけでは説明できないことを示します。painting revivalはdowntown music、club、street cultureと同時に進んでいました。

Basquiatが美術界に認識される

MoMAは《New York/New Wave》について、20歳のJean-Michel Basquiatが美術界から大きく注目される契機になったと説明しています。Basquiatはそれ以前からSAMO©名義のcryptic graffitiでdowntownに知られていましたが、1980年頃からcanvasやpaperでの制作を急速に増やしていました。

翌1982年にはDocumenta 7へ参加し、国際的な注目が一気に高まります。わずか数年でstreet-levelの知名度から主要国際展へ移った速度は、1980年代New Yorkのart marketとmedia環境を象徴するものでもあります。

「graffiti artist」だけでは説明できない

WhitneyはBasquiatについて、graffitiとhip-hop cultureに近いNew Yorkの環境から登場した一方、canvasではcrown、halo、human anatomy、歴史的な言葉など多様なsourceを組み合わせたと説明しています。

作品のsurfaceがstreet wallのように見えるからといって、graffitiをcanvasへ移しただけではありません。美術史、歴史書、解剖図、音楽、スポーツ、商品名、言葉の断片を読み取り、再編集する制作でした。

文字を描く/消す

Basquiatのpaintingsでは文字が重要です。単語を書き、それを線で消しながら完全には読めなくしない方法を頻繁に使いました。Whitneyの《Hollywood Africans》解説では、Basquiat自身が「消すことで、むしろそこを読ませる」という趣旨を語ったことが紹介されています。

文字は説明文ではなく、imageとしてsurfaceへ残ります。paintingとwritingが同じgestureになります。

1983年《Hollywood Africans》

《Hollywood Africans》(1983)は、Basquiat自身とRammellzee、Toxicを描きながら、古いHollywood映画におけるAfrican Americanの限定された役割を示す言葉を画面へ重ねた作品です。Whitneyは「Sugar Cane」「Tobacco」「Gangsterism」などの語が、黒人表象のhistorical stereotypeへ関係すると説明しています。

人物画であり、自画像的要素があり、同時にmedia representationへの批判でもあります。大きなgestureと鮮烈な色彩だけを見てNeo-Expressionistと呼ぶと、この言葉の層が抜け落ちます。

黒人表象と美術史

Basquiatはathlete、jazz musician、boxer、historical figureなど黒人のheroを繰り返し扱いました。Whitneyが紹介する本人の言葉にある「royalty, heroism, and the streets」は、彼の作品の複数の層をよく示しています。

それは美術史に黒人figureを追加するだけではなく、誰がheroとして描かれ、誰の名前が記録されるのかというcanonの問題へ関係します。Feminist Artで扱ったrepresentationの問題が、raceとNew Yorkの文化の中で別の形を取ります。

BasquiatをNeo-Expressionismだけで囲わない

BasquiatはしばしばNeo-Expressionismの代表として紹介されますが、そのlabelだけでは足りません。downtown New York、hip-hop、graffiti、African American history、Caribbean heritage、anatomy、language、samplingの文化とも深く関係します。

movement名は国際的な1980年代paintingの位置を理解するには役立ちますが、Basquiatのspecificな制作を「荒々しい若い画家」というimageへ単純化しないことが重要です。

David Salle — Pictures Generationと絵画の交差

David Salleは、前の記事と今回の記事を直接つなぐartistです。WhitneyはSalleについて、1970–80年代のアメリカ美術における二つの大きな流れ、すなわちfigurative paintingの再浮上とPictures Generationのappropriated imageryの双方にまたがると説明しています。

この存在だけでも「Pictures Generationが終わってNeo-Expressionismが始まった」という時系列が成立しないことが分かります。同じartistの一枚のpainting内部で、両方の問題が共存しています。

写真の断片を絵画へ移す

Salleはmagazine、photograph、pornography、美術史など異なるsourceからimageを取り出し、一枚のpaintingへ重ねます。Whitneyは、その方法を紙片を組み合わせるcollageにたとえています。

