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1910–1914

抽象絵画の誕生

ヨーロッパ各地で始まった色と形の実験

20世紀初頭、ヨーロッパ各地で、人物や風景の姿を描かずに色と線と形だけで成立する絵画が現れ始めました。カンディンスキーはミュンヘンで精神的な世界を色彩によって探り、クプカはパリで運動や音楽の構造を絵画へ移し、ロベール・ドローネーは都市の光を色面の重なりへ変えました。モンドリアンもオランダからパリへ移り、樹木などの形を分解しながら抽象へ進みます。

この変化は、同じ方法を共有する画家たちが一斉に始めた運動ではありません。絵画の外にも、音楽、詩、科学、精神主義、写真、近代都市の新しい経験がありました。複数の問題が同じ時代に集中したことが、抽象絵画の誕生を考えるうえで重要です。

さらにスウェーデンでは、ヒルマ・アフ・クリントが1906年から大胆な抽象的表現を制作していました。彼女の作品は当時広く公開されなかったため、制作の先行性と同時代の美術運動への影響を分けて考える必要があります。誰が最初だったかという競争より、作品がいつ作られ、どのように公開され、どんな形で美術史へ位置づけられたかを丁寧に追います。

この記事では1910〜1914年を中心に、それに先立つ19世紀の絵画とアフ・クリントの制作、そして1915年以降の新しい抽象へのつながりも扱います。具体的な絵画を観察しながら、なぜ抽象絵画が生まれ、どこで、何を変えたのかを考えていきます。

抽象絵画の誕生は何を意味したのか

目に見えるものを描かない絵画

1910年代のヨーロッパでは、山や人物、花瓶などを手がかりにしなくても、色、線、形の組み合わせだけで絵画を成立させようとする動きが現れました。鑑賞者は題名を読んでも何が描かれているか分からず、目の前の色の強さや線の方向、画面全体のリズムを頼りに作品と向き合うことになります。今では身近な抽象絵画が、当時どれほど新しい提案だったかを考えるための出発点です。

この変化は、画家が現実への関心を失った結果ではありません。音楽、光、心の動き、都市の速度、科学的な観察など、目では捉えにくい経験を描こうとする中で生まれました。作品が何を再現しているかとともに、絵画そのものがどのように働くかが重要な問題になったのです。 (参照:ニューヨーク近代美術館|《抽象の発明 1910–1925》展、ポンピドゥー・センター|抽象芸術の誕生)

ミュンヘン、パリ、オランダで進んだ試み

抽象画を生み出した中心地は一つに限られません。ミュンヘンではロシア出身のカンディンスキーが色彩と精神性の問題を考え、パリではクプカやドローネーたちが運動と光をもとに新しい画面を構築していました。オランダ出身のモンドリアンも、風景や樹木を徐々に単純化し、パリでキュビスムの刺激を受けながら絵画の構造を探りました。

各地の活動は展覧会、画廊、雑誌、旅行を通して結びつきました。画家同士の交流に音楽家や詩人も加わり、一都市で発明された様式が順番に広がるという説明では捉えきれない歴史が生まれています。ニューヨーク近代美術館が2012〜13年に開催した「抽象の発明」展も、この国際的なネットワークを中心に構成されました。 (参照:ニューヨーク近代美術館|《抽象の発明 1910–1925》展、ポンピドゥー・センター|抽象芸術の成立を考える)

1910–1914年という年代の意味

この記事の対象である1910〜1914年は、多数の作家が抽象表現を試み、それを展覧会や出版物を通じて広く示し始めた時期です。抽象に近い作品はそれ以前にも制作されており、1915年以降にはマレーヴィチやモンドリアンらによって新たな展開が続きます。制作の開始、一般公開、後世の評価を区別して考えると、この年代の意味がはっきりします。

特定の一点を「世界最初の抽象絵画」と決めるより、異なる実験がなぜ同じ時代に集中したのかを探る方が、20世紀美術の全体像を理解できます。さらに、当時知られなかった作品が後から発見され、美術史の語り方が変わったことにも目を向けます。 (参照:ニューヨーク近代美術館|《抽象の発明 1910–1925》展、グッゲンハイム美術館|ヒルマ・アフ・クリント展)

抽象絵画へ向かう19世紀からの変化

印象派から新印象派へ、色が独立する

19世紀後半の画家たちは、目に見える世界を描く方法を急速に変えていました。印象派は刻々と変化する光を筆触によって捉え、スーラやシニャックらの新印象派は色を細かな要素に分けて配置します。離れて見ると色が互いに働き合い、画面全体の見え方が変わる。その経験は、色を物体の表面に付属する性質から、絵画を組み立てる能動的な要素へと押し出しました。

ドローネーらの色彩研究には、この19世紀末の蓄積がつながっています。抽象絵画の誕生は、自然界に見えない色を突然使い始めた出来事というより、色彩そのものの作用を長く探ってきた画家たちが、さらに踏み込んだ段階として理解できます。 (参照:グッゲンハイム美術館|《同時的な窓》1912年、ポンピドゥー・センター|ロベール・ドローネーの抽象化)

セザンヌとキュビスムが変えた形

セザンヌは風景や静物を、輪郭線で囲まれた物の集合として描く代わりに、色と面の関係から組み立てました。ピカソとブラックが進めたキュビスムでは、物体の形が複数の面へ分解され、奥行きの表現も従来の遠近法から離れていきます。何が描かれているかを判別することが難しい画面でも、構成としての緊張や秩序が保たれるようになりました。

モンドリアンやドローネーはこうした分解の方法をそれぞれ取り入れ、対象の輪郭が消えても画面が成立する可能性を探ります。抽象絵画とキュビスムには深い接点がありますが、抽象への道がすべてキュビスムを通ったわけではありません。精神主義や音楽、装飾、運動研究から出発した画家たちの実践も並行していました。 (参照:グッゲンハイム美術館|モンドリアンとキュビスム、グッゲンハイム美術館|《同時的な窓》1912年)

象徴主義と装飾が開いた別の道

ゴーギャンや象徴主義の画家たちは、目の前の景色に忠実な色より、記憶や感情を表す色を選びました。ナビ派や装飾美術では、図柄が平らな面の上に配置され、同じ形が繰り返されること自体に魅力が生まれます。宗教的な象徴や装飾模様も、具体的な人物や物語に頼らず、形と色で意味を伝えるための重要な手がかりでした。

