マーク・ロスコ(Mark Rothko、1903–1970)は、第二次世界大戦後のアメリカ美術を代表する画家です。赤、橙、黄、紫、黒などの大きな色面が柔らかな輪郭で上下に浮かぶ作品は、20世紀絵画のもっともよく知られたイメージの一つになりました。しかしロスコ自身は、作品を単なる色彩の実験として理解されることを嫌っていました。彼が繰り返し語ったのは、悲劇、恍惚、破滅といった「基本的な人間感情」を表現することでした。色は目的ではなく、人間の経験へ到達するための手段だったのです。
そのため、ロスコを「カラーフィールド・ペインティングの画家」とだけ説明すると重要な部分が抜け落ちます。1930年代にはニューヨークの地下鉄、人物、室内を描き、1940年代には神話とシュルレアリスムに接近しました。その後、人物や神話的生物が解体され、不定形の色面が浮かぶ「マルチフォーム」と呼ばれる作品へ移ります。1949–50年頃になって初めて、現在もっともよく知られる、二つか三つの横長の矩形が大きな色の場に浮かぶ形式が成立しました。約20年以上の試行錯誤を経た結果です。
さらに成熟後も同じ作品を反復したわけではありません。1950年代前半の明るい橙、黄、赤から、1958–59年のシーグラム壁画では深いマルーン、黒、暗赤色へ移行し、1960年代にはハーバード大学壁画、ロスコ・チャペルという建築空間全体を前提とした絵画へ進みました。最晩年には《Black on Gray》群のような黒と灰色の二分された画面だけでなく、淡いピンク、ラベンダー、青などを用いた紙作品も同時に制作しています。晩年の暗色作品だけを死の予兆として読むことは、実際の制作を単純化しすぎます。
ロスコにとって、絵画は遠くから眺める「画像」ではありませんでした。巨大なカンヴァスを観客の視野へ入り込ませ、色の境界をぼかし、薄い絵具の層を重ねることで、画面が発光しているような状態を作りました。彼は作品を近距離で見ることを望み、展示空間の大きさ、照明、作品の高さ、椅子やベンチにまで関心を持っています。ワシントンのPhillips CollectionのRothko Room、ロンドンTateのSeagram Murals、HoustonのRothko Chapelを考えると、彼の仕事が一枚の絵の構図から「人が絵画と一緒にいる場所」へ拡張していったことが分かります。
CONTENTS
- 生涯と制作の変遷
- ドヴィンスクからアメリカへ――移民としての出発
- 1930年代――人物、地下鉄、都市の孤独
- 「ザ・テン」――アメリカ写実主義への反発
- 1940年代――神話とシュルレアリスム
- 《Slow Swirl at the Edge of the Sea》――人物が溶け始める
- マルチフォーム――色面が人物に代わる
- 1949–50年――「ロスコらしい」形式の成立
- ロスコの作品をどう見るか
- 主要作品
- 色そのものが目的ではない
- 薄い層と光――色はどのように浮かぶのか
- 巨大さと距離――なぜ近くから見るのか
- Rothko Room――一枚の絵から部屋全体へ
- シーグラム壁画――レストランから撤回した依頼
- ハーバード壁画――建築、光、そして退色
- Rothko Chapel――絵画と建築を一つにする
- 暗い絵=絶望という単純化を避ける
- 紙作品――「習作」ではないもう一つの本流
- 観客――絵画は「経験」である
- 抽象表現主義の中での位置
- 死後――財団、所蔵、受容
- 保存修復――光と顔料の問題
- 2023–26年の再評価
- マーク・ロスコは何を変えたのか
- 略年譜
- 参考資料・出典
生涯と制作の変遷
1903年、ドヴィンスクに生まれる
マーク・ロスコは1903年9月25日、当時ロシア帝国領だったドヴィンスクにMarcus Rothkowitzとして生まれました。現在のラトビア、Daugavpilsにあたります。両親はユダヤ系で、父Jacob Rothkowitzは薬剤師として働いていました。National Gallery of Artは、教育を重視する家庭で育ち、家族にはシオニズムへの関心もあったとしています。
1913年、10歳のロスコは母と姉とともにアメリカへ移住し、先に渡米していた父と兄たちが暮らすOregon州Portlandへ向かいます。しかし父は到着後まもなく亡くなり、家族は厳しい経済状況に置かれました。ロシア帝国のユダヤ人社会からアメリカ西海岸へ移るという経験は、後の作品の意味を直接決定するものではありませんが、宗教、所属、移民、孤独、社会制度に対する関心の背景として重要です。
1921年、Yaleへ
1921年に奨学金を得てYale Universityへ入学します。英語、フランス語、生物学、経済学、哲学、心理学など幅広い科目を学びました。しかしNational Gallery of Artによれば、裕福なプロテスタント層が多い環境のなかで、貧しいユダヤ系移民として疎外感を覚え、奨学金が貸付へ変更されたこともあり、1923年に中退します。
その後ニューヨークへ移り、1924年にはArt Students LeagueでGeorge Bridgman、Max Weberらに学びました。画家になることを幼い頃から決めていたわけではなく、ニューヨークへ来てから美術へ本格的に向かいます。
1929年、子どもへ美術を教える
1929年からBrooklyn Jewish CenterのCenter Academyで子どもに美術を教え始め、20年以上続けました。National Galleryの近年の研究では、1930年代の紙作品に子ども用の安価な色画用紙を使った例があり、教育現場で使う素材との接点も指摘されています。
ロスコは子どもの制作について、既成の美術規則に従う前の直接性を高く評価していました。のちに成熟作で技巧的描写を減らし、色と形の直接的な作用を重視したことと単純に同一視はできませんが、「専門的技術の誇示より、見る者への直接的な働き」を重視する姿勢は早い時期から確認できます。
1933年、最初の個展
1933年、Portland Museum of Artで最初の個展を開き、同年ニューヨークのContemporary Arts Galleryでも個展を開催しました。展示されたのは風景、裸体、肖像、都市風景などで、現在一般に知られる抽象画とは大きく異なります。