しかし実際のsurfaceはpaintです。photographic imageを手で再描画することで、appropriationとbrushworkが同時に存在します。「表現的な筆触」と「既成imageの引用」は反対ではありません。

Pictures Generationの「次」ではない

1977年《Pictures》、1977年Galerie am Moritzplatz、1978年《Bad Painting》、1979年Transavanguardiaはほぼ同じ時期です。1981年には《A New Spirit in Painting》と《New York/New Wave》が同時に開催されています。

したがって、1970年代末を「写真とConceptual Artの時代が終わり、絵画の時代になった」と一本の線で説明することはできません。写真、appropriation、video、performance、paintingが同時に拡大していました。

1982年 — 《Zeitgeist》

1982年BerlinのMartin-Gropius-Bauで、Christos M. JoachimidesとNorman Rosenthalを中心に《Zeitgeist》が開催されました。Städel Museumや当時資料にはBaselitz、Kiefer、Chia、Clemente、Cucchi、Paladino、Schnabel、Salle、Fetting、Middendorf、A.R. Penck、Polke、Twombly、Warholなど非常に幅広いartistが記録されています。

ここでも一つのstyleを揃えた展覧会というより、1980年代初頭の国際美術を「時代精神」という巨大な枠で提示する企画でした。その中心にlarge-scale paintingが強く存在したことが、Neo-Expressionismの国際的な印象をさらに固めます。

Berlinで国際的な絵画が並ぶ

《Zeitgeist》の会場となったMartin-Gropius-Bauは当時まだ戦争のdamageを残し、すぐ近くにはBerlin Wallがありました。西ドイツのhistorical conditionと、各国の新しいpaintingが同じ場所へ集められます。

ドイツの若いpainting、Transavanguardia、アメリカのpaintingを同時に見ることができたため、「国際的なNeo-Expressionism」という印象が強まりました。しかし作家それぞれの政治的・文化的背景は大きく異なります。

Documenta 7と国際的な可視性

1982年のDocumenta 7も、若いpaintingsの国際的な可視性を高めました。MoMAの《New York/New Wave》史料は、Basquiatが翌1982年にKasselのDocumentaへ参加し、非常に若い年齢で国際美術展へ進んだことを記録しています。Transavanguardiaの作家やKieferらも、1980年代前半に国際展とmuseum collectionへ急速に入っていきます。

Venice、Documenta、London、Berlin、New Yorkという複数の拠点が、短期間に同じ作家を国際的な名前へ変えていきました。

ギャラリーと市場の急拡大

Whitney Museumの1980年代絵画展《Fast Forward》は、この時期New Yorkで多数のgalleryが開き、若いartistが短期間でrepresentationを得て、art marketそのものが急速に拡大していたことを重要な背景として挙げています。

大きなpaintingは展覧会で強い視覚効果を持ち、unique objectとして売買しやすい。これはConceptual ArtやPerformanceの「物体から離れる」方向とは異なる経済構造を持ちます。そのため1980年代のpainting boomは、作品の形式だけでなくmarketとの関係からも論じられてきました。

若い作家が急速に有名になる

1980年代前半には、個展、international exhibition、magazine、collectorの注目が連動し、若いartistが数年で世界的に知られる例が増えました。Basquiatのcareerはその極端な例の一つです。

この速度は新しい自由を生む一方、作家を特定のimageへ固定する危険も持ちます。「wild young painter」「graffiti genius」「new German painter」といったmarketableなlabelが作品より先に流通することも起こります。

巨大画面と「男性的な絵画」という批判

1980年代のNeo-Expressionismは後に、大きなcanvas、強いgesture、男性artist中心のmarket successと結びつけて批判されることがあります。実際、主要展覧会と市場の物語が男性画家を中心に構築された面は否定できません。

しかし「大画面=男性的」と自動的に決めることも問題です。重要なのは、誰がmuseumやgalleryに選ばれ、どの作家が「painting revival」の象徴として宣伝されたのかという制度的な選択を見ることです。

