Art Library

Kazimir Malevich

カジミール・マレーヴィチ

ロシア帝国/ソビエト連邦(キーウ生まれ、ポーランド系) / 1879–1935 / ロシア・アヴァンギャルド/キュボ・フューチュリズム/シュプレマティスム

Kazimir Malevich | TateShots (Tate)
Kazimir Malevich in 60 seconds (Royal Academy of Arts)
カジミール・マレーヴィチ — 美術界に衝撃を与えた『黒い正方形』
Kazimir Malevič — Il quadrato nero che ha sconvolto il mondo dell’arte
カジミール・マレーヴィチの『シュプレマティズム、18世紀の建築』(Sotheby’s)

カジミール・マレーヴィチ(Kazimir Malevich、1879–1935)は、20世紀初頭の抽象芸術を決定的に変えた画家・理論家です。1915年の《黒の正方形》と、白地に単純な幾何学形態を配置する「シュプレマティスム(Suprematism)」によって知られていますが、その制作は最初から幾何学的抽象だったわけではありません。印象主義的な風景、新原始主義的な農民像、キュビスムと未来派を接続したキュボ・フューチュリズム、言葉と物の論理関係を崩すアロジスムを経て、対象を描かない絵画へ到達しました。その後も《白の上の白》で色彩そのものを限界まで減らし、1920年代には絵画を立体・建築へ展開するアルヒテクトンを制作し、晩年には再び農民や人物を描いています。

マレーヴィチの重要性は、「黒い四角を最初に描いた」という奇抜さだけにありません。彼は、絵画が必ず何かを描写しなければならないという長い前提を断ち切り、色、形、表面、空間そのものを作品の主題にしました。しかも自分の抽象絵画を「現実から離れた装飾」とは考えず、「新しい絵画的リアリズム」と呼びました。外界の物を忠実に再現することより、色や形がそれ自体としてもつ感覚を現実として扱おうとしたからです。

同時に、マレーヴィチを単純に「ロシアの抽象画家」とだけ記述することにも注意が必要です。出生記録を重視する近年の研究では1879年2月23日にキーウで生まれたとされ、両親はポーランド系でした。幼少期の大半を現在のウクライナ各地で過ごし、その後モスクワ、ヴィテブスク、ペトログラード/レニングラードなどで活動しました。現在の美術館でも、MoMAは「Russian, born Ukraine」、Metは「Ukrainian」、ロシア美術館はロシア・ソビエトの前衛作家として扱うなど分類が異なります。本ページでは、後世の単一の国民国家へ単純に回収せず、ロシア帝国・ソビエト連邦の前衛美術の中心で活動した、キーウ生まれのポーランド系作家として扱います。

また生年にも長い混乱があります。20世紀の文献や現在も一部の美術館では1878年を採用していますが、教会の出生記録を含む研究とMalevich Society、ロシア美術館の近年の案内は1879年を採用しています。本ページでは1879年を基本とし、所蔵館ページに1878年と記載される場合は各館の表記を尊重します。作品年代についても、マレーヴィチ自身が晩年に作品を意図的に過去へ遡らせて記した例があり、制作年と画面裏の記載年が一致しない作品があります。彼の美術史を理解するには、この「年代を自ら再編集した」問題も重要です。

生涯と制作の変遷

1879年、キーウに生まれる

近年確認されている出生記録によれば、カジミール・セヴェリノヴィチ・マレーヴィチは1879年2月23日、当時ロシア帝国領だったキーウに生まれました。両親はポーランド系カトリックの家庭で、父は製糖工場に関わる仕事をしていました。そのため一家はウクライナの製糖地域を移動し、マレーヴィチは農村の風景、農民の労働、刺繍、壁やストーブの装飾などに囲まれて育ちます。

Malevich Societyは、彼が人生の最初の約20年間をウクライナで過ごし、その文化から深い影響を受けたと整理しています。後にモスクワの前衛芸術へ入り、抽象絵画を生み出した作家としてだけ見ると、この農村文化との関係が抜け落ちます。農民という主題は1910年代の新原始主義期だけでなく、1928年以降の晩年にも再び中心へ戻りました。

1890年代、絵画教育へ

1890年代半ばにはキーウで美術教育を受け、その後モスクワへ移ります。資料によって学校歴には相違がありますが、1900年代半ばにはFyodor Rerbergのスタジオなどで学び、モスクワの現代美術環境へ入っていきました。

初期には印象主義、象徴主義、ポスト印象主義など複数の様式を吸収しました。後世から見るとシュプレマティスム以前は「前史」に見えますが、マレーヴィチ自身は一つの様式へ直線的に進んだわけではありません。短期間に複数の造形言語を試し、それぞれを極端なところまで押し進めて次へ移ることを繰り返しました。