20世紀初頭の抽象画家たちは、これらの試みを見ながら制作しています。絵画に主題があることと、その主題を写実的な形に描くことの間には、さまざまな方法が存在する。そうした先行例の積み重ねが、目に見える対象からさらに遠ざかる実験を支えました。 (参照:ポンピドゥー・センター|抽象芸術の成立を考える、グッゲンハイム美術館|ヒルマ・アフ・クリント研究資料)

1906年から始まったヒルマ・アフ・クリントの抽象

ストックホルムで学んだ画家のもう一つの関心

スウェーデンの画家ヒルマ・アフ・クリントは、ストックホルムの王立美術アカデミーで学び、風景画や肖像画などの具象作品を制作していました。画家としての訓練と並行して、彼女は当時広く関心を集めていた神智学や心霊主義に深く関わります。仲間の女性たちと定期的に集まり、筆記や描画を通して目に見えない存在や秩序を探ろうとしていました。

彼女の実践は、女性芸術家が活動した制度や精神文化の歴史も映しています。1900年前後のヨーロッパでは科学の発展と宗教的・精神的な探究が隣り合っており、抽象的な形を求める理由も一様ではありませんでした。アフ・クリントの場合、画面は人間と宇宙の関係を表すための場になっていきます。 (参照:グッゲンハイム美術館|ヒルマ・アフ・クリント展、ポンピドゥー・センター|ヒルマ・アフ・クリントと1986年の再評価、グッゲンハイム美術館|ヒルマ・アフ・クリント研究資料)

1906年、《神殿のための絵画》に着手

アフ・クリントは1906年、大規模な連作《神殿のための絵画》の制作を始めました。円、渦巻き、植物の成長を思わせる形、文字に似た記号などが画面を満たし、現実の風景や人体を直接描写する目的から離れています。この一連の仕事は1915年まで続き、193点の作品を含む大きな構想へ発展しました。彼女は作品群を収める神殿も構想しましたが、実現していません。

作者自身は制作を精神的な導きと結びつけて記録し、その説明は時期によって変化します。抽象的な形がどう生み出されたのかを考える際には、当時の記述を一つの超自然的な事実として断定することを避け、彼女がどのような制作条件を設定していたのかを読み取ることが重要です。 (参照:グッゲンハイム美術館|《神殿のための絵画》、グッゲンハイム美術館|ヒルマ・アフ・クリント展)

1907年《10の最大作品》の大きさと色彩

1907年の《10の最大作品》は、人間の成長段階を扱った巨大な絵画群です。花びら、円形、曲線、文字のような記号が鮮やかな色で配置され、鑑賞者の身体よりも大きい画面を埋め尽くします。形が何かを写しているかより、それらが重なり、膨らみ、広がる関係そのものが強い印象を与えます。

1906〜07年にすでにこれほど大胆な抽象的表現が制作されていたことは、カンディンスキーを唯一の起点とする従来の説明を見直す重要な根拠になりました。作品の制作年と公開の歴史を分けて考える必要も、ここから明らかになります。 (参照:グッゲンハイム美術館|《10の最大作品》1907年、グッゲンハイム美術館|ヒルマ・アフ・クリント展)

制作された絵画と人々が見た絵画

広く公開されなかった作品の意味

アフ・クリントの抽象作品は、同時代の公開展覧会を中心に活動したカンディンスキーやクプカの作品とは、社会への届き方が異なっていました。彼女は具象作品を発表していましたが、革新的な抽象連作の多くは限られた範囲にとどまり、広く紹介される機会が長い間ありませんでした。制作していた事実と、周囲の作家がその作品を見て影響を受けたかという問題を、分けて扱う必要があります。

ある作品が歴史的に先行していても、同時代の美術運動を直接動かしたとは限りません。反対に、当時広く知られなかった制作を研究することで、これまでの美術史が見落としていた可能性が現れます。アフ・クリントの存在は、芸術史が作品の制作と流通の両方によって形づくられることを教えてくれます。 (参照:グッゲンハイム美術館|ヒルマ・アフ・クリント展、ポンピドゥー・センター|抽象芸術の成立を考える)

「誰が最初か」だけでは説明できない

抽象絵画の歴史には、最初の一点を探す物語がよく登場します。ところが、何をもって抽象とみなすかによって、候補となる作品は変わります。対象の輪郭がほとんど読めない絵画、幾何学模様だけの画面、精神的な世界を独自の記号で表した絵画は、それぞれ異なる条件から生まれています。

さらに、作品を描いた年、展覧会で公に見せた年、批評家や他の芸術家が認識した年も一致しません。この記事では競争としての先後関係より、抽象表現がなぜ複数の経路から現れたのか、そしてそれぞれ何を変えたのかを重視します。 (参照:ニューヨーク近代美術館|《抽象の発明 1910–1925》展、ポンピドゥー・センター|抽象芸術の成立を考える)

1980年代以降に変わった美術史の見取り図

アフ・クリントの抽象作品は、1986年の展覧会などを通じて広い美術史の議論へ本格的に入り、その後の研究と展示によって国際的に知られるようになりました。2018〜19年にニューヨークのグッゲンハイム美術館で開催された大規模展も、1906年から始まる彼女の制作を再検討する重要な機会となりました。

抽象絵画の歴史は、1910年代の作家だけで完成した固定的な物語ではありません。資料が保存され、展覧会で紹介され、新しい視点から研究されるたびに、重要な位置を占める作家と作品の関係が更新されていきます。 (参照:グッゲンハイム美術館|ヒルマ・アフ・クリント展、ポンピドゥー・センター|ヒルマ・アフ・クリントと1986年の再評価、グッゲンハイム美術館|ヒルマ・アフ・クリント研究資料)

ミュンヘンで抽象へ向かったカンディンスキー

ロシアからドイツへ、法律研究から絵画へ

ワシリー・カンディンスキーはロシアに生まれ、法律や経済を学んだ後、1896年にミュンヘンへ移って絵画の道に進みました。初期には風景、騎手、街、ロシアの民話を思わせる場面を描いており、最初から非具象的な作品を制作していたわけではありません。パリやドイツの新しい美術を吸収する中で、輪郭を単純にし、自然の色から自由になる表現を深めました。

