1910–1914
抽象絵画の誕生
カンディンスキー、クプカ、ドローネー
1910年代初頭、ヨーロッパの複数の場所で、絵画から「何かが描かれている」という前提そのものが消え始めました。人物でもない。風景でもない。静物でもない。色、線、形、リズムだけで、一枚の絵画を成立させることはできるのか。現在、この転換は「抽象絵画の誕生」と呼ばれます。しかし、誰か一人がある日突然、抽象絵画を発明したわけではありません。
MoMAは「Inventing Abstraction, 1910–1925」展で、1912年前後にカンディンスキー、フランティシェク・クプカ、フランシス・ピカビア、ロベール・ドローネーらが、異なる都市で初期の抽象作品を公に提示したことを強調しました。抽象は、一人の「発明者」から生まれたのではなく、芸術家、作曲家、詩人、舞踊家、批評家らが互いに影響し合う国際的なネットワークの中から現れたのです。
しかも、彼らが抽象へ向かった理由は同じではありません。
カンディンスキーは、目に見えない精神的・内面的なものを色と形で表そうとしました。
クプカは、身体運動、音楽、宇宙、科学的なイメージを手がかりに、色と形のリズムへ進みます。
ドローネーは、キュビスムの形態分解から出発しながら、光と色の相互作用そのものを絵画の構造へ変えました。
抽象絵画には、最初から一つの「抽象」があったわけではありません。
CONTENTS
- 「最初の抽象画家」は一人ではない
- 抽象へ向かう前提はすでに存在していた
- カンディンスキー — 見える世界から内面へ
- 音楽はなぜ重要だったのか
- シェーンベルクとの出会い
- 1911年、青騎士
- 『芸術における精神的なもの』
- 《コンポジションV》— 抽象に見えて、まだ主題がある
- 1913年、対象がほとんど消える
- クプカ — 身体運動から抽象へ
- 《二色のフーガ》— 音楽を絵画へ変換する
- クプカとカンディンスキーの違い
- ドローネー — キュビスムから光と色へ
- 《同時的な窓》— 対象が色彩へ溶けていく
- オルフィスム — 色彩による抽象
- ピカビア — もう一つの経路
- 1912年 — 抽象が公の場へ現れる
- 抽象は「現実から逃げた」のか
- 抽象絵画は何を変えたのか
- 次の段階へ — マレーヴィチとモンドリアン
- 参考資料・出典
「最初の抽象画家」は一人ではない
抽象絵画の歴史では、長い間「誰が最初だったのか」という問題が繰り返し語られてきました。
カンディンスキー。
クプカ。
ドローネー。
ピカビア。
さらにヒルマ・アフ・クリントなど、公開されなかった作品を含めれば、候補はさらに増えます。
しかしART HISTORYでは、「最初の一人」を決めることを目的にしません。
なぜなら1910年代初頭、複数の画家が互いに完全には同じ道を歩まず、ほぼ同時期に具象から離れていったこと自体が重要だからです。
MoMAは「Inventing Abstraction, 1910–1925」において、抽象を単独の天才による発明ではなく、音楽、舞踊、詩、写真、映画、絵画、彫刻などを横断する国際的な人的ネットワークの中で生まれたものとして捉えました。
抽象は、一枚の「最初の作品」によって始まったというより、複数の問題が同時に臨界点へ達した結果として現れたと考えた方が分かりやすいでしょう。
抽象へ向かう前提はすでに存在していた
抽象絵画は、具象絵画を突然捨てて生まれたわけではありません。
その前の数十年間で、絵画はすでに大きく変化していました。
印象派は、物体の固定された色より、光によって変化する見え方を重視しました。
スーラは色を細かな単位へ分解し、画面を色彩の関係として構築しました。
ゴッホとゴーギャンは、自然の色から離れて、感情や象徴のために色を使いました。
ナビ派は、絵画が平らな面であることを強く意識しました。
セザンヌは、自然を色と面の関係として組み立て直しました。
キュビスムは、物体と空間を分解し、伝統的な単一視点の遠近法を大きく揺らしました。
ここまで来ると、次の問いが生まれます。
対象をこれほど変形できるのなら、そもそも対象は必要なのか。
色と線と形だけで、絵画は成立するのではないか。
1910年代初頭の抽象絵画は、この問いへの複数の回答でした。
カンディンスキー — 見える世界から内面へ
ワシリー・カンディンスキー(Vasily Kandinsky, 1866–1944)は、抽象絵画の成立を考える際に最も重要な画家の一人です。