同時代の女性画家を消さない

Susan Rothenbergは1970年代半ばから具象像をpaintingへ戻し、Elizabeth Murray、Joan Snyder、Maria Lassnig、Nancy Speroなども同時代に人物や身体、絵画を独自に発展させていました。ただし彼女たち全員をNeo-Expressionistと呼ぶ必要はありません。

むしろ「1980年代に絵画が戻った」という歴史をNeo-Expressionismの男性スターだけで語らないことが重要です。絵画の再浮上は、より広い複数の制作を含んでいました。

本当に「Expressionism」の再来なのか

Expressionismという名称は、強い色と歪んだ人物、荒い筆触を見ると理解しやすい一方、historical German Expressionismとの直接的な連続を過剰に強調する危険があります。

Städel Museumの資料でも、Berlinの若い画家たちは「Neue Wilde」と呼ばれながら、その名称を自分たちのidentityとして必ずしも受け入れていませんでした。Similarityがあることと、同じ思想を継承していることは別です。

Abstract Expressionismとの違い

大画面、brushstroke、身体的な制作という点ではAbstract Expressionismとの共通性があります。SchnabelについてMetも、1950年代Abstract Expressionismのmonumental scaleとvigorous brushworkをfigurative paintingへ適用したと説明しています。

しかし1980年代の画面には人物、歴史、文字、写真からの引用、popular cultureが大量に戻っています。gestureも「何も参照しない純粋なmark」ではなく、すでに歴史化されたpainting gestureとして意識される場合があります。

歴史画が別の形で戻る

KieferのGerman history、BasquiatのBlack historical figures、Immendorffの政治的sceneなどを見ると、1980年代には「歴史を描くこと」も再び重要になります。

しかしacademyのhistory paintingのように国家的heroを理想化するわけではありません。断片、矛盾、過去の罪、忘却、stereotypeを含むhistoryです。歴史画というgenreが批判的で不安定な形で戻ります。

引用された筆触

Pictures Generationが既成写真を引用したのと同様に、painting自体も過去のstyleを引用できます。荒いbrushstrokeを見ればde Kooning、激しい色を見ればExpressionism、巨大なfigureを見ればhistory paintingなど、鑑賞者はすでにart historyのimageを知っています。

そのため1980年代のbrushstrokeは「初めて発見されたgesture」ではありません。過去のpaintingの記憶を背負ったgestureです。作家によっては、それを真剣に継承し、別の作家は皮肉や引用として扱います。

厚塗りだけがNeo-Expressionismではない

Neo-Expressionismを「絵具を厚く荒く塗った絵」と定義すると狭すぎます。Kieferは藁や鉛、Schnabelはceramic fragments、Salleはphotographic source、Basquiatはoil stickと文字を使います。Clementeにはwatercolor的な軽い作品もあります。

共通するのは特定のmaterialより、1970年代末にpaintingが再びimage、body、history、narrativeを受け止める大きな場として使われたことです。

Conceptual Art以後の絵画

Conceptual Artが「ideaが重要なら、artist自身が手で制作する必要はない」と示した後に、paintingを選ぶことは1960年代以前と同じ意味ではありません。手で描く行為自体が一つの選択になります。

Salleのように写真を引用して描く場合、Conceptual ArtとPictures Generationの問題をそのままpaintingへ持ち込めます。Kieferのようにmaterialとhistorical referenceを重ねることもできます。1980年代のpaintingはConceptual Artへの反動であると同時に、その成果を吸収した媒体でもありました。

Postmodernismとの関係

Transavanguardiaや一部のNeo-Expressionist paintingでは、過去のstyleを自由に横断し、一つのhistorical progressへ従わない態度が明確になります。この点はPostmodernismのpluralismと深く重なります。

一方で、artistの個人的gestureや大画面のauthorityは、Modernistな「heroic painter」を復活させているようにも見えました。そのためNeo-ExpressionismはPostmodernな引用と、古い作者神話の復活という相反する読みを同時に受けます。

