Art Library

Mark Rothko

マーク・ロスコ

アメリカ(現ラトビア生まれ) / 1903–1970 / 抽象表現主義/カラーフィールド・ペインティング

Mark Rothko at Tate Modern | TateShots (Tate)
“Mark Rothko” exhibition | Trailer (Fondation Louis Vuitton)
Mark Rothko’s Seagram Murals: Great Art Explained
Mark Rothko in 60 seconds (Royal Academy of Arts)

20世紀初頭のアメリカでは、ヨーロッパで生まれた新しい絵画を学びながら、自分たちの社会や時代にふさわしい表現を探す画家が増えていました。パリではピカソやマティスらが、物の形や色を従来の写実とは異なる方法で組み立てていました。一方、アメリカでは地方の風景や働く人々の日常を描く美術も重視され、何を「アメリカの美術」と呼ぶべきか、議論が続いていました。

1929年の株価暴落をきっかけに大恐慌が広がると、作品の買い手が減り、多くの画家が生活と制作を続けることさえ難しくなりました。1933年に大統領となったフランクリン・ルーズベルトは、失業者に仕事を提供するニューディール政策を進め、その対象に芸術家も含めます。1935年には連邦美術計画が発足し、政府が画家や彫刻家を雇って賃金を払い、学校や公共施設の壁画、彫刻、カンヴァス絵画などを制作する仕事を用意しました。美術を職業とする人々にも、公共事業を通じて働く機会が生まれたのです。若いロスコもこの制度に参加しました。

1930年代末から第二次世界大戦にかけては、ナチスの迫害や戦火を避けたヨーロッパの前衛芸術家がニューヨークに移り住みました。彼らが持ち込んだシュルレアリスムは、夢や無意識、神話を通して、人間の内側にある不安や欲望を表現しようとする動きでした。アメリカの若い画家たちも、街の風景や人物を描く方法から、より根源的な感情を扱う表現へと関心を広げていきます。戦争によって人間の生き方そのものが問い直されるなか、絵画に何を託せるのかが切実な問題となっていました。

そのニューヨークで画家になったマーク・ロスコ(1903–1970)は、もともとロシア帝国から渡ったユダヤ系移民でした。地下鉄の乗客や室内の人物を描いた若い頃から、神話的な姿が浮かぶ絵へ、さらに輪郭の曖昧な色面だけの絵へと、表現は大きく変わっていきます。彼が繰り返し考えていたのは、人間の悲劇や孤独、恍惚を絵画でどう伝えられるかという問いでした。現在よく知られる大きな色面へ到達するまでには、家族との移住、学業と仕事、二度の結婚、美術家仲間との交流を伴う長い歩みがありました。

ロシア帝国での幼少期とアメリカへの移住

ユダヤ人の暮らすドヴィンスクの家庭

1903年9月25日、ロスコはロシア帝国領ドヴィンスク(現在のラトビアのダウガフピルス)で、マーカス・ロスコウィッツ(Marcus Rothkowitz)として生まれました。父ヤーコプは薬剤師で、教育を重んじる家庭でした。家族はユダヤ系で、当時のロシア帝国ではユダヤ人が居住できる地域や職業に制限があり、反ユダヤ主義も暮らしに影響していました。

移民となった事情を、後年の絵画に直接結びつけることはできません。ロスコが生まれた時代と場所を知ることで、ヨーロッパの政治と宗教の緊張、アメリカへ新しい生活を求めて渡った家族の状況が見えてきます。(参照:ワシントン・ナショナル・ギャラリー|ロスコの経歴/オレゴン歴史百科事典|ロスコの生涯)

父を追ってポートランドへ

父と兄たちは先にアメリカへ渡り、オレゴン州ポートランドに暮らしていました。1913年、10歳のロスコは母や姉とともに海を渡り、家族と合流します。しかし父はその後まもなく亡くなり、残された家族は働きながら生活を支えなければなりませんでした。

ロスコは学校で語学や文学、音楽などに親しみ、優秀な成績を収めます。アメリカ社会になじんでいく経験と、ユダヤ系移民として置かれた境遇が同時にあった少年期です。後年、彼が好んだ音楽や文学への関心も、この頃の生活に根を持っていました。(参照:オレゴン歴史百科事典|ロスコの生涯/ワシントン・ナショナル・ギャラリー|ロスコの経歴)

イェール大学を離れ、ニューヨークへ

1921年、奨学金を得て東海岸のイェール大学に入学しました。哲学、心理学、経済学などを学びますが、裕福な学生の多い環境で大学生活は必ずしも居心地のよいものではありませんでした。経済的な事情も重なり、1923年に学位を取らずに大学を離れます。

向かったのはニューヨークでした。アメリカの美術市場や画廊、美術学校が集まる都市であり、ロスコはここで絵を描く仕事に近づいていきます。幼い頃から画家を志して一直線に進んできたのではなく、進路を変えながら絵画を選んだ人物でした。(参照:ワシントン・ナショナル・ギャラリー|ロスコの経歴/オレゴン歴史百科事典|ロスコの生涯)

ニューヨークで画家として歩き始める

美術学校、師と仲間、ミルトン・エイヴリー

1920年代半ば、ロスコはアート・スチューデンツ・リーグでマックス・ウェーバーらの指導を受けました。ウェーバーはヨーロッパの近代美術をアメリカへ紹介した画家の一人です。ロスコもセザンヌやマティスに関心を寄せ、人物や風景を色のまとまりとして描く方法を学びました。

