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Art History

1907–1909

キュビスムの成立

ピカソとブラック、空間を組み替える

キュビズムとは? | テート・キッズ (Tate Kids)

1907年から1909年にかけて、パリの絵画では形と空間の扱いが大きく変わり始めました。その中心にいたのが、パブロ・ピカソ(Pablo Picasso, 1881–1973)とジョルジュ・ブラック(Georges Braque, 1882–1963)です。後に「キュビスム」と呼ばれる表現は、この時期の二人の実験と交流を通じて徐々に形づくられました。

ピカソは《アヴィニョンの娘たち》の制作を通じて人物や空間の統一を崩し、ブラックはフォーヴィスムの色彩を試みながら、セザンヌに学んだ風景の構築へ取り組んでいました。二人が本格的に交流し始めるのは1907年末のことです。1908年秋以降には、互いの作品を見せ合い、対象と背景をどのように画面へ構成できるかを集中的に探究します。

本記事では、《アヴィニョンの娘たち》、セザンヌ作品へのそれぞれの接点、ブラックの1906年からのレスタック滞在、1907年の二人の出会い、1908年のカーンヴァイラー画廊でのブラック展、1909年のピカソによるスペインのオルタ滞在までを年代順にたどります。絵画の形式とともに、画家たちが作品を見て学び、交流した場所にも注目します。

1907年以前 — 別々の実験

キュビスムの形成をたどるには、1907年以前のピカソとブラックの活動から見る必要があります。ピカソは1900年に初めてパリを訪れ、1904年にはモンマルトルの共同アトリエ建物バトー・ラヴォワールに移りました。青の時代、バラ色の時代を経て、1906年にはスペインのゴソルで人物の身体や顔の簡略化に取り組んでいます。ルーヴルの古代イベリア彫刻を知ったのも、この前後です。

ブラックも1904年にはモンマルトルのオルセル通りにアトリエを借りていました。フィラデルフィア美術館によると、ブラックはリュクサンブール美術館やヴォラール、デュラン=リュエルの画廊でセザンヌ作品を見ていました。1905年にはサロン・ドートンヌのフォーヴィスムの絵画に衝撃を受け、鮮やかな色を使い始めます。そして1906年10月から1907年2月にかけて、セザンヌが繰り返し描いたレスタックに滞在しました。

二人の仕事場は同じモンマルトルにありました。交流が始まるのは1907年末で、それまではそれぞれ異なる経路からセザンヌや新しい造形への関心を深めていました。こうした個別の歩みと二人が出会った後の変化を追うことで、キュビスムの成立をより具体的に捉えられます。(参照:パリ・ピカソ美術館|青の時代とバラ色の時代、フィラデルフィア美術館|Cézanne and Beyond 年表、ポンピドゥー・センター|ブラック《レスタック》と本人の証言)

1907年 — 複数の転換が重なる

1907年には、20世紀絵画の展開につながる出来事が重なりました。前年にセザンヌが亡くなり、10月にはパリのサロン・ドートンヌで大規模な没後回顧展が開かれます。ピカソはそれに先立つ6〜7月に《アヴィニョンの娘たち》を制作していました。後から「キュビスムの起点」と呼ばれる動きが、異なる時期と場で進んでいたのです。

同じころブラックは、前年から続くレスタックでの制作やフォーヴィスムの色彩表現を手がかりに、風景画に取り組んでいました。ピカソはイベリア彫刻やアフリカの造形にも向き合っていました。二人の探究は、それぞれ異なる制作経験と参照源から育まれていたのです。

彼らが問い直していたのは、三次元の世界を一つの視点から見たように二次元の画面へ置くという、絵画の長い慣習でした。対象を正確に見せるには輪郭、明暗、遠近法が必要だとされてきましたが、それらの規則を緩めても絵画は成立するのではないか。色、形、面の関係そのものから画面を構築できるのではないか。後にキュビスムにつながる問いは、1907年の前後に異なる場所で積み重なっていました。(参照:MoMA|《アヴィニョンの娘たち》の作品記録、フィラデルフィア美術館|Cézanne and Beyond 年表)