1910年、《ジャック・オブ・ダイヤモンズ》

1910年、Mikhail Larionov、Natalia Goncharovaらが関わった《Jack of Diamonds》展へ参加します。当時のモスクワ前衛は、フランスのCézanne、Matisse、Picassoなど西欧近代美術を吸収しつつ、ロシアやウクライナの民衆版画、看板、イコン、農民装飾など「高級美術」の外側にある視覚文化にも注目していました。

マレーヴィチは農民を太く単純化した身体で描き、洗練されたアカデミック絵画とは異なる造形を作ります。この新原始主義的な段階で、すでに人体は個人の肖像ではなく、大きな円筒や円錐に近い構造へ変換され始めていました。

1912年、《ロバの尻尾》と独自のロシア前衛

1912年、Larionovらの《Donkey’s Tail》に参加します。西欧のCubismやFuturismをただ模倣するのではなく、地域の民衆文化と接続した独自の前衛を作ろうとする動きでした。

この時期の《The Woodcutter》《The Knife Grinder》《Woman with Pails》などでは、農民や労働者の身体が円筒、円盤、繰り返しの平面へ分解されます。フランスCubismの多視点的な分解と、Italian Futurismの速度・反復を合わせたような造形から、「Cubo-Futurism」と呼ばれる段階へ進みました。

1912–13年、《Woman with Pails》

MoMA所蔵《Woman with Pails: Dynamic Arrangement》では、女性が水桶を運ぶ日常的な場面が、金属的な円筒や円弧、平面の組み合わせへ変換されています。人物の身体と背景の機械的な形が互いに入り込み、「誰を描いたか」より動きと構造が主役になります。

まだ具象的な題名を持ちながら、物体を幾何学的単位へ分解して再構成する方法は、数年後のシュプレマティスムへ直接つながる重要な段階でした。

1913年、《Samovar》

《Samovar》ではロシアの家庭で使われる湯沸かし器が、複数の視点から見た金属的な形へ分解されます。MoMAの所蔵記録によれば1913年に制作され、同年のUnion of Youth展、1914年Salon des Indépendantsなどにも出品されました。

ここでは物そのものがまだ出発点です。しかし形の断片が画面全体へ散らばり、どこまでがサモワールでどこからが周囲の空間なのかが曖昧になります。対象を壊して再構成するCubo-Futurismから、対象そのものを手放すまでの距離は急速に縮まっていました。

1913年、未来派オペラ《太陽の征服》

1913年、Aleksei Kruchenykhの台本、Mikhail Matyushinの音楽による未来派オペラ《Victory over the Sun(太陽の征服)》の舞台装置と衣装を担当しました。V&Aは、この舞台のための白黒の幾何学的背景図案に、後の《黒の正方形》を予告する正方形が現れていると説明しています。

物語自体も、太陽を捕らえ、従来の自然秩序を破壊し、新しい人工的・機械的世界を作るという未来派的な内容でした。意味を超えた「zaum」言語、機械的な衣装、幾何学的な舞台が組み合わされ、既存の現実表現を破壊する総合的な実験となりました。

1913–14年、アロジスム

《An Englishman in Moscow》のような作品では、人物、魚、梯子、蝋燭、文字など、本来つながらない要素を同じ画面へ置きます。Stedelijk Museumはこの時期を「alogical」と説明し、物と形が通常の現実関係から切り離され、非論理的に重ねられることが、シュプレマティスムへの一歩になったとしています。

ここで重要なのは、対象を単純に幾何学化することだけではありません。「絵には理解可能な物語が必要」という関係そのものを壊しています。外界の物を描いていても、それらが意味のある現実空間を作らない。対象を描かない絵画へ移るために、まず対象同士の論理を解体しました。

1915年春、シュプレマティスムを構想

Tretyakov Galleryは、1915年春からマレーヴィチがシュプレマティスムの概念を本格的に発展させたとしています。黒い正方形、円、十字、長方形などの基本形を白い地の上へ配置し、外界の対象を表す役割から絵画を解放しようとしました。

同年、論文《From Cubism and Futurism to Suprematism: The New Painterly Realism》を発表します。「Suprematism」は「至上」「最高」を意味する語から作られ、後に本人は「絵画芸術における純粋な感覚の優位」と説明しました。