1930年代初めには年長の画家ミルトン・エイヴリーと親しくなります。エイヴリーは人物や室内、風景を大きな色面に整理して描き、写実から少し距離を取った画面を作っていました。ロスコにとって彼は、親しい友人であると同時に、色彩と形の新しい可能性を実作品で示す先輩でした。(参照:グッゲンハイム美術館|ロスコの経歴/スミソニアン美術史資料館|エディス・サチャーの口述記録/ワシントン・ナショナル・ギャラリー|ロスコの経歴)

子どもに美術を教えながら制作する

1929年、ロスコはブルックリン・ユダヤ人センターの教育施設で子どもへの美術教育を始めました。約20年以上にわたる仕事となり、絵画を続けるための収入源でもありました。子どもが絵を描くときの直接的な表現に関心を寄せ、教育について文章も残しています。

教室で使われる安価な紙や水彩は、彼自身の作品にも現れます。2023年のナショナル・ギャラリーの紙作品研究では、子ども向けの色画用紙を用いた例も紹介されています。完成した大画面だけを見ると忘れられがちですが、生活と教育の仕事がロスコの日々を長く支えていました。(参照:ワシントン・ナショナル・ギャラリー|ロスコの経歴/ワシントン・ナショナル・ギャラリー|ロスコの生涯と作品/ワシントン・ナショナル・ギャラリー|紙作品の制作研究)

エディス・サチャーとの結婚

1932年、ロスコはレイク・ジョージ周辺で出会ったエディス・サチャーと結婚しました。彼女は宝飾デザイナーであり、絵画や彫刻にも取り組んだ美術家でした。のちにエディスはインタビューで、結婚当時の美術家仲間、ギャラリー巡り、ロスコの音楽への愛着、エイヴリーとの交流について語っています。

スミソニアン協会のアーカイブに残るエディスの証言は、成功前の画家がどのように作品を見て学び、友人たちと過ごしていたかを知る手がかりです。1930年代の暮らしを、有名な色面画家になる前の長い準備期間として具体的に捉えられます。1944年、二人の離婚が成立しました。(参照:スミソニアン美術史資料館|エディス・サチャーの口述記録/オレゴン歴史百科事典|ロスコの生涯)

ヒッチハイクで故郷へ帰り、初個展を開く

1933年の夏、ロスコはエディスとともにニューヨークからオレゴンへ向かいました。大恐慌のさなか、二人はヒッチハイクで大陸を横断し、ポートランドでは公園にテントを張って滞在したと伝えられています。ロスコは周辺の風景を数多く描き、若い頃を過ごした土地を、新しく結婚した妻に紹介しました。

この滞在中、ポートランド美術館で最初の個展を開く機会を得ました。風景の水彩やテンペラ画のほか、ブルックリンで教えていた子どもたちの作品も紹介されました。美術館での初個展は、画家として知られるより前の、家族、教育、制作が結び付いた出来事でした。(参照:オレゴン歴史百科事典|ロスコの生涯)

地下鉄の柱と、互いに離れた人々

1930年代後半の《無題(地下鉄)》では、ホームの柱の間に細長い人物が立っています。新聞を読む女性、赤い服の人物、壁際に寄る乗客たちは、同じ場所にいながら視線を交わしません。柱の水色と壁の黄色、ホームの赤茶色が、人物を区切る大きな面として働きます。

人物の顔を詳しく描くより、公共の場所で人々が互いに距離を保つ様子に関心が向いています。後年の抽象画を先取りしたと断定する必要はありませんが、この頃からロスコは、人物と空間の関係を色や形によって組み立てていました。(参照:ワシントン・ナショナル・ギャラリー|《無題(地下鉄)》)

不況下の美術家たちと「ザ・テン」

1930年代のアメリカでは、地方の生活や労働風景を描く写実的な絵画が注目されました。ロスコはアドルフ・ゴットリーブやイリヤ・ボロトフスキーらと、1935年に「ザ・テン」というグループを結成します。画風は一様ではありませんでしたが、表現に個人の感情や実験を持ち込むことを重視していました。

連邦美術計画は、ニューディール政策の失業対策から生まれた事業でした。画家や彫刻家は政府の雇用を受け、公共施設に飾る作品の制作や美術教育などに従事しました。公共の建物を飾る壁画だけでなく、イーゼルに向かって描く通常の絵画も仕事に含まれていました。作品を買ってくれる収集家がいなくても、芸術家が賃金を得ながら制作を続けられる仕組みだったのです。

ロスコは1936〜1937年に連邦美術計画でイーゼル絵画を制作しました。当時描いていたニューヨークの地下鉄風景では、柱で区切られたホームに細長い人物が立ち、都市の中にいる人々の孤独が表れています。ロスコは子どもたちに絵を教える仕事も続け、ゴットリーブらとの自主的な展覧会にも参加していました。政府の事業による雇用、美術教育、仲間との活動が並行していたことが、画家として歩み始めた1930年代の生活を物語っています。(参照:スミソニアン協会|ニューディール政策と芸術/ワシントン・ナショナル・ギャラリー|大恐慌と美術政策/グッゲンハイム美術館|ロスコの経歴/ワシントン・ナショナル・ギャラリー|ロスコと地下鉄の絵画)

戦争の時代に描いた神話と人間の悲劇

ヨーロッパの前衛美術とニューヨークの交流

1940年代のニューヨークには、ナチスによる迫害や戦争を逃れたヨーロッパの芸術家たちが集まりました。シュルレアリスムは、夢や無意識の形を絵画へ移し、日常の物の見え方を揺さぶろうとしていました。アメリカの画家たちもその表現を学び、同時に戦争と人間の暴力をどう描くかを考えていました。

