Art Library

Paolo Uccello

パオロ・ウッチェロ

イタリア / 1397–1475 / 初期ルネサンス/国際ゴシック

What is TEMPERA painting? | Paolo Uccello’s Battle of San Romano (ARTSQ)
テンペラ画とは? | パオロ・ウッチェッロの『サン・ロマーノの戦い』

15世紀のフィレンツェでは、商業で繁栄する都市の教会や公共建築に、新しい彫刻や絵画が次々と注文されていました。ブルネレスキが建築の比例と遠近法を研究し、マザッチョが人物を奥行きのある空間に描いた時代です。新しい表現が広がる一方、鮮やかな色彩や金属の輝きを好む国際ゴシックの伝統も、宮殿や教会の装飾に生きていました。

その二つの表現を独特な形で結び付けた画家が、パオロ・ウッチェロ(1397年頃〜1475年)です。洗礼堂の青銅扉に関わるギベルティの工房で学び、ヴェネツィアでモザイクの仕事を経験した後、フィレンツェの教会や大聖堂で大きな壁画を描きました。彼の《サン・ロマーノの戦い》では、槍や馬、甲冑が幾何学的な奥行きの中に整えられ、金銀箔が華やかな戦場を彩っていました。

初期の宗教画から《ジョン・ホークウッド騎馬像》《サン・ロマーノの戦い》、そして夜の森を描く晩年の《森の狩り》へと、遠近法と装飾がどのように発展したのかをたどっていきましょう。

フィレンツェで画家として育つ

ギベルティ工房と都市の美術事業

パオロ・ウッチェロは1397年頃、パオロ・ディ・ドーノとして生まれました。15世紀初めのフィレンツェでは、毛織物業や金融業で力を持った市民と職人組合が、教会・洗礼堂・公共建築の装飾を支えていました。ロレンツォ・ギベルティがフィレンツェ洗礼堂の青銅扉を制作する工房も、金工師、彫刻家、画家が図案や鋳造技術を持ち寄る場所でした。

ウッチェロは1407年頃からギベルティの工房で働き、1414年頃までその環境に身を置いたと伝えられています。絵画の注文だけで暮らす前に、青銅装飾の輪郭、動物の姿、装飾模様を扱う仕事に触れたことは、その後の画面に繰り返し現れる甲冑や馬具の細密な描写を考える手がかりになります。1420年代には画家として職人組織にも登録され、都市の仕事を請け負う立場を整えました。(参照:ロンドン・ナショナル・ギャラリー | パオロ・ウッチェロの画業)

国際ゴシックの色彩と新しい遠近法

同時代のフィレンツェでは、マザッチョが人物の身体と建築を同じ光のもとに描き、ブルネレスキは建築や透視図法を通じて空間の比例を探っていました。ウッチェロはこうした試みと同じ時代に活動しながら、金属の輝き、明るい色の衣装、装飾的な植物や動物といった国際ゴシックの趣味も長く使い続けます。

線遠近法では、地面の線や建物の縁を一点または複数の方向へ収束させ、平面の中に奥行きを作ります。ウッチェロにとってそれは、現実の景色を整然と模写する手段であると同時に、騎馬像を壮大に見せ、戦場に規則的な動きを与え、森へ吸い込まれるような感覚を生み出す絵画上の手段でした。彼の作品の独特な魅力は、この幾何学的な構成と装飾的な画面の組み合わせにあります。(参照:ロンドン・ナショナル・ギャラリー | パオロ・ウッチェロの画業)

ヴァザーリが伝えた遠近法への熱中

16世紀のジョルジョ・ヴァザーリは、ウッチェロが遠近法の問題に夢中になり、夜遅くまで図形を研究したという逸話を残しました。この伝記は彼の名声の一部となり、数学的な探究に没頭する画家の姿を広く知らしめました。

伝記の文学的な脚色と実作品から確認できる仕事は区別して考えられます。《サン・ロマーノの戦い》の槍の配置や《森の狩り》の消失点には、遠近法への関心が確かに現れています。同時に、金銀箔を重ねた装飾、修道院壁画、教会の時計、個人の祈りのための小型画など、仕事の幅広さも重要です。(参照:イタリア人名事典 | パオロ・ウッチェロの生涯と研究史)

