Art Library

Tsuguharu Foujita

藤田嗣治

日本/フランス / 1886–1968 / École de Paris/洋画/宗教画

École des Modernités | Toshio Shimizu | Foujita and Paris – Modernity and the Japanese painter (Fondation Giacometti)

Tsuguharu Foujita(藤田嗣治、1886–1968)は、東京美術学校で西洋画を学んだ後、1913年にParisへ渡り、日本の線描と西洋油彩を組み合わせた独自の絵画によってÉcole de Parisを代表する存在となった画家です。1920年代に確立した「乳白色の下地」は、油彩でありながら和紙や絹の白地を思わせる滑らかな画面に、面相筆のような細い黒線を重ねるもので、裸婦、猫、自画像を通して国際的な名声を得ました。しかし藤田の画業は、華やかなMontparnasseだけでは完結しません。1930年代には中南米、中国、日本を移動しながら色彩豊かな風俗画や壁画へ展開し、戦時下には国家の依頼を受けて大画面の戦争記録画を多数制作しました。戦後、その責任をめぐる議論の中で日本を離れ、1950年にFranceへ戻り、1955年にフランス国籍を取得、1959年にカトリックへ改宗してLéonard Foujitaとなりました。

藤田を理解するうえで重要なのは、「東洋と西洋を融合した画家」という説明だけで満足しないことです。彼は自らの日本人性をParisで戦略的に可視化し、おかっぱ頭、丸眼鏡、猫、細い筆、独特な服装を含めた自己像を作りました。同時に、裸婦の白い肌、壁画、写真、自画像、戦争画、宗教画、建築まで、時代に応じて表現を大きく変えています。2025–26年に各地を巡回した《藤田嗣治 絵画と写真》は、藤田自身が撮影した写真や、写真から絵画を構成した制作過程を再評価し、2026年岩手県立美術館《藤田嗣治「7つの情熱」》では約140点から「自己表現」「風景」「前衛」「東西」「女性」「子ども」「天使と天国」という複数の側面が検証されました。現在の藤田像は、乳白色の裸婦だけでなく、写真家、旅行者、自己演出家、戦争画家、宗教画家、建築の構想者まで含む複雑なものへ更新されています。

生涯と制作の変遷

1886年、東京に生まれる

藤田嗣治は1886年11月27日、東京に生まれました。父・藤田嗣章は後に陸軍軍医総監となる人物で、藤田は比較的恵まれた家庭環境で育ちます。1905年に東京美術学校西洋画科へ入学し、黒田清輝らから当時の日本で制度化されつつあった洋画教育を受け、1910年に卒業しました。

しかし、学校で身につけた画風は国内の文展などで思うように評価されませんでした。藤田は「日本で西洋画を学び、西洋の基準で評価される」だけでは自分の位置を作れないと感じ、Paris行きを目指します。この問題意識は、後に「日本的な線」をParisの油彩へ持ち込む逆転につながります。

東京美術学校――西洋画を学ぶ

明治以降の東京美術学校西洋画科は、西洋絵画を日本へ導入するための中心的制度でした。藤田はそこで写実的な油彩、遠近法、人体表現を学びます。しかし後にParisで成功した作品は、学校で教わった厚い油絵具や色彩豊かなモデリングとは大きく異なります。

この反転が重要です。藤田は日本画家としてParisへ行ったのではなく、西洋画を学んだ日本人画家として西洋へ入り、その内部で自分自身を差別化するために、日本の筆線や白地を再発見しました。「日本らしさ」は出発点から自然に持っていた本質というより、異文化の中で意識的に作り直された表現でした。

1913年Parisへ――学んだ技法を捨てる

1913年、26歳の藤田はFranceへ渡り、Parisへ到着しました。Fondation Foujitaの伝記では、到着後にPicassoの作品やatelierを見た経験が、藤田に日本で学んだ技法を一度捨てる決意を促したことが紹介されています。CubismやFauvism、École de Parisの多様な実験を目の前にし、学校で習った西洋画をそのまま続けてもParisでは新しくならないことを理解したのです。

翌1914年には第一次世界大戦が始まり、日本からの仕送りも滞って生活は困窮します。兵庫県立美術館は、この1913–18年を「模索の時代」と位置づけています。藤田は立体派風の作品、日本的主題、宗教画、風景などを試し、自分だけの画面を探しました。

Montparnasse――異邦人画家たちの中へ

当時のMontparnasseにはModigliani、Soutine、Zadkine、Pascin、Laurencinなど、France国外から来た芸術家が集まっていました。後に「École de Paris」と呼ばれるこの環境では、一つの共通様式より、異なる出自を持つ作家がParisという場で並行して活動すること自体が特徴でした。

