Art Library

Paul Klee

パウル・クレー

スイス生まれ・ドイツ / 1879–1940 / 青騎士周辺/表現主義/バウハウス/抽象絵画

パウル・クレー:「魔法のキッチンで」 | MetSpeaks (The Met)

パウル・クレー(Paul Klee、1879–1940)は、20世紀美術の中でも最も分類しにくい作家の一人です。青騎士、表現主義、抽象絵画、シュルレアリスム、バウハウスなど複数の運動と接点を持ちながら、そのどれにも完全には収まりませんでした。線、色面、記号、文字、音楽的リズム、建築的構造、植物、動物、都市、天使、仮面などを自在に組み合わせ、具象と抽象の境界を往復しました。子どもの絵のように見える単純な線も、偶然に任せた素朴な描写ではなく、長年の素描、版画、色彩研究、音楽教育、美術理論の蓄積から生まれています。

クレーの制作を理解する鍵は、作品を「何が描かれているか」だけでなく、「どのように生成しているか」から見ることです。若い頃は音楽家になるか画家になるか迷い、1900年代には風刺的な銅版画、1911年以降は青騎士周辺、1914年のチュニジア旅行では色彩、1921年以降のバウハウスでは線・面・色の生成原理を徹底して考えました。1933年にナチス政権下で教授職を追われ、ベルンへ戻った後は病気と向き合いながら、太く粗い記号と大画面へと作風を変えていきます。本記事では、音楽、風刺版画、青騎士、チュニジア、第一次世界大戦、バウハウスの教育、エジプト旅行、デュッセルドルフ時代、ナチスによる迫害、病気、晩年の「天使」や《死と火》、そして2025–26年の研究までをたどり、クレーが「絵を描くこと」を完成した像の模写ではなく、世界が形を生み出す過程そのものとして考えたことを見ていきます。

CONTENTS

  1. 生涯と制作の変遷
  2. 音楽一家に生まれる――画家か音楽家か
  3. ミュンヘン――ハインリヒ・クニールとフランツ・フォン・シュトゥック
  4. 1901–02年イタリア旅行――古典との衝突
  5. 《インヴェンション》――風刺、身体、版画
  6. ガラス絵と技法実験
  7. リリー・シュトゥンプフとの生活――家庭と制作
  8. アルフレート・クービン――線への自信
  9. 青騎士――カンディンスキー、マルク、マッケ
  10. 1912年パリ――キュビスム、ドローネー、色彩
  11. 1914年チュニジア旅行――「色が私を捉えた」
  12. 色彩を「見たものの色」から解放する
  13. 第一次世界大戦――マッケとマルクの死
  14. 兵役と制作――前線に送られなかった画家
  15. 油彩転写――線を直接描かない方法
  16. 《奇跡を紹介する》――戦時期の記号世界
  17. 戦後ドイツ――評価の急上昇
  18. バウハウス――1921年から1931年
  19. 教えることで制作を理論化する
  20. 「線を散歩させる」――点から線、線から面へ
  21. Paul Kleeの作品をどう見るか
  22. 主要作品
  23. 音楽を絵画へ移す――リズム、反復、ポリフォニー
  24. 《さえずる機械》――自然と機械の不穏な接続
  25. 子どもの絵から何を学んだのか
  26. 《猫と鳥》――単純な形と欲望
  27. 《魚の魔術》――複数世界を一枚に重ねる
  28. シュルレアリスムとの近さと距離
  29. 「青の四人」――アメリカでの受容
  30. 1928–29年エジプト旅行――ピラミッド、ナイル、文字
  31. 格子と色面――風景を構造へ変える
  32. デュッセルドルフ時代――点描的な画面へ
  33. 《パルナッソスへ》――色彩、山、ピラミッド、音楽
  34. 1933年――ナチス政権と教授職の喪失
  35. ベルンへの帰還――故郷なのに外国人であること
  36. 1937年「退廃芸術」――102点の没収
  37. 強皮症――身体の変化と画面の変化
  38. 晩年――細い線から太い記号へ
  39. 天使たち――未完成な存在
  40. 《死と火》――文字と顔が重なる
  41. 1939年――1年間に1,253点
  42. スイス国籍を得る前に亡くなる
  43. 支持体と素材――紙、布、石膏、ガーゼ、ジュート
  44. 表裏を使う――作品は一方向だけではない
  45. 作品番号と自己管理――制作を記録する作家
  46. 戦後美術への影響
  47. 哲学書の表紙になったクレー
  48. 2025–26年の再評価――音楽と「裏面」
  49. Paul Kleeは何を変えたのか
  50. 略年譜
  51. 参考資料・出典

生涯と制作の変遷

Paul Kleeは1879年12月18日、スイスのベルン近郊Münchenbuchseeに生まれました。父Hans Wilhelm Kleeはドイツ出身の音楽教師、母Ida Maria Frickは歌手・ピアニストで、家庭では音楽が日常の中心にありました。Klee自身も幼少期からviolinを学び、Bernの音楽生活に参加するほどの技量を持っていました。青年期まで画家になるか音楽家になるか迷い、最終的には「音楽ではすでに偉大な過去が完成しているが、美術ではまだ新しいことができる」と考えて視覚芸術を選びます。

1898年にMunichへ移りHeinrich Knirrの私塾で学び、1900年にはAkademie der Bildenden Künste MünchenでFranz von Stuckの絵画クラスに入りました。しかし5か月ほどで学院を離れ、1901–02年に彫刻家Hermann HallerとItalyを旅行します。古代美術とRenaissanceの圧倒的な完成度に直面して制作上の危機を感じ、Bernの実家へ戻って独学を続けました。この停滞期にetching、drawing、glass paintingを試し、完成された美術史を模倣するのではなく、線や材料そのものから自分の語彙を作る方向へ進みます。

1906年にpianistのLily Stumpfと結婚してMunichへ移り、翌年息子Felixが生まれます。1910年頃からAlfred Kubinとの交流を通じてdrawingへの評価が高まり、1911年以降はWassily Kandinsky、Franz Marc、August Mackeら青騎士周辺のartistsと親しくなりました。1914年4月にはMacke、Louis MoillietとTunisiaを旅行し、architectureとlandscapeを色面へ分解した水彩を多数制作。この経験はKleeが自分を本格的に「画家」と確信する転機になりました。

第一次世界大戦では1916年に兵役へ召集されましたが、前線ではなく航空隊関連施設などで勤務し、制作を継続しました。戦後評価が急速に高まり、1921年にWeimar Bauhausへ招聘されます。1925年のDessau移転後も教え、1931年にDüsseldorf Academyへ移りました。1933年、ナチス政権下で教授職を追われ、年末にLilyとBernへ戻ります。1935年頃から後に強皮症と理解される病気の症状が現れ、一時制作数が激減しますが、1937年以降再び制作を加速。1939年には1,253点を記録しました。1940年6月29日、Locarno-Muraltoで死去しました。