当時ロスコが参照していたのは、Paul Cézanne、Henri Matisse、そして年長のアメリカ人画家Milton Averyなどでした。Averyの単純化された形と広い色面、人物と風景を同じ平面へまとめる方法は、ロスコの初期具象から後の抽象へ長期的な影響を与えます。
1935年、「The Ten」
1934年末、Gallery SecessionでAdolph Gottlieb、Ilya Bolotowsky、Joseph Solmanらと展示した後、1935年に彼らと「The Ten」を結成します。グループは1939年まで8回展覧会を行いました。
The Tenは同じ画風の集団ではありません。共通していたのは、当時アメリカで強かった地方主義的な写実や社会的リアリズムに対し、感情的・主観的・実験的な近代絵画を擁護する姿勢でした。ロスコはこの時期、WPAにも参加し、都市の人物や地下鉄を描きます。
1930年代後半、地下鉄連作
1937年頃の《Untitled (subway)》では、地下鉄駅のホームに細長い人物が立ち、柱によって空間が分断されています。National Gallery of Artは、この時期の地下鉄作品で乗客の孤立が強調されていると説明しています。
まだ完全な具象画ですが、後のロスコにつながる要素があります。人物は個人的特徴を失い、柱と身体がともに縦長の形へ単純化され、壁や床が広い色面として画面を分割します。後年の「矩形色面」を早すぎる予告として読むべきではありませんが、人物と建築を平面的な関係へ変える関心はここで育っています。
1940年、名前をMark Rothkoへ
1938年にアメリカ市民権を取得し、1940年前後からMarcus RothkowitzではなくMark Rothkoという短縮名を使うようになります。同年、Adolph GottliebらとAmerican Artists’ Congressを政治的な理由で離れ、Federation of Modern Painters and Sculptorsの設立に参加しました。
第二次世界大戦が進み、ヨーロッパから多くの前衛芸術家がニューヨークへ亡命すると、Surrealismの自動記述、神話、精神分析への関心がアメリカの若い画家へ大きく伝わりました。ロスコも具象都市風景から、神話的・生物的なイメージへ移ります。
1943年、「悲劇的で時を超えた主題」
1943年、RothkoとGottliebはNew York Timesの美術批評への返答の中で、「何も扱わない優れた絵画など存在しない」という趣旨を述べ、重要なのは悲劇的で時を超えた主題だと主張しました。MoMAは《No. 10》の解説でも、この立場をロスコの成熟作理解の中心に置いています。
この発言は、後年の抽象画を「主題のない純粋色彩」とみなす解釈に対する重要な反証です。人物や神話が消えた後も、ロスコは絵画から内容を消したとは考えていませんでした。むしろ説明的図像をなくすことで、内容をより根本的な人間感情へ移したと考えていました。
1944年、《Slow Swirl at the Edge of the Sea》
この大作には二つの生物的な人物が海と空の間で踊るように現れ、周囲を渦巻き、線、縞が取り囲みます。MoMAはSurrealismとの関係を指摘し、Rothko自身が形態を「特定の可視的経験との直接的関係を持たないが、生物の原理と情熱を認識できる」と説明したことを紹介しています。
まだ人物的な形は残りますが、身体は輪郭の明確な人間像ではなく、記号、線、色面へ溶け始めています。1945年、Peggy GuggenheimのArt of This Centuryでの個展に出品され、後にGuggenheim自身が購入しました。
1945–47年、神話的形態から離れる
1940年代前半のロスコはGreek mythology、原始美術、キリスト教的悲劇を参照し、タイトルにも神話的語彙を使っていました。しかし1947年頃になると、人物や神話的生物はほぼ消え、不定形の色の塊が大きな画面に漂う作品へ移ります。
後世に「Multiforms」と呼ばれるこれらの絵は、ロスコ本人が命名した正式なシリーズ名ではありません。MoMAの《No. 1 (Untitled)》では、薄い絵具の層で作られた不規則な色形が画面全体を行き来し、まだ後年の二、三個の水平矩形へ整理されていません。
1948年、《No. 1 (Untitled)》
MoMA所蔵《No. 1 (Untitled)》は270.2×297.8センチという巨大な画面です。1948年の時点で、ロスコはすでに観客の視野を大きく占めるスケールを選んでいました。複数の不定形な色面が重なり、背景と形の境界は安定しません。
人物が色面に「置き換わった」と単純に言うより、人物と背景を分ける構造そのものが消えていったと考える方が正確です。色の塊がそれぞれ独立した存在のように近づいたり離れたりし、その関係がドラマを作ります。
1948年、Subjects of the Artist
同年、William Baziotes、David Hare、Robert Motherwellらとともに美術学校Subjects of the Artistを設立しました。短期間で閉鎖されましたが、画家たちが自ら新しい美術の教育・討論の場を作ろうとした試みです。
ロスコの活動は制作だけではなく、教育、文章、展覧会、議論と密接に結びついていました。後に「沈黙の色面画家」というイメージが強くなりますが、実際には言語化と議論に非常に積極的な作家でした。
1949–50年、古典的フォーマットへ
1949年から50年頃、不定形のマルチフォームが次第に大きな水平矩形へ整理されます。MoMA《No. 10》では、黄、青、白、灰色の三つの主要な色域が上下に積み重なり、境界は柔らかく溶け合います。ここで「ロスコらしい」と認識される基本形式が成立しました。
重要なのは、矩形を定規で描いた幾何学的抽象ではないことです。エッジは揺れ、下層の色が透け、色面の内部にも濃淡があります。矩形は物体として硬く閉じるのではなく、呼吸するように膨張と収縮を繰り返して見えます。
1950年代前半、巨大な色面へ
1950年代に入ると、画面は縦長になり、二つか三つの大きな色面がほぼ画面幅いっぱいに広がります。《Orange and Tan》では橙と黄褐色が暖かな場を作り、《Green and Tangerine on Red》では暗い緑と鮮やかな橙が一枚の赤地の上で対立します。
