Art Library

Piero della Francesca

ピエロ・デッラ・フランチェスカ

イタリア / 1416–1492 / 初期ルネサンス/遠近法/数学/フレスコ

戦争で失われかけたルネサンスの傑作:ピエロ・デッラ・フランチェスカ『復活』
A Renaissance masterpiece nearly lost in war: Piero della Francesca, The Resurrection (Smarthistory)
【キリストの鞭打ち】キリストより目立ってる謎の3人組!?謎だらけの絵に学説乱舞!!【ピエロ・デラ・フランチェスカ】(山田五郎 オトナの教養講座)

15世紀のイタリア中部には、フィレンツェのような商業都市に加え、独自の信仰と政治を営む小都市や、傭兵隊長が文化を保護する宮廷が点在していました。教会の祭壇画や聖人伝の壁画には、祈る人々が理解しやすい物語と、制作を依頼した共同体の願いが求められました。画家たちは古代の彫刻や建築、遠近法の研究を取り入れ、宗教的な出来事を人間の身体と現実の空間のなかに描こうとしていました。

ピエロ・デッラ・フランチェスカ(1415〜20年頃〜1492年)は、トスカーナ東部のサンセポルクロに生まれ、フィレンツェ、リミニ、アレッツォ、ウルビーノなどで活動した画家です。商業の計算にも用いられた数学を学び、板絵と壁画に取り組むかたわら、遠近法や立体幾何学について著しました。作品は各地に分かれて現存し、その制作順や依頼の背景には研究が続くものもあります。

まず故郷での修業と初期の祭壇画を見て、リミニの領主像からアレッツォの大規模な壁画へと活動をたどります。ウルビーノ宮廷の肖像画と祭壇画、晩年の《降誕》、数学の著作へと進むにつれ、画面の構造と作品が置かれた場所の関係も明らかになります。

サンセポルクロで育ち、画家への道を歩む

商人の家で身につけた計算の知識

ピエロは現在のトスカーナ東部にあるサンセポルクロの出身です。生年を直接示す洗礼記録は確認されておらず、1416〜17年頃とする伝記研究と、1415〜20年頃という幅を採る美術館の表記があります。父ベネデットは商業に携わっていました。画家が商業実務のための算術を学ぶことは当時のイタリア都市で珍しくなく、ピエロも後年『算盤論』で数量と測量の問題を扱っています。

サンセポルクロはフィレンツェや教皇領に近い交通の要所で、市民の同信会、修道院、都市の役人が宗教画の注文主となりました。ピエロは故郷との関係を生涯保ち、別の都市で名声を得た後も大きな祭壇画や壁画を制作しています。(参照:イタリア人名事典 | ピエロ・デッラ・フランチェスカの生涯と史料)

フィレンツェで出会った新しい絵画

修業初期には、地元の画家アントニオ・ダンギアーリの板絵や旗の制作に関わったことを示す1430年代の記録があります。1439年には、フィレンツェのサンタ・マリア・ヌオーヴァ病院付属サンテジーディオ教会で壁画制作を進めていたドメニコ・ヴェネツィアーノとともに、ピエロの名前が記録されました。当時のフィレンツェでは、マザッチョが示した人体の重みと遠近法、ドナテッロの彫刻、ブルネレスキの建築が新たな表現の手本となっていました。

ドメニコの明るい色彩や光の扱いは、ピエロの初期作品を考える際に重要です。人物を単純化された明確な輪郭で描き、広い日中の光を画面の奥まで行き渡らせる表現は、のちの《キリストの洗礼》に見られます。初期の制作記録と現存作が限られるため、フィレンツェでの具体的な制作分担には研究上の不明点が残ります。(参照:ロンドン・ナショナル・ギャラリー | ピエロの画業)

《キリストの洗礼》に広がる故郷の風景

洗礼の場面を支える人物と樹木

《キリストの洗礼》(1437〜45年頃)は、故郷サンセポルクロのサン・ジョヴァンニ・バッティスタ・イン・ヴァル・ダフラ聖堂のために制作された、卵テンペラによる板絵です。画面中央では洗礼者ヨハネがキリストの頭に水を注ぎ、真上に聖霊を表す鳩がいます。左の三人の天使は色の異なる衣をまとい、二人が手を取り合っています。右奥では洗礼を受けようとする人物が衣服を脱ぎかけています。

鳩、器、キリストの組んだ手が中央の縦軸に揃い、左のクルミの幹がそれに呼応します。天使の衣の帯や川岸の線は水平に広がり、まっすぐ立つキリストを中心に画面を支えています。身体に落ちる光は鋭い明暗の切断を作らず、顔や腕、樹木の幹の丸みを穏やかに浮かび上がらせます。(参照:ロンドン・ナショナル・ギャラリー | 《キリストの洗礼》)