ヴェネツィアでモザイクと宗教画に取り組む

サン・マルコ聖堂のモザイク制作

1425年頃、ウッチェロはヴェネツィアに赴き、サン・マルコ聖堂のモザイクに関係する仕事を行いました。金色の地にガラスや石の小片を並べるモザイクは、壁面の凹凸や建築の曲面に合わせて図像を組み立てる技術です。図案を現場の職人へ伝え、離れた位置から見られる大きな像を考える必要がありました。

この時期の具体的な分担を示す資料には限りがあります。ロンドン・ナショナル・ギャラリーは1425〜1430年頃をモザイク図案制作の期間として紹介しています。壁面と図案、素材の輝きを考えるヴェネツィアでの経験は、ウッチェロの仕事が板絵の枠を越えていたことを示します。(参照:ロンドン・ナショナル・ギャラリー | パオロ・ウッチェロの画業)

初期の《聖ゲオルギウス》に残る金属の輝き

メルボルンのヴィクトリア国立美術館が所蔵する1430年頃の《聖ゲオルギウス、竜を退治する》は、縦長の板に騎士と竜の戦いを描いています。竜に挑む聖人の馬は大きく身を起こし、騎士の甲冑と武器は鋭い輪郭で形づくられています。背景には建物や起伏のある地面が並び、武勇伝を一枚の小さな画面に凝縮しています。

技法は板に油彩、テンペラ、銀箔を組み合わせたものです。銀箔は当初、光を受けて甲冑や装飾の存在感を強めていたと考えられます。所蔵館はヴェネツィアでの活動期に制作された可能性を挙げる一方、作品情報上の制作地はフィレンツェとしています。伝記上の移動と個々の作品の成立地を慎重に扱う必要がある例でもあります。(参照:ヴィクトリア国立美術館 | 《聖ゲオルギウス、竜を退治する》)

修道院のための絵画と遠近法

《創世記》を描いた「緑の回廊」

フィレンツェに戻ったウッチェロは、サンタ・マリア・ノヴェッラ修道院の回廊に旧約聖書の創世記を描く大きな事業に加わりました。現在「緑の回廊」と呼ばれるのは、壁画の多くが緑土を主体とする単色調で描かれたためです。画面の限られた色彩の中で、人物の身体、地面、動物や樹木の形を光と陰影によって区別しています。

《動物とアダムの創造》では、神が生命を与える出来事が横長の壁面へ広がり、人物や動物が異なる位置に配置されています。聖書の創造の物語が修道士たちの日常の通路に現れることで、信仰の歴史を歩きながら見る環境が生まれました。壁画は複数の画家と協力者が関わった長い制作の一部として理解されています。(参照:フィレンツェ修復研究所 | サンタ・マリア・ノヴェッラの緑土壁画と修復研究)

《聖モニカ》の断片から見える建築空間

1430〜1435年頃の《聖モニカと祈る二人の子ども》は、高さ79センチの板絵で、もとはより大きな聖母子と聖人たちの構成に属していたと考えられています。黒い衣と白い頭巾を着けた聖女は、小さな十字架と祈りのための数珠を持ち、足元では二人の子どもが手を合わせています。

頭上の金色の光輪は、薄い円盤を下から見上げるように描かれ、上部の建築の縁も奥へ後退しています。後世に切り離された断片にも、人体の量感と建築の奥行きを合わせて考えた形跡が残されています。ウフィツィ美術館は、1430年の聖モニカの聖遺物移送が同聖人への信仰の広がりと関係すると説明しています。(参照:ウフィツィ美術館 | 《聖モニカと祈る二人の子ども》)

大聖堂の《ジョン・ホークウッド騎馬像》

共和国が顕彰したイングランド出身の武将

1436年、ウッチェロはフィレンツェ大聖堂の壁面に、イングランド出身の傭兵隊長ジョン・ホークウッドを記念する巨大な騎馬像を描きました。イタリアではジョヴァンニ・アクートと呼ばれたこの武将は、共和国に仕え、1394年に亡くなっています。彼を顕彰する仕事が約40年後に実現したことは、軍事的な指導者の記憶を都市がどのように残そうとしたかを物語ります。