音楽一家に生まれる――画家か音楽家か

Kleeを理解するうえで音楽は比喩ではなく、実際の身体経験でした。violinを演奏し、scoreを読み、ensembleの中で複数の声部を同時に聞く訓練を受けています。後の作品で反復、変奏、rhythm、polyphonyという語を使うとき、それは音楽をぼんやり連想しているだけではありません。

2025年Zentrum Paul Kleeの《The Musical Klee》は、Kleeが若い頃Bern市のorchestraでviolinを演奏していたこと、音楽と美術のどちらを職業にするか長く迷ったことを改めて取り上げました。Kleeは音楽を捨てて画家になったのではなく、生涯演奏を続け、MozartやBachへの愛着を視覚構成へ移しました。

彼の絵に音符のような記号が現れることがありますが、より重要なのは画面全体の構造です。色の反復を拍子のように並べ、複数の線を声部のように重ね、同じmotifを変奏します。絵を見ることを時間的な経験へ近づけた点で、音楽は制作の深い基盤でした。

ミュンヘン――ハインリヒ・クニールとフランツ・フォン・シュトゥック

1898年にMunichへ移ったKleeは、Heinrich Knirrのdrawing schoolで人体とdrawingを学びます。1900年にはFranz von StuckのAcademy classへ進みました。StuckはSymbolismを代表する著名な画家でしたが、Kleeはacademic paintingに強く馴染んだわけではありません。

当時のKleeは色彩よりdrawingに自信があり、paintingについては自分の方向を見つけられずにいました。後年「色の画家」とみなされることを考えると、これは重要です。最初からcolouristだったのではなく、線を先に獲得し、色は長い時間をかけて学びました。

学校教育を短期間で離れた後も、彼は技術を軽視しませんでした。etchingの腐食、groundの作り方、紙と布への転写、絵具の層などを生涯実験します。Kleeの自由な表現は、academic skillの否定より、技術を別の規則へ組み替えることから生まれました。

1901–02年イタリア旅行――古典との衝突

1901年から02年、KleeはHermann HallerとItalyを約半年旅行し、Rome、Florence、Naplesなどで古代・Renaissance美術を見ました。Zentrum Paul Kleeは、この旅で彼がcreative crisisを経験したと記録しています。

問題は古典が「嫌いだった」ことではありません。むしろ完成度が高すぎたことでした。Renaissanceの人体やcompositionをそのまま追っても、現代のartistとして何を付け加えられるのか分からない。Kleeは過去のmasterpiecesと競う代わりに、線、記号、primitive art、children’s drawing、caricatureなど、正統的な美術史が周辺へ置いてきたものから出発します。

ただし古典への関心は消えません。晩年までarchitecture、mythology、古代Egyptのhieroglyphなどを引用します。過去を拒否するのではなく、完成されたstyleとして模倣しないことがKleeのmodernismでした。

《インヴェンション》――風刺、身体、版画

1903–05年頃のetching series《Inventions》では、Kleeは美しいideal bodyとは逆の、滑稽で不格好な人物を描きました。《Two Gentlemen Bowing to One Another, Each Supposing the Other to Be in a Higher Position》では、互いを上位者と思い込み過剰に礼をする二人の裸体が社会的hierarchyを風刺します。

Guggenheim所蔵版は1903年9月制作、11.8 × 20.7cmの小さなetchingです。小型でありながら、人物のgestureと題名が一体となって意味を作ります。Kleeにとってtitleは後から内容を説明するlabelではなく、imageを別方向へ動かす装置でした。

この時期に確立した「line + figure + language + irony」という構造は、後の《Twittering Machine》や天使seriesまで続きます。色彩以前に、Kleeは線を考えるartistとして独自性を得ていました。

ガラス絵と技法実験

Bernへ戻った1902–06年、Kleeはetchingと並んでreverse glass paintingを試しました。glassの裏側へ絵具を置き、表側から見る方法で、通常のpaintingとは制作順序が逆転します。

この技法経験は、Kleeが「完成画像を直接描く」ことに固執しなかったことを示します。油彩転写でも、下絵と最終面の間に別の紙と油絵具層を挟みます。後の作品でもgauze、plastered fabric、cardboard、juteなどを使い、supportそのものを変えています。

彼にとってmediumは透明な容器ではなく、imageがどのように生まれるかを決める条件でした。予期しないsmudge、擦れ、裏写りを排除せず、生成過程のtraceとして取り込みます。

リリー・シュトゥンプフとの生活――家庭と制作

1906年、KleeはMunichで知り合っていたpianist Lily Stumpfと結婚しました。翌年Felixが生まれ、家庭ではLilyのpiano lessonsが長く主要な収入源となりました。Kleeが家庭内でchildcareやhouseworkを担った時期もあります。

「男性artistが制作し、妻が支える」という単純なbiographyより、Klee家では音楽家Lilyの職業と収入がartist careerの形成に具体的な役割を持っていました。1921年のBauhaus就任はKleeにとって安定した職と大きな評価を意味し、家族の経済関係も変化しました。

Lilyとの生活を通じて音楽は家庭の日常として続きました。BachやMozartを演奏することと、studioでlineやcolourを研究することが別世界ではなかった点は、Kleeの制作を理解するうえで重要です。

アルフレート・クービン――線への自信

1910年、Kleeはfantastic drawingsで知られるAlfred Kubinと知り合いました。KubinはKleeのdrawingを高く評価し、若いartistにとって重要なsupporterとなります。

Kubinの暗く幻想的な世界とKleeの初期線描には接点がありますが、Kleeは次第にlineそのものの動きをより軽く扱うようになります。lineはobjectの輪郭を囲むだけでなく、紙上を動き、途中でfigure、animal、machine、letterへ変わります。

この柔軟さが、後にBauhausで「点が動けば線になる」「線が移動すれば面になる」という生成的なdrawing theoryへ発展します。

青騎士――カンディンスキー、マルク、マッケ

1911年以降、KleeはWassily Kandinsky、Franz Marc、August Mackeら青騎士周辺のartistsと交流し、1912年の第二回青騎士展に参加しました。ただしZentrum Paul Kleeが強調するように、Kleeは生涯を通じて特定のmovementへ正式に収まることを避けています。

青騎士から受けた最大の刺激の一つは、色と形を自然の再現から解放できるという確信でした。Kandinskyの抽象、Marcの色彩、Mackeの構成から多くを学びます。

一方、Kleeは完全非具象へ一方向に向かいませんでした。house、fish、bird、face、plantなど認識可能なmotifを残し、abstract structureとfigurative associationを往復します。この曖昧な位置が、後にDadaやSurrealismからも関心を持たれる理由になります。

1912年パリ――キュビスム、ドローネー、色彩

1912年Paris旅行でKleeはPicasso、BraqueらCubismに加え、Robert Delaunayの色彩的なabstractionへ強い関心を持ちました。Delaunayが色の対比とrhythmによって画面を構成する方法は、Kleeにとって重要でした。

