ウィレム・デ・クーニング(Willem de Kooning、1904–1997)は、戦後アメリカ美術、とりわけ抽象表現主義を代表する画家の一人です。しかし、彼を「抽象表現主義の画家」とだけ説明すると、制作の本質を見失います。デ・クーニングは、抽象へ進んだ後に人物へ戻り、人物を描きながら風景へ移り、絵画から彫刻へ踏み出し、晩年には線と余白を大きく残す明るい画面へ変化しました。彼にとって重要だったのは、一つの到達点を守ることではなく、いったん獲得した方法を自ら崩し、別の問題へ移ることでした。
この姿勢を象徴するのが、「同じであり続けるためには、変わらなければならない」という趣旨の彼のよく知られた言葉です。1940年代末の黒と白の抽象、1950年の《Excavation》、1950~52年の《Woman I》、1950年代後半の都市・道路・郊外を想起させる抽象風景、1960年代の海辺と女性像、1970年代の粘土とブロンズ、1980年代の軽やかな線の絵画は、見た目だけなら別人の仕事のようにも見えます。しかし、そこには一貫して、像を作っては壊すこと、前景と背景を反転させること、人物と空間を一つの筆触でつなぐこと、完成を固定しないことが続いています。
デ・クーニングは1904年にオランダのロッテルダムで生まれました。12歳で商業美術・装飾会社の徒弟となり、夜間にロッテルダム美術工芸アカデミーで学びます。1926年、船に密航してアメリカへ渡り、翌年ニューヨークへ移りました。最初から「偉大な画家になるため」にアメリカへ来たわけではなく、映画の中で見たようなアメリカ生活への憧れもあったとWillem de Kooning Foundationは記しています。看板制作、室内装飾、商業デザインなどで生計を立てながら、New Yorkの美術界へ入り、Arshile Gorky、Stuart Davis、John Grahamらと交流するようになります。
1930年代のデ・クーニングは、のちの抽象表現主義だけからは想像しにくいほど、人物を繰り返し描いていました。《Two Standing Men》(1938)では、男性の身体がPicassoやGorkyを思わせる歪んだ輪郭へ分解されています。人物と抽象は最初から別々の時期ではありません。人体を描く過程で形を単純化し、背景と身体を入れ替え、輪郭をずらすことが、後の抽象へつながっていきます。
1936年にはWPAの壁画計画に参加しました。完成した壁画を残したわけではありませんが、大画面へ構図を展開する経験は重要でした。Willem de Kooning Foundationは、この経験が彼に画家として専念する決意を促したとしています。商業デザインの技術と公共壁画の大きなスケールが、後の絵画の身体感覚へつながります。
1940年代には、Arshile Gorkyとの親しい交流を通してCubism、Surrealism、生物的な抽象形態を吸収しつつ、自身の方法を探りました。1943年には画家Elaine Friedと結婚します。Elaine de Kooning自身も重要な画家・批評家であり、二人の関係は私生活だけでなく、New Yorkの美術家共同体の中で互いの制作と批評へ影響するものでした。
1946年頃から、経済的事情もあって高価な画材を避け、黒と白の工業用エナメル塗料を用いる作品を多く制作します。1948年《絵画》では、黒と白の形が人間の身体、文字、室内の断片のように見えながら、どれにも確定しません。MoMAは、この作品が人物素描の断片をトレーシングペーパーで画面へ移した上で、油彩とエナメルを重ねて作られたと説明しています。つまり、純粋抽象へ突然到達したのではなく、人物像を解体することから抽象が生まれています。
1948年、44歳でCharles Egan Galleryに最初の個展を開き、黒と白の抽象によって高い評価を得ます。デ・クーニングはJackson Pollockより早くからNew Yorkの作家仲間の間で高く評価され、「画家のための画家」と呼ばれるようになりました。1949年には“The Club”の創設メンバーとなり、Franz Kline、Robert Motherwell、Ad Reinhardtらと議論を重ねます。彼にとって抽象表現主義は統一された様式ではなく、競争と対話の中で各作家が絵画の可能性を探る場でした。
1950年の《Excavation》は、その時点までで最大の絵画であり、彼の抽象表現主義期を代表する作品です。Art Institute of Chicagoによれば、出発点の一つは1949年のイタリア映画《Bitter Rice》に登場する水田で働く女性たちの像でした。白、黒、黄色、青、赤の断片が画面全体で交差し、人間の鼻、歯、目、魚、鳥のような形が現れては消えます。抽象画に見えながら、可視世界の断片が埋め込まれている点にデ・クーニングの特徴があります。
1950年に《Woman I》へ着手すると、完成まで約2年を要しました。描いては削り、消しては描き直し、人物像を何度も破壊しています。MoMAの資料では、一時は画面を放棄しようとしたほど制作が難航したことが伝えられています。1953年にSidney Janis Galleryで《Paintings on the Theme of the Woman》として発表されると、抽象表現主義の中心人物が女性像へ戻ったこと自体が大きな論争となりました。
この女性像は現在も評価が分かれます。巨大な目、歯をむき出しにした笑顔、誇張された胸、激しく裂かれたような筆触は、女性に対する暴力的・女性蔑視的な表現として批判されてきました。一方MoMAは、デ・クーニングが「偶像、ヴィーナス、裸体」という女性表象の長い歴史を意識しながら、それを崩していたことも指摘しています。ここでは一方の解釈へ固定するより、魅惑、恐怖、広告的な笑顔、古代的な女神像、肉体的な絵具が矛盾したまま共存していることを見る必要があります。
重要なのは、人物へ戻ったことを「抽象からの後退」と考えなかった点です。彼にとって人物と抽象は対立していませんでした。Womanシリーズの身体は、輪郭線によって背景から切り離されるのではなく、筆触が身体と背景を同時に作ります。胸や脚が一瞬見えても、次の瞬間には色面や線へ戻る。この不安定さは《Excavation》と同じ構造です。
1955~56年頃からは、人物像が画面の中心から薄れ、《Gotham News》《Easter Monday》など都市の速度や道路、看板、新聞紙を連想させる抽象へ移ります。The Met所蔵《Easter Monday》では、油彩の中へ新聞紙の転写が残り、斜めの形と線がぶつかります。Thomas Hessはこの時期を「抽象的都市風景」と呼びました。都市を風景として描写するのではなく、交通、看板、舗道、新聞、騒音を身体的な筆触へ変換した作品です。
1950年代末、デ・クーニングはNew York CityとLong Island東部を往復するようになります。《Montauk Highway》《Door to the River》などでは、道路、空、水、光の感覚がより開放的な色面へ変わります。Whitney所蔵《Door to the River》(1960)では、幅広い刷毛で黄色、桃色、茶色、白が大きく置かれ、中央に扉のような形が浮かびます。本人はこの時期の作品を、都市の外へ向かう時や都市へ戻る時に感じる「風景と高速道路の感情」と説明しました。
1959年には初めて長期滞在する形でイタリアへ行き、Romeで多数の黒と白の紙作品を制作しました。2024年Gallerie dell’Accademiaの《Willem de Kooning and Italy》は、この1959年と1969年の二度のイタリア滞在を初めて本格的に検証し、後の絵画・素描・彫刻への影響を約75点で示しました。デ・クーニング研究では、New York/East Hamptonだけでなく、Italyでの経験が制作の転換に与えた影響が近年改めて重視されています。