藤田にとって重要だったのは、単に有名作家と友人になることではありません。同じParisで競争する中、自分にしかできない視覚言語を作る必要がありました。おかっぱ頭、丸眼鏡、耳飾り、手製の服装など独特な外見も、この競争の中で自らを記憶させる方法として機能しました。

1917年初個展と1919年Salon d’Automne

1917年、ParisのGalerie Chéronで初個展を開催しました。東京文化財研究所の年譜によれば、Picassoとも関係の深い批評家André Salmonが目録序文を執筆しています。1918年には同画廊で2度目の個展を開き、少しずつ名前が知られるようになります。

1919年、第一次世界大戦後最初のSalon d’Automneへ6点を出品し、すべて入選、その年に会員へ推挙されました。これは藤田にとって大きな転換点です。数年の模索を経てParisの公的な美術制度に認められ、1920年代の爆発的成功へ入ります。

乳白色の下地――何が新しかったのか

1920年代初頭、藤田は後に「乳白色の下地」と呼ばれる独特な画面を確立しました。ポーラ美術館の技法研究によれば、一般的な粗い油彩キャンバスではなく、シャツなどに使われる細かな布を支持体に使い、白い下地へタルクを含む素材を加えることで、透明感のある滑らかな肌を作っていました。

この白地は単なる背景色ではありません。人物の肌そのものが白地と連続し、その上へ細い黒線と淡い陰影を置くことで、油彩なのに紙へ墨で描いたような軽さが生まれます。西洋油彩の「塗る」方法に、日本絵画の白い支持体を生かす発想を接続しました。

当時のParisではMatisseやBraqueらの強い色彩や大きな筆触が広がっていました。藤田は逆に、色を抑え、白と黒、細い線で目立つ方法を選びました。これは日本的伝統への回帰であると同時に、Parisの美術市場で他者と違う画面を作るきわめて戦略的な選択でした。

線――日本画でも西洋画でもない輪郭

藤田の裸婦を見ると、身体は厚い絵具で立体化されるより、細い黒線で輪郭づけられています。Musée d’Art Moderne de Paris所蔵《Nu couché à la toile de Jouy》では、白い身体の周囲を刃物のように細く均一な線が走り、シーツの皺には繊細な陰影が加えられています。

この線は浮世絵や日本画を連想させますが、そのまま伝統技法を移したものではありません。油彩キャンバスという西洋絵画の物質へ細筆を適用し、線と白地を主役へした点に独自性があります。

藤田自身は、線を単なる外形ではなく、対象の本質を捉えるものと考えていました。輪郭線を極端に洗練することで、肌の柔らかさ、髪、猫の毛、布の皺を少ない情報で成立させます。

裸婦――KikiとParisでの成功

1920年代の藤田を一躍有名にしたのが裸婦でした。日本近代絵画にも裸婦は導入されていましたが、藤田はParisで実際のモデルを前に、西洋絵画史の裸婦像を日本的線描で描き直します。

1922年《Nu couché à la toile de Jouy》では、Manet《Olympia》、IngresやTitianのodalisqueを思わせる横たわる裸婦を、乳白色と黒線によって極端に平面化しました。Musée d’Art Moderne de Parisは、モデルがKiki de Montparnasseとされること、Toile de Jouyの布と白黒の身体が強い対比を作ることを解説しています。

ここでは西洋の裸婦を「日本風に装飾した」のではありません。油彩画の歴史的主題そのものを、異なる表面、異なる線、異なる身体の見え方へ変えました。そのため作品はParisの観客に「異国的」であると同時に、現代的な絵画として受け取られました。

《五人の裸婦》――白い身体を構成する

1923年《五人の裸婦》は東京国立近代美術館所蔵の大作で、169×200cmの画面に5人の女性を配置しています。同年のSalon d’Automneへ出品されました。

一人のモデルへ視線を集中する裸婦とは異なり、複数の身体が平面的なリズムを作ります。白い肌、布、黒い髪、細線が繰り返され、画面全体が装飾的でありながら緊密に構成されています。

この作品は、藤田の乳白色が「肌を美しく描く特殊技法」にとどまらず、複数人物を統一する画面構造として完成していたことを示します。

猫――分身、署名、身体感覚

猫は藤田の代表的モチーフです。女性の身体へ寄り添う猫、自画像の肩に乗る猫、単独で描かれた猫、戦時期に争う猫まで、生涯を通して繰り返し登場します。

国立西洋美術館所蔵《猫》(1923)では、毛の柔らかさと身体の量感を、細い線と限定的な色彩で表しています。また1926年の《自画像》の解説では、藤田自身が「女と猫」で評判になったことを回想しています。

猫は可愛らしい添え物だけではありません。気まぐれで自立し、身体の曲線が線描へ適している動物であることに加え、藤田自身の分身や署名のような役割を持ちます。1940年《猫》では、愛らしいモチーフだった猫たちが激しく争う姿へ変わり、時代の緊張と重なります。

