Art Library
Art History

1905–1918

ドイツ表現主義

Die Brücke、Der Blaue Reiter、木版、都市、裸体、色彩、戦争

「ドイツ表現主義」と聞くと、強烈な原色、歪んだ人物、尖った輪郭、都会の不安といった共通イメージが思い浮かびます。しかし、1905年前後から第一次世界大戦にかけてドイツ語圏で起きた動きを一つの様式へまとめると、むしろ重要な違いが見えなくなります。ドレスデンで結成されたDie Brückeは、共同生活、裸体、木版、都市と自然の往復を重視しました。一方、ミュンヘンのDer Blaue Reiter周辺では、色彩の精神性、音楽、民俗芸術、抽象化、国際的な芸術比較が中心的な問題になります。

さらに「表現主義」という言葉自体も、1905年の段階で作家たちが共通の旗印として使っていたわけではありません。Brückeは自らをBrückeと呼び、KandinskyとMarcは1911年にDer Blaue Reiterという年鑑と展覧会の枠組みを作りました。1910年代初頭になって批評家や雑誌が、多様な新しい表現を「Expressionismus」という広い語で束ねるようになります。したがって本記事では、後世の分類語と当時の団体名を区別します。

1905年6月7日、ドレスデンで建築を学んでいたErnst Ludwig Kirchner、Erich Heckel、Karl Schmidt-Rottluff、Fritz Bleylの四人がDie Brückeを結成しました。彼らは美術アカデミー出身ではなく、建築学生として製図や構造を学びながら、美術の既成教育へ強い不満を持っていました。1906年の木版マニフェストでは、既成の価値に対抗する若い世代を広く呼びかけ、「直接で偽りのない」創造を目標として掲げます。

その「直接性」は、単に速く描くという意味ではありませんでした。数分で人体を捉える素描、荒い木版の切断面、未調整に見える鮮烈な色、共同アトリエでの制作、夏の湖畔での裸体などを通して、ブルジョワ社会の規律やアカデミーの完成観から距離を取ろうとしたのです。しかし彼らが「自由」「自然」「原初性」と考えたものには、今日から見ると明確な問題もあります。若年モデルの裸体表現、植民地支配下の地域から収集された工芸品の利用、非西欧社会を「文明以前」の自由な世界として理想化した視線です。

Brückeの作家たちはドレスデンやベルリンの民族学博物館でアフリカ、オセアニアなどの作品を見て、彫刻、家具、木版へ積極的に取り込みました。ドイツ帝国は当時植民地を保有しており、博物館に集められた多くの物は植民地支配と切り離せません。Brücke-Museum自身も近年、この関係を「影響」だけでなく、文化的流用、植民地主義、人種観の問題として再検討しています。

1911年にBrückeの中心メンバーがベルリンへ移ると、共同生活の理想は大都市の速度と緊張へ置き換わっていきます。Kirchnerの街路画では、帽子と長い衣服を身につけた人物、交差する歩行、車道、ショーウィンドウが鋭角化し、都市は自由の場所であると同時に、人間を孤立させる空間として現れます。グループとしての統一も弱まり、1913年には内部対立から解散しました。

一方、ミュンヘンではKandinsky、Gabriele Münter、Alexej von Jawlensky、Marianne von Werefkinらが1908年頃からMurnauで共同制作を行い、1909年にNeue Künstlervereinigung Münchenを結成しました。1911年、Kandinskyの極端に抽象化された作品をめぐる対立からKandinsky、Franz Marc、Münterが離脱し、直ちに最初のDer Blaue Reiter展を開きます。ここで重要なのは、Blaue Reiterが厳格な会員制グループではなく、展覧会と年鑑を中心にした柔軟な国際ネットワークだったことです。

1912年の年鑑『Der Blaue Reiter』には、同時代のフランス・ロシア・ドイツ美術だけでなく、バイエルンのガラス絵、子どもの絵、民俗芸術、アフリカ彫刻、エジプトの影絵、音楽、舞台までが並べられました。KandinskyとMarcは、美術の価値を国籍・時代・ジャンルから解放し、「内的な表現」の共通性から見ようとしました。しかしこの普遍主義にも、異文化の歴史的文脈を取り去って「本質的な表現」として再分類する危うさが含まれています。

第一次世界大戦は、この国際的なネットワークを物理的に破壊しました。ロシア国籍のKandinskyは1914年にドイツを離れ、August Mackeは同年9月に戦死、Franz Marcは1916年ヴェルダンで戦死します。Brücke出身者も軍務や医療部隊へ入り、制作条件は大きく変化しました。戦争以前には文明刷新の可能性として期待された「破壊」が、実際の工業戦争として現れたことで、表現主義の理想は決定的に変質します。

本記事では、ドイツ表現主義を「感情を強く描いた絵画」としてではなく、都市化、共同制作、木版、印刷、展覧会、画廊、雑誌、民俗文化、植民地主義、抽象、戦争が交差した美術史として追います。絵画の見た目だけでなく、誰と作り、どこで見せ、どのように複製し、何を異文化から借り、戦争によってどう分断されたのかまで含めることで、1905–1918年の複雑な地図を描きます。