KleeはDelaunayのtextをGermanへ翻訳して『Der Sturm』へ紹介しており、単なるvisual influence以上に理論を理解しようとしていました。1914年Tunisiaへ行く以前に、colourがformを作る可能性を理論的には学んでいたのです。

その意味でTunisiaは「突然色彩に目覚めた奇跡」ではありません。Delaunay、Macke、Kandinskyとの議論が蓄積した上で、North African lightとarchitectureがそれを身体的な確信へ変えたと考えるべきです。

1914年チュニジア旅行――「色が私を捉えた」

1914年4月、KleeはAugust Macke、Louis Moillietと約2週間Tunisiaを旅行しました。Zentrum Paul Kleeの2014年調査では、Kleeはこの短期間に35点のwatercolourと13点のdrawingを制作したとされています。

《Country Houses on the Beach》ではcube状のhousesとlandscapeがbrightなcolour blocksへ分解され、現実の色を忠実に写すのではなく、lightとarchitectureのrhythmを色面へ変えています。Kleeは現地のlandscapeを「patchwork rhythm」のように捉えました。

有名な日記の言葉では、Kleeは「色が私を捉えた」「色と私は一つだ」「私は画家だ」と書いています。この文章は伝説化されやすいものですが、作品を見ると確かに1914年前後でcolourの役割が大きく変わります。線でobjectを囲んでから着色するのではなく、色面そのものがarchitectureやspaceを構築し始めます。

同時に、この旅行を単純な「異国の光による西洋artistの覚醒」と美化しすぎる必要はありません。20世紀初頭European artistsによるNorth Africa旅行はcolonial tourismの条件の中で成立していました。Kleeの作品は現地社会の民族誌的記録ではなく、自身のformal problemへlandscapeを変換したものです。

色彩を「見たものの色」から解放する

Tunisia以後、Kleeにとってcolourはobjectのlocal colourを説明するものではなくなります。red houseだから赤く塗るのではなく、red、orange、blue、greenの相互関係によってspaceとtemperatureを作ります。

この考えはBauhausで体系化されました。complementary colours、gradation、tonal movementを教えながら、自作品では理論を機械的ruleとして適用せず、具象motifや詩的associationと混ぜます。

《Three Houses》(1922)のようなwatercolourでは、greenとorange、orangeとvioletなどKleeが「false colour pairs」と呼んだ組み合わせが使われています。色彩理論を実験しながら、それをsmall landscapeへ落とし込むのがKleeらしさです。

第一次世界大戦――マッケとマルクの死

Tunisia旅行から数か月後、第一次世界大戦が始まります。August Mackeは1914年9月に戦死し、Franz Marcも1916年3月にVerdun近郊で死亡しました。青騎士周辺の親しいartistsを失ったことはKleeに大きな衝撃を与えました。

Kleeはwar paintingを大量に制作したartistではありません。しかし作品には兵士、飛行機、mask、death、mechanical figureなどが現れ、現実のviolenceが直接描写ではなくsymbolic formへ変換されます。

彼のfantasyは現実から逃げるためだけのものではありません。現実をそのまま描いても捉えられない不安、死、mechanizationを別のimage systemへ変える方法でした。

兵役と制作――前線に送られなかった画家

1916年3月、KleeはGerman armyへ召集されました。最初にLandshutでtrainingを受け、その後aircraft-related unitsへ配置されます。Zentrum Paul Kleeによれば、front lineへ送られることはありませんでした。

軍務中もdrawingやpaintingを続け、作品をdealerへ送りました。皮肉なことにwar yearsに市場評価は上昇し、1917年BerlinのGalerie Der Sturmで個展が開かれます。

「戦争を経験したartist」と言っても、前線兵士だったMarcやMackeとは条件が大きく異なります。Kleeの作品をwar testimonyとして同列に扱わず、軍の制度内にいながら制作を継続した位置を区別する必要があります。

油彩転写――線を直接描かない方法

Kleeは1910年代から「oil-transfer drawing」と呼ばれる独自技法を発展させました。下絵を別紙に描き、その下へ乾いたoil paintを塗った紙を置き、needleなどで上から線をなぞることで、最終支持体へlineを転写します。

この方法では、直接penで描くよりlineが不均一になり、余計なsmudgeやbroken edgeが生じます。Kleeはそれをfailureとして消さず、imageの生命感として残しました。

MoMAの《Twittering Machine》もこの技法で制作されています。artistのhand gestureが一度媒介されることで、lineは意図的でありながら完全にはcontrolできないものになります。Kleeは偶然性を、作品の外部ではなく制作工程へ組み込みました。

《奇跡を紹介する》――戦時期の記号世界

MoMA所蔵《Introducing the Miracle》(1916)は、plastered fabricにgouache、pen、inkを用いた小品です。figure、sign、architectureのようなshapeが重なり、何かのeventを示しているようで完全なnarrativeにはなりません。

Klee作品では「読めそうで読めない」状態が重要です。文字に似た形、mapに似た構造、musical notationのようなmarkが意味を予感させますが、一義的な解読を拒みます。

このsemiotic ambiguityは後のSurrealistsにも魅力的でした。imageをdream symbolのように読むことはできますが、Klee自身は一つのpsychological codeへ固定していません。

戦後ドイツ――評価の急上昇

1918年以降、KleeはMunichのavant-gardeで急速に評価されます。dealer Hans Goltzと契約し、1920年には大規模なretrospectiveが開かれました。同年Walter GropiusからBauhausへの招聘を受け、1921年1月に正式に着任します。

40歳を前にして、Kleeは長い模索期から「教師として理論を求められるartist」へ立場を変えました。それまで感覚的に行ってきたline、colour、growthの考えを、学生へ説明可能なsystemへ整理する必要が生まれます。

Bauhaus periodの重要性は、学校のstyleへKleeが従ったことではなく、教える行為がartist自身のthinkingを精密化したことにあります。

バウハウス――1921年から1931年

Kleeは1921年Weimar Bauhausへ着任し、bookbinding、stained glass、mural paintingなど複数のworkshopに関わりながら、形態・色彩・構成の授業を担当しました。1925年BauhausがDessauへ移ると、1926年に家族も移住し、Kandinsky夫妻とGropius設計のMaster Housesの一棟を共有しました。

Bauhausは一つのstyleを教える学校ではなく、Gropius、Kandinsky、Itten、Schlemmer、Moholy-Nagy、Albersら異なる方法論が共存する場でした。Kleeのteachingも、industrial designへ直接役立つstandard formを教えるというより、自然の生成、運動、色彩、balanceの原理を分析する独特なものでした。

1925年には『Pädagogisches Skizzenbuch(教育スケッチブック)』がBauhausbücher第2巻として刊行されます。Bauhaus-Archivは、この本をline、shape、surface、colourの関係を幾何学、科学的diagram、直観的思考を交えて説明するKlee教育の代表的documentと位置づけています。

教えることで制作を理論化する

Kleeの授業notesは非常に膨大です。学生へ完成作品の模倣を求めるのではなく、点が移動してlineになり、lineが面を作り、重力、成長、回転、balanceによって形が変化するprocessを分析しました。