ヨルダン川をサンセポルクロの景色に重ねる

キリストが立つ川は聖書のヨルダン川を表します。遠くの丘や町の姿はサンセポルクロ周辺に似せられ、川辺のクルミや草花も現地で見られる種類が描かれています。礼拝者は聖書の物語を身近な風景の中に重ねて見ることができました。

画面奥に立つ、特徴的な帽子をかぶった人物たちの意味には議論があります。フィレンツェ公会議の前後にイタリアを訪れたビザンティンの人々を連想させる姿として説明されることもあり、東方三博士との関連も提案されています。ロンドン・ナショナル・ギャラリーは、洗礼の祝日と公現祭が同じ1月6日に祝われた歴史も紹介しています。初期の作品から、宗教画の図像に地域の記憶と同時代の経験が重ねられていました。(参照:ロンドン・ナショナル・ギャラリー | 《キリストの洗礼》)

慈悲同信会が注文した大きな祭壇画

契約書に残る制作の長い道のり

《慈悲の聖母祭壇画》は、1445年にサンセポルクロの慈悲同信会が注文した多翼祭壇画です。同信会は病人や困窮者の救済に関わり、作品は同信会の礼拝と結び付いていました。契約時には1448年の納入が想定されていましたが、1454年にも完成しておらず、1462年に支払いの記録があります。大きな仕事が別の都市での制作と並行して進んだ様子を、文書から追うことができます。

中央の聖母は大きくマントを広げ、両側でひざまずく小さな信者たちを包みます。左右には聖人像、上方にはキリストの受難に関わる場面が配されました。救済を求める共同体の姿が、祭壇画の中心に置かれています。(参照:イタリア文化財総合目録 | 《慈悲の聖母祭壇画》)

金地の伝統と量感のある身体

この祭壇画は背景に金を用い、聖母と信者の大きさを変える中世以来の形式を保っています。そのなかで聖母の身体は強い量感を持ち、重厚な青いマントが大きなアーチのように画面を覆います。頭部の明暗や衣の折れ方には、フィレンツェで学んだ立体表現が働いています。

17世紀の祭壇改造では上部の《磔刑》が切断され、細い側面板や台座部分が取り外されました。現存する各場面の位置関係は、失われた外枠と同信会の礼拝空間を考慮して復元されています。(参照:イタリア文化財総合目録 | 《慈悲の聖母祭壇画》)

中部イタリアを巡り、新たな注文を受ける

フェラーラ、アンコーナへ広がった仕事

《慈悲の聖母祭壇画》の契約を結んだ後、ピエロはアドリア海側の諸都市へ活動を広げました。1440年代後半のフェラーラでエステ家に関わる仕事をしたと考えられ、ヴァザーリもこの地方での制作を伝えています。宮廷で制作されたとされる壁画の多くは失われており、作品の全容は現存する資料から断片的に推測できます。

ピエロは同時期に小型の個人礼拝用板絵も描きました。大規模な祭壇画や壁画の依頼を受けるまでの間に、名士や聖職者の私的な祈りのための絵を制作していたことは、地方都市を行き来した画業のもう一つの側面です。(参照:イタリア人名事典 | ピエロ・デッラ・フランチェスカの生涯と史料)

《聖ヒエロニムス》と人文主義者の信仰

ベルリン国立絵画館の《聖ヒエロニムス》(1450年)は、荒野で修行する聖人を描く小型の板絵です。赤い枢機卿帽子が画面に置かれ、書物の研究と隠修生活の両方に結び付く聖人の姿が表されています。風景の中には繊細な観察が認められ、個人の礼拝と教養のための作品だったと考えられています。

研究者マッテオ・マッツァルーピ(2006年)は、ピエロのアンコーナ滞在の記録と作品の関係を検討し、同地での制作を提案しました。アンコーナの有力家系フェレッティ家のジェロラモを注文主の候補とする説もあります。大規模な壁画ほど注文記録が残らない小品でも、地域の人脈をたどることで制作の背景が見えてきます。(参照:ベルリン国立美術館 | 《聖ヒエロニムス》とアンコーナでの制作)

リミニで領主の権威を描く

《聖シジスモンドの前のシジスモンド・マラテスタ》

1451年、ピエロはリミニの領主シジスモンド・パンドルフォ・マラテスタを描く壁画を制作しました。聖シジスモンドの前に甲冑姿の領主がひざまずく構図で、制作年と作者の名が記されています。領主の後方にはマラテスタ家の城塞カステル・シスモンドが描かれ、祈りの場面の内側に現実の統治と建築が入り込んでいます。

人物は横顔に近い姿勢で端正に表され、聖人はそれを受け止めるように座っています。肖像として個人の容貌を残しながら、守護聖人との関係を明示する壁画です。現在もリミニのマラテスタ神殿に残り、当時の領主像を考える重要な資料となっています。(参照:リミニ市観光局 | マラテスタ家とルネサンス建築)