Phillips Collectionは、ロスコが「Color Field painter」と呼ばれることに抵抗し、人間経験を悲劇的・恍惚的な状態へ蒸留することを重視したと説明しています。色面の美しさだけを見ると、本人が目指した内容の一部しか見ていないことになります。
1954年、Art Institute of Chicago個展
1954年、Art Institute of Chicagoで個展を開催し、ニューヨーク以外でも評価が広がります。同時期にはSidney Janis Galleryと関係を持ち、作品の市場的評価も上昇しました。
ただし成功とともに、ロスコは作品が装飾として消費されることへの警戒を強めました。作品を「美しい色の組み合わせ」として高級住宅やレストランへ置くことは、彼が求める悲劇性や没入的経験と衝突する可能性がありました。この緊張が後のSeagram commissionで表面化します。
1957–60年、Phillips CollectionのRothko Room
Washington, D.C.のCollector Duncan Phillipsは1957年に《Green and Maroon》を購入し、1960年には《Green and Tangerine on Red》《Orange and Red on Red》を加えました。1960年、新館にRothko作品専用の小部屋を設計し、1964年には《Ochre and Red on Red》が加わって四面に一作品ずつ配置されます。
Phillips Collectionによれば、これはアメリカの美術館で初めて一人のRothko作品だけに専用室を与えた例でした。Rothko自身が照明を暗くすること、椅子ではなく簡素な木製ベンチを置くことを提案しています。巨大な作品を大ホールに置くのではなく、普通の生活空間に近い小さな部屋で近距離から体験させることを重視しました。
1958年、Seagram Buildingの依頼
1958年、New YorkのSeagram Building内に開業予定だったFour Seasons restaurantのため、壁画制作を依頼されました。これはRothkoにとって最初の大規模な建築的コミッションでした。暗い赤、マルーン、黒を中心とする巨大な作品群を制作します。
しかし完成前後にレストランの豪華な環境へ強い違和感を持ち、最終的に依頼を撤回して報酬を返しました。Tateは、作品内容とレストランの環境が相容れないと判断したためと説明しています。後に一部の作品はTateへ寄贈され、現在「Seagram Murals」として専用空間で展示されています。
1959年、イタリア旅行とMichelangelo
Seagram Murals制作期、RothkoはEuropeを旅行し、FlorenceのMichelangeloによるLaurentian Libraryの前室などを訪れました。National Galleryの研究では、壁、扉、窓が観客を閉じ込めるような建築的感覚がRothkoに強い印象を与えたことが紹介されています。
以後の壁画では、色面が「窓」のように開く一方で、暗い枠が入口を塞ぐようにも見えます。開放と閉鎖、光と暗闇が同時に現れる構造です。
1961–62年、Harvard Murals
1961年、Harvard UniversityのHolyoke Centerにある特別行事室のため壁画を依頼され、1962年に一連の作品を完成しました。深い赤、クリムゾン、暗色を用い、建築の壁面と窓の配置を意識して構成しています。
しかし設置空間には大きな窓があり、Rothkoが求めた遮光だけでは作品を十分に守れませんでした。使用したLithol Redという顔料も光に弱く、作品は大きく退色します。1970年代末には撤去され、長期間保管されました。この問題は現代美術保存の重要事例となります。
1964–67年、Rothko Chapel
1964年、HoustonのJohn and Dominique de Menilから礼拝空間のための作品制作を依頼されます。当初はCatholicのchapelとして構想されましたが、現在は宗派を限定しないRothko Chapelとして運営されています。
Rothkoは建築設計にも深く関与し、自然光がどのように作品へ当たるかを重視しました。2年以上の実験を経て、1967年までに14点の大作を完成します。Rothko Chapelによれば、7点はマルーン地に硬い黒い矩形を置き、7点は紫系の微妙な色調だけで構成されています。
1968年、健康上の転機と媒体の変化
1968年に大動脈瘤を経験した後、医師から大きなカンヴァス制作を控えるよう助言され、制作サイズを縮小します。また油彩からアクリルへ移行し、紙作品も増加しました。
National Galleryは、Rothkoが生涯に1000点を超える紙作品を制作し、それらを単なる準備素描ではなく完成した絵画として扱っていたことを強調しています。紙は晩年だけの代用品ではなく、キャリア全体にわたる重要な媒体でした。
1969年、《Black on Gray》と明るい紙作品
1969年、黒と灰色、茶と灰色など上下二つの領域に分かれた作品群を制作します。後世には死の予兆としてしばしば語られましたが、National Galleryは同時期に柔らかなピンク、ラベンダー、淡青色など明るい紙作品も多数制作していたことを指摘しています。
したがって、暗色=絶望、明色=幸福という単純な心理診断を作品へ当てはめることはできません。Rothkoは1950年代から明色と暗色を往復しており、色の意味は組み合わせ、層、スケール、展示環境によって変わります。
1970年、死去
1970年2月25日、RothkoはNew Yorkのstudioで死去しました。66歳でした。死後、作品の管理をめぐる訴訟が起こり、最終的に多くの作品がMark Rothko Foundationへ戻されます。
Foundationは1980年代に多数の作品をNational Gallery of Artなどへ寄贈しました。NGAは現在、Rothkoの世界最大規模の公共コレクションを所蔵し、カンヴァスだけでなく紙作品約2600点を対象とするオンライン・カタログ・レゾネ研究も進めています。