CONTENTS

  1. 「表現主義」は最初から一つの運動名ではなかった
  2. 複数の中心地から見る
  3. ヴィルヘルム期ドイツの社会
  4. アカデミーへの不満
  5. 1905年以前にも「表現的」な美術は存在した
  6. ムンクから受けた刺激
  7. Van Goghの筆触と色
  8. Fauvismとの同時代性
  9. 1905年6月7日 — Die Brücke結成
  10. なぜ「橋」なのか
  11. 四人は同じ作風ではなかった
  12. 空き店舗を共同アトリエにする
  13. 芸術と生活を一致させたい
  14. 「15分の裸体素描」
  15. 速さは目的ではなく方法だった
  16. モデルと共同生活
  17. Fränziをめぐる再評価
  18. 1906年の木版マニフェスト
  19. 宣言文そのものを木で彫る
  20. 木版の復興
  21. 「木で考える」
  22. 版画は流通媒体でもあった
  23. 「受動会員」という支援制度
  24. Rosa Schapire
  25. 年次版画集
  26. 国際的に仲間を増やす
  27. Max Pechsteinの参加
  28. Emil Noldeの短い参加
  29. Noldeと色彩
  30. Otto Mueller
  31. Moritzburgの湖畔
  32. 自然の中の裸体という理想
  33. しかし「自然」は作られた概念だった
  34. ドイツ帝国と植民地主義
  35. 民族学博物館を見る
  36. 「プリミティヴィズム」という語をそのまま使わない
  37. 参照と文化的流用の緊張
  38. ベニンの作品
  39. Palauの建築装飾
  40. PechsteinのPalau旅行
  41. Noldeと南洋調査旅行
  42. 「自由な生活」の理想と植民地主義の矛盾
  43. 非西欧美術だけでなく「古いドイツ」も見る
  44. Dürerとの距離と接続
  45. Dresdenも近代都市だった
  46. Kirchner《Street, Dresden》
  47. 都市を客観的に記録しない
  48. 1911年 — Berlinへ
  49. 巨大都市Berlin
  50. KirchnerのBerlin街路画
  51. 街路の女性像
  52. 衣服が身体を尖らせる
  53. サーカス、キャバレー、ダンス
  54. BerlinのKirchnerのアトリエ
  55. 共同体から個人様式へ
  56. Berlin Secessionとの関係
  57. 1912年Pechstein離脱
  58. 1913年『Brücke年代記』
  59. 1913年5月27日解散
  60. 解散後も「Brücke様式」は続かない
  61. Blaue Reiter以前のMunich
  62. 1908年Murnau
  63. Gabriele Münterの風景
  64. Münterを「Kandinskyの伴侶」にしない
  65. Marianne von Werefkin
  66. Werefkinは理論的中心でもあった
  67. Alexej von Jawlensky
  68. 1909年Neue Künstlervereinigung München
  69. NKVM展と批判
  70. Franz Marcの参加
  71. 1911年、年鑑を構想する
  72. 「青」と「騎士」
  73. 1911年12月の分裂
  74. 1911年12月、最初のBlaue Reiter展
  75. 厳格な会員制グループではない
  76. 1912年第2回展
  77. 1912年5月『Der Blaue Reiter』年鑑
  78. 異なる時代と文化を並べる
  79. 普遍主義の可能性と問題
  80. 民俗芸術
  81. 子どもの絵
  82. 音楽との関係
  83. Arnold Schoenberg
  84. Kandinsky『芸術における精神的なもの』
  85. Impression/Improvisation/Composition
  86. Kandinskyと木版
  87. 『Klänge』
  88. 抽象は突然ゼロから始まらない
  89. Franz Marcと動物
  90. 《Blue Horse I》
  91. Marcの色彩観
  92. CubismとDelaunay
  93. August Macke
  94. Mackeの都市生活
  95. 1914年Tunis旅行
  96. Paul Klee
  97. WerefkinとJawlenskyの位置を正確にする
  98. Elisabeth Epstein
  99. Maria Franck-Marc
  100. Blaue Reiterの国際性
  101. Herwarth Waldenと『Der Sturm』
  102. 雑誌が前衛を作る
  103. 『Die Aktion』
  104. 絵画だけの運動ではない
  105. 1913年Erster Deutscher Herbstsalon
  106. ドイツ対フランスという図式を越える
  107. 1913年は頂点であり分岐点
  108. 1914年8月 — 第一次世界大戦
  109. 初期の戦争熱狂
  110. August Mackeの戦死
  111. Franz Marcと戦争
  112. 1916年Verdunでの死
  113. KandinskyはRussiaへ戻る
  114. Münterと戦時期
  115. Kirchnerの軍務と崩壊
  116. 《兵士としての自画像》
  117. Heckelの医療部隊
  118. Schmidt-Rottluffの軍務
  119. 戦争と宗教木版
  120. 戦争が媒体を変える
  121. 戦争への反応は一つではない
  122. 1918年で表現主義は終わらない
  123. 1918年を区切りにする理由
  124. BrückeとBlaue Reiterの身体観
  125. 自然の意味も異なる
  126. 色彩は共通していても目的が違う
  127. 木版という意外な共通項
  128. 組織形態の違い
  129. DresdenとMunich
  130. Berlinが交差点になる
  131. 画廊が前衛をつなぐ
  132. コレクターと支援者
  133. 市場との緊張
  134. ジェンダーの問題
  135. 女性は「ミューズ」だけではない
  136. 裸体と性的自由
  137. 「ブルジョワ社会への反抗」という自己像
  138. 精神性は宗教一つではない
  139. 黙示録的イメージ
  140. 近代性への両義的態度
  141. 技術は敵ではない
  142. 複製とアクセス
  143. 「原作」と「複数」の関係
  144. 工芸/美術の境界
  145. 民俗とモダンは反対ではない
  146. 子どもの絵と前衛
  147. 制度外の表現への憧れ
  148. 「感情を描く」だけでは説明できない
  149. 「直接性」という神話
  150. 即興と編集は両立する
  151. 芸術家グループの時代
  152. マニフェスト文化
  153. 展覧会を「主張」として使う
  154. 年鑑を紙上の展覧会にする
  155. 美術史記述を更新する
  156. Brücke-Museum自身の再検討
  157. 工業戦争が近代観を変える
  158. 戦後は政治化が強まる
  159. Neue Sachlichkeitへの反動
  160. 後世の「退廃芸術」弾圧
  161. 戦後の正典化
  162. なぜBrückeとBlaue Reiterを同じ記事で扱うのか
  163. 「表現主義らしい見た目」を探さない
  164. 1905–1918年に起きたこと
  165. ART HISTORYとしてのまとめ
  166. 参考資料・出典

「表現主義」は最初から一つの運動名ではなかった

Expressionismusという語は1910年代初頭に批評の中で広がり、Paul Ferdinand Schmidtが1911年に発表した「Die Expressionisten」は早い擁護の一例です。しかし1905年のBrücke創設者たちは自分たちを「表現主義者」として結成したわけではなく、1911年のBlaue Reiterも独自の展覧会・出版プロジェクトでした。後世の美術史は、異なる地域・目的・作風を持つ複数の動きを一つの大きなカテゴリーとして整理したのです。

複数の中心地から見る

20世紀初頭のドイツ語圏では、ドレスデン、ベルリン、ミュンヘン、ウィーンなどが互いに異なる前衛文化を形成しました。MoMAもExpressionismを単一中心の様式ではなく、Brückeのドレスデン、Blaue Reiterのミュンヘン、Schieleらのウィーンなど複数拠点の動きとして整理しています。本記事では特にドイツ国内の二大ネットワーク、BrückeとBlaue Reiterを軸にします。

ヴィルヘルム期ドイツの社会

1871年の帝国成立後、ドイツは急速な工業化と都市化を経験しました。ベルリンは1910年頃には人口200万人を超える巨大都市となり、鉄道、工場、百貨店、広告、娯楽産業が生活を変えていました。社会の近代化は解放感だけでなく、速度、匿名性、階級格差、軍国主義への緊張も生み、表現主義の都市像や身体像の背景になります。

アカデミーへの不満

国家的な美術教育と公募展では、歴史画、自然主義的な素描能力、仕上げの完成度が依然として強い基準でした。Brückeの創設者たちは美術アカデミーを経ず、直接的な制作を掲げました。Blaue Reiter側でも、自然の見た目を再現することより、色・形・音楽的構造を通じて精神的内容を表現することが重視されます。

1905年以前にも「表現的」な美術は存在した

Munch、Van Gogh、Gauguin、Ensor、Nolde、Paula Modersohn-Becker、Christian Rohlfsなど、Brücke結成以前から外見の忠実な再現を離れ、色や形を感情的に変形する作家はいました。したがって1905年を絶対的な「表現主義の誕生年」とするより、若いグループが共同組織として新しい表現を宣言した重要な節目と見る方が正確です。

前の記事で扱ったEdvard Munchは1892年ベルリン展以来ドイツ語圏で強い影響を持ちました。人物の心理を自然色ではない色彩、単純化した輪郭、版画へ変換する方法は若い作家に具体的な先例を与えます。ただしBrückeやBlaue Reiterはムンクの模倣集団ではなく、その可能性を木版、共同制作、抽象化など別方向へ押し広げました。

Van Goghの回顧展や画廊展示はドイツの若い作家に大きな刺激を与えました。対象の自然色より、画家自身の感覚を筆触と色へ刻む方法は、Kirchner、Jawlensky、Werefkinなど多くの作家に共有されます。

Fauvismとの同時代性

1905年はParisのSalon d’AutomneでMatisse、Derainらが「Fauves」と呼ばれた年でもあります。BrückeとFauvismには強い非自然色や形の単純化という類似がありますが、一方から他方がそのまま生まれたわけではありません。各地で共通する問題が異なる社会・文化の中から並行して現れました。

1905年6月7日 — Die Brücke結成

Kirchner、Heckel、Schmidt-Rottluff、Bleylの四人はDresdenのTechnische Hochschuleで建築を学ぶ友人でした。Brücke-Museumによれば、1905年6月7日にグループを結成します。絵画教育の正統ルートではなく建築学生から始まったことは、家具、室内、彫刻、印刷まで媒体を横断する彼らの姿勢とも関係します。

なぜ「橋」なのか

Brückeという名前は、過去から未来へ橋を架けるという若者らしい自己像と結びついています。特定様式を指す名称ではなく、新しい世代へ移るための集団を表す言葉でした。後にメンバーは国際作家を積極的に勧誘し、自分たちを閉じた地方グループではなく、未来の芸術家を結ぶネットワークにしようとします。

四人は同じ作風ではなかった

Kirchner、Heckel、Schmidt-Rottluff、Bleylは共同制作を通して一時期非常に近い表現へ向かいましたが、性格も関心も異なりました。Bleylは1907年に比較的早く離れ、Kirchner、Heckel、Schmidt-Rottluffが長期的な核となります。グループ史をKirchner一人の発明として書くのは適切ではありません。

空き店舗を共同アトリエにする

HeckelとSchmidt-RottluffはDresdenに空き店舗を借り、初期Brückeの共同アトリエとしました。そこでは制作、モデルとのセッション、版画、友人との交流が一つの生活空間に重なります。作品を学校課題として作るのではなく、日常そのものを制作環境へ変えようとする試みでした。

