Art Library

Piet Mondrian

ピート・モンドリアン

オランダ / 1872–1944 / デ・ステイル/新造形主義(ネオ・プラスティシズム)

ピート・モンドリアン(Piet Mondrian、1872–1944)は、20世紀の抽象絵画を代表するオランダ出身の画家です。黒い水平・垂直線と、赤・青・黄の原色、白・灰色による幾何学的な画面は広く知られていますが、その様式は最初から存在したわけではありません。1890年代から1900年代には川、農場、風車、樹木、海岸を描く風景画家として活動し、1908年前後には強烈な色彩、1911年以降にはキュビスム、1914–17年には海や桟橋を水平・垂直の短い線へ還元する実験を経て、ようやく1920年代の新造形主義へ到達しました。

そのためモンドリアンを理解するうえで重要なのは、具象から抽象へ進んだ「結果」だけを見るのではなく、同じ自然のモチーフを何度も描き直しながら、何を残し、何を削除していったかを見ることです。《赤い木》《灰色の木》では一本の木がまだ見えますが、1913年の《Tableau No. 2 / Composition No. VII》では樹木の枝は黒い線のネットワークへ近づき、《Pier and Ocean 5》では桟橋と海がほぼ水平線と垂直線だけになります。1917年の《Composition with Color Planes 5》では、特定の自然物を識別すること自体が難しくなります。抽象は現実から逃げるためではなく、自然に存在する関係をより根本的な線、色、比率へ置き換えるために進められました。

1917年、モンドリアンはテオ・ファン・ドゥースブルフらと雑誌『De Stijl』を中心とする運動に参加します。やがて水平と垂直、長方形、原色と白・黒・灰色に限定した自らの理論を「Nieuwe Beelding」、フランス語では「Néoplasticisme」と呼びました。日本語では一般に「新造形主義」「ネオ・プラスティシズム」と訳されます。しかし、この厳格な造形は数学公式を機械的に当てはめたものではありません。MoMAの大回顧展が強調したように、制作過程には修正と直観が多く、線の位置、太さ、色面の比率、白の微妙な違いを繰り返し調整しながら、左右対称ではない「動的平衡」を探しました。

さらに、モンドリアンの成熟期を1920年代の黒いグリッドで止めて考えることもできません。1930年代には線を二重化し、色面を減らし、黄色い線だけを用いる作品まで試しました。1938年には戦争の危機からパリを離れてロンドンへ、1940年にはニューヨークへ移住します。そこでブギウギ、街路、電飾、交通のリズムから刺激を受け、黒線を色の小さな矩形へ分解しました。《Broadway Boogie Woogie》と未完の《Victory Boogie Woogie》では、かつて固定的に見えた格子が点滅し、移動し、音楽のように時間を持ち始めます。モンドリアンの到達点は「完璧なグリッド」ではなく、そのグリッド自身を最後にもう一度変化させることでした。

生涯と制作の変遷

1872年、アメルスフォールトに生まれる

ピート・モンドリアンは1872年3月7日、オランダのアメルスフォールトにPieter Cornelis Mondriaanとして生まれました。父は教師であり素描も教え、叔父Frits Mondriaanもハーグ派につながる画家でした。幼い頃から絵画に親しみながらも、家族の希望を受けてまず美術教師の資格を取得しています。

1892年、アムステルダムのRijksakademie van beeldende kunstenへ入り、1895年頃までアカデミックな訓練を受けました。若いモンドリアンが最初に制作したのは、後の抽象画とは大きく異なる写実的・自然主義的な風景です。アムステルダム近郊のGein川、農場、柳、風車などを繰り返し描き、販売可能な風景画家として徐々に評価を得ました。

1900年代初頭、風景を単純化し始める

Kunstmuseum Den Haagの年譜によれば、1900年頃からGein周辺の風景、風車、農家を多く描き、人間像は徐々に画面から消えていきます。自然を細部まで忠実に再現するより、水平な地平線、垂直な樹木や風車という大きな構造へ整理する傾向が強まりました。

後の水平・垂直だけの抽象画を見た後にこれらの風景を見ると、そこに「将来のグリッド」を見つけたくなります。ただし、若いモンドリアンが最初から1920年代の様式を予定していたわけではありません。自然の観察と、当時のオランダ絵画の伝統の中で少しずつ構成を単純化した結果、後から連続性が見えるのです。

1907–10年、色彩が急激に強くなる

1907年頃から、モンドリアンの色彩は大きく変化します。《Oostzijdse Mill in the Evening》や《Mill in Sunlight》では、風車が赤、青、黄、橙など強烈な色で描かれました。Kunstmuseumによれば、当時の批評家の中にはその色彩を理解できず、精神状態まで疑う者がいた一方、作家Isaac Queridoはその激しい色を高く評価しました。

1908年以降、海辺の町Domburgを繰り返し訪れ、Jan TooropやJacoba van Heemskerckらと接触します。夕暮れの光、砂丘、海、教会塔、樹木を単純な形と高彩度の色へ変換し、自然に見える「固有色」から離れ始めました。

1908–10年、《赤い木》

《Avond (Evening): The Red Tree》では、一本のリンゴの木が画面全体に大きく広がります。幹と枝は赤く、背景は青く、現実の色を再現していません。Kunstmuseumは、1905年および1908年にアムステルダムで紹介されたVan Gogh晩年作品との関係を指摘しています。

重要なのは、木を風景の一要素としてではなく、一つの構造として孤立させたことです。枝がどこで分岐し、画面の縁へどう広がるか。その関心が、後の《灰色の木》、そしてキュビスム期の樹木へ続きます。

精神世界への関心

この頃、モンドリアンは神智学に関心を深め、Theosophical Societyに参加します。Kunstmuseumは1908年頃からこの思想が制作へ大きな影響を与えたと説明しています。神智学は、目に見える現象の背後に普遍的な秩序があるという考えを含み、モンドリアンが後に自然の個別的外観から「普遍的な関係」へ進む思想的背景の一つになりました。

ただし、彼の抽象を神秘思想だけから説明することはできません。実際の制作では、自然観察、色彩実験、キュビスム、同時代の画家との交流、アトリエでの試行錯誤が具体的に作用しています。思想は作品を自動的に決める公式ではなく、彼が自らの造形変化を理解するための枠組みの一つでした。