自画像――画家自身を作品化する

藤田は数多くの自画像を制作しました。おかっぱ頭、丸眼鏡、口髭、筆、猫、atelierという要素を繰り返し、自分自身を簡単に認識できる像として作りました。

1923年《Self-Portrait with Objects》では、顔だけでなく画材や身の回りの物が配置され、画家としての自己像が一種のブランドのように構成されています。1926年の国立西洋美術館所蔵《自画像》では猫が肩へ寄り添い、藤田作品の代表モチーフが作者自身と一体化します。

この自己像は偶然生まれたものではありません。Parisで多数の芸術家が競う中、「Foujita」を一目で識別できる人物像へしたことは、作品の流通と同じくらい重要な戦略でした。

写真と自己演出――「Foujita」という像を作る

2025–26年《藤田嗣治 絵画と写真》は、藤田の活動を「写真に撮られる画家」「写真から描く画家」「写真を撮る画家」という3つの視点から再検討しました。藤田の外見が世界的に知られた背景には、新聞や雑誌に繰り返し掲載された肖像写真があります。

さらに藤田自身もカメラを使い、1930年代の中南米旅行、日本各地、アジア、戦後のEuropeで大量の写真を残しました。東京藝術大学には1930–68年の日記、手稿、写真、映像を含む5,808件の資料が保存されています。

写真は単なる旅の記念ではありませんでした。撮影した人物や街の部分を組み合わせ、後の絵画構成へ利用した例が研究によって確認されています。藤田は「観察したものを直接描く」だけでなく、写真を記憶の断片として再編集する画家でもありました。

藤田嗣治の作品をどう見るか

まず、「日本と西洋の融合」という便利な言葉だけで終わらせないことが重要です。どの部分が日本的で、どの部分がParisの美術市場や西洋絵画史に反応しているのかを見る必要があります。乳白色の下地、細線、裸婦という三要素だけでも、異なる文化的制度が重なっています。

次に、技法と自己演出を分けないことです。藤田の服装、自画像、猫、丸眼鏡は作品外の逸話ではなく、「Foujita」という作者像を作り、作品を見つけてもらうための視覚戦略でした。

そして、1920年代だけを完成形と考えないことです。中南米で色彩が変わり、日本で壁画へ拡大し、戦時下では死を描き、戦後は宗教画へ向かいます。表面の美しさだけでは説明できない変化が、時代とともに続いています。

主要作品

1918年《パリ風景》から、乳白色の裸婦、《五人の裸婦》、猫、自画像、1937年《秋田の行事》、戦時期の《猫(争闘)》《アッツ島玉砕》、戦後New Yorkで描いた《Au café》、晩年の宗教画まで、藤田がParisの若手画家から国際的成功、壁画・戦争画、Léonard Foujitaへ変化していく過程が追える12点を選びました。

パリ風景

Street in Paris / 1918 / 油彩、キャンバス / 84.0 × 103.5 cm

The National Museum of Modern Art, Tokyo

Paris到着後の長い模索期に制作された風景。後の乳白色の裸婦ほど様式は固定されておらず、藤田が日本で学んだ洋画を離れ、Parisの前衛美術の中で自分の画面を探していた時期を示します。1919年Salon d’Automneでの成功直前の重要作です。

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ベッドの上の裸婦と犬

Nude on a Bed with a Dog / 1921 / 油彩、キャンバス / 約89 × 116 cm

Pola Museum of Art

藤田が乳白色の下地と細い輪郭線による裸婦表現を確立した初期の代表作。白い身体を厚い油彩で立体化せず、滑らかな下地と線で浮かび上がらせます。西洋裸婦の主題へ日本的な白地と線描を接続し、Parisでの成功を決定づけた時期の作品です。

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ジュイ布のある横たわる裸婦

Nu couché à la toile de Jouy / 1922 / 油彩、インク、木炭、鉛筆、キャンバス / 130 × 195 cm

Musée d’Art Moderne de Paris

Kiki de Montparnasseがモデルとされる藤田の代表的裸婦。ManetやIngresら西洋絵画史の裸婦を参照しながら、乳白色の身体と極細の黒線、Toile de Jouyの装飾を組み合わせます。東西融合という言葉以上に、Parisの美術史の内部へ異なる表面を持ち込んだ作品です。

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五人の裸婦

Five Nudes / 1923 / 油彩、キャンバス / 169.0 × 200.0 cm

The National Museum of Modern Art, Tokyo

1923年Salon d’Automneへ出品された大作。5人の裸婦を白い肌、黒い髪、細線の反復によって構成し、乳白色の技法を一人の身体から複数人物の画面構造へ拡張しました。1920年代Foujitaの完成期を示す代表作です。

