Art Library

Kazuo Shiraga

白髪一雄

日本 / 1924–2008 / 具体美術協会/アクション・ペインティング/抽象絵画/パフォーマンス

The Story of Kazuo Shiraga and Gutai | Christie’s
Kazuo Shiraga: Looking Beyond the Brush (Sotheby’s)
Kazuo Shiraga, Untitled (Red Fan) | Post-War & Contemporary Art | London, 15 October 2021
Radio Palettes – Kazuo Shiraga(Mathieu Ophanin)
東京オペラシティ アートギャラリー「白髪一雄」(インターネットミュージアム)

白髪一雄(しらが・かずお、1924–2008)は、床に置いたキャンバスの上へ大量の油絵具を盛り、天井から吊したロープにつかまりながら素足で絵具を押し広げる「フット・ペインティング」によって、戦後日本美術の最も強烈な身体表現を生み出した作家です。足で描くという行為は、奇抜なパフォーマンスとして考案されたのではありません。京都で日本画を学び、戦後に洋画へ移り、筆、ペインティングナイフ、自作のヘラ、指、手のひらと、身体と絵具の距離を段階的に縮めた末、1954年に足へ到達しました。さらに1955年《泥に挑む》では、絵具とキャンバスさえ離れ、自らの全身を泥とセメントの塊へ投げ込みます。白髪にとって重要だったのは、完成した絵の外観だけではなく、身体が物質へ働きかけ、その抵抗を受けながら形が生じる瞬間でした。

しかし白髪を「具体美術協会のアクション・ペインター」「ロープにつかまって足で描いた画家」とだけ理解すると、その後の大きな変化を見落とします。1959年からは中国古典『水滸伝』の豪傑名を作品へ付け、激しい色彩と運動に物語的な想像力を重ねました。1960年代半ばには板や棒を使う方法も試み、1966年以降の扇形の画面展開、1971年の比叡山延暦寺での得度、1973–75年の密教的題名と円相、そして1978年以降のフット・ペインティング回帰へと進みます。晩年の《群青》や《天女の舞》では、若い時期の激しさを保ちながら、長い宗教的・造形的経験が重なった画面が生まれました。本記事では、白髪の制作を単なる「身体の爆発」とせず、身体、絵具、制御、偶然、信仰が六十年以上かけてどのように組み替えられたのかを追います。

CONTENTS

  1. 生涯と制作の変遷
  2. 日本画教育への違和感
  3. 戦争と中断
  4. 1949年――洋画への転向
  5. ゼロ会――「ゼロから始める」
  6. ヘラから指、手のひらへ
  7. 1954年――フット・ペインティングの発明
  8. 1954年《作品Ⅰ》――足へ移る直前と初期
  9. 1955年――具体美術協会へ
  10. 《泥に挑む》1955――絵画を全身へ拡張する
  11. パフォーマンスなのか、絵画なのか
  12. 《赤い丸太》――観客の身体へ近づく
  13. 1957年《超現代三番叟》――舞台上の身体
  14. 1957年《無題》――紙の上に残る足の力
  15. 1957年ミシェル・タピエとの出会い
  16. Pollockとの違い
  17. 1958年《作品Ⅱ》
  18. ロープは何を変えたのか
  19. 「六分の身体、四分の判断」
  20. 1959年――『水滸伝』豪傑シリーズ
  21. 《天雄星 豹子頭》1959
  22. 1962年――Paris、Turin、Tokyo、大阪
  23. 1964年――水滸伝シリーズの成熟
  24. 1965年――方法の拡張
  25. 1966年以降――扇の運動
  26. 《白の作品 第II号》1966
  27. 密教への接近
  28. 1971年――比叡山延暦寺で得度
  29. 《貫流》1973――足からスキージへ
  30. 《大威徳尊》1973
  31. 《繁茂》1973
  32. 1974年――35日間の修行
  33. 1974–75年――円相と停滞
  34. 1978年――フット・ペインティングへの回帰
  35. 1980年代――再評価と新しい充実
  36. 《群青》1985
  37. 1990年代以降――国際的再評価
  38. 《天女の舞》2000
  39. 白髪富士子――制作を支えた共同者
  40. フット・ペインティングの技法
  41. 油絵具――色ではなく抵抗する物質
  42. 赤、黒、青――色彩の変化
  43. 大画面と身体尺度
  44. 行為と完成作品はどちらが重要か
  45. 2020年東京オペラシティ回顧展
  46. 2024年――生誕100年
  47. 2025–2026年――現在の再評価
  48. 白髪一雄の作品をどう見るか
  49. 主要作品
  50. 《作品Ⅰ》1954
  51. 《泥に挑む》1955
  52. 《無題》1957
  53. 《作品Ⅱ》1958
  54. 《天雄星 豹子頭》1959
  55. 《天慧星拚命三郎》1964
  56. 《白の作品 第II号》1966
  57. 《貫流》1973
  58. 《大威徳尊》1973
  59. 《繁茂》1973
  60. 《群青》1985
  61. 《天女の舞》2000
  62. 身体――道具ではなく制作条件
  63. 制御と偶然
  64. Pollock/Mathieuとの比較
  65. 具体の中での白髪
  66. 宗教は表現をどう変えたか
  67. 富士子との関係をどう見るか
  68. 保存――厚塗り油彩と脆弱な表面
  69. 《泥に挑む》をどう保存するか
  70. 市場評価と美術史評価
  71. 批評――英雄的身体という神話
  72. 現在の美術史的位置
  73. 白髪一雄は何を変えたのか
  74. よくある単純化と読み直し
  75. 略年譜
  76. 参考資料・出典

生涯と制作の変遷

白髪一雄は1924年8月12日、兵庫県尼崎市に生まれました。父・新次郎は呉服商を営み、白髪は長男として育ちます。兵庫県立尼崎中学校で美術部へ入り、本格的に画家を志しました。当初は東京美術学校への進学を望みましたが、戦時下の食糧事情や家族の反対もあり、1942年に自宅から通える京都市立絵画専門学校へ進学します。当時同校では日本画と図案が中心で、白髪は希望していた洋画ではなく日本画を専攻しました。1944年に陸軍予備士官学校へ召集され、敗戦後に復学。1948年に卒業すると、翌年、大阪市立美術研究所へ入り、念願だった洋画へ本格的に転じます。1952年には金山明、村上三郎らとゼロ会を結成し、1955年に田中敦子らとともに具体美術協会へ参加。1971年に比叡山延暦寺で得度し、僧名「素道」を得ました。具体解散後も尼崎を拠点に制作を続け、2008年4月8日、同市で亡くなりました。

日本画教育への違和感

白髪は若い頃から油彩を志していましたが、京都市立絵画専門学校では日本画を学ばざるを得ませんでした。戦時下において進路の選択肢が限られていたこともありますが、本人にとって日本画教育は必ずしも望んだものではありませんでした。それでも、この経験を単なる遠回りとみなすべきではありません。岩絵具や膠、紙・絹といった異なる素材体系、筆と水分の扱い、余白への感覚を経験したことは、後に油絵具という物質へ強く意識を向ける際の比較軸になりました。白髪が洋画へ移った後、絵具を「像を描くための色」ではなく、厚み、粘り、滑り、抵抗を持つ物質として扱った背景には、日本画と洋画という異なる技法体系を身体で経験したこともあります。