ドヴィンスクからアメリカへ――移民としての出発
Rothkoが生まれたDvinskは現在LatviaのDaugavpilsですが、1903年当時はRussian Empireの一部でした。このため美術館の表記にも「American, born Russia (now Latvia)」がよく使われています。本ページでは活動と市民権を基準にアメリカの作家としつつ、出生地が現在のLatviaであることを明記しています。
幼少期のユダヤ人社会、移民、父の死、Portlandでの生活を、そのまま後年の色面へ因果的に結びつけることはできません。しかしRothkoが宗教的象徴、神話、悲劇、共同体、個人の孤独へ長期的な関心を持った背景として、複数の文化圏を移動した経験は重要です。
1930年代――人物、地下鉄、都市の孤独
1930年代の地下鉄作品では、柱や壁によって人物同士が分離されています。顔は細部を欠き、身体は細長く、視線を交わさないことが多くあります。都市の公共空間に人が多数いるのに、それぞれが孤立している状態です。
この時期を「抽象以前の未成熟なRothko」と切り捨てるべきではありません。後の成熟作でも、観客一人と作品一枚の孤立した関係が重視されます。具象人物が画面から消えた後も、「人間が一人で存在する」問題そのものは消えません。
「ザ・テン」――アメリカ写実主義への反発
The Tenは、1930年代のAmerican Scene paintingやRegionalismの優勢に対抗し、個人的・表現的な現代美術を擁護しました。Rothko、Gottlieb、Bolotowsky、Solmanらは同じ様式を描いたわけではありませんが、「アメリカらしさ」を地方の風景や生活場面の写実へ限定することへ反発しました。
この経験は、Rothkoが後に抽象へ進んだ時にも重要です。彼は「アメリカ美術」を特定の国民的イメージで定義するより、悲劇や恐怖、恍惚といった人間共通の経験へ接続しようとしました。
1940年代――神話とシュルレアリスム
第二次世界大戦期、RothkoとGottliebは古代Greek mythを、現代人の根源的な恐怖や悲劇へ接続する方法として使います。当時New YorkにはEuropean Surrealistsが亡命し、Miró、Masson、Mattaらの自動記述や生物的抽象が大きな影響を与えました。
しかしRothkoは神話を古代の物語として忠実に描いたわけではありません。神話を心理的な原型として扱い、人物を断片、記号、生物的形態へ変形します。1940年代後半に神話的タイトルが消えても、「悲劇的で時を超えた主題」を求める姿勢は続きます。
《Slow Swirl at the Edge of the Sea》――人物が溶け始める
《Slow Swirl at the Edge of the Sea》にはまだ二つの人物的存在がありますが、身体は線と渦へ解体されています。Christopher RothkoはMoMAの音声解説で、この作品が母Mell Rothkoとの出会いの時期に描かれ、二つの存在を父と母と読む家族内の記憶を紹介しています。
ただし作品は個人的な恋愛場面の肖像に留まりません。人物と風景の境界が曖昧になり、海、空、身体が同じ記号的な運動へ溶け合います。後の色面絵画で「人間像が消えた」のではなく、人間の感情を別の形で表す準備がここで進んでいました。
マルチフォーム――色面が人物に代わる
1947–49年頃の作品は、後に批評上「Multiforms」と呼ばれます。大きなカンヴァスへ、不規則な赤、黄、緑、青、黒などの色の塊が浮かびます。まだ上下二、三段には整理されず、大小の形が互いに近づいたり離れたりします。
重要なのは、Rothkoが突然「色彩だけ」を主題にしたわけではないことです。以前は人物や神話的生物同士の関係がドラマを作っていましたが、その役割を色面同士の関係が引き受けるようになります。色面は背景の装飾ではなく、一つ一つが画面内で存在する主体のように振る舞います。
1949–50年――「ロスコらしい」形式の成立
1949年頃から色面の数が減り、横長の矩形が上下に積層されます。1950年《No. 10》では黄と青・白・灰色の大きな領域が互いに押し出したり後退したりするように見えます。
MoMAはHans Hofmannの「push/pull」色彩理論との関連も紹介しています。暖色は前へ、寒色は後ろへ見える傾向がありますが、Rothkoはこれを固定的なルールとして使ったわけではありません。薄い層、境界のぼかし、下地の透過を組み合わせることで、面が前後へ移動して見える不安定な空間を作りました。
ロスコの作品をどう見るか
最初に、画像で「色の組み合わせ」を理解したつもりにならないことが重要です。Rothkoの成熟作はしばしば高さ2メートルを超え、実物では観客の身体より大きくなります。数十センチの画面で見ると色見本のように見えても、実物では視界の大部分を占めます。
次に、色面の輪郭を見ます。矩形は直線で切られておらず、外側へ染み出したり、背景が内側へ入り込んだりします。輪郭の曖昧さによって、色面は物体のように硬く閉じず、光や霧のように現れます。
さらに、色面の内部を見ます。一色に見える部分にも複数の層、筆触、濃淡、下地があります。《Orange and Tan》では橙や青緑の下層が端からわずかに現れます。Rothkoの色は「塗料の色名」一つで説明できません。
最後に、作品の周囲の空間を含めて見ます。Rothkoは照明、壁の色、展示高さ、作品間の距離に強く関心を持ちました。作品を一枚ずつ切り出した画像より、Rothko RoomやRothko Chapelのような環境で、その考えがもっとも明確になります。
主要作品
1930年代の地下鉄風景から、シュルレアリスム期、マルチフォーム、1950年代の古典的色面、Phillips Collectionの専用室、Seagram Murals、Harvard Murals、Rothko Chapel、最晩年の黒と灰色/赤い作品まで、ロスコが人物を描く画家から「絵画と観客が同じ場所に存在する」環境的な絵画へ進んだ流れを追える11項目を選びました。
無題(地下鉄)
Untitled (subway) / c. 1937 / 油彩・カンヴァス / 51.1 × 76.2 cm
National Gallery of Art, Washington, D.C.
