Art Library

旧石器時代から現代まで、日本列島の政治、社会、宗教、文化の変化を年代順にたどる日本史アーカイブ。

約3万7千年前|日本列島に暮らし始めた人々

現在の研究では、約3万7千年前には日本列島で人々が暮らしていたことが分かっています。当時は最終氷期と呼ばれる寒い時代で、今とは海岸線や植生が異なりました。人々は石を打ち欠いてつくった道具を使い、動物を狩り、植物を採集しながら生活していました。

各地の遺跡からは石器や石器製作の痕跡が見つかっています。狩猟採集を営む人々は、食料や石器の材料を求めて移動し、地域ごとの自然条件に適応していました。文字による記録が残らない時代の暮らしは、こうした考古資料を通して調べられています。(参照:国立歴史民俗博物館|第1展示室)

約1万6000年前以降|土器の出現と縄文文化の始まり

日本列島で見つかった最古級の土器は、約1万6000〜1万5000年前にさかのぼります。青森県の大平山元Ⅰ遺跡では、この時期の土器が出土しました。土器を使うと、水や食料を容器に入れて加熱できるようになり、食材を煮て調理することが可能になります。

土器の登場は、暮らしの変化を知る大切な手がかりです。縄文文化は長い時間をかけて発展し、地域ごとに異なる形の土器や道具がつくられました。土器が現れた時点で、すべての人々が定住を始めたわけではありません。移動と定住のあり方も、環境や時期によって変化していきました。(参照:国立歴史民俗博物館|縄文はいつから!?)

縄文時代前期〜中期|三内丸山遺跡に見る集落と交流

青森市の三内丸山遺跡では、紀元前約3900〜2200年に営まれた大規模な集落の跡が発掘されています。竪穴建物や掘立柱建物、墓、貯蔵に関わる施設などが見つかり、住まいと墓の場所を分けて使っていたことが分かります。

人々はクリやクルミなどの植物を利用し、漁労や狩猟も組み合わせて食料を得ていました。離れた地域で産出するヒスイや黒曜石などの出土品からは、広い範囲の交流も読み取れます。縄文時代の社会には地域差があり、三内丸山遺跡はその多様な暮らしを考える重要な手がかりとなっています。(参照:特別史跡三内丸山遺跡|遺跡とは、三内丸山遺跡|縄文時代の扉を開く)

紀元前10世紀頃|九州北部で始まった水田稲作

紀元前10世紀頃、九州北部で水田稲作が始まったと考えられています。水田を整え、水を引き、種もみを育てて収穫する米づくりは、人々の暮らしを徐々に変えていきました。農耕に関わる道具や技術は朝鮮半島などとの交流を通じて伝わり、やがて各地へ広がりました。

米の生産と貯蔵が進むにつれ、村同士の関係や地域の有力者の役割も変化しました。集落の周囲に溝をめぐらせた環濠集落や、武器を伴う墓など、争いをうかがわせる遺跡もあります。稲作の受容には地域差があり、狩猟・漁労・採集を重視する暮らしも続きました。(参照:国立歴史民俗博物館|弥生ってなに?!、国立歴史民俗博物館|第1展示室)

57年|倭の奴国王と後漢の交流

弥生時代の日本列島には、地域ごとに政治的なまとまりを持つ国々がありました。中国の歴史書『後漢書』には、57年に倭の奴国の使者が後漢へ渡り、光武帝から印と綬を授けられたと記されています。奴国は現在の福岡市周辺に存在したと考えられています。

江戸時代に福岡市の志賀島で発見された「漢委奴国王」の金印は、この記録に登場する印と考えられています。金印は、中国の皇帝と倭の国の支配者との外交関係を伝える資料です。倭の国々が当時の東アジアの政治や交易とつながっていたことが分かります。(参照:福岡市博物館|常設展示「金印の世界」、福岡市博物館|金印)

3世紀|卑弥呼と邪馬台国、魏との外交

中国の歴史書『三国志』の「魏志倭人伝」は、3世紀の倭に邪馬台国を中心とする国々の連合があり、女王卑弥呼が治めていたと伝えています。卑弥呼は魏へ使者を送り、皇帝から「親魏倭王」の称号や贈り物を受けたと記録されています。

邪馬台国が日本列島のどこにあったかについては、現在も研究が続いています。歴史書に書かれた情報と、集落・古墳・銅鏡などの出土品を照らし合わせながら、政治的なまとまりがどのように成立したのかが考えられています。(参照:九州国立博物館|卑弥呼の鏡、国立歴史民俗博物館|邪馬台国の位置について)

3世紀中頃以降|前方後円墳とヤマト王権の形成

3世紀に入ると、近畿地方を中心に大きな前方後円墳がつくられ始めました。前方後円墳は、上から見ると丸い部分と四角い部分がつながった形の墳墓です。各地の有力者が似た形の古墳を築いたことから、広い地域に政治的な関係が形成されていたと考えられています。

奈良盆地を中心とする勢力は、周辺の有力者と結びつきながら、後にヤマト王権と呼ばれる政治的なまとまりを発展させました。古墳の大きさや副葬品には有力者間の地位の違いや、東アジアとの交流の様子も表れています。(参照:国立歴史民俗博物館|第1展示室)

5〜6世紀|渡来人と技術・文化の交流

古墳時代には、朝鮮半島や中国大陸との交流が活発になり、海を渡って日本列島に住むようになった人々もいました。こうした人々は渡来人と呼ばれ、土器づくりや金属加工、機織りなどの技術、文字や学問などの広がりに関わりました。

例えば、窯の中で高温焼成する須恵器は、朝鮮半島に由来する技術を受けて生産されるようになりました。新しい技術は宮廷や有力者の活動だけでなく、地域の人々の暮らしにも影響を与えました。日本列島の古代社会は周辺地域との交流の中で形成されていったことが分かります。(参照:国立歴史民俗博物館|第1展示室)

6世紀|仏教の伝来と蘇我氏・物部氏

6世紀半ば、朝鮮半島の百済を通じて仏教が伝わったとされます。伝来の年は史料によって538年説と552年説があり、仏教の受容は長い時間をかけて進みました。仏像や経典とともに、寺院建築や工芸に関わる技術も伝わりました。

仏教を積極的に受け入れようとした蘇我氏と、慎重な立場を取った物部氏らの対立は、当時の有力豪族間の政治的な争いとも結びついていました。6世紀末に蘇我氏が優位に立つと、飛鳥寺などの寺院の造営が進み、仏教は王権と関わりながら広がっていきました。(参照:奈良文化財研究所|飛鳥資料館・第一展示室、奈良文化財研究所|飛鳥の歴史年表、日本佛教学会年報|仏教公伝の年代)

7世紀初頭|推古朝の政治と遣隋使

推古天皇の時代には、厩戸王(聖徳太子)や蘇我馬子らが政治を担い、王権の運営体制が整えられていきました。603年には冠位十二階、604年には十七条憲法が定められたと伝えられ、豪族と王権の関係を調整しようとする動きが見られます。

607年には小野妹子が遣隋使として派遣されました。中国大陸の隋との外交を通じて、政治制度や仏教文化について新しい知識を得ることができました。日本列島の王権が東アジアの国際関係の中で独自の立場を築こうとしていた時期です。(参照:奈良文化財研究所|飛鳥の歴史年表)

645〜646年|乙巳の変と大化改新

645年、中大兄皇子と中臣鎌足らは、当時強い権力を持っていた蘇我入鹿を殺害しました。この政変を乙巳の変と呼びます。その後に孝徳天皇が即位し、新たな政治体制を整える改革が始まりました。この一連の改革が大化改新です。

『日本書紀』には、646年に豪族による土地や人民の支配を見直し、地方行政の制度を整える方針が示されたと記されています。実際の制度改革はその後も段階的に進みました。記録には後の制度を反映した表現もあるため、史料を検討しながら改革の過程を理解する必要があります。(参照:奈良県立万葉文化館|大化改新)

663年|白村江の戦いと東アジア情勢

7世紀、朝鮮半島では百済・新羅・高句麗が争い、中国の唐も軍事的に関わっていました。660年に百済が滅びると、倭は百済の再興を支援するため朝鮮半島へ軍を送りました。663年の白村江の戦いでは、百済の再興を目指す勢力と倭の連合軍が唐・新羅側に敗れました。

この敗北を受け、倭は大陸からの攻撃に備えて九州などの防衛を強化しました。白村江の戦いは、東アジアの国際関係が日本列島の政治や防衛制度に深く影響していたことを示しています。(参照:国立公文書館|歴史と物語・年表、奈良文化財研究所報告書|律令国家の確立と鞠智城)

672年|壬申の乱と天武天皇の政治

672年、天智天皇の死後、皇位継承をめぐって大海人皇子と大友皇子の勢力が争いました。これが壬申の乱です。大海人皇子が勝利し、翌673年に天武天皇として即位しました。争いには中央の豪族だけでなく、各地の勢力も加わっていました。