ロシアに生まれ、法律と経済を学んだ後、30歳頃にミュンヘンへ移り、本格的に絵画を学び始めました。
1900年代初頭の作品には、風景、騎手、町、ロシアの民話を思わせるモチーフがはっきり描かれています。
しかし1908年頃から、その形は急速に単純化されます。
山は三角形へ。
樹木は色の帯へ。
騎手は数本の線へ。
Guggenheim Museumは《青い山》など1908–09年頃の作品を、自然にはない色彩を使いながら、カンディンスキーが対象の描写から内面的・精神的な表現へ移っていく段階として説明しています。
重要なのは、カンディンスキーが単に現実を単純化していたのではないことです。
彼にとって、目に見える対象は徐々に、より重要な「内的なもの」を妨げる存在になっていきました。
音楽はなぜ重要だったのか
カンディンスキーが絵画の抽象化を考える際、繰り返し参照したのが音楽でした。
音楽は、絵画のように「木」「人物」「山」を描かなくても成立します。
一つの音は何かの物体を再現する必要がない。
それでも、音の高さ、強さ、リズム、響きの関係によって感情や緊張を作ることができます。
では、絵画も同じことができないか。
赤、青、黄。
直線、曲線。
大きな形、小さな形。
これらを「何かを描くため」ではなく、それ自体の関係として使う。
この発想は、カンディンスキーにとって非常に重要でした。
作品名にも「インプロヴィゼーション(即興)」「コンポジション(構成)」など、音楽を連想させる語が使われます。
しかし彼は、単純に「音を色に置き換える」規則を作ったわけではありません。
音楽は、絵画が外界の模倣から離れられることを示すモデルでした。
シェーンベルクとの出会い
1911年1月、カンディンスキーはミュンヘンで作曲家アルノルト・シェーンベルクの音楽を聴きました。
シェーンベルクは、従来の調性体系から大きく離れた音楽を試みていました。
この経験はカンディンスキーに強い印象を与え、二人はその後書簡を交わします。
MoMAの「Inventing Abstraction」展でも、シェーンベルクとカンディンスキーの出会いは、音楽と視覚芸術の間で抽象的な表現が広がっていくネットワークの重要な接点として扱われています。
ここで重要なのは、絵画だけが単独で抽象へ向かったわけではないことです。
音楽では調性が揺らぎ、舞踊では物語から離れた身体表現が試され、詩では言葉の音や配置そのものが重視され始めていました。
抽象は、美術だけの孤立した現象ではありませんでした。
1911年、青騎士
1911年、カンディンスキーはフランツ・マルクとともに「青騎士(Der Blaue Reiter)」を形成します。
青騎士は、厳密な共通様式を持つ画家集団ではありませんでした。
カンディンスキー。
マルク。
アウグスト・マッケ。
ガブリエーレ・ミュンター。
パウル・クレー。
さらに国外の前衛作家や、音楽家、民衆芸術なども視野に入れます。
Metropolitan Museum of Artは、マルクとカンディンスキーが1911年に青騎士を創設したことを紹介しています。
1912年に刊行された『青騎士年鑑』には、西洋近代美術だけでなく、中世美術、民衆芸術、子どもの絵、非西洋圏の造形、音楽などが並べられました。
重要なのは、芸術の価値を写実技術の高さだけで測らない姿勢です。
形が単純でもよい。
自然に似ていなくてもよい。
精神的な強度があれば芸術になり得る。
こうした価値観が、抽象絵画を支える理論的な環境を作りました。
『芸術における精神的なもの』
1911年末から1912年にかけて、カンディンスキーの著書『芸術における精神的なもの(Über das Geistige in der Kunst)』が刊行されました。
Guggenheim Museumは、この本を抽象芸術についての初期の重要な理論書として紹介しています。
カンディンスキーは、色や形にはそれぞれ固有の精神的・心理的な作用があり、それらを組み合わせることで、外界の描写に頼らず鑑賞者へ働きかけることができると考えました。
黄色と青。
尖った形と丸い形。
上昇する線と下降する線。
それぞれが意味を説明する記号というより、直接感覚へ作用する力を持つ。
ここで絵画は、「何が描かれているか」を読むものから、「色と形を経験する」ものへ近づきます。
ただし、カンディンスキーの理論には神智学や当時の精神主義的思想も影響していました。