アルベルティが設計したマラテスタ神殿

シジスモンドが建設を進めたマラテスタ神殿は、既存の聖フランチェスコ教会を改造し、一族の記念施設としての意味を強めた建物です。レオン・バッティスタ・アルベルティが古代ローマ建築を思わせる外観を設計し、内部ではアゴスティーノ・ディ・ドゥッチョらが大理石の浮彫を制作しました。

ピエロの壁画もこの都市的な事業の一部です。背景に描かれた城塞は領主が建てた現実の建築物であり、壁画が城と神殿の両方に結び付いていることを物語ります。アルベルティとピエロの遠近法への関心を同じ文化環境に置いて考えられますが、個々の画面設計をアルベルティが直接指導したとする確証はありません。(参照:リミニ市観光局 | シジスモンド・マラテスタ)

アレッツォの礼拝堂を覆う《聖十字架伝説》

バッチ家礼拝堂に展開する聖なる木の物語

アレッツォのサン・フランチェスコ聖堂には、1452〜66年頃に描かれた《聖十字架伝説》の壁画群が残ります。主祭壇奥のバッチ家礼拝堂を覆う大規模な仕事で、先行して制作に携わったビッチ・ディ・ロレンツォの死後、ピエロが装飾を引き継ぎました。主題は中世の『黄金伝説』に収められた、キリストの磔刑に用いられる聖なる木の由来と、その後の発見や回復の物語です。

壁画は物語の時間順を組み替え、壁の上下段や向かい合う位置によって、神聖な木の発見、皇帝の勝利、異なる時代の人物を対応させています。礼拝者は礼拝堂全体を見渡しながら、それぞれの出来事の関係を理解します。(参照:アレッツォ市立美術館群 | 《聖十字架伝説》)

《シバの女王とソロモン王の会見》の行列

《シバの女王とソロモン王の会見》では、女王の一行が聖なる木に由来する橋を前にひざまずく場面と、王宮での会見が隣り合っています。前景に並ぶ馬や従者、豪華な衣服の婦人たちの姿には、15世紀の都市と宮廷の生活が投影されています。人物は画面の各部分を占め、並んで立つ身体の向きや衣服の色が視線を奥へ導きます。

ソロモンの宮殿は、柱と壁面が明確な建築空間として設計されています。宮廷での礼節と古代の物語が同じ画面のなかに成立し、礼拝堂の大きな壁面で読まれるよう人物の身振りが整理されています。(参照:アレッツォ市立美術館群 | 《聖十字架伝説》)

《コンスタンティヌスの夢》を照らす天使の光

《コンスタンティヌスの夢》は、皇帝が戦いの前夜に神の徴を受ける物語です。天幕の内側に眠る皇帝を、外側の衛兵たちが守っています。画面上方から天使が飛来し、その光が幕や兵士の甲冑を照らすことで、闇のなかに天幕の奥行きと人物の位置が現れます。

昼間の均一な明るさを基調とする他の場面に比べ、ここでは光源の位置が物語の核心です。皇帝に現れた徴を、天使そのものとそれが生み出す明暗で表しています。光の道筋を追うことが、夢の出来事を読み取る手がかりになります。(参照:アレッツォ市立美術館群 | 《聖十字架伝説》)

戦闘と聖十字架の発見を描き分ける

《ヘラクレイオス帝とホスロー王の戦い》では、旗、槍、剣、馬と人体が広い壁面を埋め尽くします。兵士の装備や旗を一定の方向にそろえることにより、密集した戦闘のただなかにも人物の集まりが読み取れます。人物や動物の重なりには、単独の立像を描く場面と異なる緊張があります。

壁画群には、土に埋められた十字架を見つけ、三つの十字架のうち真のものを見分ける場面もあります。ピエロは戦い、宮廷での会見、聖遺物の発見という性格の異なる出来事を、礼拝堂の壁面の形と視点に合わせて描き分けました。(参照:アレッツォ市立美術館群 | 《聖十字架伝説》)

《鞭打ち》に並ぶ二つの場面

小さな板絵に組み立てた複雑な建築空間

ウルビーノのマルケ国立美術館にある《鞭打ち》は、縦67.5センチ、横91センチの小さな板絵です。画面左奥の柱廊ではキリストが鞭打たれ、その手前に古典的な衣装の人物が立ちます。右手前では服装の異なる三人が、明るい建物の前で向かい合っています。

床の升目、柱、天井の梁、建物の縁をたどると、左の処刑場面が奥深い空間に収まっていることが分かります。右側の三人は鑑賞者に近く、大きさも光も異なります。ピエロは二つの出来事を、建築と舗装された広場がつながる一枚の画面に置きました。制作年代には異説があり、15世紀半ばの活動のなかで位置を慎重に考える作品です。(参照:マルケ国立美術館 | 《鞭打ち》)