芸術と生活を一致させたい

Brückeのメンバーは、芸術を額縁の中だけに限定せず、家具、壁面、彫刻、版画、衣服、身体、生活空間を一体化しようとしました。これはArts and CraftsやArt Nouveauの総合芸術と一部共鳴しますが、より若者文化的で、意図的に即興性と非公式性を重視する点が特徴です。

「15分の裸体素描」

Kirchnerらは短時間で人体を捉える「Viertelstundenakt」と呼ばれる速写を行いました。長時間ポーズで筋肉や骨格を精密に仕上げるアカデミック素描と違い、動きと姿勢を一気に捉えることを目指します。この訓練が、後の鋭い輪郭と簡略化した身体へつながりました。

速さは目的ではなく方法だった

短時間で描くことは「雑に描く」ためではありません。判断を迷う時間を減らし、習得した美術史的な定型を介さず身体の動きを直接線へ変えるという思想がありました。ただし、その「無媒介な直接性」も実際には訓練と集団内の共有様式によって形成されたものです。

モデルと共同生活

Brückeのアトリエでは職業モデルだけでなく友人や知人がモデルとなり、制作と社交が混ざり合いました。彼らはこの環境をブルジョワ的規範から自由な生活とみなしましたが、現在の研究では、若年モデルを含む裸体制作に伴う力関係や倫理についても再検討されています。

Fränziをめぐる再評価

Moritzburg期に繰り返し描かれたFränziなど若いモデルは、かつて「自然で自由な少女」というロマン化された説明で扱われがちでした。Brücke-Museumは近年、子どもを裸体モデルとして使ったことを現代の観点から批判的に見直しています。前衛芸術の「自由」を語るとき、モデル側の立場を消さないことが重要です。

1906年の木版マニフェスト

Kirchnerが木版に彫った1906年のBrückeプログラムは、既成の年長世代から自由になり、自らを創作へ駆り立てるものを直接表現する若者を広く仲間として呼びかけました。文章そのものを木版で印刷したことは、彼らが思想と媒体を最初から結びつけていたことを示します。

宣言文そのものを木で彫る

活字印刷ではなく、文字を板へ直接彫ることで、文章は画像と同じ身体的な切断痕を持ちます。線が不均一であることも、機械的な均質さへの対抗として視覚化されました。マニフェストは内容だけでなく物質としてBrückeの美学を示していました。

木版の復興

Brückeにとって木版は最重要媒体の一つでした。当時の近代版画ではエッチングやリトグラフも盛んでしたが、彼らは木版を中世末・ルネサンス期ドイツ美術、特にDürerなどへつながる国内の伝統として再評価します。古い媒体を使いながら、表現は意図的に粗く、鋭く、現代的になりました。

「木で考える」

木版では、絵筆のように色を足すより、板を切り取ることで白と黒を作ります。木目、抵抗、刃物の方向が像に入り込み、形を簡略化せざるを得ません。この制約が、輪郭を強くし、顔や身体を大胆な面へ圧縮するBrückeの造形を支えました。

木版・リトグラフ・エッチングは複数刷れるため、小規模な若者グループでも作品を広く配布できます。展覧会招待状、カタログ、ポスター、会報、年次ポートフォリオへ版画を用い、Brückeは制作と広報を同じ手で行いました。

「受動会員」という支援制度

Brückeは作家以外の支援者をpassive membersとして募り、年会費と引き換えに毎年グラフィック作品のポートフォリオを送りました。これは若いグループに収入をもたらすだけでなく、コレクターとの直接関係を作る方法でした。

Rosa Schapire

美術史家・批評家Rosa Schapireは1907年に最初期のpassive memberとなり、HeckelやSchmidt-Rottluffの作品を支援しました。作家グループの歴史は制作する男性だけではなく、批評、購入、保存、紹介を担った人物なしには成立しません。

年次版画集

1906年からBrückeは年次ポートフォリオを制作し、メンバー作品をまとめて支援者へ届けました。後に画商I.B. Neumannなどが版画流通をより専門化し、限定部数や商業配布の仕組みが整います。

国際的に仲間を増やす

Max Pechstein、Emil Nolde、Cuno Amiet、Akseli Gallen-Kallela、Kees van Dongen、Otto Mueller、Bohumil Kubištaなどが時期を異にしてBrückeに参加しました。参加期間も関与の深さも一定ではなく、Brückeは四人だけの固定チームではありません。

Max Pechsteinの参加

Pechsteinは1906年に加わり、アカデミーで学んだ経験を持つ点で創設者たちと異なりました。強い色彩と人物表現を共有しながら、ベルリンでの展示機会や国際志向をグループへ持ち込みました。

Emil Noldeの短い参加

Noldeも1906年に招かれましたが、1907年には離脱しました。Brücke-Museumによれば、彼の関与は共同展への参加が中心で、若いメンバーとの個人的関係やネットワークをめぐる不満も脱退に影響しました。後世に主要表現主義者として並べられても、Brücke所属は短期間だったことを区別する必要があります。

Noldeと色彩

Noldeの絵画・版画では宗教主題、花、海、人物が強烈な色と荒い輪郭で描かれます。Brückeの若い作家は彼から色彩と版画の可能性を学ぶ一方、Nolde自身も彼らとの交流から刺激を受けました。

Otto Mueller

Muellerは1910年にBrückeへ参加し、細長い人物と静かな自然を描きました。Kirchnerの都市的な鋭さやNoldeの劇的な色とは異なり、抑えた色面と簡潔な人体を特徴とします。グループ内部にも複数の表現主義が存在しました。

Moritzburgの湖畔

1909–1911年頃、Kirchner、Heckel、PechsteinらはDresden近郊のMoritzburg湖沼地帯で夏を過ごし、裸体と水辺を繰り返し描きました。都市の服装・労働規律から離れ、泳ぐ、寝そべる、踊る身体を描くことを、彼らは新しい生活と芸術の一致として理想化しました。

自然の中の裸体という理想

裸体は古典神話のヴィーナスや英雄ではなく、同時代の友人やモデルとして描かれました。身体を社会的な衣服・階級記号から解放し、「文明以前」の直接性を得ようとする思想がありました。

しかし「自然」は作られた概念だった

Moritzburgの裸体生活は、都市の若い芸術家が一時的に選んだ夏の実験であり、社会から完全に離れた原初生活ではありません。彼らが「自然」と呼んだものには、当時の裸体文化運動、健康改革、植民地的な「原始社会」観が混ざっていました。

ドイツ帝国と植民地主義

Brückeが活動した時期、ドイツ帝国はアフリカと太平洋地域に植民地を持っていました。美術館・民族学博物館へ集められた多くの物は、植民地行政、軍事遠征、宣教師、商人などのネットワークを通じてヨーロッパへ移動しました。

民族学博物館を見る

KirchnerらはDresdenとBerlinの民族学博物館でアフリカ、オセアニア、東南アジアなどの彫刻・装飾を研究し、人物の単純化、鋭角的な形、家具や室内装飾へ取り込みました。

「プリミティヴィズム」という語をそのまま使わない

20世紀美術史ではこの関心をPrimitivismと呼んできましたが、現在では非西欧文化を「未開」「原始」と位置づけるヨーロッパ中心的概念として批判されています。作品の形式的影響だけでなく、その分類語が持つ権力関係も説明する必要があります。

参照と文化的流用の緊張

Brücke-Museumは近年、彼らが非西欧の作品から強い刺激を受けた一方、制作の社会的・宗教的文脈や植民地支配の構造をほとんど顧みず、形式を自分たちの芸術革新へ利用したことを明確に指摘しています。

ベニンの作品

PechsteinなどはBerlinの民族学博物館でベニン王国の金属作品や浮彫を見て、構図や人物表現へ取り入れました。これらの多くは19世紀末の英国軍事侵攻後にヨーロッパへ流出した歴史と切り離せません。

Palauの建築装飾

Dresdenの民族学博物館にあったPalauの建築浮彫もBrücke作家に影響しました。人体や樹木を単純化した形が絵画・彫刻へ取り込まれています。

PechsteinのPalau旅行

Pechsteinは1914年に当時ドイツ領ニューギニアの一部だったPalauへ向かいました。彼はヨーロッパで失われた「原初的な楽園」をそこに期待していましたが、Brücke-Museumが指摘するように、その視線自体が植民地主義とエキゾティシズムに強く規定されていました。