1911年、《灰色の木》とキュビスムとの出会い

1911年、モンドリアンはアムステルダムでPicassoやBraqueを含むフランスのキュビスム作品を目にします。同年の《The Grey Tree》では、《赤い木》の強烈な色彩はほぼ消え、黒、白、灰色へ限定されます。樹木はまだ認識できますが、枝は太い曲線と短い線のネットワークへ変換されています。

Kunstmuseumは、この作品がパリ移住を準備していた時期に描かれたことを指摘しています。ほぼ40歳に近く、すでにオランダの風景画家として一定の評価を得ていたにもかかわらず、それまで築いた画風を捨て、新しい環境へ移る決断をしました。

1912年、パリへ

1912年1月、パリへ移住します。この頃から姓の綴りをオランダ語の「Mondriaan」から国際的な「Mondrian」へ変えました。Montparnasse近くの26 rue du Départにアトリエを構え、Picasso、Braqueの分析的キュビスムを研究します。

しかしキュビスムをそのまま模倣したわけではありません。Guggenheimが指摘するように、キュビスムがまだ人物や静物の量感、重力、奥行きを保持していたのに対し、モンドリアンは対象をさらに平坦化し、線の網を画面全体へ均等に広げました。木や建築を描くことから出発しながら、「何を描いたか」が判別できない地点へ急速に進みます。

1913年、《Tableau No. 2 / Composition No. VII》

この作品では、樹木を出発点とした黒い線が画面全体を覆い、褐色、灰色、淡い色面がその間を埋めます。Guggenheimは、分析的キュビスムの影響を明確に認めながらも、モンドリアンがパリのキュビスト以上に対象の識別可能性と奥行きを排除した点を強調しています。

キュビスムは目的地ではなく、自然を分解するための方法でした。モンドリアンはそこから、対象を再構成するのではなく、対象そのものを不要にする方向へ進みます。

1914年、第一次世界大戦でオランダに留まる

1914年夏、父を訪ねてオランダへ戻っていた際に第一次世界大戦が始まり、パリへ戻れなくなります。LarenやBlaricumに暮らし、約5年間オランダに留まりました。

この強制的な中断は制作上の転機になります。パリのキュビスム環境から離れ、北海や桟橋、教会のファサードなどを観察しながら、自然のモチーフを水平・垂直線だけへ置き換える試みを進めました。

1914–15年、《Pier and Ocean》

《Pier and Ocean 5 (Sea and Starry Sky)》では、下部から上へ伸びる桟橋を垂直線、海面を多数の短い水平線で示します。縦と横が交差する「プラス・マイナス」と呼ばれる構造が画面へ広がり、楕円形の範囲の中に光と海の運動が残ります。

ここでは抽象と自然がまだ完全には切れていません。題名を知れば桟橋と海を読み取れますが、視覚的には線の関係が主役です。モンドリアンは自然を描写することから、自然を成立させる対立関係を表すことへ移行していました。

1915–17年、完全な抽象へ

Kunstmuseumは1915年の《Composition No. 3 with Color Planes》を最初期の完全な抽象画として位置づけています。MoMAの1995年回顧展資料では、1914–15年の《Pier and Ocean》から1916–17年の《Composition in Line》、1917年の《Composition with Color Planes 5》へ進む過程で、図と地の区別が崩れ、色面そのものが独立した構成要素になったと整理されています。

1916年頃にはBart van der Leckと交流し、平坦で明快な原色の色面から刺激を受けます。モンドリアンの水平・垂直線と、Van der Leckの純粋な色面が結びつき、後のDe Stijlの造形言語へ近づきました。

1917年、De Stijl

1917年、Theo van Doesburgが雑誌『De Stijl』を創刊し、Mondrian、Bart van der Leck、Vilmos Huszár、建築家J.J.P. Oudらが参加しました。MoMAが説明するように、De Stijlは絵画の抽象化だけでなく、芸術と生活の隔たりをなくし、建築やデザインまで同じ造形原理で再編しようとする運動でした。

モンドリアンは同誌へ「De Nieuwe Beelding in de schilderkunst(絵画における新しい造形)」を連載し、自らの理論を文章化します。個別の自然物や主観的感情を超えて、垂直と水平、色と非色、大小の面が作る普遍的な均衡を目指しました。

1918–19年、グリッドの実験

戦争末期には、画面全体を均等な格子へ分割する「checkerboard」作品を制作しました。これは後の有名な非対称構図とは異なり、かなりシステム的です。

しかしモンドリアンは規則的な格子に留まりませんでした。1920年の《Composition C》では色が戻り、矩形の大きさや線の位置が不均等になります。完全な規則性ではなく、異なる要素が互いを打ち消しながら成立する「動的平衡」へ向かいます。

1919–20年、パリへ戻る

戦後パリへ戻り、再びrue du Départにアトリエを構えます。1920年頃から、水平・垂直の黒線、白・灰色、赤・青・黄の原色という造形言語が明確になります。

この頃の作品は現在「典型的なモンドリアン」として知られています。しかし彼は完成様式を得た後も、線の本数、太さ、交差、色面の位置、画面の向きを絶えず変えました。同じ様式を反復したのではなく、限られた語彙の内部で差異を作り続けたのです。

1921年、《Composition with Large Red Plane…》

Kunstmuseum所蔵の《Composition with Large Red Plane, Yellow, Black, Gray and Blue》では、大きな赤い面と小さな黄色・青・黒・灰色が、水平・垂直線によって不均等に配置されています。白も単一の白ではなく、微妙に異なる色調を持っています。

Kunstmuseumの調査は、モンドリアンが原色をチューブからそのまま使うのではなく、互いの関係に合わせて混色していたことを指摘しています。表面的には「赤・青・黄と黒線」という簡単な規則に見えても、実際の色と表面は細かく調整されています。

1920年代、菱形のカンヴァス

モンドリアンは正方形のカンヴァスを45度回転させた「lozenge(菱形)」作品を展開しました。National Gallery of Artによれば、1918年にはこの形式を用い、1920年代半ばには成熟した新造形主義の色彩と結びつけています。

重要なのは、カンヴァスを回転させても内部の線を斜めにしないことです。線はあくまで水平と垂直を保ち、画面の縁だけが斜めに切り込みます。そのため線や色面が画面外へ続いているような強い「切断」の感覚が生まれます。