天武天皇とその後を継いだ持統天皇の時代には、官僚の役割や氏族の序列を整え、戸籍をつくるなど、王権が人々や土地を把握する制度づくりが進められました。694年には藤原京へ遷都し、恒常的な都を中心とする政治が発展しました。(参照:国立公文書館|歴史と物語・年表、奈良文化財研究所|飛鳥の歴史年表)

701年|大宝律令と国家制度の整備

701年、大宝律令が制定されました。「律」は刑罰に関する規定、「令」は行政や役人の仕組みなどを定める規定です。唐の制度を参考にしながら、天皇を中心とした政治組織、地方行政、税の仕組みなどを整備する基礎となりました。

律令国家では、国や郡などの地方行政組織を設け、戸籍などを通して人々を把握しました。税や労役を負担する仕組みも設けられ、朝廷の政治が地方の暮らしにも関わるようになりました。制度の運用には地域差や変化があり、その後の奈良時代を通じて整備が続きました。(参照:国立公文書館|歴史と物語・年表、奈良文化財研究所|飛鳥の歴史年表)

710年|平城京と律令国家の政治

710年、元明天皇のもとで都が藤原京から平城京へ移されました。平城京は唐の都の都市計画を参考に、広い道路で区画された計画都市として整備されました。都には天皇の宮殿や中央官庁が置かれ、律令にもとづく政治の拠点となりました。

地方では国司や郡司が行政にあたり、戸籍や土地の管理、税の徴収などが行われました。平城京では役人、職人、商人など多様な人々が生活し、遣唐使などを通じて大陸の知識や技術も伝わりました。都の繁栄は、全国から集められる物資や人々の労働によって支えられていました。(参照:奈良文化財研究所|平城遷都特別展、国立公文書館|歴史と物語・年表)

723年・743年|土地制度の変化と農民の暮らし

律令国家では、人々に口分田を割り当て、その収穫などをもとに税を負担させる仕組みが設けられました。人口の増加や農地の管理などの課題に対応するため、朝廷は新しい田を開くことを奨励しました。723年の三世一身法は、開墾した田を一定の期間所有できる制度でした。

743年の墾田永年私財法では、条件を満たせば新しく開いた田の永年私有が認められました。所有できる面積には身分による制限もあり、寺院や貴族なども開墾に関わりました。これらの政策は、後に荘園が広がっていく背景の一つとなりました。(参照:奈良県立万葉文化館|墾田永年私財法)

752年|東大寺の大仏開眼と天平文化

奈良時代、聖武天皇は仏教の力によって国の安定を願い、各地に国分寺・国分尼寺を設ける政策を進めました。743年には盧舎那大仏の造立を命じ、各地の人々の力を集めて大仏と大仏殿の建設が進められました。752年には東大寺で大仏の開眼供養が行われました。

奈良時代の文化は天平文化と呼ばれ、仏像や寺院建築、書物や工芸品に、唐や朝鮮半島などとの交流の影響が見られます。正倉院には聖武天皇ゆかりの品々や東大寺の儀式に用いられた道具などが伝わり、当時の技術と国際的な文化交流を知る資料となっています。(参照:東大寺|奈良時代創建、奈良国立博物館|正倉院展)

794年|平安京への遷都と新しい政治の拠点

桓武天皇は784年に都を長岡京へ移した後、794年に平安京へ遷都しました。現在の京都市を中心とする地域に新しい都が整備され、以後、長く朝廷の政治と文化の中心となります。奈良時代から続く律令の仕組みを維持しながら、朝廷は行政や軍事の運営方法を少しずつ変えていきました。

この時期、朝廷は東北地方への進出も進めていました。坂上田村麻呂が802年に胆沢城を築いたことは、その動きを示す出来事です。蝦夷と呼ばれた人々との戦いや交渉を通して、朝廷の勢力が及ぶ地域は変化していきました。平安時代の始まりには、都の建設と地方の支配をめぐる動きが並行していたのです。(参照:国立公文書館|歴史と物語・年表)

9世紀初頭|最澄と空海、平安仏教の発展

平安時代の初め、最澄と空海は804年に遣唐使に同行して唐へ渡り、仏教を学びました。最澄は帰国後、比叡山を拠点に天台宗を広め、空海は密教を学んで帰国し、高野山や東寺などを活動の拠点として真言宗を発展させました。唐で学んだ教えは、日本の宗教や文化にも大きな影響を与えました。

仏教は僧侶の修行や国家の儀礼と深く結びつき、寺院は学問や美術、建築を生み出す重要な場所にもなりました。仏像や曼荼羅、書などには、唐から伝わった思想と表現が取り入れられます。平安時代の仏教を理解すると、当時の政治と文化のつながりも見えてきます。(参照:国立公文書館|歴史と物語・年表)

894年|遣唐使の派遣中止と国風文化の発展

894年、菅原道真は唐への使節派遣を見直すよう朝廷に進言し、予定されていた遣唐使は派遣されませんでした。唐では政治的な混乱が進み、907年には唐が滅亡します。日本はそれ以前から中国大陸や朝鮮半島の文化を受け入れており、使節の派遣中止後も東アジアとの交易や文化交流は続きました。

平安時代の中頃には、漢字をもとにした仮名文字が広く用いられ、和歌や物語など日本語による文学が発展しました。これを国風文化と呼びます。その発展は遣唐使の中止だけで説明できるものではなく、それ以前から続く宮廷社会の変化や文字文化の成熟と結びついていました。(参照:国立国会図書館|書の世界、国立公文書館|年表、国立国会図書館|遣唐使の停廃と国風文化の研究)

10〜11世紀|摂関政治と宮廷文学の発展

平安時代中期には、藤原氏が天皇の親族となることで朝廷の政治に大きな影響力を持ちました。幼い天皇を補佐する摂政や、成人した天皇を補佐する関白の地位を藤原氏が担う政治を、摂関政治と呼びます。藤原道長は娘たちを天皇家に嫁がせ、その関係を通じて強い権力を築きました。

宮廷では和歌や物語、日記文学が発展しました。清少納言の『枕草子』や紫式部の『源氏物語』は、貴族の暮らしや人間関係を伝える代表的な作品です。文字や書の表現も洗練され、仮名文字の普及によって日本語の文学表現が豊かになりました。こうした文化は宮廷社会を中心に生まれ、その後の日本文学や美術に大きな影響を与えました。(参照:国立歴史民俗博物館|第2展示室、国立公文書館|年表)

10〜12世紀|荘園の広がりと地方社会の変化

律令国家では、朝廷が戸籍や土地を把握して人々に税を課す制度が整えられていました。平安時代になると、その運営の仕組みが変わり、国司が地方の税収や行政で大きな役割を担うようになります。貴族や寺社などが支配する荘園も広がり、地方の土地と収益をめぐる関係は複雑になりました。

荘園は、土地や税をめぐるさまざまな権利の上に成り立っていました。田畑を耕す人々、現地を管理する有力者、都の領主の間には、それぞれ異なる立場がありました。地方で力をつけた武士たちも、こうした土地の管理や紛争に関わるようになります。政治の変化を理解するには、都の貴族だけでなく、農村や荘園の動きを見ることが大切です。(参照:国立歴史民俗博物館|荘園の総合的研究、国立歴史民俗博物館|中世荘園の記録)

1086年|白河上皇の院政と武士の成長

1086年、白河天皇は堀河天皇に譲位し、上皇として政治を主導するようになりました。天皇を退いた上皇が政治の実権を握る仕組みを院政と呼びます。上皇のもとには院庁という組織が置かれ、朝廷の政治や所領の管理に関わりました。院政は鳥羽上皇や後白河上皇の時代にも続きます。

同じ頃、地方では土地の支配や警備をめぐって武士の活動が広がり、源氏や平氏などの武士団が朝廷の争いにも関わるようになりました。東北地方では前九年の役や後三年の役などの戦いが起き、地域の有力者と武士の関係も変化します。上皇の政治と武士の成長は、やがて平安時代末期の争乱につながっていきました。(参照:国立公文書館|歴史と物語・年表、国立歴史民俗博物館|中世国家の財政)

1156〜1167年|保元・平治の乱と平氏政権

平安時代の末、皇位継承や朝廷内の権力をめぐる対立に、武士が深く関わるようになりました。1156年の保元の乱、1159年の平治の乱では、朝廷の有力者同士の争いに源氏や平氏が動員されました。これらの戦いを通じて平清盛ら平氏の勢力が強まり、清盛は1167年に太政大臣となりました。

平氏は朝廷で高い地位を占め、婚姻関係や所領の支配を通じて政治を動かすようになります。平氏への反発も広がり、1180年には源頼朝をはじめ各地の武士が挙兵しました。その後の源平の争いは、京都の政治に加えて地方の武士たちの動きが国全体を変える転換点となりました。(参照:国立公文書館|歴史と物語・年表)