前景の三人は誰なのか

《鞭打ち》には作者の署名が残りますが、注文主、最初の設置場所、右手前の三人の身元を示す同時代の確実な文書は見つかっていません。18世紀の目録ではウルビーノの君主一族に結び付けられ、後には1444年に殺害されたオッダントニオ・ダ・モンテフェルトロや、その関係者を描いたとする解釈が生まれました。

歴史家カルロ・ギンズブルグは1982年の『ピエロを探る』などで作品の政治的・宗教的背景を検討しました。東方教会と西方教会の関係、オスマン帝国の拡大、地方宮廷の政治に結び付ける説もあります。諸説は人物の身振り、衣装、建築、失われた額縁の文字などを根拠としますが、一つに確定していません。所蔵館もこれらの読みを併記しており、人物の同定と画面の制作目的は現在も議論されています。(参照:マルケ国立美術館 | 《鞭打ち》)

聖母像と市民のための壁画

《出産の聖母》を囲む幕と二人の天使

モンテルキの《出産の聖母》は、妊娠したマリアをほぼ等身大に描いた、約2メートル四方のフレスコ画です。聖母は衣服の前をわずかに開き、片手で腹部に触れています。左右で向き合う天使が大きな幕を引き開け、妊娠した身体を礼拝者の正面に現します。天使の衣の赤と緑は左右で入れ替わり、形は鏡像のように対応しています。

もとはモンテルキ郊外のサンタ・マリア・ディ・モメンターナ聖堂にありました。母体と出産への信仰との結び付きが論じられています。地域の信仰に長く関わった作品であり、現在は移設された壁画として専門の展示施設で守られています。制作年は1450〜65年という幅で示されます。(参照:モンテルキ市立美術館 | 《出産の聖母》)

《復活》に描かれたキリストと眠る兵士たち

故郷の旧市庁舎に描かれた《復活》は、棺の縁に片足をかけたキリストが正面を向き、その下で四人の兵士が眠る大きな壁画です。キリストは復活を示す旗を持ち、身体は兵士たちよりも高く描かれています。画面の両脇には葉を落とした樹木と葉のある樹木が立ち、生命の再生と重ねて解釈されてきました。

制作年は1458〜68年頃という幅で伝えられています。旧市庁舎に置かれた市民的な壁画で、修復に伴う史料調査では1468年頃の制作と、市民の前で役人が演説した屋外の高台付近に当初置かれた可能性が指摘されました。町の名は「聖なる墓」を意味し、キリストの復活は都市の信仰上の由来とも結び付きます。眠る兵士と目を開いたキリストを上下に隔てた構図が、壁の前に立つ人の視線を中心人物へ集めています。(参照:フィレンツェ国立修復研究所 | 《復活》の修復事業)

ローマでの仕事と故郷の祭壇画

教皇ピウス二世の宮廷へ

1458年、ピエロは新たに選出された教皇ピウス二世のため、ローマの教皇宮殿の部屋の壁画制作に従事したことが文書から分かっています。足場の設置や支払いの記録が残るものの、作品は現存しません。古代彫刻と壮大な建築に触れられるローマは、中部イタリアで活動した画家にとって重要な場所でした。

16世紀のヴァザーリが伝えたローマでの活動には、時期や共同制作者についての混乱もあります。近代の史料研究では、1458〜59年のピウス二世の時代に関する記録を重視して経歴が整理されました。失われた壁画の具体的な構図を再現することはできません。(参照:イタリア人名事典 | ピエロ・デッラ・フランチェスカの生涯と史料)

聖アウグスティヌス祭壇画と《大天使ミカエル》

1454年、サンセポルクロの聖アウグスティヌス教会のための祭壇画が注文されました。1469年に完成したこの多翼祭壇画は後に解体され、各部分が欧米の美術館に分散しました。《大天使ミカエル》はその中央部左側に位置した板絵で、右手に蛇の形をした悪魔の首を持つ若い戦士として大天使を表しています。

ミカエルの鎧や衣の細部には油彩による滑らかな質感が見られ、横長の《キリストの洗礼》とは異なる祭壇画の形式のなかで直立する人体が際立っています。2024年、ミラノのポルディ・ペッツォーリ美術館では現存する八枚の板絵を集める展覧会が開催され、散逸前の祭壇画の構成を比較する機会が生まれました。(参照:ポルディ・ペッツォーリ美術館 | 聖アウグスティヌス祭壇画の再会)

ペルージャに残る《聖アントニオ祭壇画》

修道女たちが依頼した多翼祭壇画

ウンブリア国立美術館の《聖アントニオ祭壇画》は、ペルージャのフランチェスコ会系の修道女たちが依頼した、幅約3.9メートルの多翼祭壇画です。中央に聖母子、両側には聖アントニオ、洗礼者ヨハネ、聖フランチェスコ、聖エリーザベトを配し、下部には聖人たちの奇跡を描いた小場面が並びます。1468年にはペルージャ市から制作費の補助が出され、所蔵館は完成を1467〜69年頃としています。