1925年、De Stijlから離れる

1920年代半ば、Theo van Doesburgは「Elementarism」と呼ぶ新しい構成で斜線を導入しました。KunstmuseumのDe Stijl資料が説明するように、Van Doesburgは斜線によってより強い運動感を作ろうとしたのに対し、Mondrianは斜線が奥行きや不安定さを生み、水平・垂直の普遍的対立を崩すと考えました。

1925年、モンドリアンはDe Stijlから離れます。二人の対立はしばしば「斜線をめぐる決裂」として象徴的に語られますが、運動全体の考え方や個人的関係も複雑で、一つの理由だけに還元しない方がよいでしょう。それでも、斜線を作品内部へ導入しなかったことはモンドリアンの造形原理の重要な特徴です。

1926年、《Tableau I: Lozenge with Four Lines and Gray》

この作品では、菱形の画面をわずか4本の黒線が横切り、大部分が白から灰色の面として残ります。MoMA所蔵作の寸法は約117×116センチあり、画像で見る以上に大きな作品です。

要素を極端に減らしているにもかかわらず、線は中央で安定した四角形を作らず、端で切断されます。National Galleryが「dynamic equilibrium」と説明するように、静止した左右対称ではなく、異なる方向の力が互いを緊張させる状態が目標でした。

1930年代、線そのものを変える

1930年代に入ると、モンドリアンは黒線を二本並べたり、線の本数を増やしたり、色面を極端に小さくする作品を試みます。1933年の《Lozenge Composition with Yellow Lines》では、黒線を完全に排除し、黄色い線と白だけで構成しました。

Kunstmuseumの解説によれば、黄色い線は面と呼ぶには細く、単なる線と呼ぶには太い曖昧な幅を持ちます。黄色と白の明度差は小さいのに、視覚的には強い緊張を生みます。「黒い線と原色」という自らの有名な語彙を、自分自身で崩し始めていました。

1937年、線のリズム

《Composition de lignes et couleur: III》では、多数の黒線と小さな青い面が複雑なリズムを作ります。Kunstmuseumは、1936–39年の作品群で線の反復が音楽的なリズムを強め、白い面にも厚く異なる方向の筆触が与えられていることを指摘しています。

モンドリアンの画面は「無機質で平滑なデザイン」ではありません。白い部分の絵具の方向や厚みが光を異なって反射し、近くで見ると各面が別々に振動します。

1938年、ロンドンへ

ヨーロッパの戦争危機が高まるなか、1938年にパリを離れロンドンへ移住します。Ben NicholsonやBarbara Hepworthらと交流し、Hampsteadに暮らしました。1939年に第二次世界大戦が始まり、1940年のロンドン空襲の危険が高まると、アメリカへ移る準備を進めます。

この時期には、以前の作品へ線を追加するなど、画面をより複雑にする傾向が強まっています。戦争による移動は制作を中断させるだけでなく、最後の変化を準備しました。

1940年10月、ニューヨークへ

1940年10月3日、モンドリアンはニューヨークへ到着しました。MoMAとKunstmuseumが2027年展のためにまとめた資料によれば、到着した夜、友人Harry Holtzmanがブギウギのレコードを聞かせ、後にはCafé SocietyでAlbert Ammons、Meade “Lux” Lewis、Pete Johnsonらの演奏にも接しました。

66歳を過ぎての亡命でしたが、ニューヨークを過去の様式の避難先にはしませんでした。街路のグリッド、広告光、交通、ジャズの反復と即興に刺激を受け、20年以上続けてきた黒い線の構造を再編します。

1942–43年、《Broadway Boogie Woogie》

この作品では黒線が消え、黄色を中心とする帯そのものが赤・青・白・灰色の小さな矩形に分割されます。MoMAは、色の小片が交差点から交差点へ点滅するように動き、ニューヨークの交通とブギウギのリズムを想起させると説明しています。

ただし、ニューヨークの地図を抽象化しただけではありません。都市と音楽をきっかけに、それまで「線」と「色面」に分けていた二つの役割を融合させたことが重要です。線自身が色になり、その内部に別の色が入り、画面全体が細かく同期とずれを繰り返します。

1942–44年、《Victory Boogie Woogie》

最後の作品《Victory Boogie Woogie》は菱形のカンヴァスに描かれ、油彩だけでなく色紙、テープ、木炭、鉛筆が残っています。1944年2月1日の死によって未完成のままスタジオに残されました。

Kunstmuseum Den Haagはこの作品を最大のMondrianコレクションの中心として長期展示しています。貼り替え可能なテープや小さな色紙から、モンドリアンが最終段階でも位置と色を繰り返し試していたことが見えます。厳密な理論を持つ作家でありながら、最終結果を最初から計算していたわけではありません。

1944年、ニューヨークで死去

1944年2月1日、肺炎によりニューヨークで死去しました。71歳でした。作品はヨーロッパの抽象芸術、建築、グラフィックデザインにすでに大きな影響を与えていましたが、戦後にはアメリカでも幾何学的抽象、Minimal Art、デザイン、建築、ファッションへ広範な影響を与えます。

一方、現在の研究では、完成した赤・青・黄の「アイコン」だけでなく、自然主義、象徴主義、キュビスム、De Stijl、ロンドン、ニューヨークを通る長い変化の過程が重視されています。Kunstmuseum Den Haagが約300点の所蔵を通して示すように、モンドリアンの革新は一つのスタイルを発明したこと以上に、そのスタイルを何度も変え続けたことにあります。

風景画家モンドリアン――川、農場、風車

抽象画家になる前の二十年

モンドリアンは1890年代から1900年代を通して、長い間風景画を制作しました。Gein川沿いの農場、木立、橋、風車などを油彩、水彩、素描で繰り返しています。

ここを単なる「未熟な時代」として省略すると、抽象化の意味が分かりにくくなります。彼は自然を知らずに幾何学へ進んだのではなく、同じ種類の風景を長年観察した末、どこまで要素を減らしても関係が残るかを試しました。

水平と垂直は自然の観察から現れる

オランダの低く平らな地平線、運河の水平線、樹木や風車の垂直線は、初期風景でも構図の骨格になっています。後の水平/垂直をそこから直接導いたと断定することはできませんが、彼が自然の中でこの対立を繰り返し経験していたことは確かです。

