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Art History

1886–1890

ゴッホとゴーギャン

色彩・感情・象徴

1886年の最後の印象派展では、ジョルジュ・スーラが色彩を分割し、理論と計画によって画面を構築する新しい方向を示しました。しかし、印象派の後に現れた答えは一つではありません。

同じ1880年代後半、フィンセント・ファン・ゴッホ(Vincent van Gogh, 1853–1890)とポール・ゴーギャン(Paul Gauguin, 1848–1903)もまた、印象派から大きな刺激を受けながら、まったく異なる方向へ進み始めていました。

ゴッホは、パリで印象派と新印象派の明るい色彩を吸収し、それを次第に感情や人物の性格を強めるための色へ変えていきます。ゴーギャンは、自然を目の前で観察して再現することから距離を取り、記憶、想像、宗教的イメージ、平面的な色面を組み合わせる方向へ進みます。

1888年、二人は南フランスのアルルで約2か月間共同生活を送りました。この短い共同制作は、両者の違いをむしろ鮮明にします。

印象派から先へ進むとは何を意味したのか。ここでは、ゴッホとゴーギャンが色彩を「見えたものの記録」から解放し、それぞれ異なる方法で絵画の表現そのものへ変えていった過程を見ていきます。

1886年、ゴッホがパリへ — 暗い色から明るい色へ

1886年、ゴッホはオランダとベルギーでの制作を経てパリへ移り、弟テオと暮らし始めます。

それ以前の《ジャガイモを食べる人々》に代表される作品では、褐色や暗い緑など重い色調が中心でした。しかしパリで印象派や新印象派の作品を直接見ることで、その画面は急速に明るくなります。

Van Gogh Museumは、1886年から1888年のパリ滞在を「暗色から明色へ」と大きく変化した時期として位置づけています。ゴッホはトゥールーズ=ロートレック、エミール・ベルナール、ポール・ゴーギャンらと知り合い、スーラやシニャックを含む新しい絵画の動向にも接しました。

《クリシー大通り》など1887年のパリ作品では、小さく分割された明るい筆触が並びます。風景や都市を描くという主題だけでなく、色を隣り合わせる方法そのものにも、新印象派との接触が表れています。

ただし、ゴッホはスーラの方法をそのまま採用したわけではありません。規則的な色点を体系として守るより、短い筆触、線状の筆触、厚い絵具などを自由に組み合わせ、自分自身の方法へ変えていきます。

新印象派と日本の版画

パリ時代のゴッホにとって、もう一つ大きな刺激となったのが日本の浮世絵でした。

ゴッホとテオは多数の日本版画を収集しました。Van Gogh Museumは、彼がそこから平面的な色面、強い輪郭、装飾的なパターン、大胆なトリミングといった特徴を学んだと説明しています。

1887年には歌川広重や渓斎英泉の版画をもとにした作品も制作しています。しかし重要なのは、日本美術を単に模写したことではありません。

遠近法によって奥へ奥へと空間を作るより、大きな色面を画面上に配置すること。対象を画面の端で大胆に切ること。自然の色をそのまま写すのではなく、画面全体の関係によって色を選ぶこと。

こうした考え方が、印象派や新印象派から学んだ色彩と混ざり合い、ゴッホ独自の画面へつながっていきます。

ただし、ゴッホが思い描いた「日本」は、現実の日本社会そのものではありません。彼は日本の版画と当時ヨーロッパで流通していた日本像から、自分にとって理想的な芸術家と自然の関係を作り上げていました。その想像上の日本を、後には南フランスのプロヴァンスとも重ね合わせていきます。

1888年、アルル — 色を表現のために使う

1888年2月、ゴッホはパリを離れ、南フランスのアルルへ移ります。

強い日差し、青い空、黄色い麦畑、花咲く果樹園。パリとは異なる光の中で、ゴッホの色彩はさらに強くなります。

しかし、ここでの色は単に南フランスの自然が明るかったから強くなったのではありません。

ゴッホ自身は1888年8月の手紙で、目の前にあるものを正確に再現しようとする代わりに、色を使って自分自身をより強く表現するという考えを記しています。

つまり色は、対象に本来備わっている色を再現するためだけのものではなくなります。

黄色をより黄色くする。青とオレンジ、赤と緑の補色を強くぶつける。人物の性格や部屋の雰囲気、自然から受けた感覚を強めるために、実際に見えている色から意図的に離れる。

《夜のカフェ》《アルルの寝室》《種まく人》《ひまわり》などでは、色そのものが作品の感情的な強度を作るようになります。

印象派が光によって変化する色を観察したとすれば、ゴッホはその成果を引き継ぎながら、色をさらに表現の道具へ変えていきました。

ゴーギャンとブルターニュ — 印象派から離れる

ゴーギャンもまた、印象派と深い関係を持っていました。

ピサロとの交流を通して制作を学び、1880年代前半には印象派展にも参加しています。しかし次第に、自然を目の前で観察し、その視覚的な印象を描く方法だけでは自分の求める絵画に届かないと感じるようになります。