作品は現在、左側廊に設置され、高さ約8.55メートル、幅約5.27メートルに及びます。灰緑色を基調として、馬と騎手を彫像のように表し、下部には大理石風の台座と碑文を描いています。都市の記念碑を青銅で鋳造する代わりに、壁画で同じような威容を作るという発想です。(参照:フィレンツェ大聖堂造営局 | 《ジョン・ホークウッド騎馬像》)

台座と馬に異なる視線を与える

騎馬像の台座は下から仰ぎ見たように描かれ、馬の腹や脚は側面から捉えた姿に近く表されています。見る人の視線に合わせてすべてを一つの視点へ統一すると、騎馬の姿が読みにくくなるという問題がありました。ウッチェロは台座の奥行きによって高さを強調しながら、馬の輪郭と騎手の姿をはっきり見せています。

絵の中の台座は、騎馬像が大聖堂の壁に据えられた立体彫刻であるかのように感じさせます。1456年にはアンドレア・デル・カスターニョが、同じ大聖堂に傭兵隊長ニッコロ・ダ・トレンティーノの記念像を描きました。二つの大壁画は、共和国が軍功を教会空間の中で顕彰したことを具体的に伝えています。(参照:フィレンツェ大聖堂 | 大聖堂内部の記念彫像と絵画)

《サン・ロマーノの戦い》の三連作

フィレンツェの勝利を邸宅に描く

1432年6月、フィレンツェ軍はサン・ロマーノ付近でシエナ側の軍勢と戦いました。ウッチェロはこの出来事を、横幅が3メートルを超える三枚の板絵として描きました。ロンドン、フィレンツェ、パリに分かれて所蔵される作品は、かつてフィレンツェの有力者リオナルド・バルトリーニ・サリンベーニの邸宅に飾られました。

所蔵館の研究では、注文の経緯と制作年代について資料の読み直しが続いています。ロンドン本は1438〜1440年頃、ウフィツィ本は1435〜1440年頃とされ、ルーヴル本は作品目録に1450〜1475年という年代幅が登録されています。三枚を単一の確定年にそろえるよりも、各館の年代判断を確認しながら、同じ戦闘の連続場面として理解するのが適切です。(参照:ディリアン・ゴードン(2003年) | 《サン・ロマーノの戦い》の作品研究)

ロンドン本に描かれた出陣

ロンドン・ナショナル・ギャラリーの《ニッコロ・ダ・トレンティーノの出陣》では、指揮官が白馬にまたがり、鮮やかな赤と金色の装飾を付けて兵士たちの先頭にいます。後ろには旗手と槍を構えた騎兵が続き、画面の奥では小さな兵士たちが丘の上を移動しています。

手前の地面には折れた槍が斜めに並び、倒れた兵士の身体も奥行きを示す線の方向に置かれています。見せたい武将の顔を甲冑の面頬から露出させる一方、周囲の兵士は鎧で覆われています。実際の混乱した戦闘を、騎士道的な華やかさと秩序を持つ画面へ再構成した作品です。(参照:ロンドン・ナショナル・ギャラリー | 《サン・ロマーノの戦い》)

ウフィツィ本の落馬と戦闘の方向

ウフィツィ本には、敵将ベルナルディーノ・デッラ・カルダが槍に突かれて馬から落ちる場面が描かれています。騎兵と馬が交差し、倒れかけた敵将を中心として激しい動きが集まります。右と左へ伸びる多数の槍や弩の向きは、攻撃の方向と戦況の変化を示しています。

ウフィツィ美術館は、フィレンツェ側の武器が前へ傾き、敵側の武器が後退していることが勝敗を暗示すると説明しています。画面左下には画家の署名があり、後世に長方形へ改造された際の補筆部分にはメディチ家の象徴とされる柑橘の枝が描かれました。都市の勝利の記念画が、後の所有者の権威を示す装飾へ変わっていった来歴も重要です。(参照:ウフィツィ美術館 | 《サン・ロマーノの戦い》中央場面)