抽象化の過程では、個々の木や建物の特徴が消えても、水平と垂直が作る関係は残りました。自然を捨てるというより、自然を見た経験から抽出された構造が独立したと考えることができます。

ドンブルフ――色彩が現実から離れ始める

海岸の光

1908年から数年間、モンドリアンはZeeland地方のDomburgを夏ごとに訪れました。強い海辺の光のもとで、砂丘、海、灯台、教会塔、樹木を描きます。

《Mill in Sunlight》では、風車を赤や青で描き、空と大地も黄色や青の大きな面へ単純化しました。Kunstmuseumは、この色彩が「対象の実際の色」を再現するためではなく、強烈な光を見る経験を伝えるために使われたと説明しています。

色はものに従わなくなる

木は茶色、空は青という対応が崩れれば、色は物体から独立できます。《赤い木》の赤は木の固有色ではなく、画面全体の力関係を作る色です。

この段階でまだ具象画ですが、「色は何かを説明するために存在する」という関係が弱まりました。後の原色面へ至る重要な変化です。

木の連作――一本の樹木から抽象へ

同じモチーフを変形する

《赤い木》《灰色の木》、そしてパリ期のキュビスム的なTree作品を並べると、モンドリアンの抽象化を非常に具体的に追えます。

最初は幹と枝が色彩的に強調され、次に色が減って枝の構造が強調され、最後には枝が互いに交差する線のネットワークへ変わります。対象の情報を一度に消すのではなく、同じ問題を何度も描き直しています。

「木を単純化した」のではなく、画面全体を再構成した

木の輪郭を幾何学的に整えただけではありません。枝と枝の間にある背景も、同じ重要度の面として扱われるようになります。

図と地、対象と背景の序列が崩れたことで、最終的には「木」だけを残す理由がなくなりました。抽象化は対象の削減であると同時に、画面上のすべての場所を等価にする過程でもありました。

パリとキュビスム――ピカソ、ブラックから何を受け取ったか

自然の外観を壊す方法

モンドリアンは後に、Cubismが「ものの自然な外観」を破壊したことを高く評価しました。Guggenheimの資料が示すように、1912–13年の作品はPicasso、Braqueの分析的キュビスムに非常に近い色彩と構造を持ちます。

キュビスムは、目に見える一つの視点を忠実に再現する必要がないことを示しました。モンドリアンにとって、それは抽象化へ進むための決定的な足場になりました。

しかしキュビスムのままでは止まらない

PicassoやBraqueの作品では、断片化されても人物、楽器、静物の痕跡が残り、画面には物体の量感があります。モンドリアンはそれをさらに平坦化しました。

Guggenheimが指摘するように、線の構造は画面下部へ重力的に集まらず、周辺へ消えていきます。物体の再構成から、関係そのものの構成へ進もうとしていました。

《Pier and Ocean》――海を水平と垂直へ還元する

桟橋=垂直、海=水平

MoMA所蔵《Pier and Ocean 5》では、題名を手掛かりにすれば、画面下から上へ延びる線を桟橋、周囲の短い水平線を海面として読むことができます。

しかし実際には、水平と垂直の短い線が反復されるだけです。風景の「姿」を描く代わりに、桟橋と海の方向関係を抽出します。

楕円がまだ残る

線は楕円形の範囲へ集中しています。この楕円はキュビスム絵画でよく使われた形式であり、完全に境界を消してはいません。

その後モンドリアンは楕円も捨て、矩形のカンヴァス全体を構成の場として扱います。《Pier and Ocean》は自然のモチーフと完全抽象の中間にある重要な作品群です。

デ・ステイル――絵画を社会へ拡張する

絵画だけの運動ではない

De Stijlには画家だけでなく、建築家、デザイナー、理論家が参加しました。MoMAは、運動が純粋抽象を通して芸術と生活の分離を越え、建築・家具・グラフィックデザインまで新しい環境を作ろうとしたと説明しています。

そのためモンドリアンの絵画は「壁に掛ける抽象画」の問題だけではありません。水平・垂直と色面の関係を、社会全体を組織する普遍的な造形原理へ広げられると考えていました。

共同体でありながら考えは一致しない

Bart van der Leckの色面、Van Doesburgの理論、建築家たちの空間実験は相互に影響しましたが、全員が同じルールを共有していたわけではありません。

De Stijlを「Mondrianの絵を家具や建築にした運動」と理解すると、他の作家の独自性が失われます。むしろ異なる実践が雑誌を通して議論し、共通する問題を別の方法で試したネットワークでした。

新造形主義――線、色、非対称の平衡

水平と垂直

成熟期の作品では、基本的に水平・垂直のみを使います。曲線や斜線を禁止することで、構成の可能性を狭める代わりに、線の位置、太さ、長さの微細な差が大きな意味を持つようになります。

原色と「非色」

赤、青、黄は対象に属する色ではなく、画面上の独立した力として使われます。白、黒、灰色はモンドリアンが「non-color(非色)」と呼ぶ範囲として扱いました。

ただし実際の絵具は理論上の純粋な原色そのものではありません。Kunstmuseumの技術的観察が示すように、色を混ぜ、白にも差を作り、画面全体の関係に合わせています。

左右対称ではなく「動的平衡」

中央を軸に左右を同じにすれば、簡単に静的な安定を作れます。モンドリアンはそれを避けます。大きな赤面の反対側に小さな青や黄、太い線の反対に広い白面を置き、量の違うものを釣り合わせます。

National Gallery of Artは、この不均等な要素の関係を「dynamic equilibrium」と説明しています。安定しているのに静止していないことが目標でした。

モンドリアンの作品をどう見るか

最初に「赤・青・黄」だけを見ない

成熟期の作品では原色が目立ちますが、画面の大部分は白です。まず白い面の大きさ、比率、どこで線に切られているかを見ます。

原色は面積が小さくても、広い白と釣り合う強い視覚的重量を持ちます。色面の数より、面積と位置の関係が重要です。

黒線を枠だと思わない

黒線は色面を囲む単なる輪郭ではありません。線自体が独立した造形要素であり、幅や長さが違います。

作品によっては線が画面端まで届かず止まり、別の作品では画面外へ続くように切られます。その違いで画面が閉じて見えるか、外へ拡張して見えるかが変わります。

近くで表面を見る

印刷物では白は均一な白、黒線は完全に平滑な黒に見えます。しかし実物では筆触、塗り重ね、光沢の差があります。1930年代には白い面ごとに筆の方向を変え、光の反射を調整した作品もあります。