1886年、ゴーギャンはフランス北西部ブルターニュのポン=タヴェンへ滞在します。その後パナマ、マルティニークを経て、1888年に再びブルターニュへ戻りました。

ゴーギャンはブルターニュの農村生活や宗教的慣習を、工業化されたパリとは異なる「古い」「素朴な」文化として捉えました。ただし、それはブルターニュ社会そのものを客観的に記録したものではありません。近代都市から離れた純粋な場所を求めるゴーギャン自身の理想化や投影が強く含まれていました。

重要なのは、その環境の中で、ゴーギャンが自然をそのまま描くことから急速に離れていったことです。

ベルナール、クロワゾニスム、総合主義

1888年のポン=タヴェンでは、ゴーギャンと若い画家エミール・ベルナールの交流が重要な転換を生みます。

ベルナールはすでに、対象を太い輪郭線で囲み、その内部を比較的平坦な色面で塗る方法を試していました。この方法は、ステンドグラスの鉛線や日本版画、民衆版画などとの関連から「クロワゾニスム」と呼ばれます。

ゴーギャンとベルナールの共同的な探究から、さらに「総合主義(Synthetism)」と呼ばれる考え方が形成されていきます。

ここで「総合」されるのは、目の前の自然だけではありません。

実際に見たもの。そこから受けた感覚。画家の記憶や想像。そして色、線、形による画面そのものの秩序。

これらを一つの絵画へまとめることが目指されました。

自然を正確に再現することよりも、形を単純化し、大きな色面へ置き換える。奥行きを弱め、画面の平面性を強める。色は現実の色と一致しなくてもよい。

印象派が視覚の瞬間性を追究したのに対し、ここでは、見たものをいったん画家の内部で変換し、再構成することが重要になります。

《説教のあとの幻影》— 現実と想像を一つの画面へ

その転換を最もはっきり示した作品の一つが、ゴーギャンが1888年に制作した《説教のあとの幻影(ヤコブと天使の闘い)》です。

手前には、ブルターニュの伝統的な帽子をかぶった女性たちが描かれています。彼女たちは教会で、旧約聖書のヤコブと天使の格闘についての説教を聞いた後です。

画面右上では、ヤコブと天使が格闘しています。

しかしこれは、女性たちの目の前で実際に起きている出来事ではありません。ゴーギャン自身が手紙で説明したように、格闘する二人は、説教を聞いた女性たちの想像の中に存在しています。

画面を斜めに横切る木の幹が、現実の女性たちと想像上の出来事を分けます。そして地面は、自然には存在しないほど強い赤で塗られています。

ここでは、現実的な遠近法や自然な色彩よりも、作品が伝えようとする感覚や意味が優先されています。

National Galleries of Scotlandは、この作品を、形や色を意図的に歪め、観察された現実ではなく思想や想像の世界に基づく新しい絵画を示した重要作として位置づけています。

色は、光の状態を記録するためだけのものではなくなりました。

赤い地面そのものが、現実と幻影の境界を作っています。

1888年アルル — 二人の画家が同じ場所で描く

ゴッホには、アルルに複数の画家が共同生活しながら制作する「南のアトリエ」を作る構想がありました。

その最初の仲間として招かれたのがゴーギャンです。

1888年10月、ゴーギャンはアルルへ到着し、ゴッホが借りていた「黄色い家」で共同生活を始めました。

ゴッホはゴーギャンを迎えるために《ひまわり》の連作を制作し、家の装飾を整えます。Van Gogh Museumによれば、最終的に黄色い家へ実際に滞在した画家はゴーギャンだけで、その滞在は約2か月でした。

二人は同じ場所へ出かけ、同じ人物を描き、作品について議論しました。ゴーギャンは《ひまわりを描くファン・ゴッホ》を制作し、ゴッホは《ゴーギャンの椅子》を描いています。

同じ場所、同じ時期、同じモデル。

しかし作品を見ると、二人が絵画について同じ考えを持っていたわけではないことが分かります。

自然から描くこと、記憶から描くこと

二人の違いが特に現れたのが、「何を見ながら描くのか」という問題です。

ゴッホは、自然や人物を目の前に置いて描くことを非常に重視していました。色や形を大きく変形するときにも、その出発点には実際の対象があります。

一方ゴーギャンは、アルルでもゴッホに、目の前のモチーフだけに依存せず、記憶や想像から描くことを勧めました。

もちろん、この違いを単純に「ゴッホ=自然」「ゴーギャン=想像」と二分することはできません。ゴッホも記憶や構想によって作品を作り、ゴーギャンも実際の人物や風景を観察しています。