1185〜1192年|鎌倉幕府の成立と武士の政治

1185年、壇ノ浦の戦いで平氏が滅び、源頼朝の勢力が全国に広がりました。頼朝は東国の武士をまとめ、鎌倉を拠点に政治を進めました。同じ年、朝廷から守護・地頭の設置を認められ、各地の軍事や土地の管理に関わる権限を広げます。1192年には頼朝が征夷大将軍に任じられました。

鎌倉幕府の成立は、ひとつの年だけで説明するより、1180年代から制度が整っていく過程として理解することが重要です。京都には朝廷が存続し、鎌倉には武士の政権が置かれました。武士たちは土地の権利や主従関係を通じて幕府と結びつき、朝廷と幕府が並び立つ中世の政治が形づくられていきました。(参照:国立公文書館|歴史と物語・年表、国立歴史民俗博物館|東国と西国)

1221年|承久の乱と幕府の支配拡大

鎌倉幕府の成立後も、京都の朝廷は政治的な力を持ち続けていました。1221年、後鳥羽上皇は執権北条義時の追討を命じ、幕府と朝廷側の軍勢が戦いました。これが承久の乱です。幕府軍は京都へ進軍して勝利し、後鳥羽上皇らは配流されました。

乱の後、幕府は京都に六波羅探題を置いて朝廷や西国の動きを監視し、新たに西国の各地にも地頭を配置しました。幕府の影響力は東国から西国へと広がりました。朝廷と幕府の関係も変化し、その後の鎌倉時代の政治に大きな影響を及ぼしました。(参照:国立公文書館|歴史と物語・年表、国立歴史民俗博物館|武家の文書)

1232年|御成敗式目と武士の法

鎌倉幕府は、御家人の土地や相続などをめぐる争いを裁く役割を持っていました。1232年、執権北条泰時らは武家社会の慣習や先例に基づく法をまとめ、御成敗式目を制定しました。これは貞永式目とも呼ばれ、51か条から成ります。

式目には土地の支配、相続、裁判などに関する規定が含まれ、幕府が紛争を判断する基準となりました。武士による政治が広がる中で、朝廷の律令とは異なる武家の法の運用が発展していきます。御成敗式目は、その後の室町幕府などでも重要な規範として受け継がれました。(参照:国立公文書館|御成敗式目、国立公文書館|年表)

12〜13世紀|新しい仏教の動きと中世の暮らし

平安時代末から鎌倉時代にかけて、仏教をめぐる新しい教えや活動が広がりました。法然は念仏を重視する教えを説き、親鸞も念仏の信仰を深めました。栄西や道元は中国で学んだ禅を広め、日蓮は法華経を中心とする教えを説きました。これらの動きは、従来から続く寺院や信仰とも関わりながら展開しました。

同じ時期、東国と西国を結ぶ交通や物資の流通が活発になり、各地に都市や港が発達しました。京都や鎌倉を中心とする政治だけでなく、寺社、商人、農民、職人など多様な人々が中世社会を支えていました。仏教や文化の変化も、人々の暮らしと結びつけて考えることが大切です。(参照:国立歴史民俗博物館|第2展示室、国立公文書館|年表)

1274年・1281年|元寇と鎌倉幕府の防衛

13世紀、モンゴル帝国を率いるフビライの政権は東アジアで勢力を広げ、元と高麗を通じて日本へ外交関係を求めました。鎌倉幕府はその要求に応じず、1274年の文永の役と1281年の弘安の役で、元と高麗などの軍が日本へ攻めてきました。対馬や壱岐、九州北部では戦闘が行われました。

幕府は九州の武士を動員し、再侵攻に備えて博多湾岸に石築地を設けるなど防衛を強化しました。日本側の抵抗や元軍の補給・航海上の問題、暴風雨などが重なり、二度の侵攻はいずれも退けられました。長く続く海岸警備は武士に負担をかけ、戦後の恩賞をめぐる問題も幕府の課題となりました。(参照:国立公文書館|13世紀の日本・モンゴル関係)

1333年|鎌倉幕府の滅亡と建武の新政

14世紀初頭、鎌倉幕府の支配に対する反発が強まりました。後醍醐天皇は幕府の打倒を目指し、各地で戦いが起きます。1333年には足利尊氏や新田義貞らが倒幕側に加わり、鎌倉幕府は滅亡しました。後醍醐天皇は京都で天皇を中心とした政治を進め、これを建武の新政と呼びます。

新政では土地をめぐる争いや武士への恩賞などが大きな問題となりました。各地の武士の期待と朝廷の政策には隔たりが生じ、足利尊氏と後醍醐天皇は対立するようになります。鎌倉幕府の滅亡から数年のうちに、政治の主導権をめぐる争いは新たな内乱へ発展していきました。(参照:国立公文書館|歴史と物語・年表、国立公文書館|太平記)

1336〜1392年|南北朝の分立と室町幕府の成立

1336年、足利尊氏の勢力が京都を押さえ、後醍醐天皇は吉野へ移りました。京都の北朝と吉野の南朝が並び立ち、それぞれが正統な朝廷を主張する南北朝時代が始まります。尊氏は北朝を支え、1338年には征夷大将軍となり、京都を拠点とする武家政権を整えていきました。

争いは朝廷同士の対立に加え、武士や地域勢力の利害にも関わっていました。南北朝の分立期に室町幕府は成立し、幕府内部でも足利一族の対立などが起こりました。1392年に南北朝は合一しますが、長い内乱は土地の支配や武士の政治のあり方に変化をもたらしました。(参照:国立公文書館|歴史と物語・年表、国立公文書館|太平記)

1392年|南北朝合一と足利義満の政治

長く続いた南北朝の分立は、1392年に合一しました。室町幕府の将軍足利義満は朝廷との関係を強め、京都に置いた幕府を通じて政治的な影響力を広げました。南北朝の合一により、朝廷が二つに分かれていた状態は解消されました。

室町幕府は各地の守護を通じて地方の支配に関わりました。守護の中には複数の国を支配し、強い力を持つ者も現れます。京都には将軍の邸宅である「花の御所」が営まれ、武家と公家、寺社の文化が交わる場となりました。幕府と守護の関係はその後も変化し、室町時代の政治を特徴づけました。(参照:国立公文書館|歴史と物語・年表、国立歴史民俗博物館|天下統一と城)

1401年以降|足利義満と日明貿易

1401年、足利義満は中国の明へ使節を派遣し、室町幕府と明との公式な交流が始まりました。日明貿易では、正式な船であることを確認するために勘合という札が使われたことから、勘合貿易とも呼ばれます。明の外交制度のもとでは、日本側が献上品を持参し、明から返礼を受ける形で交易が行われました。

明からは銅銭や生糸、陶磁器などがもたらされ、日本からは硫黄、刀剣、扇などが輸出されました。日明貿易は日本の経済や文化にも影響し、中国の書画や工芸品は武家や寺院などで珍重されました。東アジアの交易は幕府や商人、港町の活動を通じて続いていきました。(参照:京都国立博物館|日明貿易の勘合)

14〜15世紀|室町文化と能・庭園・水墨画

室町時代の京都では、将軍家や寺院などを中心に多彩な文化が発展しました。足利義満は京都の北山に金閣を含む北山殿を営み、のちの足利義政は東山に山荘を築きました。これらに結びつく文化は、北山文化・東山文化と呼ばれます。禅宗の寺院では、中国から伝わった書画や庭園の表現が大切にされました。

観阿弥・世阿弥らが発展させた能、連歌、茶の湯、水墨画などは、武士や公家、寺院、都市の人々の交流の中で広がっていきました。今日の日本文化として親しまれる芸能や美意識の多くにも、この時代の活動がつながっています。室町文化には中国から受け入れた文化と国内で育まれた伝統が重なっています。(参照:国立歴史民俗博物館|第2展示室、国立歴史民俗博物館|天下統一と城)

1467〜1477年|応仁の乱と室町幕府の変化

1467年、将軍家の後継問題や有力守護同士の対立などが重なり、京都で応仁の乱が始まりました。細川勝元の東軍と山名宗全の西軍を中心に争いが広がり、京都では長期間にわたり戦闘が続きました。1477年に大きな戦いは収束しましたが、各地の政治的な対立は続きました。

乱を通じて京都の町は大きな被害を受け、将軍の権威や守護と地域の武士との関係も変化しました。地方では有力者が自ら領国の支配を強めていきます。戦国時代への移行は各地で異なる過程をたどり、応仁の乱はその変化を考える重要な転換点の一つとなっています。(参照:国立公文書館|歴史と物語・年表、国立歴史民俗博物館|山名宗全の禁制)

15世紀後半|惣村と一揆、地域の自治

室町時代後期には、農村で人々の結びつきが強まり、村の決まり事を話し合いで定める惣村が各地に現れました。農民や地侍などが協力して領主へ要求を伝えたり、年貢や借金をめぐって土一揆を起こしたりすることもありました。地域の社会を動かしたのは、将軍や大名だけではありませんでした。