各人物を別の区画に置く伝統的な構成のなかに、立体的な身体と透視図法による床や建築が取り込まれています。テンペラと油を組み合わせた彩色では、衣の表面と宝飾、聖フランチェスコが聖痕を受ける夜景などに光の効果が表れます。(参照:ウンブリア国立美術館 | 《聖アントニオ祭壇画》)

上部の《受胎告知》と列柱の奥行き

祭壇画の上部には、天使ガブリエルと聖母を左右に分け、中央の列柱廊を奥へ延ばした《受胎告知》が置かれています。天井や床の線が一点に向かって収束し、人物の間の建築空間が視線を強く引き込みます。これに比べて下段の聖人たちはそれぞれの区画に正面から立つため、一つの祭壇画の中で異なる空間表現を見比べられます。

美術館の作品記録は、この上部画面をピエロの遠近法研究が凝縮した場面として説明しています。多翼祭壇画の形式を保つ注文でも、中央の列柱を描くための作図と、光の観察が十分に活用されていました。(参照:イタリア文化財総合目録 | 《聖アントニオ祭壇画》上部の《受胎告知》)

ウルビーノ宮廷の肖像画と祭壇画

フェデリコ・ダ・モンテフェルトロの宮廷

15世紀後半のウルビーノでは、軍事指導者であるフェデリコ・ダ・モンテフェルトロが宮廷を整え、古典学と数学に通じた人文主義者、建築家、画家を集めました。ピエロはこの宮廷と関係を持ち、君主夫妻の肖像や宗教画を制作しました。宮廷では書物の収集も盛んで、ピエロの遠近法と幾何学の著作が重要な読者を得る場ともなりました。

ウルビーノの仕事は単一の制作期間に収まりません。ピエロは故郷での祭壇画の制作や各都市での仕事を並行しながら、宮廷の注文にも応えています。作品の年代や設置場所を検討するときには、フェデリコの家族史と都市の政治的状況が手掛かりになります。(参照:イタリア人名事典 | ピエロ・デッラ・フランチェスカの生涯と史料)

《ウルビーノ公夫妻の肖像》の表と裏

ウフィツィ美術館の《ウルビーノ公夫妻の肖像》(1473〜75年頃)は、フェデリコと妻バッティスタ・スフォルツァを横顔で向かい合わせた二枚組の板絵です。古代の貨幣や肖像メダルを思わせる横顔が明瞭な輪郭で描かれ、背景にはマルケ地方の丘陵と水路が連続します。二人は同じ空を背負い、統治する土地の広がりが肖像の一部となっています。

裏面には夫妻が古代風の凱旋車に乗り、それぞれの徳を表す寓意像に伴われる姿とラテン語の銘文があります。バッティスタは1472年に亡くなっており、制作年代や追悼の意味も論じられています。人物の容貌を描く表面と、その人物が体現すべき徳を示す裏面が対をなし、私的な肖像と公的な君主像を結び付けています。(参照:ウフィツィ美術館 | 《ウルビーノ公夫妻の肖像》)

《モンテフェルトロ祭壇画》の建築と祈る君主

ブレラ絵画館の《モンテフェルトロ祭壇画》(1472〜74年)は、奥深い古典建築のなかに聖母子、六人の聖人、天使、甲冑姿でひざまずくフェデリコを描きます。聖母の頭上には貝殻状の半円のくぼみがあり、そこから卵が一つ吊り下がっています。静かに眠る幼児キリスト、祈る君主、周囲の聖人がそれぞれ異なる意味を担います。

卵は聖母の神秘的な母性と関連付けられ、モンテフェルトロ家の紋章的表象とも結び付けて解釈されています。1472年の跡継ぎ誕生とバッティスタの死を踏まえた注文と考えられていますが、最初の設置場所は確定していません。修復と近年の研究により板絵の周辺が切り詰められたことが確認され、当初はさらに大きな建築空間の下に人物たちが置かれていたと理解されています。(参照:ブレラ絵画館 | 《モンテフェルトロ祭壇画》)

宮廷の聖母像から晩年の《降誕》へ

《セニガリアの聖母》の部屋に届く光

《セニガリアの聖母》は1474〜80年頃に位置付けられる板絵で、聖母子の左右に天使が立つ小さな宗教画です。幼児キリストの首には珊瑚の飾りが掛かり、片手には白い薔薇が見えます。右の棚には籠と円形の箱が置かれ、左の奥に開いた部屋の窓から斜めの光が差しています。布の繊維、髪、宝飾、壁面の明るさの違いまで描き分けられています。