《アヴィニョンの娘たち》— 統一された空間が崩れる

ピカソが1906年末から構想を始め、1907年6〜7月に制作した《アヴィニョンの娘たち(Les Demoiselles d’Avignon)》は、縦約244センチ、横約234センチの大きな絵画です。5人の裸婦が画面いっぱいに描かれています。身体は鋭く角張った面に分けられ、背景の布や空間も同じように鋭い形で区切られています。人物と背景が密接に組み合わされることで、統一された室内空間とは異なる奥行きが生まれています。

画面の左側の人物と右側の人物では、顔や身体の表し方も大きく異なります。これは、同じ視点で見られた5人を均一な方法で写すという考えから離れ、人物ごとに異なる形態の処理を一つの画面へ持ち込んだことを示しています。見る側は、人物が立つ場所や身体のねじれを自然な遠近法だけでは説明できなくなります。

この作品の制作過程には、多くの構図変更がありました。大量の素描や習作が残り、初期の構想には船員や医学生など男性の登場人物もいました。ピカソは制作の途中で構図を変え、最終的に5人の女性だけが観客と向き合う画面へ組み替えています。こうした変更を重ねた結果、異なる造形表現が一つの画面に共存する、独特の緊張感が生まれました。MoMAの記録によれば制作時期は1907年6〜7月で、同年10月のセザンヌ回顧展より前です。(参照:MoMA|《アヴィニョンの娘たち》の作品記録、MoMA|《アヴィニョンの娘たち》の習作)

古典、イベリア彫刻、アフリカの造形

《アヴィニョンの娘たち》には、古典的な裸体画、スペイン絵画、古代イベリア彫刻、アフリカの仮面や彫刻など、異なる造形の参照が重なっています。西洋絵画を学んできたピカソにとって、過去の巨匠たちの構図や人体表現は制作の土台でした。1906年頃にはルーヴルで古代イベリアの石彫に触れ、顔の簡略化や量感の作り方にも関心を示すようになります。

1907年にトロカデロ民族誌博物館を訪れ、アフリカの造形に強い衝撃を受けたという有名な話には、ピカソ本人の後年の回想が含まれます。この体験に関する本人の証言は後年の回想として伝わっています。《アヴィニョンの娘たち》の右側の人物の顔とアフリカの仮面との関係は広く論じられており、特定の一作品との対応については研究上の検討が続いています。

また、当時のパリにアフリカやオセアニアの作品があった背景には、植民地支配、民族学的な収集、交易、博物館の展示制度がありました。それぞれの地域で異なる用途や意味を持っていた造形物が、ヨーロッパの画家たちには主として形態の新しさを示すものとして見られたのです。ピカソらによる造形の受容を理解するには、作品がパリにもたらされた政治的・社会的条件も考える必要があります。

キュビスムの成立には、こうした植民地的な受容の背景に加えて、セザンヌの絵画やイベリア彫刻など、性質の異なる造形的な参照が関わっていました。ピカソはそれらを取り込みながら、人体を再構成する新しい画面を探っていました。セザンヌの絵画とイベリア・アフリカの造形は、それぞれ異なる仕方で彼の制作に作用したと考えられます。(参照:MoMA|《アヴィニョンの娘たち》の作品記録、パリ・ピカソ美術館|ピカソ年表)

《アヴィニョンの娘たち》とキュビスムの成立

《アヴィニョンの娘たち》は、キュビスムの成立を考えるうえで重要な出発点とされています。1907年のこの作品と、1909〜1912年頃にピカソとブラックが深めたキュビスムとをどう位置づけるかには、研究上さまざまな見方があります。後の作品に共通する細かな面の構成や、物体と背景の密接な結びつきは、ここではまだ形成の途上にあります。

この作品の特徴は、異なる造形方法が一枚の画面に共存している点にあります。身体の比率や顔の表現は人物ごとに変化し、背景も鋭い面となって人物とせめぎ合います。従来の絵画の約束を揺さぶるこれらの試みが、後の展開を考えるうえで重要です。

当時、この絵はピカソのアトリエで限られた芸術家たちの目に触れていました。1907年末にブラックがそこで作品を見たことは、後の共同研究につながる重要な出来事です。(参照:MoMA|《アヴィニョンの娘たち》の作品記録、MoMA|キュビスムの解説)