1485年には山城国南部で地侍や農民が結びつき、対立する勢力の軍を地域から退かせ、自治的な運営を行いました。これは山城国一揆と呼ばれます。地域の人々が協力して秩序を守ろうとした動きと、大名が領国の支配を強めようとする動きが、同じ時代に広がっていました。(参照:国立歴史民俗博物館|第2展示室、国立国会図書館・レファレンス協同データベース|山城国一揆)

16世紀半ば|鉄砲とキリスト教の伝来

16世紀になると、東アジアの海上交易を通じてヨーロッパの人々や品物が日本列島に届くようになりました。鉄砲は1543年に種子島へ伝来したとされますが、その年を含めて研究上の検討が続いています。新しい武器は各地で製作され、戦国大名の軍事活動にも取り入れられていきました。

1549年にはイエズス会の宣教師フランシスコ・ザビエルが鹿児島に到着し、キリスト教の布教を始めました。宣教師や商人の活動を通じて西洋の宗教や技術、美術工芸も伝わりました。こうした交流は東南アジアや中国の商人たちの航路とも深く結びついており、戦国時代の日本が広い海上交易の世界に参加していたことを示しています。(参照:九州国立博物館|新・桃山展、九州国立博物館|キリスト教の伝来と禁制)

1573年|織田信長と室町幕府の終わり

1568年、織田信長は足利義昭を奉じて京都に入り、義昭を室町幕府の将軍に就けました。その後、信長と義昭の対立が深まり、1573年に信長は義昭を京都から追放します。この出来事によって、室町幕府は実質的に終わりを迎えました。信長は近畿を中心に各地の大名や寺社勢力との戦いを続け、支配地域を拡大していきました。

信長の時代には、戦国大名が自分の領国を治める政治から、さらに広い地域を統合する政治への動きが強まりました。戦争と並行して城や城下町の整備が進み、商人や職人が活動する場も変化します。全国統一の過程は、軍事力の拡大と、土地や都市を治める仕組みの変化が結びついた歴史でした。(参照:国立公文書館|歴史と物語・年表)

1576年頃|安土城と城下町 — 信長の支配を示す

織田信長は1576年頃から琵琶湖東岸の安土山に城を築き、周辺に城下町を整えました。高い石垣や瓦を用いた壮大な城は、軍事拠点であるとともに、新しい支配者の権威を人々に示す場所でもありました。城下町には武士、商人、職人などが集まり、政治と経済の中心を城の周囲にまとめる仕組みが発達します。

信長は安土など特定の市場や町に楽市の特権を与え、商業を活発にしようとしました。こうした政策は全国一律に実施されたものではなく、地域ごとの状況に応じて進められました。安土城の形式や城下町の整備は、豊臣秀吉や徳川家康の時代にも大きな影響を与え、各地の城郭と都市の姿を変えていきました。(参照:国立歴史民俗博物館|天下統一と城、国立歴史民俗博物館|楽市令の解説)

1582年|本能寺の変と豊臣秀吉の台頭

1582年、織田信長は京都の本能寺で家臣の明智光秀に襲われ、命を落としました。本能寺の変と呼ばれる事件です。中国地方で毛利氏と戦っていた羽柴秀吉は軍を引き返し、山崎の戦いで明智光秀を破ります。信長の死後、織田家の後継者や領地の扱いをめぐって、家臣同士の対立が表面化しました。

秀吉は有力武将との争いを経て勢力を強め、朝廷の官職を得ながら広い地域を支配する政権を築いていきます。1585年には関白となり、朝廷の権威も活用して諸大名に服属を求めました。全国統一は一度の戦いで達成されたものではなく、軍事行動と政治交渉を重ねて進められました。(参照:国立公文書館|歴史と物語・年表)

1580年代|太閤検地と刀狩 — 土地と身分の管理

豊臣秀吉は各地で土地の調査を進め、田畑の面積や収穫量を把握する検地を行いました。こうした調査は太閤検地と呼ばれ、土地の生産力を石高で表し、領主が年貢を徴収する基礎となりました。検地は秀吉以前から行われていましたが、統一政権のもとで広い地域に及び、土地を支配する仕組みを大きく変えました。

1588年には刀狩令が出され、農民が武器を持つことを制限する政策が進められました。農業に従事する人々と武士の役割を分ける動きは、その後の社会の身分秩序につながります。検地や刀狩が各地で実施された方法や徹底の度合いには差があり、時間をかけて社会の仕組みが変わっていきました。(参照:九州国立博物館|島津家文書と秀吉の命令)

1590年|小田原攻めと全国統一

豊臣秀吉は1587年に九州へ大軍を進めて島津氏を服属させ、1590年には関東の小田原を本拠とする北条氏を攻めました。小田原城が開城すると、北条氏の支配は終わり、秀吉は東北地方の大名にも服属を求めます。こうして、全国の主要な大名を豊臣政権のもとに組み入れる事業が大きく進みました。

大名たちは領地の保有を秀吉から認められる一方、軍役や政治的な命令に従う立場となりました。秀吉は大坂城を政治の拠点の一つとし、朝廷との関係も利用して支配の正当性を示しました。戦国大名がそれぞれ勢力を争う状態から、全国的な統一政権のもとで大名が領地を治める仕組みへの転換が進んだのです。(参照:福島市|奥羽仕置、文化遺産オンライン|豊臣秀吉の掟書)

1592〜1598年|豊臣秀吉の朝鮮侵略 — 文禄・慶長の役

全国統一を進めた豊臣秀吉は、明(中国)への進出を目指し、1592年に朝鮮へ大軍を送りました。これが文禄の役の始まりです。日本軍は朝鮮半島を進みましたが、朝鮮側の抵抗や明軍の参戦を受け、戦争は長期化しました。1597年には再び大規模な侵攻が行われ、慶長の役と呼ばれます。

この戦争では朝鮮半島の人々が多数犠牲となり、地域社会や文化財も大きな被害を受けました。1598年に秀吉が死去すると日本軍は撤退し、侵略は終結しました。東アジアの国際関係は大きく傷つき、徳川政権の成立後には、朝鮮との外交関係を修復するための交渉が進められることになります。(参照:九州国立博物館|豊臣秀吉と朝鮮侵略、九州国立博物館|新・桃山展)

1600年|関ヶ原の戦いと徳川家康の勢力拡大

1598年に豊臣秀吉が死去すると、幼い後継者の秀頼を支える有力大名たちの間で対立が深まりました。1600年、徳川家康を中心とする東軍と、石田三成らを中心とする西軍が関ヶ原で戦います。東軍の勝利によって家康は政治的な主導権を握り、戦後の領地の再配分を通じて諸大名への影響力を強めました。

関ヶ原の戦いは徳川政権成立への大きな転換点でしたが、豊臣家はその後も大坂城に存在し続けました。家康が征夷大将軍となるのは1603年で、豊臣家が滅亡するのは1615年の大坂の陣です。これらを一連の出来事として見ることで、豊臣政権から江戸幕府への移行が段階的に進んだことが分かります。(参照:国立公文書館|歴史と物語・年表)

1603年|江戸幕府の成立と徳川政権

1603年、徳川家康は朝廷から征夷大将軍に任じられ、江戸に幕府を開きました。幕府は直轄地を持ち、将軍に直接仕える家臣を配置して全国の政治に大きな影響力を及ぼしました。各地の大名は自らの領地を治め続け、その一方で徳川将軍の命令に従う立場となります。

将軍を中心とする幕府と、各地の大名が治める藩が並んで存在する仕組みは、幕藩体制と呼ばれます。大名が独自の行政を行う余地を残しながら、幕府が軍事・外交など重要な分野を統制しました。江戸を中心とする政治秩序は、17世紀を通じて制度が整えられていきます。(参照:国立歴史民俗博物館|第3展示室、国立公文書館|歴史と物語・年表)

1614〜1615年|大坂の陣と武家諸法度

豊臣秀頼は秀吉の死後も大坂城にいましたが、徳川家との対立が深まり、1614年の大坂冬の陣、1615年の大坂夏の陣で豊臣家は滅亡しました。これによって徳川家に対抗する大きな政治勢力が失われ、江戸幕府の支配は強まりました。同じ1615年には、大名の行動を規制する武家諸法度が定められます。

武家諸法度は、その後の将軍の代にも改定され、大名の婚姻や城の修理などを幕府が統制する根拠となりました。朝廷や公家に関する規則も定められ、武家政権のもとで政治の秩序を整える動きが進みます。幕藩体制は、戦いを通じて勢力を確立した後、法令と行政組織によって維持される仕組みへと発展しました。(参照:国立公文書館|歴史と物語・年表)

1635年|参勤交代の制度化と大名統制

江戸幕府は大名が定期的に江戸へ出向き、一定期間滞在する参勤交代の仕組みを整えました。1635年に改定された武家諸法度では、参勤交代が制度として明確に定められました。大名や家臣は江戸と領国を往来し、大名の妻子は原則として江戸で暮らしました。将軍と大名の関係を維持するうえで重要な制度でした。