1963年にはEast HamptonのSpringsに自ら設計した大きなstudioを建て、Long Islandの光、水、湿地、海岸を強く作品へ取り込みます。《Rosy-Fingered Dawn at Louse Point》(1963)では、ピンク、黄色、青、白が広い画面を滑るように移動します。Stedelijk Museum所蔵のこの作品は、題名にHomer的な「薔薇色の指をした曙」を借りながら、Louse Pointという具体的な場所の光と結びついています。
1960年代半ばには女性像も再び強く現れます。《Woman Accabonac》(1966)では、縦長の紙の上に鮮やかな色と肉体が溶け合っています。1950年代のWomenよりも輪郭は開き、人物と水、草、空の区別がさらに弱まります。女性像へ「戻った」というより、風景を経由した身体へ変化したと見る方が正確です。
1969年のRome滞在では、小さな粘土作品を作るようになり、そこから1970年代の彫刻へ展開します。《Clamdigger》(1972)は、泥から貝を掘る人物を思わせる立像ですが、身体は粘土を握り、押し、引き伸ばした痕跡のままです。絵画の筆触が三次元化したようにも見えます。彫刻へ転向したのではなく、絵画で行ってきた身体と素材の融合を別媒体で確かめました。
1970年代の絵画は、海、水、湿地、身体がさらに液体的に混ざります。Guggenheim所蔵《…Whose Name Was Writ in Water》(1975)では、赤、黄、白、青の筆触から顔、腕、脚のような形が浮かびます。題名はJohn Keatsの墓碑銘に由来し、水に書かれた名前のように消えていくものを示唆します。像が見えた瞬間に絵具へ戻るデ・クーニングの方法と題名がよく重なります。
1977年頃には《North Atlantic Light》など、海辺の光と広い空間を思わせる絵画を制作します。画面は1950年代の密集した構図より開きますが、単純に穏やかになったわけではありません。色の帯が押し合い、身体や風景の記憶が流動的に残っています。
1980年代に入ると、絵画はさらに明るく簡潔になります。《Untitled V》(1982)では白い余白の上を赤、青、黄の帯が大きく湾曲し、初期の密度から大きく離れます。長い制作歴を「若い頃は激しく、晩年は単純」と直線的に説明することはできません。2025年Gagosian New Yorkの《Endless 絵画》は、1944年から1986年までの作品と彫刻を並べ、人物、腕、脚、曲線、風景のモチーフが時期を超えて何度も戻ってくることを示しました。
デ・クーニングは1991年に最後の絵画を制作し、1997年3月19日にEast Hamptonで亡くなりました。約70年に及ぶ制作は、一つの完成様式へ向かう進歩史ではありません。人物と抽象、都市と海辺、線と色、絵画と彫刻の間を行き来し、その都度以前の方法を崩し直す歴史でした。抽象表現主義を完成させた作家というより、抽象表現主義ですら一つの途中経過として扱った画家と見る方が、彼の制作全体に近づけます。
CONTENTS
- 生涯と制作の変遷
- ロッテルダム――商業美術から出発する
- 1926年、アメリカへ密航する
- Arshile Gorky――人物と抽象の間
- WPA――大画面を経験する
- 黒と白――抽象は人物から生まれた
- 「画家のための画家」になる
- 《Excavation》――抽象の中に身体を埋め込む
- 《Woman I》――具象へ戻ったのではない
- 女性像をめぐる論争
- ウィレム・デ・クーニングの作品をどう見るか
- 主要作品
- 都市風景――新聞、道路、速度
- Long Island――風景は色と身体になる
- Italy――1959年と1969年
- Springs――海辺の光と新しいstudio
- 1960年代の女性像――身体と風景が溶け合う
- 彫刻――筆触を三次元にする
- 1970年代――水、肉体、反射
- 1980年代――線と余白へ
- 完成させないこと――描いて消す
- 人物と抽象はなぜ分かれないのか
- Pollockとの違い
- GreenbergとRosenberg――二つの批評
- Elaine de Kooning――同じ美術家共同体を生きる
- 2024年《Willem de Kooning and Italy》
- 2025年《Endless 絵画》
- ウィレム・デ・クーニングは何を変えたのか
- 略年譜
- 参考資料・出典
生涯と制作の変遷
1904年、ロッテルダムに生まれる
ウィレム・デ・クーニングは1904年4月24日、オランダのRotterdamに労働者階級の家庭の子として生まれました。両親は幼少期に離婚し、主に母親のもとで育ちます。Willem de Kooning Foundationの年譜によれば、1916年に学校を離れ、装飾・商業美術会社Gidding & Zonenへ徒弟として入りました。
ここで身につけたのは「純粋美術」だけではありません。看板、室内装飾、文字、色面、実用的なデザインを扱う技術でした。後の抽象絵画に広告や文字の感覚が入り、house painter用の刷毛や工業用塗料をためらわず使った背景には、この初期経験があります。
1917–21年、夜間の美術学校
働きながらRotterdam Academy of Fine Arts and Techniquesの夜間課程でdrawingと応用美術を学びました。後に同校はWillem de Kooning Academieと改称されています。若い頃の素描には静物、人物、肖像が多く、観察にもとづく伝統的な訓練を受けていたことが分かります。
後年の激しい筆触は、基礎的なdrawingを知らない作家が偶然作ったものではありません。人体を何度も描き、形を知ったうえで、それを崩し、重ね、反転させています。この点は彼の抽象を理解するために重要です。
1926年、アメリカへ
1926年7月、友人Leo Cohanとともに英国貨物船へ密航し、Virginia州Newport Newsへ到着しました。その後Hoboken, New Jerseyでhouse painterとして働き、1927年にNew Yorkへ移ります。
当時のデ・クーニングは、ヨーロッパ前衛美術を追ってNew Yorkへ来たというより、映画で見たアメリカの生活に惹かれていました。しかしNew Yorkで商業美術家として働くうち、Stuart Davis、John Graham、Arshile Gorkyらと出会い、制作へ深く入っていきます。
1930年代、Gorkyとの交流
Arshile Gorkyとの交流は特に重要でした。GorkyはCubism、Picasso、MiróなどEuropean modernismの知識を持ち、それをNew Yorkで独自に組み替えていました。デ・クーニングはGorkyから大きく学びながら、単純な模倣ではなく、自分自身の人物像と抽象形態を発展させます。
1938年《Two Standing Men》では男性身体が幾何学的・生物的な形へ解体され、背景との区別も不安定です。これは後のWomanシリーズとは外見が違いますが、「人体を一つの固定輪郭として描かない」という問題はすでに存在します。
1936年、WPA
大恐慌期の1936年、Works Progress AdministrationのFederal Art Project、壁画 divisionで働きました。Willem de Kooning Foundationは、この経験によって絵画を本職にする決意が強まったとしています。
公共壁画の大きさは、後のキャンバスにも影響しました。デ・クーニングの大型絵画は、鑑賞者が遠くから構図を眺めるだけでなく、画面と身体的に向き合う大きさを持ちます。腕を大きく動かす筆触も、こうしたスケールと不可分です。
1940年代、人物と抽象を並行する
1940年代前半には男性像、女性像、静物、抽象を並行して制作します。この並行性は重要です。後世の美術史では「具象から抽象へ」という一直線の進歩として語られがちですが、デ・クーニング自身はその順序に従いませんでした。
1940~41年にはElaine Friedの肖像を描き、1943年に結婚します。1940年代半ばには人物の目、肩、歯、腕、家具などが抽象画の形へ入り込み、逆に抽象的な線が人物画へ流れ込みます。何が人物で何が背景かという境界を崩す作業が進みます。