1907年、セザンヌ回顧展

1907年10月1〜22日、パリのサロン・ドートンヌでセザンヌの没後回顧展が開催されました。50点を超える作品をまとめて鑑賞できたことは、若い画家にとって重要な機会でした。セザンヌの作品は、1895年のヴォラールによる個展、1897年のリュクサンブール美術館、1903年以降のサロン・ドートンヌ、1904年の専用展示室を通じて、すでにパリの芸術家たちに知られていました。

ブラックは1904年頃にはパリの美術館や画廊でセザンヌ作品に触れ、1906年にはレスタックで制作しています。ピカソについても、フィラデルフィア美術館の年表には1905年にセザンヌの《大水浴図》と呼ばれるリトグラフを購入した記録があります。さらにスタイン兄妹のコレクションにもセザンヌの絵画がありました。1907年の回顧展は、すでに進んでいた二人の関心と探究を、セザンヌの作品群を通して深める機会になったと考えられます。

回顧展と同じ10月には、ベルナールがセザンヌからの書簡を雑誌に公刊しました。1904年に書かれた「自然を円筒、球、円錐によって扱う」という一節は、このとき広く知られるようになりました。絵画を鑑賞する機会と画家の文章を読む機会が重なったことは、セザンヌをどう受け継ぐかという議論を深める条件となりました。書簡が公刊されたのは、《アヴィニョンの娘たち》が同年6〜7月に制作された後のことです。これらの前後関係を区別すると、回顧展や書簡公刊の歴史的な役割がより明確になります。(参照:オルセー美術館|1907年サロン・ドートンヌの出品記録、フィラデルフィア美術館|Cézanne and Beyond 年表)

ブラック — フォーヴィスムから構造へ

1905年のサロン・ドートンヌでフォーヴィスムの大胆な色彩に刺激されたブラックは、1906年に南フランスへ向かいます。1906年10月から1907年2月にかけてレスタックに滞在し、強い赤や黄、緑などを使った風景画を制作しました。ポンピドゥー・センターが所蔵する《レスタック》(1906年10月)は、その時期の色彩表現を示す具体的な作品です。

ブラックは、後年、美術評論家ジャック・ラセーニュからセザンヌのためにレスタックへ行ったのかと尋ねられ、「はい」と答えています。制作の構想とともに、現地の光や空気、雨による色彩の変化にも注意を向けていたと説明しました。この証言から分かるのは、ブラックの初期のレスタック風景では、セザンヌへの関心とフォーヴィスムの色彩実験が同時に存在していたことです。

1907年夏のレスタック滞在を経て、1908年になると色彩は少しずつ抑えられ、木や家、丘を画面上の量塊として構成する傾向が強まります。数年間の風景画を比べると、セザンヌへの関心を土台に、色彩と構造の比重を徐々に変えていった過程が見えてきます。(参照:ポンピドゥー・センター|ブラック《レスタック》と本人の証言、メトロポリタン美術館|ブラック《テラス》)

1908年レスタック — 風景を量塊へ変える

1908年夏、ブラックは再びレスタックへ向かい、建物、樹木、海辺の風景をより簡潔な形に組み替えた作品を制作しました。MoMA所蔵の《レスタック近郊の道》、メトロポリタン美術館所蔵の《レスタックの木々》、ポンピドゥー・センター所蔵の《レスタックの高架橋》に関わる一連の制作は、初期キュビスムの形成を考える手がかりになります。《レスタックの高架橋》には複数の版があり、ポンピドゥー・センター所蔵の一作は1908年初めにパリで制作されたと記録されています。作品ごとに制作時期と場所が異なるため、各作品の記録を分けて見る必要があります。

《レスタック近郊の道》では、道、木、家、丘が青灰色や黄土色、緑の面として接続し、遠くの風景まで画面の手前へ押し出されるように見えます。物体ごとの輪郭よりも、画面全体の面の向きや重なりが優先されるのです。奥行きを表す伝統的な手順が変わり、対象と背景の関係も新たに組み立てられています。