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猫

Cat / 1923 / 油彩、キャンバス / 35.0 × 27.0 cm

The National Museum of Western Art, Tokyo

藤田が生涯繰り返した猫を単独で描いた油彩。柔らかな毛や身体の丸みを、限定された色と細い線で表現しています。裸婦と並んで猫はFoujitaを一目で認識させるモチーフとなり、自画像では作者自身の分身・署名のような役割も持ちました。

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横たわる裸婦(夢)

Reclining Nude (Dream) / 1925 / 油彩、キャンバス / 142.0 × 123.0 cm

The National Museum of Art, Osaka

Paris画壇での名声が頂点に達した時期の裸婦。乳白色の肌、細線、布の陰影が高度に洗練され、油彩の物質感を抑えながら身体の存在感を作ります。1925年、藤田はFranceでLégion d'honneur Chevalierを受章しました。

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自画像

Self-Portrait / 1926 / 複合技法、紙 / 27.5 × 22.3 cm

The National Museum of Western Art, Tokyo

丸眼鏡、おかっぱ頭、猫というFoujitaの自己像を示す作品。藤田は絵画だけでなく外見や写真を通して作者像を積極的に作りました。Parisで多くの芸術家と競う中、「Foujita」という人物自体を視覚的に記憶させる自己演出の重要性が分かります。

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秋田の行事

Events in Akita / 1937 / 油彩、キャンバス / 365.0 × 2050.0 cm

Masakichi Hirano Memorial Art Foundation / Akita Museum of Art

秋田の祭り、生活、労働を全長20m超の画面へ描いた巨大壁画。1920年代の一人の裸婦から、多数の人物を統合する群像構成へ制作を拡張しました。この大画面経験は、数年後の戦争記録画の構成にもつながる重要な転換です。

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猫(争闘)

Cats / 1940 / 油彩、キャンバス / 81.0 × 100.0 cm

The National Museum of Modern Art, Tokyo

通常は愛らしく描かれる猫たちが激しく争う作品で、1940年二科展では《争闘》として発表されました。第二次世界大戦が拡大する時期に、藤田の代表モチーフが不穏な群像へ変化しています。戦争記録画へ本格的に入る直前の緊張を感じさせる作品です。

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アッツ島玉砕

Final Fighting on Attu / 1943 / 油彩、キャンバス / 193.5 × 259.5 cm

The National Museum of Modern Art, Tokyo

Attu Islandで日本軍守備隊が壊滅した戦闘を描いた戦争記録画。敵味方の身体が暗い画面で密集し、国家が掲げた「玉砕」の英雄化と、大量死の視覚的な凄惨さが同時に存在します。藤田の戦争協力と絵画的達成を分けずに検討する必要がある重要作です。

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カフェにて

Au café / 1949 / 油彩、キャンバス / 76 × 64 cm

Centre Pompidou, Paris

日本を離れてNew Yorkに滞在していた時期に、戦前のMontparnasseを記憶から描いた作品。白い画面、細線、一人の女性という1920年代の視覚言語へ戻り、Franceへの帰還を前に自らの絵画を再構成しました。戦争画から戦後作品への転換を示します。

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二天使に冠を授けられる聖母

Vierge couronnée par deux anges / 1962–1963 / 油彩 / 公式作品ページに個別寸法記載なし

Musée d’Art Moderne de Paris

1959年のカトリック改宗後に制作された晩年の宗教画。旧題《礼拝》としても知られます。西洋キリスト教図像を扱いながら、Foujita特有の細線と静かな人物表現を維持し、1965–66年のChapelle Foujitaへ向かう宗教的制作の成熟を示します。

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1930年代――中南米への旅

1929年、藤田は16年ぶりに一時帰国して大規模な凱旋展を行い、翌年Parisへ戻りました。しかし1931年、長く暮らしたParisを離れ、Madeleine LequeuxとともにBrazilへ向かい、その後Argentina、Bolivia、Peru、Cuba、Mexico、United Statesを移動します。

Fondation Foujitaはこの旅を、藤田の国際的成功が各地へ広がった時期として位置づけています。一方、作品面では1920年代の白と黒を中心とする画面から、褐色の肌、強い太陽、衣服、祭り、市場などを鮮やかな色で描く方向へ変化しました。

東京国立近代美術館所蔵《ラパスの老婆》(1932)は、墨と水彩を使った大判素描です。Parisの白い裸婦とは異なる顔貌と衣服を、旅先で出会った人物の具体的な存在として捉えています。藤田が一つの成功様式だけに留まらず、移動によって画面を変化させたことが分かります。

色彩の変化――乳白色から風俗画へ

1930年代の変化で重要なのは、乳白色の放棄ではなく、環境に応じて色彩体系を切り替えたことです。兵庫県立美術館は、この時期を「さまよう画家」と位置づけ、中南米、中国、日本を移動するにつれて、1920年代には見られなかった鮮烈な色彩の風俗画が現れたと説明しています。