参勤交代には多くの人手と費用が必要で、大名の財政に大きな負担を与えました。移動する武士や物資を支える街道、宿場、都市の商業も発達し、地域を結ぶ交通網が整えられていきます。参勤交代は政治的な統制と経済・文化の交流を結びつけ、日本列島各地の社会に広い影響を及ぼしました。(参照:国立国会図書館|参勤交代(研究書の書誌・要約))

1637〜1638年|島原・天草一揆と幕府の宗教政策

1637年、島原半島と天草地方で、重い年貢や領主の支配、キリスト教への弾圧などを背景とする大規模な一揆が起こりました。農民らを中心とする人々が原城に立てこもり、幕府は諸藩の軍勢を動員して鎮圧にあたります。翌1638年に原城は陥落し、多くの人々が命を落としました。

幕府は以前からキリスト教を禁じていましたが、一揆後、信仰を調べる取り締まりをさらに強めました。キリスト教徒やその子孫の中には、厳しい監視のもとで信仰をひそかに継承した人々もいました。島原・天草一揆を理解するには、当時の領主による支配の問題と宗教政策の両方を見る必要があります。(参照:国立公文書館|天下大変・年表)

1630〜1640年代|対外交流の再編と「四つの口」

江戸幕府は17世紀前半、海外渡航や貿易を段階的に制限し、キリスト教の布教を厳しく取り締まりました。1639年にはポルトガル船の来航を禁じ、1641年にはオランダ商館を長崎の出島へ移しました。幕府は外国との関係を自ら管理し、貿易や外交の相手と窓口を定めていきました。

海外との交流はその後も続きました。長崎では中国やオランダとの貿易が行われ、対馬藩は朝鮮、薩摩藩は琉球王国、松前藩はアイヌの人々との関係に深く関わりました。これらは「四つの口」と呼ばれ、人や物、海外の情報が日本列島へ届く重要な経路でした。江戸時代の対外政策は、こうした具体的な交流を通じて理解できます。(参照:国立歴史民俗博物館|国際社会のなかの近世日本、九州国立博物館|新・桃山展)

17世紀|農村・城下町・商品流通の発展

江戸時代には、農村で米作りに加えて綿や菜種などの商品作物を栽培する地域が広がりました。各地の大名は城下町を整備し、武士や商人、職人が集まって暮らすようになります。農村の年貢米や特産品は、陸路や川、海上交通を利用して都市へ運ばれ、各地の生産と消費が結びつきました。

17世紀を通じて、江戸と大坂を結ぶ海運や街道、宿場の仕組みが整えられました。大坂は西日本の米や商品が集まる商業の中心となり、江戸は武士と町人が暮らす大都市として成長します。農村での生産の拡大と都市の発展は互いに支え合い、その後の経済と社会を大きく変えていきました。(参照:国立歴史民俗博物館|第3展示室・ひとともののながれ)

17世紀末〜18世紀初頭|元禄文化と都市の人々

17世紀の終わり頃、上方と呼ばれた京都・大坂を中心に、商人や町人の暮らしと結びついた文化が発展しました。この時期の文化は元禄文化と呼ばれます。井原西鶴は町人の生活を題材にした小説を書き、近松門左衛門は人形浄瑠璃の脚本で知られます。松尾芭蕉は俳諧を芸術的に発展させました。

町や市場に多くの人々が集まるようになると、本の出版や芝居などが広がり、文化を楽しむ人々の層も厚くなっていきます。絵画や工芸の分野でも、町人や裕福な人々の注文と好みが作品に影響を与えました。政治を担う武士の社会と並んで、都市に暮らす人々の活動が豊かな文化を生み出した時代でした。(参照:国立歴史民俗博物館|第3展示室・都市の時代、国立公文書館|天下大変・年表)

1716年以降|徳川吉宗と享保の改革

1716年、徳川吉宗が8代将軍となり、幕府の財政と政治を立て直す改革を進めました。これを享保の改革と呼びます。幕府は年貢収入の確保や新田開発を重視し、行政の仕事を見直しました。吉宗は目安箱を設けて人々の意見を集め、法令や過去の記録を調べながら政策を進めました。

江戸時代の幕府は、米を基礎とする収入を持ちながら、都市の商業や貨幣の流通が広がる社会を治めていました。幕府や各藩では支出が増え、財政をどう立て直すかが大きな問題になります。吉宗の改革は、将軍が政治を主導して幕府の運営を整えようとした代表的な取り組みでした。(参照:国立公文書館|将軍のアーカイブズ・紅葉山文庫、国立公文書館|歴史と物語・年表)

1787年以降|寛政の改革と幕府の政治

1780年代には天明の飢饉などによって人々の生活が苦しくなり、各地で社会不安が広がりました。1787年から老中松平定信が中心となって進めた政策は寛政の改革と呼ばれます。幕府は倹約を奨励し、飢饉に備えて米を蓄える政策を進めました。武士の教育や行政の規律を整えることにも力を入れました。

農村では年貢の負担や不作への不安が続き、都市では米価や仕事をめぐる問題が生じていました。改革は社会の秩序を安定させることを目指しましたが、暮らしや経済の変化を一度に解決するのは難しいことでした。江戸時代後期の政治は、こうした財政と社会の問題への対応を繰り返していきます。(参照:国立公文書館|歴史と物語・年表、国立公文書館|天下大変・年表)

19世紀前半|化政文化・学問・旅の広がり

江戸時代後期、出版物の流通や街道の整備によって、都市の文化が各地へ広がりました。江戸を中心に発展した化政文化では、十返舎一九の滑稽本や歌川国芳らの浮世絵などが親しまれ、町人の暮らしや旅の楽しみが作品の題材になりました。寺子屋で読み書きを学ぶ人々も増え、知識を得る機会が各地で広がっていきます。

学問の分野では、中国から伝わった知識に加え、オランダ語の書物を通じて西洋医学や天文学などを学ぶ蘭学が発展しました。伊能忠敬は全国の沿岸を測量して精密な地図づくりを進めました。交通、出版、学問の発達は、人々が地域を越えて社会や世界を知る手がかりとなり、幕末の変化にもつながります。(参照:国立歴史民俗博物館|第3展示室・村からみえる近代、国立公文書館|天下大変・年表)

1833年以降|天保の飢饉と人々の生活

1833年頃から、天候不順や農作物の不作が各地で続き、深刻な飢饉が起こりました。これを天保の飢饉と呼びます。米の価格が高騰すると、食料を手に入れられない人々が増え、農村から都市へ救いを求めて移動する人もいました。地域によって被害や対応には違いがありましたが、広い範囲で暮らしが圧迫されました。

飢饉の時期には、救済の不足や政治への不満が高まり、各地で打ちこわしや一揆が起こりました。1837年には大坂で、元役人の大塩平八郎が救民を掲げて反乱を起こしています。飢饉は自然災害にとどまらず、米の流通や幕府・藩の政策と深く関わり、政治のあり方を問い直すきっかけにもなりました。(参照:国立公文書館|天下大変・年表)

1841年以降|天保の改革と幕府の限界

1841年、老中水野忠邦は幕府の財政と社会秩序を立て直そうと、天保の改革を進めました。物価を下げることを目指して株仲間の解散を命じ、都市の風俗や商業活動にも厳しい規制を加えました。これらの政策は、人々の生活や経済活動に大きく関わるものでした。

1843年には江戸や大坂の周辺を幕府の直轄地にしようとする上知令を出しましたが、関係する大名らの反発を受けて実施できませんでした。同年、水野は失脚し、改革は行き詰まります。幕府が社会を従来の仕組みで管理しようとしても、経済や人々の暮らしは大きく変化しており、政策を進めることは容易ではありませんでした。(参照:国立公文書館|歴史と物語・年表)

1853〜1854年|ペリー来航と日米和親条約

1853年、アメリカの使節ペリーが軍艦を率いて浦賀へ来航し、国交と港の利用を求める大統領の国書を幕府へ渡しました。アメリカは太平洋を横断する船の補給地や、日本近海で活動する船の安全を確保する港を求めていました。幕府は対応を検討し、翌1854年のペリー再来航を受けて日米和親条約を結びます。

日米和親条約では、下田と箱館を開き、アメリカ船の乗組員の保護などを定めました。一般的な商取引を認める本格的な通商条約は、この時点では結ばれていません。外国船の来航と交渉によって、幕府の対外政策が大きく変わり、国内では政治の進め方をめぐって意見が分かれるようになります。(参照:国立公文書館|激動幕末・黒船と開国、国立公文書館|五ヶ国条約并税則)

1858年|日米修好通商条約と国内の対立

1858年、幕府はアメリカと日米修好通商条約を結び、その後、オランダ、ロシア、イギリス、フランスとも同様の条約を締結しました。条約には港を開いて貿易を認めることや、日本で外国人を裁く際の領事裁判権などが定められました。日本側が関税を自由に決めることも制限され、対等とはいえない条約条件が後に大きな問題となります。