「機械的に見えること」と「機械で作られたこと」は別です。モンドリアンは長い時間をかけて手で修正しています。

完成様式だけでなく前後を見る

《灰色の木》と《Broadway Boogie Woogie》は一見まったく違います。しかし、どちらも一つのモチーフから線とリズムを抽出し、画面全体の関係へ変える仕事です。

初期から晩年まで並べると、「自然を捨てて幾何学になった」という一本線より、色、線、リズム、空間の問題が何度も形を変えて戻ってくることが見えてきます。

主要作品

1908年の《Mill in Sunlight》と《The Red Tree》から、《The Grey Tree》、キュビスム期の《Tableau No. 2 / Composition No. VII》、海と桟橋を線へ還元した《Pier and Ocean 5》、完全抽象へ進む《Composition with Color Planes 5》、1921年の成熟した新造形主義、菱形作品、1933年の黄色い線、そしてニューヨークの《Broadway Boogie Woogie》《Victory Boogie Woogie》まで、モンドリアンの約35年間の抽象化と再変革を追える11点を選びました。

日光の中の風車

Mill in Sunlight / 1908 / 油彩・カンヴァス / 114.8 × 87 cm

Kunstmuseum Den Haag

写実的な風景から抽象へ向かう前段階を示す重要作。赤と青の風車、黄色と青の背景という強烈な色彩によって、対象の固有色より光を見る経験を優先しています。当時の批評家から強い拒絶反応を受けた一方、Mondrianが色彩を現実の再現から独立させていく転換点となりました。

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夕べ:赤い木

Avond (Evening): The Red Tree / 1908–1910 / 油彩・カンヴァス / 70 × 99 cm

Kunstmuseum Den Haag

Domburg近郊のリンゴの木を大きく孤立させ、赤い枝と青い背景で描いた作品。KunstmuseumはVan Goghの影響と、光の経験を色へ変換する関心を指摘しています。一本の木を反復的に描きながら、枝の構造を強調していく過程の初期段階であり、《The Grey Tree》からCubism期のTree作品へ続く重要な出発点です。

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灰色の木

The Grey Tree / 1911 / 油彩・カンヴァス / 79.7 × 109.1 cm

Kunstmuseum Den Haag

Paris移住直前に制作。強い赤と青を用いた《The Red Tree》から一転して黒・白・灰色へ色を抑え、枝を互いに交差する構造として整理しています。Cubismへの接近が明確でありながら木の姿はまだ読み取れます。具象と抽象の境界にあるMondrianの代表的な転換作です。

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タブロー No.2/コンポジション No.VII

Tableau No. 2 / Composition No. VII / 1913 / 油彩・カンヴァス / 104.4 × 113.6 cm

Solomon R. Guggenheim Museum, New York

ParisでCubismを吸収した時期の代表作。樹木を出発点とする黒い線と褐色・灰色の面が画面全体へ広がり、対象の認識可能性は大きく失われています。Guggenheimは、PicassoやBraqueの分析的Cubismを踏まえながら、量感と重力をさらに排除して平面化したMondrian独自の方向を示す作品として位置づけています。

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桟橋と海 5(海と星空)

Pier and Ocean 5 (Sea and Starry Sky) / 1915(画面には1914と記載) / 木炭、水彩・紙 / 87.9 × 111.7 cm

The Museum of Modern Art, New York

桟橋を垂直、海面を多数の水平線へ還元した「plus-and-minus」作品。MoMAによれば、短い線の交差は海の動きと光を伝えると同時に、自然をより普遍的な垂直/水平の構造へ置き換えています。題名がなければほぼ完全抽象に見え、自然のモチーフと非具象絵画をつなぐ決定的な作品です。

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色面のコンポジション 5

Composition with Color Planes 5 / 1917 / 油彩・カンヴァス / 49 × 61.2 cm

The Museum of Modern Art, New York

自然の具体的モチーフをほぼ完全に手放し、淡い色の長方形を白い場へ配置した初期完全抽象。MoMAの回顧展資料は、《Pier and Ocean》から図と地の区別を解体し、色面を独立した構成単位へ変える過程の重要作として位置づけています。De Stijl創設年に制作され、Bart van der Leckの平坦な色面との交流も背景にあります。

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大きな赤い面、黄、黒、灰、青のコンポジション

Composition with Large Red Plane, Yellow, Black, Gray and Blue / 1921 / 油彩・カンヴァス / 59.5 × 59.5 cm

Kunstmuseum Den Haag

水平・垂直の黒線、赤・青・黄、白・灰色という成熟したNeo-Plasticismを代表する作品。大きな赤面と小さな色面を非対称に釣り合わせます。Kunstmuseumの調査によれば、色は理論的な純色をそのまま使ったものではなく、互いの関係に合わせて混色され、白にも微妙な差があります。

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タブロー I:4本の線と灰色の菱形

Tableau I: Lozenge with Four Lines and Gray / 1926 / 油彩・カンヴァス / 117.2 × 115.6 cm

The Museum of Modern Art, New York

正方形のカンヴァスを45度回転させたlozenge形式に、わずか4本の黒線と白・灰色だけを置いた極端に簡潔な作品。内部の線は斜めにならず水平・垂直を保つため、線は斜めの画面端で切断され、構成が外側へ続く感覚を生みます。最少の要素で「動的平衡」を成立させようとした代表作です。

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1921年――「典型的なモンドリアン」はどう成立したか

一気に完成した様式ではない

1921年前後の作品を見ると、現在もっとも「モンドリアンらしい」と感じられる黒線と原色の構成が成立します。しかし1917年の自由に浮かぶ色面、1918–19年の均等グリッド、1920年《Composition C》の過渡的な構成を経た結果です。

つまり、自然を描くことをやめた瞬間に完成形が現れたわけではありません。抽象画の内部でも数年間の実験が必要でした。

大きな赤と小さな青は「均等」ではない

《Composition with Large Red Plane, Yellow, Black, Gray and Blue》では、赤い面が圧倒的に大きい一方、青や黄は小さく置かれています。数学的な面積の等しさではなく、色の強度を含めた視覚的な釣り合いを作ります。