Noldeと南洋調査旅行

Noldeもドイツ植民地行政に関連する南洋調査旅行へ同行しました。彼の水彩・素描は現地の人々を記録する一方、当時の人種分類や植民地的視線と無関係ではありません。表現主義の「他文化への開放性」を称賛するだけでは、この関係を見落とします。

「自由な生活」の理想と植民地主義の矛盾

Brückeは欧州ブルジョワ社会の価値を批判し、非西欧文化に代替的な生の形を求めました。しかし、その文化へアクセスできたこと自体が植民地支配による物と情報の移動に依存していました。反ブルジョワ的前衛が帝国構造の外にいたわけではありません。

非西欧美術だけでなく「古いドイツ」も見る

Brückeは同時に中世・ルネサンスのドイツ木版や彫刻にも関心を持ちました。未来の芸術を作るために、近代アカデミーより古い国内伝統と欧州外の美術を並行して参照するという、一見矛盾した歴史観を持っていました。

Dürerとの距離と接続

Dürerの木版は極めて精密ですが、Brückeはその技法を模倣したわけではありません。むしろ木という素材へ直接刃物を入れる古い制作原理を取り戻し、細部を削って荒い現代的表現へ変えました。

Dresdenも近代都市だった

Brücke初期は自然だけを描いたわけではありません。Dresdenの橋、路面電車、街路、劇場、サーカスなども主題となり、近代都市への関心はBerlin移住以前から始まっています。

Kirchner《Street, Dresden》

MoMA所蔵の《Street, Dresden》では、群衆が鮮烈な色と鋭い輪郭で押し寄せます。透視図法的な都市空間より、人と人の距離の近さ、速度、視覚刺激が画面を支配します。

都市を客観的に記録しない

建物や道路を正確な都市景観として描くのではなく、都市生活が身体へ与える圧力を色と形へ変換します。これがExpressionismを「感情の絵」と呼ぶだけでは足りない理由で、感情は社会環境と構図から生まれています。

1911年 — Berlinへ

Heckel、Kirchner、Schmidt-Rottluff、Pechsteinらは相次いでBerlinへ活動拠点を移しました。Brücke-Museumによれば、大都市での経験は各作家の個性をむしろ強め、Dresden時代の共同様式は解体していきます。

巨大都市Berlin

Berlinでは百貨店、交通、カフェ、劇場、娯楽産業、広告が密集し、人間は大量の見知らぬ人とすれ違います。Brücke作品の人物は自然の中で一体化する身体から、都市で互いを避けながら移動する身体へ変わります。

KirchnerのBerlin街路画

1913年頃からKirchnerはBerlin Street Sceneシリーズを発展させます。長い帽子、細長い身体、斜めに切り込む道路、密集する群衆によって、都市は華やかでありながら不安定な舞台として表現されます。

街路の女性像

街路画に描かれる女性の一部は、当時の都市文化で性労働と結びつけて理解される服装・振る舞いを持ちます。Kirchnerは都市の消費、視線、性、匿名性を同じ空間へ重ねました。

衣服が身体を尖らせる

Moritzburgでは裸身が大きな色面として描かれましたが、Berlinでは帽子、コート、襟、靴の形が人体を鋭角化します。身体表現が生活環境によって変化することが分かります。

サーカス、キャバレー、ダンス

Brückeの作家は舞台、サーカス、ダンサーも頻繁に描きました。身体が規律から外れ、跳躍・回転する場所として魅力を感じた一方、都市娯楽産業のスペクタクルそのものへの関心もありました。

BerlinのKirchnerのアトリエ

Kirchnerの部屋には自作の家具、彫刻、布、非西欧美術の収集品が置かれ、制作・生活・展示が一体化していました。Art Nouveau的な総合設計とは異なり、粗い彫刻と鮮烈な布を組み合わせた個人的な「生活作品」に近い空間でした。

共同体から個人様式へ

大都市では展覧会機会や画商との関係が増え、各作家は個別のキャリアを築き始めました。集団として「同じ絵を描く」必要は薄れ、Brückeの結束そのものが緊張します。

Berlin Secessionとの関係

前衛的だったBerlin Secessionも1910年代には新世代から保守的と批判されます。Pechsteinらは展示機会をめぐってNeue Secessionにも関与し、前衛組織が数年で新しい制度的対立を生む構造が繰り返されました。

1912年Pechstein離脱

PechsteinがBerlin Secessionで単独出品したことは、共同展示を原則とするBrückeのメンバーに受け入れられず、1912年にグループを離れることになります。集団主義と個人キャリアの両立が難しくなっていました。

1913年『Brücke年代記』

残ったKirchner、Heckel、Schmidt-Rottluff、Muellerはグループの結束を示すためChronik KG Brückeを企画しました。ところがKirchnerの文章が自分を中心人物として描きすぎていると他のメンバーが反発し、むしろ解散の引き金になります。

1913年5月27日解散

BrückeはBerlinで1913年5月27日に解散しました。戦争が始まる前にすでにグループは終わっており、「第一次世界大戦がBrückeを解散させた」という説明は正確ではありません。

解散後も「Brücke様式」は続かない

グループ解散後、Kirchner、Heckel、Schmidt-Rottluff、Muellerはそれぞれ別方向へ進みます。Brückeは一時期の共同制作環境であり、各作家の生涯全体を説明する恒久的様式ではありません。

Blaue Reiter以前のMunich

MunichではBrückeとは別に、ロシア出身作家を含む国際的な芸術家ネットワークが形成されていました。Kandinsky、Münter、Jawlensky、WerefkinはParis、Russia、Bavariaを行き来しながら、Fauvism、Symbolism、folk artなどを研究します。

1908年Murnau

KandinskyとMünterは1908年にMurnau周辺を訪れ、JawlenskyとWerefkinと共同制作を行いました。Lenbachhausによれば、この共同制作は色を自然から解放し、遠近法を弱め、形を大胆に単純化する重要な転換になりました。

Gabriele Münterの風景

MünterはMurnauの街路、湿地、山を、黒い輪郭と平らな色面で描きました。風景を写実的な遠近空間へ戻すのではなく、色の隣接と単純な形で構成します。

Münterを「Kandinskyの伴侶」にしない

Münterは独自の画家・写真家であり、Blaue Reiter形成の中心人物でした。共同制作の場を作り、自宅で民俗芸術を収集し、展覧会に参加し、後には膨大な作品群を保存する役割も担います。

Marianne von Werefkin

Werefkinはロシアで画家として評価された後、Munich移住後に約10年間自分の制作を中断しJawlenskyを支えました。1900年代半ばに制作へ戻ると、MunchやSymbolismを参照しながら、人間が外的・内的力に翻弄される場面を強い色で描きます。

Werefkinは理論的中心でもあった

LenbachhausはWerefkinをNKVMとBlaue Reiter周辺の「思想的先駆者」の一人として位置づけています。彼女の住居は議論の場となり、国際芸術に関する知識がグループ形成へ大きく貢献しました。

Alexej von Jawlensky

JawlenskyはMurnau期に強烈な色対比と黒い輪郭を用い、風景と人物を単純化しました。Lenbachhausは1908–09年頃、彼がMurnauの四人の中で形式的に最も先鋭化していた時期があったと指摘しています。

1909年Neue Künstlervereinigung München

Kandinsky、Münter、Jawlensky、Werefkinらは1909年にNeue Künstlervereinigung München(NKVM)を結成しました。目的は新しい美術の展示機会を作ることで、ここでも作品様式だけでなく展示制度の問題が中心にあります。

NKVM展と批判

Galerie Thannhauserで開かれたNKVM展は新聞から厳しい批判を受けました。しかし批判は新しいネットワークを可視化し、1910年の第2回展を擁護したFranz MarcがKandinskyらと接触するきっかけにもなります。

Franz Marcの参加

Marcは動物と自然を中心に描きながら、現代社会の物質主義から離れた精神的世界を求めていました。1910年のNKVM展を擁護したことからKandinskyらと知り合い、やがてKandinskyと非常に近い協力関係を築きます。

1911年、年鑑を構想する

KandinskyとMarcは1911年、国際的な芸術・音楽・民俗文化を並置する年鑑を計画し、その題を『Der Blaue Reiter』と決めました。つまり「青騎士」はまず固定会員の団体名ではなく、出版プロジェクトの名称として構想されました。