ドイツでは表現主義の動きが活発になり、画家たちは色彩を感情や精神と結びつけて考えていました。カンディンスキーもその環境に参加しながら、絵画から具体的な対象が消えたときに何が残るのかを探っていきます。 (参照:グッゲンハイム美術館|カンディンスキー初期抽象作品、ニューヨーク近代美術館|「青騎士」)

ミュルナウの風景が色と線へ変わる

1908年頃からカンディンスキーは、ガブリエーレ・ミュンターらと南ドイツのミュルナウ周辺で制作しました。山並みや家々を描いた画面では、輪郭が太い線へ変わり、建物や樹木が鮮やかな色の塊として現れます。風景の地形はまだ読み取れますが、色は自然の正確な再現より、画面全体の緊張と動きを作る役割を強めています。

同じ場所で活動したミュンターも、色と形を大胆に簡略化しながら人物や日常の室内を描きました。彼女の作品を併せて見ると、抽象化が画家たちの共通の問題でありながら、誰もが同じ速さで非具象へ進んだわけではないことが分かります。 (参照:ニューヨーク近代美術館|ガブリエーレ・ミュンター、ニューヨーク近代美術館|「青騎士」)

風景の形が読み取りにくくなる

カンディンスキーの作品では、山や樹木、馬と騎手の形が徐々に小さな線や色面へ圧縮されます。画面全体には明確な方向感がありながら、それぞれの線が何の輪郭だったかを言い当てるのは難しくなっていきました。具象と抽象の境界は一度の決断で越えられたのではなく、制作を繰り返す中で移動しています。

形を消すことだけが目標だったわけでもありません。どの色がどの線と接し、どこに動きが集中するかという構成の問題が、作品の主題と同じくらい重要になっていきます。 (参照:グッゲンハイム美術館|カンディンスキー初期抽象作品、グッゲンハイム美術館|《白い縁のある絵》)

青騎士と音楽が結びつけた表現

1911年、カンディンスキーとマルクの「青騎士」

1911年、カンディンスキーとフランツ・マルクはミュンヘンで「青騎士」の活動を始めました。表現方法を一つに統一した集団というより、新しい芸術の可能性を共有する人々の結びつきです。展覧会にはミュンター、マッケ、クレーらも関わり、色彩や形に内面的な意味を認める作品が集められました。

第一次世界大戦が始まる1914年までの短い活動でしたが、青騎士は抽象芸術が公開され、議論される重要な場を作りました。同時代の前衛が、複数の芸術家による展覧会や共同の出版を通じて発展したことが分かります。 (参照:ニューヨーク近代美術館|「青騎士」、ニューヨーク近代美術館|『青騎士年鑑』1912年)

1912年の『青騎士年鑑』が並べたもの

1912年に刊行された『青騎士年鑑』には、近代絵画とともに子どもの絵、民衆芸術、舞台、音楽などが収められました。美術館が高く評価してきた伝統的な様式から離れた作品にも、独自の表現力があるという考えが示されています。近代ヨーロッパの絵画だけを唯一の尺度とする見方が問い直されたのです。

カンディンスキーやマルクが多様な資料を集めたことは、抽象を単なる造形上の流行として理解しないためにも重要です。色や線による表現の可能性は、音楽や民衆芸術をどう評価するかという、より広い美術観と結びついていました。 (参照:ニューヨーク近代美術館|『青騎士年鑑』1912年、ニューヨーク近代美術館|「青騎士」)

シェーンベルクとの出会いと音楽の刺激

1911年初め、カンディンスキーはミュンヘンで作曲家アルノルト・シェーンベルクの音楽を聴き、強い刺激を受けました。二人はその後書簡を交わし、絵画と音楽の新しい表現について関心を共有します。従来の調性に縛られない音楽の可能性は、絵画が対象の姿に頼らず成立するというカンディンスキーの考えと響き合いました。

音楽は、何かを写し取らなくても音の高低や強弱、反復によって独自の構造を作ります。カンディンスキーにとってこの仕組みは、色彩や線もそれ自身の関係によって鑑賞者へ作用しうることを示す重要な手がかりでした。 (参照:ニューヨーク近代美術館|カンディンスキー研究図録、ポンピドゥー・センター|抽象と音楽)

色と形にはどのような力があるのか

『芸術における精神的なもの』の問い

カンディンスキーの著書『芸術における精神的なもの』は1911年末に刊行され、1912年の年記で広まりました。彼は絵画の色や形が、物語や描かれた対象の説明を介さず、人の内面へ働きかける可能性を論じています。絵画を理解するために、何の風景か、誰の肖像かという情報を最初に探す必要が薄れていきました。

この議論には、芸術によって社会や精神を変えられるという強い期待も含まれていました。色を配置する方法は装飾上の選択であると同時に、作品が人間へ何を伝えるのかという問いと結びついています。 (参照:グッゲンハイム美術館|カンディンスキー初期抽象作品、ポンピドゥー・センター|抽象と音楽)

即興、構成、色彩の響き

カンディンスキーは作品の題名に「即興」や「コンポジション(構成)」といった音楽的な言葉を用いました。画面で大きな黒線が斜めに走ると、隣り合う色面のまとまりが崩れ、別のリズムが現れます。柔らかな色の広がりと鋭い筆触の対照も、音の強弱や楽器の組み合わせに似た経験として考えることができます。

ここで重要なのは、赤なら必ず特定の音、青なら必ず特定の感情と対応するという単純な規則ではありません。色と形の関係をどのように構成すれば、画面の内部で独自の緊張と調和が生まれるかを、作品ごとに確かめる実践です。 (参照:ポンピドゥー・センター|抽象と音楽、グッゲンハイム美術館|《白い縁のある絵》)

精神主義と近代科学が近接した時代

カンディンスキーの理論には、当時の神智学や精神主義的な思想への関心が関わっています。同じ時期、科学技術の発展は、人間の目に直接見えない領域への想像力も刺激していました。目に見えないものを表すという課題には、宗教的な内面の探究から自然現象への好奇心まで、複数の動機が重なっていました。