ルーヴル本の反撃と三枚のつながり

ルーヴル美術館の一枚は、ミケレット・ダ・コティニョーラの部隊が反撃する場面です。槍を長く掲げた騎兵たちが密集し、白馬と黒い甲冑の交替によって動きの列が作られています。三枚を順に見ると、指揮官の出陣、敵将の落馬、援軍による反撃という出来事が、異なる人物と馬の配置によって語られています。

ルーヴルの公式目録は、作品がかつて上部を弧状に整形されており、部屋の建築に合わせて作られていた可能性を記します。現在の長方形の画面は後の切断と補修を経た姿です。制作当時の室内装飾と現存する板絵の輪郭を区別すると、三連作を鑑賞する条件の変化が見えてきます。(参照:ルーヴル美術館 | 《サン・ロマーノの戦い》のミケレットの反撃)

戦場を幾何学と金銀の輝きで描く

槍と倒れた人物が示す奥行き

《サン・ロマーノの戦い》の最前列には、戦場で折れた槍や武器が散らばっています。ウッチェロはそれらを地面の方眼のように配置し、画面の奥へ向かう斜線を何本も作りました。落馬した兵士を短縮法で描いた部分では、頭から足までの身体を奥行き方向に圧縮して見せています。

こうした構成は、マザッチョの《三位一体》に見られる建築の厳格な一点透視図法とは異なる効果を目指しています。地面の規則と、前景に大きく重なった馬や騎士の輪郭が同時に働き、奥行きのある戦場と装飾的な平面を一枚に重ねています。見る人は槍の方向を追って奥へ視線を動かし、また前景の華やかな人物群へ戻ることになります。(参照:ディリアン・ゴードン(2003年) | 《サン・ロマーノの戦い》の作品研究)

金銀箔が生み出していた甲冑の光

三連作の甲冑、馬具、装飾の一部には金属箔が使われました。現在のロンドン本では、銀が黒ずんだり顔料が変色したりして、馬や人物の色が当初より暗く見えています。かつては金銀の反射が甲冑の表面を走り、日中や室内の照明に応じてきらめいていたはずです。

ロンドン・ナショナル・ギャラリーの作品研究は、板の主画面には卵テンペラにクルミ油を組み合わせた部分があり、隅の後補部分には亜麻仁油の使用が認められると記録しています。材料の異なる部分が後世の改変と関係することを踏まえると、現在の色から制作時の印象をそのまま想像する難しさも分かります。(参照:ディリアン・ゴードン(2003年) | 《サン・ロマーノの戦い》の作品研究)

メディチ家の宮殿へ移された三連作

三連作は当初、バルトリーニ・サリンベーニ家の宮殿に飾られていました。後にロレンツォ・デ・メディチの手に渡り、メディチ宮殿へ移されています。作品の移動については所蔵館の説明に差があり、ウフィツィ美術館は相続人からロレンツォへの譲渡、ロンドン・ナショナル・ギャラリーはメディチ家による強制的な取得として記述しています。

絵の上部を弓形から長方形へ変え、隅へ装飾を加える作業は、新しい邸宅の空間に合わせた調整でした。都市の勝利を記念する場面が、フィレンツェの支配的な一族によって宮殿の権威を示す作品として利用された経緯が、画面の物理的な変更に残っています。(参照:ウフィツィ美術館 | 《サン・ロマーノの戦い》中央場面)

大聖堂の時計が示す時間と宇宙

24時間を刻む巨大な時計盤

1443年、ウッチェロはフィレンツェ大聖堂の入口内側の壁に大きな時計盤を描きました。一辺約6.7メートルの四角の中へ円形の目盛りを置き、ローマ数字で24時間を表しています。これは日没を一日の起点とする当時の時刻制度に対応し、針は現在の日常的な時計とは逆方向へ回ります。