「青」と「騎士」

KandinskyとMarcはいずれも青を好み、馬・騎士のモチーフに関心を持っていましたが、名称の由来には後年の回想も混ざります。聖ゲオルギウスやロシア・ドイツの中世的騎士像など、多様な文化的連想を持つ記号として理解するのが適切です。

1911年12月の分裂

NKVM第3回展の審査でKandinskyの極端に抽象化された大作が規定を理由に拒否され、Kandinsky、Marc、Münterは協会を離れました。対立は突然起きたのではなく、すでに年鑑計画や芸術観をめぐる緊張が蓄積していました。

1911年12月、最初のBlaue Reiter展

三人は短期間でGalerie Thannhauserに独自展を組織しました。Lenbachhausによれば、約50点が展示され、Kandinsky、Marc、MünterだけでなくRobert Delaunay、Henri Rousseau、August Macke、Arnold Schoenbergなど国籍・媒体の異なる作家が参加しました。

厳格な会員制グループではない

最初の展覧会に参加した全員が「Blaue Reiterの正式メンバー」だったわけではありません。Blaue ReiterはBrückeよりも緩やかな展覧会・出版ネットワークで、共通様式より新しい芸術の精神的・国際的連関を示すことを重視しました。

1912年第2回展

1912年春、Galerie Goltzで開かれた第2回Blaue Reiter展は紙作品に重点を置き、Paul Klee、Alfred Kubinらも参加しました。絵画だけではなく版画・素描が新美術の重要媒体として扱われています。

1912年5月『Der Blaue Reiter』年鑑

長い準備を経て年鑑は1912年5月に刊行されました。KandinskyとMarcは同時代の前衛、民俗芸術、子どもの絵、宗教美術、非西欧美術、音楽、舞台論を一冊の中へ配置しました。

異なる時代と文化を並べる

年鑑の革新は「新しいドイツ絵画を紹介する本」ではないことです。古い宗教像、バイエルンのガラス絵、アフリカ彫刻、子どもの絵、Picasso、Delaunay、音楽理論などを並置し、形式の歴史より表現の内的必然性を重視しました。

普遍主義の可能性と問題

国籍・年代・ジャンルの上下関係を崩す姿勢は当時として非常に開かれていました。一方、異文化の作品を本来の宗教・社会・政治的文脈から切り離し、「純粋な表現」の証拠として再配置することは、今日から見ると別の形の文化的占有でもあります。

民俗芸術

KandinskyとMünterはBavariaのreverse glass paintingなど民俗美術を収集し、簡潔な輪郭、鮮烈な色、正面性から刺激を受けました。専門美術家による油彩だけを芸術の頂点に置かない考え方が、Blaue Reiterの重要な基盤です。

子どもの絵

子どもの絵も、訓練以前の直接的表現として高く評価されました。ただし大人の芸術家が子どもを「純粋な創造性」の象徴として利用する構図もあり、実際の子どもの制作文脈とは区別する必要があります。

音楽との関係

Blaue Reiterでは音楽が重要な比較対象でした。音楽は物体を再現しなくても色・音の関係だけで感情や構造を作れるため、Kandinskyにとって絵画が再現から離れるための強力なモデルになりました。

Arnold Schoenberg

Kandinskyは1911年にSchoenbergの演奏会を聴き、両者は交流を始めます。Schoenberg自身も絵画を制作し、Blaue Reiter展にも参加しました。調性から離れる音楽と再現から離れる絵画が同時代的な実験として結びつきました。

Kandinsky『芸術における精神的なもの』

1911年末に刊行されたKandinskyの理論書は、自然再現より精神的内容を優先し、色・線・形の自律性を論じました。MoMAによれば初版は好評で、1912年末までに三版を重ねました。

Impression/Improvisation/Composition

Kandinskyは作品を、外界から受けた印象、比較的自発的な内的表現、長く構成された大作という音楽的カテゴリーへ分けました。抽象が「適当に形を描くこと」ではなく、異なる制作方法の理論化だったことが分かります。

Kandinskyと木版

Kandinskyも1900年代から木版を継続し、形を単純化する過程で絵画の抽象化を進めました。Brückeとは思想が違っても、木版という制約が両者の造形革新を支えた点は共通しています。

『Klänge』

1913年頃の詩画集『Klänge』では、半抽象的な木版と散文詩を組み合わせました。画像、文字、音のようなリズムを一冊へ統合し、絵画の外でも抽象的表現を試します。

抽象は突然ゼロから始まらない

Kandinskyの非具象化は、風景、騎士、洪水、復活、黙示録的モチーフが徐々に線と色へ分解される過程で進みました。「ある日最初の抽象画を発明した」という単純な物語より、木版・音楽・宗教的主題・Murnau風景の長い変形として捉える方が正確です。

Franz Marcと動物

Marcは馬、鹿、牛、虎などを繰り返し描き、人間中心の文明から距離を取った自然世界を想像しました。動物を写実的に観察するだけでなく、色と幾何学へ変換し、「動物の側から世界を見る」可能性を追求しました。

《Blue Horse I》

1911年の《Blue Horse I》では青い馬が画面中央に立ち、周囲も自然色から離れた鮮烈な色面で構成されます。色は馬の毛色を再現するのではなく、精神的・構造的な役割を持ちます。

Marcの色彩観

Marcは色へ象徴的意味を与える手紙を残していますが、その対応を固定公式としてすべての作品へ当てはめるべきではありません。実際の絵画では周囲の色、構図、動物の形によって意味が変わります。

CubismとDelaunay

1912–13年頃、MarcやMackeはCubismやRobert Delaunayの色面分割から刺激を受け、自然を角ばった面とプリズム状の色へ分解しました。ドイツ表現主義はフランス前衛と対立した「国民様式」ではなく、国際的交換の中で変化しています。

August Macke

MackeはBlaue Reiterの展覧会・年鑑へ参加しましたが、Kandinskyの形而上的抽象論とは一定の距離を取りました。彼が描いた公園、動物園、ショーウィンドウ、散歩する人々は、Marcの動物的自然やKandinskyの黙示録とは異なる、明るい都市生活の色彩世界です。

Mackeの都市生活

店のウィンドウを見る人物や公園を歩く人々は、KirchnerのBerlin街路画と同じ近代都市を扱いながら、緊張より色とリズムの調和を強く持ちます。「表現主義=不安」という一般像を崩す重要な存在です。

1914年Tunis旅行

MackeはPaul Klee、Louis Moillietと1914年春にTunisiaを訪れ、水彩で強い光と建築の色面を研究しました。この旅行は植民地主義下の北アフリカを欧州作家が訪れる文化的条件の中にあり、純粋な「色彩発見」の逸話だけで扱うべきではありません。

Paul Klee

KleeはBlaue Reiterの中核創設者ではありませんが、1912年第2回展へ多数の素描を出品し、年鑑にも作品が掲載されました。のちに彼独自の記号的・抽象的言語へ進むうえで、この国際ネットワークは重要でした。

WerefkinとJawlenskyの位置を正確にする

LenbachhausによればWerefkinとJawlenskyは1909年NKVMの重要な創設者でしたが、1911年12月のKandinsky・Marc・Münterによる離脱にはすぐ加わりませんでした。その後Blaue Reiterの展覧会巡回や広い友人圏へ接続します。「Blaue Reiterの正式メンバー一覧」を固定するより、時期ごとの関係を説明する方が正確です。

Elisabeth Epstein

最初のBlaue Reiter展にはElisabeth Epsteinも参加しました。女性作家の存在をMünterとWerefkinだけに限定しないことは、前衛ネットワークの実態を理解するうえで重要です。

Maria Franck-Marc

Franz Marcの妻Maria Franck-Marcも画家であり、Blaue Reiter周辺の制作・交流に参加しました。近年のLenbachhaus研究は、従来男性スター中心に整理されてきたネットワークへ女性作家を戻しています。

Blaue Reiterの国際性

Russian、German、Swiss、French、Americanなど多様な背景の作家が展示へ参加し、ParisとMunich、Russia、Switzerlandを結ぶネットワークを形成しました。第一次世界大戦前の前衛が国民国家ごとに完全に分離していたわけではありません。