植物のbranch、blood vessel、river、building planなど、自然と人工物を同じstructural problemとして見ることも特徴です。植物をbotanical illustrationとして正確に描くより、「どのような力がこの形を成長させたのか」を考えます。

そのためKleeのabstract formは装飾的patternだけではありません。visible worldの背後にあるmovementやgenerationをmodel化しようとしています。

「線を散歩させる」――点から線、線から面へ

Kleeに結びつけられる有名な表現の一つに「線を散歩させる」という考えがあります。MoMAは《Twittering Machine》の解説で、Kleeがdrawingを「自由に動くactive line」と考えていたことを紹介しています。

重要なのは、lineがobjectのoutlineを写すためだけに存在しないことです。紙上を進むline自体がmovementを持ち、途中でbirdの首、machineのhandle、mountain、letterへ変化します。

viewerもそのlineを目で追うため、drawingを見ることが時間的になります。出発点から終点まで視線が移動することで、static imageの内部にdurationが生まれます。

Paul Kleeの作品をどう見るか

第一に、作品を「かわいい」「子どもっぽい」で止めず、lineがどこから始まりどこへ進むかを追ってください。単純な形でも、線の順序と方向によってmovementが組み立てられています。

第二に、titleを確認してください。Kleeは題名を非常に重視し、imageだけでは決まらない意味を追加します。《Runner at the Goal》では額に「1」を付けたfigureが、色面の実験からcomicなrace sceneへ変わります。

第三に、支持体と技法を見ます。paper、gauze、plastered fabric、cardboard、canvas、juteではcolourの沈み方が異なり、oil-transferではlineにsmudgeが生じます。Kleeの作品はimageだけでなくmaterial experimentです。

第四に、具象か抽象かを急いで決めないことです。cityscapeがcolour gridに見え、gridがlandscapeに見え、faceがletterにも見える。二つの読みが同時に成立する状態をKleeは意図的に作ります。

最後に、音楽、nature、mathematics、languageを別々のsourceとして分けすぎないことです。Kleeはそれらを「形がどのように生まれ、変化するか」という同じ問題から見ていました。

主要作品

1903年の風刺版画から1914年Tunisia、第一次世界大戦、Bauhausの色彩と線、Egypt旅行後の幾何学、Düsseldorf時代の《Ad Parnassum》、1940年《Death and Fire》まで、Paul Kleeの約40年間にわたる変化が見える12点を選びました。具象と抽象、線と色、音楽と記号、旅行と記憶の関係が追える構成です。

互いをより高い地位にあると思い込んで礼をする二人の紳士

Two Gentlemen Bowing to One Another, Each Supposing the Other to Be in a Higher Position (Invention 6) / 1903年9月 / エッチング、紙 / 11.8 × 20.7 cm

Solomon R. Guggenheim Museum, New York

初期《Inventions》を代表する風刺版画。裸体の二人が互いを上位者だと思って過剰に礼をする場面を描き、Kleeのline、身体、題名、社会的ironyが早くから結びついていたことを示します。

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浜辺の田舎家

Country Houses on the Beach / 1914 / 水彩、紙 / Zentrum Paul Klee公式作品記録参照

Zentrum Paul Klee, Bern

Macke、MoillietとのTunisia旅行で制作された重要な水彩。cube状のarchitectureとlandscapeをbrightなcolour blocksへ変え、Kleeが「色と私は一つだ」と確信する転換期を示します。

所蔵館の作品情報 ↗

奇跡を紹介する

Introducing the Miracle / 1916 / 石膏を施した布にガッシュ、ペン、インク、板に貼付 / 29.2 × 23.6 cm

The Museum of Modern Art, New York

第一次世界大戦期の小品。figure、文字、architectureのようなsignが同じsurfaceで混ざり、読めそうで読めないKlee独自のsymbolic languageが形成されていることを示します。

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ゴールの走者

Runner at the Goal / 1921 / 水彩、鉛筆、紙、厚紙に貼付、ガッシュの縁取り / 39.4 × 30.2 cm

Solomon R. Guggenheim Museum, New York

Bauhaus着任年の作品。重なるcolour barsによって走る身体の連続動作を一画面へ示し、額の「1」によってformal experimentをhumorousなrace sceneへ変えています。

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三つの家

Three Houses / 1922 / 水彩、紙、厚紙に貼付 / 24.4 × 34.3 cm

The Metropolitan Museum of Art, New York

Bauhausでの色彩研究と連動する作品。green/orange、orange/violetなどKleeが「false colour pairs」と呼んだ組み合わせを用い、houseという具象motifをcolour relationの実験へ変換しています。

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さえずる機械

Twittering Machine (Die Zwitscher-Maschine) / 1922 / 油彩転写、水彩、インク、紙、ガッシュとインクの縁取り、板に貼付 / 64.1 × 48.3 cm

The Museum of Modern Art, New York

birdsongとhand-cranked machineを不穏に結びつけた代表作。1937年にNationalgalerie Berlinから「退廃芸術」として没収され、1939年にMoMAへ収蔵されたprovenanceも20世紀史上重要です。

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魚の魔術

Fish Magic / 1925 / 油彩、水彩ほか、カンヴァスおよびモスリンを含む混合技法 / Philadelphia Museum of Art個別作品記録参照

Philadelphia Museum of Art

fish、plant、clock tower、moonなどがdark fieldに浮かび、水中・天空・地上が一つのworldへ混在します。black layerをscrapeして下層のcolourを見せるなど、imageとmaterialの両方で複数層を作っています。

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猫と鳥

Cat and Bird / 1928 / ジェッソを施したカンヴァスに油彩とインク、木板に貼付 / 38.1 × 53.2 cm

The Museum of Modern Art, New York

猫の巨大なfaceと額のbirdをsimple geometryで構成。red heart-shaped noseを含む最小限のshapeだけで、猫の視線と鳥へのdesireという心理状態を成立させています。

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Gの記念碑

Monuments at G. / 1929 / 石膏、水彩、カンヴァス / 69.5 × 50.5 × 3.2 cm

The Metropolitan Museum of Art, New York

Egypt旅行直後、horizontal colour stripesとvertical/diagonal linesからGizaのpyramidsを暗示した作品。landscapeの印象をgeometryとrhythmへ翻訳するKleeの方法が明確に現れています。

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明晰化

Clarification / 1932 / 油彩、カンヴァス / 70.5 × 96.2 cm

The Metropolitan Museum of Art, New York

Düsseldorf時代の点描的painting。大きなcolour fieldsの上へ非常に小さなdotsを水平に重ね、Seurat式の光学混合とは異なる「色を積み上げて画面を構築する」Klee独自の方法を示します。

