2019–2025
地球環境をめぐる現代美術
気候危機に向き合うアーティストと美術館
2019年、世界各地の文化機関が気候非常事態を公に語り始めました。美術館では環境問題をテーマにした展覧会が開かれ、作家たちは氷河、森林、土壌、資源採掘、人間と他の生物との関係をさまざまな素材で表現しました。気候危機が現代美術の中心的な主題として広がるなか、作品をつくり展示する側にも、同じ問題に向き合う責任が問われるようになります。
環境を扱う美術には、長い歴史があります。1960年代末からアグネス・デネスは土地や植物を扱い、セシリア・ビクーニャは詩、繊維、先住民の文化と生態系のつながりを探ってきました。2019年に突然生まれた新しい様式を追うより、以前から続いていた制作が、気候非常事態という切実な社会状況のなかで新たに受け止められていく過程を見る必要があります。
同年4月に英国でCulture Declares Emergencyが始まり、7月にはテートが気候非常事態を宣言しました。京都で開かれた国際博物館会議の総会でも持続可能性をめぐる決議が採択されます。美術館が環境について作品を紹介するだけでなく、自分たちの建物を動かすエネルギー、国際的な作品輸送、職員の出張、展覧会後に残る廃棄物まで検討する動きが本格化しました。
2020年にはギャラリー・クライメート・コアリションが設立され、排出量を測り削減目標を設定するための実務が広がりました。同じ時期、サーペンタインは《Back to Earth》を通して環境との関係を長期的に考える企画を進めます。昆虫の生存条件から庭園を設計するアレクサンドラ・デイジー・ギンズバーグの作品には、鑑賞者のための美しさを超えて、生態系に働きかける美術の可能性が表れています。
2022年にはセシリア・ビクーニャがテート・モダンに巨大な繊維のインスタレーションを設置し、リチャード・モスはアマゾンの森林破壊を特殊な撮像技術で記録した大規模映像を発表しました。泥炭地や先住民の知識を取り上げたヴェネツィア・ビエンナーレの展示も、気候危機と人間社会の歴史が深く結びついていることを示します。
その年、気候活動家による抗議は美術館の展示室にも入りました。ゴッホの《ひまわり》に向けてスープが投げられた出来事をきっかけに、文化財の保護と政治的な抗議、公共の場としての美術館をめぐる議論が起こります。企業スポンサーの資金を受け入れることの意味や、美術館自身の環境目標との関係も改めて注目されました。
2023年にはヘイワード・ギャラリー《Dear Earth》がケアや希望という言葉から多様な作品を紹介し、保存環境の国際的な指針も改訂されました。2024年にはジョン・アコムフラーが水と移住の記憶を結ぶ映像を発表し、2025年にはマーレト・アンネ・サラがサーミの生活知を基盤とする大規模作品を制作しています。本記事では2019年から2025年まで、作家の具体的な作品、気候活動家の行動、美術館とギャラリーの運営の変化を年代順にたどり、地球環境をめぐる現代美術が何を明らかにしたのかを考えます。
CONTENTS
- 環境をめぐる美術の歴史と2019年の転換
- 2019年、文化機関が気候非常事態を宣言する
- 《Broken Nature》とエリアソンの環境表現
- 2020年、気候対策が美術界の実務となる
- 作品輸送と展覧会制作をどう変えるか
- サーペンタイン《Back to Earth》と生態系のための美術
- 2022年、環境をめぐる大規模展が広がる
- セシリア・ビクーニャと生態系の記憶
- リチャード・モス《Broken Spectre》と森林破壊
- 2022年、美術館が気候抗議の舞台になる
- 化石燃料企業と文化機関のスポンサー問題
- 2023年《Dear Earth》が示した環境美術の多様性
- 生きた植物とデジタル技術を組み合わせる表現
- 美術館が作品を守る環境条件を見直す
- 国際アートフェアとギャラリーの環境対策
- ジョン・アコムフラーと水が運ぶ記憶
- 2025年、マーレト・アンネ・サラとサーミの世界
- 2019〜2025年の変化と、美術館のこれから
- 2019〜2025年の略年表
- まとめ|気候危機の時代に美術が変えたもの
- 参考資料・出典
環境をめぐる美術の歴史と2019年の転換
土地と生態系を扱ってきた美術の前史
1960年代後半、土地を制作の現場にする作家たちが現れ、風景を鑑賞するという従来の美術の枠組みが広がりました。ロバート・スミッソンらのランド・アートが土地の地形や時間へ介入したのに対し、環境の回復や社会との関わりを重視する作家もいました。環境美術には、土地を使うこと自体の環境負荷をめぐる問題も初めから含まれています。どの作品も同じ目的で制作されたわけではなく、場所の扱い方に作家の考えが現れます。
アグネス・デネスは、農業、都市開発、食料、生態系の問題を幾何学的な構成や土地への介入に結びつけてきました。1982年の《Wheatfield — A Confrontation》では、ニューヨークのマンハッタン南端に麦畑をつくり、金融地区に隣接する土地の価値と食料生産を対面させました。2023年に《The Living Pyramid》がヘイワード・ギャラリーで再制作されたことは、環境美術の長い蓄積が現在の気候危機のもとで読み直されていることを示しています。(参照:ヘイワード・ギャラリー|アグネス・デネス《The Living Pyramid》)
気候問題が作品と制度を横断する
2019年以降に目立ったのは、地球環境を扱う作品の増加と、美術館自身の活動への問いが同時に広がったことです。氷河や森林を題材とする展覧会が開かれると、作品のために使われる航空貨物、照明、空調、建材にも関心が向けられました。企画展の理念と、その企画を成立させる物質的な条件が同じ議論の対象になっています。
作家の方法も幅広いものです。セシリア・ビクーニャは繊維と詩から先住民の記憶を呼び起こし、リチャード・モスは特殊な撮影装置を使って森林破壊を記録しました。ギンズバーグは昆虫のための庭園を設計しています。気候活動家の美術館での行動は、これらの作品制作とは異なる目的を持つ社会運動です。作品、文化機関の運営、抗議活動をそれぞれの具体的な行為から読み解くことで、環境危機が現代美術の世界へ及ぼした影響が見えてきます。(参照:国際博物館会議|2019年京都総会決議)
非常事態を宣言する文化の意味
2019年は、文化分野の複数の組織が「気候非常事態」という言葉を自らの運営方針として掲げた年でした。4月には英国でCulture Declares Emergencyが始まり、7月にはテートが宣言を発表します。9月の国際博物館会議(ICOM)京都総会でも、持続可能性と国連の「持続可能な開発のための2030アジェンダ」に関する決議が採択されました。
この時期の宣言が持った意味は、文化機関が社会へ向けて語る内容に、組織自身の責任を含めた点にあります。宣言から実務へ進むには、電力使用量、作品輸送、職員の出張、展示廃棄物を測定し、どこを改善したか公表する必要があります。2019年は、環境を主題にする展覧会の歴史と、美術館を支える仕組みを変える歴史が結びつく節目になりました。(参照:Culture Declares Emergency|団体の歩みと2019年の発足)
2019年、文化機関が気候非常事態を宣言する
Culture Declares Emergencyの発足
Culture Declares Emergencyは2019年4月3日、ロンドンでの文化関係者による行進などとともに始まりました。美術家、劇場関係者、企画者、文化施設などが気候と生態系の危機を公に認め、活動の仕方を変えることを呼びかけたネットワークです。宣言を共有することで、規模も専門分野も異なる組織が共通の課題について対話する入り口をつくりました。
文化活動には、目に見えにくい環境変化を人々へ伝え、未来の暮らしを想像させる力があります。この運動はその力に期待するとともに、文化産業の移動やエネルギー使用にも改善を求めました。表明した理念を組織の行動に結びつけるため、宣言した後に何を測定し、どの活動を見直すかという議論が生まれました。気候問題を扱う展覧会の開催と、日常の運営における選択が一続きの課題となったのです。(参照:Culture Declares Emergency|団体の歩みと2019年の発足)
テートの宣言と運営の見直し
2019年7月17日、テートの4館の館長は共同で気候非常事態を宣言しました。ロンドンと英国各地に施設を持ち、国際的な展覧会を開催する同館は、作品を守るための建物の維持や大量の移動に支えられています。声明には、文化機関がこうした現実を直視し、組織の価値観と運営を見直すという考えが示されました。
当時、テートは2023年までの排出削減、再生可能電力への移行、鉄道利用を優先する出張方針などを掲げました。具体策の効果を判断するには、基準年と集計範囲を明らかにし、実際の削減量を継続して示す必要があります。重要なのは、環境をテーマにした展覧会を開催している美術館が、自身の交通、建物、飲食、事業活動についても説明責任を引き受けたことです。この視点は他の美術館の議論にも広がっていきました。(参照:フリーズ|テートによる2019年気候非常事態宣言)