Herwarth Waldenと『Der Sturm』

1910年、Herwarth WaldenはBerlinで雑誌『Der Sturm』を創刊し、1912年には同名画廊を開きました。安価な新聞に近い紙面で新美術・文学を紹介し、Brücke、Blaue Reiter、Kokoschka、Futurism、Cubismなどを同じ国際回路へ載せました。

雑誌が前衛を作る

展覧会を見られない都市の読者も、雑誌の木版・論評・広告から新しい作品を知ることができます。Expressionismは美術館の中だけでなく、定期刊行物と郵便、画廊、版画販売を通じて形成されたメディア現象でした。

『Die Aktion』

Franz Pfemfertが1911年に創刊した『Die Aktion』も、文学、政治、美術を結ぶ重要な雑誌となりました。Expressionismという言葉が美術以外の詩・演劇・社会批評へ拡張した背景には、こうした出版文化があります。

絵画だけの運動ではない

「表現主義」は詩、演劇、小説、舞台、映画、建築にも広がります。本記事は視覚美術を中心にしますが、Kokoschkaの舞台、Strindbergや新しい詩人、後の映画まで同じ都市文化の緊張を共有していました。

1913年Erster Deutscher Herbstsalon

Waldenは1913年BerlinでFirst German Autumn Salonを開催し、Futurism、Cubism、Orphism、Expressionismなど国際前衛を大規模に紹介しました。MarcとMackeも展示設営を助け、Blaue Reiterはより広い欧州前衛の一部として位置づけられました。

ドイツ対フランスという図式を越える

1914年以後の戦争政治から逆算すると、ドイツ前衛とフランス前衛を対立する国民様式として見たくなります。しかし戦前の作家はDelaunay、Matisse、Picasso、Futuristsらと展覧会・雑誌を通じて頻繁に交流していました。

1913年は頂点であり分岐点

Brückeは解散する一方、Blaue Reiter周辺は国際展へ広がり、BerlinにはDer Sturmのネットワークが形成されました。「ドイツ表現主義」という大きな分類は強くなる一方、実際の小グループはむしろ分解していました。

1914年8月 — 第一次世界大戦

戦争勃発は国境を越えて移動していた作家ネットワークを突然切断しました。外国籍作家は移動を強いられ、若い男性作家は軍務へ入り、展覧会・出版・材料供給も変化します。

初期の戦争熱狂

Marcを含む一部の前衛作家は当初、戦争が腐敗した旧社会を破壊し精神的刷新をもたらすと期待しました。この考えは当時の知識人に広く見られましたが、工業化された戦争の大量死によって急速に崩れていきます。

August Mackeの戦死

Mackeは開戦直後に動員され、1914年9月26日に戦死しました。Tunis旅行から半年も経たない死であり、Blaue Reiterの明るい都市・自然の色彩世界は突然断ち切られます。

Franz Marcと戦争

Marcも従軍し、初期には戦争を浄化的な出来事として考える文章を残しました。しかし友人Mackeの死や前線経験はその期待を揺るがしました。

1916年Verdunでの死

Marcは1916年3月、Verdun近郊で砲弾の破片により戦死しました。36歳でした。Blaue Reiterの中心二人のうち一人が死亡し、Kandinskyも国外へ去ったため、戦前のネットワークを再開する条件は失われます。

KandinskyはRussiaへ戻る

ロシア国籍だったKandinskyは敵国人となり、1914年8月にMunichを離れてRussiaへ戻りました。Blaue Reiterの終焉は内部の解散宣言より、戦争によって国際関係が物理的に不可能になったことに由来します。

Münterと戦時期

MünterもKandinskyとの関係や戦争による移動の中で、Munich・Scandinaviaなどを行き来します。Blaue Reiterが終わっても、彼女自身の制作が終わったわけではありません。

Kirchnerの軍務と崩壊

Kirchnerは1915年に砲兵隊の訓練へ入りましたが、心身の状態を崩して軍務を離れ、療養生活へ入ります。MoMAはこの時期の版画・絵画を、孤立と不安が強まる転換として位置づけています。

《兵士としての自画像》

1915年の有名な自画像では軍服姿のKirchnerが、切断された手を思わせるイメージと裸体モデルを伴って描かれます。実際に手を失ったわけではなく、軍務によって「画家としての手」を奪われる恐怖を象徴的に描いたと読むのが一般的です。

Heckelの医療部隊

Heckelは軍務不適格とされた後、Red Crossの訓練を受け、1915年からFlandersの医療部隊で勤務しました。部隊には複数の芸術家・作家が集められ、戦時中も制作を続けました。

Schmidt-Rottluffの軍務

Schmidt-Rottluffは1915年に徴兵され、LithuaniaとRussiaに1918年まで駐屯しました。制作条件は制限されましたが、木という携行しやすい素材を使い、木版と木彫を継続します。

戦争と宗教木版

Schmidt-Rottluffは戦時期に宗教主題の木版を強め、1918年のいわゆるChristus portfolioへつながりました。中世ドイツ木版の伝統が、戦争の苦痛を表現する現代的媒体として再び機能します。

戦争が媒体を変える

大型油彩を制作できない前線や軍務環境では、紙、木版、素描が重要になりました。媒体選択は美学だけでなく、物理的な制作条件に左右されます。

戦争への反応は一つではない

従軍を熱狂的に受け入れた作家、恐怖や病で崩れた作家、医療部隊で働いた作家、外国人として国外へ去った作家がいました。「表現主義者は反戦だった」「好戦的だった」と一括することはできません。

1918年で表現主義は終わらない

第一次世界大戦後もExpressionismは版画、演劇、映画、建築、政治美術で続きます。George Grosz、Otto Dix、Käthe Kollwitz、Conrad Felixmüllerらは戦争と革命を別の方法で描き、やがてNeue Sachlichkeitへも接続します。

1918年を区切りにする理由

本記事では1918年を一つの区切りとします。Brückeはすでに1913年に解散し、Blaue Reiterは1914年に崩壊しているため、1918年は両グループの終点ではありません。しかし帝政崩壊、革命、敗戦によって、戦前の社会条件が消失した大きな歴史的境界です。

BrückeとBlaue Reiterの身体観

Brückeでは裸体や都市の身体そのものが主要主題となり、身体を線と色で直接変形しました。Blaue Reiterでは人体より風景、動物、騎士、抽象形態が強く、精神性や象徴構造へ比重が移ります。両者を同じ「歪んだ人物画」でまとめることはできません。

自然の意味も異なる

Brückeにとって自然はブルジョワ規範から身体を解放する生活空間として理想化されました。Marcにとって自然と動物は人間中心文明を越える精神的世界であり、Kandinskyにとって風景は抽象的色・形へ移る出発点でした。

色彩は共通していても目的が違う

両グループとも非自然色を使いますが、Brückeでは身体的・即時的な衝撃として、MarcやKandinskyでは精神的・象徴的関係として理論化される傾向があります。もちろん作家ごとの差の方が大きく、固定的な二分法ではありません。

木版という意外な共通項

Brückeは古いドイツ木版の荒い切断力を強調し、KandinskyやMarcも木版の単純化を抽象化へ利用しました。思想が異なる二つの運動が、同じ古い印刷技術から現代的な造形を引き出した点は重要です。

組織形態の違い

Brückeは会員、共同展、passive member、年次版画集を持つ比較的明確なグループでした。Blaue Reiterは年鑑・展覧会を中心とする友人ネットワークで、参加者の範囲が柔軟でした。この制度差が制作の違いにも影響します。

DresdenとMunich

Dresdenでは建築学生の共同アトリエと民族学博物館が重要な環境となり、Munichでは国際芸術家サロン、画廊、音楽、民俗収集が重要でした。場所は単なる背景ではなく、どのような作品・人・情報へ接触できるかを決めます。

Berlinが交差点になる

1910年代初頭、BerlinはBrückeの移住先であると同時に、Der Sturm、Die Aktion、国際展、画商の中心となりました。Expressionismが地方グループから広い文化運動へ見えるようになったのは、Berlinの出版・展示インフラが大きく関与しています。

Galerie Thannhauser、Galerie Goltz、Der Sturm、Fritz Gurlittなど、民間画廊は公的展覧会で受け入れられにくい作品へ場所を提供しました。近代前衛は「制度の外」で生まれたのではなく、別の制度を作ることで成立します。