戦争と中断

1944年、白髪は在学中に陸軍へ召集され、群馬県前橋の予備士官学校へ入りました。終戦時には本土決戦要員として国内に留まり、敗戦を尼崎で迎えます。白髪の作品に戦争体験が直接的な図像として頻繁に現れるわけではありませんが、身体が制度によって管理され、生死が国家に委ねられる戦時期を経験した世代であったことは、戦後の身体表現を考える際の背景になります。ただし《泥に挑む》やフット・ペインティングを戦争体験の直接的な象徴と断定できる資料はありません。重要なのは、敗戦後、芸術行為を自分の身体へ取り戻し、自らの意志で危険や抵抗を引き受ける制作へ進んだことです。

1949年――洋画への転向

1948年の卒業後、白髪は日本画から離れ、1949年に大阪市立美術研究所へ入ります。そこで伊藤継郎らから洋画を学び、油彩による制作へ急速に傾きました。初期の油彩には暗く幻想的な人物や風景もありますが、やがて対象の再現より、絵具をどう動かすかという問題が中心になります。白髪自身は、色彩や構図をあらかじめ整える絵画から離れ、「ナマコのような絵」を作りたいと語ったことが知られています。ナマコという比喩には、輪郭や構図が明確に制御された画面ではなく、軟らかく、形を変え、物質そのものが存在するような絵画への欲求が表れています。

ゼロ会――「ゼロから始める」

1952年、白髪は金山明、村上三郎、田中敦子らとともにゼロ会に関わります。名称が示すように、既成の絵画を一度「ゼロ」へ戻し、新しい出発点を探ろうとする意識が共有されていました。白髪はこの時期、ペインティングナイフや自作のヘラを使い、画面全体へ単色あるいは限られた色を広げる方法を試します。構図を考えて形を置くのではなく、画面全体を均質な出来事として扱う方向へ進みました。後に吉原治良の具体へ参加する以前から、白髪の身体的・物質的な制作はすでに独自に進んでいました。具体が白髪の方法を生んだのではなく、白髪が自ら開発していた方法と具体の理念が出会ったと考える方が正確です。

ヘラから指、手のひらへ

1953年頃、白髪はナイフやヘラだけでは十分な流動感を得られないと感じ、指や手のひらで絵具を押し広げるようになります。これは単に道具を捨てたというより、身体と絵具の間にある距離を段階的に縮める過程でした。筆なら柄を介し、ナイフなら金属板を介して絵具へ触れます。指や手のひらでは絵具の冷たさ、抵抗、粘りを直接感じることになります。しかし手を使っても、腕の届く範囲と身体の位置には限界があります。さらに画面全体を身体の移動と結びつけるため、白髪は支持体を壁から床へ下ろし、足を使う方法へ向かいました。

1954年――フット・ペインティングの発明

1954年、白髪は床に紙やキャンバスを敷き、その上へ大量の油絵具を置き、素足で絵具を押し広げる方法へ到達しました。最初は足だけでバランスを取りながら描いていましたが、油絵具の上は滑りやすく、身体を自由に移動させるには安定した支点が必要です。そこで天井からロープを吊し、両手でつかまりながら振り子のように身体を動かす方式を確立します。ここでは足は筆の代用品ではありません。足裏の幅、体重、関節の可動域、ロープの長さ、身体の回転が、そのまま筆跡の形を決めます。絵を描く動作と身体の運動が分離できなくなりました。

1954年《作品Ⅰ》――足へ移る直前と初期

兵庫県立美術館所蔵《作品Ⅰ》(1954)は、109×77.5cmの油彩・紙による作品です。1954年は白髪がフット・ペインティングへ到達した転換年であり、この時期の作品には、絵具を画面全体へ押し広げ、伝統的な構図から離れようとする試みが凝縮されています。後の巨大なキャンバスと比べれば小さな紙作品ですが、絵具の運動を中心に画面を考える姿勢が明確です。

1955年――具体美術協会へ

1955年、嶋本昭三の誘いをきっかけに、白髪は金山明、村上三郎、田中敦子らゼロ会の仲間とともに具体美術協会へ加わりました。吉原治良は「人のまねをするな」「これまでになかったものを創れ」とメンバーへ要求し、白髪の足による制作を高く評価します。白髪にとって具体は、自分の方法を一層過激に展開できる場となりました。同年の野外展と第1回具体美術展では、画面に足跡を残すだけでなく、木材、泥、舞台など、絵画の外側へ身体を押し出す仕事へ進みます。

《泥に挑む》1955――絵画を全身へ拡張する

1955年、第1回具体美術展の会場前庭で白髪は《泥に挑む》を実行しました。泥、壁土、セメントなどを混ぜた塊へ、下着姿の白髪が全身で飛び込み、殴り、這い、転がり、身体と泥を格闘させます。完成後には身体が通過した溝や穴が残り、その塊が展示されました。絵筆、絵具、キャンバスという絵画の条件をほぼすべて取り去りながら、白髪自身はこれをフット・ペインティングの延長として捉えていました。身体が物質へ力を加え、物質が抵抗し、その結果として痕跡が残る。この関係こそ、白髪にとって制作の核だったからです。

パフォーマンスなのか、絵画なのか

現在《泥に挑む》はパフォーマンス・アートやアクション・アートの先駆例として頻繁に紹介されます。しかし1955年の白髪が、後世の「パフォーマンス」というジャンル概念を前提としていたわけではありません。彼の出発点はあくまで絵画でした。完成した物体だけでは不十分になり、制作行為そのものが作品の不可欠な一部へ拡大した結果、後から見ればパフォーマンスに見える表現へ到達したのです。この違いは重要です。白髪を絵画から離れた演者としてではなく、絵画を身体の時間まで拡張した画家として見ると、《泥に挑む》と後のキャンバス作品の連続性が理解できます。

《赤い丸太》――観客の身体へ近づく

1955年の具体の活動では《赤い丸太》も重要です。後年の再制作では、赤く塗られた長い木材が複数本立てられ、観客がその間を通る構造として示されています。2022年の《すべて未知の世界へ―GUTAI 分化と統合》では、1955/85年の10本組、各長さ403cmの作品として兵庫県立美術館所蔵作が展示されました。白髪の関心が、絵具の上を自分の身体が動くことだけでなく、鑑賞者の身体が作品空間を通過することへも広がっていた例です。

1957年《超現代三番叟》――舞台上の身体

1957年の「舞台を使用する具体美術」で白髪は《超現代三番叟》を発表しました。伝統芸能の三番叟を想起させる題名を持ちながら、赤い異様な衣装、長く伸びる腕、尖った帽子や仮面によって、身体は人間と物体の中間のような存在になります。白髪はここでも完成した絵画ではなく、時間の中で動く身体を作品化しました。一方で、同時期には床上のフット・ペインティングを継続しており、舞台と絵画は別々の活動ではありません。身体の運動をどの支持体へ記録するかという共通問題の異なる形です。

1957年《無題》――紙の上に残る足の力

豊田市美術館所蔵《無題》(1957)は182×242cmの油彩・紙による大作です。白髪の身体運動が絵具の厚みと軌跡として定着し、パフォーマンスを見ていない鑑賞者にも制作の動きを想像させます。フット・ペインティングの重要な点は、行為が終わった後にも絵画として自立することでした。《泥に挑む》のような一時的行為と、保存可能なキャンバス・紙作品の両方を続けたことで、白髪は「行為か物体か」という二者択一を避けました。

1957年ミシェル・タピエとの出会い

1957年、フランスの批評家ミシェル・タピエが来日し、具体と接触しました。タピエはヨーロッパやアメリカで展開していたアンフォルメルを国際的に紹介しており、白髪の絵画を高く評価します。白髪作品はタピエを通じてヨーロッパへ送られ、海外展や個展の機会が増えました。タピエが紹介したGeorges MathieuやJackson Pollockの作品によって、日本では白髪が「アクション・ペインティング」と比較されるようになります。ただし白髪のフット・ペインティングはタピエとの出会い以前の1954年に成立しており、Pollockを見て足で描き始めたわけではありません。時系列を確認することは、白髪を西洋美術の派生として誤解しないために重要です。