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パルナッソスへ

Ad Parnassum / 1932 / カゼイン絵具、油絵具、スタンプによる線と点、カンヴァス / 100 × 126 cm

Kunstmuseum Bern, Verein der Freunde

Klee最大級の代表作。Egyptのpyramid、Swiss mountain、ApolloとMusesのParnassusを重ね、stamped colour unitsの集積から巨大なtriangleとsunを立ち上げます。音楽的な重層、旅のmemory、色彩理論が統合された作品です。

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死と火

Tod und Feuer (Death and Fire) / 1940 / 油彩と色糊、ジュート / 46.7 × 44.6 cm

Zentrum Paul Klee, Bern

死の直前に制作された晩年の代表作。skull-like faceの中にGerman word「Tod」を思わせるletter formsが組み込まれ、顔と文字、figureとsignが一つになります。病気以後の太い線によるlate styleの到達点です。

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音楽を絵画へ移す――リズム、反復、ポリフォニー

Kleeが音楽から絵画へ移したものは、violinや音符の図像だけではありません。反復するcolour units、同じmotifのvariation、複数のlineが同時に進む構造を、musical rhythmやpolyphonyと類似するものとして考えました。

《Vocal Fabric of the Singer Rosa Silber》(1922)のように、題名自体がvoiceとtextileを結びつける作品もあります。声を直接描けないため、colourとlineのpatternへ変換します。音が時間の中で展開するように、viewerの視線も画面を順に移動します。

2025年Zentrum Paul Kleeの《The Musical Klee》は、Kleeの音楽家としての具体的な生活と、Bauhausでrhythm、melody、polyphonyを視覚教育へ応用したことを再検討しました。音楽は後世の解釈ではなく、artist自身の長期的な思考方法でした。

《さえずる機械》――自然と機械の不穏な接続

1922年《Twittering Machine》では、四羽のbird-like figuresが一本のbarへつながれ、右側のhandleで回転させられるmachineのように描かれます。下にはpitあるいはtrapのような形が開き、songとmechanismが奇妙に結びつきます。

MoMAはこの作品をnatureとindustryのviolent marriageとして解説しています。birdsongは自然の自由なsoundであるはずなのに、handleで操作されるmechanical repetitionへ変換されています。

しかしこれは単純なtechnology批判でもありません。Klee自身はaviation、mechanics、scientific diagramsにも関心を持っていました。machineを拒絶するより、生物とmachineの境界を滑稽で不穏なhybridとして描いたと見る方が適切です。

さらにこの作品は1937年にGerman museumから没収され、「Degenerate Art」展に含まれました。その後1939年にMoMAが取得しています。作品の内容だけでなく、国家によるmodern art排除とAmerican museumによる収蔵というprovenanceも20世紀史の一部です。

子どもの絵から何を学んだのか

Kleeはchildren’s drawingを高く評価しました。MoMAは《Cat and Bird》の解説で、子どもはcreative sourceに近いとKleeが考えていたことを紹介しています。

ただし「子どものように無邪気に描いた」のではありません。adult artistがacademic conventionを意識的に外し、少ないshapeで世界を成立させる方法をchildren’s artから学びました。

子どものdrawingではscaleやperspectiveが現実と一致しなくても、重要なobjectが大きく描かれることがあります。Kleeもvisual accuracyよりpsychological importanceを優先し、bird、moon、eye、heartを必要な大きさで置きます。

そのため「primitive」や「childlike」という形容は、未熟さを意味するのではなく、European academic realismとは別のrepresentation systemを探すmodernist strategyとして理解する必要があります。

《猫と鳥》――単純な形と欲望

1928年MoMA所蔵《Cat and Bird》では、猫の巨大なfaceの額に小さなbirdが配置されています。catのeyes、ears、noseはovalやtriangleなど極めてsimpleなgeometryへ還元され、nose tipはred heartの形をしています。

birdは物理的には猫の額の上に存在するように見えますが、心理的には猫のmindにあるdesireとも読めます。Kleeはoutside worldとinner imageを同じsurfaceへ重ねます。

ここでは子どもの絵に近い単純さが、psychologyを表す高度なsystemになります。realistic anatomyを描かなくても、「猫が鳥を欲している」という関係が一瞬で理解できます。

《魚の魔術》――複数世界を一枚に重ねる

1925年Philadelphia Museum of Art所蔵《Fish Magic》では、fish、plants、clock tower、moon、人物の断片のような形がdark fieldへ浮かびます。aquatic、celestial、earthly worldsが同じspaceへ混ざり、どこが水中でどこが空かを決められません。

Philadelphia Museumによれば、Kleeは下層のcolourをblack surfaceで覆い、scratchやdrawingによって下の色を再び見せています。中央にはmuslinのsquareが貼られ、paintingとcollage、隠すことと見せることが同時に起こります。

この作品を「夢の世界」と呼ぶことはできますが、random fantasyではありません。異なるscaleとspaceを重ね、viewerが複数の世界を一つのsurfaceとして読むよう設計されています。

シュルレアリスムとの近さと距離

1925年、KleeはParisで開催された初期Surrealist group exhibition《La peinture surréaliste》へMax Ernst、Joan Miró、Pablo Picassoらとともに参加しました。fantastic creatures、dreamlike space、automatic-looking linesはSurrealismと強く共鳴します。

しかしKleeはSurrealist groupへ正式に所属せず、Freudian unconsciousを唯一の理論基盤にもしていません。natureのgrowth、music、mathematics、children’s artなど、より広い生成原理を扱いました。

SurrealistsがKleeに惹かれたことと、Klee自身をSurrealistと分類することは別です。彼の特徴はmovementを横断しながら、自分のsystemへ変換した点にあります。

「青の四人」――アメリカでの受容

1924年、dealer Galka ScheyerはKlee、Wassily Kandinsky、Lyonel Feininger、Alexej Jawlenskyを「Blue Four」としてUnited Statesで紹介し始めました。Zentrum Paul Kleeは、これをKleeのAmerican receptionに重要な出来事として位置づけています。

Blue Fourは青騎士の再結成ではなく、Scheyerが市場・教育・展覧会のため作った新しいgroupingでした。artistsのstyleは大きく異なりますが、European modernismをAmerican audienceへ紹介する枠組みとして機能しました。

1929年、Kleeの50歳を記念する展覧会がNew YorkのMoMAでも開催され、1949–50年には同館で大規模回顧展が開かれます。Kleeは死後だけでなく生前からAtlanticを越えて評価されていました。

1928–29年エジプト旅行――ピラミッド、ナイル、文字

1928年末、KleeはEgyptを旅行しました。Zentrum Paul KleeはhieroglyphsとNile landscapeが特に作品へ強い影響を残したとしています。

Tunisiaでarchitectureとcolourを見たのに対し、Egyptではhorizontal fields、irrigated land、pyramids、ancient signsが新しい構造を与えました。landscapeは自然の眺めではなく、stripes、grids、trianglesへ変換されます。

1929年《Monuments at G.》ではhorizontal colour barsをvertical/diagonal linesが横切り、lower halfのtrianglesがGiza pyramidsを思わせます。Metはこのworkを、North African desert landscapeを高度にschematizedなgeometric analogyへ変えたものと解説しています。