幕府は天皇の勅許を得ることができないまま通商条約を結び、朝廷や諸大名の間で反発が高まりました。大老井伊直弼は反対派を弾圧し、これは安政の大獄と呼ばれます。開国をめぐる議論は、外国との関係だけでなく、幕府と朝廷がどのように政治を決めるのかという国内の問題にもつながりました。(参照:国立公文書館|激動幕末・五ヶ国条約并税則、国立公文書館|激動幕末・年表)

1866〜1867年|大政奉還と幕府政治の終わり

開国後、幕府の外交や政治に対する批判が強まり、薩摩藩や長州藩などの勢力が幕府に対抗するようになりました。1866年には薩摩藩と長州藩が協力関係を結び、同年の第二次長州戦争では幕府軍の作戦が行き詰まりました。15代将軍徳川慶喜は政権の立て直しを図りますが、国内の政治的な対立は続きました。

1867年10月、慶喜は朝廷に政権を返す大政奉還を申し出ました。同年12月には王政復古の大号令が発せられ、幕府を廃止する新たな政治体制が示されます。その後、徳川勢力と新政府側の対立は武力衝突に発展し、1868年から1869年にかけて戊辰戦争が続きました。江戸幕府の終わりから新政府の成立へは、複数の段階を経た大きな政治変動がありました。(参照:国立公文書館|激動幕末・年表、国立公文書館|王政復古の大号令)

1868年|明治新政府の成立と五箇条の御誓文

江戸幕府の政治が終わった後、天皇を中心に据える新政府が成立しました。1868年には旧幕府勢力と新政府側の間で戊辰戦争が始まり、翌1869年まで戦いが続きます。新政府は政治の方針を国内外に示し、各地の大名や社会の仕組みを新たな国家のもとにまとめようとしました。

同年3月に発せられた五箇条の御誓文は、会議を開いて公論を重んじることや、広く知識を世界に求めることなどを掲げました。実際の政治は旧薩摩藩・長州藩などの出身者が主導し、制度の改革は段階的に進みました。幕藩体制から中央集権国家への転換は、明治初年の重要な課題でした。(参照:国立公文書館|五箇条の御誓文)

1871年|廃藩置県と中央集権国家

明治新政府は1869年、諸藩の土地と領民を朝廷に返す版籍奉還を進めました。1871年には廃藩置県を実施し、全国の藩を廃止して府県を置きました。旧藩主である藩知事は職を解かれ、新政府が任命する地方官が行政を担当する仕組みになりました。

廃藩置県は、幕府と藩が並び立っていた政治構造を改め、政府が全国を直接統治する方向へ進む大きな転換点でした。府県の数や境界はその後も整理されます。1871年には岩倉使節団が欧米へ出発し、外交と制度の調査が進められました。国内の統治改革と海外からの知識の導入は並行して行われたのです。(参照:国立公文書館|廃藩置県)

1872年|学制と学校教育、暮らしの近代化

1872年、政府は全国に近代的な学校制度を整えるため、学制を公布しました。身分や性別にかかわらず人々が教育を受けることを目指し、小学校・中学校・大学の設置を構想しました。地域には学校の建設や運営に伴う負担もあり、制度が整うまでには長い時間を要しました。

同じ年、新橋・横浜間では日本初の本格的な鉄道が開業し、富岡製糸場も操業を開始しました。翌1873年には新しい太陽暦が使われ始め、時間の数え方も変化します。学校、交通、工業、暦などの改革が重なり、人々の日常生活にも近代国家の制度が次第に入り込んでいきました。(参照:国立公文書館|学制の公布、国立公文書館|明治時代教育関係年表)

1873年|徴兵令と地租改正 — 国家の軍事と財政

1873年、政府は徴兵令を出し、一定年齢の男性を対象に兵役の制度を整えました。武士に限られていた軍事の担い手を、国民から兵士を集める仕組みへ変えていく政策です。免除の条件も設けられ、実際の負担は人々の間で同じではありませんでした。

同じ年には地租改正条例が制定され、土地の価値を基準として原則3%の税を金銭で納める制度が導入されました。従来の米などによる納税から変えることで、政府は安定した収入を得ようとしました。徴兵と税制の改革は国家の軍事力と財政を支えましたが、農民などの不満や反対運動も引き起こしました。(参照:国立公文書館|徴兵令、国立公文書館|地租改正条例)

1869〜1879年|北海道と琉球・沖縄の近代

明治政府は1869年に蝦夷地を「北海道」と改称して開拓使を置き、移住や開拓を推進しました。この政策によって、先住のアイヌ民族は生活の場や従来の生業を大きく制限されました。日本の近代化は、地域の人々が経験した変化にも目を向けて考える必要があります。

琉球王国では、1872年に政府が琉球藩を設置し、1879年には琉球藩を廃止して沖縄県を設置しました。琉球の君主だった尚泰は東京への移住を命じられ、王国の政治制度は終わりました。これらの政策は、新しい国家の領域と統治を整える動きの中で進められ、アイヌ民族や沖縄の人々の暮らしにも大きな影響を及ぼしました。(参照:国立歴史民俗博物館|第5展示室、国立公文書館|琉球処分)

1870〜1880年代|自由民権運動と国会開設

明治新政府では一部の指導者が政治の中心を担っていました。これに対して、板垣退助らは1874年に民撰議院設立建白書を提出し、国民の代表が参加する議会を求めました。各地では演説会や政治結社の活動が広がり、政府に憲法の制定や国会の開設を求める自由民権運動が進みました。

1881年、政府は1890年に国会を開くことを約束する勅諭を発しました。運動の側でも自由党や立憲改進党などが結成されました。政治参加の道が広がる一方、政府は集会や言論を規制し、運動との対立が続きました。日本で憲法と議会政治が整備される過程には、政府の制度づくりと社会からの要求の双方がありました。(参照:国立公文書館|国会開設の勅諭、国立国会図書館|明治国家の展開)

1889〜1890年|大日本帝国憲法と帝国議会

1889年2月、大日本帝国憲法が発布され、1890年に施行されました。憲法は天皇が統治権を持つことを定め、帝国議会や裁判所などの国家機関の仕組みも規定しました。国民には法律の範囲内で、言論や信教など一定の権利が認められました。

1890年には最初の衆議院議員総選挙が行われ、帝国議会が開設されました。投票できたのは一定額以上の直接国税を納める25歳以上の男性などに限られており、女性には選挙権がありませんでした。憲法と議会の成立は近代政治の制度を整える節目となり、議会と政府の間では予算や政策をめぐる議論と対立が続きました。(参照:国立公文書館|大日本帝国憲法、国立国会図書館|史料にみる日本の近代・第2章)

1894〜1895年|日清戦争と東アジアの国際関係

朝鮮をめぐる日本と清の対立が強まるなか、1894年に日清戦争が始まりました。両国の軍隊は朝鮮半島などで戦い、翌1895年に日本の勝利によって下関条約が結ばれました。清は朝鮮の独立を認め、日本へ台湾や澎湖諸島などを割譲し、賠償金を支払うことになりました。

戦後、ロシア・ドイツ・フランスによる三国干渉を受け、日本は遼東半島を清へ返還しました。日本は賠償金の一部を軍備や産業の拡充に使い、台湾では植民地統治を始めました。日清戦争は日本の国際的な地位を変えたとともに、東アジアでの支配関係を変化させ、次の対外対立につながる出来事となりました。(参照:国立公文書館|日清戦争が始まる)

1904〜1905年|日露戦争と日本の対外進出

朝鮮半島と中国東北部をめぐって日本とロシアの対立が深まり、1904年に日露戦争が始まりました。陸上では旅順や奉天をめぐる戦いが続き、海上では日本海海戦などが起こりました。両国とも多くの兵士と資金を失い、1905年にアメリカの仲介によってポーツマス条約を結びました。

条約によって日本は、ロシアから南樺太や中国東北部の一部の権益などを得ました。賠償金が得られなかったことへの不満から、東京では日比谷焼打事件が起きました。戦争後、日本は朝鮮に対する支配を強め、東アジアでの帝国主義的な進出を拡大していきました。(参照:国立公文書館|日露戦争)

1910年|韓国併合と植民地支配

日露戦争の前後から、日本は韓国への政治的・軍事的な介入を強めました。1905年には韓国の外交権を奪う条約を結び、統監府を設けました。1910年8月には韓国併合条約を調印・発効させ、日本は朝鮮半島を植民地として統治する体制を整えます。

日本の統治下では朝鮮総督府が政治や警察を掌握し、人々の生活や教育、土地などに広く介入しました。これに対して朝鮮の人々は抵抗し、1919年には三・一独立運動が広がります。日本の近代史を理解するうえで、国内の制度改革とともに、台湾や朝鮮などで行われた植民地支配の歴史を見ることが重要です。(参照:国立公文書館|韓国併合条約、国立歴史民俗博物館|第5展示室)

