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Wassily Kandinsky

ワシリー・カンディンスキー

ロシア/ドイツ/フランス / 1866–1944 / 青騎士/抽象絵画/バウハウス

Helen Mirren on Vasily Kandinsky (The Museum of Modern Art)
ワシリー・カンディンスキーの生涯と芸術:美術史解説 (Art History Explained)

ワシリー・カンディンスキー(1866–1944)は、20世紀初頭に絵画を具体的な対象の再現から切り離し、色、線、形そのものによって成立する抽象絵画の可能性を理論と実作の両面から追究した画家です。ロシアに生まれ、30歳で画家を志してミュンヘンへ移り、青騎士、第一次世界大戦後のロシア、バウハウス、そして晩年のパリへと活動の場を移しました。初期の風景画から1910年代の激しい色彩と線、1920年代の幾何学的構成、1930年代後半の有機的な形まで、作品は一つの抽象様式に固定されることなく変化し続けています。

生涯と制作の変遷

モスクワからミュンヘンへ

カンディンスキーは1866年、ロシア帝国のモスクワに生まれました。幼少期にはオデッサでも生活し、音楽と絵画の教育を受けています。しかし最初から画家を職業として選んだわけではありません。モスクワ大学で法律と経済を学び、民族誌にも関心を持ち、大学で研究を続ける道もありました。

大きな転換が訪れたのは1890年代です。カンディンスキーは1895年にモスクワで開催されたフランス印象派展でモネの《積みわら》を見た経験を、後に重要な出来事として振り返っています。何が描かれているのかすぐには理解できなかったにもかかわらず、色そのものから強い印象を受けたという体験でした。翌1896年、30歳で法律家としての道を離れ、画家になるためミュンヘンへ移ります。

風景画の中で色が対象から離れていく

初期のカンディンスキーは風景、騎馬人物、ロシア的な伝説世界など、具体的な対象を描いていました。1908年から1910年頃、ガブリエレ・ミュンター、アレクセイ・ヤウレンスキーらとバイエルン地方のムルナウで制作した風景画では、自然の色から離れた青、黄、緑、赤が大きな色面として使われるようになります。

Lenbachhaus所蔵の1909年作品では、家や道、山はまだ識別できますが、透視図法による奥行きは弱まり、色面自体が画面を構成する力を持ち始めています。同館は、この時期のムルナウ作品で現実的な自然観察からの離脱が急速に進んだことを指摘しています。

1909–1911年:新しい芸術家集団と理論

1909年、カンディンスキーはミュンヘン新芸術家協会(Neue Künstlervereinigung München)の設立に参加します。しかし彼の作品が急速に抽象化するにつれ、グループ内部の対立も深まりました。1911年にはフランツ・マルクらとともに協会を離れ、「青騎士(Der Blaue Reiter)」の活動を開始します。

同じ1911年末、カンディンスキーは『芸術における精神的なものについて(Über das Geistige in der Kunst)』を出版します。ここで色や形は、物体を説明する補助手段ではなく、それ自体で人間の内面へ働きかける力を持つと論じました。MoMAは、この著作と同時期の《Composition V》を、抽象絵画へ向かう国際的な動きの重要な出来事として位置づけています。

1912–1913年:抽象化が急速に進む

1912年の《Improvisation 28 (second version)》では、画面はほとんど抽象的な色と線で覆われています。ただし、完全に対象が消えたわけではありません。グッゲンハイム美術館は、波、船、蛇、抱き合う人物、塔など、破局と救済に結びつく図像が断片的に残っていると説明しています。

翌1913年の《Composition VII》では、具体的な像はさらに見分けにくくなります。しかしこの作品は即興的に一気に描かれたわけではありません。トレチャコフ美術館の資料によれば、30点を超える素描、水彩、油彩の準備作が残っています。最終画面が激しく見える一方、その背後には長い構成研究があります。