ICOM京都決議が示した国際的な方向
2019年9月7日、京都で開かれたICOM総会は持続可能性と2030アジェンダに関する決議を採択しました。博物館・美術館が来館者への教育や知識の共有を通じて社会へ働きかけるとともに、自らの環境影響を把握して削減することを促しています。建物やコレクションを持つ機関の責任が、国際的な専門団体の文書に明記されました。
美術館同士が作品を貸し借りする場合、借用館の空調設定や作品輸送には貸出館の条件が影響します。そのため、一館だけで決められない運営上の問題が少なくありません。ICOMの決議は、気候対応を個別館の宣言に委ねず、専門家が経験を共有する基盤を強めました。美術館の公共的な役割を、作品を未来へ残すことと、未来の生活環境を守ることの双方から考える流れが形成されていきます。(参照:国際博物館会議|2019年京都総会決議)
《Broken Nature》とエリアソンの環境表現
ミラノ《Broken Nature》と修復のデザイン
2019年3月1日から9月1日まで、トリエンナーレ・ミラノの第22回国際展《Broken Nature: Design Takes on Human Survival》が開催されました。ニューヨーク近代美術館のパオラ・アントネッリが企画し、人間がつくった生産や消費の仕組みと地球環境との関係を、建築、デザイン、研究、委嘱作品から検討しました。中心にあったのは、損なわれた関係を修復するためのデザインという考え方です。
製品の見た目を「自然らしく」するだけでは、生産時の資源の使用や廃棄の問題は変わりません。素材をどこから調達するか、製造過程で何が失われるか、完成したものがどう使われ捨てられるかまで設計の対象になります。この展覧会は主としてデザインを扱う企画であり、美術とデザインの境界を横断して環境問題を考える2019年の重要な実例です。社会の仕組みを変える発想そのものが展示の内容になりました。(参照:トリエンナーレ・ミラノ|Broken Nature(2019))
《In Real Life》と光・水・身体の関係
テート・モダンの《Olafur Eliasson: In Real Life》(2019年7月11日〜2020年1月5日)では、オラファー・エリアソンの光、水、霧、鏡、色彩を用いた実践が幅広く紹介されました。鑑賞者が作品の周りを移動すると、光の角度や見え方が変わり、周囲の人々の存在も体験に入り込みます。環境は眺める対象であると同時に、観客自身が身体を通じて関わる場所として現れます。
2012年にフレデリック・オテセンと始めた《Little Sun》も、作家の活動を考える重要な手がかりです。太陽光で充電する小型ランプを通じて、電力アクセスや再生可能エネルギーの問題へ接近しています。展示室内の知覚体験と、日常生活へ普及する製品を通じた取り組みでは、社会との接点も成果を測る方法も異なります。展覧会は、感覚を使った造形と社会的な実践を、エリアソンの継続した関心のなかで紹介しました。(参照:Little Sun|In Real Lifeと太陽光プロジェクト)
《Ice Watch》が可視化した時間と排出量
エリアソンと地質学者ミニック・ロージングによる《Ice Watch》は、2014年のコペンハーゲン、2015年のパリ、2018年のロンドンで実施されました。グリーンランドから運ばれた氷塊を公共空間に置き、観客が歩き回ったり触れたりできる状態で、少しずつ氷が溶けていく時間を示します。遠く離れた氷床の変化が、手の届く物質として街中へ現れる作品です。
大きな氷塊の表面には割れ目や気泡があり、気温や太陽光によって形が変わります。そこで生じる音や冷気も鑑賞体験の一部になります。ロンドンでの設置について作家スタジオは、第三者による計測で計約39トンの二酸化炭素換算排出量が生じたと公表しました。氷を遠隔地から運ぶことによる環境負荷も、作品の評価を考えるうえで欠かせない条件です。気候危機を訴える行為がどのような資源を使って成立したのかを具体的な数字から検討できます。(参照:オラファー・エリアソン・スタジオ|Ice Watchの排出量報告)
2020年、気候対策が美術界の実務となる
パンデミックが示した移動と排出の関係
2020年、新型コロナウイルス感染症の世界的流行により、美術館の閉館や国際的な移動制限が相次ぎました。展覧会の延期、アートフェアの中止、職員の出張停止によって、作品の航空輸送や人の移動が一時的に減少します。普段の美術界が、展示や商談のためにどれほど頻繁に国境を越えていたのかが、活動の停止によって浮かび上がりました。
感染症対策に伴う排出減少は、美術機関が計画的に進めた脱炭素化の成果とは性質が異なります。2021年以降に活動が再開すると、どの移動が不可欠で、どの業務を遠隔化できるかを個別に検討する必要がありました。2019年を基準年とする排出量の計測が重視されたのも、臨時の活動停止を長期的な改善と取り違えないためです。作品の国際交流を継続しながら排出を減らすという、新たな計画の立て方が模索されました。(参照:ギャラリー・クライメート・コアリション|事業成長と排出削減)
ギャラリー・クライメート・コアリションの設立
ギャラリー・クライメート・コアリション(GCC)は、美術業界の有志が2020年初めから準備を進め、同年10月22日に公式に公開した連携組織です。英国のギャラリー経営者らを中心に始まり、作家、美術館、非営利機関、展示・輸送に関わる事業者へ参加を広げました。2030年までに2019年を基準とする温室効果ガス排出量を少なくとも50%削減することと、廃棄物を大幅に減らすことを目標に掲げています。
ギャラリーは作品を販売する立場にありますが、輸送日程や梱包仕様を決めるには作家、収集家、運送会社、展示施設との調整が必要です。GCCは分野別の計算ツールや実務指針を共有し、それぞれが単独では変更しにくい慣行を共同で見直す場をつくりました。市場の成長と環境負荷の削減を両立させるには、作業の効率化に加え、活動量全体の変化まで考慮する必要があります。(参照:ギャラリー・クライメート・コアリション|設立と2020年の公式公開)
炭素排出量を計測して目標を定める
GCCが公開した排出量計算ツールは、航空移動、美術品輸送、建物のエネルギー使用などを入力し、活動の環境負荷を二酸化炭素換算量として整理できる仕組みです。ギャラリーやスタジオは、日常的な支出や業務の記録とともに移動回数、輸送の経路と重量、電気やガスの使用量を集め、優先的に改善する場所を探ります。
一回の輸送で排出される量を減らしても、輸送回数が増えれば組織全体の排出量は増える可能性があります。売上や展覧会数の変化も併せて見ることが重要です。計算された数値には推計やデータの欠落が含まれることもあるため、範囲と方法を明示して比較します。数字を集める作業は地味ですが、誰がどの移動を決めるのか、次年度の予算に何を組み込むのかという経営上の選択を具体化する役割を持っています。(参照:ギャラリー・クライメート・コアリション|炭素排出量計算ツール)
作品輸送と展覧会制作をどう変えるか
航空輸送を減らすための展示計画
国際展やアートフェアの作品輸送では、会期や保険の条件に合わせて航空便が選ばれることがあります。GCCは同じ重量と距離なら航空貨物の排出量が海上輸送より大幅に多くなる目安を示し、可能な限り船便や陸上輸送へ切り替えるよう促しています。輸送方法の選択は、作品の材質や大きさ、破損リスク、温度管理の必要性によって変わります。
船便には長い日数がかかるため、開幕間近に作品を選定する慣行では対応しにくくなります。早期に出品作品を確定する、巡回の順番を調整する、近隣の施設と共同で輸送するなど、展覧会制作の時間を組み替える方法が必要です。作家、借用館、貸出館、輸送会社が計画を共有できれば、作品の安全を守りながら実際の排出削減につなげられます。展示の完成度と輸送の速さを当然のように結びつけてきた美術界の慣行が、具体的な再検討の対象となりました。(参照:ギャラリー・クライメート・コアリション|持続可能な美術品輸送)
木箱・梱包材・展示資材の再利用
大型の美術作品を輸送する際には、特注の木箱、発泡材、保護フィルム、固定具など多くの資材が使われます。短い会期の展示では、仮設壁や台座、パネルが撤去後に廃棄される場合もあります。GCCの持続可能な輸送に関する取り組みでは、木箱の再使用、緩衝材の再利用、使い捨てプラスチックの削減などが具体的な項目として示されています。
再使用する箱にも、長期間の使用で作品を安全に支えられる設計が必要です。過度に簡略化した梱包で作品が損傷すれば、修復や再輸送によって新たな材料と費用が発生します。展覧会の環境負荷は、資材の購入時だけでなく、組立、保管、搬出、再利用まで通して検討しなければなりません。作品を守るという保存上の責任と、資源を繰り返し使うという実務の工夫が、この領域で具体的に結びついています。(参照:ギャラリー・クライメート・コアリション|輸送改善目標)
遠隔立会いと保存担当者の役割