ロスコは人物や地下鉄を描く仕事から、古代の物語や生物を思わせる形へ進みます。古代ギリシアの悲劇は、人間が避けがたい運命に直面する物語として、現代の不安にも通じる主題でした。(参照:ワシントン・ナショナル・ギャラリー|ロスコの生涯と作品/ニューヨーク近代美術館|ロスコの作品と思想)

ゴットリーブと語った「悲劇的で時を超えた主題」

1943年、ロスコとゴットリーブは新聞紙上で、自分たちの絵画にとって主題が重要だと主張しました。そこで挙げたのは、悲劇的で時代を超える内容でした。世界大戦のさなかに、古代の神話や悲劇を通して人間の苦悩を扱おうとした立場が表れています。

ロスコの《アンティゴネ》などには、人物の身体を思わせる断片や象徴的な形が上下に積み重なります。具象から離れ始めても、作品から人間の問題を取り除こうとしたわけではありません。この考え方は、後年の色面絵画を理解するための重要な出発点です。(参照:ワシントン・ナショナル・ギャラリー|ロスコの生涯と作品/ニューヨーク近代美術館|ロスコの作品と思想)

《海辺のゆるやかな渦》と生物のような二つの形

1944年の《海辺のゆるやかな渦》には、海と空の間に二つの細長い存在が向かい合うように描かれています。周囲の曲線、渦、縞が人物らしい形と結び付き、身体と背景の境目を曖昧にしています。シュルレアリスムの影響が見られる一方、色と形が独自の関係を作り始めていました。

この絵が生まれた頃、ロスコはメアリー・アリス・バイスルと親しくなっていました。息子クリストファーは後年、この作品の二つの形を両親の関係と結びつけて家族の記憶を紹介しています。作品の意味を恋愛の逸話だけに限ることはできませんが、人生の転機と制作が重なる時期の作品です。(参照:ニューヨーク近代美術館|《海辺のゆるやかな渦》/ニューヨーク近代美術館|ロスコの作品と思想)

メルとの再婚と、新しい家庭

1940年代半ばに最初の結婚が終わり、ロスコは1945年にイラストレーターのメアリー・アリス(メル)・バイスルと再婚しました。二人にはのちに娘ケイトと息子クリストファーが生まれます。現在のロスコ研究では、この二人が父の作品や記録を守り、展覧会や著作に関わっていることも知られています。

再婚した1945年は、ペギー・グッゲンハイムの画廊「アート・オブ・ディス・センチュリー」で個展を開いた年でもありました。私生活に新しい家庭を持ち、画家としても発表の機会を得る一方、ロスコの画面からは次第に神話の登場人物が消えていきます。(参照:オレゴン歴史百科事典|ロスコの生涯/ワシントン・ナショナル・ギャラリー|ロスコの経歴/ニューヨーク近代美術館|ロスコの作品と思想)

神話の人物から浮遊する色面へ

神話の姿を減らしても、主題は残る

1947〜48年、ロスコは雑誌『ポシビリティーズ』に文章を発表し、画家の仕事は明晰さへ向かい、画家と考え、考えと鑑賞者の間の障害を取り除いていくと述べました。絵画の中に古代の神々や人物を描かなくても、人間に関わる感情を伝えられないか。彼の関心は次第に、そうした直接的な表現へ移ります。

後年の色面絵画を「意味のない抽象」と捉えると、この時期の発言が見えなくなります。消えつつあったのは物語を説明する像であって、主題そのものを手放すという意思を示す資料はありません。(参照:ワシントン・ナショナル・ギャラリー|ロスコの経歴/ニューヨーク近代美術館|ロスコの作品と思想)

マルチフォームと呼ばれる移行期の絵

1947年頃、ロスコの画面には不規則な色の塊が浮かぶようになりました。大きい形と小さい形、濃い部分と透ける部分が互いに接近したり離れたりします。これらはのちに「マルチフォーム」と呼ばれますが、ロスコ本人が明確なシリーズ名として用いた名称ではありません。

《No. 5/No. 24》(1948年)では、輪郭が小さな筆触によって外側へ広がり、色面が背景へにじむように見えます。色の形を固定した物体として描くのではなく、互いの境界が変化する領域として扱う方法が育っています。(参照:ニューヨーク近代美術館|《No. 5/No. 24》/ニューヨーク近代美術館|ロスコの作品と思想)

巨大な《No. 1(無題)》

同じ1948年の《No. 1(無題)》は幅約298センチ、高さ約270センチあります。赤や黄色、黒などの不規則な色面が、広い画面の中で上下左右に漂っています。形はまだ二つか三つの横長の矩形へ整理されておらず、複数の色が、それぞれ位置を探るような構成です。

この規模では、作品の前に近づくと視野の大部分が色面で占められます。観客が絵画と身体的に向き合う条件は、成熟期の形式が完成する以前から試されていたのです。(参照:ニューヨーク近代美術館|《No. 1(無題)》)

画家たちが自分たちの学校を作る

1948年、ロスコはウィリアム・バジオテス、ロバート・マザウェル、デイヴィッド・ヘアらと「サブジェクツ・オブ・ジ・アーティスト」という美術学校を設立しました。短期間で閉じた試みでしたが、新しい絵画について画家自身が教え、議論する場所を作ろうとした活動です。

ロスコは色面の前で沈黙する画家という印象を持たれがちですが、実際には長年教育に携わり、文章を書き、仲間と美術の問題を話し合っていました。抽象化は、人間や主題への関心を捨てた孤立した制作ではありませんでした。(参照:ワシントン・ナショナル・ギャラリー|ロスコの経歴/グッゲンハイム美術館|ロスコの経歴)