第一次世界大戦とロシアへの帰還

1914年8月、第一次世界大戦の勃発により、ロシア国籍だったカンディンスキーはドイツを離れます。最終的にモスクワへ戻り、ロシア革命後は新しい美術教育・文化行政の制度づくりに関わりました。MoMAによれば、1919年には各地の美術館ネットワーク形成に携わり、1920年には芸術文化研究所(INKhUK)の初代責任者となります。

しかし当時のロシア前衛では、マレーヴィチや構成主義者たちによる幾何学的・社会的な美術理論が強まりました。カンディンスキーも幾何学を取り入れましたが、形や色が精神的・心理的な響きを持つという考えを捨てませんでした。この立場の違いは、ロシアでの活動を難しくする要因の一つになります。

バウハウス

1921年末にロシアを離れ、1922年にヴァルター・グロピウスの招きでバウハウスへ参加します。ワイマール、のちにデッサウで教員として、壁画工房、基礎教育、色彩と形態の授業を担当しました。

この時期、作品は1910年代の自由に流動する形から、円、三角形、直線、格子といった幾何学的要素を強く使う方向へ変化します。《Composition 8》《Yellow-Red-Blue》《Several Circles》はその代表です。Centre Pompidouは、1920年代のカンディンスキーが初期の叙情的で自発的な抽象から、より幾何学的で合理的な言語へ移行したと説明しています。

ナチスによるバウハウス閉鎖とパリ

1933年、ナチス政権の圧力によってバウハウスが閉鎖されると、カンディンスキーはドイツを離れ、パリ近郊ヌイイ=シュル=セーヌへ移住します。1939年にはフランス国籍を取得しました。

晩年の作品では、バウハウス期の厳密な幾何学だけでなく、細胞、微生物、植物、海中生物のような有機的な形が増えます。《Composition X》では黒い背景の上に色鮮やかな幾何学的・生物的形態が浮かびます。Guggenheim Bilbaoは、このパリ時代について、シュルレアリスムの有機形態からの刺激も受けながら、抽象と具象の関係をさらに複雑化したと説明しています。

具象から抽象へ、何が変わったのか

対象を突然捨てたわけではない

カンディンスキーはしばしば「ある日突然、具象をやめて抽象画を発明した画家」のように説明されます。しかし実作品を見ると、変化は段階的です。1909年の《Picture with an Archer》には騎手、人物、建物、塔が見えます。しかし色は現実の固有色から離れ、遠近法も不安定になっています。

1912年の《Improvisation 28》でも、像は完全には消えていません。具体的な形が分解され、線と色の流れの内部に埋め込まれています。抽象化とは、対象が一瞬でゼロになることではなく、対象の説明よりも色、線、形の関係が次第に優先される過程でした。

絵画を音楽に近づける

音楽は、山や人物を描写しなくても成立します。音の高さ、強さ、時間的な関係だけで感情や構造を作ることができます。カンディンスキーは、この点を絵画の自立性を考えるための重要なモデルとしました。

作品名にも《Impression》《Improvisation》《Composition》という音楽を思わせる用語を採用しました。MoMAによれば、1912–13年に制作した詩画集『Klänge(響き)』でも、詩の意味を通常の言語的理解から解放し、木版画、音、言葉の関係を試しています。

「内的必然性」

カンディンスキーの理論で繰り返される概念が「内的必然性(innere Notwendigkeit)」です。これは単に感情のまま自由に描くという意味ではありません。色や形を選択する根拠を、外界の対象を正確に再現する義務ではなく、作品内部の関係と精神的な必要性へ置こうとする考えでした。

したがって、抽象画であるから何をしてもよいという理論ではありません。むしろ形と色だけになったからこそ、それぞれの要素をどこへ配置し、どの程度の強さで対立させるかが重要になります。