格子と色面――風景を構造へ変える

Kleeは1910年代からcolour rectanglesを用いていましたが、Bauhaus後半からEgypt旅行後にgrid-like compositionをさらに発展させました。landscapeを地平線とobjectsとして描く代わりに、colour unitsの連続へ変えます。

Guggenheim所蔵《In the Current Six Thresholds》(1929)ではhorizontal chromatic stripesとvertical bandsが交差し、landscapeのようでもmusical scoreのようでもあります。Guggenheimは、Kleeがcolour divisionをmusical notationと結びつけていたことを指摘しています。

ここではabstractionが自然から離れるのではなく、自然を別のruleで再構成することになっています。Nile valleyの視覚経験が、geometryへ翻訳されています。

デュッセルドルフ時代――点描的な画面へ

1931年、KleeはBauhausを離れてDüsseldorf Academyの教授となりました。Bauhaus内部の制度的緊張から距離を置き、制作時間も増えます。

1931–32年には小さなcolour unitsやdotsを重ねる作品を集中的に制作しました。Met所蔵《Clarification》(1932)では、large fieldsの上へ何千ものtiny colour dotsをhorizontal rowsで置き、foregroundがtransparent screenのようになります。

これはSeuratのoptical theoryをそのまま採用したPointillismではありません。Metも、pure colourの光学混合より、blocklike unitsを積み上げて画面を「build」するKlee独自の方法と説明しています。

《パルナッソスへ》――色彩、山、ピラミッド、音楽

1932年《Ad Parnassum》はKlee最大級のpaintingで、100 × 126cmあります。通常小さな作品が多いKleeにとって、このscale自体が例外的です。Kunstmuseum Bern所蔵で、Zentrum Paul KleeはDüsseldorf periodのpointillistic worksの「crown jewel」と位置づけています。

画面は小さなstamped colour unitsの集積から作られ、大きなtriangle/mountain/pyramidのformが浮かび、orange circleがsunのように置かれます。titleのParnassusはGreek mythologyでApolloとMusesのmountainですが、EgyptのpyramidとSwiss landscapeのmemoryも重なります。

重要なのは、Kleeが一つのplaceを描いたのではないことです。Egyptで見たpyramid、Bern近郊のmountain、mythological mountain、musicのlayeringが一枚へ圧縮されています。memoryによるabstractionの代表例です。

さらに技法も複雑です。casein colourのground、stamped white dots、上からのoil glaze、line、orange circleを異なる段階で重ねています。非常にfragileな作品で、Zentrum Paul Kleeの2007年展示ではtransport vibrationまでscientifically testedして移動が行われました。

1933年――ナチス政権と教授職の喪失

1933年1月、National SocialistsがGermanyで政権を掌握すると、modern artistsとinstitutionsへの攻撃が急速に進みました。KleeはDüsseldorf Academyの教授職をsuspendされ、最終的に解雇されます。

彼は政治運動を前面へ出すartistではありませんでしたが、作品のinternationalism、abstraction、fantasyはNazi cultural ideologyと相容れませんでした。さらに新聞ではKleeを「Galician Jew」とする虚偽の攻撃も行われました。

Kleeは同年末にLilyとGermanyを離れ、Bernへ移ります。この転換を「故郷へ帰った」とだけ表現すると不十分です。彼はSwitzerland生まれで長くBernに住みましたが、父がGerman citizenだったためKleeもGerman nationalityであり、Swiss citizenshipを持っていませんでした。

ベルンへの帰還――故郷なのに外国人であること

1933年末からKleeはBernで暮らします。生まれ育った地域へ戻ったにもかかわらず、法的にはGerman immigrantでした。naturalizationを申請しますが、手続きは生前に完了しませんでした。

この「homeでありながらforeign」という状態は、late worksのdisplacement、mask、wandering figureを読む一つのcontextになります。ただし全作品をexile allegoryへ固定することはできません。

1934年以降Kistlerwegの小さなapartmentで制作し、Zentrum Paul KleeによればこのBern後期だけで約3,000点近い作品が生まれました。exileは制作を終わらせるのではなく、後期styleを生む環境になりました。

1937年「退廃芸術」――102点の没収

1937年、Nazi regimeはKlee作品102点をGerman public museumsからconfiscateし、そのうち15点を《Entartete Kunst(退廃芸術)》展に出品したとZentrum Paul Kleeは記録しています。資料によって展示点数の数え方に差がありますが、大量没収そのものは明確です。

《Twittering Machine》もNationalgalerie Berlinから没収され、1937年の展覧会を経てart dealer Karl Buchholz/Curt ValentinのルートでUnited Statesへ移り、1939年MoMAが購入しました。

つまり作品の現在のmuseum collectionは、単純な「名作だから収蔵された」historyだけではありません。Nazi confiscation、international art market、American museum acquisitionという政治的なprovenanceを持っています。

強皮症――身体の変化と画面の変化

1935年頃、Kleeに重い病気の症状が現れます。当時正確には診断されませんでしたが、現在はscleroderma(全身性強皮症)だったと考えられています。1936年の制作はわずか25点まで低下しました。

病気が進むにつれて細かなdrawingが難しくなり、late worksでは太いblack line、大きなcolour field、粗いsupportが増えます。ただし「身体が動かなかったから線が太くなった」と一つの因果だけで説明するのは危険です。Kleeは病気以前からprimitive signsやhieroglyphsへ関心を持っており、late styleは意識的なsimplificationでもあります。

身体条件とartistic choiceが重なって、新しいvisual languageが生まれました。病気を作品の唯一の意味にするのではなく、material/scale/iconographyの変化と合わせて見る必要があります。

晩年――細い線から太い記号へ

1937年以降、Kleeは制作を再び加速し、大きなpaperやjuteに太いblack marksを置く作品を増やします。earlier worksの繊細なhairlineとは異なり、signが一目で読める強い形になります。

human head、plant、arrow、letter、cross、eyeの区別が曖昧になり、一つのmarkが複数の意味を持ちます。Egyptian hieroglyphやprehistoric cave imageを思わせる一方、modern graphic signのようにも見えます。

このlate styleは「技術的退化」ではありません。detailを捨てることで、imageが言語に近づき、letterがfaceへ変わる境界を探索しています。

天使たち――未完成な存在

Kleeはlate yearsに多数のangel drawingsを制作しました。angelはperfect spiritual beingとしてではなく、忘れっぽい、醜い、疑っている、まだ成長途中といったhuman qualitiesを持つ存在として描かれます。

Guggenheim所蔵《In Angel’s Care》(1931)の段階でもangel motifは現れていますが、1939–40年にはより切迫した存在になります。humanとdivine、lifeとdeathのbetweenにいるfigureとして適していました。

Kleeのangelをreligious beliefの直接表明と決めつける必要はありません。むしろcategoryの境界にいる存在として、彼のart全体――具象/抽象、文字/像、子ども/大人、life/death――を象徴するmotifと見ることができます。