1914〜1918年|第一次世界大戦と日本

1914年にヨーロッパで第一次世界大戦が始まると、日本は日英同盟を理由に参戦し、中国の青島などでドイツ軍と戦いました。1915年には中国政府に対して二十一か条の要求を行い、中国での権益拡大を図りました。戦争は世界各地の経済や外交関係にも大きな影響を与えました。

大戦中には欧米からの輸入品が減り、日本の工業製品や船舶などへの需要が増えました。好景気で富を得る人々が現れる一方、物価や米価の上昇は多くの家庭の暮らしを圧迫しました。戦争と経済の変化は政治への不満を高め、後の米騒動や政党政治の進展にも結びつきました。(参照:国立国会図書館|大正デモクラシー・概説)

1918年|米騒動と本格的な政党内閣

第一次世界大戦中の物価上昇に加え、1918年には米の買い占めなどが重なって米価が急騰しました。富山県の漁村などで米の移出を止めることや安売りを求める行動が起こり、新聞報道を通じて各地に広がりました。政府は警察や軍隊を動員し、騒動の鎮圧に当たりました。

米騒動は寺内正毅内閣への批判を強め、同年9月に内閣は総辞職します。続いて衆議院の政党を基盤とする原敬内閣が成立しました。原は「平民宰相」と呼ばれ、政党政治が進む象徴となりました。生活に身近な米価の問題が、大きな政治の変化へ結びついた出来事でした。(参照:国立公文書館|米騒動、国立国会図書館|大正デモクラシーと米騒動)

1923年|関東大震災と流言による殺傷事件

1923年9月1日、関東地方で大地震が発生しました。東京や横浜などでは建物の倒壊と大規模な火災が生じ、多くの人々が命を落としました。住まいや仕事を失った人々も多く、政府や自治体は救助と復興に取り組みました。震災は道路や都市計画の見直しにもつながりました。

震災直後の混乱の中では、「朝鮮人が放火した」などの根拠のない流言が広がりました。こうした流言を背景に自警団や軍隊、警察の一部による朝鮮人などへの殺傷事件が起きました。震災の歴史には地震・火災による被害とともに、差別や誤情報が引き起こした人権侵害も含まれます。(参照:国立公文書館|関東大震災、内閣府|関東大震災報告書・第2編)

1925年|男子普通選挙法と治安維持法

議会への参加を求める運動が広がるなか、1925年に衆議院議員選挙法が改正され、選挙権に必要だった納税条件が撤廃されました。これによって満25歳以上の男性に選挙権が与えられました。女性にはこの時点では選挙権が認められておらず、その獲得に向けた運動が続きました。

同じ年、政府は治安維持法を制定し、「国体」の変革や私有財産制度の否認を目指す結社を取り締まることにしました。法律は後に改正され、社会運動や思想への弾圧に広く用いられます。政治参加の拡大と取り締まりの強化が、同じ年に進んだことは大正期の政治を考える重要な手がかりです。(参照:国立公文書館|普通選挙法、国立公文書館|治安維持法)

1929年以降|世界恐慌と日本経済の混乱

1929年、アメリカの株価暴落をきっかけとして世界的な不況が深まりました。輸出に依存する日本の産業も影響を受け、特に生糸の価格が下落して養蚕農家の暮らしが苦しくなりました。農村では負債や失業が増え、都市でも不安定な雇用が問題となりました。

世界恐慌以前の1927年にも日本では金融恐慌が起き、銀行の休業や金融不安が広がっていました。不況と社会不安が続くなか、政党政治への批判や軍部の発言力が強まっていきます。経済危機が直ちに戦争を引き起こしたわけではありませんが、1930年代の政治的な変化を考える重要な背景になりました。(参照:国立歴史民俗博物館|第6展示室)

1931年|満州事変と軍部の影響力拡大

1931年9月、中国東北部の柳条湖で南満州鉄道の線路が爆破され、日本の関東軍がこれを中国側の行為として軍事行動を開始しました。爆破は関東軍の一部将校によって計画されたものとされています。日本政府が当初示した不拡大方針に反し、関東軍は占領地を広げていきました。

翌1932年には日本の影響下で「満州国」が建国されました。国際連盟の調査と日本への批判が強まるなか、日本は1933年に国際連盟からの脱退を通告します。軍の現地行動が外交と政治全体を動かすようになり、政党内閣を中心とした政治の仕組みも大きく揺らぎました。(参照:国立公文書館|満州事変)

1937年|日中戦争の拡大と戦時体制

1937年7月、北京郊外の盧溝橋で日本軍と中国軍が衝突し、戦闘は中国各地へ拡大しました。日中戦争は大規模な戦争となり、多くの兵士や民間人が犠牲になりました。日本軍は南京などの都市を占領し、その過程では捕虜や住民に対する重大な加害行為も起こりました。

日本国内では戦争が長引くにつれ、物資や労働力を軍事目的に振り向ける統制が強まりました。新聞や放送、学校教育も戦争への協力を求める政策の影響を受け、生活用品の不足も広がります。中国での戦争は1941年の対米英開戦後も続き、日本社会全体を巻き込む長期戦となりました。(参照:国立公文書館|盧溝橋事件、国立歴史民俗博物館|第6展示室)

1941年|太平洋戦争の開戦

日中戦争が続くなか、日本は東南アジアへの進出を強め、アメリカやイギリスとの対立を深めました。経済制裁や石油供給の制限が重なり、外交交渉もまとまりませんでした。1941年12月、日本軍はハワイの真珠湾やマレー半島などで攻撃を開始し、アメリカ・イギリスとの戦争に踏み切りました。

太平洋戦争の戦線は広い地域へ拡大しましたが、1942年以降、日本軍はミッドウェー海戦などで大きな損失を受け、次第に劣勢となりました。占領地では現地の人々への支配や動員が進み、日本国内でも徴兵、労働動員、配給などによって暮らしが強く制約されました。(参照:国立公文書館|対米英宣戦)

1945年|沖縄戦・空襲・原爆投下と敗戦

1945年、アメリカ軍などによる日本各地への空襲が激しくなり、3月には東京大空襲で多数の人々が犠牲になりました。沖縄では住民を巻き込む大規模な地上戦が続き、軍人と住民双方に甚大な被害が生じました。8月6日には広島、9日には長崎へ原子爆弾が投下され、ソ連も対日参戦しました。

日本政府は8月14日にポツダム宣言の受諾を決め、15日に天皇のラジオ放送で戦争の終結が国民へ伝えられました。9月2日には降伏文書への調印が行われます。長く続いた戦争が終わると、日本は連合国による占領を受け、政治や社会、教育の制度を大きく改める時期に入ります。(参照:国立公文書館|ポツダム宣言受諾、国立公文書館|日本のあゆみ・年表)

1945〜1947年|女性参政権と日本国憲法

敗戦後、連合国の占領下で政治と社会の改革が進められました。1945年には衆議院議員選挙法が改正され、女性の選挙権と被選挙権が初めて認められます。翌1946年の総選挙では女性議員が誕生し、政治への参加の仕組みが大きく変わりました。

1946年11月には日本国憲法が公布され、1947年5月に施行されました。憲法は国民主権、基本的人権の尊重、平和主義を基本原理とし、天皇を日本国と日本国民統合の象徴と定めました。教育制度や地方自治の制度も見直され、占領期の改革は戦後日本の政治と社会の基盤になりました。(参照:国立公文書館|日本国憲法の公布、国立公文書館|女性参政権)

1952年|講和条約の発効と独立の回復

1951年、日本は連合国の一部とサンフランシスコ平和条約に調印しました。この条約は1952年4月28日に発効し、占領が終わって日本は主権を回復しました。同じ日に、アメリカ軍の日本駐留を定めた日米安全保障条約も発効しています。

講和条約で日本は朝鮮の独立を承認し、台湾などに対する権利を放棄しました。沖縄はアメリカの施政権下に置かれ続け、日本への復帰は1972年になります。独立回復後も安全保障や東アジアの国際関係は大きな課題であり、占領の終結がすべての地域で同じ形の変化を意味したわけではありませんでした。(参照:国立公文書館|サンフランシスコ平和条約、国立公文書館|講和条約・安保条約の調印)

1950年代半ば〜1970年代初頭|高度経済成長と暮らし

1950年代半ばから1970年代初めまで、日本経済は急速に成長しました。重化学工業や輸出産業が発展し、農山漁村から都市へ働きに出る人が増えました。住宅団地が建ち、電気洗濯機・冷蔵庫・テレビなどの家電製品が各家庭へ普及していきました。

交通網の整備や学校への進学率の上昇も生活を変えました。大都市では工場や住宅が集まる一方で、人口集中や住宅不足が問題となります。工業化に伴う大気汚染、水質汚濁などの公害も深刻化しました。高度経済成長は経済的な豊かさを広げると同時に、新しい社会問題を生んだ時期でもありました。(参照:国立歴史民俗博物館|第6展示室・戦後の生活革命)