Pollockとの違い

Jackson Pollockと白髪は、床に支持体を置き、身体の運動を画面へ残した点で頻繁に比較されます。しかし方法には明確な違いがあります。Pollockはキャンバスの周囲を歩き、棒や筆から絵具を滴下し、身体と支持体の間に一定の距離を保ちました。白髪は絵具の上へ直接乗り、足裏で絵具を押し、体重をかけ、滑ります。絵具の粘性が身体の運動を妨げるため、作家は画面から抵抗を受けます。白髪にとって制作は、身体が物質を一方的に支配するのではなく、物質との相互作用でした。

1958年《作品Ⅱ》

兵庫県立美術館所蔵《作品Ⅱ》(1958)は183×243cmの油彩・紙です。画面全体に絵具が広がり、足の移動による長い軌跡、厚い盛り上がり、掻き取られた部分が複雑に交差します。色彩と運動が一体となる白髪の1950年代後半を代表する一作であり、国立アートリサーチセンターの「100 Must-see Artworks」の歴史ページでも1958年を象徴する作品の一つとして取り上げられています。

ロープは何を変えたのか

天井から吊したロープは、白髪の技法を決定的に変えました。ロープがなければ、滑る油絵具の上で転倒を避けるため、足の移動は慎重になります。ロープにつかまることで、身体を大きく振り、片足へ体重を集中させ、弧を描くような移動が可能になります。一方でロープは完全な自由を与えるわけではありません。支点の位置と長さが運動範囲を制限し、身体は円弧状に動きやすくなります。白髪の特徴的な旋回する画面は、意志だけでなく、ロープ、重力、身体構造によって共同で作られました。

「六分の身体、四分の判断」

豊田市美術館は白髪の言葉として、「からだの要求が六分と、画面をちょっと見て判断するのが、四分くらい」という趣旨を紹介しています。この比率は、白髪作品を純粋な偶然や無意識として見る誤解を修正します。身体に任せ切るのではなく、制作途中に画面を見て、次の運動や色の状態を判断しています。完全な制御と完全な偶然の間で、身体の勢いを生かしながら視覚的な判断を挟む。フット・ペインティングは無計画な暴走ではなく、身体と眼の往復によって成立します。

1959年――『水滸伝』豪傑シリーズ

1959年頃から白髪は、中国古典『水滸伝』に登場する108人の豪傑にちなむ題名を作品へ付け始めます。具体では吉原治良が作品へ題名を付けることを原則的に好まなかったため、白髪は無題作品を数多く制作していました。しかし制作量が増え、作品の識別が難しくなったこともあり、幼少期から愛読していた『水滸伝』の人物名を利用しました。題名は描かれた内容を説明するものではありませんが、英雄の性格や武勇と、画面の色や運動の強さが緩やかに重なります。シリーズは1965年頃まで続き、106点に及んだと作家資料は記録しています。

《天雄星 豹子頭》1959

国立国際美術館所蔵《天雄星 豹子頭》(1959)は182×272.5cmの油彩・キャンバスです。深い赤、紺、黄などが画面全体で激しく混ざり、足で押し流された厚い絵具の軌跡が残ります。「豹子頭」は『水滸伝』の豪傑・林冲に与えられた異名に由来します。作品に人物像が描かれているわけではありませんが、豪傑名が付くことで、運動の激しさや色彩の緊張へ別の想像力が加わります。2026年には国立国際美術館のコレクション展「私/行為」でも再展示されています。

1962年――Paris、Turin、Tokyo、大阪

1962年、白髪はGalerie StadlerのParis個展、TurinのInternational Center of Aesthetic Research、東京画廊、グタイピナコテカと、国内外で相次いで個展を開きました。具体の一員であると同時に、個人作家としてヨーロッパで認知される大きな転換点です。作品はアンフォルメルやアクション・ペインティングと同じ国際的文脈へ置かれましたが、足で描く独自技法は強い差異として機能しました。ここから白髪は、地域的な前衛集団の一員という位置を超え、一人の画家として国際的な流通へ入ります。

1964年――水滸伝シリーズの成熟

1964年には東京国立近代美術館所蔵《天慧星拚命三郎(水滸伝豪傑の内)》や京都国立近代美術館所蔵《天魁星呼保義》など、現在の国立美術館コレクションに残る重要作が制作されています。この時期の画面では、1950年代の荒々しい混色に加えて、色の塊と軌跡がより明確に整理されます。足による制作は同じでも、身体の運動を長年反復したことで、白髪は自分の可動域と絵具の挙動を深く理解するようになりました。方法が成熟すると同時に、吉原は具体内の表現が定型化することを警戒し、白髪自身も次の変化を求めることになります。

1965年――方法の拡張

1965年頃、白髪は足だけに依存せず、板や棒を使って絵具を押し広げる方法を試します。具体内部でフット・ペインティングが白髪の「様式」として定着し始めたことへの危機感も背景にありました。同じ方法を繰り返せば個性として認識されやすくなりますが、吉原治良が最も嫌ったのは自己模倣です。白髪にとっても、足で描くこと自体が目的化した瞬間、それは前衛性を失います。道具を再導入したことは、身体表現から後退したのではなく、自分の方法を再び不安定にする試みでした。

1966年以降――扇の運動

1966年以降、白髪は板や棒の一端を支点として、ワイパーのように半円状へ絵具を広げる「扇」の構造を発展させます。足を使う画面が身体の重心移動から複雑な軌跡を生むのに対し、支点を持つ板では、より明確な円弧が現れます。ここで重要なのは、白髪が円形の運動へ接近していたことです。1970年代半ばに密教的な円相へ向かう形式的な準備は、この扇形の仕事から始まっていました。

《白の作品 第II号》1966

国立国際美術館所蔵《白の作品 第II号》(1966)は90×90cmの油彩・キャンバスです。赤、黒、黄などの激しい色で知られる白髪が、白を中心に画面を構成した点で重要です。色彩を抑えることで、絵具の厚み、流れ、引きずり、表面の凹凸がより直接的に見えます。白髪の核心が「赤い激しい絵」にあるのではなく、絵具という物質を身体の運動でどう変形するかにあったことを示す作品です。

密教への接近

1960年代、白髪は精神的な修行の必要を強く感じるようになり、仏教、とりわけ密教へ関心を深めます。白髪の初期フット・ペインティングは、意識的な判断と身体の衝動の間を探る制作でしたが、長年同じ方法を続ける中で、自分の精神をどのように更新するかが課題になりました。宗教への接近を「激しい画家が突然静かになった」と理解するのは不正確です。身体行為をより深い精神訓練と結びつけようとした結果であり、絵画を続けるための自己改革でもありました。

1971年――比叡山延暦寺で得度

1971年、白髪は比叡山延暦寺で得度し、「素道」という僧名を受けました。画家を辞めて僧侶になったわけではなく、制作と信仰を並行させます。翌1972年には吉原治良が死去し、具体美術協会が解散。白髪にとって、集団的な前衛の時代と、自身の宗教的転換がほぼ同時に訪れました。以後、作品名には仏、菩薩、密呪など密教に由来する語が増えます。

《貫流》1973――足からスキージへ

東京オペラシティ アートギャラリー所蔵《貫流》(1973)は112×145cmの油彩・キャンバスです。具体解散直後、密教への接近が深まる時期の作品で、東京オペラシティはこの時期、素足に代わってスキージ状の長いヘラを使い、画面へ流動感をもたらしたと説明しています。題名の「貫流」は、流れが画面を貫くような感覚を持ちます。フット・ペインティングを捨てたというより、身体と絵具の関係を別の道具によって組み直した時期です。