所蔵館の担当者が貸出作品に同行して開梱や設置を監督する立会い制度は、貴重な作品の安全を守るために広く行われてきました。新型コロナウイルス感染症の流行期には、映像通信を利用して遠隔から設置作業を確認する方法が急速に普及しました。2023年に改訂されたBizot Green Protocolも、不要な航空移動を減らすため、遠隔立会いを基本的な選択肢として検討する方向を示しています。
遠隔方式では、現地の作業者に手順と作品の状態を伝え、通信の品質を確保し、異常時の判断を共有する必要があります。大型のインスタレーションなら現地調達や制作も選択肢になりますが、作家の指定する材質や構造を再現できるかを個別に確認します。環境への配慮は専門職の役割を軽くすることには直結しません。設置の知識をどのように記録し、複数の現場へ伝えるかが、これまで以上に重要になっています。(参照:CIMAM|2023年Bizot Green Protocol)
サーペンタイン《Back to Earth》と生態系のための美術
長期企画《Back to Earth》の構想
サーペンタインの長期企画《Back to Earth》は、2019〜2020年に始まった研究や協働を基盤として、2022年6月22日から9月18日にかけて大きな展覧会を開催しました。参加者は作家、科学者、建築家、映画作家、詩人ら60組以上に及び、映像や彫刻に加えて庭園、文章、研究、共同の取り組みを紹介しています。環境への応答を展覧会の会期だけで完結させないことが企画の特徴でした。
気候危機は数か月の展示で終わる問題ではなく、地域の植物や人々との関係を保ち続ける時間を必要とします。作品が公開されるまでの調査、会期中の対話、会期後の活動が、同じ計画に組み込まれました。サーペンタインが続けてきた「General Ecology」の研究は、人間以外の生物や技術との関係まで対象にしています。美術館の企画そのものが、長期的な環境との関わりを試す仕組みになった事例です。(参照:サーペンタイン|Back to Earth展(2022))
ギンズバーグ《Pollinator Pathmaker》
アレクサンドラ・デイジー・ギンズバーグは2021年から《Pollinator Pathmaker》を展開し、花粉を運ぶ昆虫のための庭園をアルゴリズムで設計しました。2022年にはサーペンタインの委嘱で、ロンドンのケンジントン・ガーデンズに長さ約227メートル、60種以上・4,471株の植物からなる植栽が実現しています。植物の選択と配置には、開花期や昆虫の訪問に必要な条件などのデータが使われました。
一般的な庭園では、色彩の組み合わせや人間にとっての眺めが設計の中心になります。この作品がまず考えるのは、ハチやチョウなどの昆虫にとって、季節を通じて食べ物が得られる環境です。観客は庭を歩き、そこで生活する生物と同じ場所を共有します。美術作品の受け手を人間だけに限定せず、生態系の維持に実際に働きかける方法が、植物の成長する時間とともに示されました。(参照:サーペンタイン|Pollinator Pathmaker委嘱資料)
他の生物と環境を共有するための方法
《Back to Earth》には、先住民の生活や土地との関係を映像で描くカラビング・フィルム・コレクティブの実践も含まれています。人間の暮らしを風景から切り離さず、家族、労働、移動、日々の出来事とともに撮影する方法は、遠い自然を眺める鑑賞体験とは異なります。土地は誰かの生活が積み重なる場所として示され、観客はそこに暮らす人々の視点に触れます。
同じ企画で紹介された庭園は、展示終了後にも季節ごとに姿を変え、昆虫や手入れを担う人々と関わり続けます。映像、植物、調査は異なる時間の流れを持ち、展示室に置かれた時点で完成する作品ばかりではありません。環境の変化を扱う美術には、作品をつくる人と維持する人、そこで暮らす生物の役割を含めて考える視点があります。サーペンタインの企画は、その複数の関係を一つの展覧会に集めました。
実際の展示では、カラビング・フィルム・コレクティブの《The Family (A Zombie Movie)》(2021年)が3面スクリーンと音響によって上映されました。また、カロリーナ・カイセドは南北アメリカの河川に設けられたダムの影響を、壁面を使った作品で示しました。展示されたものがすべて自然素材だったわけではなく、映像や図像による調査も重要な役割を担っています。(参照:サーペンタイン|Back to Earthの参加作品)
2022年、環境をめぐる大規模展が広がる
バービカン《Our Time on Earth》
2022年5月から8月、ロンドンのバービカン・センターで《Our Time on Earth》が開催されました。美術、建築、デザイン、科学の協働によって、気候危機のなかで人間が地球の一員としてどう暮らせるのかを考える展覧会です。会場は複数の空間的な体験から構成され、観客は歩きながら食料、都市、生物多様性、資源をめぐる未来像に触れました。壁面に研究成果を提示する方法に加え、身体を動かして環境を経験する展示が重視されています。
地球を人間のための資源として扱う考え方は、経済活動や都市設計を長く支えてきました。この展覧会では、人間と他の生物との相互依存に注目し、生活の仕組みを変える可能性を示しています。同年のヴェネツィア・ビエンナーレでも、人間と非人間の境界を見直す関心が大きなテーマとなりました。世界を説明するために生命を分類する視点から、共に暮らすための条件を考える視点へ、展示の構成自体が変化していきます。(参照:バービカン・センター|Our Time on Earth)
ヴェネツィアのチリ館と泥炭地
2022年のヴェネツィア・ビエンナーレ、チリ館《Turba Tol Hol-Hol Tol》は、南米パタゴニアの泥炭地を主題としました。アリエル・ブスタマンテ、カルラ・マッキアヴェッロ、ドミンガ・ソトマヨール、アルフレド・ティールマンらが協働し、映像、音、素材、科学的な研究を組み合わせた環境をつくりました。地下へ長い時間をかけて植物由来の物質を蓄える泥炭地の働きは、一般的な風景写真では伝わりにくいものです。
泥炭地は炭素を貯蔵し、水と生物の環境を支えています。展示では、その生態系が持つ時間の厚みを観客が想像できるよう、触覚や音を含めた複数の感覚が用いられました。地球規模の気候変動という大きな問題を、特定の土地の状況から考える方法です。泥炭地が置かれた歴史と保全をめぐる議論には、そこで暮らしてきた先住民の知識が関わっています。(参照:ヴェネツィア・ビエンナーレ|2022年チリ館)
先住民の知識と土地の記憶
チリ館の作品名には、南米最南端の先住民族セルクナムの言語が取り入れられています。土地についての知識は、気温や二酸化炭素濃度の記録とともに、言葉、伝承、移動の経路、季節ごとの作業によって受け継がれます。気候危機を扱う美術では、そのような知識を誰が説明し、展示の中で誰が発言する権限を持つのかが重要な問題になります。
《Turba Tol Hol-Hol Tol》は科学的な資料と土地に根差した文化的な記憶を同じ空間に置きました。先住民の知識を単なる演出のための素材として借りることには危うさもあります。展示の制作に関わる人々の役割、用いられる言語の由来、土地の政治的な状況を確認することが不可欠です。気候変動が引き起こす損失は、生態系とともに、そこに暮らす人々の生活や知識の継承にも及びます。(参照:ヴェネツィア・ビエンナーレ|2022年チリ館)
セシリア・ビクーニャと生態系の記憶
《Brain Forest Quipu》の巨大な繊維彫刻
チリ出身の詩人・美術家セシリア・ビクーニャは、2022年10月11日から2023年4月16日までテート・モダンのタービン・ホールで《Brain Forest Quipu》を発表しました。高さ27メートルにわたって天井から垂れ下がる二つの巨大な繊維彫刻が、細長い展示空間の両端に設置されました。色や太さの異なる繊維が幾重にも重なり、床へ向かって伸びる姿は、軽くほどけそうな素材と工業建築の巨大さを強く対照させています。
作品は二つの彫刻に音、映像、音楽を組み合わせた複合的なインスタレーションです。観客は巨大な繊維の周囲を移動し、結び目や垂れ下がる線を見上げ、音を聞きながら空間を経験します。細い素材が大量に集まることで壮大な形態が成立する点には、互いに支え合う関係のイメージも読み取れます。森林の喪失への危機感と、記憶をつなぎ直す行為が、建築全体を使った造形として提示されました。
二つの彫刻には、未紡績の羊毛、植物繊維、ロープ、段ボールなどが使われています。骨のように白い繊維の塊は、枯れた樹木の表面や乾燥した植物を連想させます。厳密に同じ形を繰り返すのではなく、一本ごとに異なる素材の状態を生かすことで、壊れやすいものが互いにつながる構造が立ち上がっています。(参照:テート/ヒョンデ|Brain Forest Quipu公式作品発表)
キープ、結び目、失われつつある知識
作品名にある「キープ」は、アンデス地域に伝わる、紐の結び目を用いた記録と記憶の仕組みを指します。ビクーニャは1970年代から、身近な素材を束ね、結び、吊るす制作を続けてきました。繊維の結び目は文字や絵画とは異なる形で情報や関係を残すものであり、身体を使う制作行為と、共同体の長い記憶を結びつけます。作品が大きくなっても、一本の糸に触れ、形をつくるという動作の重要性は失われません。