1946–48年、黒と白の絵画
1946年頃から黒と白を中心にした一連の絵画を制作します。工業用エナメル塗料は安価で、乾燥や流動性が油絵具と異なりました。黒い形を白が囲い、白い形が黒へ侵入し、前景と背景が交互に反転します。
1948年《絵画》では、人物素描の断片をトレーシングペーパーで転写した上に絵具を重ねました。MoMAが紹介する「抽象的な形でさえ、何かに似ていなければならない」というデ・クーニングの考えは、純粋抽象への距離をよく表しています。形は何かを指し示しそうで、最後まで読み切れません。
1948年、最初の個展
Charles Egan Galleryでの初個展によって、デ・クーニングはNew York前衛の中心的存在になります。Willem de Kooning Foundationは、この展覧会を彼の評価形成に決定的だったと位置づけています。
Pollockが雑誌や写真によって広く知られる一方、デ・クーニングは同業の画家から特に尊敬を受けました。絶えず画面を変更し、完成を急がない姿勢、drawingとpaintingを分離しない方法、他者の技法を吸収しながら一つのstyleへ閉じない点が、後続作家へ強く影響します。
1949年、《Attic》とThe Club
1949年《Attic》では、油彩、エナメル、新聞紙の転写が複雑に重なります。The Metによれば、制作中に濡れた絵具へ新聞紙を当てたため、活字や写真の一部が画面へ転写されました。偶発的な痕跡を消さず、画面の一部として残しています。
同年、作家・批評家の討論組織The Clubの創設メンバーとなりました。抽象 Expressionismは単にstudioで孤独に生まれたのではなく、夜ごとの議論、展覧会、競争、批評のネットワークの中で形成されました。
1950年、《Excavation》
《Excavation》は205.7×254.6センチの大作で、Art Institute of Chicagoが1951年にLogan Medal and Purchase Prizeによって購入しました。白を基調とする画面に黒い線と色の断片が全域へ広がり、中心と背景を明確に分けません。
Art Instituteは、Italian Neorealist film《Bitter Rice》の水田で働く女性たちが出発点の一つだったと説明しています。抽象的な画面に鳥、魚、鼻、歯、目、顎のような形が埋め込まれ、見るたびに別の像が現れます。
1950–52年、《Woman I》
《Woman I》はデ・クーニングの制作における最も重要な転換の一つです。抽象画によって評価が確立しつつあった時期に、あえて巨大な女性像へ戻りました。MoMAによれば、完成まで長期間にわたり、何度も描き、削り、再構成しています。
女性像は広告の笑顔、古代の豊穣像、Venus、pinup、漫画的な歯など複数の視覚資料を思わせます。身体を美しく統一された裸体として描かず、複数の歴史的女性像を一つの不安定な存在へ重ねました。
1953年、《Paintings on the Theme of the Woman》
Sidney Janis GalleryでWoman I~VIを中心とする展覧会を行い、大きな論争となりました。抽象表現主義が「具象を克服した」運動として理解される中で、中心作家が人体へ戻ったからです。
Willem de Kooning Foundationは、この選択によってClement Greenbergの支持を失った一方、Harold Rosenbergはデ・クーニングの重要性を引き続き評価したと説明しています。ここには抽象表現主義内部の理論的な違いが表れています。
1955–56年、都市風景
Womanシリーズの後、人物は再び全画面へ散らばり、《Gotham News》《Easter Monday》などへ変化します。新聞紙の転写、広告の色、道路の速度、都市の断片が直接描写されず、筆触の方向として現れます。
《Easter Monday》についてThe Metは、斜めの形と線が衝突し、制作と破壊が同時進行しているように見えると説明しています。都市を眺める風景画ではなく、都市生活の速度を絵具の構造へ変えています。
1958–60年、道路と郊外
《Montauk Highway》《Suburb in Havana》《Door to the River》では、画面の密度が少し開き、広い刷毛跡が大きく横切るようになります。Long IslandとNew York Cityを車で往復する経験が作品に入りました。
Whitney所蔵《Door to the River》は、1950年代前半の激しい削り直しに比べ、少ない大きな筆触で空間を作っています。道路、川、扉は具体的に描かれませんが、その「感覚」が色の配置へ変換されています。
1959年、Rome
1959年9月から1960年1月にItalyへ滞在し、Romeで多数の黒と白の紙作品を制作しました。New Yorkの大画面から離れ、紙へ直接的な筆致を残す経験は、その後の絵画の簡潔さへつながります。
2024年Gallerie dell’Accademiaの大規模展は、Rome滞在を単なる旅行ではなく、その後の作品を理解する重要な転換として再評価しました。
1960–63年、Pastoral 風景
New Yorkの都市感覚から、Long Islandの空、水、道路へ比重が移ります。《Door to the River》《Rosy-Fingered Dawn at Louse Point》では、桃色、黄、青、白の広い面が画面を流れます。
しかし自然を写生しているわけではありません。海、光、草、道路を身体で経験した感覚が筆触の速さと色へ変換されます。人物を描かない絵でも、筆触は人体の動きに近いものを保っています。
1963年、Springsのstudio
East HamptonのSpringsに土地を購入し、自らstudioを設計・建築しました。高い天井と大きな採光を持つ空間で、Long Islandの光を直接取り込める制作環境でした。1971年には同地へ完全に移ります。
Willem de Kooning Foundationは、East Hamptonの光と風景が故郷Hollandを思い出させたと記しています。この環境の変化は、1960年代以降の色彩と空間に大きく反映されます。
1964–67年、女性像と水辺
《Woman Accabonac》《The Visit》《Two Figures in a 風景》などでは、女性像と風景を明確に分けることが難しくなります。肌、草、水、空が同じ柔らかく滑る筆触で描かれます。
1950年代のWomanシリーズでは人物が画面中央へ正面から迫りましたが、1960年代の女性像は周囲へ溶けていきます。身体そのものが風景の一部になり、風景が身体のように動きます。
1969年、再びItalyへ
1969年のItaly滞在では、Romeで友人の工房を利用し、小さな粘土作品を作りました。これが本格的な彫刻制作の出発点となります。粘土を握り、押し、ねじった跡を残すことで、筆触を三次元へ移したような形が生まれました。
2024年の《Willem de Kooning and Italy》は、1959年の紙作品だけでなく、1969年の滞在が1970年代の彫刻へ直接つながったことを大きく取り上げています。
1972年、《Clamdigger》
《Clamdigger》は高さ約151センチのbronze sculptureです。Long Islandの潮干狩りをする人物を思わせますが、解剖学的に整った人体ではありません。腕、脚、胴体が泥や粘土の塊から押し出されたように形成されています。
絵画ではpaintが身体へ変わり、彫刻ではclayが身体へ変わります。媒体は違っても、素材の物質性と人体像を同時に保つ方法は共通しています。
1975年、《…Whose Name Was Writ in Water》