色と音楽の関係

音楽は比喩以上の存在だった

カンディンスキーにとって音楽は単なるタイトルの由来ではありませんでした。2025–26年にCentre PompidouとCité de la musiqueが共同開催した「Kandinsky, La musique des couleurs」展では、楽譜、レコード、書籍、制作道具など約200点を通じ、音楽が彼の日常生活と抽象への移行に根本的な役割を持ったことが検証されています。

とくに作曲家アルノルト・シェーンベルクとの出会いは重要でした。1911年、カンディンスキーはミュンヘンでシェーンベルクの演奏会を聴き、強い衝撃を受けます。調性の伝統から離れつつあった音楽と、対象の再現から離れようとしていた自分の絵画との間に共通する問題を見出しました。

色と音を一対一で対応させすぎない

カンディンスキーは黄色、青、赤などの色に異なる心理的・精神的性格を論じ、楽器の音との類似も記述しました。しかし「黄色は必ずこの音」「円は必ずこの感情」という固定した暗号表として作品を読む必要はありません。

実作品では、同じ色でも周囲の色、形、面積によって効果が変わります。《Yellow-Red-Blue》でも三原色は単独で置かれているのではなく、直線、円、自由曲線、明暗の対立によって相互に作用しています。色の意味は一つの記号ではなく、関係の中で変化します。

共感覚について

カンディンスキーは色と音の結びつきを頻繁に語ったため、現在では「共感覚の画家」と紹介されることがあります。ただし、現代医学的な意味で本人に共感覚があったかを断定することと、色と音の対応を芸術理論として積極的に用いたことは分けて考える必要があります。

作品を見るうえでは診断名を前提にするより、なぜ絵画に音楽の構造を持ち込みたかったのかを見る方が重要です。それは、絵画が具体物を描かなくても自律的に成立できるという考えと直結しています。

カンディンスキーの絵画をどう見るか

「何に見えるか」を急いで決めない

1910年代の作品では、線や色の中に塔、馬、船、人物のような形が残っています。しかし、それをすべて特定することだけが鑑賞の目的ではありません。何かに見えそうで完全には見えない状態そのものが、具象から抽象へ移る画面の特徴です。

まず全体の色の分布、次に強い線の方向、最後に具体的な像らしい部分を見ると、画面が一つの物語ではなく、複数のレベルで成立していることが分かります。

線に方向と力を見る

カンディンスキーにとって線は輪郭線だけではありませんでした。水平線、垂直線、斜線、曲線は、それぞれ異なる方向性と緊張を持つ要素です。1926年の著書『点・線・面』では、点が運動することで線が生まれ、線が画面上で異なる力を形成するという考えを体系化しています。

《Composition 8》では、細い直線、太い斜線、円弧、三角形が互いに交差しています。何かの輪郭を描いているのではなく、線そのものの方向と速度が構成を作っています。

色の面積を見る

赤と青が使われていることだけでなく、それぞれがどのくらいの面積を占めているかを見ることも重要です。小さな赤い点と大きな赤い面では、画面全体に与える力が異なります。

《Several Circles》では、大小の円が暗い背景上に浮かびます。Guggenheimは、円の大きさ、透明度、重なり、色の違いによって、多様な色彩関係と空間感覚が生まれていると説明しています。形を「円」という名前だけで見るのではなく、その量と位置を比較すると画面の構造が見えてきます。

初期とバウハウス期を別の作家のように見る

1913年の《Composition VII》と1923年の《Composition 8》を並べると、同じ「抽象画」でも大きく異なります。前者では色と線が渦のように交錯し、後者では円、三角形、直線が明確に分離されています。

抽象絵画を一種類の様式として考えるのではなく、カンディンスキー自身が抽象の内部で何度も方法を変えたことを見る必要があります。自由な形から幾何学へ、さらに晩年には有機的な形へ移る変化は、抽象そのものが固定されたゴールではなかったことを示しています。