藤田は「自分の様式」を一つの外観へ固定しませんでした。Parisで評価された白い肌を繰り返す方が市場的には安全でしたが、旅先では現地の色、人物、街の動きを積極的に取り入れます。

この柔軟さは後の戦争画にもつながります。藤田にとって技法は作者の署名である一方、主題に応じて変えられる道具でもありました。

1933年帰国――日本での壁画制作

1933年11月、藤田は再び日本へ帰国し、翌1934年に二科会会員となりました。Parisの成功者として帰国した藤田は、日本の画壇で異例の国際的名声を持つ存在でした。

1930年代半ばには、銀座の店舗装飾、壁画、日本各地への旅行を行い、巨大画面へ関心を向けます。Parisの裸婦で磨いた細線とは対照的に、遠くから見ても成立する大きな人物群像や風俗画を制作しました。

この大画面制作の経験は、1937年《秋田の行事》を経て、戦時下の巨大な戦争記録画へ接続していきます。

《秋田の行事》――20メートルの壁画

1937年、秋田の資産家・平野政吉の依頼と協力によって《秋田の行事》を制作しました。秋田県立美術館によれば、作品は365×2050cm、全長20mを超える巨大壁画です。2月から3月にかけ、平野家の米蔵で制作されました。

画面には秋田の祭り、暮らし、労働、行事が多数の人物によって連続的に描かれます。一人の裸婦を集中して見る1920年代の作品とはまったく異なり、複数の出来事を大画面へ統合する構成力が必要です。

藤田と平野は、この大壁画を展示する美術館の建設まで構想しました。戦時体制のため当初の計画は中断しますが、約30年後の1967年、平野政吉コレクションを中心とする秋田県立美術館の開館によって一部が実現しました。

写真――絵画制作のための記憶装置

2025–26年の巡回展《藤田嗣治 絵画と写真》によって、1930年代以降の藤田が写真を本格的に利用していたことが広く紹介されました。茨城県近代美術館は、中南米旅行後、日本国内やアジア各地を訪れた際のモノクロ写真、戦後Europeで撮影したカラー写真を展示しました。

藤田は写真をそのまま写し取るだけではなく、複数写真の人物や背景を組み合わせて絵画へ再構成しました。記憶だけでは捉えられない細部を保存し、後でatelierに持ち帰るための視覚資料として写真を使ったのです。

同時に、藤田自身の写真にも構図や光への強い感覚があります。写真は絵画の補助資料というだけでなく、世界を見る別の方法として独立した価値を持つことが、近年の研究で強調されています。

戦争画――国家と画家

1938年、藤田は従軍画家として中国大陸へ赴き、その後、陸軍・海軍の依頼を受けて多数の戦争記録画を制作しました。東京藝術大学の公式資料は、1940年の帰国後、帝国芸術院会員となり、陸軍省の依頼で各地戦線へ派遣され、大画面の戦争記録画を多数描いたことを記録しています。

ここで「仕方なく国家に利用された画家」とだけ説明するのは不十分です。藤田は与えられた制作機会へ積極的に取り組み、自らの大画面構成力と西洋絵画研究を投入しました。その一方で、戦争画の中には単純な勝利のプロパガンダとは異なり、死体、混乱、敗北、民間人の死を正面から描くものもあります。

その矛盾を消さないことが重要です。国家の戦争遂行へ協力した作品であることと、絵画として死の現実を強烈に表現したことは、同時に成立します。

《アッツ島玉砕》――勝利ではなく死を描く

1943年《アッツ島玉砕》は、193.5×259.5cmの巨大な油彩です。AlaskaのAleutian列島Attu Islandで日本軍守備隊が壊滅した戦闘を題材とし、戦時中の「決戦美術展」へ出品されました。

画面では日本兵とアメリカ兵の身体が暗い地面で絡み合い、誰が勝者なのかを一目で判別することが難しいほど、死と格闘が密集しています。RenaissanceやBaroqueの大規模な宗教画・戦闘画を思わせる構成を、日本の現代戦へ適用しています。

「玉砕」という国家的言葉は兵士の死を英雄化しますが、絵そのものは大量の死体を観客へ突きつけます。戦意高揚画として展示された作品が、同時に戦争の凄惨さを可視化してしまうところに、この作品の複雑さがあります。

《サイパン島同胞臣節を全うす》――民間人の死

1945年《サイパン島同胞臣節を全うす》は181×362cm、横3.6mを超える作品です。Saipanでの戦闘だけでなく、島にいた日本人民間人の集団死を含む場面を描いています。

この作品では戦場の兵士だけでなく、女性や子どもを含む民間人の死が主題になります。題名は戦時下の国家的価値観をそのまま含みますが、画面に現れるのは理想化された勝利ではありません。