この非対称性によって、画面は整然としているのに完全には止まりません。視線は大きい面と小さい面の間を往復します。

線が端まで届くかどうか

Kunstmuseumは、この1921年作品では一部の線が画面端まで完全には伸びず、構図を比較的閉じた状態に保つ点を指摘しています。後の作品では線が端で切断され、画面外へ続くような感覚が強くなります。

「同じグリッド」に見える作品でも、端部をどう処理するかで空間の性格が変化しています。

菱形のカンヴァス――画面の外側へ広げる

内部の水平・垂直は変えない

モンドリアンのlozenge作品では、正方形のカンヴァスを45度回転させます。しかし内部の線は水平と垂直のままです。

そのため線は斜めの辺へ次々にぶつかり、途中で切られます。四角い枠の中にグリッドを収めるより、巨大な構造の一部分を切り取ったように見えます。

《Tableau No. IV》

National Gallery of Art所蔵の《Tableau No. IV; Lozenge Composition with Red, Gray, Blue, Yellow, and Black》では、中央付近に一つだけ完全な四角形があり、他の多くの面は画面端で切られています。

NGAは、モンドリアン自身が菱形作品について「cutting」の感覚を語ったことを紹介しています。絵画の物理的な縁と、構図が想像上続く空間の間に強い緊張が生まれます。

《Tableau I: Lozenge with Four Lines and Gray》

1926年作品では要素をさらに削減し、わずか4本の黒線と白・灰色だけになります。色面をほとんど使わなくても、線の位置と端の切断だけで強い運動を作れるかを試しています。

色を減らしたことは「完成様式の簡略版」ではありません。何を最低限残せば動的平衡が成立するかを検証した別の実験です。

白は一色ではない――表面と筆触

印刷物では失われる違い

モンドリアン作品がポスターやデザインへ引用されると、白は完全に均一なデジタルの白として再現されがちです。しかし実物では、白面に異なる厚みや筆方向があります。

Kunstmuseumの1937年《Composition de lignes et couleur: III》の解説では、白い領域を複数層で塗り、面ごとに筆の方向を変えることで光の反射を変えていることが指摘されています。

「手を消した絵」ではない

定規と工業塗料で機械的に作ったように見えても、制作は繰り返しの手作業です。線の縁にも微細な揺れがあり、塗り重ねも完全には同じではありません。

モンドリアンが消そうとしたのは「手作業そのもの」ではなく、筆触を作家の感情表現として読ませることでした。手で描きながら、個人的なジェスチャーとは別の造形へ向かいました。

ファン・ドゥースブルフとの違い――斜線をめぐって

同じDe Stijlでも同じ考えではない

Theo van DoesburgはDe Stijlの創設者であり、Mondrianの理論を広く紹介した重要な協力者でした。しかし1920年代、Van Doesburgは斜線を導入した「Elementarism」へ進みます。

Kunstmuseumの教育資料は、Van Doesburgが斜線による運動感を評価したのに対し、Mondrianは斜線が奥行きの錯覚を強めると考えて反対したと説明しています。

菱形作品と斜線は違う

Mondrian自身も菱形のカンヴァスを使うため、一見すると斜線を使っているように見えます。しかし斜めなのは支持体の縁であり、内部の構成線は水平・垂直を維持します。

これは小さな違いに見えて、理論上は大きな違いです。絵画内部に斜めの方向を作るのか、水平・垂直の世界を斜めの枠で切るのかで、空間の考えが変わります。

アトリエ――絵画を生活空間へ拡張する

壁にも色面を置く

パリのrue du Départのアトリエで、モンドリアンは白く塗った壁へ赤、青、黄などの長方形の紙や板を配置し、家具も限定した色で整えました。訪問者にとってスタジオ自体が一つのDe Stijl的環境のように見えました。

Kunstmuseumの年譜も、色形を配置したアトリエが当時の美術界で注目を集めたことを記しています。

アトリエは固定された作品ではない

壁の色面は絵画のように永久に固定されず、制作に合わせて位置を変えました。つまりアトリエは生活場所であると同時に、構成を試す巨大な実験面でもありました。

芸術と生活を統合しようとしたDe Stijlの理想が、建築家による住宅だけでなく、画家自身の日常空間にも現れています。

音楽とダンス――静止した幾何学ではない

音楽を好んだ画家

モンドリアンは音楽とダンスを好み、KunstmuseumはLaren時代にも頻繁に踊り音楽を楽しんでいたことを年譜に記しています。パリではジャズや新しいダンス音楽へ関心を持ちました。

この背景を知ると、作品の「rhythm」という言葉が比喩だけではないことが分かります。線や色面を反復し、ずらし、強弱を作ることを音楽的に考えていました。

規則と即興

音楽は一定の拍や反復を持ちながら、その中で変化します。モンドリアンの成熟作も、水平・垂直、原色という厳しい制限を持ちながら、同じ構成を一度も繰り返しません。

自由とはルールがないことではなく、限定された条件の中で差異を生むことでもある。この考えが、ニューヨークでブギウギと出会ったときさらに強く現れます。

1938年、ロンドンへ――戦争と線の増殖

パリを離れる

1930年代後半、ドイツの拡張と戦争の危機が強まるなか、Mondrianは1938年にParisを離れLondonへ移ります。HampsteadではBen Nicholson、Barbara Hepworthらの近くに暮らしました。

この時代の作品では、一本だった線を二重化し、線を増やす実験が進みます。画面が以前より密になります。

戦争による移動と制作の継続

1940年、ロンドン空襲が始まるとアメリカ移住を決断します。高齢の亡命者として生活基盤を何度も失いましたが、以前の完成スタイルへ退避せず、新しい環境へ応じて作品を変えました。

「普遍的な抽象」は場所と無関係に同じものを繰り返すことではありませんでした。Paris、London、New Yorkの環境差が実際に作品へ入り込みます。

ニューヨーク――黒い線が色へ変わる

到着直後から作品を修正する

MoMAの2027年《Mondrian Boogie Woogie》予告資料によれば、New YorkでMondrianはヨーロッパから持参した既存作品にも色テープを貼り、構成を「more boogie woogie」に変える実験をしました。