《大威徳尊》1973

尼崎市所蔵《大威徳尊》(1973)は、白髪が密教の尊格を作品名へ取り込んだ代表的な例です。大威徳明王は強大な力を持つ仏教尊格であり、白髪の激しい絵画と容易に結びつけて解釈したくなります。しかし、画面が宗教像を描写しているわけではありません。題名は制作前後の観想や精神状態と作品を結ぶ役割を持ち、抽象絵画へ具体的な信仰の次元を導入します。

《繁茂》1973

国立国際美術館所蔵《繁茂》(1973)は162×162cmの油彩・キャンバスです。具体解散後の白髪が、宗教的修行へ深く入る一方で、自然や生命を想起させる題名も用いていたことを示します。足、スキージ、色彩、流動という長年の技法が、単なるアクションの記録から、自然現象や精神的な増殖を連想させる画面へ変化します。

1974年――35日間の修行

1974年、白髪は比叡山の元三大師堂で35日間に及ぶ厳しい修行を行いました。宗教的な修練は生活の一部ではなく、身体的な負荷を伴う実践でした。若い時期に泥や絵具へ身体を投じた作家が、50歳前後で宗教的な身体訓練へ進んだことは興味深い連続性を持ちます。白髪にとって身体を極限へ置くことは、1950年代には芸術的実験として、1970年代には精神修養として現れました。両者を完全に同一視するべきではありませんが、身体を通じて意識の限界へ近づくという姿勢には共通点があります。

1974–75年――円相と停滞

修行後、白髪はスキージを使って円形を描く作品を多く制作し、仏教・密教に由来する題名を付けました。形式的には1960年代後半の扇シリーズを発展させたものでもあります。しかし後に白髪自身は、円の反復によって制作が停滞したことを自覚します。宗教性を深めれば自動的に絵画が良くなるわけではありませんでした。この自己批判が、1978年頃のフット・ペインティング回帰へつながります。

1978年――フット・ペインティングへの回帰

1978年頃、白髪は再びロープにつかまり、足で描く方法へ本格的に戻ります。これは1950年代の若い自分への単純な回帰ではありません。密教、スキージ、円相、制作停滞を経験した後で、身体運動を改めて選び直したのです。若い頃は未知の方法を発明することが中心でしたが、晩年のフット・ペインティングでは、長年蓄積した身体感覚と精神的集中が画面へ凝縮されます。

1980年代――再評価と新しい充実

1970年代、コンセプチュアル・アートやミニマルな傾向が国際美術界で強まる中、白髪の厚い油彩と身体的な画面は一時的に評価を失いました。しかし1970年代末から80年代にNeo-Expressionismなど絵画への関心が戻り、同時に欧米で非西洋圏の戦後美術を見直す動きが強まると、白髪と具体は再び注目されます。白髪自身もフット・ペインティングへ戻り、青、黒、赤、白などの色をより凝縮して扱う作品を制作しました。

《群青》1985

《群青》(1985)は181×227cmの油彩・キャンバスで、尼崎市教育委員会/尼崎市立尼崎高等学校の所蔵として記録されています。群青を主調に、黒や白が複雑に絡み、足の運動が大きな旋回と押し返しを作ります。1950年代の赤を中心とした作品とは異なる冷たい色彩の深さがあり、フット・ペインティングが一つの若い時期の発明ではなく、数十年にわたって更新可能な方法だったことを示します。

1990年代以降――国際的再評価

1986年のCentre Pompidou《前衛芸術の日本1910–1970》、1990年代のヨーロッパ各地での個展を経て、白髪の国際評価は大きく上昇します。1992年にはGalerie Stadlerで30年ぶりの個展、1993年にはToulouseで美術館規模の展覧会が開催されました。2001年には兵庫県立近代美術館で回顧展が開かれ、Londonでも新作が紹介されます。白髪は市場で再発見された過去の前衛作家ではなく、再評価が進む最中にも制作を続けていた現役作家でした。

《天女の舞》2000

尼崎市総合文化センター所蔵《天女の舞》(2000)は165×133.5cmの油彩・キャンバスです。白髪が76歳の頃に制作した晩年作で、宗教的な題名とフット・ペインティングの運動が共存しています。1950年代の豪傑名と同様、題名は図像を説明するのではなく、画面の運動へ想像的・精神的な方向を与えます。足で描くという同じ方法が、半世紀近くを経て全く異なる精神的背景を帯びた例です。

白髪富士子――制作を支えた共同者

白髪の制作を個人の英雄的身体だけで語ると、妻・白髪富士子の存在が見えなくなります。富士子自身も具体に参加して制作を行った作家であり、白髪一雄の活動を生活面・制作面で長く支えました。大量の油絵具を扱うフット・ペインティングでは、支持体の準備、絵具、制作後の処理、作品管理など多くの周辺作業が必要です。現在では富士子自身の制作も再評価され、2026年まで尼崎の白髪一雄記念室で没後10年展示が行われました。白髪一雄を孤独な男性天才として神話化せず、具体の共同体や家族的な制作環境まで含めて見る必要があります。

フット・ペインティングの技法

白髪のフット・ペインティングは、床へ支持体を置き、油絵具を複数箇所へ盛り、ロープにつかまりながら素足で押し伸ばす方法です。足裏全体で圧力をかける場合、踵や側面で線を削る場合、身体を回転させながら絵具を大きく移動させる場合など、動作によって痕跡が変わります。絵具が厚すぎれば足が動かず、薄すぎれば物質感が失われます。キャンバスと紙でも摩擦が異なります。白髪は長年の経験を通じて、油絵具の量、硬さ、乾燥、身体の速度を調整しました。見た目の激しさの背後には、素材への高度な熟練があります。

油絵具――色ではなく抵抗する物質

白髪にとって油絵具は、イメージを描くための色彩材料であると同時に、身体の動きを受け止める物質でした。足で押すと絵具は盛り上がり、混ざり、削られ、支持体の地が露出します。赤と黒が混ざれば暗い褐色になり、白が入り込めば濁りや光が生まれます。白髪はこうした結果を完全には予測できません。絵具の量と粘度が身体の軌道を変え、身体が再び絵具の形を変える循環が成立します。「物質を生かす」という具体の考えを、最も身体的に実践した一人が白髪でした。

赤、黒、青――色彩の変化

白髪は血を思わせる深い赤を初期から好み、1950–60年代の代表作に強い赤が多く見られます。しかし制作全体を見れば、黒、白、黄、青、群青など幅広い色を使用しました。水滸伝シリーズでは豪傑の性格や画面の力に応じて色の組み合わせが変化し、1966年《白の作品 第II号》では色彩をほぼ消して物質感を前面へ出します。1985年《群青》では青が画面全体の精神的な深さを作ります。白髪を「赤い絵の画家」と固定することはできません。

大画面と身体尺度

白髪作品の多くは180×240cm前後、あるいはそれ以上の大きさを持ちます。この寸法は単に迫力を出すためではありません。床へ置いた画面の上で、成人男性の身体が移動し、片足を伸ばし、旋回するためには一定の広さが必要です。画面寸法は身体の可動域と直接結びつきます。一方、90cm角程度の作品では動きが圧縮され、絵具の密度が高くなります。白髪の作品では、サイズが身体運動の文法を決定します。