上下に並ぶ矩形へ

1949年頃になると、複数の不規則な色面は、縦長の画面に二つか三つの横長の矩形が上下に重なる構成へ近づきます。《No. 10》(1950年)には、黄色、白、青、灰色の大きな色域が並び、境界が柔らかく溶け合っています。画面の中に描かれた物体はなく、色の距離と重なりが中心となります。

矩形は定規で描いたように整った図形ではありません。縁に残る筆触や薄い色の重なりによって、形が背景から前に浮き、次には溶けていくように見えます。長く使い続けることになる形式は、この微妙な変化を何度も試すための条件でした。(参照:ニューヨーク近代美術館|《No. 10》/ワシントン・ナショナル・ギャラリー|ロスコの経歴)

色面絵画の成熟と広がる評価

教職を離れ、家族と制作を続ける

ロスコは1950年代初めまで子どもへの美術教育を続けながら制作していました。長い年月をかけて得た画家としての評価は、展覧会や画商との関係を変え、絵画に時間を注げる状況を少しずつ作りました。家庭ではメルと二人の子どもが暮らし、作品制作は家族の生活と並行していました。

有名になってからも、作品の見せ方や鑑賞者の受け取り方には敏感でした。美しい配色の絵としてだけ受け取られることへの不満は、後に本人が明確に語っています。仕事の成功と作品への理解が必ずしも同じ速度で進まないという緊張が、この時期から見られます。(参照:ワシントン・ナショナル・ギャラリー|ロスコの経歴/オレゴン歴史百科事典|ロスコの生涯/ワシントン・ナショナル・ギャラリー|ロスコの1956年の発言)

シカゴ美術館での個展

1954年、シカゴ美術館でロスコの個展が開かれました。1940年代に不定形の色面を試していた画家が、まとまった成熟期の作品群を美術館で発表する段階に進んだことを示す展覧会です。作品を一枚ずつ見る場合と、同じ空間で複数を比較する場合では、色の印象も変わります。

同年の《オレンジと黄褐色》は、高さ約206センチの画面に大きなオレンジと黄色い領域が重なる作品です。明るい色合いの内部には筆触の違いがあり、端には青緑などの下層色がわずかに現れます。単純な色面の奥に、幾度も塗り重ねた時間が残っています。(参照:ワシントン・ナショナル・ギャラリー|ロスコの経歴/ワシントン・ナショナル・ギャラリー|《オレンジと黄褐色》)

明るい色の時代に、暗い絵も描かれていた

1950年代の作品には赤、オレンジ、黄色の華やかな色彩が多く見られます。同時に、黒や深い褐色、暗い赤を使う実験も行われていました。色が明るいか暗いかだけで、画家の気分や人生の状態を説明することはできません。

たとえば《オレンジと黄褐色》は暖色同士の調和を見せながら、上の矩形と下の矩形の大きさが異なり、背景との距離も微妙に変わります。明るい画面にも緊張があり、ロスコはこのような差異を反復しながら探っていきました。(参照:ワシントン・ナショナル・ギャラリー|《オレンジと黄褐色》/ワシントン・ナショナル・ギャラリー|ロスコの1956年の発言)

シーグラム壁画と注文の撤回

シーグラム・ビルの依頼と暗い色の大作

1958年、ロスコはニューヨークのシーグラム・ビルに開業する高級レストラン「フォー・シーズンズ」のため、大規模な壁画を依頼されました。個展のために描く作品とは違い、最初から特定の建築空間と結び付けられた仕事です。制作にあたりアトリエ内に足場を組み、暗いマルーンや黒を使った大型の画面を多数描きました。

《マルーンの上の黒》(1958年)は、深い赤の地に黒い枠のような形が広がる大作です。内側は開いた窓にも、閉じた入口にも見えます。ロスコが色と形だけで空間へ作用しようとしたことが分かる作品です。(参照:テート|《マルーンの上の黒》(1958年)/テート|シーグラム壁画(1958年))

豪華なレストランから作品を引き上げる

ロスコは最終的にレストランへの設置を取りやめ、受け取った報酬を返しました。作品を飾る場所が、食事と社交を楽しむ高級レストランでよいのか。自分が求める厳しい鑑賞経験と、空間の用途がかみ合わないと感じたことが理由とされています。

この判断を単なる反富裕層の逸話として片づけると、絵画と設置場所の関係が見えなくなります。ロスコにとって、作品はどこに置かれても同じ意味を持つ装飾品ではありませんでした。壁面、光、鑑賞者の距離が変われば、色の作用も変わります。一連の作品の一部はのちにロンドンのテートへ寄贈されました。(参照:テート|《マルーンの上の黒》(1958年)/テート|シーグラム壁画(1958年))

フィリップス・コレクションの小さな部屋

ワシントンの収集家ダンカン・フィリップスは1957年にロスコ作品を購入し、1960年には美術館に専用の小部屋を設けました。広い展示室に大作を離して掛けるのではなく、四方を作品に囲まれた親密な空間です。現在につながる「ロスコ・ルーム」の出発点でした。

1961年に訪れたロスコは、照明を落とすことや簡素な木のベンチを置くことを提案しました。座って作品の前に長くいられる環境を大切にしたのです。作品の大きさだけではなく、それを見る時間と場所が絵画の経験を左右します。(参照:フィリップス・コレクション|ロスコ・ルーム)

建築空間に広がる絵画

ハーバード大学の壁画と自然光

1961年、ロスコはハーバード大学の特別行事室のための壁画を依頼され、暗い赤やクリムゾンを主体とした一連の作品を制作しました。建築の壁面や窓、照明との関係を意識した仕事です。ロスコは光の入り方に注意を払い、カーテンによる遮光を求めました。