ブラックが同じ土地を繰り返し訪れたことにも意味があります。1906年の鮮やかな色彩を中心にした絵と、1908年の幾何学的な絵を比べると、同じような題材に向き合いながら、絵画としての組み立て方を大きく変えたことが分かります。(参照:MoMA|ブラック《レスタック近郊の道》、メトロポリタン美術館|ブラック《レスタックの木々》、ポンピドゥー・センター|《レスタックの高架橋》)

「キューブ」という言葉

「キュビスム」という名称は、初期作品を見た周囲の画家や批評家の言葉から生まれました。1908年のブラックのレスタック作品を見たマティスが、建物や風景を小さな立方体のようだと評したと伝えられ、批評家ルイ・ヴォークセルも同年の展覧会評で「キューブ」に言及しました。こうした外部からの命名が、翌年以降に新しい絵画の呼称として広まっていきます。

「キューブ」という名の由来になった幾何学的な形は、彼らの探究の一側面を表しています。木や家の形を簡略化するとともに、それぞれの面をつなぎ、奥行きや対象と背景の関係を組み替えていきました。初期作品の外観から生まれた名称の背後には、絵画空間を再構成する試みがありました。(参照:メトロポリタン美術館|1908年秋からのピカソとブラック、MoMA|キュビスムの解説)

カーンワイラーと1908年のブラック展

1908年、ブラックのレスタック作品はサロン・ドートンヌの選考で受け入れられませんでした。そこで重要な役割を担ったのが、若い画商ダニエル=ヘンリー・カーンヴァイラーです。1907年にパリのヴィニョン通り28番地で画廊を開いていた彼は、1908年11月にブラックの作品展を開催しました。画商の活動によって、サロンとは別の発表の場が生まれ、新しい絵画が批評家や収集家へ届くようになっていきます。

展覧会には1907年制作の《テラス》と1908年の《レスタックの木々》のように、異なる時期の作品が含まれていました。これらを比較すれば、フォーヴィスムの色彩を残す段階から、形と空間の関係を組み直す段階への変化が見えてきます。メトロポリタン美術館は、この1908年秋をピカソとブラックの緊密な協力関係が本格化する時期と位置づけています。

カーンヴァイラーは、その後ピカソやブラックらと継続的な関係を結び、作品の販売と紹介を支えました。キュビスムの表現上の変化は、画商と収集家のネットワークを介して広く紹介されていきました。(参照:メトロポリタン美術館|1908年秋からのピカソとブラック、メトロポリタン美術館|画商カーンヴァイラーの活動)

ピカソとブラック — 共同研究が始まる

ピカソとブラックは、1907年秋より前からともにモンマルトル周辺で活動していました。ピカソは1904年からバトー・ラヴォワール(当時のラヴィニャン通り13番地、現在のエミール=グドー広場13番地)に住み、ブラックは近くのオルセル通り48番地にアトリエを借りていました。二つの仕事場は徒歩で行き来できる距離にありました。交流の始まりについては、1907年11月の出会いが美術館の資料に記録されています。

パリ・ピカソ美術館の公式解説では、1907年11月に詩人ギヨーム・アポリネールがブラックをピカソに紹介したとされています。ブラックはバトー・ラヴォワールにあった《アヴィニョンの娘たち》を見て、その大胆な造形に強い違和感と衝撃を受けました。続いてピカソもブラックのアトリエでレスタックの風景画を見たと伝えられています。出会いを1907年11月とする年代は、パリ・ピカソ美術館の公式解説に基づいています。

二人が出会った時点で、ピカソは26歳(1907年10月25日に誕生日を迎えていました)、ブラックは25歳でした。二人の協力関係が本格化するのは、1908年秋のブラック展の頃です。メトロポリタン美術館も、この時期を緊密な共同研究の始まりとして位置づけています。1909年には互いのアトリエを頻繁に訪ね、作品を確かめ、批評し合うようになります。

ピカソは後年、ほとんど毎晩どちらかが相手のアトリエを訪れ、その日に何を制作したのか確認しなければならなかったと回想しています。ブラックも二人を「一本のロープで結ばれた登山者」にたとえました。いずれも後年に語られた回想です。二人が互いの制作に深く関わっていたことを伝える重要な証言として残っています。