行為と完成作品はどちらが重要か

白髪の制作写真は非常に強烈で、しばしば完成作品以上に有名です。そのため「本当の作品はパフォーマンスで、絵画は残骸にすぎない」と解釈されることがあります。しかし白髪は絵画としての完成度を強く意識し、制作途中に画面を見て判断し、作品を展覧会へ出品し、販売し、長年絵画制作を続けました。行為と完成画面のどちらか一方を本質とするのではなく、行為が物質へ定着し、その痕跡が独立した絵画として残る二重性に白髪の独自性があります。

2020年東京オペラシティ回顧展

2020年、東京オペラシティ アートギャラリーは都内の美術館として初の大規模な白髪一雄回顧展を開催しました。初期作品から具体期、密教期、晩年までを通覧し、制作写真や未公開資料も含む図録を刊行しました。展覧会は新型コロナウイルス感染拡大のため予定より早く終了しましたが、白髪を「具体の一場面」だけでなく、六十年に及ぶ一人の画家として見る重要な機会になりました。

2024年――生誕100年

2024年は白髪一雄の生誕100年にあたり、兵庫県立美術館は所蔵する白髪作品87点の中から代表作を厳選した特別展示を行いました。尼崎市総合文化センターの白髪一雄記念室でも生誕100年企画が続き、Fergus McCaffrey Tokyoでは同じ1924年生まれの金山明と白髪を対比する《Plus-Minus》が開催されました。白髪の「熱い」身体的抽象と、金山の機械・幾何学的な「冷たい」抽象を並べることで、具体内部の多様性が改めて強調されました。

2025–2026年――現在の再評価

2025年から2026年にかけて、白髪作品はMoMAの《Artist’s Choice: Arthur Jafa—Less Is Morbid》や常設コレクション展示に含まれ、2026年には国立国際美術館《コレクション1:私/行為》で《天雄星 豹子頭》が展示されています。一方、2013年から白髪作品と資料を継続的に公開してきた尼崎市総合文化センターの白髪一雄記念室は、建物休館に伴い2026年3月で一旦閉室しました。作品の国際的な展示が拡大する一方、地元尼崎で蓄積されてきた資料研究と公開を今後どう継続するかも重要な課題です。

白髪一雄の作品をどう見るか

白髪作品を見るとき、第一に完成画面だけでなく制作方法を想像します。どの方向へ足が動き、どこで体重がかかり、どこで絵具が押し戻されたのかを見ると、画面は身体運動の記録として立ち上がります。第二に、絵具の厚みと混色を近くで観察します。第三に年代を確認し、1950年代の発明期、水滸伝シリーズ、1960年代後半の道具の変更、密教期、1978年以降の回帰を区別します。第四に、制作写真の迫力だけに引きずられず、完成作品がどのように視覚的に整理されているかを見ることが重要です。第五に、宗教的題名を図像の説明とせず、制作時の精神的背景として読むと、白髪の長い変化が理解しやすくなります。

主要作品

フット・ペインティングへの転換年である1954年《作品Ⅰ》、全身で泥と格闘した《泥に挑む》、1950年代の大画面、水滸伝豪傑シリーズ、《白の作品 第II号》、具体解散と得度後の《貫流》《大威徳尊》《繁茂》、フット・ペインティング回帰後の《群青》、2000年《天女の舞》まで、白髪一雄の技法と精神の変化を12件で追います。

作品Ⅰ

Work I / 1954 / 油彩、紙 / 109 × 77.5 cm

兵庫県立美術館

フット・ペインティングへ到達した転換年の作品。画面全体へ絵具を押し広げ、構図より絵具の流れと身体操作を優先する姿勢が現れます。

所蔵館の作品情報 ↗

泥に挑む

Challenging Mud / Doro ni idomu / 1955 / 泥、壁土、セメント、身体による行為 / 現地作品/記録作品・寸法可変

現存せず/写真・映像・展覧会記録

第1回具体美術展で全身を泥とセメントの塊へ投じた代表的行為。絵具とキャンバスを離れながら、身体と物質の格闘をフット・ペインティングの延長として押し広げました。

所蔵館の作品情報 ↗

無題

Untitled / 1957 / 油彩、紙 / 182 × 242 cm

豊田市美術館

足で押し流された絵具の厚みと軌跡が大画面に残る具体期の重要作。制作行為の激しさが、パフォーマンスを見ていない鑑賞者にも絵画として伝わります。

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作品Ⅱ

Work II / 1958 / 油彩、紙 / 183 × 243 cm

兵庫県立美術館

1950年代後半のフット・ペインティングを代表する大作。足の移動、厚い絵具、掻き取り、混色が画面全体に広がり、身体と物質の相互作用を明確に示します。

所蔵館の作品情報 ↗

天雄星 豹子頭

Tenyusei Hyoshito / 1959 / 油彩、キャンバス / 182 × 272.5 cm

国立国際美術館

『水滸伝』豪傑シリーズ初期の代表作。深い赤、紺、黄が足の運動によって激しく混ざり、作品名と画面の武勇的な力が緩やかに呼応します。

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天慧星拚命三郎(水滸伝豪傑の内)

Tenkeisei Hemmeisaburo (Hero of the Water Margin) / 1964 / 油彩、キャンバス / 公式作品記録参照

東京国立近代美術館

水滸伝シリーズ成熟期の重要作。長年のフット・ペインティングによって身体の可動域と絵具の流れが洗練され、激しさと視覚的な統制が共存します。

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白の作品 第II号

Work in White II / 1966 / 油彩、キャンバス / 90 × 90 cm

国立国際美術館

白を中心に絵具の厚みと流動を見せる作品。白髪の核心が赤や黒の激しい色彩ではなく、身体によって油絵具の物質性を変化させることにあったと示します。

所蔵館の作品情報 ↗

貫流

Kanryu / 1973 / 油彩、キャンバス / 112 × 145 cm

東京オペラシティ アートギャラリー

具体解散後、密教への接近が深まる時期の作品。スキージ状の長いヘラも用いた流動的な画面により、足だけに依存しない1970年代の技法変化を示します。

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大威徳尊

Daiitokuson / 1973 / 油彩、キャンバス / 196 × 195 cm

尼崎市総合文化センター(尼崎市)

得度後の密教期を代表する大作。宗教像を描写するのではなく、大威徳明王という題名と抽象的な物質・運動を結びつけ、制作へ信仰の次元を導入します。

所蔵館の作品情報 ↗

繁茂

Hanmo / 1973 / 油彩、キャンバス / 162 × 162 cm

国立国際美術館

具体解散後の変化を示す1973年作。密教への傾斜と並行しながら、自然や生命の増殖を連想させる題名を持ち、流動する絵具を新しい精神性へ接続します。

所蔵館の作品情報 ↗

群青

Gunjo / 1985 / 油彩、キャンバス / 181 × 227 cm

尼崎市総合文化センター(尼崎市教育委員会/尼崎市立尼崎高等学校)

フット・ペインティング回帰後の代表作。群青、黒、白を中心とする深い色彩と旋回する足の軌跡が、若い時期とは異なる凝縮された身体性を示します。

所蔵館の作品情報 ↗

天女の舞

Tennyonomai / 2000 / 油彩、キャンバス / 165 × 133.5 cm

尼崎市総合文化センター(尼崎市)

76歳頃の晩年作。宗教的な題名とフット・ペインティングによる運動が共存し、1950年代に発明した技法が半世紀後も更新され続けたことを示します。

所蔵館の作品情報 ↗

《作品Ⅰ》1954

《作品Ⅰ》は、白髪がフット・ペインティングへ到達した1954年に制作された紙作品です。画面に明確な中心や図像を置くのではなく、絵具の動きが全面を組織します。白髪はこの頃、ナイフ、自作のヘラ、指、手のひらから足へと制作方法を急速に変化させていました。そのため1954年作を一つの完成様式として見るより、「筆で描く」という習慣から身体全体の制作へ移る実験期の記録として見ることが重要です。後のロープを用いた巨大作品と比べれば寸法は小さいものの、画面を対象表現から解放し、絵具の粘性そのものへ集中する方向はすでに明確です。