主要作品

カンディンスキーの抽象化は一度に起きたのではなく、ムルナウの風景画から1910年代の自由な色と線、バウハウス期の幾何学、パリ時代の有機的形態へと変化しました。その流れを追える8作品を選びました。画像の権利表示は2026年現在も所蔵館によって異なるため、media_idはすべて0としています。

ムルナウ―城と教会

Murnau – Schloss und Kirche / 1909 / 油彩・厚紙 / 31.5 × 44.7 cm

Städtische Galerie im Lenbachhaus und Kunstbau München

ムルナウ時代の風景画。教会、城、家、樹木は識別できますが、自然の色を忠実に再現するより、深い青、赤、黄などの色の対立が画面を支配しています。Lenbachhausは、遠近感を弱め、風景の表現力を筆触と色の響きによって成立させた作品として解説しています。

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弓を射る人のいる絵

Picture with an Archer / 1909 / 油彩・カンヴァス / 175 × 144.6 cm

The Museum of Modern Art, New York

騎馬の弓使い、ロシア風の衣装を着た人物、家々、塔が残る一方、色面と線が独立して画面を動かし始めています。MoMAは、具体的な風景を保持しながら純粋抽象へ近づく過程を示す作品として位置づけています。

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即興28(第2ヴァージョン)

Improvisation 28 (second version) / 1912 / 油彩・カンヴァス / 111.4 × 162.1 cm

Solomon R. Guggenheim Museum, New York

色と黒い線が画面を大きく横切り、具体的な対象はほとんど分解されています。ただしGuggenheimは、波、船、蛇、抱き合う人物、太陽、塔など、破局と救済を示す図像の痕跡を指摘しています。抽象化が対象の完全消去ではなく、像を色と線の内部へ埋め込む過程だったことが分かります。

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コンポジションVII

Composition VII / 1913 / 油彩・カンヴァス / 200 × 300 cm

State Tretyakov Gallery, Moscow

第一次世界大戦前のカンディンスキーを代表する巨大作品。トレチャコフ美術館によれば、30点を超える準備素描、水彩、油彩が制作されました。色と線が渦巻く最終画面は即興的に見えますが、長い準備過程を経て構成されています。洪水、最後の審判、復活など過去の具象的モチーフの痕跡も研究上指摘されています。

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コンポジション8

Composition 8 / 1923 / 油彩・カンヴァス / 140.3 × 200.7 cm

Solomon R. Guggenheim Museum, New York

バウハウス期の代表作。円、三角形、直線、弧などが明確に分離され、1913年の自由に流動する画面から大きく変化しています。Guggenheimは、カンディンスキー自身がこの作品を第一次世界大戦後の成果の頂点の一つと考えていたことを紹介しています。

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黄・赤・青

Gelb-Rot-Blau (Yellow-Red-Blue) / 1925 / 油彩・カンヴァス / 128 × 201.5 cm

Centre Pompidou, Musée national d’art moderne, Paris

三原色を題名にしたバウハウス期の大作。Centre Pompidouは、左側の幾何学的な線と明るい色、右側の曲線的な形と暗い色という対立を指摘しています。幾何学と自由形、明と暗、直線と曲線を一つの画面で均衡させた作品です。

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いくつかの円

Several Circles / 1926 / 油彩・カンヴァス / 140.7 × 140.3 cm

Solomon R. Guggenheim Museum, New York

暗い正方形の画面に大小の円だけを配置した作品。円の大きさ、透明度、色、重なりの差によって空間が生まれます。Guggenheimは、カンディンスキーが円の幾何学性そのものではなく、その『内的な力』と変化の可能性に強く惹かれていたと説明しています。

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コンポジションX

Composition X / 1939 / 油彩・カンヴァス / 130 × 195 cm

Kunstsammlung Nordrhein-Westfalen, Düsseldorf

パリ時代の代表作で、黒い背景の上に幾何学的形態と生物を思わせる有機的な形が浮かびます。バウハウス期の厳密な幾何学から再び変化し、抽象と自然的な形の関係を組み直した晩年の到達点の一つです。