1908年にはバトー・ラヴォワールで画家アンリ・ルソーを称える宴会も開かれ、ブラックはアポリネールやガートルード・スタインらとともに参加しています。バトー・ラヴォワールはピカソの住居兼アトリエであると同時に、詩人や画家、収集家が接触し、制作中の作品が他者に見られる場所でもありました。キュビスムの形成におけるモンマルトルの意味は、こうした日々の対話が可能だったことにもあります。(参照:パリ・ピカソ美術館|1907年の二人の出会い、メトロポリタン美術館|1908年秋からのピカソとブラック、エドワード・F・フライ|1907〜08年のキュビスムの同時代証言)

物体と背景の関係を組み替える

キュビスムに向かう重要な変化の一つが、対象と背景の関係です。伝統的な絵画では、人物や瓶、建物などが、奥行きのある空間に置かれた独立した物体として理解されやすいものでした。ブラックのレスタック風景では、木の枝が空を分け、その間の空もひとつの形のように見えます。家の壁と隣の丘も、同じような面のリズムとして接続します。

このとき、人物や建物が先にあって、後から背景を埋めるという関係は弱まります。物体とその周囲の空間の双方が、ひとつの絵画の構造として作られるのです。1909年以降、ピカソとブラックは人物や静物にもこの方法を押し進め、対象と背景の境界がさらに読み取りにくい分析的キュビスムへ進んでいきます。

初期キュビスムの核心には、複数の視点による描写とともに、何を物体とし、何を空間とするかという絵画の基本的な区別を動かしたことがあります。(参照:MoMA|キュビスムの解説、MoMA|ブラック《レスタック近郊の道》)

なぜ色が抑えられていったのか

フォーヴィスムでは、対象の自然な色に従わない強い色彩が、画面を動かす大きな力になりました。ブラックも1906年のレスタックで鮮やかな色を試みています。1908年以降、ブラックとピカソの作品では茶、黄土色、灰色、緑、青など比較的抑えた色調が目立つようになります。色の選び方が変化した背景には、形と空間への関心の高まりがありました。

一つの解釈は、形と空間の構造に注意を向けるため、画面の色域を意図的に限定したというものです。強い補色がそれぞれ独立した効果を持つ場合と比べ、似た色調の中では面の傾き、前後の関係、明暗の小さな違いが目立ちます。MoMAもブラックの《レスタック近郊の道》(1908年)について、抑えられた色彩、密度の高い空間、幾何学的な形の組み合わせを指摘しています。

色彩の使い方は作品ごとに異なり、二人が共通の理論を宣言していたわけでもありません。色彩は引き続き形を組み立てる働きを持ち、限定された色域の中で面の構造や奥行きを示す役割を担っていました。(参照:MoMA|ブラック《レスタック近郊の道》、メトロポリタン美術館|ブラック《レスタックの木々》)

1909年、オルタ・デ・サン・ジョアン

1909年夏、ピカソはフェルナンド・オリヴィエとともに、スペインのカタルーニャ地方のオルタ・デ・サン・ジョアン(当時の表記ではオルタ・デ・エブロ)に滞在しました。ここで制作された《貯水池》《酒瓶のある静物》などには、建物や丘、瓶といった見慣れた対象が残っています。それらの形は互いに噛み合う大きな面として構成され、従来の遠近法とは異なる奥行きを生み出しています。

例えば《貯水池》では、建物の壁や屋根をつくる面の方向が少しずつ異なり、一つの光源による均一な陰影ではないように見えます。対象の見え方を一つの視点に統一する方法から離れ、絵画として面と面の関係を調整しているのです。ここでいう「複数視点」は、対象の見え方を画面の中で組み替える考え方を指しています。

ピカソのオルタ滞在と、同じ時期のブラックの仕事を比べると、二人が別々の土地で制作しながら、似た造形上の課題に取り組んでいたことが見えてきます。この段階では、風景や静物などの題材を読み取ることがまだ可能です。1910年以降、面の分解と物体・背景の連続性はさらに進んでいきます。(参照:MoMA|ピカソ《貯水池》、MoMA|ピカソ《酒瓶のある静物》)