作品には光に弱い赤色顔料リトール・レッドが使われており、設置後は自然光の影響で大きく退色しました。1970年代末に常設の場所から外され、後年、素材を傷つけず元の見え方へ近づける保存方法が研究されます。(参照:ハーバード大学|壁画の保存修復研究/ワシントン・ナショナル・ギャラリー|ロスコの経歴)

イタリアで見たミケランジェロの建築

シーグラム壁画に取り組んでいた1959年、ロスコはヨーロッパを旅行し、フィレンツェにあるミケランジェロ設計のラウレンツィアーナ図書館の前室などを訪れました。壁や扉、窓の形が人を包み込むような空間に強い印象を受けたと伝えられています。

のちの壁画には、暗い色の矩形が扉や窓のようにも見えながら、そこから先へ視線が通り抜けられない構成が現れます。古い建築の体験が、抽象絵画と空間の関係を考える材料になったことがうかがえます。(参照:テート|《マルーンの上の黒》(1958年))

メニル夫妻と14点のチャペル壁画

1964年、ロスコはヒューストンの収集家ジョンとドミニク・ド・メニル夫妻から、礼拝と瞑想の空間のための作品を依頼されます。建築家と相談しながら、部屋の形、壁の位置、自然光の入り方を考え、1967年までに14点の大きな絵を完成させました。

壁画は、マルーン地に黒い矩形を置く7点と、紫系の繊細な濃淡による7点から成ります。部屋に入った人は、一枚の絵を正面から見るだけでなく、暗い色の複数の壁面の中で時間を過ごします。1971年にチャペルが開館したとき、ロスコはすでに亡くなっていました。(参照:ロスコ・チャペル|14点の壁画と建築)

晩年の紙作品と最期

健康上の変化と、制作の続行

1968年、ロスコは大動脈瘤を経験し、医師から大きな画面を扱う仕事を控えるよう助言を受けました。この頃からアクリル絵具や紙を用いた作品が増えます。健康上の変化は制作環境へ影響しましたが、絵を描くこと自体は続けました。

大画面を描いてきたロスコにとって、紙に絵具を広げる仕事は新しく生まれた代用品というだけではありません。彼は初期から紙作品を制作し、重要な展覧会にも出品していました。晩年には、以前から続く実践の別の側面が大きく現れたのです。(参照:ワシントン・ナショナル・ギャラリー|ロスコの経歴/ワシントン・ナショナル・ギャラリー|アダム・グリーンハル(2023年))

黒と灰色、その隣にある明るい色

1969年の《無題》には、画面の上部を黒、下部を青みがかった灰色で分けた作品があります。輪郭の柔らかな矩形が漂う1950年代とは違い、上下の二つの領域と水平の境界が強く意識されます。色面の内側には太い筆触が残り、完全に均質な塗りつぶしではありません。

同じ時期、ロスコは淡いピンク、青、赤、紫など明るい紙作品も描いていました。暗色作品だけを死の予兆として読むと、この豊かな並行制作を見落とします。色と形の関係を、生涯の最後まで異なる条件で試していたのです。(参照:ワシントン・ナショナル・ギャラリー|1969年の《無題》/ワシントン・ナショナル・ギャラリー|紙作品の制作研究)

ロスコの死と残された作品

1970年2月25日、ロスコはニューヨークのアトリエで66歳で亡くなりました。自死でした。生涯の終わりを知った後では晩年の暗い色に特別な意味を見いだしたくなりますが、その解釈だけでは1969年から1970年に描かれた多彩な作品を説明できません。

同じ1970年の《無題》にも、鮮やかな赤が重なる画面があります。晩年の仕事を死へ向かう一つの物語に閉じ込めず、実際に残された作品を個別に見ることが、画家の試みを理解するうえで欠かせません。(参照:ワシントン・ナショナル・ギャラリー|ロスコの経歴/ワシントン・ナショナル・ギャラリー|1970年の《無題》/ワシントン・ナショナル・ギャラリー|紙作品の制作研究)

主要作品

ロスコの生涯を通した制作の変化が見える11項目です。1930年代の地下鉄の人物画、神話的な作品、マルチフォーム、1950年代の大画面、建築と結び付いた壁画、晩年の色面まで、実作品の形と材料、所蔵先をたどれます。

無題(地下鉄)

Untitled (subway) / c. 1937 / 油彩・カンヴァス / 51.1 × 76.2 cm

National Gallery of Art, Washington, D.C.

1937年頃のニューヨークの地下鉄を描いた作品。ホームに立つ細長い人物の間へ水色の柱が並び、壁や床の黄・赤茶の色面が空間を区切っています。混雑する都市の公共空間のなかで人々が互いに離れている情景が、人物の配置と建築の反復によって表されています。

所蔵館の作品情報 ↗

海辺のゆるやかな渦

Slow Swirl at the Edge of the Sea / 1944 / 油彩・カンヴァス / 191.4 × 215.2 cm

The Museum of Modern Art, New York

海と空のあいだで、二つの生物のような姿が渦や細い線に囲まれています。シュルレアリスムや神話に関心を寄せていた1940年代の重要作で、人物の身体が記号や曲線と混ざり合っています。

所蔵館の作品情報 ↗

No. 1(無題)

No. 1 (Untitled) / 1948 / 油彩・カンヴァス / 270.2 × 297.8 cm

The Museum of Modern Art, New York

1948年の大作。高さ約270センチ、幅約298センチの画面へ、不規則な色面が重なります。後に「マルチフォーム」と呼ばれる移行期の仕事で、人物と背景を分ける構造が薄れ、色面同士の位置や距離が画面を組み立てています。

所蔵館の作品情報 ↗

No. 10

No. 10 / 1950 / 油彩・カンヴァス / 229.6 × 145.1 cm

The Museum of Modern Art, New York

上下に重なる黄色、白、青、灰色の大きな色面。柔らかい境界のため、色の領域は前に浮かんだり背景へ溶けたりするように見えます。成熟期の基本的な構成が成立した時期の作品です。

所蔵館の作品情報 ↗

オレンジと黄褐色

Orange and Tan / 1954 / 顔料入り膠、油彩・カンヴァス / 206.4 × 160.6 cm

National Gallery of Art, Washington, D.C.