テープは最終決定前に位置を変えられます。画面上で色と線を動かしながら考えるための道具になりました。

黒をなくす

1920年代の作品では黒線が色面を区切る重要な要素でした。《Broadway Boogie Woogie》では黒が消え、線は黄色を中心とした色帯になります。

さらに帯そのものが小さな赤、青、白、灰色へ分割されます。「線」と「面」という二つの要素が互いに入り込み、グリッドが以前より複雑な時間感覚を持ちます。

《Broadway Boogie Woogie》――都市を描かず都市のリズムを作る

マンハッタンの地図ではない

画面は直角に交差する線で埋まり、New Yorkの街路網を連想させます。しかし特定のBroadwayの地図を抽象化した作品ではありません。

MoMAは、街路、交通、電飾、ダンス、boogie-woogieの反復と即興が複合的に作品へ作用していると説明しています。都市を「再現」せず、都市で感じたリズムを絵画の構造へ変換しました。

小さな色片が時間を作る

赤、青、黄、白、灰色の小さな矩形が帯の途中で出現し、消えます。視線は一か所に固定されず、交差点から別の交差点へ移動します。

静止したカンヴァスでありながら、見る順序が毎回変わるため、音楽のような時間的経験が生まれます。

成熟様式の「否定」ではなく更新

水平・垂直、直角、矩形という基本原理は残っています。つまりNew York作品はNeo-Plasticismを捨てたのではありません。

同じ原理の中で黒線を解体し、色の関係を複雑化することで、自分の理論をさらに先へ進めました。完成した様式を守るより、内部から変えることを選びました。

《Victory Boogie Woogie》――未完のまま残った最終作

再び菱形へ

《Victory Boogie Woogie》では、1920年代から用いてきたlozenge形式へ戻ります。しかし内部の構成は以前とはまったく異なり、小さな色の断片が密集しています。

Kunstmuseumの作品記録では、油彩、テープ、紙、木炭、鉛筆が同じカンヴァスに残っています。完成画の表面と制作途中の仮置きが共存しています。

未完成だから制作方法が見える

色テープは貼り替えられ、紙片は位置を調整できます。これにより、Mondrianが先に完全な設計図を作ってから機械的に塗っていたのではなく、画面を見ながら絶えず変更したことが直接分かります。

MoMAの1995年回顧展も、未完成作品から彼の制作が数学的公式ではなく、直観的な判断と修正の積み重ねだったことを強調しました。

「Victory」という題名

第二次世界大戦終結前にMondrianは亡くなっており、作品も未完成です。題名の「Victory」が特定の戦勝を単純に記念する完成作品になったわけではありません。

戦争を逃れてNew Yorkへたどり着いた画家が、最後まで画面を更新し続けた作品として、その未完成性自体が強い意味を持ちます。

神智学と「普遍」――精神性をどう考えるか

抽象は純粋な形式遊びではない

Mondrianは、自然の背後により普遍的な関係があると考え、絵画でそれを可視化しようとしました。National Gallery of ArtもNeo-Plasticismを、自然の中にある普遍的調和を表そうとする精神的思想と結びつけています。

水平と垂直は単なるデザイン上の好みではなく、対立する力が均衡するモデルとして理解されました。

しかし象徴の暗号表ではない

垂直=男性、水平=女性など、Mondrianの文章には当時の思想を反映した二項対立が現れることがあります。しかし、一つ一つの線を固定した象徴として読むだけでは作品の実際の複雑さを捉えられません。

重要なのは、異なる方向・色・面を対立させながら、どちらか一方を支配させず均衡させるという構造です。

デザインへの影響――「モンドリアン柄」と作品の違い

世界でもっとも複製された抽象様式の一つ

赤・青・黄の長方形と黒い格子は、建築、家具、グラフィック、広告、ファッションなどへ大量に引用されました。1965年のYves Saint LaurentによるMondrian dressesはその代表例です。

その結果、「Mondrian」と言えば特定の色と格子のパターンを意味するほど一般化しました。

模様にすると失われるもの

しかしMondrianの作品は均等な格子模様ではありません。線幅は違い、矩形は反復せず、色面も不均等で、白面の筆触にも差があります。

「Mondrian柄」は様式の記号を抽出したデザインです。原作品では、同じ要素を使いながら一つ一つ異なる不均衡を作り、それをギリギリで釣り合わせる過程が重要です。

現在の再評価――完成様式より変化の過程を見る

Kunstmuseum Den Haagの最大コレクション

Kunstmuseum Den Haagは約300点のMondrian作品を所蔵し、初期風景から《Victory Boogie Woogie》まで全時期を連続的に見ることができます。同館は現在も常設的な《Mondrian & The Road to Abstraction》で、「木がどのように線の構成へ変わるのか」という道筋を中心に紹介しています。

この見せ方は、1920年代の有名作だけを孤立させず、抽象化を長い制作過程として理解する現在の研究傾向をよく示しています。

New York期の再検討

MoMAは2027年3月からKunstmuseum Den Haag、オランダ文化遺産機関、RKDと共同で《Mondrian Boogie Woogie》を開催すると発表しています。1940–44年のNew York期だけに焦点を当てる初の大規模サーベイで、《Broadway Boogie Woogie》と《Victory Boogie Woogie》が約30年ぶりに同じ会場で展示される予定です。

この企画ではMondrian個人の亡命だけでなく、boogie-woogieがアメリカ南部のBlack musiciansによって形成され、Great Migrationとともに北部都市へ広がった歴史も並行して扱われます。Mondrianの「音楽への影響」を抽象的なジャズ一般ではなく、具体的な音楽史の中で捉え直す試みです。