円の内側には濃い青色を置き、周囲の時間表示を花びらのような区画に分けています。礼拝や行事の時間を知らせる装置に、円と四角形を組み合わせた図案が描かれています。ブルネレスキが建築で利用した幾何学的な形への関心が、宗教建築の実用品にも現れた例です。(参照:フィレンツェ大聖堂造営局 | 1443年の大時計)

四隅の顔と聖堂内の時刻制度

時計盤の四隅には、円形の枠から顔を突き出す四人の男性が描かれています。頭部の頬や鼻、眼窩には立体的な陰影が与えられ、円盤状の枠は斜めから見た円筒のように表されています。人物の同定は、四人の福音書記者とする解釈が有力ですが、預言者とする見方も伝えられています。

大聖堂造営局によると、現在の針は修復時に古い記録や他作品を参考に復元されたもので、機械部分にも後世の交換があります。1443年の支払い記録には針先に取り付ける装飾の鍍金が記され、かつての時計に星の意匠があった可能性を検討する根拠となりました。(参照:イタリア文化財総合目録 | 大聖堂の時計盤と聖人像)

《大洪水》に描かれた恐怖と救済

巨大な箱舟と二つの時間

サンタ・マリア・ノヴェッラの「緑の回廊」に描かれた《大洪水と水の退く情景》は、洪水の中で人々が箱舟にしがみつく場面と、水が引いた後の出来事を一つの壁面に表しています。大型の舟の側面は画面奥へ急速に伸び、その線が激しい遠近感を作ります。舟に近づこうとする人間、浮き上がるもの、倒れた身体が、災厄の強さを具体的に伝えています。

聖書のノアの物語は、神の裁きと救済を伝える場面です。ウッチェロは箱舟の巨大な構造と、そこから逃れようとする小さな人間の身体を同じ空間に置き、遠近法を緊張した物語へ利用しました。戦闘場面で槍の列が作った奥行きは、この壁画では巨大な舟の壁面によって、いっそう強い圧迫感に変わっています。(参照:フィレンツェ修復研究所 | サンタ・マリア・ノヴェッラの緑土壁画と修復研究)

緑土壁画の技法と修復研究

「緑の回廊」の壁画は、緑土と明暗を利用した単色調の技法で制作されました。人物の肌や衣装、荒れた水面を色数の少ない階調で表すことで、輪郭と形の重なりが見えやすくなっています。長い年月の湿気や損傷に加え、1966年のフィレンツェの大洪水が壁画の保存に大きな被害を与えました。

フィレンツェ修復研究所は、壁画の剥離・洗浄・修復とともに、使用顔料や制作工程について研究を進めています。2022年にはミケーラ・ラマドーリが、聖書の洪水表現と、アルノ川の氾濫を経験してきたフィレンツェの自然環境を重ねて考察しました。地域の実際の洪水史は、壁画の図像を考えるうえで一つの研究上の視点となっています。(参照:ミケーラ・ラマドーリ(2022年) | 《大洪水》とフィレンツェの洪水史)

修道女の祈りのための小さな《磔刑》

個人の礼拝に合わせた三連祭壇画

1450年代半ば頃、ウッチェロは小型の《磔刑》三連祭壇画を制作しました。中央に十字架上のキリストを描き、両側には細い板が蝶番で付いています。中央部分は額縁込みで高さ約45.7センチ、幅約27.9センチと持ち運びやすい大きさです。

メトロポリタン美術館によると、この作品にはキリストの足元にブリジット会の修道女が描かれ、「シスター・フェリシティ」と読める碑文が残されています。フィレンツェ近郊のサンタ・マリア・デル・パラディーゾ修道院の修道女フェリチタ・ディ・フランチェスコ・カザヴェッキアと関連づけられる可能性があり、1455年頃という年代判断の手がかりになっています。(参照:メトロポリタン美術館 | 《磔刑》三連祭壇画)

金地と人物の距離が作る静かな祈り

小型の《磔刑》では、金地の上にキリストと聖人たちが配置され、戦場や洪水の絵に見られる大胆な空間の実験は控えられています。祈りの対象であるキリストの身体を中心へ据え、左右の板を閉じたり開いたりしながら使う形式です。