このような作品を見るとき、絵画の迫力によって国家宣伝としての機能を忘れてはいけません。同時に、宣伝画だから芸術的検討をする必要がないと切り捨てても、当時の絵画がどのように死を視覚化したかを理解できません。藤田の戦争画は、その両方を考える必要がある資料です。

戦後の責任論――評価を単純化しないために

敗戦後、戦争画を中心的に制作した藤田は、画壇内で戦争協力責任を問う議論の対象となりました。兵庫県立美術館は、戦争画制作の責任を問う議論の数々に傷ついた藤田が1949年に日本を離れたと説明しています。

しかし、「藤田一人が戦争画の責任を背負わされた」とする物語だけでも不十分です。戦争画は多数の画家が軍や国家機関と関わって制作した制度的な事業でした。その中で藤田が特に高い技量と意欲をもって大作を制作し、象徴的な存在になったため、戦後の議論でも中心に置かれました。

現在の評価では、藤田を一方的な被害者にも、単純な戦争宣伝者にも固定せず、画家が国家制度の中でどのように自己実現と協力を重ねたかを見る必要があります。この時期を避けると、1920年代の華やかな成功と晩年の「平和の祈り」の間が理解できません。

1949年――日本を離れる

1949年、藤田は日本を離れてNew Yorkへ向かい、翌1950年2月14日にFranceへ戻りました。その後、日本へ帰ることはありませんでした。

日本を離れた理由には、戦後の責任論、画壇との関係、そしてParisへ戻りたいという長年の思いが重なっています。戦前の名声の場所へ単純に戻ったわけではなく、第二次世界大戦によってEuropeもParisも大きく変化していました。

それでも藤田は、裸婦、子ども、猫、古いParisの街など、自分の過去と結びつく主題を再び描き始めます。戦争画の暗い大画面から、白い画面と細線へ戻ることは、技法上の変化であると同時に人生の再構成でもありました。

《Au café》――記憶のParisを描く

1949年《Au café》はCentre Pompidou所蔵作品で、藤田がまだNew Yorkにいた時に描かれました。画面には一人の女性がParisのcaféに座っているように描かれ、乳白色、平面的な遠近、細線という1920年代の特徴が戻っています。

Centre Pompidouは、この作品を戦前に暮らしたMontparnasseの記憶を描いたものとして説明しています。つまり実景のParisではなく、まだ戻れていない都市を記憶から描いた絵です。

戦時中の大画面群像から一人の女性へ戻ることは、単なる懐古ではありません。藤田が「自分の絵画とは何だったのか」をNew Yorkで再確認し、Franceへ戻る準備をするような作品と見ることができます。

1955年フランス国籍取得――Léonardへ

1950年にFranceへ戻った藤田は、1955年2月28日にフランス国籍を取得しました。Fondation Foujitaは、この帰化を晩年の重要な転換点として位置づけています。

藤田は日本人としてParisで成功し、その日本人性を作品と自己演出の武器にしてきました。その人物が最終的に日本国籍を離れ、Franceを法的な祖国として選ぶことは単純ではありません。

ただし、フランス国籍取得によって日本文化との関係を捨てたわけではありません。線描、東洋的な平面性、工芸への関心は晩年まで続き、むしろ宗教画や礼拝堂の中でItalian Renaissanceと日本的感覚を組み合わせる方向へ進みます。

1959年カトリック改宗――宗教画の時代

1959年10月14日、藤田は妻・君代とともにReims Cathedralでカトリックの洗礼を受け、敬愛するLeonardo da Vinciにちなみ「Léonard」という洗礼名を得ました。

同年の《聖母子》は洗礼の日付とLéonard Foujitaの名を記し、Reims Cathedralへ献納されました。晩年にはMadonna、Christ、天使、黙示録など、それまで比較的少なかった宗教主題が中心になります。

兵庫県立美術館は、この晩年を「平和の祈り」と位置づけています。しかし戦争画を描いた過去から宗教画へ転じたことを、単純な贖罪の物語へ限定するべきではありません。藤田は若い頃から宗教画を試しており、Italy Renaissanceへの関心も長く持っていました。晩年の信仰は、過去の経験と既存の美術史への関心が一つへ集約されたものです。

Chapelle Foujita――最後の総合芸術

1965–66年、藤田はReimsにChapelle Notre-Dame-de-la-Paix、通称Chapelle Foujitaを構想・装飾しました。Reims市美術館によれば、藤田自身が建築計画から内部装飾まで関わり、80歳で初めて本格的なフレスコ画へ挑戦しました。

壁面には聖母、最後の晩餐、七つの大罪、黙示録などが描かれ、ステンドグラス、扉、装飾、彫刻、鉄工まで全体が一つの空間として設計されています。日本文化とItalian Renaissanceへの参照が一つの建築内部へ統合されました。