Guggenheim所蔵の《…Whose Name Was Writ in Water》では、人物と風景が赤、黄、白、青の流動的な筆触へ溶けます。Guggenheimは、de Kooningが「純粋抽象」の作家と呼ばれながら、実際には人物と観察世界を繰り返し参照したことを強調しています。
題名はJohn Keatsの墓碑銘「Here lies One Whose Name was writ in Water」を踏まえます。水に書かれた文字のように、像は画面上で一時的に現れながら固定されません。
1977年、《North Atlantic Light》
1970年代後半の作品では、East Hamptonの海、反射、湿地、空の光がより大きな色の流れになります。《North Atlantic Light》は題名からも北大西洋の光を直接想起させますが、実景を特定できる風景画ではありません。
de Kooningにとって場所は、描写される対象というより、身体に残る色と速度でした。この考えは1960年代以降一貫しています。
1980年代、画面を減らす
1980年代の作品では、白い余白が大きくなり、赤、青、黄の曲線がリボンのように画面を横切ります。《Untitled V》(1982)などは1950年《Excavation》の密度と正反対に見えます。
しかし、線が身体や風景の記憶を帯びる点は変わりません。腕、脚、口、地平線のように見えながら、どれにも確定しない。若い頃から続く「形は何かに似ているが、完全には読めない」という問題が、より少ない要素で続いています。
1986–91年、最後の制作期
1980年代後半も制作を続け、《Untitled VI》(1986)、《Quality of a Piece of Paper》(1987)などを残しました。Willem de Kooning Foundationは、彼が1991年に最後の絵画を制作したと記録しています。
晩年作品を作家の身体状態だけから説明することは避ける必要があります。2025年Gagosianの《Endless 絵画》は、late paintingsを初期・中期作品から切り離さず、数十年にわたり反復された曲線、身体、風景のモチーフとして読み直しました。
1997年、East Hamptonで死去
1997年3月19日、East Hamptonで92歳で亡くなりました。作品はMoMA、The Met、Whitney、Art Institute of Chicago、Guggenheim、Stedelijk Museumなど世界各地の主要美術館に収蔵されています。
死後も評価は固定していません。2011–12年MoMAの大回顧展、2024年VeniceのItaly展、2025年《Endless 絵画》など、従来の「抽象 Expressionist hero」という枠を超え、Italy、彫刻、late 絵画、素描、figurationを含む長い制作として再検討されています。
ロッテルダム――商業美術から出発する
デ・クーニングの初期教育を考える時、「fine artの天才が早くから抽象へ向かった」という物語にしないことが重要です。彼は装飾会社とdepartment storeで働き、文字、看板、表面処理、室内空間を扱いました。
後にhouse painter用の幅広いbrush、sign 絵具、新聞紙、tracing paperを作品へ取り入れたことは、こうした経験と無関係ではありません。美術専用材料だけが絵画を作るわけではないという感覚を若い頃から持っていました。
1926年、アメリカへ密航する
デ・クーニングの渡米は合法的な移民手続きを経たものではなく、貨物船への密航でした。この事実は彼の「American 作家」という位置づけを考える際に重要です。MoMAやThe Metは現在も「American, born the Netherlands」と表記しています。
1920年代後半のNew Yorkで彼は商業美術家として働きながら、European modernismとAmerican popular cultureの双方へ触れました。後の作品でPicassoとbillboard、classical nudeとpinup advertisementが同じ画面へ入る背景には、この二重の視覚文化があります。
Arshile Gorky――人物と抽象の間
Gorkyはde Kooningにとって重要な友人であり、同時に競争相手でもありました。Gorkyを通してPicasso、Miró、Surrealismのformを学びましたが、de Kooningはそれを自分の人物drawingと混ぜます。
両者に共通するのは、abstractionを「何も表さない純粋な形」とは考えなかった点です。植物、身体、室内、記憶の形が抽象へ変わり、抽象形態が再び身体に見えます。
この関係を理解すると、de Kooningが後にWomanへ戻ったことが「抽象を裏切った」のではなく、最初から存在した問題を前景化したことだと分かります。
WPA――大画面を経験する
WPA Federal Art Projectは大恐慌期に多くの作家へ仕事を与えました。de Kooningもmural divisionに参加し、Williamsburg Federal Housing Projectなどのためのstudyを制作しました。
移民だったde Kooningにとって公的事業へ参加することは、New Yorkの作家として活動基盤を作る経験でもありました。ただし採用作品の多くは実現せず、現在はstudyが残っています。
ここで大画面を構想した経験は、戦後の巨大canvasへつながります。身体より大きな画面で構図を考え、腕全体を使って線を引く感覚が準備されました。
黒と白――抽象は人物から生まれた
黒と白のpaintingsはde Kooningの抽象表現主義を象徴しますが、人物像を消した結果ではありません。《絵画》(1948)では実際に人物drawingの断片が転写され、そこから抽象的な構図が作られています。
黒い部分を「人物」、白を「背景」と決めることができません。白い線が黒の上へ来た瞬間には前景に見え、別の場所では黒が白を切り裂きます。この反転が画面へ強い動きを与えます。
「人物か抽象か」という問いより、「どの部分が今、前に見えるか」という知覚の変化を見る方がde Kooningの方法へ近づけます。
「画家のための画家」になる
de Kooningはしばしば“作家’s 作家”と呼ばれます。これは一般人気がなかったという意味ではなく、特に同世代・後続の画家が、彼の絵画制作の方法そのものへ強い関心を持ったことを示します。
2025年《Endless 絵画》にあわせたGagosianの対談でも、John Currin、Jenny Saville、Dana Schutzという後続のfigurative paintersがde Kooningの影響を語りました。完成したstyleを引用するより、figureとabstractionを壊し直す方法が現在の画家にも作用しています。
《Excavation》――抽象の中に身体を埋め込む
《Excavation》は一見するとall-over abstractionですが、近づくと目、口、歯、足、魚、鳥のような断片が次々に見えます。タイトルの「発掘」という言葉も、鑑賞者が画面から像を掘り出す経験とよく合います。
画面には一つの中心がなく、どこから見始めても線が別の場所へ連れていきます。Pollockのall-over paintingと同時代ですが、de Kooningの線は常に何かの輪郭になりかけます。
Art Institute of Chicagoが指摘する《Bitter Rice》の女性たちという出発点は、抽象画が現実世界から断絶していないことを示します。身体の記憶が構図の内部へ残っています。
《Woman I》――具象へ戻ったのではない
《Woman I》を「抽象 painterがfigure paintingへ戻った」と説明すると、de Kooning自身の考えとずれます。彼は以前からfigureを描き、抽象 worksにもbody fragmentsを入れていました。Woman Iはその関係を巨大な正面像として露出させた作品です。