アフ・クリントやカンディンスキーの仕事を比較すると、精神文化が初期抽象の一つの重要な背景であったことが分かります。二人の制作を同じ理論へまとめるより、それぞれの記録と作品の構成から違いを読み取ることが大切です。 (参照:グッゲンハイム美術館|ヒルマ・アフ・クリント展、ポンピドゥー・センター|抽象芸術の成立を考える)

カンディンスキーの絵画を段階的に見る

1911年《コンポジション V》の内部に残る場面

1911年の《コンポジション V》は、黒い線と色のかたまりが大きな画面に押し寄せ、遠くから見るとほぼ非具象的な絵画に見えます。けれども関連する習作や当時の主題を踏まえると、宗教的な復活を思わせるモチーフが読み取れます。鑑賞者がそれをすぐに識別できるかという点と、作者が具体的な主題を構想していたかという点は、分けて考える必要があります。

抽象絵画の成立を一枚の完成図として捉えると、この複雑な状態を見落とします。色や線が自律して見えるようになっても、過去の図像や個人的な記憶が同じ画面に残り続ける場合がありました。 (参照:グッゲンハイム美術館|カンディンスキー初期抽象作品、ポンピドゥー・センター|抽象芸術の誕生)

1912年《即興28》に残る破壊と救済

1912年の《即興28(第2ヴァージョン)》では、激しい色面と線が入り交じり、明確な風景や人物を探し出すことは難しくなっています。グッゲンハイム美術館の研究は、こうした抽象化の中にも破壊や救済を示す簡略化されたモチーフが残っていると説明しています。具体的な主題をどこまで読み取れるかは、画面を観察するうえで興味深い問題です。

線は描写のための輪郭から、画面を横切る力へと変わり始めます。作品を見る人は、何が起きている場面なのかという問いと、線や色の流れをどう経験するかという問いの両方に向き合うことになります。 (参照:グッゲンハイム美術館|カンディンスキー初期抽象作品、グッゲンハイム美術館|《白い縁のある絵》)

1913年《黒い線》《白い縁のある絵》

1913年の《黒い線》では、色のかたまりの間を細い黒線が動き、物の輪郭を描く目的がほとんど感じられなくなります。同じ年の《白い縁のある絵》には、モスクワの記憶や馬と騎手を思わせる要素が極端に簡略化された形で潜んでいます。似た年代の二作品を比べるだけでも、対象を取り去る方法と、対象を抽象的な形へ凝縮する方法が並行していたことが分かります。

カンディンスキーの作品は、1913年を境にすべて一様な純粋抽象へ切り替わったわけではありません。描く行為、色彩の配置、記憶や精神的な主題が、その都度異なる割合で画面を作っていました。 (参照:グッゲンハイム美術館|《白い縁のある絵》、グッゲンハイム美術館|カンディンスキー初期抽象作品)

パリで抽象へ進んだフランティシェク・クプカ

プラハ、ウィーンからパリへ

現在のチェコに生まれたフランティシェク・クプカは、プラハとウィーンで美術を学び、1890年代末にはパリで活動するようになりました。初期には人物画や風刺画、象徴主義に関わる作品を制作し、人体の描写にも熟達していました。後に非具象的な作品へ進んだときも、この観察と構成の経験が失われたわけではありません。

パリには新印象派の色彩理論や写真、科学的な運動研究、音楽など多様な刺激がありました。クプカはそれらを独自に吸収し、身体や物体の姿から、運動のリズムや色彩の働きを取り出そうとします。 (参照:ポンピドゥー・センター|クプカと1912年サロン、プラハ国立美術館|《二色のフーガ》と1912年の公開、ニューヨーク近代美術館|《抽象の発明 1910–1925》展)

人物の動きから曲線へ

クプカの初期の抽象化では、身体の動作が重要な役割を果たしました。球を扱う少女の動きなど、具体的な身振りから回転する線や円弧を探った習作が知られています。身体の輪郭を簡略化すると、やがて誰の手足だったのか分からなくなり、弧の反復だけが独自の造形として現れます。

こうした過程は、カンディンスキーの風景や宗教的主題からの抽象化と異なる経路を示しています。クプカは形が変わる原因や動きの仕組みを丁寧に観察し、そこから画面のリズムを作ろうとしました。 (参照:ポンピドゥー・センター|《二色のフーガ》習作、ポンピドゥー・センター|クプカと1912年サロン)

垂直線と色面に向かう研究

クプカは円弧や回転だけに限らず、垂直線や帯状の色面による構成にも取り組みました。1910年代初めの作品には、形が一定の間隔で繰り返され、視線が上下や左右へ運ばれるものがあります。人物像を解体する実験と、線の反復だけで画面を成立させる実験が、同じ画家の内部で進んでいたのです。

1913年の《黄色の垂直線による配列》などは、具体的な対象から離れた色彩の構造を示しています。抽象絵画が「自由に散らばった形」ばかりでなく、規則や反復による秩序も持っていたことが分かります。 (参照:ニューヨーク近代美術館|抽象芸術展の作品リスト、ポンピドゥー・センター|抽象芸術の誕生)

クプカの《二色のフーガ》と抽象の公開

1912年、サロン・ドートンヌで発表された絵画

1912年、クプカはパリのサロン・ドートンヌに《アモルファ:二色のフーガ》を出品しました。赤と青を中心とする湾曲した形が重なり、人物や風景を直接描いていない大きな画面です。作品は現在プラハ国立美術館の所蔵品で、公開された初期の非具象絵画を考えるうえで重要な位置を占めます。

伝統的な肖像画や歴史画を見慣れた観客にとって、絵の中で起きていることを具体的な物語として説明するのは困難だったはずです。クプカは、色と形の反復そのものを鑑賞する経験を展覧会の場へ持ち込みました。 (参照:ポンピドゥー・センター|クプカと1912年サロン、プラハ国立美術館|《二色のフーガ》と1912年の公開、ニューヨーク近代美術館|《抽象の発明 1910–1925》展)

赤と青の円弧をたどる

《二色のフーガ》を見ると、曲がった帯状の形が中心付近で重なり、左右へ押し広がるように感じられます。赤と青の対照によって形の前後関係が動き、見る位置を変えなくても画面全体が回転しているような印象が生まれます。音楽のフーガが複数の旋律を重ねるように、似た形が少しずつずれて繰り返されます。