《Brain Forest Quipu》には森林の破壊とともに、その場所に結びつく文化や知識が失われていくことへの関心があります。環境の変化は樹木の数の減少として測定できますが、その土地を知る言葉や暮らしの方法が途絶える損失は同じ尺度で測れません。作家は、繊維を空間に配置することで、植物、身体、記憶、言葉を互いに結び直すイメージをつくりました。
作家は森を失うことへの哀悼を作品の中心に置いています。白く色の抜けた繊維は死んだ森林の姿を連想させ、結び目によって一つにつながる形態には、そこから新しい関係をつくり直したいという願いも含まれています。環境破壊と先住民への暴力が交わる歴史を、自然物の喪失としてだけ扱わない点が重要です。(参照:テート/ヒョンデ|キープと森林の記憶)
制作に参加する人々と展示空間
《Brain Forest Quipu》の制作では、ビクーニャがロンドンの作り手や職人、地域のラテンアメリカ系コミュニティの参加者と協働しました。さまざまな出自を持つ人々が素材を扱い、巨大な委嘱作品の実現に関わっています。完成した繊維彫刻の背後には、素材を探し、集め、手を動かす人々の仕事があります。共同制作の過程も、記憶やつながりを主題とする作品の意味に深く関わっています。
タービン・ホールはかつて発電所として使われた巨大建築の内部です。そこで柔らかな繊維が空間を横切り、声や映像とともに現れることは、近代的なエネルギーの施設を人間や自然の関係を考える場へ変える行為としても読めます。観客は物体を正面から見るだけではなく、音の響きと身体の移動によって作品を経験します。建築、素材、参加者の仕事が一つの環境を形づくっていました。
制作にはロンドンのテムズ川岸で集められた陶器の破片や小さな土管も取り入れられました。音響を担当したリカルド・ガジョとの《Sound Quipu》には即興演奏や森の環境音が含まれ、映像による《Digital Quipu》では先住民の活動家や土地を守る人々の姿が紹介されました。繊維、音、映像を通じて異なる土地の声が結びつけられています。(参照:テート/ヒョンデ|Brain Forest Quipu制作・音響・映像)
リチャード・モス《Broken Spectre》と森林破壊
アマゾンを3年にわたり撮影した《Broken Spectre》
リチャード・モスの《Broken Spectre》は、ブラジルのアマゾンで約3年間にわたり撮影された素材から構成された74分の映像作品です。2022年10月1日にオーストラリアのビクトリア国立美術館で世界初公開され、約20メートル幅のパノラマ画面と音響によって森林破壊を伝えました。撮影監督トレヴァー・トゥイーテン、音楽家ベン・フロストとの協働から生まれた作品で、森林の豊かな生命と、火災や伐採の現場が交互に現れます。
モスはアマゾンの破壊を遠景だけで説明しません。焼かれた土地へ近づく映像や、森の内部の細かな動きを捉えた映像を組み合わせ、破壊が広域に進むことと、具体的な場所で起きていることを行き来させます。ひと続きの物語へ整理するより、異なる尺度の映像を重ねる構成です。観客は映像に包まれながら、普段は遠い場所のニュースとして接している出来事を、空間的な経験として受け取ることになります。
ビクトリア国立美術館はこの作品を共同委嘱し、2023年には所蔵作品として登録しました。長時間の映像を複数の技術と音響装置を使って展示する作品では、映像ファイルの保存とともにスクリーンや上映条件の記録も重要です。社会的な問題を扱う映像が、美術館でどのように展示・保存されるかも作品の受容に関わります。(参照:ビクトリア国立美術館|Broken Spectre展(2022))
特殊なカメラが映し出す別の森林像
《Broken Spectre》では衛星による観測画像から森林内部の微細な映像まで、複数の撮像方式が使われています。上空からの視点は道路や伐採区域が広がる規模と配置を示し、地上での撮影は植物や生物が互いに関わる密度を映し出します。これらは同じ森林を捉えていても、対象の見え方も、読み取れる情報の種類も大きく異なります。
モスは以前から、軍事・監視に使われる撮像技術を芸術作品へ取り入れてきました。アマゾンの撮影では、肉眼が直接捉えられない情報を画像へ変換する方法が、目に見えにくい環境破壊を可視化する役割を担います。同時に、上空から全体を捉える視点には、そこに暮らす人々の生活を見落とす危険もあります。映像を切り替える構成は、環境危機を理解するために異なる距離からの観察が必要であることを示しています。
上空の観測画像では、道路が森を切り裂くように走り、周辺の伐採が組織的な活動として現れます。森の内部を捉えた映像は、そうした地図のような見方から離れ、動植物の細部や複雑な環境へ観客の注意を戻します。遠景と近景が交互に現れる編集は、土地全体の変化を知ることと、その場所の生命を見ることの両方を必要とすることを示しています。(参照:ビクトリア国立美術館|Broken Spectreと撮像技術)
大画面の没入と環境表現の倫理
《Broken Spectre》のパノラマ映像は、観客の視界を大きく占める画面と音響によって、森林の奥行きや火災の広がりを強く印象づけます。映像に映る炎や森林は視覚的にも鮮烈で、その美しさが示している破壊をどのように受け止めるかという難しい問題を生みます。作品は環境の惨状を淡々と記録する映像資料のような形式にとどまらず、鑑賞者の感覚と感情へ働きかけるよう構成されています。
大画面に包まれる経験は、事実を知ることと、出来事の深刻さを身体で感じることの間にある距離を縮めます。その効果が実際の森林保全や地域の人々への理解とどう結びつくのかは、鑑賞のあとにも残る問いです。また、この規模の展示には映像機器、電力、運搬、長時間の運転が必要です。気候危機に関わる作品の表現力を評価するとき、完成した映像の形式と展示の物質的な条件を併せて見ることが重要になります。(参照:ビクトリア国立美術館|Richard Mosse: Broken Spectre)
2022年、美術館が気候抗議の舞台になる
ゴッホ《ひまわり》の前で起きた抗議
2022年10月14日、ロンドンのナショナル・ギャラリーで、気候活動団体Just Stop Oilの活動家2人がゴッホの《ひまわり》の前面へトマトスープを投げ、壁へ手を接着しました。団体は英国で新たな石油・ガス事業を認めないよう求める抗議だと説明しています。ガラス越しに展示された著名な作品の前で行われたため、この光景は短時間で世界各地へ報道されました。
活動家が美術館を選んだ背景には、有名な絵画が強い文化的価値を持ち、その近くでの行動が人々の注意を集めるという考えがありました。作品を守るための額装やガラスの存在を活動家側は認識していたと説明していますが、液体を投げる行為が引き起こす危険については厳しい批判もありました。この出来事は、気候政策をめぐる街頭の抗議が、美術作品と観客の関係に直接入り込んだ例です。(参照:Just Stop Oil|2022年10月14日の抗議に関する声明)
活動家と美術館が示した立場
Just Stop Oilは《ひまわり》への行動をめぐり、美術の価値を認めながら、気候危機に対して社会が十分な注意を向けていないという主張を示しました。作品への強い愛着を持つ人々にこそ訴えかけたいという、活動家側の意図があります。抗議によって人々が気候問題に関心を持つ可能性と、作品が損傷するおそれを生むことへの批判が、同時に議論されました。
2022年11月11日、国際博物館会議(ICOM)は、美術館を舞台とする気候抗議について声明を発表しました。声明は、気候危機への懸念を理解するとともに、美術館が所蔵品や来館者を守る責任を持つことを確認しています。美術館側と活動家側の主張は、気候問題への関心という点では重なる部分もあります。争われたのは、美術館という公共空間でどのような抗議手段が適切なのか、文化財の安全を誰が担保するのかという具体的な問題でした。(参照:国際博物館会議|美術館と気候抗議に関する声明(2022))
警備強化が鑑賞体験を変える
抗議の後、ナショナル・ギャラリーを含む美術館では、持ち込み物や展示室の警備について見直しが進みました。ロンドンのナショナル・ギャラリーは2024年10月18日、《ひまわり》などへの複数の行動を受け、乳児用ミルクや処方薬などの例外を除いて館内への液体の持ち込みを禁止しました。館側は作品、来館者、職員の安全を理由として説明しています。
入館時の検査、警備員の配置、作品と観客の距離は、展示室を訪れる人の経験を変えます。絵画が損傷しなかった事例でも、展示方法やアクセスの条件が変更される影響は残ります。公共財として作品を近くで見せることと、長期に守り続けることの両方を美術館は担っています。抗議の議論を活動家の意図だけで終わらせず、その後に美術館で何が実際に変わったかを見ることが必要です。(参照:ロンドン・ナショナル・ギャラリー|2024年の警備方針)
化石燃料企業と文化機関のスポンサー問題
美術館を支える資金と社会的な信用
大規模な美術館や文化施設は、公的資金、寄付、入場収入、企業の協賛などを組み合わせて運営しています。化石燃料企業の名前が賞や展覧会に掲げられることについて、気候活動団体は、文化機関との関係が企業の社会的イメージを改善する働きを持つと批判してきました。環境を主題とする展覧会の開催と、同じ機関の資金の出所が整合しているのかという問題が生じました。