ニューヨーク地下鉄のホームに細長い人物が離れて立つ初期具象作。柱と人体が縦の反復を作り、広い壁・床の色面が空間を分割します。National Galleryは、この時期の地下鉄作品で乗客の孤立が強調されていると説明しています。後年の抽象を直接予告する作品というより、Rothkoが早くから人物、空間、孤独の関係を扱っていたことを示す重要作です。
海辺のゆるやかな渦
Slow Swirl at the Edge of the Sea / 1944 / 油彩・カンヴァス / 191.4 × 215.2 cm
The Museum of Modern Art, New York
二つの生物的な人物が海と空の間で踊るように配置され、渦、螺旋、縞が周囲を満たすSurrealism期の代表作。Rothkoは形を「特定の可視的経験と直接結びつかないが、生物の原理と情熱を認識できる」と説明しました。人物像が記号・線・色面へ溶け、後の非具象へ進む重要な段階です。
No. 1(無題)
No. 1 (Untitled) / 1948 / 油彩・カンヴァス / 270.2 × 297.8 cm
The Museum of Modern Art, New York
後に「マルチフォーム」と呼ばれる過渡期の大作。薄い絵具の層で作られた多数の不定形な色面が画面全体を漂い、人物・背景の区別が消えています。MoMAは、Surrealist modeから空間・色・スケールそのものへ関心が移った転換作と位置づけています。幅約3メートルの巨大さも、後の没入的色面を先取りします。
No. 10
No. 10 / 1950 / 油彩・カンヴァス / 229.6 × 145.1 cm
The Museum of Modern Art, New York
Rothkoの古典的形式が成立した時期の代表作。黄、青、白、灰色の大きな領域が上下に重なり、柔らかな境界によって前後へ動くように見えます。MoMAは暖色/寒色のpush-pull効果と、Rothkoが観客に近距離で作品に包まれるような鑑賞を望んだことを解説しています。
オレンジと黄褐色
Orange and Tan / 1954 / 顔料入り膠、油彩・カンヴァス / 206.4 × 160.6 cm
National Gallery of Art, Washington, D.C.
橙色と黄褐色の二つの大きな色域が暖かな地の上に浮かぶ1950年代の代表作。NGAの詳細調査では、色面の縁から下層の橙や青緑がわずかに現れ、複数の層が最終色を作っていることが確認できます。一色を平坦に塗るのではなく、薄い色層を重ねて光のような深さを作るRothkoの方法がよく分かります。
赤の上の緑とタンジェリン
Green and Tangerine on Red / 1956 / 油彩・カンヴァス / 237.8 × 175.9 cm
The Phillips Collection, Washington, D.C.
暗い緑と鮮烈なタンジェリン色が赤い地の上で上下に対立する作品。Phillips Collectionは、Rothkoが色を何層も重ね、時には布で濡れた色を擦り合わせて内側から光るような表面を作ったと説明しています。現在Rothko Roomを構成する4作品の一つで、色彩の美しさと不安・陰影が同時に存在する例です。
マルーンの上の黒
Black on Maroon / 1958 / 油彩・カンヴァス / 266.7 × 381.2 cm
Tate, London
Seagram BuildingのFour Seasons restaurantのために制作された壁画群の一つ。幅3.8メートルの暗いマルーン地に黒い矩形が広がり、窓・扉のように見えながら空間を開くのか塞ぐのか判別できません。Rothkoは最終的にrestaurantへの設置を撤回し、後に本作を含むSeagram Muralsの一部をTateへ寄贈しました。
ハーバード壁画
Harvard Murals / 1961–1962 / ミクストメディア・カンヴァス、壁画連作 / 複数の大型パネルからなる環境的作品
Harvard University / Harvard Art Museums, Cambridge
HarvardのHolyoke Center特別行事室のために制作された壁画群。深いクリムゾンを中心に、建築の窓や壁との関係を前提として構成されました。光に弱いLithol Redの使用と強い自然光により大きく退色し、1970年代末に撤去。2014–15年には作品へ絵具を加えず、デジタル投影で失われた色を知覚的に補う保存研究が公開されました。
色そのものが目的ではない
Rothkoの作品を説明するとき、「赤は情熱」「黒は死」「黄は幸福」と色彩心理へ直接結びつける解説が生まれやすくなります。しかし本人の発言と制作を見ると、そのような一対一の対応はありません。同じ赤でも1950年代の鮮やかな作品とSeagram Muralsの暗いマルーンでは働きが違い、一枚の中でも下層と上層の色が互いを変化させます。
Phillips Collectionは、RothkoがColor Field painterという分類に抵抗し、人間経験を悲劇と恍惚の両方へ蒸留することを重視したと説明しています。MoMAも「色彩関係だけに心を動かされるなら要点を逃している」という本人の立場を紹介しています。つまり「色彩が重要ではない」のではなく、色彩が最終目的ではないということです。
薄い層と光――色はどのように浮かぶのか
Rothkoの成熟作では、色面が内側から発光しているように見えることがあります。実際に光源があるわけではなく、薄く希釈した絵具を重ね、下層を部分的に透過させることでこの効果を作ります。
《Green and Tangerine on Red》についてPhillips Collectionは、Rothkoが色を混ぜて何層も重ね、時には布で濡れた色をこすり合わせたことを説明しています。筆跡を強い身振りとして見せるより、複数層が一つの光として感じられる表面を作りました。
そのため作品の色は印刷やモニターで再現しにくくなります。RGBの一色へ変換すると、下層が透ける深さや、横から見たときの光沢差が消えます。Rothkoを実物で見る必要性は、単に「大きいから」ではなく、色が物質的な層として存在するからでもあります。
巨大さと距離――なぜ近くから見るのか
Rothkoは大きな絵を「壮大に見せる」ために描いたのではないと説明しています。大画面を親密なものと考え、近距離から見ることで観客自身が絵の内部へ入る感覚を求めました。
小さな絵では観客は画面全体を一度に把握し、その外側に立ちやすくなります。高さ2メートルを超える画面へ近づけば、端を同時に見ることが難しくなり、視界の周辺まで色に覆われます。「絵を見る」から「色の場の中にいる」へ経験が変わります。
これはAbstract Expressionismの大画面化と共通する一方、Pollockのように画面全体へ身振りを展開する方法とは異なります。Rothkoは情報量を増やすのではなく、少数の色面を巨大化することで身体との関係を強めました。
Rothko Room――一枚の絵から部屋全体へ
The Phillips CollectionのRothko Roomは、1960年に専用空間として設けられました。現在は《Green and Maroon》《Ochre and Red on Red》《Green and Tangerine on Red》《Orange and Red on Red》の4点が、基本的に一壁一作品の構成で展示されています。