音楽と絵画が一対一で置き換えられているわけではありません。反復、変化、重なりによって一つの全体を構成する方法に、両者の接点があります。作品が特定の対象を説明しなくても、見る人へ時間的な経験を与えられることが示されました。 (参照:ポンピドゥー・センター|《二色のフーガ》習作、ポンピドゥー・センター|抽象と音楽)

1912–13年《図形モチーフの配置 II》

《図形モチーフの配置 II》は1912〜13年に制作され、ワシントンのナショナル・ギャラリーが所蔵しています。大きな正方形に近い画面の中心から、白、青、赤、紫、緑などの帯が広がり、線と色による強い方向感を作ります。人の動作を思わせる曲線から、画面全体を動かす構造へ関心が進んだことが見て取れます。

同作品が1913年のサロン・ドートンヌに出品された記録も残ります。制作年と公開年が具体的に確認できる作品を追うと、抽象絵画が個人の構想から公開展覧会の新しい表現として定着していく過程が、より明確になります。 (参照:ワシントン・ナショナル・ギャラリー|《図形モチーフの配置 II》、ニューヨーク近代美術館|抽象芸術展の作品リスト)

ロベール・ドローネーと都市の光

サン=セヴラン聖堂からエッフェル塔へ

パリの画家ロベール・ドローネーは、サン=セヴラン聖堂の内部やエッフェル塔など、具体的な都市風景を出発点にしました。聖堂ではステンドグラスを通る光が建築を変えて見せ、エッフェル塔では鉄骨の形が都市の空気や遠近感と重なります。彼はこうした風景を観察しながら、色彩と視覚の働きそのものへ関心を移していきました。

キュビスムが物体と空間を複数の面に分解する方法を示したことも大きな刺激でした。ドローネーはその方法を使いながら、色を抑えず、むしろ光と色彩の関係を画面の中心に据えました。 (参照:グッゲンハイム美術館|《同時的な窓》1912年、ポンピドゥー・センター|ロベール・ドローネーの抽象化)

エッフェル塔の形が分解される

エッフェル塔を描いた連作では、塔の赤い骨組みや周囲の建物が複数の面へ分解され、窓から見える都市の姿が揺らぎます。構造物としての塔は読み取れますが、どこから見ているのかを一つの遠近法で説明することは難しくなっています。現代都市の象徴が、絵画の構成を試すための題材となりました。

ここには、同じ対象を異なる角度から理解するキュビスムと、近代都市の光を研究するドローネー独自の関心が結びついています。抽象への移行は、塔や建物を単純に消す過程というより、都市を見たときの経験を色彩へ分解していく過程でした。 (参照:グッゲンハイム美術館|《同時的な窓》1912年、ポンピドゥー・センター|ロベール・ドローネーの抽象化)

1912年《同時的な窓》に残る塔の輪郭

1912年の《同時的な窓(第2モチーフ、第1部)》では、透明感のある色面が重なり、赤、青、緑、黄などが互いの見え方を変えます。画面の一部にはまだエッフェル塔を示す緑色の輪郭が残っていますが、遠景と近景の区別は曖昧です。鑑賞者は窓の外の景色を確認しながら、色そのものの関係に目を向けることになります。

グッゲンハイム美術館は、この作品をドローネーが具象的な主題からより純粋な抽象へ踏み出す直前の重要な段階として解説しています。ここでは抽象が、自然や都市を見つめる経験の中から生まれていることがはっきり分かります。 (参照:グッゲンハイム美術館|《同時的な窓》1912年、ポンピドゥー・センター|ロベール・ドローネーの抽象化)

色彩の同時対比とオルフィスム

隣り合う色は互いを変える

ドローネーが重視したのは、色を一つずつ孤立させて見る経験ではありません。ある赤が隣の緑によって強く見え、青と橙の関係が画面全体の明るさを変えるように、色彩は周囲との関係で印象を変えます。19世紀の色彩研究者シュヴルールによる同時対比の理論も、こうした関心を支える重要な手がかりでした。

ドローネーの絵画では、色が物体の輪郭を塗るための材料から、空間やリズムを作る構成要素へ変わっていきます。色面を眺めるだけで明暗や運動を感じさせる方法は、その後の抽象絵画にとっても大きな可能性となりました。 (参照:グッゲンハイム美術館|《同時的な窓》1912年、ポンピドゥー・センター|ロベール・ドローネーの抽象化)

アポリネールが名付けたオルフィスム

詩人・批評家ギヨーム・アポリネールは1912年頃、ドローネーらの色彩を中心とした前衛絵画を「オルフィスム」と呼びました。名称はギリシャ神話の音楽家オルフェウスに由来し、色彩による独立した構成が音楽に似た働きを持つことを示唆しています。キュビスムと関係しながら、色の同時的な作用を重視した潮流として位置づけられます。

この呼び名は、参加した画家全員が同じ宣言を採用したという意味ではありません。クプカなど、それぞれの作家の方法には違いがありました。名称の下に多様な試みが集められていたことを理解すると、初期抽象の複数性が見えてきます。 (参照:グッゲンハイム美術館|《同時的な窓》1912年、ポンピドゥー・センター|抽象芸術の誕生)

1913年、円盤と太陽・月の構成へ

1913年頃のドローネーは、エッフェル塔や窓の景色からさらに離れ、円盤状の色彩構成を発展させます。太陽や月を連想させる円弧や色の帯は、自然の一場面を説明するための輪郭というより、光の明滅や回転を直接感じさせる構造です。色が隣り合う関係だけで動きを生み、画面の中心から外側へ視線を押し広げます。

1912〜13年に制作された《同時対比:太陽と月》などの作品を《窓》連作と比較すると、具体的な景色が後退し、色彩そのものが主題になっていく変化が理解できます。 (参照:ニューヨーク近代美術館|《抽象の発明》展・展示資料、ポンピドゥー・センター|ロベール・ドローネーの抽象化)