コレクターと支援者

Rosa Schapire、Bernhard Koehler、Mackeの義父など、作品購入と出版支援を行う個人がグループの活動を支えました。経済的支援の歴史を消して「純粋な反商業前衛」と見るのは不正確です。

市場との緊張

共同体と直接表現を掲げた作家たちも、展覧会、限定版画、画商、コレクターを必要としました。Pechsteinの単独展示をめぐる対立やBrückeの解散は、個人市場と集団活動の緊張をよく示します。

ジェンダーの問題

Brückeの裸体制作では女性モデルが多く、Blaue Reiterの歴史では長くKandinskyとMarcが中心化されました。現在はモデルの力関係、Münter、Werefkin、Maria Marc、Epsteinら女性作家の役割を含めて再構成する必要があります。

女性は「ミューズ」だけではない

Werefkinは理論と組織形成、Münterは絵画と写真・収集・展示、Maria MarcやEpsteinも制作と交流へ関与しました。男性作家の恋愛関係として女性を説明すると、前衛形成の実務と知的貢献が消えてしまいます。

裸体と性的自由

表現主義者の一部は、当時の性道徳や家族規範に反発しました。裸体、ダンス、自由恋愛を「解放」の象徴にしましたが、その自由がすべての参加者に等しく保障されたわけではありません。

「ブルジョワ社会への反抗」という自己像

BrückeもBlaue Reiterも物質主義・保守性・制度化への反発を語りました。しかし彼らの顧客・支援者の多くは教育を受けた中産・上流階級であり、前衛はブルジョワ社会の外部ではなく、その内部の文化的対立から生まれています。

精神性は宗教一つではない

KandinskyやMarcが語るGeistigは、特定教会の教義だけではなく、神智学、キリスト教象徴、音楽、自然観、終末論など複数の思想が混ざった概念です。「宗教画への回帰」と単純化すべきではありません。

黙示録的イメージ

KandinskyやMarcの1910年代作品には洪水、戦い、再生を暗示する形が現れます。戦争前から社会の終末と精神的再生を想像する文化が存在し、1914年の現実の戦争と不穏に重なります。

近代性への両義的態度

Expressionismは都市・鉄道・印刷など近代のインフラを利用しながら、近代文明の物質主義や匿名性を批判しました。近代を拒絶する運動ではなく、近代社会の内部から別の生き方・知覚を探した運動です。

技術は敵ではない

木版の「手仕事」を重視する一方、写真、近代印刷、鉄道、郵便、画廊、雑誌を積極的に使いました。近代技術から逃げるのではなく、異なる利用法を模索しています。

版画は油彩より安価に流通でき、新しいコレクターへ届きました。Brückeのpassive membersやDer Sturmの出版は、前衛美術の観客層を増やす具体的な仕組みでした。

「原作」と「複数」の関係

版画では同じ版から複数の刷りが存在し、色や紙を変えることもできます。ムンクからBrücke、Blaue Reiterまで、20世紀初頭美術では一点物の油彩だけを中心にした作者観が揺らぎます。

工芸/美術の境界

木版、家具、ガラス絵、民俗芸術を積極的に参照することで、絵画と工芸の序列が問い直されました。Arts and CraftsやWiener Werkstätteとは別の方法ですが、20世紀初頭前衛に共通する大きな問題です。

民俗とモダンは反対ではない

近代都市の作家が村のガラス絵や農民工芸を集め、それを最先端美術へ取り込みました。「モダン=新技術、民俗=過去」という単純な時間区分が崩れます。

子どもの絵と前衛

訓練された遠近法や解剖学を使わない子どもの絵は、近代作家が既成の美術教育を相対化する材料になりました。ただし「子どもは純粋」という大人側の投影も含まれます。

制度外の表現への憧れ

農民、子ども、非西欧社会などを「制度に汚されていない表現」として理想化する傾向はExpressionismに広く見られます。それは美術の範囲を広げる一方、実際の社会的差異を消す危険も持っていました。

「感情を描く」だけでは説明できない

Expressionismの歪みや色は個人的感情の直接噴出ではありません。木版の素材制約、都市空間、展覧会制度、民俗研究、理論、共同制作といった複数条件から形が生まれています。

「直接性」という神話

Brückeは直接・偽りのない表現を掲げましたが、その作品はMunch、Van Gogh、非西欧美術、中世木版、Fauvismなど大量の参照を通して作られています。直接性も歴史的に構成された美学です。

即興と編集は両立する

速い素描や荒い筆触を用いても、展覧会では作品を選び、版画を刷り直し、年代記を編集し、画廊と交渉しました。「自然に湧き出た作品」というイメージと、緻密な自己演出は同時に存在します。

芸術家グループの時代

Brücke、NKVM、Blaue Reiter、Secession、Futuristsなど、20世紀初頭には作家がグループを作り、宣言・展覧会・出版で自らを可視化する方法が一般化しました。作品だけでなく組織を設計することが前衛活動になります。

マニフェスト文化

未来派ほど攻撃的な宣言ではなくても、Brückeの木版プログラムやKandinskyの理論書、Blaue Reiter年鑑は、作家が自分の芸術を文章で説明する文化を強めました。

展覧会を「主張」として使う

作品を個別に販売するだけでなく、誰と誰を並べるかによって美術史的な主張を作ります。Blaue Reiter第1回展と1913年Herbstsalonは、国籍・様式を越えて同時代の前衛を比較させるキュレーションの実験でした。

年鑑を紙上の展覧会にする

『Der Blaue Reiter』は、異なる文化・時代の画像をページ上で隣接させることで、新しい美術史を作りました。これは現在の展覧会図録や視覚文化研究に近い「比較による意味生成」の先例と見ることができます。

美術史記述を更新する

20世紀後半まで、非西欧美術は「Expressionismを刺激したprimitive art」とだけ説明されがちでした。現在は、作品の制作者、収集経緯、植民地権力、返還問題を含めて語る必要があります。これは過去の作家を現在の価値観で単純に断罪することではなく、当時見えなくされていた歴史条件を回復する作業です。

Brücke-Museum自身の再検討

Brücke-Museumは2021–22年の「Whose Expression?」展で、自館コレクションの中にある植民地主義との関係を明示的に検証しました。美術館が過去の「影響関係」説明を更新していること自体、現代の美術史研究の重要な変化です。

工業戦争が近代観を変える

Expressionist artistsは近代文明の物質主義を批判していましたが、第一次世界大戦では鉄道、化学、重砲、機関銃、大量動員という近代技術が破壊へ集中しました。戦争経験は「文明を壊せば精神が再生する」という前衛的幻想を現実の死へ変えます。

戦後は政治化が強まる

1918年以後、一部Expressionist artistsは革命、労働者、反戦、社会主義へ関心を強めました。Arbeitsrat für Kunst、Novembergruppeなど新組織が生まれ、戦前の精神的刷新とは異なる政治的実践へ進みます。

Neue Sachlichkeitへの反動

1920年代になると、感情的な歪みや理想主義的精神性から距離を取り、冷静で鋭い社会観察を行うNeue Sachlichkeitが台頭します。Expressionismは終わるというより、次世代が批判的に乗り越える基準になります。

後世の「退廃芸術」弾圧

1930年代、Nazi政権はExpressionismの多くを「entartete Kunst」として公立美術館から排除しました。Marc、Kirchner、Noldeらの作品も攻撃対象になります。ただしNoldeのように本人の政治姿勢と作品への弾圧が矛盾する例もあり、単純な「前衛=反Nazi」とは整理できません。

戦後の正典化

第二次世界大戦後、BrückeとBlaue ReiterはGerman modernismの中心として美術館・教科書に定着しました。その過程で男性中心、植民地主義を無視した英雄史も作られました。近年の研究は、そこを修正しながら作品の革新性を再評価しています。

なぜBrückeとBlaue Reiterを同じ記事で扱うのか

二つは組織も目的も異なりますが、同じ時代にアカデミー的再現から離れ、色・線・版画・共同体・非制度的展示を通して新しい美術を模索しました。違いを比較することで「Expressionism」という後世の大分類が何をまとめ、何を隠したのかが見えます。