企業からの協賛は展示や教育事業、設備の更新、無料入場の維持を支える場合があります。そのため契約を終了することにも、継続することにも、具体的な財政的影響があります。美術館が問われるのは、単に環境への姿勢を表明することにとどまりません。どの企業を受け入れるか、契約によって何が提供されるか、館の独立性が保たれるかを、来館者へ説明できることが重要になりました。(参照:英国博物館協会|化石燃料企業と美術館の協賛)
ナショナル・ポートレート・ギャラリーの判断
ロンドンのナショナル・ポートレート・ギャラリーでは、長く続いた「BP Portrait Award」の協賛関係が2022年で終了しました。肖像画賞は多数の応募作品を展示し、作家の活動機会を提供する企画です。企業名が賞の正式名称に付くことは、資金提供者の名前を文化的な場で繰り返し目にする機会を生みます。協賛の終了は、その関係の継続をめぐる判断が変化した具体的な事例です。
賞の運営には選考、賞金、展示、広報などの費用が必要です。スポンサー契約の終了は、作家への機会をどう保ちながら新しい資金調達を行うかという実務にも関わります。英国の文化機関が一斉に同じ対応を選んだわけではなく、後年も化石燃料企業との契約を続ける博物館があります。個別の判断を比較することで、環境に関する理念と文化事業の資金構造がどう結びついているかが見えてきます。(参照:ナショナル・ポートレート・ギャラリー|BP Portrait Award)
大英博物館が2023年に選んだ契約
大英博物館は2023年12月、建物や展示空間の長期改修計画を支えるため、BPとの新たな10年間・5,000万ポンドの協賛関係を発表しました。博物館側は老朽化した施設の更新や公共アクセスの維持に資金が必要だと説明しました。同じ英国でナショナル・ポートレート・ギャラリーがBP協賛を終了したことと比べると、文化機関によって異なる判断が行われていることが分かります。
この契約に対し、気候活動家らは化石燃料企業の資金を受け入れることと博物館の環境目標との整合性を批判しました。大英博物館が説明する改修の必要性と、活動家が問題にする企業の社会的影響は、それぞれ異なる事実と判断を含んでいます。長期的な施設維持に費用がかかること、スポンサー企業が文化的な信用を得る可能性があることの双方を確認し、契約条件と館の方針を具体的に検討する必要があります。(参照:英国博物館協会|大英博物館とBPの2023年協賛契約)
2023年《Dear Earth》が示した環境美術の多様性
ヘイワード・ギャラリー《Dear Earth》
ロンドンのヘイワード・ギャラリーでは、2023年6月21日から9月3日にかけて《Dear Earth: Art and Hope in a Time of Crisis》が開催されました。アグネス・デネス、オトボン・ンカンガ、ヒト・シュタイエル、リチャード・モス、ダイアラ・トゥカノら15組の作家が参加しています。映像、繊維、草から育てた肖像、生きた植物、屋外のインスタレーションが並び、環境に関わる制作の方法がいかに多様かを示しました。
展覧会の手がかりになったのは、ンカンガが語る「ケアは抵抗の一形態」という考えです。作品は気候危機の破局的な光景を提示することに加え、土地や生物、共同体を守る日々の仕事へ注意を向けました。危機を知った観客がどのように環境との関係を考え直せるのかという問いが、展示の配置や作品選択にも表れています。デネスの生きた植物の構造物と、シュタイエルの電子的な装置が同じ会場で紹介されたことは、環境美術の方法が一つの見た目へ集約されないことを伝えています。
同展での作品の並び方にも意味があります。デネスの植物を覆うピラミッドでは生きた草や花が会期中に姿を変え、シュタイエルの装置では植物から得られる電気信号が電子的な像になります。どちらも生物を扱いながら、観客が知覚する時間と、作品を成立させる技術が大きく異なります。展覧会はその違いを一つの議論へつなげました。(参照:ヘイワード・ギャラリー|Dear Earth(2023))
アグネス・デネス《The Living Pyramid》
アグネス・デネスの《The Living Pyramid》は、草や野の花が育つピラミッド状の構造物です。《Dear Earth》では高さ約5メートルで再制作され、厳密に設計された幾何学的な形態の表面を植物が覆いました。植物が成長すると、色や輪郭は会期中にも変化します。完成時の姿を一定に保つ一般的な彫刻と比べると、生命の時間が作品の外観をつくり続けることが特徴です。
デネスは1960年代末から、土地、食料、生態系をめぐる問題を作品にしてきました。ピラミッドの明確な形状は人間の設計によって生まれ、その表面の花や草は人間の予定した通りに成長するとは限りません。構造をつくることと生きたものを維持することの差が、作品の中に現れます。約半世紀にわたり環境と社会の関係を考えてきた作家が2023年の展覧会に参加したことは、現在の気候危機が長い美術史の上に位置していることを示しています。(参照:ヘイワード・ギャラリー|アグネス・デネス《The Living Pyramid》)
オトボン・ンカンガと採掘された土地
オトボン・ンカンガは、鉱物や土、植物、織物などを通じて、土地から資源が取り出され、加工され、世界を移動する過程を扱ってきました。作品に使われる物質の美しさは、採掘に関わる労働、経済、環境破壊と切り離せません。《Dear Earth》では《In Pursuit of Bling》などが紹介され、鉱物を求める欲望と、その利益や負担が異なる場所へ分配される仕組みへ視線を向けました。
ンカンガが語るケアは、傷ついた土地を直す活動だけを指す言葉に収まりません。水や鉱物を採り、運び、使う人々の関係、資源の採取によって生活環境を変えられた人々の経験も含んでいます。作家は素材を鑑賞者へ提示することで、作品の材料はどこから来たのか、誰の仕事を経てここにあるのかと問いかけます。環境問題を数字だけに還元せず、物質と人間の歴史から考える実践です。(参照:サウスバンク・センター|オトボン・ンカンガ対談)
生きた植物とデジタル技術を組み合わせる表現
ヒト・シュタイエル《Green Screen》
ヒト・シュタイエルの《Green Screen》は、2023年の《Dear Earth》のために制作されたインスタレーションです。空のボトルやケースを組み合わせた大きな表示面にLEDを設置し、その背後に生きた植物を配置しました。植物の生体電気信号を音や画像へ変換し、ボトル一つひとつが画素のように働く仕組みです。電子的な映像と、成長する植物とが同じ装置を構成しています。
この作品が取り上げるのは、映像の技術を支える物質の存在です。デジタル画像は画面上で軽々と変化しますが、その表示にはプラスチック、電子部品、電力、通信などが必要になります。シュタイエルは捨てられた容器を表示装置へ組み込み、技術の物質的な側面を目に見える形にしました。植物からの信号を画像へ変えることは、生きたものを人間が理解できるデータに置き換える行為でもあります。何が計測され、何が映像として現れるのかという問いが、作品の構造に含まれています。
この表示方法はベルリンのハッカースペース「c-base」が開発した公開設計を発展させたものです。新しい電子機器を隠れたところで動かすのではなく、ボトルを用いた手製のスクリーンを見せることで、表示装置自体が鑑賞の対象になります。機械を組み立てる技術と植物を維持する仕事とが、同じ展示の中で交わります。(参照:サウスバンク・センター|Dear Earthの作品解説)
草を育てて肖像をつくるアクロイド&ハーヴェイ
アクロイド&ハーヴェイは、草を生育させることで人物の肖像をつくる手法を用いています。《Dear Earth》で紹介されたのは、ロンドンで環境保護に取り組む活動家たちの顔を草の成長によって表した作品でした。人物を描いた画像が植物そのものから現れ、時間が経つと変色することも作品の条件になります。鑑賞者は、鮮やかな緑色の像を写真に似たものとして見ると同時に、そこに生きている草があることに気づきます。
肖像を残すという美術の長い歴史と、自然に成長し衰える材料を用いることが一つになります。環境保護に関わる人々をモデルにすることには、その活動を記録する意味もあります。完成した画像が永久に同じ状態で残るという想定を外し、植物の時間を像の成立へ組み込む方法は、環境を題材にするだけでは得られない表現をつくっています。生きた草の世話も、作品を展示し続けるための具体的な仕事になります。(参照:サウスバンク・センター|Dear Earthの作品解説)
織物に刻まれた土地と移住の経験
台湾の先住民族パイワンの作家アルアイ・カウマカンも、2023年の《Dear Earth》に参加しました。2009年の台風により山間部の村から移住を余儀なくされた経験を背景に、共同体の女性たちと伝統的な織物の技術を受け継ぎ、立体的な繊維作品を制作しています。糸を編み、結び、重ねる動作は、土地を離れた後にも受け継がれてきた知識を形にする営みです。