抽象は形式だけの問題ではなく、彼にとって世界を精神的に変革する可能性とも結びついていました。
《コンポジションV》— 抽象に見えて、まだ主題がある
1911年の《コンポジションV》は、カンディンスキーが抽象へ大きく接近した代表作です。
一見すると、巨大な画面には黒い線、青、赤、黄、白などの色の塊が渦巻いているだけに見えます。
しかし、完全に主題が消えたわけではありません。
MoMAの研究によれば、この作品には「復活」という宗教的な主題があり、天使のラッパや人物など、関連作品を手がかりにすると具体的なモチーフを読み取ることができます。
ここは重要です。
抽象絵画の誕生は、具象がある日突然ゼロになった出来事ではありません。
対象が次第に単純化され、他の形と溶け合い、ついには知らなければ読み取れないほどになる。
具象と抽象の間には、長い移行領域があります。
《コンポジションV》は、その境界にある作品です。
1913年、対象がほとんど消える
1912年の《インプロヴィゼーション28》にも、洪水、舟、人物、建物などの抽象化されたモチーフがまだ潜んでいます。
しかし1913年になると、カンディンスキーの作品では、具体的な対象を読み取ることがさらに難しくなります。
Guggenheim Museumは《Light Picture》や《Black Lines》など1913年の作品を、カンディンスキーの初期抽象が大きく展開した段階として紹介しています。
線は何かの輪郭ではなく、自律した動きになります。
色面も物体の色ではありません。
青い形は「青い山」である必要がなく、黒い線は「木の枝」である必要もない。
線と色が、それ自身の関係として画面を作ります。
ここで絵画は、具象的な世界との結びつきをほとんど必要としない状態へ到達します。
クプカ — 身体運動から抽象へ
フランティシェク・クプカ(František Kupka, 1871–1957)は、カンディンスキーとは別の経路から抽象へ進みました。
現在のチェコに生まれ、プラハとウィーンで学んだ後、1896年にパリへ移住しました。
初期には人物画、風刺画、象徴主義的な作品を制作しています。
しかし1900年代後半になると、身体の動きや色彩の連続性への関心が強まります。
MoMAが所蔵する《二色のフーガ》の多数の習作は、その変化を具体的に示しています。
出発点には、ボールを持った少女の動きがありました。
少女がボールを動かす。
腕が円運動を作る。
その運動を図式化する。
人物の身体が消え、円弧だけが残る。
最終的に、運動のリズムだけが抽象的な色と形として独立します。
つまりクプカの場合、具象から抽象への移行過程を、身体運動の単純化として追うことができます。
《二色のフーガ》— 音楽を絵画へ変換する
1912年、クプカは《アモルファ:二色のフーガ(Amorpha: Fugue in Two Colors)》を制作し、同年のサロン・ドートンヌで展示しました。
MoMAは、この作品をパリで公に展示された最初期の完全抽象絵画の一つとして位置づけています。
画面では赤、青、黒、白などの形が回転するように組み合わされています。
人物も風景もありません。
題名にある「フーガ」は音楽形式です。
異なる旋律が追いかけ合い、重なりながら一つの構造を作る。
クプカは、それを色彩と形の関係として考えました。
一つの色が現れる。
別の色が応答する。
円弧が反復する。
形がずれながら再び現れる。
ここでは絵画が何かを説明するのではなく、音楽のように時間的なリズムを視覚として作ろうとしています。
クプカとカンディンスキーの違い
カンディンスキーとクプカは、どちらも音楽に強い関心を持ち、1910年代初頭に抽象へ進みました。
しかし、その抽象は同じではありません。
カンディンスキーは、精神性、宗教的イメージ、内面的な感情から抽象へ進みました。
画面には自由に流れる線、突然現れる色面、筆触の即興性が強く残ります。
クプカは、身体運動、色彩の連続、幾何学、音楽的構造をより体系的に組み立てました。
円。
垂直線。
反復。
回転。
二人とも具象を離れましたが、「何を求めて抽象へ行ったのか」が違います。
ここでも、抽象絵画に一つの起源がないことが分かります。
ドローネー — キュビスムから光と色へ
ロベール・ドローネー(Robert Delaunay, 1885–1941)は、さらに別の経路をたどります。
ドローネーは、1910年前後のエッフェル塔連作などでキュビスム的な形態分解を用いました。