《泥に挑む》1955

《泥に挑む》の現物は残っていません。泥とセメントによる塊は一時的なもので、現在私たちが知る作品像は主として写真、映像、証言、展覧会記録によっています。この点は作品理解に不可欠です。現在の美術館で再現された場合、1955年に白髪自身が格闘した物質と時間をそのまま保存することはできません。したがって《泥に挑む》は、一個の物体より「1955年に身体と泥の間で起きた出来事」とその記録から構成される作品と考えられます。完成品中心の美術史では扱いにくいこの性格こそ、作品が後のパフォーマンス史から注目される理由です。

《無題》1957

豊田市美術館の《無題》では、厚い油絵具が長い弧を描き、紙の白地が部分的に残ります。絵具を全面へ均一に広げるのではなく、足の力が集中した場所と抜けた場所が画面の呼吸を作ります。制作写真の白髪は非常に劇的ですが、作品単体を見ると、勢いだけでなく余白、色の塊、軌跡の方向が慎重な均衡を持つことが分かります。行為の記録であると同時に、視覚的に編集された絵画でもあります。

《作品Ⅱ》1958

《作品Ⅱ》は183×243cmの大画面で、身体が左右へ移動できる十分な幅を持ちます。油絵具は足によって薄く引き伸ばされる場所と、厚い塊として残る場所に分かれ、支持体の紙がところどころ露出します。白髪のフット・ペインティングは「足跡を付ける」技法ではありません。足は絵具を運び、押し、混ぜ、掻き取る道具であり、結果として足形そのものが消える場合も多い。作品は身体の直接的なスタンプではなく、身体が物質を移動させた軌道です。

《天雄星 豹子頭》1959

《天雄星 豹子頭》では、赤、紺、黄、暗色が巨大な画面で交錯します。『水滸伝』の豪傑・林冲の異名を題名に持ちますが、人物や武器は描かれません。題名を知る前と後で、同じ色彩の運動が異なって見えることが興味深い点です。純粋抽象として見れば絵具の力学ですが、豪傑名を知れば闘争や武勇を連想します。白髪は具象へ戻らずに、題名によって物語と抽象を緩やかに結び直しました。

《天慧星拚命三郎》1964

1964年頃には白髪のフット・ペインティングは熟練の域へ達しています。初期の発明期には、足で描くこと自体が新しい出来事でした。しかし10年を経ると、作家は絵具がどの程度動くか、身体をどこまで振ればどの軌道が生まれるかを知っています。この熟練は作品の強みである一方、方法が定型化する危険も生みました。《天慧星拚命三郎》は、水滸伝シリーズの成熟と、次の変化が必要になる直前の地点を示します。

《白の作品 第II号》1966

《白の作品 第II号》では、白髪作品に期待されがちな血のような赤や激しい多色性が抑えられています。その結果、絵具の隆起、滑った跡、重なり、艶の差が見えやすくなります。「アクション・ペインティング=派手な色彩」という理解を外し、白髪の関心を物質へ戻してくれる作品です。同時に90cm角という比較的小さな画面は、大画面とは違って身体の運動を圧縮し、密度の高い表面を作っています。

《貫流》1973

《貫流》はフット・ペインティングの代表作とは外観が異なります。具体解散と得度を経て、白髪は長いヘラやスキージを使い、絵具を流すような方法を試しました。道具を使うことは、1950年代に道具を捨てた歴史への逆行のように見えます。しかし白髪の目的は「足を使うこと」ではなく、自分の意識と物質の関係を更新することでした。いったん捨てた道具を新しい精神状態で再導入することも、自己模倣を避ける方法になりました。

《大威徳尊》1973

《大威徳尊》はほぼ2m四方の大画面です。大威徳明王という宗教的題名は、作品を仏画へ戻すものではありません。白髪は京都で日本画を学んだ若い頃にも宗教図像を描く伝統へ接していましたが、ここでは尊像を再現せず、抽象画そのものへ信仰上の名称を与えます。具象を描かずに宗教的実践と絵画を結びつける点に、1970年代の独自性があります。

《繁茂》1973

《繁茂》という題名は、植物が生い茂る状態を連想させますが、画面に樹木や葉が描かれているわけではありません。油絵具の増殖的な重なり、流れ、絡み合いが「繁茂」という言葉と響き合います。白髪の後期では、水滸伝や密教だけでなく、自然現象を想起させる題名も使われました。抽象的な物質の動きを、言葉によって異なる領域へ開く方法です。

《群青》1985

《群青》では青が支配的ですが、単一の青面ではなく、黒や白との混色によって深い層を作ります。足の軌跡は画面を大きく旋回し、部分的には絵具が薄く延ばされ、別の場所では厚く盛り上がります。1978年以降に再開したフット・ペインティングが、初期の勢いを再演するだけでなく、色彩と運動をより凝縮したものへ変化したことが分かります。

《天女の舞》2000

《天女の舞》は、白髪の晩年を理解するうえで重要です。76歳頃の身体は1950年代と同じではありませんが、フット・ペインティングは身体能力の若さだけに依存する方法ではありませんでした。運動速度や可動域が変われば、絵具の痕跡も変わります。題名には天女の軽やかな運動が示され、若い時期の豪傑や格闘とは異なる身体イメージが現れます。半世紀に及ぶ同一技法の持続が、身体の老いそのものを作品へ含み込んでいます。

身体――道具ではなく制作条件

白髪について「足を筆にした」と説明されることがありますが、この比喩は半分しか正しくありません。筆は手で操作される道具ですが、足は身体そのものです。片足を動かせば反対側の脚、腰、腕、ロープを握る手、重心が同時に変化します。つまり一つの線を引くために全身が参加します。白髪は筆を巨大化したのではなく、絵画制作の単位を手首から全身へ拡大しました。

制御と偶然

白髪の画面は偶然に見えますが、完全に無作為ではありません。絵具の配置、色、量、ロープの位置、支持体の大きさは制作前に準備されます。制作中も画面を見て判断を加えます。一方、足が滑る速度、複数色の混ざり方、絵具の盛り上がりを細部まで予測することはできません。白髪は偶然を目的とせず、制御できない領域を制作方法の中へ組み込みました。良い作品は「好き勝手に動いた結果」ではなく、制御と逸脱が緊張を保った結果です。

Pollock/Mathieuとの比較

Pollock、Georges Mathieu、白髪はいずれも戦後の身体的抽象と関係づけられます。Mathieuは観客の前で高速に筆を走らせ、Pollockは床のキャンバス周囲を移動して絵具を滴下しました。白髪はキャンバス上へ身体を直接置き、絵具との摩擦を受けました。三者の共通点は制作時間と身体運動を可視化したことですが、身体と絵具の接触の仕方が異なります。白髪を「日本のPollock」と呼ぶと理解は容易になりますが、その比較だけでは独自の身体―物質関係が見えなくなります。

具体の中での白髪

具体の作家は同じ様式を共有していません。田中敦子は電気回路と色彩、元永定正は液体や流れる色、村上三郎は紙を破る行為、金山明は自動機械による線を展開しました。白髪の特徴は、身体を物質へ最も直接的にぶつけたことです。吉原治良の理念が白髪を生んだのではなく、すでに存在していた白髪の方法が具体の「物質を生かす」という考えと強く共鳴しました。具体と個人制作の関係を、師匠から技法を与えられたように理解しないことが重要です。