《死と火》――文字と顔が重なる

1940年《Tod und Feuer(Death and Fire)》は死の直前に完成したlate masterpieceです。粗いjuteの上に、skull-like faceとhuman figure、yellow-orange fieldが太い線で描かれます。

Zentrum Paul Kleeの2025年解説は、中央のfaceにGerman word「Tod(死)」を構成するT、o、逆向きのdのようなshapeが潜んでいると指摘しています。letterとfaceが完全に分離せず、一つのmarkがlanguageとbodyを兼ねます。

この作品を単純な「死の予告」と読むと過度にbiographicalになります。しかしKlee自身の病気、1940年のEuropeで拡大するwar、Germanyを追われた経験を考えれば、death motifが現実と無関係とも言えません。

重要なのは、Kleeが最後まで新しいformを探していたことです。fine lineを失った代わりに、文字のように強いsignを獲得しました。

1939年――1年間に1,253点

1936年に25点まで落ちた制作数は、1937年以降急回復し、1939年には1,253点に達しました。Zentrum Paul Kleeはこれを生涯最大の年間制作数としています。

この数字は、すべてがlarge paintingだったという意味ではありません。大量のdrawings、works on paper、studiesを含みます。しかしKleeが病気によって徐々に制作できなくなったという直線的なstoryを否定します。

むしろ身体的制限を受けながら、drawingをspeed upし、formatを変え、太いmarksで大量のimageを生み出しました。late productionには死への焦りだけでなく、制作方法を変えるadaptive intelligenceがあります。

スイス国籍を得る前に亡くなる

KleeはSwitzerland生まれでBern育ちですが、父がGerman citizenだったためnationalityはGermanでした。1933年にGermanyからBernへ戻った後、Swiss naturalizationを申請します。

Zentrum Paul Kleeによれば、Kleeは1940年6月29日に死去し、申請の承認は7月5日の予定でした。つまり本人はSwiss citizenshipの最終承認を知ることなく亡くなりました。

現在美術館表記で「German, born Switzerland」「Swiss-born German」など複数の表現があるのは、このbiographyによります。国籍を単純に「スイス」とだけ記すと、exile historyが見えにくくなります。

支持体と素材――紙、布、石膏、ガーゼ、ジュート

Klee作品はoil on canvasのみに限定されません。watercolour、gouache、ink、graphite、oil transfer、plastered fabric、gauze、cardboard、juteなど、多数のmaterialsを組み合わせています。

《Red Balloon》ではchalk-primed gauze、《Twittering Machine》ではpaperとoil transfer、《Cat and Bird》ではgessoed canvas mounted on wood、《Monuments at G.》ではgypsumとwatercolour on canvasが使われています。

supportが変わればcolourのabsorption、edge、textureが変わります。Kleeは同じdrawingを別materialへ乗せるのではなく、material resistanceからimageを作るartistでした。

表裏を使う――作品は一方向だけではない

2026年5月9日から8月23日までZentrum Paul Kleeで開催された《Klee’s versos》は、Kleeがpaper、cardboard、canvasのreverse sideにもdrawingやpaintingを残していたことを本格的に取り上げました。

同館によれば、約9,600点の全作品のうち約600点でreverse sideに別のdrawing、watercolour、paintingが確認されています。裏面は単なるfailed sketchや材料節約だけではなく、表裏をformal/thematicに関連づけた例もあります。

これはKleeの制作を「正面に完成された一枚」だけで理解できないことを示します。支持体は二面を持つphysical objectであり、制作processは表から裏へ続きます。

2026年の研究は、作品catalogueで長く副次的に扱われてきたversoを独立した研究対象へ変えました。Kleeのmaterial thinkingを現在から読み直す重要な動きです。

作品番号と自己管理――制作を記録する作家

Kleeは自作を非常に几帳面にcatalogue化しました。作品にyearとnumberを付け、title、medium、ownerなどを記録し、生涯のproductionをsystematically管理します。

この態度は「spontaneous genius」というimageと対照的です。自由なlineやfantastic creatureを描きながら、そのproductionはarchiveとして厳密に記録されていました。

1939年に1,253 worksという数字を確認できるのも、本人の作品目録があるためです。Kleeにとって制作と分類は反対ではなく、image generationを長期的に観察する二つの方法でした。

戦後美術への影響

Kleeの影響は特定styleの模倣に限定されません。Miró、Dubuffet、Abstract Expressionism、CoBrA、postwar drawing、art educationなど、多様な領域で参照されました。

特に重要なのは、artistが自分のvisual languageを「自然から完全に離れたpure abstraction」にする必要がないことを示した点です。small sign、childlike figure、landscape fragmentを残したままabstract structureを作れる。

またBauhaus notesを通じて、drawingをtalentではなくprocessとして教えるmodelを残しました。線、growth、rhythm、balanceという語彙はdesign educationにも広く影響しました。

哲学書の表紙になったクレー

2025年Zentrum Paul Kleeの《Cover Star Klee》は、20世紀以降のphilosophy、psychotherapy、critical theoryのbooksにKlee作品が何百、何千という単位で使用されてきた現象へ注目しました。

なぜKleeなのか。一つの理由は、作品が具体的なnarrativeを決めすぎないことです。angel、arrow、face、city、fishなど読めるmotifがありながら意味が閉じないため、thinking、memory、language、history、psycheを扱うbooksのvisual metaphorとして使いやすい。

Walter Benjaminが所蔵した《Angelus Novus》を「歴史の天使」として論じたことは最も有名な例です。Klee作品は美術史だけでなくphilosophyやliteratureの中で二次的なmeaningを増殖させてきました。

ただし作品が何にでも使えるということは、original contextが消える危険もあります。2025年の展示は、Kleeが現代のanalogue memeのように流通してきた受容史そのものを研究対象にしました。

2025–26年の再評価――音楽と「裏面」

現在Zentrum Paul Kleeでは、2023年10月から2027年10月まで長期collection exhibition《Kosmos Klee》が開催され、約70点の作品とbiographical/archive materialsを入れ替えながらchronologicalに紹介しています。世界最大のKlee collectionを一度に固定展示するのではなく、保存条件と研究themeに応じて見せ方を変える方式です。

2025年の《The Musical Klee》はartist自身のmusical lifeと作品のrhythmを再検討し、同年《Cover Star Klee》は作品が20世紀思想書の表紙へ流通してきたreception historyを扱いました。

2026年《Klee’s versos》では約9,600点中およそ600点に存在するreverse-side worksを取り上げ、完成作品の「裏」にあるongoing processを可視化しました。こうした近年の研究は、Kleeを「幻想的な小品の画家」という旧来像から、音楽、教育、material、archive、circulationを横断するartistへ広げています。

Paul Kleeは何を変えたのか

第一に、具象と抽象を対立させませんでした。house、fish、cat、faceを残しながら、colour gridやline rhythmをabstract structureとして成立させました。