同じウッチェロの画業の中に、宮殿に飾る巨大な軍事画と、修道女が自分の部屋で祈るための金地の祭壇画が並んでいます。制作技法の選択は、具体的な鑑賞環境や宗教的な使用方法と結び付いていました。金地と遠近法という二つの異なる表現を、彼は生涯の別々の仕事の中で使い分けていたことが分かります。(参照:メトロポリタン美術館 | 《磔刑》三連祭壇画)

ウルビーノでの仕事と晩年の制作

モンテフェルトロ家の宮廷での活動

1460年代後半、ウッチェロはウルビーノに滞在し、フェデリコ・ダ・モンテフェルトロの宮廷と関係する仕事を行いました。ウルビーノは人文主義や数学、建築に関心を持つ宮廷文化の中心の一つで、画家の図案制作も装飾や建築と結び付いていました。

この時期の具体的な注文や現存作品との対応には研究上の議論があります。アシュモレアン美術館は《森の狩り》が1465年以降のウルビーノで描かれた可能性と、1470年頃のフィレンツェで制作された可能性を紹介しています。美術館の作品情報にある二つの候補地からも、晩年の活動範囲の広さがうかがえます。(参照:アシュモレアン美術館 | 《森の狩り》)

《聖ゲオルギウスと竜》の不思議な景色

ロンドン・ナショナル・ギャラリーが所蔵する1470年頃の《聖ゲオルギウスと竜》では、騎士が槍で竜を突き、左側には王女が竜の首へ紐を掛けています。二つの出来事を同じ画面に組み合わせた構成で、洞穴は竜の翼に似た三角形を持ち、空には巻き上がる雲が描かれています。

馬の身体は曲線と角張った形で表され、草地は整然と区切られた幾何学模様です。地面の石と遠方へ伸びる緑地の線はそれぞれ異なる方向へ向かい、奥行きと装飾の両方を強めています。所蔵館の赤外線調査では、下絵と完成画の間で王女の手や衣装、洞穴の形などが変更されたことも確認されています。(参照:ロンドン・ナショナル・ギャラリー | 晩年の《聖ゲオルギウスと竜》)

色の変化と、作品がたどった歴史

《聖ゲオルギウスと竜》は油彩によるキャンバス画で、衣装の緑や空の青には経年の変化が見られます。ナショナル・ギャラリーによると、空に用いられた藍銅鉱はかつて現在より青く、王女の衣装の緑は暗く変化しました。画面の色を作品本来の構想と結び付ける際には、顔料の変質を考慮する必要があります。

この絵には20世紀の複雑な来歴もあります。旧所有者ランツコロンスキ家のコレクションから1939年にナチスによって略奪され、戦後に回収されました。1959年にロンドン・ナショナル・ギャラリーが取得し、現在公開されています。作品の鑑賞は、制作時の材料と後世の保存、所有の歴史を通して支えられています。(参照:ロンドン・ナショナル・ギャラリー | 晩年の《聖ゲオルギウスと竜》)

《森の狩り》に集められた画業の成果

夜の森の中心へ集まる人と馬

晩年の《森の狩り》は、横幅約177センチの細長い板絵です。暗い森の中に騎馬の狩人、猟犬、鹿が入り乱れ、画面の左右から中央の奥へ向かって走っています。木々の幹が垂直の列を作り、切り株や枝、槍が地面の方向を示しています。

アシュモレアン美術館によると、画家は板の表面に格子状の設計を施し、中央の消失点へ向かって人間と動物の大きさを小さくしています。前景の赤や白の服、馬の姿が目を引く一方、目は奥の暗い空間へ導かれます。遠近法による規則と、動物がばらばらに走る軽快なリズムが同時に現れています。(参照:アシュモレアン美術館 | 《森の狩り》)

邸宅に飾る長い横長画面

《森の狩り》は、板張りの部屋や家具の背板に組み込む「スパッリエーラ」と呼ばれる形式に属すると考えられています。上流階級の家で狩猟は身分や娯楽と結び付き、作品は私的な生活の空間で見られました。暗い葉の間に残る金の痕跡は、ろうそくの明かりで輝きを添えた可能性があります。