宗教は表現をどう変えたか

白髪の密教への接近は、作品の激しさを抑える「精神的成熟」として美化されることがあります。しかし実際には、宗教的実践は制作を一時的に停滞させる側面も持ちました。円相の反復に行き詰まり、最終的にフット・ペインティングへ戻ったことを本人自身が認識しています。宗教は若い時代の身体性を否定したのではなく、一度その方法を解体し、再び選び直す契機になりました。この葛藤を含めて見ることで、密教期を単純な「精神性の深化」とする説明を避けられます。

富士子との関係をどう見るか

白髪一雄の制作写真は、一人の男性が絵具と格闘する英雄的な像を作りやすいものです。しかし、その制作は生活と共同作業から切り離されていません。妻・富士子は具体の作家として自分の作品を制作するとともに、一雄の活動を長く支えました。近年、富士子の作品と資料が独立して再評価されていることは、一雄の作家像を修正する意味も持ちます。作品の独創性を認めながらも、制作を可能にした周囲の労働や関係を不可視化しないことが必要です。

保存――厚塗り油彩と脆弱な表面

白髪作品は大量の油絵具を厚く盛り上げるため、保存上の課題が多くあります。厚い部分と薄い部分では乾燥速度や収縮率が異なり、長期的には亀裂、浮き、剥離が生じる可能性があります。足で押し上げられた鋭い突起や絵具の縁は、輸送時の振動や接触にも弱い。紙を支持体とする1950年代作品では、重い油絵具と紙の柔軟性の差も問題になります。表面を平らに「直す」ことは、身体行為の痕跡を消すことにつながるため、修復には制作技法の理解が不可欠です。

《泥に挑む》をどう保存するか

《泥に挑む》のような作品では、保存対象そのものを定義する必要があります。泥の塊は廃棄され、行為は二度と同じ条件で再現できません。残るのは写真、映像、展覧会カタログ、証言です。後世の展覧会で行為を再現しても、それは1955年の白髪本人による出来事ではありません。したがって美術館は、物質だけでなく、いつ、どこで、誰が、どのように行為を行ったのかという情報を保存する必要があります。白髪の作品は、現代美術における「作品の保存とは何か」という問題を早くから提示しました。

市場評価と美術史評価

白髪の作品は2000年代以降、国際市場でも大きく評価されるようになりました。しかし高額な価格を、作品の美術史的価値そのものと混同するべきではありません。市場上は1950–60年代の大型フット・ペインティングが特に人気を集めやすく、その結果、1970年代の密教期や晩年作品が相対的に見えにくくなることがあります。美術史としては、価格の高い時期だけでなく、方法を変え、失敗し、再び戻った長い制作全体を見る必要があります。

批評――英雄的身体という神話

白髪の制作写真は「男性の強靭な身体が絵具を征服する」という英雄的な物語を生みやすいものです。しかし実際の作品では、身体は絵具を完全に支配していません。滑り、抵抗され、予想外に混ざる物質へ身体も従わされます。また、制作環境を支えた富士子や具体の共同体を無視すれば、孤独な天才神話が強化されます。白髪の革新性を評価しつつ、「力強い男性身体」というイメージ自体を批評的に読む必要があります。

現在の美術史的位置

現在、白髪は具体美術協会の代表作家という範囲を超え、戦後の絵画、パフォーマンス、身体表現の歴史を横断する作家として評価されています。2013年Guggenheim Museumの具体展、2015年Dallas Museum of Artの元永定正との展覧会、2020年東京オペラシティ回顧展、2024年生誕100年展示を経て、2025–26年にはMoMAや国立国際美術館のコレクション展でも作品が継続して展示されています。特に現在の研究では、初期アクションだけでなく、密教期と晩年を含む長い制作史を再評価する方向が強まっています。

白髪一雄は何を変えたのか

第一に、絵を描く身体の単位を手と筆から全身へ拡張しました。第二に、絵具を色彩の媒介ではなく、身体へ抵抗する物質として作品の中心へ置きました。第三に、《泥に挑む》によって制作行為そのものを作品化しながら、同時に完成絵画を捨てず、行為と物体を併存させました。第四に、同じフット・ペインティングを一生の商標として固定するのではなく、道具、扇形、密教、円相を経て一度離れ、再び選び直しました。第五に、日本の具体美術を国際的なアクション・ペインティングと接続しながら、西洋の先行例では説明できない身体と物質の関係を作りました。白髪が変えたのは「足で描く技法」そのものより、絵画が身体と物質の出来事になり得るという認識です。

よくある単純化と読み直し

第一の単純化は、「Pollockを見て足で描き始めた」という理解です。フット・ペインティングは1954年に始まり、タピエとの出会いは1957年です。第二は、「足を筆の代わりにしただけ」という理解です。ロープ、重力、全身の重心移動までが制作条件になります。第三は、「完全な偶然に任せた」という理解です。画面を見ながら判断を入れています。第四は、「《泥に挑む》で絵画を捨てた」という理解です。白髪自身はそれをフット・ペインティングの延長と考え、その後も絵画を中心に制作しました。第五は、「密教に入って静かな精神画家になった」という理解です。宗教期には停滞もあり、1978年に身体的絵画へ戻ります。第六は、「晩年は初期技法の反復」という理解です。《群青》《天女の舞》では老いた身体と長い修行経験によって、同じ方法が異なる密度を持っています。

制作写真が作った「白髪一雄像」

白髪一雄を知る人の多くは、作品そのものより先に、天井のロープにつかまり絵具の上を滑る制作写真を目にします。写真は技法を理解するうえで不可欠ですが、同時に作家像を強く方向づけます。静止画では一瞬の激しい姿勢が切り取られ、白髪が常に暴力的な速度で制作していたように見えることがあります。しかし実際の制作には、絵具を置く準備、支持体の確認、途中で画面を見る時間、次の動作を選ぶ判断が含まれます。写真は行為の一部を強調し、別の部分を見えなくします。現在の研究では、制作写真を作品の証拠として使うだけでなく、その写真が「アクション・ペインター白髪」というイメージをどのように作ったのかも考える必要があります。

無題から豪傑、仏尊へ――題名の変化

白髪の作品名の変化は、制作思想の変化をよく表します。1950年代には《作品》《無題》が多く、具体の吉原治良も説明的な題名を避ける傾向を持っていました。1959年から『水滸伝』の豪傑名が導入されると、抽象画へ武勇や人物像の気配が加わります。1970年代には《大威徳尊》《密呪》など密教に由来する題名が現れ、さらに自然や舞を想起させる語も使われます。画面は非具象のままなのに、題名は次第に文化的・宗教的な意味を帯びる。この変化から、白髪が純粋な無意味の抽象を目指したのではなく、物質的な画面と想像・信仰を往復していたことが分かります。

日本画の経験は消えたのか

白髪は日本画教育に不満を持ち、戦後に洋画へ転じました。そのため日本画時代は「本当の白髪以前」と省略されることがあります。しかし、支持体と絵具の吸収、余白、筆の速度、東洋的な宗教図像への知識など、若い時期の経験が完全に消えたとは考えにくいでしょう。とりわけ密教期には、京都で学んだ仏教美術の環境と後年の信仰が長い時間を隔てて接続します。ただしフット・ペインティングを日本画の延長として説明する根拠もありません。重要なのは、白髪が異なる絵画制度を横断し、それぞれを捨てたり取り戻したりしながら自分の方法を形成したことです。