ソニア・ドローネーが広げた抽象

絵画から布と衣服へ、色彩の実験

ソニア・ドローネーは旧ロシア帝国に生まれ、パリで制作を続けました。彼女はロベール・ドローネーと色彩について議論しながら、布の配色、衣服、室内装飾などへ実験を広げます。小さな色片を隣接させた作品には、縫い合わせや反復を通して色の関係を確かめる方法が見られます。

抽象表現はキャンバスの上の油彩だけで進んだわけではありません。日常生活にある素材やデザインの実践にも、色の対比とリズムを考える仕事がありました。美術館に展示される絵画だけを起点にすると、その広がりを見落としてしまいます。 (参照:ポンピドゥー・センター|ソニア・ドローネーと抽象、ポンピドゥー・センター|抽象芸術の成立を考える)

1913年、詩と色が並ぶ《シベリア横断鉄道の散文》

1913年、ソニア・ドローネーは詩人ブレーズ・サンドラールと協働し、長い紙を折りたたんだ作品《シベリア横断鉄道の散文とフランスの小さなジャンヌ》を制作しました。文字が並ぶ部分と色彩が連続する部分が一枚の紙の上で向き合い、折りたたんだ本を開くにつれて、詩を読む時間と色を見る時間が重なります。

この仕事は、絵画と詩を一つの場で経験させる実験でした。色彩は詩の場面をそのまま挿絵にする役割から自由になり、文字のリズムとともに動きます。抽象表現が本や印刷物へ広がっていたことを示す重要な例です。 (参照:ポンピドゥー・センター|《シベリア横断鉄道の散文》1913年、ポンピドゥー・センター|詩と色彩の同時的な本)

1914年《電気のプリズム》が描く都市の光

1914年の《電気のプリズム》は、色彩の円弧が幾重にも重なる大きな正方形の絵画です。電灯や都市の人工光から着想を得ながら、画面に街灯そのものを再現する必要はありません。赤、緑、青、黄などの色が隣り合い、視線を回転させるような強い光学的な動きを作ります。

ポンピドゥー・センターの所蔵資料によれば、この作品は1914年のアンデパンダン展で発表されました。画面が何を描いているかを説明する題材から離れ、現代都市の光の経験を色彩の構成として示した点に、ソニアの独自性があります。 (参照:ポンピドゥー・センター|ソニア・ドローネー《電気のプリズム》、ポンピドゥー・センター|ソニア・ドローネーと抽象)

オランダからパリへ向かったモンドリアン

樹木と風景を分解する

ピート・モンドリアンはオランダで風景や樹木を描き、枝の広がりや水平方向の地平線を繰り返し観察していました。木の幹と枝は、自然の複雑な姿を持つと同時に、垂直線と斜線が交差する構造としても捉えられます。画家は写実的な細部を徐々に減らし、構図の骨格へ目を向けるようになっていきました。

この方法には、カンディンスキーの自由な線やクプカの回転する形とは違う方向があります。対象の背後にある安定した構造を探ることが、後の幾何学的抽象へつながる重要な準備になりました。 (参照:グッゲンハイム美術館|モンドリアンとキュビスム、ポンピドゥー・センター|抽象芸術の成立を考える)

1911年のキュビスムとの出会い

モンドリアンは1911年、アムステルダムで紹介されたピカソとブラックのキュビスム作品に刺激を受けました。その翌年にはパリへ移り、物体を複数の面へ分解する新しい絵画の方法をさらに研究します。樹木などを題材に、黒っぽい線と灰色、黄土色に近い面を組み合わせ、何を描いているのか読み取りにくい構成へ進みました。

グッゲンハイム美術館の研究は、モンドリアンがキュビスムから学びながら、形の立体感や重力を示す方法をさらに弱めた点を重視しています。対象を分析する技法が、より独立した画面構成を生む方向へ変化していったのです。 (参照:グッゲンハイム美術館|モンドリアンとキュビスム、ニューヨーク近代美術館|《抽象の発明 1910–1925》展)

1912–1914年、線と面が自律する

1912年から1914年頃のモンドリアンの作品では、樹木や建物を思わせる形が黒い線と淡い色面の組み合わせへ近づきます。輪郭を追っても対象がはっきり姿を現さず、線の間隔、上下左右の均衡、画面端で形が途切れることが鑑賞の中心になっていきます。

後年の原色と垂直・水平の格子による作品を知っていると、この時期を完成へ向かう途中段階と見がちです。実際には、キュビスムをどこまで変化させられるかを探った重要な実験であり、1917年以降のデ・ステイルとの関係を理解するための入口にもなります。 (参照:グッゲンハイム美術館|モンドリアンとキュビスム、ポンピドゥー・センター|抽象芸術の成立を考える)

フランシス・ピカビアともう一つの実験

1912年《泉(春)》の判読しにくい画面

フランシス・ピカビアは印象派風の作品から始め、キュビスムの影響を受けながら独自の抽象へ進みました。1912年の《泉(春)》は巨大な画面を褐色や灰色がかった面が覆い、人物や風景を読み取りにくくしています。同年のサロン・ドートンヌで公開されたとき、当時の批評家たちは何を描いたものか理解できず、強い戸惑いを示しました。

この作品には、カンディンスキーの精神性ともドローネーの透明な色彩とも異なる、厚みと不穏さがあります。初期抽象に一つの外見がなかったことが、こうした作品を並べるとよく分かります。 (参照:ニューヨーク近代美術館|ピカビア《泉(春)》1912年、ニューヨーク近代美術館|《抽象の発明 1910–1925》展)

赤外線調査から見える描き替え

ニューヨーク近代美術館の保存研究では、《泉(春)》の下層に、もともと三人の立つ人物を含む構成があったことが赤外線調査によって示されています。ピカビアはその上から絵具を重ね、人物と背景の境界を曖昧にしていきました。完成した抽象的な表面の下に、具象的な構図の痕跡が残っていたのです。

この資料は、抽象が頭の中で完成した理論をそのまま画面へ移す行為ではなかったことを具体的に伝えます。描き、塗り直し、形を崩す実際の制作行為を通して、対象の姿が徐々に読み取れなくなっていきました。 (参照:ニューヨーク近代美術館|ピカビア《泉(春)》1912年、ニューヨーク近代美術館|《春の踊り II》1912年)