MoMAの資料によれば、制作には長い修正が重ねられました。顔が変わり、胸が変わり、姿勢が変わり、背景も何度も作り直されています。完成作にはその変更の痕跡が残り、像が決着していないように見えます。
ここでbrushstrokeは女性を描く線であると同時に、女性像を壊す線でもあります。figureとabstractionが一枚の中で同時に作動します。
女性像をめぐる論争
Womanシリーズは発表当時から現在まで、女性身体をgrotesqueに誇張した作品として批判されてきました。巨大な歯、胸、目、攻撃的なpaint applicationは、viewerへ強い不快感を与える場合があります。
一方で、MoMAは古代のfertility 人物、Venus、American billboard、pinupなど複数の女性像の歴史が重なっていると説明しています。de Kooning自身も「idol, Venus, nude」というfemale representationの系譜を意識していました。
したがって、作品を女性蔑視ではないと免責する必要も、逆にそれだけで説明しきる必要もありません。女性表象の長い歴史、1950年代の広告文化、男性作家の視線、絵具そのものの暴力性が重なっていることを具体的に見る必要があります。
ウィレム・デ・クーニングの作品をどう見るか
最初に題名から「何が描かれているか」を探しすぎず、画面のどこが前に見え、どこが奥へ引くかを追うと作品の構造が分かりやすくなります。de Kooningはfigure/groundの位置を絶えず交換します。
次に、消された跡を見ます。brushstrokeの上に別の色が乗り、削った部分が残り、新聞紙 transferやcharcoal lineがpaintの下から見えます。彼の絵画では修正は失敗を隠す工程ではなく、完成画の重要な層です。
三つ目に、何かに「似ている」形を探します。歯、胸、脚、魚、道路、窓、水面などが一瞬現れても、そこへ固定しないことが重要です。次のstrokeが別の読みへ変えます。
最後に、年代を越えて比較します。1948年の黒と白、1952年のWoman、1963年の風景、1972年のsculpture、1982年のlate paintingは外見が違います。しかし曲線、身体 fragment、消去、前後の反転は何度も戻ります。変化と反復を同時に見ることがde Kooning鑑賞の核心です。
主要作品
1938年の人物画から、1940年代末の黒と白の抽象、《Excavation》《Woman I》、都市風景、Long Islandの光、1960年代の女性像、彫刻、1970年代の水と身体、1980年代の簡潔な線まで、デ・クーニングが人物/抽象、都市/風景、絵画/彫刻を往復しながら制作を変化させた流れが分かる12点を選びました。
二人の立つ男
Two Standing Men / 1938 / 油彩、木炭・カンヴァス / 154.9 × 114.3 cm
The Metropolitan Museum of Art, New York
抽象表現主義以前の重要な人物画。二人の男性は解剖学的に安定した身体としてではなく、PicassoやArshile Gorkyを思わせる分割・変形された形で描かれています。人物と背景の境界を揺らす方法がすでに現れ、後の抽象とWomanシリーズの双方へつながります。
絵画
Painting / 1948 / エナメル塗料、油彩・カンヴァス / 108.3 × 142.5 cm
The Museum of Modern Art, New York
1948年の最初の個展期を代表する黒と白の抽象。MoMAによれば、人物素描の断片をトレーシングペーパーで転写した後に絵具を重ねています。黒と白の形は人体、文字、物体のように見えながら最後まで確定せず、デ・クーニングにとって抽象と具象が分離していなかったことを明瞭に示します。
屋根裏部屋
Attic / 1949 / 油彩、エナメル塗料、新聞紙からの転写・カンヴァス / 157.2 × 205.7 cm
The Metropolitan Museum of Art, New York
黒と白を中心とする複雑な構図へ新聞紙の活字や写真が転写された作品。The Metによれば、濡れた絵具の乾燥を遅らせるため新聞紙を当てた際の痕跡を残しています。題名は、妻Elaineが「何でも入れておく場所」という意味で提案したとされ、人体や物体の断片が蓄積する画面と響き合います。
発掘
Excavation / 1950 / 油彩、エナメル塗料・カンヴァス / 205.7 × 254.6 cm
The Art Institute of Chicago
1950年時点でデ・クーニング最大の絵画。Art Institute of Chicagoによれば、1949年のイタリア映画《Bitter Rice》で水田に働く女性たちの像が出発点の一つでした。白を基調とする画面から目、歯、鼻、魚、鳥、身体断片のような形が現れ、抽象画の内部に可視世界の記憶を残しています。
女 I
Woman I / 1950–1952 / 油彩、メタリック塗料・カンヴァス / 192.7 × 147.3 cm
The Museum of Modern Art, New York
約2年にわたり描いては削る作業を繰り返したWomanシリーズの中心作。巨大な目、歯、胸、激しい筆触によって古代の女神像、Venus、広告、pinupなど複数の女性表象を重ねます。具象への「後退」として論争を呼び、女性蔑視的表現という批判も含め現在まで多様な解釈が続く作品です。
ゴッサム・ニュース
Gotham News / 1955 / 油彩、エナメル塗料、木炭、新聞紙からの転写・カンヴァス / 175.3 × 200.7 cm
Buffalo AKG Art Museum
Womanシリーズ後の都市的抽象を代表する作品。Buffalo AKGは、制作中に濡れた絵具を新聞紙で覆った際の転写を一部残したこと、作品が混雑、混乱、活気などNew Yorkの相反する感覚を反映していることを解説しています。都市を描写せず、その速度と断片を絵具へ変換しました。
川への扉
Door to the River / 1960 / 油彩・リネン / 203.5 × 178.1 cm
Whitney Museum of American Art, New York
New YorkとLong Islandを往復していた時期を代表する風景的抽象。幅広い塗装用刷毛で桃色、黄、茶、白、青を大きく置き、中央に扉のような長方形を作ります。Whitneyは、本人がこの時期の作品を高速道路や都市への往復から生じる風景の感情として説明したことを紹介しています。
ルーズ・ポイントの薔薇色の指をした曙
Rosy-Fingered Dawn at Louse Point / 1963 / 油彩・カンヴァス / 203.2 × 177.8 cm
Stedelijk Museum, Amsterdam
East HamptonのLouse Pointを題名に持つ風景的抽象。Homerの叙事詩を思わせる「薔薇色の指をした曙」という言葉と、Long Islandの具体的な地名が組み合わされます。桃色、黄、青、白の広い筆触によって、景色そのものより海辺の光や身体感覚を描いています。
都市風景――新聞、道路、速度
1955年以降の《Gotham News》《Easter Monday》《Police Gazette》は、人物を前面に置かないため「抽象画」と呼ばれますが、都市から離れた純粋形式ではありません。題名には新聞、New York、警察記事といった都市的な語彙が残り、実際の画面にも新聞紙の転写が入り込みます。
《Easter Monday》では、斜めの線と広い色面が画面全体でぶつかり、部分ごとに前後関係が反転します。The Metは、この作品が制作と破壊を同時に進めているように見え、現代都市の速度や断片性を思わせると説明しています。街路や建物を写実的に描かなくても、都市の経験は線の方向、重なり、新聞の痕跡として残ります。