物質は「従う」のではなく「返事をする」

具体美術宣言が物質と精神の関係を重視したように、白髪の制作では絵具が作者の命令へ完全には従いません。足で押せば、粘度によって速度が変わり、厚い部分では身体が止まり、薄い部分では急に滑ります。異なる色が混ざれば予定外の濁りが生じ、支持体の皺や摩擦も軌道を変えます。白髪の身体は強い力を加えますが、同時に物質から反作用を受けています。この相互性を無視すると、作品は「身体の力を可視化した絵」だけになってしまいます。むしろ白髪の画面は、身体が物質へ問いかけ、物質が予想外の返事を返した記録だと見ることができます。

老いる身体と制作方法

フット・ペインティングは身体的負荷が大きいため、若い身体にしかできないように思えます。しかし白髪は晩年までこの方法を続けました。当然、1950年代の30歳前後の身体と、1990年代以降の身体では速度、筋力、可動域が異なります。技法を同じに保つことは、身体の違いを隠すことではなく、むしろ変化を画面へ露出させます。晩年の作品に見られる軌道の密度、色面の凝縮、動きの間は、技術的熟練だけでなく身体の時間を含んでいます。白髪の長い制作は、アクション・ペインティングを若さや瞬発力だけに結びつける見方を修正します。

尼崎で制作を続けるということ

白髪は国際的な評価を得た後も、出生地である尼崎を長く制作拠点としました。ParisやNew Yorkへ活動の中心を移さず、関西から作品を送り、海外展へ参加しています。この点は、吉原治良や具体全体の地域性ともつながります。戦後美術史では国際化がしばしば「地方から中心都市へ移動すること」と同一視されますが、白髪は尼崎に留まりながら国際的なネットワークへ入った作家です。2013年に地元の総合文化センターへ白髪一雄記念室が設置されたことも、この土地との継続的な関係を示しています。

死後の再評価は何を変えたか

白髪が2008年に亡くれた後、2009年の大規模巡回展、2013年Guggenheim Museumの具体展、2015年Dallas Museum of Art、2020年東京オペラシティ、2024年生誕100年展示へと研究と展示が続きました。この過程で評価の焦点も変化しています。初期には「具体の奇抜な足の画家」として紹介されがちでしたが、現在は日本画から洋画への転向、ゼロ会、密教期、晩年まで含む長い制作が検討されています。また、写真や映像、富士子の活動、尼崎の資料など、完成油彩以外の研究も進んでいます。国際的な市場上昇とは別に、作品を歴史的資料とともに読み直す作業が、白髪像をより複雑なものへ変えています。

今後の研究課題

白髪一雄については、代表的な大作の所蔵・展覧会歴が整備される一方、初期日本画、1950年代の紙作品、制作補助具、密教修行と作品制作の具体的な関係、晩年の制作工程などにはさらに検討の余地があります。作品表面の科学的分析によって、絵具の種類、混色、乾燥、制作順序を読み取れば、写真だけでは分からない身体運動を復元できる可能性があります。また白髪富士子や具体の他メンバーとの共同環境を調べることで、個人天才中心の物語も修正できます。今後の白髪研究では、強烈な代表イメージを繰り返すだけでなく、その背後にある資料、技法、関係性を細かく積み上げることが重要です。

略年譜

1924
8月12日、兵庫県尼崎市に生まれる。呉服商の長男として育つ。
1942
京都市立絵画専門学校へ入学。希望していた洋画ではなく日本画を専攻。
1944
陸軍予備士官学校へ召集。国内で終戦を迎える。
1948
京都市立美術専門学校を卒業。
1949
大阪市立美術研究所へ入り、洋画へ本格的に転向。
1952
金山明、村上三郎らとゼロ会を結成。既存の絵画を「ゼロ」から考え直す姿勢を共有。
1953
ナイフ、自作ヘラから指・手のひらへと制作方法を変え、絵具との直接接触を強める。
1954
床に置いた支持体を素足で描くフット・ペインティングへ到達。《作品Ⅰ》などを制作。
1955
金山明、村上三郎、田中敦子らと具体美術協会へ参加。第1回具体美術展で《泥に挑む》を実行。野外展で《赤い丸太》などを発表。
1957
「舞台を使用する具体美術」で《超現代三番叟》。ミシェル・タピエ来日、白髪作品を高く評価。
1958
《作品Ⅱ》など、ロープを用いた大型フット・ペインティングを展開。
1959
『水滸伝』豪傑名を作品へ付け始める。《天雄星 豹子頭》。Premio Lissoneで買上賞。
1962
Galerie Stadler(Paris)、Turin、東京画廊、グタイピナコテカで相次いで個展。
1964
《天慧星拚命三郎》《天魁星呼保義》など水滸伝シリーズ成熟期。
1965
フット・ペインティングの定型化を避け、板や棒など新しい道具を試す。
1966
支点を持つ棒・板で半円状に絵具を広げる扇形の方法を展開。《白の作品 第II号》。
1971
比叡山延暦寺で得度し、僧名「素道」を得る。
1972
吉原治良死去。具体美術協会解散。白髪は密教への関心をさらに深める。
1973
《貫流》《大威徳尊》《繁茂》など。足に加えてスキージ状の道具も使用。
1974
比叡山元三大師堂で35日間の修行を行う。
1974–1975
密教・仏教にちなむ題名と円相の作品を多数制作。
1978
円相制作の停滞を自覚し、フット・ペインティングへ本格的に回帰。
1985
《群青》。晩年のフット・ペインティングを代表する大作を制作。
1986
Centre Pompidou《前衛芸術の日本1910–1970》に出品。欧州で再評価が進む。
1992
Galerie Stadlerで約30年ぶりの個展。
1993
Toulouseで美術館規模の個展。
2000
《天女の舞》を制作。
2001
兵庫県立近代美術館《アクションペインター 白髪一雄展》。LondonのAnnely Juda Fine Artでも個展。
2008
4月8日、尼崎市で死去。83歳。
2009–2010
《白髪一雄展―格闘から生まれた絵画―》が国内4館を巡回。
2013
Solomon R. Guggenheim Museum《Gutai: Splendid Playground》。尼崎市総合文化センターに白髪一雄記念室が開室。
2015
Dallas Museum of Art《Between Action and the Unknown: The Art of Kazuo Shiraga and Sadamasa Motonaga》。
2020
東京オペラシティ アートギャラリーで大規模回顧展《白髪一雄》。
2022–2023
大阪中之島美術館・国立国際美術館《すべて未知の世界へ―GUTAI 分化と統合》で初期作品と《赤い丸太》を再検討。
2024
生誕100年。兵庫県立美術館で特別展示、尼崎で記念事業、Fergus McCaffrey Tokyoで金山明との《Plus-Minus》。
2025–2026
MoMA《Artist’s Choice: Arthur Jafa—Less Is Morbid》などで展示。2026年、国立国際美術館《コレクション1:私/行為》に《天雄星 豹子頭》。
2026
尼崎市総合文化センター休館に伴い、白髪一雄記念室は3月22日の展示終了をもって一旦閉室。

参考資料・出典

本ページはアートプラットフォームジャパン、兵庫県立美術館、尼崎市総合文化センター白髪一雄記念室、国立国際美術館、東京オペラシティ アートギャラリー、豊田市美術館、東京国立近代美術館、京都国立近代美術館、国際交流基金、MoMA等の公式資料を中心に参照し、ART LIBRARYが独自に構成・執筆しました。白髪の技法については1954年のフット・ペインティング開始、1957年のタピエとの接触、1971年の得度、1978年以降の回帰という時系列を重視し、Pollock等の影響関係を単純化しないよう留意しています。

資料確認日:2026年10月4日 / ART LIBRARY