1956年|水俣病の公式確認と公害問題

1956年、熊本県水俣市で原因不明の神経の病気が公式に報告されました。その後の調査によって、化学工場から排出されたメチル水銀が魚介類に蓄積し、それを食べた人々に健康被害が生じていたことが明らかになりました。新潟県の阿賀野川流域でも1965年に水俣病が公式に確認されました。

高度経済成長期には、工場の生産活動が社会を豊かにする一方で、企業の排水や排煙が住民の健康や暮らしを損なう問題が各地で起きました。被害を受けた人々は原因究明と補償を求めて長く闘い、環境を守る法律や行政の仕組みも整えられていきました。公害は経済成長のあり方を問い直す大きな問題となりました。(参照:環境省・国立水俣病総合研究センター|水俣病の原因、環境省|水俣病対策)

1960年|日米安全保障条約の改定と安保闘争

1950年代、日本では日米安全保障条約をどのような内容にするかが大きな政治問題になりました。1960年に岸信介内閣は条約の改定を進め、新しい条約にはアメリカの日本防衛義務などが定められました。条約は同年6月に発効しました。

条約の内容や国会での審議の進め方に反発し、学生、市民、労働組合などによる大規模な抗議運動が広がりました。これらは安保闘争と呼ばれ、多くの人々が政治参加や民主主義のあり方を考える契機になりました。条約改定後も日米関係と米軍基地の問題は日本の政治の重要な論点であり続けました。(参照:国立公文書館|新日米安全保障条約)

1964年|東京オリンピックと交通・都市の変化

1964年10月、東京で夏季オリンピックが開かれました。戦後日本が国際社会に復帰し、経済成長を遂げている姿を世界に示す機会となりました。同年には東海道新幹線が開業し、都市高速道路など交通施設の整備も進められました。

テレビを通じて大会を見た人々も多く、スポーツ観戦や映像文化が日常生活に広がっていきました。都市の大規模な開発は便利な交通網をもたらす一方、土地や住宅、環境などをめぐる問題も生みました。オリンピックは当時の日本の変化を象徴する行事の一つとなりました。(参照:国立公文書館|東京オリンピック)

1972年|沖縄の日本復帰

第二次世界大戦後、沖縄はアメリカの施政権のもとに置かれ、日本本土とは異なる政治と社会の制度が続いていました。沖縄では日本への復帰を求める運動が広がり、日本政府とアメリカ政府の間でも返還交渉が進められました。

1972年5月15日、沖縄返還協定が発効し、沖縄は日本へ復帰しました。その後も県内には多くのアメリカ軍基地が残り、基地の負担や住民の生活をめぐる問題が続きました。沖縄の戦後史は、日本の主権回復が1952年と1972年という異なる段階を経たことを教えています。(参照:国立公文書館|沖縄返還)

1973年|石油危機と高度成長からの転換

1973年、中東での戦争を背景として産油国の政策が変化し、国際的な原油価格が大きく上昇しました。石油の輸入に依存する日本ではエネルギー価格と物価が上がり、家計や企業に広く影響が及びました。人々が生活用品を買い求める動きも広がり、石油危機は身近な問題となりました。

この時期を境に、戦後の高度経済成長は終わり、経済は安定成長へ移っていきました。政府や企業は省エネルギーや産業構造の見直しを進め、社会保障の財政をどう支えるかも課題となります。経済成長の速さだけでなく、資源や環境、生活の安定を考える時代へと変わっていきました。(参照:厚生労働省|昭和100年の社会保障・第4回)

1990年代初頭|バブル崩壊と長期的な経済停滞

1980年代後半、日本では土地や株式の価格が急激に上がりました。将来も価格が上がり続けるという期待から、企業や金融機関は大きな資金を動かしました。1990年代に入ると株価や地価が下落し、いわゆるバブル経済が崩壊しました。

企業は負債や設備の過剰に苦しみ、銀行では回収が難しい貸付金が問題となりました。雇用や賃金、消費への影響が広がり、経済の低成長が長く続きます。戦後の右肩上がりの成長を前提とした社会や企業の仕組みが問い直され、日本人の働き方や暮らし方にも変化をもたらしました。(参照:日本銀行|日本の資産バブルと金融危機)

1995年|阪神・淡路大震災と都市の防災

1995年1月17日、兵庫県南部を震源とする大きな地震が起き、神戸市などで住宅の倒壊や火災が相次ぎました。阪神・淡路大震災と呼ばれるこの災害では、多くの人が命を落とし、交通や水道、電気などの都市機能も大きな被害を受けました。

地域の住民や各地から集まったボランティアが救援活動に参加し、防災と社会の助け合いに対する関心が高まりました。建築物の耐震化、災害情報の伝達、避難生活の支援など、都市の防災対策を見直す大きなきっかけになりました。(参照:気象庁|地震と災害の名称、総務省消防庁|兵庫県南部地震の概要)

1990年代後半|金融機関の破綻と雇用の変化

バブル経済が崩壊した後、日本の銀行や企業には多額の不良債権が残りました。1997年から1998年にかけては、大手の金融機関の破綻が相次ぎ、金融システムへの不安が高まりました。企業は資金を借りにくくなり、景気は再び大きく落ち込みました。

企業は人件費や設備投資を見直し、雇用のあり方にも変化が生じました。就職環境が厳しくなり、若い世代の進路や将来への見通しにも影響しました。この時代の金融不安は、経済成長が鈍化しただけでなく、企業と家計の関係が変わる契機にもなりました。(参照:日本銀行|日本経済と金融システム)

1990年代後半〜2000年代|インターネットと情報社会

1990年代から2000年代にかけて、家庭や学校、職場でパソコンとインターネットの利用が広がりました。電子メールやウェブサイトを通じて遠くの人と連絡したり、ニュースや資料を調べたりできるようになり、仕事と学習の方法が変化しました。

その後、携帯電話からインターネットを使う人も増え、情報発信は企業や新聞社だけのものではなくなっていきます。個人が情報を公開し、交流できる仕組みは便利さを広げると同時に、情報の信頼性や個人情報の保護など、新しい課題も生みました。(参照:国立国会図書館|インターネット普及率の資料案内)

2011年|東日本大震災と原子力発電所事故

2011年3月11日、東北地方の太平洋沖で巨大な地震が発生し、東日本の広い範囲に強い揺れと大津波が押し寄せました。東日本大震災によって多くの人が命を落とし、沿岸の町や交通・生活施設は大きな被害を受けました。避難生活は長期化し、地域の復興も大きな課題となりました。

津波によって東京電力福島第一原子力発電所では冷却機能が失われ、重大な原子力事故が起きました。住民の避難や放射性物質による汚染など、地域社会に長く影響する問題が生じました。地震と津波への備えに加え、原子力発電の安全性や災害時の情報公開のあり方も改めて問われました。(参照:気象庁|東日本大震災の名称と地震、復興庁|福島と原子力発電所事故)

2019年|平成から令和への改元

2019年4月30日、天皇明仁が退位し、翌5月1日に皇太子徳仁が即位しました。これに伴って元号が「平成」から「令和」へ変わりました。天皇の退位による皇位継承は近代の日本では例がなく、法律に基づく特別な手続きを経て実現しました。

新しい時代が始まった2019年、日本では少子高齢化や地域の人口減少、働き方の変化など、長く続く課題への対応が求められていました。その後の令和期には感染症の流行なども起こり、社会生活の仕組みがさらに変わっていくことになります。(参照:宮内庁|令和元年5月の儀式)

2020年以降|新型コロナウイルス感染症と社会

2020年、日本でも新型コロナウイルス感染症の流行が広がりました。人と人との接触を減らすために学校の休校、イベントの中止、外出の自粛などが行われ、政府は緊急事態宣言を発出しました。医療機関には大きな負担がかかり、仕事や学習、家庭の生活も影響を受けました。

感染症対策が続くなか、在宅勤務やオンライン授業、遠隔での会議などが広がりました。情報通信技術を使った生活が普及する一方、仕事の状況や通信環境によって利用のしやすさには差がありました。感染症の流行は、医療や行政だけでなく社会のつながり方を考え直す契機となりました。(参照:厚生労働省|新型コロナウイルス感染症)

2023年|新型コロナの5類移行と社会生活

2023年5月8日、新型コロナウイルス感染症は感染症法上の「5類感染症」へ位置づけが変更されました。これまで行政による入院勧告や外出自粛などの対応を中心としていた仕組みから、個人の判断や各医療機関による対応を基本とする仕組みへ移りました。

感染症の流行が始まってから、学校、職場、医療現場では多くの工夫が行われてきました。社会活動が徐々に戻るなかでも、流行に備える医療体制や、感染症への正確な情報提供は引き続き重要です。この変化は、令和期の暮らしを考える一つの節目となりました。(参照:厚生労働省|5類感染症移行後の対応)