名称が作品を単純化する危険

Neo-Expressionismという名称は、美術史の整理には便利です。しかしBaselitz、Kiefer、Clemente、Schnabel、Salle、Basquiatを一列に並べ、「1970年代のConceptual Artに反発して感情的な絵画へ戻った」とまとめると、多くの重要な違いが失われます。

Baselitzは1960年代からpaintingを続け、Kieferは歴史を扱い、SalleはPictures Generationと重なり、Basquiatはraceとlanguageを扱っています。作品を理解するにはmovement名から個々の制作へもう一度戻る必要があります。

1977–1985年に何が変わったのか

1977年、西ベルリンではGalerie am Moritzplatzが若い具象絵画の拠点となり、New YorkではRothenbergが馬の像によって抽象と具象を接続していました。1978年New Museum《Bad Painting》はgood tasteとlinear progressを疑い、1979年Bonito OlivaはTransavanguardiaを言語化します。1980年VeniceではBaselitzとKieferのドイツ館が戦後史をめぐる激しい議論を生み、《Aperto 80》ではTransavanguardia、Schnabel、Rothenbergら若い作家が国際的に並びました。

同じ1980年、西ドイツではNeue Wilde、Heftige Malerei、Mülheimer Freiheitという複数の若いpainting sceneが形成されます。1981年《A New Spirit in Painting》は歴史的な画家と若い作家を同じ場へ置き、《New York/New Wave》はBasquiatを含むdowntown cultureを可視化しました。1982年《Zeitgeist》やDocumenta 7を通して、ドイツ、イタリア、アメリカの大型絵画が国際的に一つの現象として認識され、市場とgallery networkも急速に拡大します。

ここで変わったのは、単に人物画とbrushstrokeが戻ったことではありません。絵画が、Conceptual Art、Performance、Post-Minimalism、Pictures Generationを経験した後でもなお、歴史、写真、文字、物体、政治、個人的な記憶を同時に抱え込める媒体として再確認されたことです。「paintingは終わったのか」という問いから、「paintingは過去をすべて知った上で何ができるのか」という問いへ移りました。

Neo-Expressionism以後

1980年代半ば以降、Neo-Expressionismというlabelの熱狂は次第に弱まりますが、painting自体は消えません。むしろ1980年代後半から1990年代には、Albert Oehlen、Martin Kippenberger、Christopher Wool、Marlene Dumas、Luc Tuymansらが、表現的な筆触、写真、失敗、引用、印刷、図像の問題を別の方法で組み替えていきます。

そのためNeo-Expressionismを「絵画が一度復活した流行」と見るより、1970年代までに拡張された美術の条件を絵画が再び引き受ける大きな転換として見る方が、その後のcontemporary paintingへつながります。

次の時代へ — East VillageとDowntown New York

Basquiatが《New York/New Wave》から急速に国際舞台へ出た背景には、paintingだけでは説明できないNew York downtownの文化があります。punk、hip-hop、graffiti、club、artist-run space、fashion、music、performanceが互いに近い距離で動き、Keith Haring、Kenny Scharf、Basquiatらのimageがstreetとgalleryの間を行き来しました。

次の記事では、1980–1986|East VillageとDowntown New York — Basquiat、Haring、クラブ、ストリートとして、《Times Square Show》《New York/New Wave》、Club 57、Fun Gallery、地下鉄drawing、graffitiとgalleryの関係まで追います。Neo-Expressionismの「painting boom」と同時に、New Yorkの文化的な回路そのものがどう変わったのかを独立して扱います。

参考資料・出典

本ページは、美術館、国際展の公式archive、展覧会catalogue、作家資料を参照してART LIBRARYが独自に構成・執筆しています。「Neo-Expressionism」をドイツ、イタリア、アメリカの作家を一括する単一様式として扱わず、Neue Wilde、Transavanguardia、New Yorkのpaintingをそれぞれの歴史的背景から区別しています。また「絵画の復活」を、1970年代に絵画が消滅していたという意味ではなく、美術界での注目と制度的位置が変化した現象として記述しています。原文の全文翻訳ではありません。

資料確認日:2026年10月1日 / ART LIBRARY