オレンジと黄色い大きな矩形が、黄土色の地に重なっています。顔料入りの膠と油彩が用いられ、幅広い筆触の下から青緑などの色が部分的に覗きます。薄い層と柔らかな縁によって、単純な配色の内部に複雑な色の変化が生まれています。

所蔵館の作品情報 ↗

赤の上の緑とタンジェリン

Green and Tangerine on Red / 1956 / 油彩・カンヴァス / 237.8 × 175.9 cm

The Phillips Collection, Washington, D.C.

赤い地の上に、暗い緑と鮮やかなタンジェリン色の矩形が重なる作品。フィリップス・コレクションによれば、ロスコは色を何層も重ね、湿った絵具を布で擦り合わせる方法も使いました。現在、ロスコ・ルームに展示される4作品の一つです。

所蔵館の作品情報 ↗

マルーンの上の黒

Black on Maroon / 1958 / 油彩・カンヴァス / 266.7 × 381.2 cm

Tate, London

シーグラム・ビルのレストランのための壁画群の一作。幅約381センチの暗いマルーン地に黒い矩形が広がり、窓や扉のように感じられる構成です。ロスコはレストランへの設置を撤回し、後にこの壁画群の一部をテートへ寄贈しました。

所蔵館の作品情報 ↗

ハーバード壁画

Harvard Murals / 1961–1962 / ミクストメディア・カンヴァス、壁画連作 / 複数の大型パネルからなる環境的作品

Harvard University / Harvard Art Museums, Cambridge

ハーバード大学の特別行事室に設置するため制作された壁画連作。深い赤を中心とした画面は、窓からの自然光と光に弱い赤色顔料の影響で大きく退色しました。2014〜15年には、作品に新しい絵具を加えず、デジタル投影で色の見え方を補う保存研究が公開されました。

所蔵館の作品情報 ↗

ロスコ・チャペル壁画

Rothko Chapel Paintings / 1964–1967 / 油彩ほか・カンヴァス、14点 / 建築空間に合わせた14点の大型カンヴァス

Rothko Chapel, Houston

ヒューストンの礼拝・瞑想空間のために制作した14点の壁画。マルーン地に黒い矩形を置く作品と、紫系の色調を細かく変える作品があり、建築や自然光とともに経験するよう構想されました。2024年のハリケーンでは4点に被害があり、修復が進められています。

所蔵館の作品情報 ↗

無題

Untitled / 1969 / アクリル・カンヴァス / 229.6 × 175.9 cm

National Gallery of Art, Washington, D.C.

1969年の《無題》(ナショナル・ギャラリー、収蔵番号1986.43.164)。上部を黒、下部を淡い青みを帯びた灰色の領域に分けています。筆触と境界の揺れが見え、晩年の二分された色面構成を伝えます。同時期のロスコは明るい色の紙作品も制作していました。

所蔵館の作品情報 ↗

無題

Untitled / 1970 / アクリル・カンヴァス / 152.4 × 145.1 cm

National Gallery of Art, Washington, D.C.

死去した1970年に制作された《無題》。柔らかな縁を持つ二つの鮮やかな赤い矩形が、赤い地の上に重なっています。晩年にも強い明色を使ったことを示す作品です。

所蔵館の作品情報 ↗

ロスコが表現したかったことと、批評家が評価したこと

本人の言葉にある悲劇、恍惚、破滅

1943年のゴットリーブとの共同声明で、ロスコは絵画の主題が決定的に重要だと考えていました。1947〜48年には、画家とその考え、考えと鑑賞者の間にある障害を取り除きたいと書いています。人物や神話的な像が色面に変わっても、より直接的に人間の経験へ届く表現を求めていたと読めます。

1956年に批評家セルデン・ロッドマンと交わした会話でも、ロスコは色や形の関係自体より、悲劇、恍惚、破滅といった基本的な人間感情を表現したいと明言しました。ここでいう感情は、赤なら情熱、黒なら悲しみという単純な対応ではありません。絵の前に立った人が何を経験するかが問題でした。(参照:ワシントン・ナショナル・ギャラリー|ロスコの生涯と作品/ワシントン・ナショナル・ギャラリー|ロスコの1956年の発言/ニューヨーク近代美術館|ロスコの作品と思想)

グリーンバーグが見た色面と絵画史

批評家クレメント・グリーンバーグは1955年の論考「アメリカ型の絵画」で、ロスコ、バーネット・ニューマン、クリフォード・スティルらの作品を論じました。大きな色の領域が画面全体を構成し、従来の物体や遠近法による奥行きを弱めている点を、近代絵画の発展として捉えたのです。

こうした批評から、ロスコたちをまとめる「カラー・フィールド・ペインティング(色面絵画)」という呼び方が広がりました。グリーンバーグが分析したのは、絵画の形態、色彩、平面性、画面の構造です。それらは作品を理解する有効な視点ですが、画家本人の制作動機と同じではありません。(参照:グローヴ美術事典|色面絵画と1955年の批評/ニューヨーク近代美術館|ロスコの作品と思想)