Rothkoは1961年に実際に空間を訪れ、照明を落とし、簡素な木のベンチを置くよう提案しました。Phillips Collectionによれば、現在の部屋は移設後も元の寸法、東西方向、性格をほぼ維持しており、Rothko自身が展示設計に関与した唯一現存する美術館空間です。
ここでは、一枚の作品の「構図」より、四方から色面に囲まれ、座って時間を過ごす経験が重要です。後のSeagram Murals、Harvard Murals、Rothko Chapelへつながる「room as artwork」の発想が明確になります。
シーグラム壁画――レストランから撤回した依頼
1958年、RothkoはMies van der RoheとPhilip JohnsonによるSeagram Building内のFour Seasons restaurantのために大規模壁画を制作します。高額な依頼であり、画家としての成功を象徴する仕事でした。
しかし制作を進める中で、富裕層が食事をする豪華な空間と、自分の絵画が求める重く没入的な経験が一致しないと考えるようになります。最終的に依頼を撤回し、報酬を返しました。Tateは、作品がその環境を補完しないと判断したことを理由として説明しています。
この出来事は「金持ちが嫌いだった」という逸話だけで処理すべきではありません。Rothkoにとって作品の意味は展示場所から独立していなかったことが重要です。同じ絵でも、豪華なレストランの装飾になるのか、静かな美術館の一室で長時間見るのかによって意味が変わると考えていました。
1960年代末、RothkoはSeagram Muralsの一部をTateへ寄贈しました。Tateの《Black on Maroon》は1958年、266.7×381.2センチ。暗いマルーンの場に黒い矩形が開口部のように現れます。窓にも扉にも見えますが、奥へ入れるのか塞がれているのかは決まりません。
ハーバード壁画――建築、光、そして退色
Harvard MuralsはHolyoke Centerの最上階にあった特別行事室のために制作されました。Rothkoは壁の色や照明に注文をつけ、窓から入る日光を遮るためのカーテンも求めました。
しかし大きなガラス窓からの光を完全には制御できず、Lithol Redを含む光に弱い顔料が急速に退色しました。家具、食物、落書きによる損傷も加わり、1970年代末に撤去されます。
2014–15年のHarvard Art Museumsでは、物理的に塗り直さず、デジタル・プロジェクターから補正光を当てて本来の色調に近い見え方を一時的に再現する研究展示が行われました。Harvard Gazetteによれば、ピクセル単位で失われた色を補う方法で、スイッチを切れば作品そのものの現在状態へ戻ります。
これは保存修復の考え方に重要な問題を提起しました。オリジナル塗膜へ新しい絵具を加えるのか、それとも物質を触らず知覚だけを一時的に補うのか。Rothko作品の色が単なる表面装飾ではなく作品内容そのものであるからこそ生まれた問題です。
Rothko Chapel――絵画と建築を一つにする
HoustonのRothko Chapelは1971年に開館しました。Rothkoは完成を見ることなく1970年に亡くれましたが、1964年から67年まで14点の大作を制作し、建物の形や自然光にも深く関与しました。
Chapel公式資料によれば、14点のうち7点はマルーン地に硬い黒い矩形を持ち、7点は紫系の微妙な色調で構成されています。明るいColor Field paintingsとは異なり、暗い画面へ目が慣れるまで時間がかかります。
ここでは絵を一枚ずつ比較するより、八角形に近い礼拝空間全体に滞在することが作品経験になります。自然光は時間や天候で変化し、黒に見えた面から紫、赤、褐色が徐々に現れます。Rothkoが長年追究した「観客を色の場へ入れる」考えが、もっとも徹底された環境です。
2024年7月、Hurricane Berylによる屋根からの漏水で建物と4点のpanelが被害を受けました。Chapelは同年12月17日に再開しましたが、2026年10月現在、公式サイトによればEast Triptychは修復施設で作業が続いており、返還日はまだ確定していません。作品が建築と一体化しているからこそ、気候災害と保存の問題も作品史の一部になっています。
暗い絵=絶望という単純化を避ける
Seagram Murals、Rothko Chapel、1969年のBlack and Gray paintingsを見ると、Rothkoが年齢とともに「明るい色から暗い色へ落ちていった」という物語を作りたくなります。1970年の死と結びつければ、なおさら説得力があるように見えます。
しかしNational Galleryの研究は、この単純な読みを明確に修正しています。1969年に黒と灰色のカンヴァスを描く一方、紙にはmauve、lavender、pale pink、light blueなど柔らかく明るい色を使っていました。また暗い作品自体も1950年代から制作されています。
作品を作家の心理状態の診断へ変えるのではなく、色、素材、支持体、展示場所の変化を具体的に見る必要があります。暗色は「死」を固定的に意味するのではなく、光の吸収、空間の閉鎖、境界の見えにくさといった視覚的経験を作ります。
紙作品――「習作」ではないもう一つの本流
National Gallery of ArtのCatalogue Raisonné Projectは、Rothkoの紙作品を約2600点規模で調査しています。そのうち1000点以上は「paintings on paper」として制作され、本人は重要な展覧会へ出品し、販売し、贈答も行いました。
紙作品を「大きなカンヴァスの下書き」と考えると、この実践を見誤ります。Rothkoは紙をlinenやboardへmountし、glassなしで展示させることも求めました。紙でもカンヴァス作品のように直接的な表面として見せたかったのです。
紙は吸収性が異なるため、絵具がカンヴァスとは違うにじみ方をします。晩年には小さいサイズへ移ったことで色の実験が紙上でさらに活発になり、暗色画だけでは見えない制作の幅を示します。
観客――絵画は「経験」である
National GalleryはRothkoの「A painting is not a picture of an experience; it is an experience」という考えを紹介しています。これは彼の作品を理解するうえで非常に重要です。
風景画であれば、絵の向こうに「別の場所」が描かれます。Rothkoの成熟作では、色面の向こうに具体的な場所はありません。絵の前にいる現在の自分と、色面との関係そのものが出来事になります。
そのため作品の適切な鑑賞時間も一瞬ではありません。最初は単純な二つの矩形に見えても、目が色と照明に慣れるにつれて境界が動き、下層色が見え、色面が前後に揺れ始めます。時間をかけることで作品が変わるのではなく、観客の知覚が変化します。
抽象表現主義の中での位置
RothkoはPollock、Newman、Still、Gottlieb、Motherwellらと同じNew York School/Abstract Expressionismの第一世代に含まれます。しかし「抽象表現主義」という名称から想像される激しい筆触とはかなり異なります。