この時期を批評家Thomas Hessは「抽象 Urban Landscapes」と呼びました。ここでの「風景」は眺望ではなく、移動する身体が受け取る刺激の総体です。車、看板、人混み、新聞、建築物の断片が、視覚的な記憶として絵具へ変換されています。
Long Island――風景は色と身体になる
1950年代後半、de KooningはNew York CityとLong Island東部を頻繁に往復するようになりました。都市から郊外へ移動する道路、空の広がり、水辺の光は、《Montauk Highway》《Door to the River》《Rosy-Fingered Dawn at Louse Point》などへ反映されます。
重要なのは、風景を前にして写生することより、その場所を移動する時の感覚を描いている点です。Whitneyの《Door to the River》解説では、本人がこの時期の作品を、都市へ向かう時/都市から離れる時の高速道路と風景の感情として説明したことが紹介されています。
したがって、青は海、黄は光、桃色は空と一対一で対応するわけではありません。色そのものが速度、温度、湿度、身体感覚を引き受けます。人物を描いていないのに、画面は非常に身体的です。
Italy――1959年と1969年
de Kooningは1959年と1969年にItalyへ長く滞在しました。1959年のRomeでは紙上の黒と白の作品を多く制作し、1969年には粘土による小さな彫刻を始めます。この二つの滞在は、彼の制作でそれぞれ別の転換点となりました。
2024年Gallerie dell’Accademia, Veniceの《Willem de Kooning and Italy》は、この二度の滞在を初めて本格的に検証した展覧会です。約75点を集め、Italyで作った作品だけでなく、帰国後の絵画、素描、彫刻へどのような影響が残ったかを示しました。
1959年の紙作品では、大きなcanvasから離れたことで筆致が直接的になります。1969年には平面から立体へ移り、粘土を押す手の痕跡がそのまま形になります。どちらも、既存の成功した絵画様式から一度離れることで新しい方法を見つけた経験でした。
Springs――海辺の光と新しいstudio
East HamptonのSpringsに建てたstudioは、de Kooningの後半生における重要な制作環境でした。高い天井、大きな窓、Long Island独特の強い光を持つ空間で、New Yorkの狭いstudioとは異なる身体的な距離でcanvasと向き合うことができました。
《Rosy-Fingered Dawn at Louse Point》は、その環境を象徴する作品です。Stedelijk Museum所蔵の80×70インチの大画面には、黄色、桃色、白、青が大きく流れます。題名はHomerの叙事詩を思わせる一方、Louse Pointという具体的な地名を含みます。古典的な言葉と日常の場所が一つの題名に共存しています。
故郷Hollandを思わせる平坦な土地と水辺の光も、Foundationの伝記では重要な要素として挙げられています。de KooningにとってLong Islandは「自然へ逃げた場所」ではなく、過去の記憶と現在の感覚が重なる場所でした。
1960年代の女性像――身体と風景が溶け合う
1960年代のWomenは、1950年代の《Woman I》と大きく異なります。《Woman Accabonac》では身体が縦長の画面を占めますが、輪郭は開き、周囲の色と混ざります。肉体と水、草、空の境界が弱くなっています。
1950年代の女性像は正面から鑑賞者を見返す強い「顔」を持っていました。1960年代の像は、身体そのものが風景の一部へ溶け、複数の視点や触覚的な記憶へ変わります。人物画と風景画を別ジャンルとして分けることができません。
この変化は、de Kooningが女性という主題を繰り返しながら同じ形へ戻らなかったことを示します。主題は反復されても、毎回別の絵画問題へ変換されます。
彫刻――筆触を三次元にする
1969年のRome滞在を契機に始めた粘土作品は、その後bronzeへ鋳造され、《Clamdigger》《Hostess》《Seated Woman》《Standing 人物》などへ発展しました。彫刻家として体系的な訓練を受けたわけではありませんが、それが逆に粘土を「描くように」扱う方法につながりました。
《Clamdigger》では、指で押した跡、引き伸ばした粘土、潰れた面がそのまま残ります。彫刻を滑らかな完成形へ整えるのではなく、作る行為の痕跡を表面へ残します。絵画でbrushstrokeを消さなかったのと同じです。
人物はLong Islandのclam diggerを思わせますが、特定人物のportraitではありません。海辺の労働者、古代の立像、泥から生まれた身体など複数の連想を持ちます。素材と像の間に決着を付けない方法が三次元でも続きます。
1970年代――水、肉体、反射
1970年代の絵画では、身体と水の関係がさらに強くなります。《…Whose Name Was Writ in Water》では、赤、黄色、白、青の滑るような筆触が、人物のprofileや四肢らしき形を作っては消します。
Guggenheimは、de KooningがAction Paintingの代表とされながらも、実際には現実世界の人物や風景を長く参照し続けた点を強調しています。1970年代の絵画はそのことが特に明確で、海辺の反射や水の流れと肉体の曲線を同じ動きとして扱います。
《North Atlantic Light》では、題名に「光」が明示されます。しかし光を白や黄色で再現するのではなく、画面全体の色同士の押し合いとして経験させます。風景の描写より、風景に身体がさらされた感覚が作品になります。
1980年代――線と余白へ
1980年代の作品では、長年の厚い塗り重ねが大きく減り、白い余白が前面に出ます。赤、青、黄色の帯状の線が大きく曲がり、互いに交差します。画面が「軽くなった」ように見えますが、単純化はそれまでの制作を捨てた結果ではありません。
《Untitled V》(1982)を見ると、一本の曲線が腕、脚、岸辺、輪郭のどれにも見えます。1948年《絵画》で黒い形が人体や文字に見えたのと同じ曖昧さが、はるかに少ない要素で実現されています。
2025年の《Endless 絵画》は、late paintingsを「衰えによる簡略化」という古い見方から切り離し、初期から反復してきた形態がどのように整理され直したかを示しました。John Currin、Jenny Saville、Dana Schutzら現代画家との対談も行われ、後世への影響が改めて検討されています。
完成させないこと――描いて消す
de Kooningの絵画では、完成は「これ以上触れない完璧な状態」を意味しません。描き、削り、新聞紙を当て、転写し、別の紙から線を移し、乾く前にさらに手を加える。画面には複数の過去状態が残ります。
《Woman I》が典型ですが、《Attic》《Excavation》にも消去と修正の痕跡があります。完成作を見ても、作業がまだ続く可能性が残っているように感じられます。
この「未決定性」は偶然ではありません。形を明確にしすぎると像が固定され、抽象へ寄せすぎると現実との関係が消える。de Kooningはその両方を避け、画面が複数の読みを保つ地点で止めます。
人物と抽象はなぜ分かれないのか
de Kooningは20世紀美術史の「具象から抽象へ」という単純な発展図式に収まりません。人物を描いた後に抽象へ進み、再び人物へ戻り、その後また風景的な抽象へ移ります。
しかし本人にとって、この移動は矛盾ではありませんでした。身体の輪郭は抽象線になり、抽象線は再び胸、脚、口に見える。風景の水平線は身体の曲線と同じstrokeで描けます。
MoMAの《絵画》解説にある「抽象的な形も何かに似ていなければならない」という考えは、この制作をよく表しています。純粋抽象と純粋具象の間に境界線を引かず、像が生まれる直前と消える直前を絵画にしました。
Pollockとの違い