建物を複数の視点から分解し、都市空間を断片化する。
しかし、ピカソとブラックのように色彩を茶や灰色へ抑えることはありませんでした。
ドローネーが強く関心を持っていたのは、光と色でした。
Guggenheim Museumによれば、初期のサン=セヴラン聖堂連作から、彼はステンドグラスを通過する光と建築の歪みを研究していました。
セザンヌ。
キュビスム。
新印象派の色彩理論。
それらが、ドローネーの中で結びついていきます。
《同時的な窓》— 対象が色彩へ溶けていく
1912年、ドローネーは《同時的な窓(Simultaneous Windows)》連作を制作します。
Guggenheim Museum所蔵の《同時的な窓(第2モチーフ、第1部)》には、まだエッフェル塔の緑色の輪郭がわずかに残っています。
しかし画面の大部分は、赤、緑、青、黄、オレンジなどの半透明な色面の重なりです。
建物や空が別々の物体として描かれるのではなく、色彩の相互作用の中へ溶けています。
ドローネー自身は、この段階を「構築的」と呼びました。
Guggenheim Museumは、この連作が、ミシェル=ウジェーヌ・シュヴルールの同時対比の色彩理論とも結びついていると説明しています。
ある色は、単独では存在しません。
隣の色によって見え方が変わる。
補色を並べれば互いが強くなる。
色彩関係そのものが画面を構築する。
対象は次第に、そのための足場でしかなくなっていきます。
オルフィスム — 色彩による抽象
1912年、詩人・批評家ギヨーム・アポリネールは、ドローネーらの新しい方向を「オルフィスム(Orphism)」と呼びました。
名前は、ギリシャ神話の音楽家オルフェウスに由来します。
アポリネールは、キュビスムから出発しながら、色彩と光によってより自律した絵画へ進む作品を、音楽的な芸術として捉えました。
MoMAはオルフィスムを、1912年頃、ロベールとソニア・ドローネー、クプカらが、純粋な色と光の効果を探るために抽象へ向かったキュビスム系の傾向として説明しています。
ただし、クプカ自身が「オルフィスム」という分類を積極的に共有していたわけではありません。
ここでも、批評上のカテゴリーと、個々の作家の自己認識は必ずしも一致しません。
それでも「色だけで絵画を構築できる」という考えが、1912年前後のパリで複数の作家に現れたことは重要です。
ピカビア — もう一つの経路
フランシス・ピカビア(Francis Picabia, 1879–1953)も、この時期に抽象へ接近した重要な画家です。
ピカビアは印象派風の絵画から出発し、キュビスム、オルフィスムへ接近しました。
1912年の《春》などでは、具体的な対象の読み取りが難しくなり、色彩と形の運動が画面の中心になります。
MoMAの「Inventing Abstraction」展は、1912年に最初期の抽象作品を公に提示した画家の一人としてピカビアを挙げています。
その後ピカビアは、機械イメージ、ダダ、さらにまったく異なる様式へ次々と移動します。
彼の存在は、抽象が一つの目的地ではなかったことを示しています。
抽象へ到達したら、そのまま抽象画家であり続けなければならないわけではありません。
1910年代の前衛にとって、抽象は数多くある可能性の一つでした。
1912年 — 抽象が公の場へ現れる
1912年は、抽象絵画の歴史を考えるうえで象徴的な年です。
MoMAはこの年、カンディンスキー、クプカ、ピカビア、ドローネーらが複数のヨーロッパ都市で抽象的な作品を公に発表したことを、「新しい種類の作品」が公共圏へ現れた転換として捉えています。
クプカの《二色のフーガ》はサロン・ドートンヌで展示されました。
ドローネーは《窓》連作を展開します。
カンディンスキーの理論書『芸術における精神的なもの』も広く読まれ始めます。
ここで抽象は、個人のアトリエ内の実験だけではなくなります。
展覧会で見せる。
文章で説明する。
他の作家が反応する。
国境を越えて作品や雑誌が移動する。
抽象は社会的な美術現象になっていきます。
抽象は「現実から逃げた」のか
抽象絵画を見ると、「現実を描くことをやめた」と考えたくなります。
しかし初期抽象の作家たちは、必ずしも現実への関心を失ったわけではありません。
カンディンスキーは、宗教、社会の危機、人間の精神を考えていました。
クプカは、身体運動、科学、宇宙、音楽を研究していました。