画面には三日月を象徴する装飾もあり、所蔵館は狩猟の女神ディアナとのつながりを指摘しています。現実の夜間狩猟を再現した記録画というより、狩りの儀礼や遊びを幻想的な景色に置いた作品です。若い頃から親しんだ装飾的な動物表現と、遠近法で統一した深い空間が、この晩年作で組み合わされています。(参照:アシュモレアン美術館 | 《森の狩り》)

主要作品

宗教画、都市の記念壁画、宮殿の装飾、晩年の狩猟画から12点を紹介します。作品の設置場所、技法、保存状態にも注目してください。

聖ゲオルギウス、竜を退治する

Saint George slaying the dragon / 1430年頃 / 油彩・テンペラ・銀箔、板 / 62.2 × 38.8 cm

ヴィクトリア国立美術館(メルボルン)

初期の竜退治の場面。油彩・テンペラと銀箔を同じ板に使い、騎士の甲冑と武器に金属の輝きを与えました。ヴェネツィア期との関係が指摘されています。

所蔵館の作品情報 ↗

聖モニカと祈る二人の子ども

St Monica and two children praying / 1430–1435年頃 / テンペラ、板 / 79 × 35 cm

ウフィツィ美術館(フィレンツェ)

かつてより大きな祭壇画に属していたと考えられる断片。聖女の厚い衣と、下から見上げた円盤状の光輪に、人体と空間の研究が現れています。

所蔵館の作品情報 ↗

ジョン・ホークウッド騎馬像

Monument to John Hawkwood / Monumento equestre di Giovanni Acuto / 1436 / フレスコ(後にキャンバスへ移し替え) / 約855 × 527 cm

フィレンツェ大聖堂

フィレンツェ共和国が顕彰した傭兵隊長の記念壁画。馬と台座の視点を調整し、大聖堂の壁面に青銅騎馬像のような立体感を生みました。

所蔵館の作品情報 ↗

フィレンツェ大聖堂時計盤

Orologio della Cattedrale di Firenze / 1443 / 壁画装飾 / 670 × 670 cm

フィレンツェ大聖堂

24時間を日没から数える宗教的な時刻制度に対応した巨大な時計盤。円と四角を組み合わせ、四隅には福音書記者または預言者と解釈される頭部があります。

所蔵館の作品情報 ↗

サン・ロマーノの戦い――ニッコロ・ダ・トレンティーノの出陣

Niccolò Mauruzi da Tolentino at the Battle of San Romano / 1438–1440年頃 / 卵テンペラ、一部油性媒材、ポプラ板 / 182 × 320 cm

ロンドン・ナショナル・ギャラリー

《サン・ロマーノの戦い》三連作の最初の場面。白馬の指揮官を中心に兵士たちを並べ、折れた槍と短縮した人体で戦場の奥行きを描きました。

所蔵館の作品情報 ↗

サン・ロマーノの戦い――ベルナルディーノ・デッラ・カルダの落馬

Battle of San Romano / 1435–1440年頃 / テンペラ、板 / 182 × 323 cm

ウフィツィ美術館(フィレンツェ)

敵将ベルナルディーノ・デッラ・カルダの落馬を描く中央場面。騎兵の槍の傾きが戦況を伝え、板の隅にはメディチ家の所有に伴う改変の痕跡が残ります。

所蔵館の作品情報 ↗

サン・ロマーノの戦い――ミケレット・ダ・コティニョーラの反撃

The Battle of San Romano: The Counterattack of Micheletto da Cotignola / 15世紀第3四半期(ルーヴル美術館の登録年代) / テンペラ(推定)、板 / 約182 × 317 cm

ルーヴル美術館(パリ)

フィレンツェ軍側の援軍が反撃する三連作の一枚。騎馬と槍が反復する構図を持ち、上部の切断と補修によって当初の輪郭から変化しました。

所蔵館の作品情報 ↗

大洪水と水の退く情景

The Flood and Receding of the Waters / 1447–1448年頃 / 緑土を主体とするフレスコ / 約215 × 510 cm