1915年12月、「最後の未来派絵画展 0.10」

1915年12月19日、Petrogradで《The Last Futurist Exhibition of Paintings 0.10》が開幕します。Tretyakov Galleryによれば、14人が参加し、マレーヴィチは39点を出品しました。ここで《黒の正方形》を含む一連のシュプレマティスム作品を初めてまとまった形で公開しました。

《黒の正方形》は、部屋の二つの壁が接する高い「赤い角」に掛けられました。これはロシア正教圏の家庭でイコンを置く伝統的な位置です。宗教画を描いたのではありませんが、新しい絵画の出発点を「イコン」の場所へ置くことで、単なる一枚の抽象画以上の宣言として機能しました。

1915年、《黒の正方形》

最初の《Black Suprematist Square》は79.5×79.5センチの油彩画で、現在Tretyakov Galleryに所蔵されています。黒は完全に機械的な正方形ではなく、縁はわずかに不均一で、現在は表面に大きな亀裂が生じています。

この作品を「何も描いていない」と理解するだけでは十分ではありません。マレーヴィチは正方形を「ゼロの形」と考え、そこから新しい形が生まれる起点としました。MoMA所蔵の1920年刊《Suprematism: 34 Drawings》では、正方形を感覚、白い背景を無対象の空間と結びつけています。ゼロは終わりであると同時に、新しい体系を始めるための基準点でした。

1915–16年、図形が白い空間を動き始める

《Suprematist Composition: Airplane Flying》《Painterly Realism of a Boy with a Knapsack》《Supremus No. 56》などでは、正方形一つから多数の長方形、台形、線、色面へ展開します。MoMAは、これらの平面が引き伸ばされ、回転し、重なりながら、白い背景を無限の空間として作ると説明しています。

題名には「飛行機」「少年」「ナップサック」など現実の言葉が残ることがあります。しかし画面上には飛行機も人物も描かれていません。題名が対象を説明するのではなく、幾何学形態が重力から解放され、飛行する感覚を示すための補助線になっています。

1916–17年、動的シュプレマティスム

1916年以降、形態はより細長く、斜めに傾き、複雑に組み合わされます。静止した黒い正方形から、色面同士が押し合い、離れ、回転する「動的」な空間へ進みます。

この時期の絵画を見ると、Suprematismが「正方形を描く運動」ではないことが分かります。正方形は最小単位の一つであり、重要なのは重力も遠近法もない白い空間の中で、形がどのような関係を作るかでした。

1917年、革命と芸術

ロシア革命後、マレーヴィチは新しい社会を支持し、文化行政や教育に関わりました。MoMAは、1917年革命を支持した彼が、UNOVISを通してシュプレマティスムのデザインを実用品や街路装飾へ拡張したことを記録しています。

ただし、革命とSuprematismを「共産主義の公式芸術」と同一視することはできません。マレーヴィチの無対象芸術には独自の精神的・宇宙論的思想があり、実用性を重視するConstructivistsとは後に対立します。革命直後には共通した制度改革へ参加しながら、芸術の目的については大きく異なっていました。

1918年、《白の上の白》

《Suprematist Composition: White on White》では、少し青みを帯びた白地の上に、わずかに温かい白の四角形が傾いて浮かびます。MoMAは、色彩という絵画の最後の要素さえ極限まで減らした作品として位置づけています。

しかし、完全な「無」ではありません。二つの白は微妙に異なり、筆触は見え、正方形は中心からずれて傾いています。色彩差が小さくなったことで、表面、輪郭、位置、重力感の差が逆に敏感に見えるようになります。抽象の消滅というより、絵画の最小条件をさらに探った作品です。

1919年、ヴィテブスクへ

1919年、Marc Chagallが関わっていたVitebsk Art Schoolへ招かれます。そこでEl Lissitzkyを含む若い学生・作家へ強い影響を与え、1920年にはUNOVIS(Utverditeli Novogo Iskusstva/新芸術の肯定者)を組織しました。

UNOVISでは個人名より集団的な活動を重視し、黒い正方形をグループの記号として使いました。Suprematismは一人の画家のカンヴァスから、ポスター、印刷物、陶器、街路装飾、建築構想へ移っていきます。

1920年、《Suprematism: 34 Drawings》

1920年、Vitebskで《Suprematizm. 34 risunka(Suprematism: 34 Drawings)》を出版しました。MoMA所蔵本は約100部の版とされ、UNOVISが出版に関わっています。

この時期、マレーヴィチは新しい絵画を大量に制作するより、理論、教育、図解、建築的展開へ比重を移しました。Suprematismを個々の絵画様式から、世界と空間を考える総合的な体系へ広げようとしていました。

1922年、ペトログラードへ

Vitebskを離れた後、学生たちとPetrogradへ移ります。1923年からInstitute of Artistic Culture(GINKhUK)で活動し、やがて同研究所の指導的立場を担います。