作品はセニガリアのサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ聖堂から伝わります。小型で室内を舞台とすることから、もとの用途は私的礼拝用だったと考えられています。フェデリコの娘ジョヴァンナの婚姻と結び付ける説もあり、制作年に幅が生じています。細部と室内光の描写は、15世紀のネーデルラント絵画を受容したピエロの仕事を考える際にも注目されます。(参照:イタリア文化財総合目録 | 《セニガリアの聖母》)

《降誕》に現れたトスカーナの丘と天使の歌

ロンドンの《降誕》は1480年代初頭の作品です。低い小屋の前で聖母が幼児キリストを礼拝し、五人の天使は歌い、二人の羊飼いが背後に立っています。ヨセフはロバの鞍に腰を下ろし、遠景には故郷を思わせる丘と町が広がります。聖母が敷いた青いマント、粗い屋根、石壁に差し込む光が、聖なる誕生を日常の風景のなかに置いています。

この絵はサンセポルクロのピエロの一族の邸宅に長く伝わり、家の主寝室に掛けられていたと考えられています。聖母の前の幼児が光を放つ描写は、14世紀の聖ブリギッタが語った降誕の幻視に結び付けられます。後の損傷によって未完成作と考えられた時期もありましたが、2022年に完了したナショナル・ギャラリーの修復は、この光の扱いと本来の室内での使用をあらためて明らかにしました。(参照:ロンドン・ナショナル・ギャラリー | 《降誕》)

絵画とともに進めた数学の研究

『絵画遠近法論』が示した作図の手順

ピエロは『絵画遠近法論』(De prospectiva pingendi)で、画面上の点、線、面から人体や建築までを、幾何学的な手順で描く方法を論じました。見る位置と対象との距離が変わると、画面に投影される形がどう変化するかを、図を用いて説明します。画家が実作で用いる作図を、再現できる手順として整理した著作です。

この著作は写本によって伝わり、後の画家や数学者が読むことのできる知識となりました。伝存するイタリア語・ラテン語の諸本と図の異同は、現代の校訂研究でも重要な課題です。遠近法の史的発展を考える際は、アルベルティの『絵画論』とピエロの詳細な作図研究を区別すると理解が深まります。(参照:ローマ・ラ・サピエンツァ大学(2018年) | 『絵画遠近法論』の写本と図版研究)

『算盤論』に見る商業計算と測量

『算盤論』(Trattato d’abaco)は、商業計算を学ぶための実用数学に関わる著作です。割合、数量、測量、立体の体積などを扱う算術の伝統が背景にあり、序文によればサンセポルクロのピキ家の人物に向けられていました。絵画で遠近法を扱う以前から、ピエロが数量の問題を継続的に考えていたことがうかがえます。

商品の量や建物の容積を求める問題と、人物を平面に投影する作図は、比例や立体の理解を異なる用途に応用した例です。ピエロの数学は宮廷の教養と都市の実務の双方に関係していました。(参照:ケンブリッジ大学出版局 | ピエロの数学著作とウルビーノ宮廷)

『五つの正多面体について』と晩年

『五つの正多面体について』(Libellus de quinque corporibus regularibus)は、正四面体、立方体、正八面体、正十二面体、正二十面体の性質を扱うラテン語の著作です。ウルビーノの若い君主グイドバルドに献呈され、幾何学を高い教養として学ぶ宮廷文化と関わっていました。成立年代には研究上の幅があり、1482年以降から死去までの時期を想定する研究もあります。

ピエロは1492年にサンセポルクロで亡くなりました。晩年の失明についてはヴァザーリらの伝記が広く知られますが、いつから制作や著述に支障があったかを決められる史料は限られています。写本の精緻な図を含む三つの著作は、ピエロが画面の奥行きにとどまらず、数量と立体そのものを研究したことを伝えています。(参照:Springer Nature(2024年) | ピエロと多面体研究)

主要作品

故郷サンセポルクロの祭壇画、アレッツォの壁画、ウルビーノ宮廷の肖像と宗教画など、現存する12の作品・作品群を制作の流れに沿って紹介します。

キリストの洗礼

The Baptism of Christ / c. 1437–1445 / 卵テンペラ、ポプラ板 / 167 × 116 cm

The National Gallery, London

サンセポルクロのサン・ジョヴァンニ・バッティスタ・イン・ヴァル・ダフラ聖堂の祭壇画中央部。鳩、器、キリストの身体が縦にそろい、川辺の植物や遠景には故郷の地形が反映されています。周囲の別パネルは1460年代にマッテオ・ディ・ジョヴァンニが加えました。

所蔵館の作品情報 ↗

慈悲の聖母祭壇画

Polittico della Madonna della Misericordia / 1445–ante 1462 / テンペラ、油、金、板 / 約323 × 273 cm(現状の複合体/公式記録参照)

Museo Civico di Sansepolcro

1445年に慈悲同信会が注文し、1462年までには支払いが行われた多翼祭壇画。聖母は大きな青いマントの下に信者を保護しています。17世紀の祭壇改造で一部が切断・分離され、現在の構成は制作当初と異なります。