「表現主義らしい見た目」を探さない

赤い顔、青い馬、尖った街路だけをチェックするのではなく、作品がどの制作環境・流通制度・思想から生まれたかを見ることが重要です。同じ色彩の強さでも意味は作家ごとに違います。

1905–1918年に起きたこと

1905年Dresdenで四人の建築学生が共同体を作り、1906年木版宣言で若い世代を呼びかけました。1911年にはBerlinの都市経験とMunichのBlaue Reiterが同時に展開し、1912年年鑑が芸術の境界を広げ、1913年にはBrücke解散と国際Herbstsalonが重なります。翌年の戦争が国際ネットワークを破壊し、1918年には社会体制そのものが変わりました。

ART HISTORYとしてのまとめ

ドイツ表現主義の核心は「内面を激しく描いた」という一文では捉えられません。Brückeは木版、共同アトリエ、裸体、都市、自己出版を通じて芸術と生活を結び直し、Blaue Reiterは色彩、音楽、民俗・子ども・非西欧美術、年鑑、抽象化を通じて芸術の範囲そのものを再定義しました。両者の革新は同時に、植民地主義、ジェンダー、ブルジョワ市場、戦争という矛盾の内部にありました。そこまで含めて初めて、20世紀美術の大きな転換として理解できます。

参考資料・出典

本ページは、Brücke-Museum、Städtische Galerie im Lenbachhaus、Museum of Modern Art(MoMA)、The Metropolitan Museum of Art等の美術館・研究機関の資料を中心に参照し、ART LIBRARYが独自に構成・執筆しています。原文の全文翻訳ではありません。

「German Expressionism」は当時一つの統一組織が自称した名称ではなく、後から複数の作家・集団を広く整理するカテゴリーです。MoMAのExpressionism資料とPaul Ferdinand Schmidt研究を参照し、1905年のBrücke、1909年のNKVM、1911年のBlaue Reiter等をそれぞれ固有の組織・ネットワークとして区別しています。

Die Brückeの結成についてはBrücke-Museumを参照し、Ernst Ludwig Kirchner、Erich Heckel、Karl Schmidt-Rottluff、Fritz Bleylの四人がDresdenで建築を学ぶ中、1905年6月7日にグループを設立したこと、1906年にKirchnerが木版マニフェストを制作したことを確認しました。

Brückeのメンバー制度についてはBrücke-Museumを参照し、Bleylが1907年に離れた後、Kirchner、Heckel、Schmidt-Rottluffが中心となり、Max Pechstein、Emil Nolde、Cuno Amiet、Akseli Gallen-Kallela、Kees van Dongen、Franz Nölken、Otto Mueller、Bohumil Kubišta等が時期を異にして参加したことを扱いました。所属期間・関与の深さは同一ではありません。

Brückeの版画とpassive membersについてはBrücke-MuseumとMoMAを参照し、支援者から年会費を集め、年次の版画ポートフォリオを提供したこと、木版・リトグラフ・エッチングを展覧会案内・広報・収入源として用いたことを確認しました。

Moritzburgでの共同制作、裸体速写、共同アトリエについてはBrücke-MuseumのKirchner研究および「1910: Brücke: Art and Life」を参照しました。若年モデルの裸体表現については同館の近年の作品研究が倫理的再評価を明示しているため、従来の「自由な自然生活」という肯定的説明だけにしていません。

Brückeと植民地主義についてはBrücke-Museumの展覧会「Whose Expression? The Brücke Artists and Colonialism」を主要資料としました。Kirchner、Heckel、Nolde、Pechstein、Schmidt-RottluffらがDresden・Berlinの民族学博物館で植民地地域由来の作品を研究し、形式を自作へ取り入れた一方、制作文脈・植民地権力・自身の人種観を十分に省察しなかったという同館の現在の分析を反映しています。

Max PechsteinのPalau旅行についてはBrücke-Museumの作家研究を参照し、1914年に当時German New Guineaの植民地統治下にあったPalauを訪れ、「失われた原初性」を求める欧州側の想像を持っていたこと、同館がその視線を植民地主義の問題と併せて再評価していることを扱いました。

Emil NoldeについてはBrücke-Museumを参照し、1906年にBrückeへ参加し1907年に離脱したことを確認しました。後世のGerman Expressionism史における重要性と、Brücke正式所属が短期間だったことを区別しています。

BrückeのBerlin移転と1913年解散についてはBrücke-Museumを参照し、1911年に主要メンバーがBerlinへ移った後、個別作風が強まり、1912年のPechstein離脱とChronik KG Brückeをめぐる内部対立を経て1913年5月27日に解散したことを確認しました。第一次世界大戦を直接の解散理由とはしていません。

Blaue Reiter以前のMurnau共同制作についてはLenbachhausを参照し、1908–09年にGabriele Münter、Wassily Kandinsky、Alexej von Jawlensky、Marianne von WerefkinがMurnauで共同制作を行い、色の自律、遠近法の弱まり、形の単純化が進んだことを扱いました。

Neue Künstlervereinigung MünchenについてはLenbachhausを参照し、1909年にKandinsky、Münter、Jawlensky、Werefkinらが設立し、Galerie Thannhauserで展覧会を行ったこと、1910年第2回展をFranz Marcが擁護したことから彼とグループの交流が深まったことを確認しました。

1911年のBlaue Reiter成立についてはLenbachhausを参照し、NKVM第3回展でKandinskyの極度に抽象化された作品が拒否されたことを契機にKandinsky、Marc、Münterが離脱し、同年12月にGalerie Thannhauserで独自展を開催したことを扱いました。WerefkinとJawlenskyはこの最初の離脱へ直ちに参加していないため、「創設メンバー」の扱いは資料間の語法差を踏まえて時系列で説明しています。

第1回Blaue Reiter展についてはLenbachhausを参照し、約50作品が展示され、Albert Bloch、Burljuk兄弟、Heinrich Campendonk、Robert Delaunay、Elisabeth Epstein、August Macke、Franz Marc、Gabriele Münter、Henri Rousseau、Arnold Schoenberg等が参加したことを確認しました。厳密な会員団体ではなく国際的展示ネットワークとして記述しています。

1912年第2回展と年鑑についてはLenbachhausとMoMAを参照し、Galerie Goltzの第2回展が紙作品を中心にPaul Klee、Alfred Kubin等を含んだこと、年鑑『Der Blaue Reiter』が1912年5月に刊行され、現代美術、民俗芸術、子どもの絵、非西欧美術、音楽、舞台を横断的に並置したことを確認しました。

年鑑の異文化比較についてはLenbachhausの現在の展示研究とMoMAのPrimitivism資料を併用しました。国籍・時代・媒体の序列を崩す開放性を評価しつつ、アフリカ等の作品を本来の社会的文脈から切り離して普遍的「表現」として再配置した問題も明記しています。

Kandinskyの『Über das Geistige in der Kunst』についてはMoMAを参照し、1911年末に刊行され、1912年末までに三版を重ねたこと、Impression・Improvisation・Compositionというカテゴリーや再現から離れる理論を扱いました。

Franz Marc、August Macke、Paul KleeについてはMoMAとLenbachhausを参照し、Marcの動物・木版・Blaue Reiter共同編集、Mackeの都市余暇・Delaunayからの刺激・1914年Tunis旅行、Kleeの1912年第2回展参加と1914年Tunis旅行を扱いました。

Herwarth WaldenとDer SturmについてはMoMAを参照し、1910年に雑誌が創刊、1912年に画廊が開設され、ExpressionismのみならずCubism、Futurism等の国際前衛をBerlinへ紹介したこと、1913年のErster Deutscher Herbstsalonが大規模な国際展として機能したことを確認しました。

第一次世界大戦についてはMoMA、Brücke-Museum、MetのWorld War I研究を参照し、Kandinskyが1914年にRussiaへ戻ったこと、August Mackeが1914年9月、Franz Marcが1916年3月に戦死したこと、Heckelが医療部隊、Schmidt-Rottluffが1915–18年軍務に就き木版・木彫を続けたことを扱いました。各作家の戦争観・経験を一括していません。

本記事では「German Expressionism=感情的な歪み」という様式説明だけでなく、共同体形成、版画流通、画廊、雑誌、国際交流、植民地主義、ジェンダー、戦争という制作・流通条件を同じ美術史の中で扱っています。

資料確認日:2026年10月2日 / ART LIBRARY