気候災害がもたらす損失には住居や財産が含まれ、さらに生活の場所に結びついた言葉や技術の継承にも影響します。カウマカンの作品では、災害の映像を再現する代わりに、故郷の素材と結びついた手仕事が空間を満たします。制作に参加する女性たちの関係も作品の重要な部分です。気候危機が引き起こす移住の経験を、個人の記憶と共同体の持続という具体的な問題から捉える表現になっています。
台風で生活の拠点を失った後、同じ地域の女性たちと織りを続けることには、文化を伝える相手と時間を共有する意味があります。素材の色や形は土地固有の伝統に根差していますが、作品を置く国際的な美術館の空間では、そこで暮らしてきた人々の経験を伝える新しい手段になります。災害と移住の背景を知ることで、その立体的な形態が持つ意味も具体的になります。(参照:サウスバンク・センター|Dear Earthの作品解説)
美術館が作品を守る環境条件を見直す
2023年に刷新されたBizot Green Protocol
国際的な美術館長のネットワークであるビゾー・グループは、2023年に《Green Protocol》を改訂しました。温湿度を含む保存環境、作品貸出、輸送、遠隔立会いなどの方法を見直し、作品を安全に守りながら環境負荷を下げることを目指しています。改訂版では環境への負担が小さい方法をまず検討するという考え方が明確になりました。
美術館では、貸出先に特定の温度や湿度を要求する慣行が長く続いてきました。貸出館が設定した条件が厳しければ、借用館は強力な空調を長期間運転する必要が生じます。作品の材質、過去の環境履歴、劣化への感受性を踏まえて許容範囲を科学的に評価することで、無理な固定値への依存を減らせる場合があります。共通指針が重要なのは、保存の専門性を尊重しながら、複数の美術館が相互に条件を見直せる点にあります。(参照:CIMAM|2023年Bizot Green Protocol)
温湿度の管理を科学的に判断する
絵画、紙、木材、写真、金属などは、温度や湿度の変化に対する反応がそれぞれ異なります。特に吸湿性のある材料では急激な変化が変形やひび割れにつながる可能性があり、展示・保存には適切な環境管理が必要です。従来の美術館では、幅の狭い一定の温湿度を保つために大きなエネルギーが使われることがありました。
ビゾー・グループの2023年の指針は、保存科学にもとづき、作品と施設の条件に応じて管理する方向を示しています。ビクトリア国立美術館も、空調設備が美術館のエネルギー使用で大きな割合を占めることを説明し、環境条件を柔軟に扱う実践を公表しています。作品を傷めるような変化を避けることと、不要に厳しい設定を維持しないことを、資料や測定から判断する姿勢です。美術館の保存業務にとって、リスクの評価とエネルギーの計測がこれまで以上に密接な仕事になりました。(参照:ビクトリア国立美術館|適応的な保存環境管理)
国際的な保存指針を共有する
2023年には英国の博物館・美術館関係者が「Museum COP」を開催し、気候対応に関する共同の行動について議論しました。国際的な貸出や作品輸送は複数の機関の合意で成立するため、個々の施設が独自の基準を変えるだけでは限界があります。保存管理の指針、炭素排出の測定、施設運営で経験を共有することが重要になりました。
《Green Protocol》は法律による一律の強制ではなく、専門家と美術館の合意に基づく指針です。脆弱な作品には個別の条件が必要であり、許容できる変動の幅も材質や過去の保管環境によって変わります。展示の安全を判断する保存修復家、空調設備を扱う技術者、貸出を調整する学芸員が連携して、作品ごとに条件を決めていきます。気候対策を理念として掲げる段階から、保存業務の具体的な判断へ落とし込むことが、2023年の大きな変化でした。(参照:英国国立博物館館長会議|Museum COP報告)
国際アートフェアとギャラリーの環境対策
2024年、アートフェアが共同の指針をつくる
2024年9月24日、GCCはアート・バーゼル、フリーズ、TEFAFなどが関わる、国際アートフェアの環境対策を共同で進める取り組みを発表しました。作品を売買するフェアでは、短期間の会期に合わせて多数のギャラリーが作品、壁材、照明、スタッフを移動させます。会場の電力、仮設設備、梱包、航空便、来場者の移動などが排出の要因となります。
フェア主催者が共通の運営基準を示せば、一つのギャラリーの判断を超えて多くの出展者の行動に影響を与えられます。輸送を早めに計画する、展示資材を再利用する、出展者へ排出量の情報を提供するなど、現場ごとの実務を共有することが重視されています。国際的な美術市場の強みである交流の機会を保ちながら、数日間のために大量の資源を使う開催方法をどう変えるかが課題です。(参照:ギャラリー・クライメート・コアリション|2024年アートフェア共同構想)
フリーズとTEFAFの実務的な取り組み
フリーズはアートフェアの環境対策について公開方針を示し、出展者や協力会社へ輸送、移動、資材の扱い方の見直しを促しています。TEFAFも国際的な美術品の販売が集まる大規模な催しとして、エネルギー使用や搬入・搬出に関する検討を進めてきました。出展する作品は一つひとつ異なり、必要な保険や取扱条件も変わるため、統一した方法で簡単に済ませることはできません。
フェアの環境負荷を見る際は、会場で消費する電力の効率と、開催数や参加者数の変化を併せて考える必要があります。一回あたりの削減が進んでも、国際的な事業が拡大すれば総排出量は増える可能性があります。市場の成長と絶対排出量の削減をどう両立させるかは、ギャラリー、フェア主催者、作品輸送会社、収集家に共通する問題です。短期の催事を成立させる複数の主体が責任を分け合うことが求められています。
フリーズは会場の照明をLEDへ移行し、テント形式のイベントで燃料や空調の扱い方を見直してきたと公表しています。資材面では再使用する入口の構造、出展ギャラリーの梱包材を保管するスペース、現地での廃棄物回収などを実施しています。こうした対応は目に見える作品内容を変えずに、展示が成立する条件を調整するものです。(参照:フリーズ|アートフェアの環境対策)
出張、現地制作、デジタル技術の選択
国際的な展覧会では、作家や学芸員が出張し、作品が複数の国を移動します。会議を遠隔で行う、滞在期間をまとめる、現地で素材を調達して作品を制作するなど、移動の回数を減らす選択が検討されてきました。大型のインスタレーションでは、完成品を空輸する代わりに、設計や指示を送り現地の工房で制作する方法もあります。その場合には素材と構造を適切に再現できるかを作家と確認する必要があります。
オンライン展示や映像会議にも通信設備、サーバー、端末、電力が必要です。移動を遠隔の作業へ置き換えることによって何を削減できたかは、実際の条件によって異なります。展覧会の企画段階で輸送と材料の排出量を概算し、財務予算とともに調整する方法も広がりました。完成してから排出量を相殺する費用を考えるより、制作の始めから何を運び、何を現地でつくるかを決めることが、運営を根本から変える手がかりになります。(参照:ギャラリー・クライメート・コアリション|アートフェア環境対策)
ジョン・アコムフラーと水が運ぶ記憶
英国館《Listening All Night To The Rain》
ジョン・アコムフラーは2024年のヴェネツィア・ビエンナーレ英国館で、《Listening All Night To The Rain》を発表しました。展示は八つの互いに関わり合う映像と音の作品から構成され、来場者は複数のスクリーンが置かれた空間を移動します。アーカイブ映像、風景、人物の姿、音楽が重なり、時間や場所の異なる出来事が接続されていく構成です。
アコムフラーは長年、植民地主義の歴史、移住、人種的不正義、環境変化を映像で扱ってきました。英国館での展示では、作品名にもある「聴く」という行為が重要です。観客は一つの画面の情報を順に追うより、隣り合う声や音の間を行き来して経験を組み立てます。国家ごとの展示空間である英国館に、複数の地域と歴史が交わる映像を置いたことも、作品の構成と結びついています。
同展の企画にはキュレーターのタリニ・マリクが関わり、会場内で複数の映像作品が交差する構成が採用されました。歴史的な記録を使う作品では、何を残し、誰の言葉を響かせるかが編集の大きな判断になります。画面の数を増やすことは情報量を競うためではなく、異なる経験が同時に存在する状態を見せる方法になっています。(参照:ヴェネツィア・ビエンナーレ|ジョン・アコムフラー英国館(2024))
水が記憶と移動を結ぶ
《Listening All Night To The Rain》では水が繰り返し登場し、雨、海、川などの姿で映像をつなぎます。水は人々の生活を支え、移住の経路を形づくり、植民地支配と交易の歴史にも深く関わっています。環境の変化を現在の自然現象として映すだけでなく、過去から続く移動や搾取の記憶を呼び起こす媒体になっています。