同じ作品を、違う問いから見る

たとえば《No. 10》を見ると、グリーンバーグの立場からは、大きな色面と柔らかな輪郭が、画面の奥行きと平面性の関係をどう変えたかを論じられます。一方、ロスコ自身の発言からは、色の場を通して鑑賞者の感情へ届こうとしたことが見えてきます。

二つの説明は、どちらか一方だけが正しいという関係にはありません。同じ絵画に異なる側面があるのです。ロスコは色面絵画という美術史の分類を実現するために、地下鉄や神話を描き始めたわけではありませんでした。本人の長い模索から作品が生まれ、その後に批評家が美術史上の意味を読み取ったという順序が大切です。(参照:ワシントン・ナショナル・ギャラリー|ロスコの1956年の発言/グローヴ美術事典|色面絵画と1955年の批評/ニューヨーク近代美術館|《No. 10》)

薄い絵具の層、揺れる境界、画面の大きさ

一色に見える場所にも重なりがある

ロスコの画面には、薄めた絵具を繰り返し塗った層が残ります。《オレンジと黄褐色》では、顔料入りの膠と油を使い、矩形の内側に幅広い筆の動きが現れています。上のオレンジの縁から青緑の絵具がわずかに覗き、下の黄色い領域にも色のむらが見えます。

印刷物では均一な二つの色に見える絵も、実物には下の層、表面の薄さ、筆触の違いがあります。色面は塗りつぶした平面であると同時に、材料と作業の重なりを持つ表面なのです。(参照:ワシントン・ナショナル・ギャラリー|《オレンジと黄褐色》)

矩形の縁を曖昧にする

《No. 5/No. 24》では、筆触が色面の外へ広がり、隣の領域とゆっくり混ざるように見えます。成熟期の《No. 10》でも、矩形の角は硬い直角に固定されておらず、場所によって色が濃くなり、薄くなります。

輪郭を少しぼかすだけで、矩形は切り抜かれた紙のような明確な図形から、背景の中へ浮き沈みする領域に変わります。前後関係は一定ではありません。色面が物体のように安定して見える瞬間と、背景へ溶け込む瞬間が一つの画面に共存します。(参照:ニューヨーク近代美術館|《No. 5/No. 24》/ニューヨーク近代美術館|《No. 10》)

大画面を近くで見る理由

ロスコは大きな絵を、偉大さを誇示するためではなく、人間に近い経験を生み出すために描くという趣旨を述べました。高さ二メートルを超える画面の前に近づくと、視界のほとんどが色で満たされ、端から端までを一度に見渡しにくくなります。

遠くでは上下の矩形の配置、近くでは境界の筆触や下層の色が見えます。見る人が自分の身体と絵の距離を変えることで、同じ画面の印象も変化します。ロスコは制作の終わった絵画を、鑑賞者との出会いによって経験されるものと考えていました。(参照:ニューヨーク近代美術館|ロスコの作品と思想/フィリップス・コレクション|ロスコ・ルーム/ワシントン・ナショナル・ギャラリー|紙作品の制作研究)

同時代の画家たちと、異なる抽象への道

ポロックとロスコは何を変えたか

同じニューヨークで活動したジャクソン・ポロックは、床に広げたカンヴァスへ絵具を流し、身体の動きと塗料の物性から線を作りました。ロスコは色面の形を少しずつ絞り、鑑賞者がその前で色と向き合う状況へ関心を集中させました。

二人は共に従来の人物画や風景画から離れましたが、作品の表面には異なる痕跡が残ります。ポロックでは複数の線が画面を縦横に横切り、ロスコでは大きな面が静かに前後へ揺れて見えます。「抽象表現主義」という一つの名前の下に、違う問いを持った画家たちがいました。(参照:ニューヨーク近代美術館|ロスコの作品と思想/ワシントン・ナショナル・ギャラリー|ロスコの経歴)

ニューマン、スティルとの共通点と違い

バーネット・ニューマンは広い色面を垂直の帯で区切り、クリフォード・スティルは裂け目のような鋭い形を使いました。ロスコの矩形はそれらより輪郭が柔らかく、背景と境界を共有するように見えます。見た目の違いは、絵画で何を経験させたいかという考え方の違いとも関係します。

三人を色面絵画にまとめると、作品の特徴を比較しやすくなります。同時に、それぞれが独自に選んだ色、縁、画面の大きさ、鑑賞者への働きかけを確かめる必要があります。(参照:グローヴ美術事典|色面絵画と1955年の批評/ニューヨーク近代美術館|ロスコの作品と思想)

死後の作品と、色を守るための研究

遺産をめぐる争いと美術館への寄贈

ロスコの死後には、作品の管理と画商との取引をめぐる法廷闘争が起こりました。遺族と財団による長い整理を経て、多数の作品が美術館へ寄贈されます。ワシントンのナショナル・ギャラリーは1986年に財団から大規模な寄贈を受け、初期の具象画から晩年の作品まで研究できる重要な拠点になりました。

現在のロスコ像は、画家自身の発言だけでなく、遺された作品がどの美術館へ入り、どのように保存され、展示されてきたかによっても形作られています。(参照:ワシントン・ナショナル・ギャラリー|ロスコの経歴/ワシントン・ナショナル・ギャラリー|1969年の《無題》)