Pollockは床に置いたカンヴァスを身体的な行為の場にし、de Kooningは筆触と人物像を衝突させました。Rothkoは逆に、作者の身振りが前面へ出ないよう薄い層を重ね、観客の身体を作品の前で活動させます。「誰がどう描いたか」より「見る人に何が起こるか」へ重心を移しました。
この点でColor Field Paintingの先駆とされますが、本人は形式分類より感情内容を強調しました。RothkoをGreenberg的な「平面性の純化」だけで理解すると、神話、悲劇、宗教的空間、観客との対面という本人の中心問題を取りこぼします。
死後――財団、所蔵、受容
Rothkoの死後、estateとMarlborough Galleryをめぐる長い法廷闘争が起こりました。最終的に多数の作品がestateへ戻され、Mark Rothko Foundationを通じて美術館へ寄贈されます。
1986年、National Gallery of ArtはFoundationから大規模な寄贈を受け、現在Rothkoの世界最大規模の公共コレクションを持っています。このため初期具象、Surrealist period、Multiforms、classic paintings、最晩年、紙作品を一つの館で継続的に研究できる環境が形成されました。
死後の人気があまりに高いため、Rothkoは「高額な抽象画」「ホテルのようなインテリアに似合う色面」というイメージでも消費されてきました。しかしこれは、Four Seasons commissionを自ら撤回した態度とは強い緊張を持ちます。Rothkoが望んだのは装飾的な快適さより、観客が作品の前で逃げ場のないほど集中する経験でした。
保存修復――光と顔料の問題
Rothkoは薄い色層、独自に混ぜた絵具、光に敏感な顔料などを使ったため、保存は容易ではありません。Harvard MuralsのLithol Red退色はその代表例です。またRothko Chapelでは2024年のHurricane Berylによる直接的な水害も起きました。
色面絵画では、わずかな色の変化が作品全体の関係を変えます。人物画なら背景の一部が少し退色しても像の識別は保たれる場合がありますが、Rothkoでは「背景」と「主役」を分けられません。色そのものが作品だからです。
保存修復は、物質を可能な限り変えないことと、Rothkoが意図した知覚経験をどこまで維持するかの間で難しい判断を迫られます。Harvardの投影型補正は、この問題に対する現代的な実験として美術保存史上も重要です。
2023–26年の再評価
2023–24年、National Gallery of Artは《Mark Rothko: Paintings on Paper》を開催し、約40年ぶりに紙作品へ大規模に焦点を当てました。関連研究では、Rothkoが1000点を超える紙上絵画を完成作品として扱ったことが改めて強調され、巨大カンヴァス中心だった従来のイメージを修正しています。
同時期、Fondation Louis Vuittonの大規模回顧展へPhillips CollectionのRothko Roomの3作品が貸し出され、Washingtonの部屋にはRothko家所蔵作品が一時的に入るという異例の再構成も行われました。これは「同じ部屋にどのRothkoがあるか」で空間経験がどれほど変わるかを確認する機会にもなりました。
2024年にはHurricane BerylでRothko Chapelの4パネルが被害を受け、同年12月に建物は再開しました。2026年10月現在、Chapel公式の保存情報ではEast Triptychの修復が継続しています。作品の意味を研究するだけでなく、気候変動下で20世紀後半の環境型作品をどう保存するかという新しい課題も生じています。
マーク・ロスコは何を変えたのか
第一に、抽象絵画から「対象」を消しても、内容を消す必要はないことを示しました。Rothkoは人物、地下鉄、神話を経て色面へ進みましたが、悲劇、恍惚、恐怖、孤独という主題を捨てたとは考えていませんでした。色面そのものへ人間的なドラマを担わせました。
第二に、絵画のスケールを画像の大きさではなく観客との関係として考えました。巨大化によって遠くから見せるのではなく、近くで視野を満たし、作品と観客を一対一で対面させます。これは絵画を環境的な経験へ近づけました。
第三に、色を固定的な面ではなく、光・層・時間の現象へ変えました。薄い絵具を何層も重ね、輪郭をぼかすことで、矩形が背景から浮かび、沈み、発光するように見えます。色彩は静止した物質でありながら、見る時間によって変化する経験になります。
第四に、作品と展示空間を切り離せないものとして考えました。Rothko Room、Seagram Murals、Harvard Murals、Rothko Chapelでは、建築、照明、作品間隔、観客の位置までが作品経験を構成します。現在のインスタレーション・アートとは方法が異なりますが、「絵をどこにどう置くか」まで作者の仕事と考える重要な先例です。
そして、Rothkoの制作は明るい色面から暗い色面へ直線的に進んだのではありません。具象、神話、抽象、壁画、紙作品、明色、暗色を何度も往復します。もっとも有名な1949–58年頃の形式だけを完成形として切り出すより、約40年間にわたって「人間感情を絵画そのものでどう経験させるか」を変形し続けた作家として見ることで、その重要性がはっきりします。
略年譜
- 1903
- 9月25日、Russian EmpireのDvinsk(現在のDaugavpils, Latvia)にMarcus Rothkowitzとして生まれる。
- 1913
- 母、姉とともにアメリカへ移住し、Portland, Oregonの家族と合流。父は到着後まもなく死去。
- 1921
- 奨学金でYale Universityへ入学。哲学、心理学、経済学、言語などを学ぶ。
- 1923
- Yaleを中退しNew Yorkへ移る。
- 1924
- Art Students LeagueでGeorge Bridgman、Max Weberらに学ぶ。
- 1929
- Brooklyn Jewish CenterのCenter Academyで子どもへの美術教育を開始。約20年以上継続。
- 1933
- Portland Museum of Artで最初の個展。続いてNew YorkのContemporary Arts Galleryでも個展。
- 1935
- Adolph Gottlieb、Ilya Bolotowsky、Joseph SolmanらとThe Tenを結成。
- 1936–1939頃
- WPAに参加。New Yorkのsubway、人物、室内を描き、都市における孤立を扱う。
- 1938
- アメリカ市民権を取得。
- 1940
- Mark Rothkoの名を使用するようになる。GottliebらとFederation of Modern Painters and Sculptors設立に参加。
- 1943
- Gottliebとともに、芸術には「悲劇的で時を超えた主題」が必要だとする立場を公に表明。
- 1944
- 《Slow Swirl at the Edge of the Sea》制作。Surrealism、自動記述、神話的形態への関心が強まる。