1913年、ニューヨークでの抽象水彩

ピカビアは1913年、アーモリー・ショーの時期にニューヨークを訪れ、滞在中に《ニューヨーク》と題する抽象的な水彩作品を制作しました。摩天楼や道路をそのまま描くより、都市から受けた印象を色と線へ置き換える方法です。実際の都市風景がほとんど描かれていなくても、題名とその体験によって画面の読み方が変わります。

抽象絵画はヨーロッパ内部の様式変化にとどまらず、大西洋を渡る作家や展覧会によって新しい環境へ入りました。後にニューヨークが現代美術の重要な中心地になる歴史を考える際にも、この早い時期の交流が一つの前提となります。 (参照:ニューヨーク近代美術館|ピカビア《ニューヨーク》1913年、ニューヨーク近代美術館|《抽象の発明 1910–1925》展)

1912年、抽象絵画が公の場に現れる

パリのサロンが新しい画面を示す

1912年のパリでは、クプカの《二色のフーガ》やピカビアの《泉(春)》など、具象的な対象をほとんど識別できない作品が公開展覧会に現れました。作品を自分のアトリエに置くだけでなく、他の画家や批評家、一般の観客へ見せることで、それまでにない絵画のあり方が社会的な問題になります。

観客の戸惑いや批評家の反応も、美術史の重要な資料です。作品が理解されたから広まったというだけでなく、理解しにくい作品が議論を生み、その議論が新しい絵画を可視化していった過程を読む必要があります。 (参照:ポンピドゥー・センター|クプカと1912年サロン、ニューヨーク近代美術館|ピカビア《泉(春)》1912年)

展覧会と雑誌による国境を越えた交流

青騎士の展覧会と年鑑、パリのサロン、国際的な美術誌や画廊などが、芸術家たちの作品と考え方をつないでいました。ミュンヘンの画家がパリの新しい作品を知り、パリで活動する画家の作品がドイツで紹介される。移動と交流が、抽象を国境の中に閉じ込めない運動へ育てました。

画家たちが一つの共通宣言に従ったわけではありません。異なる思想や技法を持つ人々が、互いの作品を見たり、批評を読んだりしながら、自分自身の方向を見いだしていきました。 (参照:ニューヨーク近代美術館|《抽象の発明 1910–1925》展、ニューヨーク近代美術館|『青騎士年鑑』1912年)

音楽・詩・舞踊にも広がる抽象

抽象の発明は、絵画だけに起きた出来事として説明しきれません。音楽では調性をめぐる実験が進み、舞踊では具体的な物語から離れた身体の動きが試され、詩や印刷では文字の音や配置そのものが作品の主題になります。視覚芸術の中でも、絵画、彫刻、写真、映画などが異なる方法で同じ時代の感覚に向き合いました。

ニューヨーク近代美術館の「抽象の発明」展は、こうした領域を横断する表現をまとめて紹介しました。絵画の抽象化を他の芸術の実験と一緒に見ることで、20世紀初頭に何が変わろうとしていたのかが立体的に分かります。 (参照:ニューヨーク近代美術館|《抽象の発明 1910–1925》展、ポンピドゥー・センター|抽象と音楽)

抽象絵画と同時代の前衛美術

キュビスムとの距離と接点

キュビスムは物体を複数の面から捉え直し、画面の構造を変えました。そこから抽象へ近づいた画家もいますが、ピカソやブラックの作品には静物、人物、楽器などの対象が持続していました。モンドリアンやドローネーは、同じ分解の手法から出発しても、対象の形をさらに弱め、色や線の構成を主題へ近づけていきます。

キュビスムと抽象絵画は、どちらかが終わってから次が始まった関係ではありません。1910年代初頭、パリをはじめ各地で並行して制作され、相互に刺激を与えていました。年代の重なりをそのまま見ることが重要です。 (参照:グッゲンハイム美術館|モンドリアンとキュビスム、グッゲンハイム美術館|《同時的な窓》1912年)

未来派と運動表現の共通の問題

イタリア未来派は速度、機械、都市、身体の運動を描くために、連続した輪郭や分割された面を用いました。クプカの動作研究やドローネーの色彩による運動感も、同じ時代の視覚経験と関係しています。形の反復や色彩の強い対照という技法の上では、複数の芸術運動が近い問題を扱っていました。

未来派には技術や都市生活を称揚する明確な社会的態度があり、カンディンスキーやクプカは別の関心から抽象へ進みました。見た目が似た作品でも、制作の背景と目指すものを調べることで、各運動の特色がはっきりします。 (参照:ニューヨーク近代美術館|《抽象の発明 1910–1925》展、ポンピドゥー・センター|抽象と音楽)

1914年、第一次世界大戦による転換

1914年の第一次世界大戦勃発は、各地の芸術家の活動を大きく変えました。ミュンヘンの青騎士は活動を終え、ロシア国籍のカンディンスキーはドイツを離れます。フランツ・マルクら仲間の画家にも戦争が直接影響しました。旅行や国際展覧会による活発な交流も、戦時下では以前のように続けられなくなります。

抽象絵画の研究そのものは戦争とともに終わりません。都市や作家の組み合わせが変わり、1915年以降にはロシアのシュプレマティスムや、オランダにおける幾何学的抽象などへ新しい流れが現れていきます。 (参照:ニューヨーク近代美術館|「青騎士」、ニューヨーク近代美術館|《抽象の発明 1910–1925》展)

抽象絵画が残した問いと次の展開

色、線、形による複数の抽象

カンディンスキーは色と線による精神的な表現を深め、クプカは運動や音楽的な構造から、ロベールとソニア・ドローネーは光と色の同時的な関係から、モンドリアンは対象の背後にある構造から抽象へ進みました。アフ・クリントの制作にはさらに先行する独自の実践がありました。同じ「抽象」という語で呼ばれても、それぞれの作品が持つ意図と見た目は大きく異なります。

初期抽象を理解するには、画面に何が描かれていないかを数えるより、色がどのように働き、線がどの方向へ動き、形の反復がどんな経験を作るかを具体的に見ることが役立ちます。 (参照:ポンピドゥー・センター|抽象芸術の成立を考える、ニューヨーク近代美術館|《抽象の発明 1910–1925》展)