de KooningとJackson Pollockは、同じAbstract Expressionism/New York Schoolの中心人物として並べられますが、制作方法はかなり異なります。Pollockのdrip paintingsはcanvasを床へ置き、線を全域へ展開し、人物/groundの階層を弱めました。
de Kooningもall-overな構図を使いますが、線は何かの輪郭になりかけます。目、歯、腕、看板、窓、道路など具体的世界との接触を手放しません。画面を垂直に置き、描いては削る修正も多用しました。
したがって、Pollockが「抽象の純化」を代表し、de Kooningが「具象へ逆戻りした」と考えるのは単純すぎます。二人は別の方法で、絵画の前景/背景、身体/画面、線/像を再編成していました。
GreenbergとRosenberg――二つの批評
戦後New York美術ではClement GreenbergとHarold Rosenbergが重要な批評家でした。Greenbergは絵画媒体の自律性と抽象化を強く評価し、de Kooningの1940年代末の抽象を支持しました。しかしWomanシリーズについては、その具象性を問題視し、支持が後退します。
一方Rosenbergは、1952年に“Action 絵画”という言葉を広め、canvasを完成された構図の場所というより、作家が行為するarenaとして捉えました。de Kooningの絶え間ない修正、描き直し、決断の連続は、この考えと親和性がありました。
ただしde Kooning自身をどちらかの理論へ完全に従属させるべきではありません。彼は抽象の規範にもAction Paintingの定義にも収まらず、必要ならfigureへ戻り、landscapeへ移りました。理論より制作上の欲望を優先したことが、彼の強さでした。
Elaine de Kooning――同じ美術家共同体を生きる
Elaine de Kooningは単なる「画家の妻」ではなく、portraitやgestural paintingで知られる画家であり、ARTnewsなどで批評も執筆した人物です。1943年の結婚後、二人はNew York Schoolの人的ネットワークの中心にいました。
二人の関係には離別期間もありましたが、完全に関係が切れたわけではなく、後年再び近い関係になります。Willemの制作を語る際にElaineを補助者としてだけ扱うと、戦後New York美術の実際の共同体構造を見誤ります。
また、Womanシリーズを論じる場合も、de Kooningの周囲に女性画家が存在しなかったわけではありません。Elaine、Lee Krasner、Grace Hartigan、Joan Mitchellらも同時代に制作していました。抽象表現主義を男性だけの物語として描かないことは、現在の美術史研究では重要です。
2024年《Willem de Kooning and Italy》
2024年4月17日から9月15日まで、VeniceのGallerie dell’Accademiaで《Willem de Kooning and Italy》が開催されました。第60回Venice Biennaleに合わせて開かれ、約75点によって1959年と1969年のItaly滞在と、その後の制作への影響を検証しました。
同館は、Italyとの関係をこれまで十分に研究されてこなかった側面と位置づけています。1959年Romeの紙作品から1969年の粘土彫刻、帰国後のpaintingやsculptureまでをつなぎ、de Kooningの後半生をLong Islandだけで説明しない視点を提示しました。
これは死後の評価がまだ更新されていることを示します。canonical artistであっても、どの時期・場所を中心に語るかによってcareerの見え方は変わります。
2025年《Endless 絵画》
2025年4月15日から7月11日までGagosian New Yorkで《Willem de Kooning: Endless 絵画》が開催されました。Cecilia Alemaniがcurateし、1944年から1986年まで五十年近いpaintingと、《Clamdigger》《Standing 人物》のsculptureを並べました。
展覧会の焦点は、時代ごとの様式変化より、同じmotifが長期間反復されることでした。人物のprofile、腕や脚、landscapeのcurveが、1940年代、60年代、80年代の作品をまたいで現れます。
タイトルの“Endless 絵画”は、de Kooningが一つの完成地点へ到達しなかったことをよく表しています。古い作品を否定して新しいstyleへ進むのではなく、以前の形を別の仕方で再び使う。制作そのものが終わらない循環として捉え直されました。
ウィレム・デ・クーニングは何を変えたのか
第一に、抽象と具象を美術史上の敵対関係から解放しました。抽象画を描いた後に人物へ戻っても「後退」ではないことを、自身の制作で示しました。figureとabstractionは、一つのstrokeがどのように読まれるかの違いとして同時に存在できます。
第二に、修正と失敗を完成画の内部へ残しました。描いて消すことを隠さず、変更の痕跡を絵画の時間として残しました。完成作が一瞬の決断ではなく、多数の過去状態を抱える物体になります。
第三に、人物と背景の関係を大きく変えました。人物を輪郭で切り取り、背景の前へ置くのではなく、同じ筆触がfigureとgroundを行き来します。この曖昧さは後世のfigurative paintingへ大きな影響を与えました。
第四に、絵画の身体性を一つのsignature gestureへ固定しませんでした。黒と白の細かい線、Womanの激しい塗り、Long Islandの幅広いbrush、1970年代の液体的な面、1980年代の軽いribbon lineまで、身体的なpaint handlingを何度も作り替えました。
第五に、paintingとsculptureを同じ問題の別形態として扱いました。粘土を押し、握る痕跡は、paintを押し引きするbrushstrokeの三次元版とも見えます。媒体を変えても人体と素材の境界を問う方法は続きました。
第六に、抽象 Expressionismを「純粋抽象」の物語だけにしませんでした。《Excavation》の映画、《Woman I》の広告・古代像、《Gotham News》の新聞、Long Islandの道路と海など、現実世界の断片を絶えず画面へ持ち込みました。
そして最も重要なのは、一つの成功したstyleを守ることを拒んだことです。1948年のblack-and-white paintingsで評価を得た後にWomanへ移り、Womanが有名になるとlandscapeへ進み、sculptureへも手を出し、late paintingsでは画面を大幅に削ぎ落としました。de Kooningにとって作家として一貫するとは、同じ見た目を繰り返すことではなく、同じ根本問題を別の方法で問い続けることでした。
略年譜
- 1904
- 4月24日、Rotterdam, Netherlandsに生まれる。
- 1916
- 学校を離れ、装飾・商業美術会社Gidding & Zonenで徒弟として働き始める。
- 1917–1921
- Rotterdam Academy of Fine Arts and Techniquesの夜間課程でdrawingと応用美術を学ぶ。
- 1920年代前半
- department storeや装飾会社で商業美術・designの仕事を続ける。
- 1926
- 7月、貨物船に密航してUnited Statesへ渡り、Newport Newsに到着。Hobokenでhouse painterとして働く。
- 1927
- New York Cityへ移住。商業designを行いながら美術家との交流を広げる。
- 1930年代前半
- Arshile Gorky、John Graham、Stuart Davisらと交流。Cubism、Surrealism、人物drawingを横断して制作。