展示空間では映像と音の異なる断片が同時に現れ、観客がひとつの物語へまとめきれない感覚を生みます。ある場所の風景を見ているとき、別の場所で語られた声が聞こえ、複数の時間が重なります。その方法は、気候危機を遠くの自然の出来事として扱うことから、地域を横断する歴史と人々の経験として捉えることへ視点を広げます。水を軸にした映像の重なりが、その関係を身体的な経験へ変えています。(参照:ヴェネツィア・ビエンナーレ|ジョン・アコムフラー英国館(2024))
生態系と植民地史を結ぶ映像表現
アコムフラーの映像には記録資料と新たに撮影した風景が共存し、植民地支配の歴史と現在の環境危機を結ぶ手がかりになっています。移民や強制移動を経験した人々の記憶、海や河川を通じてつながる交易、資源の採取と消費は、長い時間のなかで関係しています。作品は、それぞれの出来事を同じ理由で説明することを避けながら、互いに離れた歴史が同じ空間で響き合うよう構成されています。
科学的な測定は気候変動の規模や仕組みを明らかにします。アコムフラーの作品は、数値だけでは伝わりにくい個人の経験や喪失の記憶を、映像と音の配置によって経験させます。映像の断片が重なり合っても完全な説明には収束しない点に、作家独自の表現があります。国際展における環境の問題は、歴史の中で誰が何を経験してきたかという問いとも深く結びついています。(参照:ヴェネツィア・ビエンナーレ|ジョン・アコムフラー英国館(2024))
2025年、マーレト・アンネ・サラとサーミの世界
《Goavve-Geabbil》の巨大な彫刻空間
北欧の先住民族サーミの美術家マーレト・アンネ・サラは、2025年10月14日からテート・モダンのタービン・ホールで《Goavve-Geabbil》を発表しました。作品の一部《Goavve-》はトナカイの皮を電力ケーブルで束ね、高さ約28メートルの空間へ垂直に吊り下げた彫刻です。動物の皮の色や毛並みは一つずつ異なり、工業用のケーブルとの組み合わせが強い緊張を生みます。
この素材の関係には具体的な意味があります。皮はトナカイとともに暮らしてきたサーミの生活を表し、ケーブルは土地で進む資源採掘やエネルギー開発を想起させます。題名の前半は、気温の変動によって雪や雨が凍り、トナカイが地表の食べ物へ到達しにくくなる厳しい状態に関わります。気候の変化が、動物の生存と放牧を続ける人々の生活へ具体的に影響することが、巨大な彫刻の材料と形に結びついています。
約28メートルの彫刻には、毛のあるトナカイの皮が何段にも組み合わされています。白や褐色の皮はそれぞれに模様が異なり、人工的なケーブルの黒い線によって束ねられています。工業化されたエネルギー設備と、動物を育てることで成り立つ生活の間にある関係が、素材を見ただけでも感じられる造形です。(参照:テート/ヒョンデ|Goavve-Geabbilの造形と素材)
トナカイと植物の香り、サーミの声
《Goavve-Geabbil》の別の部分《-Geabbil》は、トナカイの鼻の構造に着想を得た迷路のような空間です。木の柱にはサーミの放牧におけるトナカイの耳印をもとにした形が刻まれ、皮や骨なども組み込まれています。動物の身体についての知識と、何世代にもわたって受け継がれてきた生活の技術が、観客が歩ける造形へ翻訳されています。
展示には匂いと音も用いられました。トナカイに関わる匂いやサーミの土地に自生する植物の香り、土地の環境音、伝統的な歌唱であるヨイク、長老たちの知識を伝える声が空間を満たします。視覚だけでは読み取れない生活の感覚が、嗅覚と聴覚を通じて提示されます。来場者は彫刻を眺める立場から、動物と人間の生存に関わる知識の一部を身体で経験する立場へ導かれます。
サーミの伝統的な手仕事には、動物から得た素材を無駄なく使うという考えがあります。展示の壁に用いられる皮や骨にも、食料や衣服として利用されなかった部分へ新しい役割を与える意味があります。迷路の中で見える印は装飾だけの模様ではなく、家族や放牧の仕事と結びついた目印です。具体的な技術を知ることが、形を読む手がかりになります。(参照:テート/ヒョンデ|Goavve-Geabbilの音と匂い)
環境と生活文化を切り離さない
サラはトナカイを放牧する家族のもとで育ち、サーミの人々が土地で暮らすための知識や権利を制作の中心に置いてきました。北欧諸国による土地利用や資源開発の政策は、サーミの移動、放牧、生活文化に影響してきました。《Goavve-Geabbil》では、気候変化に伴う雪と氷の状態、エネルギー開発、動物と人間の関係が、一つの土地で同時に起こる問題として示されています。
タービン・ホールはかつて発電所だった建築の内部にあります。エネルギーを大量に生産するための場所で、資源を採取することと生き物の暮らしを守ることの関係が、皮や木材、電気ケーブルを通じて問われました。誰がその土地で生活し、どのような知識を持ち、どの決定によって暮らしを変えられてきたのか。サーミの具体的な経験を伝える作品であることが、この展示の重要な意味です。
タービン・ホールを舞台にする理由も作品の経験へ関わっています。巨大な発電施設だった場所では、エネルギーという言葉が建物の歴史に結びつきます。サラの作品は、そのエネルギーを採掘される資源として捉える見方に、動物、植物、土地、人間が支え合う力として捉えるサーミの知識を重ねています。(参照:テート/ヒョンデ|サーミの土地とエネルギー)
2019〜2025年の変化と、美術館のこれから
2025年の中間検証が示した進展
ギャラリー・クライメート・コアリションは2025年11月、《Stocktake Report 2025》を公開し、設立以来の取り組みを振り返りました。報告書は排出量計算ツールに蓄積されたデータ、参加組織への調査、個々の事例を通して、2030年の削減目標へ向けた進展と課題を整理しています。美術分野の気候対応を、宣言文や意識調査に加えて、実際の運営データから検討する段階へ進めた資料です。
参加組織のなかには排出削減を進めた事例があります。数値を読むときは、測定を続けている組織が集計の中心であり、世界の美術界すべてを代表する標本ではないことに注意が必要です。大切なのは、削減できた組織がどの活動を変更したかを具体的に示すことです。作品輸送の計画、航空出張の扱い、空調、梱包、業務の分担といった実務の積み重ねが、美術界の気候目標を実際の行動へ近づけます。(参照:ギャラリー・クライメート・コアリション|Stocktake Report 2025)
作品を守り、環境を守るための判断
気候変化は、美術館が温室効果ガスの排出を減らすべき理由であるとともに、建物と収蔵品を守るうえでの直接的なリスクにもなっています。豪雨や浸水、猛暑、山火事、停電が増えれば、作品の収蔵場所や避難計画、施設の保守点検を再検討する必要があります。排出削減と災害への備えは異なる仕事ですが、作品を将来へ残すための長期的な責任のなかで結びついています。
美術館の排出量は館内の燃料や電力だけで決まりません。作品輸送、出張、製品の調達、来館者の移動など、外部の活動による間接的な排出も関わります。どこまでを集計したかによって削減率が変わるため、施設ごとの数字を比較する際は範囲や基準年を確認する必要があります。保存修復家、施設管理者、学芸員、輸送事業者、地域の行政などが関わる問題として、環境対策と文化財保護の体制を整えることが重要になっています。(参照:国際博物館会議|美術館と気候抗議に関する声明(2022))
作家の表現と制度の変化が交わる場所
2019年から2025年の現代美術では、地球環境への応答がさまざまな作品の形式となって現れました。氷が溶ける時間を見せるエリアソン、繊維で記憶を結ぶビクーニャ、アマゾンを特殊な撮像技術で記録するモス、昆虫のための庭園を設計するギンズバーグ、トナカイとサーミの土地をめぐる知識を扱うサラ。それぞれが特定の素材と制作方法から環境との関係を考えています。
同じ時期、美術館やギャラリーは作品の運搬、空調、展示資材、スポンサー、職員の移動について具体的な判断を求められるようになりました。環境を主題とする作品が自然素材でできていれば環境負荷が小さいと決まるわけではなく、長く保存するための条件も作品によって異なります。何をつくり、誰と制作し、どこから材料を運び、展示の後に何を残すのか。気候危機の時代の美術史には、作品の形と、それを社会のなかで成立させる仕事を一緒に見ていく視点が残りました。(参照:ギャラリー・クライメート・コアリション|年次実績報告)
2019〜2025年の略年表
今回の主題に直接関わる作品、文化機関の声明、展覧会、制度上の出来事を時系列に整理しました。先行作品については2019年以前の出来事も含めています。
- 1968〜1970年代|アグネス・デネスらが土地、生態系、社会制度を横断する実験を展開する。
- 2012年|オラファー・エリアソンとフレデリック・オテセンがLittle Sunを開始する。
- 2014年10月|エリアソンとミニック・ロージングの《Ice Watch》がコペンハーゲンで初めて公開される。
- 2015年12月|《Ice Watch》がパリのCOP21の時期に展示される。
- 2018年12月|《Ice Watch》がロンドンのテート・モダン前などで公開される。
- 2019年3月|ミラノ・トリエンナーレ《Broken Nature》が開幕する。
- 2019年4月3日|英国でCulture Declares Emergencyが始まる。