サンタ・マリア・ノヴェッラ修道院(フィレンツェ)

サンタ・マリア・ノヴェッラ修道院の「緑の回廊」にある壁画。巨大な箱舟の側面と、荒れた水の中の人々によって災厄と救済の物語を表しています。

所蔵館の作品情報 ↗

磔刑

The Crucifixion / 1450年代半ば頃 / テンペラ、板、金地 / 中央板(額縁込み)45.7 × 27.9 cm

メトロポリタン美術館(ニューヨーク)

修道女の個人的な礼拝のために制作された金地の小型三連祭壇画。中央のキリストの足元に、依頼者と関係する修道女の姿と名前が記されています。

所蔵館の作品情報 ↗

聖ゲオルギウスと竜

Saint George and the Dragon / 1470年頃 / 油彩、キャンバス / 55.6 × 74.2 cm

ロンドン・ナショナル・ギャラリー

騎士が竜を突き、王女が竜を引く二つの場面を組み合わせた幻想的な油彩画。幾何学的な草地と渦を巻く雲が特徴です。

所蔵館の作品情報 ↗

森の狩り

The Hunt in the Forest / 1465–1470年頃 / テンペラ・油彩・金の痕跡、板 / 73.3 × 177 cm

アシュモレアン美術館(オックスフォード)

騎馬の狩人、鹿、猟犬が夜の森の奥へ進む横長の板絵。中央の消失点と木々の列が深い空間を作り、葉には金の痕跡が残ります。

所蔵館の作品情報 ↗

動物とアダムの創造

Creation of the Animals and Creation of Adam / c. 1430–1436 / 緑土を主体とするフレスコ / 現地壁画/寸法可変

サンタ・マリア・ノヴェッラ修道院(フィレンツェ)

緑土の単色調を主体とする《創世記》壁画の一部。神、アダム、動物の位置と明暗によって天地創造の物語を修道院の壁面に広げています。

所蔵館の作品情報 ↗

略年譜

1397年頃
フィレンツェに生まれる。
1407〜1414年頃
ロレンツォ・ギベルティの工房で修業する。
1425〜1430年頃
ヴェネツィアのサン・マルコ聖堂でモザイク関連の仕事に携わる。
1430年代前半
《聖モニカと祈る二人の子ども》や「緑の回廊」の《創世記》関連壁画などを制作。
1436年
フィレンツェ大聖堂の《ジョン・ホークウッド騎馬像》を制作。
1430年代後半頃
《サン・ロマーノの戦い》三連作に取り組む。ルーヴル本の年代評価には幅がある。
1443年
フィレンツェ大聖堂の巨大な時計盤を制作。
1447〜1448年頃
「緑の回廊」の《大洪水と水の退く情景》を制作したと考えられる。
1450年代半ば頃
修道女のための小型《磔刑》を制作。
1460年代後半
ウルビーノの宮廷と関係する仕事を行う。
1465〜1470年頃
《森の狩り》を制作したと考えられる。
1470年頃
ロンドン所蔵の《聖ゲオルギウスと竜》を制作。
1475年
フィレンツェで死去。

まとめ

ウッチェロの《サン・ロマーノの戦い》では、地面に散らばる槍が遠近法の線になり、金銀箔を使った甲冑と馬具が華やかな騎馬の集団を形づくっています。数学的に組み立てられた奥行きと、明るい輪郭や表面装飾が一枚の画面で同時に働くことが、この画家の大きな特徴でした。大聖堂の《ジョン・ホークウッド騎馬像》では、壁画を立体の記念像のように見せるために視点を調整し、《大洪水》では巨大な箱舟の線によって災厄の圧迫感を表しました。

その探究は、晩年の《聖ゲオルギウスと竜》や《森の狩り》で幻想的な風景へ広がります。騎士や動物の鮮やかな形が目を引きながら、地面と木々の線が視線を画面の奥へ運んでいきます。ウッチェロの作品では、遠近法という新しい空間構成が、戦争の記憶を飾る画面にも、宗教的な恐怖にも、夜の森を駆ける想像上の狩猟にも使われたことを伝えています。

参考資料・出典