- 1936
- WPA Federal Art Projectのmural divisionで働く。大画面の構想を経験。
- 1938
- 《Two Standing Men》。男性像と抽象形態の関係を追究。
- 1943
- Elaine Friedと結婚。
- 1946–1948
- 黒と白の工業用enamelを多用する抽象作品を制作。
- 1948
- Charles Egan Galleryで44歳にして初個展。《絵画》などblack-and-white abstractionsで高い評価を得る。
- 1949
- 《Attic》。The Clubの創設メンバーとなる。
- 1950
- 《Excavation》完成。Venice Biennaleに出品。《Woman I》制作開始。
- 1951
- 《Excavation》がArt Institute of ChicagoのLogan Medal and Purchase Prizeを受賞し、同館が購入。
- 1952
- 《Woman I》をほぼ完成。New York Schoolの中心作家として評価が確立。
- 1953
- Sidney Janis Gallery《Paintings on the Theme of the Woman》。MoMAが《Woman I》を購入。School of the Museum of Fine Arts, Bostonで最初の回顧展。
- 1955
- 《Gotham News》《Police Gazette》。都市風景的な抽象へ展開。
- 1955–1956
- 《Easter Monday》。
- 1958
- 《Montauk Highway》。New YorkとLong Islandの道路・郊外の感覚を作品へ取り込む。
- 1959–1960
- Italyに長期滞在。Romeで多数のblack-and-white works on paperを制作。
- 1960
- 《Door to the River》。
- 1963
- East Hampton, Springsにstudioを建築。《Rosy-Fingered Dawn at Louse Point》。
- 1964
- Presidential Medal of Freedom受章。
- 1966
- 《Woman Accabonac》。
- 1968
- Stedelijk Museum, Amsterdamなどで大規模回顧展の時期。Europeでの評価も拡大。
- 1969
- 再びItalyへ滞在。Romeで小型clay sculpturesを制作し、本格的な彫刻へ進む。
- 1971
- Springsへ恒久的に移住。lithographyにも取り組む。
- 1972
- 《Clamdigger》。粘土作品を拡大しbronzeへ鋳造する彫刻制作を展開。
- 1975
- 《…Whose Name Was Writ in Water》。
- 1977
- 《North Atlantic Light (Untitled XVIII)》など、海辺の光と身体を重ねる作品を制作。
- 1981
- 《Pirate (Untitled II)》。より開放的なlate styleへ移行。
- 1982
- 《Untitled V》《Untitled XXII》。白い余白と大きな曲線が中心となる。
- 1984–1986
- 簡潔な線と鮮やかな色を用いるlate paintingsを多数制作。
- 1987
- 《Quality of a Piece of Paper》。
- 1991
- Willem de Kooning Foundationの伝記によれば最後の絵画を制作。
- 1997
- 3月19日、East Hampton, New Yorkで死去。92歳。
- 2011–2012
- MoMAで約200点を集めた《de Kooning: A Retrospective》。制作全体を大規模に再検討。
- 2024
- Gallerie dell’Accademia, Veniceで《Willem de Kooning and Italy》。二度のItaly滞在の影響を約75点で検証。
- 2025
- Gagosian New YorkでCecilia Alemani企画《Endless 絵画》。1944–1986年の作品と彫刻を通して反復するmotifを再検討。
参考資料・出典
本ページはWillem de Kooning Foundation、The Museum of Modern Art、The Metropolitan Museum of Art、Art Institute of Chicago、Whitney Museum of American Art、Solomon R. Guggenheim Museum、National Gallery of Art、Stedelijk Museum、Gallerie dell’Accademia di Venezia、Gagosian等の美術館・財団・研究機関・作家取扱ギャラリーの公式資料を参照し、ART LIBRARYが独自に執筆しました。《Woman》シリーズをめぐるジェンダー上の批判や、抽象/具象をめぐる歴史的評価については一つの結論に固定せず、作品の具体的構造、当時の批評、現在の美術館による解説を区別して記述しています。原文の全文翻訳ではありません。
- Willem de Kooning Foundation — Biography
- Willem de Kooning Foundation — Chronology
- Willem de Kooning Foundation — Selected Works
- Willem de Kooning Foundation — Two Standing Men, 1938
- Willem de Kooning Foundation — Gotham News, 1955
- Willem de Kooning Foundation — Montauk Highway, 1958
- Willem de Kooning Foundation — Rosy-Fingered Dawn at Louse Point, 1963
- Willem de Kooning Foundation — Woman Accabonac, 1966
- Willem de Kooning Foundation — Clamdigger, 1972
- The Museum of Modern Art — Willem de Kooning
- MoMA — Painting, 1948
- MoMA — Woman I, 1950–52
- MoMA — Woman, II, 1952
- MoMA — Untitled V, 1982
- The Metropolitan Museum of Art — Two Standing Men, 1938
- The Metropolitan Museum of Art — Attic, 1949
- The Metropolitan Museum of Art — Easter Monday, 1955–56
- Art Institute of Chicago — Excavation, 1950
- Whitney Museum of American Art — Door to the River, 1960
- Solomon R. Guggenheim Museum — …Whose Name Was Writ in Water, 1975
- National Gallery of Art — Willem de Kooning Works
- Gallerie dell’Accademia di Venezia — Willem de Kooning and Italy, 2024
- Gagosian — Willem de Kooning: Endless Painting, 2025
資料確認日:2026年10月1日 / ART LIBRARY