- 2019年7月11日|テート・モダン《Olafur Eliasson: In Real Life》が開幕する。
- 2019年7月17日|テートの館長たちが気候非常事態を宣言する。
- 2019年9月7日|ICOM京都総会で持続可能性とアジェンダ2030に関する決議が採択される。
- 2020年10月22日|ギャラリー・クライメート・コアリションが公式サイトを公開し、活動を本格化させる。
- 2020年春|感染症の流行を受け、美術館の閉館と国際作品輸送の制限が広がる。
- 2021年|ギンズバーグ《Pollinator Pathmaker》が始まる。
- 2022年4月|ロンドンのケンジントン・ガーデンズに《Pollinator Pathmaker》のサーペンタイン版が植栽される。
- 2022年4月23日|ヴェネツィア・ビエンナーレのチリ館《Turba Tol Hol-Hol Tol》が公開される。
- 2022年5月|バービカン・センター《Our Time on Earth》が開催される。
- 2022年6月22日|サーペンタイン《Back to Earth》展が開幕する。
- 2022年10月1日|リチャード・モス《Broken Spectre》がビクトリア国立美術館で世界初公開される。
- 2022年10月11日|ビクーニャ《Brain Forest Quipu》がテート・モダンで開幕する。
- 2022年10月14日|Just Stop Oilの活動家がゴッホ《ひまわり》の前で抗議する。
- 2022年11月11日|ICOMが美術館と気候抗議に関する声明を発表する。
- 2023年6月21日|ヘイワード・ギャラリー《Dear Earth》が開幕する。
- 2023年9〜12月|Bizot Green Protocolの改訂と関連資料が公表される。
- 2023年|英国のMuseum COPで文化機関の環境対策が協議される。
- 2023年12月|大英博物館がBPとの新たな10年間の協賛関係を発表する。
- 2024年4月20日|ヴェネツィア・ビエンナーレ英国館でアコムフラー《Listening All Night To The Rain》が公開される。
- 2024年9月24日|GCCがアートフェア共同の環境対策構想を発表する。
- 2024年10月18日|ロンドンのナショナル・ギャラリーが液体持ち込みの制限を開始する。
- 2025年3月|テートがサーミの作家マーレト・アンネ・サラの大型委嘱を発表する。
- 2025年10月14日|サラ《Goavve-Geabbil》がテート・モダンで開幕する。
- 2025年11月25日|GCCが《Stocktake Report 2025》を公開する。
- 2025年末|美術館・ギャラリーでは排出量の測定、展示の輸送計画、気候適応が継続課題となる。
- 2026年へ|気候危機を扱う作品と、展示・収蔵を支える制度の両面で検証が続く。
まとめ|気候危機の時代に美術が変えたもの
2019年、気候非常事態を宣言した文化機関は、環境との関係を公共の場で語る役割を引き受けました。その後、展示を成立させる建物のエネルギー、国際的な作品移動、保存環境の管理、企業スポンサーなど、普段は観客から見えにくい制度の部分が議論の対象になっています。環境を主題とした作品と、美術館が環境に与える影響は、切り離しがたい関係になりました。
作家たちは同じ問題に多様な方法で取り組みました。エリアソンの氷塊は溶ける時間を身体的に感じさせ、ビクーニャの繊維は文化と生態系の記憶を空間へ広げました。モスの映像は森林破壊の規模を複数の撮像技術から捉え、ギンズバーグの庭園は昆虫のための植栽を設計することで、作品の受け手を人間以外の生命へも広げました。
2022年の気候抗議は、美術館が文化的に大切なものを守る場所であることを改めて意識させました。抗議団体と美術館は異なる立場から語り、ICOMは環境への関心と文化財保護の責任をともに重視しています。企業スポンサーをめぐる選択も、美術館が作品を公開し続けるための資金と社会的な説明責任を結びつける課題となりました。
2023年のBizot Green Protocol改訂は、環境への対応が保存の専門知識を更新する仕事であることを示しました。国際的な貸出の基準、温湿度、遠隔立会い、作品輸送などを関係者が共有し、削減目標を日々の実務へ移すための条件が整えられています。2024年のアートフェアの共同構想と2025年のGCCによる検証は、取り組みが一部の館の声明から業界の連携へ広がったことを記録しています。
この時代の環境美術は、自然の美しさを示すことに加えて、土地に生きる人々の知識、素材の来歴、維持と修復の仕事、美術制度の責任を考える契機となりました。作品に向き合う体験と、それを支える仕組みの双方を具体的に見ていくことが、2025年以降の美術史に引き継がれていきます。
参考資料・出典
本記事は美術館、作家スタジオ、国際博物館組織、展覧会主催者、気候行動を担う専門団体の公開資料に基づき、ART LIBRARYが独自に構成・執筆しました。作品の主題、展覧会の運営、企業協賛、社会運動による抗議はそれぞれ目的と役割が異なるため、事実関係と資料の発信主体を明らかにしながら記述しています。報告書の実績については参加組織の測定データと業界全体の推定を区別し、各機関の発表内容をそのまま全世界の美術界へ一般化しない形で整理しています。
- ヘイワード・ギャラリー|アグネス・デネス《The Living Pyramid》
- 国際博物館会議|2019年京都総会決議
- Culture Declares Emergency|団体の歩みと2019年の発足
- フリーズ|テートによる2019年気候非常事態宣言
- トリエンナーレ・ミラノ|Broken Nature(2019)
- Little Sun|In Real Lifeと太陽光プロジェクト
- オラファー・エリアソン・スタジオ|Ice Watchの排出量報告
- ギャラリー・クライメート・コアリション|事業成長と排出削減
- ギャラリー・クライメート・コアリション|団体と2030年目標
- ギャラリー・クライメート・コアリション|炭素排出量計算ツール
- ギャラリー・クライメート・コアリション|持続可能な美術品輸送
- ギャラリー・クライメート・コアリション|輸送改善目標
- CIMAM|2023年Bizot Green Protocol
- サーペンタイン|Back to Earth 2022
- サーペンタイン|Pollinator Pathmaker委嘱資料
- バービカン・センター|Our Time on Earth
- ヴェネツィア・ビエンナーレ|2022年チリ館
- ビクトリア国立美術館|Richard Mosse: Broken Spectre
- ビクトリア国立美術館|《Broken Spectre》公式発表
- Just Stop Oil|2022年10月14日の抗議に関する声明
- 国際博物館会議|美術館と気候抗議に関する声明(2022)
- ロンドン・ナショナル・ギャラリー|2024年の警備方針
- ナショナル・ポートレート・ギャラリー|BP Portrait Award
- 英国博物館協会|大英博物館とBPの2023年協賛契約
- ヘイワード・ギャラリー|Dear Earth(2023)
- サウスバンク・センター|オトボン・ンカンガ対談
- ビクトリア国立美術館|適応的な保存環境管理
- 英国国立博物館館長会議|Museum COP報告
- ギャラリー・クライメート・コアリション|2024年アートフェア共同構想
- フリーズ|アートフェアの環境対策
- ギャラリー・クライメート・コアリション|アートフェア環境対策
- ヴェネツィア・ビエンナーレ|ジョン・アコムフラー英国館(2024)
- ヒョンデ/テート|Máret Ánne Sara《Goavve-Geabbil》(2025)
- ヒョンデ/テート|マーレト・アンネ・サラ委嘱の背景
- ギャラリー・クライメート・コアリション|2025年中間検証
- ギャラリー・クライメート・コアリション|年次実績報告
- オラファー・エリアソン・スタジオ|Ice Watch
- トリエンナーレ・ミラノ|第22回国際展
- サーペンタイン|Pollinator Pathmaker
- TEFAF|環境対策と輸送・施設運営
- ギャラリー・クライメート・コアリション|気候基金
- 国連気候変動枠組条約|文化・芸術分野の気候行動
- オラファー・エリアソン・スタジオ|In Real Life(2019)
- テート/ヒョンデ|セシリア・ビクーニャ《Brain Forest Quipu》作品と制作
- テート/ヒョンデ|マーレト・アンネ・サラ《Goavve-Geabbil》公式発表
- ビクトリア国立美術館|リチャード・モス《Broken Spectre》収蔵情報
- サーペンタイン|Back to Earth 参加作品と2019年からの活動
- ギャラリー・クライメート・コアリション|組織の沿革
- ギャラリー・クライメート・コアリション|Stocktake Report 2025
資料確認日:2026年10月17日 / ART LIBRARY