ハーバード壁画の色を光で補う

ハーバード大学の壁画は、退色した顔料を物理的に塗り直すと、残された筆触や塗膜を変えてしまいます。保存修復の研究者たちは、失われた色をデジタル投影による光で一時的に補う方法を試しました。2014〜15年には、その成果が公開されました。

照明を消せば、作品は現在の退色した状態へ戻ります。色彩が作品の作用を大きく左右するロスコの絵では、絵具を守ることと、かつての見え方を伝えることを両立させる工夫が必要でした。(参照:ハーバード大学|壁画の保存修復研究)

紙作品から分かるもう一つの画業

2023〜24年、ナショナル・ギャラリーはロスコの紙作品を中心とした展覧会を開催し、研究者アダム・グリーンハルが関連する研究を公表しました。ロスコは生涯に千点を超える紙上絵画を制作し、多くを完成作として展示し、販売していました。

紙作品の裏面、テープや留め具の痕跡、塗料の重なりには、どのように画面を作り、飾ろうとしていたかが残っています。近年の研究は、巨大な色面画だけを中心にロスコを理解する見方を広げました。(参照:ワシントン・ナショナル・ギャラリー|紙作品の制作研究/ワシントン・ナショナル・ギャラリー|アダム・グリーンハル(2023年)/ワシントン・ナショナル・ギャラリー|紙作品展(2023–2024年))

チャペルの壁画と自然災害

ロスコ・チャペルでは、2024年7月のハリケーンによる雨漏りで、建築の一部と壁画4点が被害を受けました。公式の保存情報では、東側の三連画の修復が施設外で進められています。絵画が建築の壁と一体で経験されるだけに、建物の保全も作品の保存に直結します。

作品の歴史は制作年で終わりません。自然光の調整、湿度や雨水への対策、修復中の展示のあり方まで、ロスコが重視した鑑賞環境は現在も守られ、検討されています。(参照:ロスコ・チャペル|2024年の被害と修復/ロスコ・チャペル|14点の壁画と建築)

略年譜

1903
9月25日、ロシア帝国領ドヴィンスクに生まれる。
1913
母、姉とともにアメリカへ移住。オレゴン州ポートランドで家族と合流する。
1921–1923
奨学金を得てイェール大学で学び、その後ニューヨークへ移る。
1920年代半ば
アート・スチューデンツ・リーグで美術を学ぶ。
1929
ブルックリンで子どもへの美術教育を始める。
1932
宝飾デザイナー・美術家のエディス・サチャーと結婚。
1933
ポートランドとニューヨークで個展を開く。
1935
ゴットリーブらと「ザ・テン」を結成。
1930年代後半
政府の美術事業で働き、地下鉄の乗客などを描く。
1940
「マーク・ロスコ」の名を使うようになる。
1943
ゴットリーブと「悲劇的で時を超えた主題」について共同の立場を発表。
1944
《海辺のゆるやかな渦》を制作。
1944
エディス・サチャーとの離婚が成立。
1945
メル・バイスルと再婚。ペギー・グッゲンハイムの画廊で個展。
1947–1948
神話的形態から離れ、のちに「マルチフォーム」と呼ばれる絵画を制作。
1948
画家仲間と新しい美術学校を設立。《No. 1(無題)》を制作。
1949–1950
横長の矩形を上下に重ねる構成を確立。《No. 10》を制作。
1954
シカゴ美術館で個展。《オレンジと黄褐色》を制作。
1955
グリーンバーグが色面絵画を近代絵画史の文脈で論じる。
1958
シーグラム・ビルのレストラン用壁画を受注。
1959–1960
レストランへの設置を取りやめる。フィリップス・コレクションに専用室が設けられる。
1961–1962
ハーバード大学のための壁画を制作。
1964–1967
ヒューストンのチャペルのため14点の壁画を制作。
1968
健康上の転機を迎える。アクリル絵具と紙作品による制作を続ける。
1969
黒と灰色の作品群と、多彩な紙作品を並行して制作。
1970
2月25日、ニューヨークで死去。66歳。
1971
ロスコ・チャペルが開館。
1986
財団からワシントンのナショナル・ギャラリーへ大規模な寄贈。
2014–2015
ハーバード壁画のデジタル投影による保存研究が公開される。
2023–2024
ワシントンのナショナル・ギャラリーで紙作品展。
2024
ハリケーンでロスコ・チャペルの壁画4点が被害を受ける。

まとめ

ロスコは、若い頃に地下鉄の柱と人々を描き、その後、神話的な存在の姿を通して悲劇を考え、やがて輪郭の曖昧な色面だけを画面に残しました。《無題(地下鉄)》では離れた人物と建築が空間を作り、《海辺のゆるやかな渦》では身体が記号や曲線に変わり、《No. 10》では色そのものが互いの距離を作ります。作品の姿は大きく変わっても、人間が絵画の前で何を感じるかという問いは持続していました。

色面をただ二つ並べるように見える作品にも、何層もの絵具、境界の滲み、背景との明度差、見る距離の変化があります。フィリップス・コレクションの小部屋やロスコ・チャペルでは、それらが建築や照明と結び付きました。ロスコは、絵画を画像として見せるだけでなく、鑑賞する人と同じ場所に置かれた経験として成立させようとしました。

その仕事は後に「色面絵画」という名前で美術史に整理されましたが、ロスコ自身が語ったのは、悲劇や恍惚を伝える絵画の可能性でした。彼の作品では、画面の形を分析することと、色の前に立って時間を過ごすことの両方が、作品の豊かさに触れる道になります。(参照:ワシントン・ナショナル・ギャラリー|ロスコの1956年の発言/グローヴ美術事典|色面絵画と1955年の批評)

参考資料・出典