絵画と彫刻の境界

1909年、ピカソはフェルナンド・オリヴィエをモデルに《女性の頭》の彫刻も制作しました。額、鼻、頬、顎などが、異なる方向へ突き出す面と量塊によって組み立てられています。絵画で立体の見え方を組み替えていた時期に、実際の立体でも同じ問題を試したことは重要です。

絵画と彫刻では、形を成立させる条件が異なります。絵画が平面上の色や明暗によって奥行きを示すのに対し、彫刻は実際に空間を占め、観客はその周囲を動きながら見ることができます。ピカソの《女性の頭》は、彫刻の素材と空間を使い、形を複数の面から組み立てる方法を探った作品と考えられます。(参照:MoMA|ピカソ《女性の頭(フェルナンド)》)

1907–1909年に何が変わったのか

1907年から1909年の作品を順に見ると、いくつかの重要な変化が分かります。第一に、画面に複数の方向を持つ面を組み合わせ、遠近法の扱いが広がりました。第二に、人物、家、木、瓶などの対象と、その周囲にある背景の境界が弱まりました。第三に、対象を一つの輪郭で囲むより、方向の異なる複数の面として組み立てる傾向が強くなりました。

また、1908年頃から二人の作品では色彩が抑えられ、細かな面の向きや関係がより目立つようになります。この変化は、絵画の構造を追究する中で色彩の役割が変わっていったことを示しています。1909年頃の作品では、対象はなお家や山、人物、瓶として読み取れますが、画面の成立の仕方は従来の再現的な絵画から大きく離れています。

これらの変化は、異なる初期の経験を持つ二人が1907年末に出会い、1908年秋以降に緊密な関係を築く中で進んでいきました。セザンヌの絵画、イベリアやアフリカの造形、フォーヴィスムの色彩、画廊とアトリエでの交流が交差したところから、新しい絵画の方法が発展しました。(参照:MoMA|キュビスムの解説、メトロポリタン美術館|1908年秋からのピカソとブラック)

次の段階へ — 分析的キュビスム

1910年頃になると、ピカソとブラックの絵画では、人物や楽器、瓶などがさらに細かな面へ分けられ、背景との区別がいっそう曖昧になります。色彩も限定されることが多く、観客は楽器の穴、グラスの縁、人物の眼、文字などの小さな手がかりを頼りに、何が描かれているのかを読み直す必要が生まれます。

二人は対象を読み取る手がかりを画面に残しながら、絵画空間の成り立ちを問い続けました。その表現は、対象を失うほど細かく分解されても、風景や静物、人物との関係を保っていました。次の記事では、1910〜1912年頃の分析的キュビスムで面の分解がどのように進み、それが後のコラージュへどうつながったのかを追います。(参照:MoMA|キュビスムの解説、メトロポリタン美術館|ピカソの初期作品とキュビスム)

その後 — 1914年、戦争で中断した共同研究

1907年末に始まり、1908年秋以降に緊密になったピカソとブラックの共同研究は、この記事が扱う1909年以後も続きました。1910年頃からは人物や静物を多数の面へ分ける分析的キュビスムが進み、1912年頃には紙などの実物を画面に貼り込む新しい試みも始まります。二人はそれぞれの制作を確かめ合いながら、絵画における形と空間の問題を追究していました。

1914年の第一次世界大戦の勃発は、二人の協力関係を変える転換点になりました。フランス国籍のブラックは軍に動員され、スペイン国籍のピカソはフランス軍に徴兵されませんでした。これにより、互いの作品を頻繁に見せ合って進めてきた二人の共同制作は終わりを迎えます。ブラックは1915年に前線で頭部に重傷を負い、絵画制作を再開したのは1917年でした。二人の緊密な共同研究は再開されず、それぞれが異なる道を歩むことになります。キュビスムは、ピカソをはじめとする画家たちの制作と、復帰後のブラックの仕事の中でさらに展開していきました。(参照:ピカソ美術館(パリ)|キュビスムと第一次世界大戦、MoMA|ジョルジュ・ブラック、ポンピドゥー・センター|キュビスム)

参考資料・出典

本ページは、美術館・研究機関が公開する作品解説や展覧会資料などを参照し、ART LIBRARYが独自に構成・執筆したものです。

資料確認日:2026年10月9日 / ART LIBRARY