ドローネーは、都市、エッフェル塔、光、視覚そのものを出発点にしています。
彼らが捨てたのは「現実」ではなく、現実を再現するためには人物や風景の形が必要だという前提でした。
見えないものをどう表すか。
感情。
光。
運動。
音楽。
精神。
時間。
これらはすべて現実の経験ですが、物体の輪郭としては見えません。
抽象絵画は、「見えるもの」から離れることで、むしろ別の現実を扱おうとしたとも言えます。
抽象絵画は何を変えたのか
1910年代初頭の抽象絵画が変えたものは、単に「何も描かなくてもよくなった」ということではありません。
絵画の主題を、画面そのものへ移したこと。
色、線、形、リズム、バランス。それらの関係だけで作品を成立させることが可能になります。
音楽との比較を現実的な方法へ変えたこと。
絵画も音楽のように、対象を描写せず直接感覚へ働きかけられるのではないか、という考えが具体的な作品になります。
具象/抽象という新しい軸を美術に作ったこと。
それ以前にも装飾的・非具象的な形は存在しました。しかし近代絵画の制度の中で、「対象を描かない絵画」を独立した美術として継続的に制作・展示する状況が成立します。
一つの抽象ではなく、複数の抽象が成立したこと。
精神的な抽象。
音楽的な抽象。
色彩による抽象。
幾何学的な抽象。
動きを出発点とする抽象。
1910年代のうちに、すでに複数の方向が生まれます。
この違いは、その後の20世紀美術を理解するうえで非常に重要です。
次の段階へ — マレーヴィチとモンドリアン
1910年代初頭、カンディンスキー、クプカ、ドローネーらは、具象的な対象から離れる可能性を開きました。
しかし、抽象絵画はここで完成したわけではありません。
次に現れるのは、さらに徹底した方向です。
ロシアでは、カジミール・マレーヴィチがキュビスムと未来派を経て、1915年に《黒の正方形》を含む「シュプレマティスム」を発表します。
そこでは、四角形、円、十字など、きわめて単純な幾何学形だけが画面に残ります。
一方オランダでは、ピート・モンドリアンが木や風景を段階的に単純化し、やがて垂直線、水平線、原色による「新造形主義」へ進みます。
カンディンスキーの抽象が、自由な線や色の精神的な動きを重視したのに対して、マレーヴィチとモンドリアンは、より幾何学的で構造的な抽象へ進みました。
抽象絵画は、誕生した瞬間からすでに複数の方向へ分裂し始めています。
次の記事では年代を少し重ね、1912–1917|ロシア・アヴァンギャルド前夜 — キューボ・フューチュリズムからシュプレマティスムへを扱います。
参考資料・出典
本ページは、美術館・研究機関が公開する作品、作家、展覧会資料を参照してART LIBRARYが独自に構成・執筆しています。原文の全文翻訳ではありません。
- The Museum of Modern Art — Inventing Abstraction, 1910–1925
- The Museum of Modern Art — Innovation and Collaboration in Inventing Abstraction and Beyond
- Solomon R. Guggenheim Museum — Kandinsky’s First Abstract Works
- Solomon R. Guggenheim Museum — Vasily Kandinsky: Around the Circle
- The Metropolitan Museum of Art — Vasily Kandinsky, Improvisation 27 (Garden of Love II)
- The Museum of Modern Art — František Kupka, Amorpha: Fugue in Two Colors
- National Gallery of Art — František Kupka, Localization of Graphic Motifs II
- Solomon R. Guggenheim Museum — Robert Delaunay, Simultaneous Windows
- The Museum of Modern Art — Robert Delaunay, Simultaneous Contrasts: Sun and Moon
資料確認日:2026年10月1日 / ART LIBRARY