所蔵館の作品情報 ↗

聖シジスモンドの前のシジスモンド・パンドルフォ・マラテスタ

Sigismondo Pandolfo Malatesta davanti a San Sigismondo / 1451 / フレスコ(後に剥離移設) / 現地壁画/公式記録参照

Tempio Malatestiano, Rimini

1451年の署名と年記が残る壁画。領主シジスモンド・パンドルフォ・マラテスタが守護聖人の前にひざまずき、背景には領主が築いたカステル・シスモンドの姿が描かれています。

所蔵館の作品情報 ↗

聖十字架伝説

Storie della Vera Croce / c. 1452–1466 / フレスコ / 現地壁画/寸法可変

Basilica di San Francesco, Arezzo

アレッツォのサン・フランチェスコ聖堂バッチ家礼拝堂の壁画群。『黄金伝説』を出典とする聖なる木の物語を、時間順ではなく壁面の対応関係によって構成しています。夜の《コンスタンティヌスの夢》は光源表現の重要な例です。

所蔵館の作品情報 ↗

鞭打ち

Flagellazione / c. 1450s / テンペラ、板 / 67.5 × 91 cm

Galleria Nazionale delle Marche, Urbino

左奥のキリスト受難と右手前の三人を、精密な建築遠近法のもとで描いた板絵。署名が残るものの、注文主、用途、人物の身元や制作年代には諸説があります。

所蔵館の作品情報 ↗

出産の聖母

Madonna del Parto / c. 1450–1465 / フレスコ / 200 × 200 cm

Musei Civici Madonna del Parto, Monterchi

左右の天使が幕を開き、妊娠した聖母を示すフレスコ画。聖母が腹部に触れる身振りと、赤・緑を入れ替えた天使の衣が特徴です。もとはモンテルキ郊外の聖堂にありました。

所蔵館の作品情報 ↗

復活

La Resurrezione / c. 1458–1468 / フレスコと乾式彩色を併用した壁画(壁体ごと移設) / 287 × 262 cm

Museo Civico di Sansepolcro

旧市庁舎のための大きな壁画。キリストが棺の縁に片足をかけて立ち、四人の兵士が足元で眠っています。2015〜18年に壁体と表面の調査・修復が実施されました。

所蔵館の作品情報 ↗

大天使ミカエル

Saint Michael / completed 1469 / 油、板(おそらくポプラ) / 133 × 59.5 cm

The National Gallery, London

1454年に注文され1469年に完成した聖アウグスティヌス祭壇画の部分。大天使が蛇の姿の悪魔の首を持っています。祭壇画は後に分解され、2024年の展覧会で現存する八枚の板絵が再会しました。

所蔵館の作品情報 ↗

ウルビーノ公フェデリコ・ダ・モンテフェルトロとバッティスタ・スフォルツァの肖像

I duchi di Urbino Federico da Montefeltro e Battista Sforza / c. 1473–1475 / 油、板 / 各47 × 33 cm

Gallerie degli Uffizi, Firenze

フェデリコ・ダ・モンテフェルトロと妻バッティスタ・スフォルツァの横顔を対にした肖像画。背景の連続する風景は統治領域を想起させ、裏面には凱旋車と徳を表す寓意像が描かれています。

所蔵館の作品情報 ↗

モンテフェルトロ祭壇画(サン・ベルナルディーノ祭壇画)

Madonna col Bambino e santi, angeli e Federico da Montefeltro (Pala di San Bernardino) / 1472–1474 / テンペラ、板 / 251 × 172 cm

Pinacoteca di Brera, Milano

古典建築のなかの聖母子と聖人たち、祈るフェデリコを描いた祭壇画。聖母の上には卵が吊り下げられています。板絵は後に周辺を切り詰められ、当初の建築表現は現在より広いものでした。

所蔵館の作品情報 ↗

セニガリアの聖母

Madonna di Senigallia / c. 1474–1478 / テンペラ、板(イタリア文化財総合目録による) / 約61 × 53.5 cm

Galleria Nazionale delle Marche, Urbino

聖母子と二人の天使を室内に配した板絵。奥の窓から入る光、棚の籠、白い薔薇、珊瑚の飾りなどが細密に描かれています。制作年代と当初の注文については研究上の幅が残ります。

所蔵館の作品情報 ↗

降誕

The Nativity / early 1480s / 油、板(おそらくポプラ) / 124.4 × 122.6 cm

The National Gallery, London

トスカーナの風景に聖母、幼児キリスト、歌う天使、羊飼いを描いた晩年作。聖ブリギッタの降誕の幻視との関係が論じられます。2022年に修復が完了し、未完成とみなされていた従来の解釈が再検討されました。