モンドリアンは何を変えたのか

抽象を自然の単純化から独立した構成へ進めた

TreeやPierの連作では自然物を徐々に線へ還元し、1910年代後半には自然のモチーフを直接必要としない構成へ到達しました。

抽象画を「何かを簡単に描いた絵」ではなく、線、色、面の関係そのものが現実を構成する独立した絵画として確立した点が大きな功績です。

制限を創造の方法にした

水平・垂直、原色、白・黒・灰色だけに限定すれば、できることは少なく見えます。しかしMondrianは20年以上その制限内で異なる作品を作り続けました。

要素を減らすほど、位置、比率、線幅、端部、表面の違いが大きくなります。制限を自由の反対ではなく、差異を鋭くする方法へ変えました。

「普遍的な秩序」と「直観的な制作」を両立させた

理論文では普遍、均衡、純粋関係を厳密に語りますが、実際の制作は何度も塗り直し、線を動かし、色を変える身体的な作業でした。

この理論と手作業の緊張があるため、作品は単なる幾何学図形になりません。数学のように見えながら、数学では決められない視覚的判断が残ります。

完成した自分の様式を最後に壊した

もっとも重要なのは、世界的に知られる黒線と原色の様式を手に入れた後、New Yorkでそれを守らなかったことかもしれません。

《Broadway Boogie Woogie》では黒線を消し、《Victory Boogie Woogie》では色紙とテープを使い、グリッドを細かな脈動へ変えました。Mondrianの革新は「Mondrian style」を完成させたことだけではなく、自分で作った様式から再び離れようとしたことにあります。

略年譜

1872
3月7日、オランダ・AmersfoortにPieter Cornelis Mondriaanとして生まれる。
1880年代
父や画家の叔父Frits Mondriaanから素描・絵画に親しむ。美術教師資格を目指す。
1892
AmsterdamのRijksakademie van beeldende kunstenへ入学。約3年間アカデミックな美術教育を受ける。
1890年代後半–1900年代
Gein川周辺、農場、風車、樹木などオランダ風景を多数制作。徐々に人物を減らし、風景の大きな構造へ関心を向ける。
1907–1908
色彩と形が急激に単純化・高彩度化。《Oostzijdse Mill in the Evening》《Mill in Sunlight》などを制作。
1908–1910
Domburgを繰り返し訪問し、Jan Tooropらと交流。《Avond (Evening): The Red Tree》を制作。神智学への関心を深める。
1911
《The Grey Tree》《Evolution》などを制作。AmsterdamでPicasso、BraqueらのCubismを目にし、Paris移住を決断。
1912
Parisへ移住。姓の綴りをMondriaanからMondrianへ簡略化。26 rue du Départにアトリエを構える。Cubismを集中的に研究。
1913
《Tableau No. 2 / Composition No. VII》などで樹木・建築をほぼ識別できない線と面へ分解。
1914
夏にオランダへ戻った直後、第一次世界大戦が勃発しParisへ戻れなくなる。Laren、Blaricumなどで制作。
1914–1915
北海、桟橋、教会を水平・垂直の短線へ還元する《Pier and Ocean》など「plus-and-minus」作品を制作。
1915–1917
特定の自然物をほぼ排した完全抽象へ進む。Bart van der Leckと交流し、平坦な原色面から影響を受ける。
1917
Theo van Doesburgらと雑誌『De Stijl』に参加。「De Nieuwe Beelding in de schilderkunst」を連載。《Composition with Color Planes 5》を制作。
1918–1919
規則的なグリッド、checkerboard compositionsを試す。1918年頃から菱形の支持体を使用。
1919–1920
戦後Parisへ戻る。《Composition C》などを経て、水平・垂直線、原色、白・黒・灰色による新造形主義を確立。
1921
《Composition with Large Red Plane, Yellow, Black, Gray and Blue》など、成熟したNeo-Plasticismの代表作を制作。
1924–1925頃
《Tableau No. IV; Lozenge Composition with Red, Gray, Blue, Yellow, and Black》を制作・改作。菱形の画面と成熟様式を結合。
1925
Theo van Doesburgが導入した斜線・Elementarismなどをめぐる相違が顕在化し、De Stijlから離れる。
1926
《Tableau I: Lozenge with Four Lines and Gray》。わずかな線と非色だけで動的平衡を追究。
1929
《Composition No. II, with Red and Blue》など、少数の色面と線による極端に簡潔な構成を展開。
1930年代前半
線の二重化、色面の削減、より複雑な非対称構成を実験。
1933
《Lozenge Composition with Yellow Lines》制作。黒線を使わず黄色と白だけで構成。60歳記念としてKunstmuseum Den Haagへ寄贈される。
1936–1939
線の反復とリズムを強め、《Composition de lignes et couleur: III》などを制作。白面の筆触・光沢にも差をつける。
1938
戦争の危機からParisを離れLondonへ移住。Ben Nicholson、Barbara Hepworthらと交流。
1939–1940
第二次世界大戦開始。既存作品へ線を追加するなど構成を高密度化。London空襲の危険を受けてNew York移住を決断。
1940
10月3日New York到着。Harry Holtzmanらに迎えられ、boogie-woogieや都市のリズムから強い刺激を受ける。
1941–1942
ヨーロッパで制作した作品を色テープ等で修正し、黒線を色線へ変えるNew York期の実験を進める。
1942–1943
《Broadway Boogie Woogie》を制作。黒線を消し、色の小矩形で分割された帯へ変換。
1942–1944
《Victory Boogie Woogie》を制作。油彩、色紙、テープを使い、死去時まで変更を続ける。
1944
2月1日、New Yorkで肺炎により死去。71歳。《Victory Boogie Woogie》は未完成のまま残る。
1994–1996
Kunstmuseum Den Haag、National Gallery of Art、MoMAを巡回する大規模回顧展《Piet Mondrian: 1872–1944》。制作過程と抽象化の全貌を再検討。
1998
《Victory Boogie Woogie》がオランダ国へ寄贈され、Kunstmuseum Den Haagへ長期貸与。同館のMondrianコレクションの中核となる。
2017
Kunstmuseum Den Haagが所蔵するMondrian作品約300点を大規模に紹介し、初期から晩年までの変化を再評価。
2026
Kunstmuseum Den Haagで《Mondrian & The Road to Abstraction》が継続。具象から抽象への変化を最大規模の所蔵群から紹介。
2027(予定)
MoMAで《Mondrian Boogie Woogie》開催予定。1940–44年New York期に焦点を当て、《Broadway Boogie Woogie》と《Victory Boogie Woogie》を約30年ぶりに同時展示する計画。

参考資料・出典

本ページはKunstmuseum Den Haag、The Museum of Modern Art、Solomon R. Guggenheim Museum、National Gallery of Art、Philadelphia Museum of Artなどの美術館・公的研究資料を参照してART LIBRARYが独自に執筆しました。原文の全文翻訳ではありません。

資料確認日:2026年10月1日 / ART LIBRARY