特に重要なのは、ステンドグラスの一部が戦争とHiroshimaの惨禍を想起させる点です。1920年代の裸婦、1940年代の戦争画、1950年代以降の信仰が、最晩年の「平和の聖母」礼拝堂で一つの空間へ集約されます。

礼拝堂は1966年10月1日に献堂されました。藤田と君代は現在ここに埋葬されています。絵画だけでなく建築、壁画、工芸、光を統合した、藤田の最後の総合芸術です。

Maison-atelier Foujita――生活と制作を設計する

1960年、藤田はParis郊外Villiers-le-Bâcleに18世紀の小さな農家を購入し、1961年から最後の住居兼atelierとして使いました。現在のMaison-atelier Foujitaです。

藤田は画家だけでなく、服、家具、小物、陶器を自ら作ることを好みました。Fondation Foujitaは彼を、画家、版画家、彫刻家、陶芸家、写真家、スタイリスト、デザイナーなど多面的な創作者として紹介しています。

Maison-atelierでは、生活空間と制作空間が分離していません。壁、家具、衣服、道具を含めて自分の視覚世界を作る態度は、Chapelle Foujitaにもつながります。「絵画の外側」を自ら設計するという点で、晩年の藤田は総合的な空間作家として見ることができます。

2025–26年――写真と複数の「情熱」から再評価する

2025年7月、東京ステーションギャラリーから《藤田嗣治 絵画と写真》が始まり、その後、名古屋市美術館、茨城県近代美術館、2026年4–6月の札幌芸術の森美術館へ巡回しました。展覧会は、藤田が写真に「撮られる」、写真から「描く」、自ら写真を「撮る」という3方向から画業を再検討しました。

これまで藤田の写真は、絵画研究の補助資料として扱われがちでした。しかし東京藝術大学に残る膨大な写真・映像資料と照合することで、旅先の視覚を保存し、人物や背景を後の絵画へ組み込む方法が明確になっています。

また2026年4月17日から6月7日まで岩手県立美術館で《藤田嗣治「7つの情熱」》が開催されました。約140点を「自己表現」「風景」「前衛」「東西」「女性」「子ども」「天使と天国」という7視点に分け、1920年代の裸婦だけではない画業を提示しました。

こうした近年の展覧会によって、藤田は「乳白色の裸婦を描いたParisの人気画家」という単純な像から離れつつあります。世界を移動し、写真を使い、時代ごとに画風を変え、国家と戦争へ関わり、最後にはFranceで宗教と建築へ向かった20世紀の複雑な越境者として再評価されています。

藤田嗣治は何を変えたのか

第一に、西洋油彩の内部で「日本的な線と白」を新しい現代絵画へ変えました。日本画をそのまま輸出するのではなく、油彩キャンバスの物質を改造し、Parisの裸婦という西洋絵画史の中心的主題へ適用したことが革新的でした。

第二に、作者自身の外見を作品の流通と結びつけました。おかっぱ、丸眼鏡、猫、服装、自画像、写真を通じて「Foujita」という一目で分かる像を作り、現代的なアーティスト・セルフブランディングを非常に早く実践しました。

第三に、一つの成功様式へ留まりませんでした。Parisの乳白色、中南米の色彩、日本の壁画、戦争記録画、戦後の子どもやParis、宗教画へと、人生の環境が変わるたび画面も大きく変化します。

第四に、写真を絵画と並行する視覚装置として使いました。自分自身を写真によって流通させるだけでなく、旅先を撮影し、絵画の素材として再編集しました。近年の研究によって、藤田の作品形成に写真が深く関与していたことが見え始めています。

第五に、戦争画によって「芸術家と国家」の問題を避けられない形で残しました。《アッツ島玉砕》《サイパン島同胞臣節を全うす》は、国家の戦争遂行に協力した作品であると同時に、大量死を美術史的な大画面へ変換した強烈な絵画です。その矛盾は、戦争期の芸術を考える重要な事例になっています。

第六に、晩年には絵画を建築・工芸・信仰へ広げました。Chapelle Foujitaは、画家が壁に作品を掛けるのではなく、建物、フレスコ、ステンドグラス、装飾を一つの世界として構成した仕事です。

藤田嗣治の重要性は、「東洋と西洋を融合した」ことだけではありません。Parisで自分の出自を意識的に再設計し、日本へ戻れば別の大画面を作り、戦争と国家へ関わり、戦後にはFranceと信仰を新しい帰属先として選びました。そのたびに「自分はどこに属する画家なのか」を絵画によって作り直したことこそ、藤田の20世紀的な核心です。作品の美しさと人生の矛盾をどちらも削らずに見ることで、Foujitaという作家の複雑さが初めて見えてきます。