第二に、drawingをobjectのcopyからmovementの記録へ変えました。lineは何かを囲むだけではなく、自ら歩き、変形し、figureやletterを生みます。

第三に、colourを自然のlocal colourから解放し、musicのようなrelation systemとして扱いました。Tunisiaで得た確信とBauhausでの理論化が結びついています。

第四に、作品制作を「完成像を作ること」より「生成processを可視化すること」と考えました。植物のgrowth、river flow、rotation、gravityまでdrawing theoryの対象にしました。

第五に、子どもの絵、caricature、ancient sign、hieroglyphなど、academic artが周辺化してきたvisual languagesをmodern artの中心へ持ち込みました。ただし素朴さを模倣するのではなく、trained artistとして再構成しました。

第六に、artistとteacherを分けませんでした。Bauhausで教えるために自らのintuitionを分析し、そのnotesが20世紀のart/design educationへ残りました。

第七に、materialを固定しませんでした。oil、watercolour、ink、gauze、plaster、cardboard、jute、oil transferを使い、支持体の偶然性をimage generationへ取り込みました。

第八に、政治的迫害と病気によって制作条件が大きく変わっても、一つの成熟styleへ留まりませんでした。1930年代末には太いblack signsと大きなformatへ転換し、死の直前まで新しいimage languageを作りました。

そして最も重要なのは、Kleeが「芸術は見えるものを再現するのではなく、見えるようにする」という考えを実践したことです。作品は現実のcopyではなく、line、colour、signが成長し、関係を作り、viewerの中で意味へ変わる場です。Kleeの絵が現在も不思議に新しく見えるのは、完成された世界を示すのではなく、世界が形になり始める瞬間を何度でも見せるからです。

略年譜

1879
12月18日、Bern近郊Münchenbuchseeに音楽教師の父Hans Wilhelm Kleeと歌手・pianistの母Ida Maria Frickの子として生まれる。
1898
音楽と美術の間で迷った末、art studyを選びMunichへ移る。Heinrich Knirrの私塾でdrawingを学ぶ。
1900
Munich AcademyでFranz von Stuckのpainting classに入るが、約5か月で離れる。
1901–1902
Hermann HallerとItalyを約半年旅行。古代・Renaissance artを前にcreative crisisを経験し、Bernへ戻る。
1903–1905
風刺的なetching series《Inventions》を制作。lineとtitleを組み合わせた独自の語彙を形成。
1906
pianist Lily Stumpfと結婚しMunichへ移住。
1907
一人息子Felix誕生。
1910
Bern、Zürich、Winterthur、Baselを巡回する初の大規模solo exhibition。Alfred Kubinと交流を始める。
1911–1912
Wassily Kandinsky、Franz Marcら青騎士周辺と交流し、展覧会へ参加。1912年ParisでCubismとRobert Delaunayのcolour theoryに接する。
1914
4月、August Macke、Louis MoillietとTunisiaを約2週間旅行。35 watercoloursと13 drawingsを制作し、colourへの確信を深める。9月Macke戦死。
1916
German armyへ召集されるがfront lineには送られず、aircraft-related military unitsで勤務。Franz Marc戦死。《Introducing the Miracle》などを制作。
1917
BerlinのGalerie Der Sturmで個展。軍務中にも評価が上昇する。
1920
Munichで大規模retrospective。Walter GropiusからBauhausへ招聘される。
1921
1月、Weimar Bauhausへ正式着任。《Runner at the Goal》などを制作。
1922
《Red Balloon》《Twittering Machine》《Vocal Fabric of the Singer Rosa Silber》《Three Houses》などBauhaus期の代表作を制作。
1923
Berlin Nationalgalerie Kronprinzen-PalaisでGerman museumとして初のKlee個展。
1924
Galka ScheyerがKlee、Kandinsky、Feininger、Jawlenskyを「Blue Four」としてUnited Statesへ紹介。
1925
BauhausがDessauへ移転。『Pädagogisches Skizzenbuch』刊行。Parisの《La peinture surréaliste》へ参加。《Fish Magic》制作。
1926
家族とDessauへ移り、Kandinsky夫妻とBauhaus Master Houseを共有。
1928–1929
Egyptを旅行。hieroglyphs、Nile landscape、pyramidの構造が後の作品へ影響。《Monuments at G.》《In the Current Six Thresholds》を制作。
1929
50歳を記念する展覧会がBerlin、Dresden、Paris、New Yorkなどで開催される。
1931
Bauhausを離れDüsseldorf Academy教授となる。
1932
《Clarification》《Ad Parnassum》など点描的な色彩構造の代表作を制作。
1933
Nazi政権下で教授職を停止・解雇され、年末にLilyとGermanyを離れBernへ移る。
1935
Kunsthalle Bernで273点による大規模retrospective。後にsclerodermaと考えられる病気の兆候が現れる。
1936
病状が悪化し、年間制作数が25点まで減少。
1937
Nazi authoritiesがGerman museumsからKlee作品102点をconfiscateし、多数を《Degenerate Art》展で公開。制作は再び増加へ向かう。
1938
《Insula Dulcamara》《Park Near Lu.》など太いsignを用いるlarge-scale late worksを制作。
1939
年間1,253点を制作し生涯最大のproductionを記録。60歳。Swiss citizenshipを申請。
1940
《Death and Fire》などを制作。6月29日Locarno-Muraltoで死去。Swiss naturalizationは7月5日に承認予定だった。
1949–1950
MoMAで大規模回顧展《Paul Klee》。
2005
BernにZentrum Paul Klee開館。世界最大のKlee collectionとarchiveを保管・研究する拠点となる。
2023–2027
Zentrum Paul Kleeで長期collection exhibition《Kosmos Klee. The Collection》。約70点とarchive資料を入れ替えながらcareerを紹介。
2025
《The Musical Klee》で音楽家としての形成と作品のrhythmを再検討。《Cover Star Klee》では思想書・心理学書などの表紙にKleeが大量に使用された受容史を研究。
2026
《Klee’s versos》で約9,600作品中およそ600点に存在するreverse-side worksを調査・公開し、支持体の表裏を横断する制作processを再評価。

参考資料・出典

本ページはZentrum Paul Klee、Kunstmuseum Bern、The Museum of Modern Art、The Metropolitan Museum of Art、Solomon R. Guggenheim Museum、Philadelphia Museum of Art、Bauhaus-Archiv等の美術館・研究機関の公開資料を中心に参照し、ART LIBRARYが独自に構成・執筆しました。Kleeについては「青騎士の画家」「Bauhausの教師」「子どものような絵を描く画家」といった単一の分類へ固定せず、本人が特定のmovementへ完全には所属しなかった点、音楽家としての訓練、TunisiaとEgyptの旅、素材実験、教育理論、Nazi persecution、病気による制作条件の変化を合わせて整理しています。1937年の《Degenerate Art》出品点数は資料によって表記差があるため、Zentrum Paul Kleeの現行biographyに従い、102点没収・15点出品を本文の基準としました。

資料確認日:2026年10月4日 / ART LIBRARY