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青騎士と「芸術の総合」

青騎士は統一された様式のグループではない

青騎士はカンディンスキーとフランツ・マルクを中心に1911年から活動しましたが、参加者が同じ絵を描く運動ではありませんでした。アウグスト・マッケ、ガブリエレ・ミュンター、パウル・クレーら周辺の作家はそれぞれ異なる制作を行っています。

重要だったのは、様式の統一よりも、既存アカデミーの価値基準を越えて、現代絵画、民俗芸術、中世美術、子どもの絵、音楽などを同じ場で考えようとしたことです。1912年刊行の『青騎士年鑑』には視覚芸術だけでなく音楽についての文章も収録され、芸術ジャンルの境界を越える姿勢が明確でした。

「高級美術」と周縁的な表現を並べる

カンディンスキーはロシアの民芸、バイエルン地方のガラス絵、宗教的イコン、子どもの絵などに関心を持っていました。これらは当時のアカデミックな美術制度では中心に置かれていなかった表現です。

青騎士の活動では、こうしたものと同時代の前衛美術を上下関係なく並べることで、「芸術的価値はどこに存在するのか」を問い直しました。この発想は、単に抽象画を生み出すこととは別の、カンディンスキーの重要な活動でした。

ロシアからバウハウスへ

ロシアで幾何学が強まる

第一次世界大戦後のロシアでは、マレーヴィチのシュプレマティスムや構成主義など、幾何学的抽象が急速に発展しました。カンディンスキーはこれらの動向と接し、自身の画面にも円、直線、三角形といった要素を増やします。

ただし、形を純粋に客観的・機能的なものとして扱う考えには距離を置きました。Guggenheimは、カンディンスキーがロシア前衛の幾何学性を吸収する一方、抽象形態が内面的・精神的内容を持つという信念を維持したため、同時代の構成主義者とは立場が異なったと説明しています。

バウハウスで理論を教育へ変える

バウハウスでは、個人的な絵画制作だけでなく、色と形の関係を学生に教える必要がありました。そこでカンディンスキーは、自らの感覚的な経験を分析可能な体系へ整理していきます。

円、三角形、正方形、黄、赤、青といった基本要素の関係を研究し、1926年には『点・線・面』を出版しました。《Yellow-Red-Blue》は、Centre Pompidouがこの理論の視覚的な総合ともいえる作品として紹介しています。

幾何学=冷たい合理性ではない

幾何学的な形が増えたからといって、カンディンスキーが感情や精神性を捨てたわけではありません。《Several Circles》で彼が円を繰り返した理由について、Guggenheimは、円の幾何学的性質ではなく、その「内的な力」と無数の変化に強く惹かれていたという本人の考えを紹介しています。

つまりバウハウス期の幾何学は、数学的に中立な記号ではありません。円や線にも心理的な力があるという初期からの考えを、より整理された形式で検討したものです。

「最初の抽象画家」という説明をどう考えるか

抽象絵画には複数の起源がある

カンディンスキーは長く「抽象絵画を最初に発明した画家」と紹介されてきました。しかし現在では、20世紀初頭の抽象絵画は一人から始まったのではなく、複数の地域と作家からほぼ同時期に生まれたと考えられています。

2026年のCentre Pompidouによるカンディンスキー回顧展資料も、非具象美術の最初の表現として長く見なされてきた一方、現在では抽象の起源が複数であることが認識されている、と明記しています。ヒルマ・アフ・クリント、フランティシェク・クプカ、ロベール・ドローネー、ピート・モンドリアンなども、それぞれ異なる経路で対象の再現から離れていきました。

それでもカンディンスキーが重要な理由

「最初かどうか」と「美術史上重要かどうか」は別の問題です。カンディンスキーの特徴は、抽象的な作品を制作しただけでなく、その必要性を文章で理論化し、展覧会を組織し、青騎士の出版活動を行い、バウハウスで教育し、抽象絵画の考え方を広いネットワークへ伝えたことにあります。