略年譜

1886
11月27日、東京に生まれる。父・藤田嗣章は後に陸軍軍医総監となる。
1905
東京美術学校西洋画科へ入学し、黒田清輝らに学ぶ。
1910
東京美術学校卒業。国内の文展などへ出品を続ける。
1913
Franceへ渡りParisに定住。Picasso、Modigliani、Soutine、Zadkineらと知り合う。
1914–1918
第一次世界大戦と困窮の中、Cubism、日本的主題、宗教画など多様な表現を試す。
1917
Galerie Chéronで初個展。André Salmonがカタログ序文を執筆。
1919
Salon d’Automneに初出品し6点すべてが入選、会員に推挙される。
1920–1922
乳白色の下地と極細の線による裸婦表現を確立。Kiki de Montparnasseらをモデルとする作品で名声を得る。
1923
《五人の裸婦》《猫》などを制作。Lucie Badoudと出会い、Youkiと名づける。
1925
FranceでLégion d’honneur Chevalierを受章。《横たわる裸婦(夢)》などを制作。
1926
国民美術協会Salonの審査員となり、猫を伴う自画像を多数制作。Paris画壇での名声が頂点へ達する。
1929
16年ぶりに日本へ一時帰国し、Tokyo、大阪、福岡などで展覧会。翌年Parisへ戻る。
1931–1933
MadeleineとともにBrazil、Argentina、Bolivia、Peru、Cuba、Mexico、United Statesを旅し、色彩豊かな風俗作品を制作。
1933
日本へ帰国。以後、日本を主要拠点として活動。
1934
二科会会員となる。日本、中国など各地を旅行し、壁画・風俗画を制作。
1937
平野政吉の協力を得て、秋田で全長20m超の《秋田の行事》を制作。
1938
従軍画家として中国大陸へ赴き、戦争記録画制作へ関わり始める。
1939
君代とParisへ戻る。
1940
第二次世界大戦のためFranceを離れ、日本へ帰国。《猫(争闘)》制作。
1941–1945
陸軍・海軍の依頼で戦地へ赴き、大画面の戦争記録画を多数制作。
1943
《アッツ島玉砕》制作。決戦美術展で発表。
1945
《サイパン島同胞臣節を全うす》制作。終戦後、戦争画制作の責任をめぐる議論の中心となる。
1949
日本を離れてNew Yorkへ。《Au café》など戦前Parisを回想する作品を制作。
1950
2月14日、君代とFranceへ最終的に帰国。以後日本へ戻らない。
1955
2月28日、フランス国籍を取得。
1959
10月14日、Reims Cathedralで君代とともにカトリックの洗礼を受け、Léonard Foujitaとなる。《聖母子》を大聖堂へ献納。
1960
Villiers-le-Bâcleに18世紀の農家を購入。
1961
改修したMaison-atelier Foujitaへ移住。
1962–1963
《Vierge couronnée par deux anges(旧題:礼拝)》など宗教画を制作。
1965–1966
ReimsのChapelle Notre-Dame-de-la-Paixを構想し、建築・フレスコ・装飾を統合。1966年10月1日に献堂。
1968
1月29日、Zürichで死去、81歳。現在は君代とともにChapelle Foujitaに埋葬されている。
2011
君代から継承された著作権等を基礎にFondation Foujitaが設立される。
2018
没後50年を記念する大規模回顧展が東京都美術館、京都国立近代美術館で開催され、初期から晩年までを再検討。
2025–2026
《藤田嗣治 絵画と写真》が東京、名古屋、茨城、札幌を巡回。写真を撮られる/写真から描く/自ら撮るという3方向から画業を再評価。
2026
岩手県立美術館で《藤田嗣治「7つの情熱」》。約140点から自己表現、東西、女性、子ども、宗教など複数の側面を提示。

参考資料・出典

本ページはFondation Foujita、東京藝術大学大学美術館、東京国立近代美術館、国立西洋美術館、国立国際美術館、Musée d’Art Moderne de Paris、Centre Pompidou、ポーラ美術館、秋田県立美術館、兵庫県立美術館、Reims市美術館・Chapelle Foujita、東京ステーションギャラリー、茨城県近代美術館、札幌芸術の森美術館、岩手県立美術館等の美術館・公式機関資料を参照し、ART LIBRARYが独自に執筆しました。藤田嗣治を「乳白色の裸婦を描いたÉcole de Parisの画家」だけへ還元せず、東京美術学校、Parisでの自己形成、乳白色と線描、写真と自己演出、中南米旅行、日本での壁画、戦争記録画、戦後の責任論、フランス国籍取得、カトリック改宗、Chapelle Foujita、近年の写真研究までを連続する制作史として構成しています。原文の全文翻訳ではありません。

資料確認日:2026年10月4日 / ART LIBRARY