- 1945
- Peggy GuggenheimのArt of This Centuryで個展。Surrealist/mythic periodの作品を発表。
- 1947
- 人物・神話的形態をほぼ排し、不定形色面による非具象作品へ移行。後にMultiformsと呼ばれる。
- 1948
- 《No. 1 (Untitled)》など巨大なMultiformsを制作。Baziotes、Hare、MotherwellらとSubjects of the Artist設立。
- 1949–1950
- 二、三個の柔らかな水平矩形を上下に配置するclassic formatを確立。《No. 10》などを制作。
- 1954
- Art Institute of Chicagoで個展。《Orange and Tan》制作。国際的・市場的評価が拡大。
- 1957
- Duncan Phillipsが《Green and Maroon》を購入。後のRothko Room形成が始まる。
- 1958
- Seagram BuildingのFour Seasons restaurant用壁画を受注。暗い赤・マルーン・黒の大作群を制作。
- 1959
- Europe旅行でMichelangeloのLaurentian Library等を訪問。Four Seasonsへの壁画設置を撤回し、報酬を返還。
- 1960
- Phillips CollectionにRothko専用室が成立。《Green and Tangerine on Red》《Orange and Red on Red》などが集められる。
- 1961–1962
- Harvard University Holyoke Center用壁画を制作。
- 1964
- 《Ochre and Red on Red》がPhillips Collectionに加わり、現在につながる4作品のRothko Room構成が完成。Houstonのchapel commissionを受ける。
- 1964–1967
- Houstonのchapelのため14点の暗色大作を制作。建築と自然光にも深く関与。
- 1968
- 大動脈瘤を経験。制作サイズを縮小し、油彩からacrylic、紙作品へ比重を広げる。Seagram Muralsの一部をTateへ寄贈。
- 1969
- Yale Universityから名誉Doctor of Fine Arts。《Black on Gray》系の暗色作品と、明るい色彩の紙作品を並行して制作。
- 1970
- 2月25日、New Yorkのstudioで死去。66歳。
- 1971
- Rothko ChapelがHoustonで開館。作家は完成を見ることができなかった。
- 1970年代
- Harvard Muralsの退色が深刻化し、1970年代末に常設空間から撤去。
- 1986
- Mark Rothko FoundationからNational Gallery of Artへ大規模な作品寄贈。同館が世界最大規模の公共Rothkoコレクションを形成。
- 1998
- National Gallery of Artを中心に大規模回顧展。David Anfamによるcanvas catalogue raisonnéも刊行され、作品研究が大きく進む。
- 2014–2015
- Harvard Art MuseumsでHarvard Muralsをデジタル投影によって知覚的に補正する実験展示を実施。
- 2021
- 大規模改修を経てRothko Chapelが再開。自然光制御を含む建築環境が更新される。
- 2023–2024
- National Gallery of Art《Mark Rothko: Paintings on Paper》。40年ぶりの大規模紙作品展として、1000点を超える紙上絵画の重要性を再評価。
- 2023–2024
- Fondation Louis Vuittonで大規模回顧展。Phillips CollectionのRothko Roomから3作品が一時貸し出される。
- 2024
- Hurricane BerylでRothko Chapelが被害を受け、屋根・壁と4点のpanelが損傷。7月から閉館し、12月17日に再開。
- 2025–2026
- Rothko ChapelのEast Triptych修復が継続。2026年10月時点で公式サイトは返還日未定としている。National Galleryの紙作品catalogue raisonné projectも継続。
参考資料・出典
本ページはNational Gallery of Art、The Museum of Modern Art、The Phillips Collection、Tate、Rothko Chapel、Harvard University/Harvard Art Museumsなどの美術館・研究機関・公式資料を中心に参照してART LIBRARYが独自に執筆しました。ロスコ本人の発言は、各機関が公開する研究・作品解説を通して確認し、後世の解釈と区別して記述しています。原文の全文翻訳ではありません。
- National Gallery of Art — Mark Rothko
- National Gallery of Art — Who Is Mark Rothko? 9 Things to Know
- National Gallery of Art — Mark Rothko: Paintings on Paper
- National Gallery of Art — Rothko Catalogue Raisonné: Works on Paper
- National Gallery of Art — Untitled (subway), c.1937
- National Gallery of Art — Orange and Tan, 1954
- National Gallery of Art — Untitled, 1970
- The Museum of Modern Art — Mark Rothko
- MoMA — Slow Swirl at the Edge of the Sea, 1944
- MoMA — No. 1 (Untitled), 1948
- MoMA — No. 10, 1950
- The Phillips Collection — The Rothko Room
- The Phillips Collection — Green and Tangerine on Red, 1956
- Tate — Black on Maroon, 1958 / Seagram Murals
- Tate — Red on Maroon, 1959 / Seagram Murals
- Harvard Gazette — A light touch for Rothko murals
- Harvard Gazette — Rothko murals and digital conservation
- Rothko Chapel — About the Chapel and paintings
- Rothko Chapel — Conservation Efforts after Hurricane Beryl
資料確認日:2026年10月1日 / ART LIBRARY