Centre Pompidouも、抽象の起源が複数であることを認めたうえで、外界への直接的参照から自立した芸術という考えへのカンディンスキーの決定的貢献と、理論家・編集者・教育者としての役割を強調しています。

一枚の「最初の抽象画」を決めることの難しさ

カンディンスキーには長く1910年とされてきた無題水彩がありますが、制作年代や「完全な抽象」であるかについては研究上の議論があります。また《Improvisation 28》のように一見抽象的な作品にも、具体的な図像が残っています。

したがって、「この日から抽象絵画が始まった」と一本の線を引くより、1900年代末から1910年代前半に、複数の作家が異なる理由で対象の再現を弱めていった過程として見る方が、当時の美術の変化を理解しやすくなります。

画像利用について

カンディンスキーは1944年に死去しており、作品の著作権状態は国・公開時期・利用地域によって扱いが異なります。また2026年現在でも、美術館ごとの画像表示は統一されていません。Centre Pompidouは《Yellow-Red-Blue》を「Domaine public」と表示する一方、MoMAは《Picture with an Archer》にArtists Rights Society / ADAGPの著作権表示を掲載しています。ART LIBRARYでは、こうした差異があるため主要作品画像は一律に転載せず、Public Domain/Open Accessまたは明示的な利用許諾が確認できた画像のみ個別に登録します。

略年譜

1866
12月、ロシア帝国モスクワに生まれる。
1870年代
オデッサで育ち、音楽や絵画の教育を受ける。
1886
モスクワ大学で法律・経済を学び始める。民族誌にも関心を持つ。
1895
モスクワのフランス印象派展でモネ《積みわら》を見る。この経験を後に重要な転換点として記す。
1896
30歳で画家を志し、ミュンヘンへ移住。
1901
芸術家グループ・美術学校Phalanxを設立。
1908–1910
ガブリエレ・ミュンターらとムルナウで制作。風景画の色と形が急速に単純化・自立する。
1909
ミュンヘン新芸術家協会の設立に参加。《Picture with an Archer》などを制作。
1911
フランツ・マルクらと青騎士の活動を開始。『芸術における精神的なものについて』を刊行。
1912
青騎士年鑑を刊行。《Improvisation 28 (second version)》を制作。
1913
詩画集『Klänge(響き)』刊行。《Composition VII》を制作。
1914
第一次世界大戦勃発によりドイツを離れ、のちロシアへ戻る。
1917
ニーナ・アンドレエフスカヤと結婚。ロシア革命後、美術教育・文化行政に関わる。
1919
MoMAによれば、Museums of Painterly Cultureの初代責任者として地域美術館ネットワークの形成に携わる。
1920
モスクワの芸術文化研究所(INKhUK)の初代責任者となる。
1921
ロシアを離れドイツへ。
1922
バウハウス教員となる。
1923
《Composition 8》を制作。
1925
バウハウスがデッサウへ移転。《Yellow-Red-Blue》を制作。
1926
『点・線・面』を出版。《Several Circles》を制作。
1933
ナチス政権下でバウハウスが閉鎖。フランスへ移住しヌイイ=シュル=セーヌに定住。
1937
ナチスの「退廃芸術」政策により、ドイツの公的コレクションにあった作品が没収される。
1939
フランス国籍を取得。《Composition X》を制作。
1944
12月13日、ヌイイ=シュル=セーヌで死去。

参考資料・出典

本ページはThe Museum of Modern Art、Solomon R. Guggenheim Museum、Centre Pompidou、Lenbachhaus、State Tretyakov Gallery、Kunstsammlung Nordrhein-Westfalenなどの美術館・所蔵館資料を参照してART LIBRARYが独自に執筆しました。原文の全文翻訳ではありません。

資料確認日:2026年10月1日 / ART LIBRARY