所蔵館の作品情報 ↗

修復と科学調査が伝える作品の制作過程

《復活》の壁から見えてきた制作の痕跡

サンセポルクロの《復活》は、2015〜18年にフィレンツェの国立修復研究所(オピフィーチョ・デッレ・ピエトレ・ドゥーレ)が中心となって修復しました。調査では、フレスコと乾式の彩色が併用されていること、下描きを壁面に写すための粉打ちの痕跡があることが確認されました。描画層には構図を描き直した痕跡が確認されず、顔料や仕上げの差異を含む複雑な技法が一つの画面に用いられています。

過去の処置で重ねられた三層の定着剤のうち、一層には茶色の顔料が含まれていました。変色した材料を段階的に除去したことで、背景の丘に描かれた小さな町や城塞も読み取りやすくなりました。さらに壁体の調査と公文書の再検討から、現在の展示位置に移される前の設置場所や、1468年頃の政治情勢との関係が提案されています。(参照:フィレンツェ国立修復研究所 | 《復活》の修復事業)

《降誕》の「未完成」説が変わった理由

《降誕》は19世紀にロンドンへ渡った時点で、板の割れと絵具層の損傷を抱えていました。洗浄によって羊飼いの顔などの薄い彩色が失われ、下描きが表に現れた部分もあります。こうした状態が、絵は画家の死によって完成されなかったという見方につながりました。

ナショナル・ギャラリーの修復チームは、2019〜22年にかけて板と絵具層を調査・処置しました。小屋の壁に差す光や羊飼いの姿が読み取りやすくなり、人物の影の少なさを聖ブリギッタの降誕の幻視と結び付ける解釈が強まりました。損傷した部分を見ながら制作当初の仕上がりを推測する難しさも示された修復です。(参照:ロンドン・ナショナル・ギャラリー | 《降誕》修復報告(2022年))

ウルビーノの二作品を調べた非破壊分析

2026年7月20〜24日、イタリア学術研究会議(CNR)と大学・美術館の共同研究チームが、ウルビーノにある《鞭打ち》と《セニガリアの聖母》を非破壊的な方法で調査しました。着目したのは画材、制作方法、下描きの有無などです。CNRは同年8月4日に調査の実施と目的を発表しました。

この調査は2027年10月から2028年1月にロンドンのナショナル・ギャラリーで予定されている展覧会の研究準備とも関わっています。公表された発表は調査実施の報告であり、人物の身元や《鞭打ち》の解釈が決着したとするものではありません。今後の分析結果は、遠近法だけで語られがちなピエロの制作を、下描きや顔料の選択から検討する材料になります。(参照:イタリア学術研究会議(2026年) | ウルビーノ所蔵作の非破壊調査)

略年譜

1415〜20年頃
トスカーナ東部サンセポルクロに生まれる。
1439年
フィレンツェでドメニコ・ヴェネツィアーノの壁画制作に関係する記録が残る。
1437〜45年頃
《キリストの洗礼》を制作したと推定される。
1445年
慈悲同信会から《慈悲の聖母祭壇画》の注文を受ける。
1451年
リミニでマラテスタを描いた署名・年記入り壁画を制作。
1452〜66年頃
アレッツォの《聖十字架伝説》を制作。
1450〜60年代
《鞭打ち》《出産の聖母》《復活》などを制作。個々の制作年には研究上の幅がある。
1454年
サンセポルクロの聖アウグスティヌス祭壇画を受注。
1458〜59年
教皇ピウス二世のもとでローマの壁画制作に関わる。
1469年
聖アウグスティヌス祭壇画を完成。
1472〜75年頃
《モンテフェルトロ祭壇画》《ウルビーノ公夫妻の肖像》を制作。
1474〜80年頃
《セニガリアの聖母》を制作したと推定される。
1480年代初頭
《降誕》を制作。
15世紀後半
『算盤論』『絵画遠近法論』『五つの正多面体について』を著す。成立順は概ねこの順と考えられる。
1492年
10月にサンセポルクロで死去。

まとめ

ピエロ・デッラ・フランチェスカの絵画で際立つのは、人物の位置、建築の奥行き、光の方向を厳密に考えながら、作品が求められた宗教的・社会的な役割を果たしていることです。《キリストの洗礼》に描かれたサンセポルクロの風景、《聖十字架伝説》の礼拝堂を横断する場面の配置、マラテスタやモンテフェルトロの肖像に込められた権威の表現は、それぞれ違う制作条件から生まれました。

遠近法を扱った著作では、画面に投影される形を図と手順で説明し、多面体の研究では立体そのものの性質を探究しました。数学的な検討と絵画制作が同じ生涯に継続していたことが、ピエロの特徴です。各地の作品を近年の修復研究とあわせて見ると、穏やかな印象を与える画面の背後に、地域の信仰、宮廷文化、複雑な制作工程が具体的に浮かび上がります。

参考資料・出典