しかし、どこに絵画の最終的な根拠を置くのかという点で、二人の優先順位には大きな違いがありました。

ゴッホは、見える世界との強い接触を保ちながら、色と筆触によって感覚を増幅する。

ゴーギャンは、見える世界を材料の一つとし、記憶、象徴、想像によって画面を再構成する。

1888年のアルルは、印象派の後に生まれた二つの異なる方向が、同じ家の中で直接ぶつかった場所でもありました。

1888年12月、共同生活の終わり

共同生活は長く続きませんでした。

1888年12月23日、二人の激しい口論の後、ゴッホは混乱した状態の中で自らの左耳の一部を切りました。翌朝、警察によって発見され、病院へ運ばれます。ゴーギャンはその後アルルを離れました。

この出来事については後世にさまざまな説が生まれていますが、Van Gogh Museumも指摘しているように、ゴッホが後にその時のことをほとんど記憶していなかったこともあり、医学的原因を含めて断定できない部分があります。

美術史上重要なのは、この出来事を二人の作品の単純な原因として扱わないことです。

彼らの制作上の違いは、それ以前からすでに存在していました。そして共同生活が終わった後、それぞれの方向はさらに明確になっていきます。

1889–1890年、ゴッホ — 色と筆触の強度

1889年5月、ゴッホは自らサン=レミの療養院へ入ります。

療養院の庭、周囲のオリーブ畑、糸杉、山、麦畑など、限られた環境を繰り返し描きました。

ここでの作品では、筆触そのものが画面全体を動かすようになります。木の枝、山、空、雲、畑はそれぞれ独立した輪郭を持つというより、反復する線と絵具の動きによって互いにつながります。

色彩も、自然を忠実に再現するためではなく、作品全体の強度を作るために使われます。

1890年5月にはオーヴェル=シュル=オワーズへ移り、医師ポール・ガシェのもとで制作を続けました。短期間に多数の風景や人物画を残し、同年7月29日に37歳で死去します。

ゴッホの制作期間は約10年と短いものでした。しかし、パリで学んだ印象派、新印象派、日本版画の要素を、自分自身の線、色、絵具の厚みへ変換した彼の作品は、後の表現主義やフォーヴィスムの画家たちに大きな参照点となります。

ゴーギャン — 象徴と平面性へ

ゴーギャンはアルルを離れた後、再びブルターニュへ戻ります。

《黄色いキリスト》など1889年前後の作品では、大きく平坦な色面、強い輪郭、単純化された形、宗教的・象徴的な主題がさらに明確になります。

また1888年、ポール・セリュジエはポン=タヴェンでゴーギャンの助言を受けながら、小さな風景画《タリスマン》を制作しました。

そこでは、木は自然な茶色や緑で塗られる必要がありません。画家が黄色く見た、あるいは黄色として感じたなら、黄色を置く。青く感じた影には青を置く。

セリュジエがこの作品をパリへ持ち帰ったことは、後にナビ派を形成する若い画家たちへ大きな刺激を与えます。

ゴーギャンが進めた方向は、自然を忠実に再現する絵画から、色と形それ自体によって意味を作る絵画へつながっていきました。

ただし、ゴーギャンがその後追求する「原始的」「文明から離れた」文化というイメージについては、彼自身の理想化と当時の植民地主義的な視線を含むものとして、現在では批判的にも検討されています。1891年以降のタヒチでの制作については、後の時代の記事で改めて扱います。

二人は何を変えたのか

ゴッホとゴーギャンの作品は見た目も制作方法も大きく異なります。

それでも、美術史の流れの中では一つの重要な変化を共有しています。

色は、見えているものを再現するだけのものではなくなった。

ゴッホは色を、人物、風景、空間から受けた感覚を増幅するために使いました。

ゴーギャンは色を、記憶、象徴、想像を画面へ構成するために使いました。

自然を描くことと、自然の色を再現することが分離し始めた。

空は必ずしも「実際に見えた青」である必要はない。地面が赤でもよい。人物の顔に緑や黄色を置いてもよい。

重要なのは、その色が作品全体の中でどのような役割を持つかです。

画面の平面性がさらに強く意識されるようになった。

日本版画、クロワゾニスム、大きな色面、強い輪郭。奥行きの再現より、画面上の色と形の配置が前面へ出てきます。

こうした変化は、20世紀初頭の美術にとって重要な出発点になります。

20世紀へ向かう二つの道

1880年代後半、美術はもはや一つの方向へ進んでいませんでした。

スーラは、色彩を理論によって体系化しました。

ゴッホは、色と筆触を強い表現へ変えました。

ゴーギャンは、色と形を自然の再現から離し、象徴と想像へ向かわせました。

そして同じ時代、ポール・セザンヌはまったく別の問題に取り組んでいました。

セザンヌが追究していたのは、色を感情や象徴へ解放することだけではありません。

目の前の世界を見ながら、それを絵画としてどのように「構築」できるのか。

山、リンゴ、人物、テーブル、空間。そのすべてを色と形の関係として組み直す試みです。

この探究は、やがてピカソとブラック、そしてキュビスムへとつながっていきます。

参考資料・出典

本ページは、美術館・研究機関が公開する作品、作家、研究資料を参照してART LIBRARYが独自に構成・執筆しています。原文の全文翻訳ではありません。

資料確認日:2026年10月1日 / ART LIBRARY