1915年のマレーヴィチと1917年以降のデ・ステイル

ロシアでは1915年、マレーヴィチがペトログラードの「0.10」展でシュプレマティスムを発表し、《黒の正方形》などの幾何学的な絵画を示しました。オランダではモンドリアンがさらに構成を変化させ、1917年に始まるデ・ステイルの活動と結びつきます。抽象の成立から数年のうちに、表現は自由な筆触から厳格な幾何学まで大きく広がりました。

この二つの展開は、それぞれ独立した歴史的背景と理論を持っています。1910〜1914年に生まれた複数の試みを理解しておくと、後に現れる抽象の違いを具体的に読み解けるようになります。 (参照:ニューヨーク近代美術館|マレーヴィチと1915年の展覧会、グッゲンハイム美術館|モンドリアンとキュビスム)

抽象画を見るときに何を手がかりにするか

抽象絵画を前にしたとき、何に似ているかをすぐに言い当てる必要はありません。最初に目が向く色はどれか、線の流れがどこで変わるか、同じ形が何度現れるか、画面の端と中心がどのように関係するかを観察すると、作品の構造が少しずつ分かります。次に制作された年代や場所、作家が音楽や都市、精神性をどのように考えていたかを調べると、見え方も変化します。

抽象絵画の誕生は、美術に新しい見方を加えた出来事でした。人物や風景を描く絵画とともに、色、線、形の関係そのものから世界について考える絵画が、20世紀の重要な表現として発展していきます。 (参照:ポンピドゥー・センター|抽象芸術の誕生、ニューヨーク近代美術館|《抽象の発明 1910–1925》展)

年表:抽象絵画の成立と公開

主要作家の制作、展覧会、後年の再評価を年代順に整理します。1906年以前の背景と1915年以降の展開は、1910〜1914年の出来事を理解するための補足です。

  1. 1860年代以降 欧州で色彩理論への関心が広がり、近代絵画の表現を変える手がかりになる。
  2. 1870〜80年代 印象派、新印象派、象徴主義などが、自然の再現と色彩の関係を問い直す。
  3. 1887年 ヒルマ・アフ・クリントがストックホルムの王立美術アカデミーを卒業。
  4. 1896年 カンディンスキーがミュンヘンへ移り、絵画の学習を本格化させる。
  5. 1890年代末 クプカがパリを拠点に活動を始める。
  6. 1906年 アフ・クリントが《神殿のための絵画》の制作を開始。
  7. 1907年 アフ・クリントが《10の最大作品》を制作。
  8. 1908年頃 カンディンスキーとミュンターらがミュルナウ周辺で活動し、風景表現を単純化する。
  9. 1910年頃 クプカが人物の動きと色彩の構成をもとに抽象化を深める。
  10. 1911年 モンドリアンがアムステルダムで紹介されたキュビスムから刺激を受ける。
  11. 1911年 カンディンスキーとフランツ・マルクが「青騎士」の活動を始める。
  12. 1911年 カンディンスキーがシェーンベルクの音楽を聴き、書簡による交流を始める。
  13. 1911年末〜1912年 カンディンスキーの『芸術における精神的なもの』が刊行・流通する。
  14. 1912年 『青騎士年鑑』が刊行される。
  15. 1912年 モンドリアンがパリへ移り、キュビスム研究を深める。
  16. 1912年 ロベール・ドローネーが《同時的な窓》連作に取り組む。
  17. 1912年 クプカが《アモルファ:二色のフーガ》をサロン・ドートンヌに出品。
  18. 1912年 ピカビアが《泉(春)》をサロン・ドートンヌに出品。
  19. 1912〜1913年 クプカが《図形モチーフの配置 II》を制作。
  20. 1913年 カンディンスキーが《黒い線》《白い縁のある絵》などを制作。
  21. 1913年 ソニア・ドローネーとブレーズ・サンドラールが《シベリア横断鉄道の散文》を制作。
  22. 1913年 ピカビアがニューヨークで都市から受けた印象を抽象水彩に描く。
  23. 1913年 ロベール・ドローネーが色彩円盤や太陽・月などの構成を展開。
  24. 1914年 ソニア・ドローネーが《電気のプリズム》を発表。
  25. 1914年 第一次世界大戦が勃発し、ヨーロッパ前衛の国際的な活動環境が変化。
  26. 1915年 マレーヴィチがペトログラードの「0.10」展でシュプレマティスムを発表。
  27. 1917年 オランダで雑誌『デ・ステイル』が創刊され、幾何学的抽象の新しい展開が始まる。
  28. 1986年 アフ・クリントの作品が国際的な展覧会を通じて広い議論へ入る。
  29. 2012〜2013年 ニューヨーク近代美術館で「抽象の発明 1910–1925」展が開催。
  30. 2018〜2019年 グッゲンハイム美術館でアフ・クリントの大規模展が開催。

まとめ:抽象絵画はなぜ生まれたのか

抽象絵画の誕生は、対象の形が画面から消えていく一つの流れにまとめられる出来事ではありません。カンディンスキーは内面と精神性、クプカは運動と音楽、ロベールとソニア・ドローネーは光と色彩の作用、モンドリアンは形の背後にある構造へ、それぞれ異なる関心から近づきました。アフ・クリントの先行する抽象的作品も、同時代に多様な発想が存在したことを示しています。

絵画の制作が変化した背景には、19世紀から続く色彩と形の研究、音楽と舞踊、都市や科学の新しい経験がありました。作品を発表するサロンや画廊、雑誌、芸術家同士の交流も、抽象が個人の実験から国際的な美術の問題へ発展するうえで重要な役割を果たしています。

初期の抽象作品を具体的に見比べると、自由な筆触も、色面の重なりも、反復する曲線も、厳密な構造も、同じ時代の異なる提案だったことが分かります。1915年以降のシュプレマティスムやデ・ステイルを読む際にも、これらの違いが重要な手がかりになります。

参考資料・出典

ニューヨーク近代美術館、ポンピドゥー・センター、グッゲンハイム美術館、ワシントン・ナショナル・ギャラリーによる展覧会研究・作品解説・所蔵品記録をもとに構成しました。作品の制作時期、公開時期、後世の評価を区別し、各小節の本文末尾にも対応資料へのリンクを付しています。

資料確認日:2026年10月13日 / ART LIBRARY