ここで平面上のSuprematismを立体へ展開し、「architecton」と呼ぶ白い石膏模型を制作しました。絵画の正方形に対応する基本単位として立方体を使い、実際の建物の設計というより、重力や用途から自由な新しい建築空間のモデルを考えます。

1923年、《Gota》とアルヒテクトン

Centre Pompidouが所蔵する《Gota》は、1923年の模型を1978年に残存する原部材と写真資料から再構成したものです。大きな直方体を中心に小さな直方体が階段状に積み上がり、近代の高層建築を思わせます。

Centre Pompidouは、これらを絵画の三次元的展開であり「ユートピア的モデル」と説明しています。機能や住みやすさを出発点とする通常の建築設計とは違い、Suprematistな空間関係を立体として検討しました。絵画の白い無限空間が、建築模型の白い量塊へ変換されています。

1926年、GINKhUK閉鎖

1926年、Leningradskaia Pravda紙に研究所を「国家の費用による修道院」と批判する攻撃的な記事が掲載され、その年末にGINKhUKは閉鎖されます。革命直後に文化制度の改革へ参加した前衛芸術は、1920年代半ば以降のソビエト文化政策の変化の中で次第に活動範囲を失いました。

Malevich Societyは、この閉鎖を彼の制度的基盤が崩れていく重要な転機として記録しています。

1927年、ワルシャワとベルリン

1927年、ソ連国外へ旅行し、まずWarsawで個展を開催し、続いてBerlinのGroße Berliner Kunstausstellung内で大規模な展示を行いました。Bauhausも訪問し、理論書《Die gegenstandslose Welt(The Non-Objective World/無対象の世界)》がBauhausbücher第11巻としてドイツ語で刊行されます。

しかしソ連へ急遽呼び戻されたため、多数の絵画、素描、建築模型、原稿をドイツに残しました。MoMAの来歴調査によれば、約70点をBerlinへ持参し、帰国後に回収することはありませんでした。この作品群が後に西欧の美術館へ入り、Suprematismが国際的に知られる重要な経路になります。

1928–29年、第二次農民連作

帰国後、マレーヴィチは再び人物や農民を描き始めます。《Girls in a Field》《Head of a Peasant》《Female Torso》などでは、人体は再現的になったものの、顔は無表情あるいは完全に消え、服や背景はSuprematistな色面へ変換されています。

Russian Museumは、この時期を「Second Peasant Cycle」と呼び、Suprematismの非物質的な空間と具象的人体を結びつけた「Post-Suprematist」な段階として説明しています。したがって、国家の圧力を受けて単純に写実へ「後退」したと考えるだけでは不十分です。

1929年、Tretyakov Gallery個展と《黒の正方形》再制作

1929年、Tretyakov Galleryで個展が開催されます。1915年版《黒の正方形》はすでに亀裂が進み展示が難しくなっていたため、同館の記録によれば、マレーヴィチはほぼ同寸の新しい《黒の正方形》を制作しました。

同じ「作品」を異なる時点で描き直すことは、Black Squareが唯一の物質的な一枚以上の意味を持っていたことを示します。実際、現在知られている《黒の正方形》は4ヴァージョンあります。マレーヴィチ自身にとって正方形は、再現可能な基本記号であると同時に、自らの芸術史を象徴する「ゼロ」でした。

1930年、逮捕

1930年前後、ソビエト当局はドイツの芸術家・知識人との接触を問題視し、マレーヴィチを逮捕しました。Museo Thyssen-Bornemiszaは、ドイツとの関係を理由に1930年頃から政権との問題が強まり、逮捕後ほどなく釈放されたと記録しています。

1930年代にはSocialist Realismが公式な文化方針として強まり、非具象芸術の公的な場所は狭くなります。ただし、晩年の制作を「政府に命令されて仕方なく具象へ戻った」と一つの原因に還元するのも危険です。農民像や肖像には、1910年代初頭の主題とSuprematismの構造を自ら再統合する意図も見えます。

1930–32年、顔のない農民

Russian Museum所蔵《Peasant》では、人物は正面を向いて立ちながら顔の特徴を失っています。身体は赤、白、黒などの単純な色面へ分けられ、背景の土地も帯状に整理されています。

こうした「half-images」は、古代彫刻、木製玩具、マネキン、イコンなどを思わせるとRussian Museumは説明しています。個人の心理を描く肖像ではなく、「人間」という型そのものが記号化されています。

1932年頃、《Red Cavalry》

《Red Cavalry》では広大な横長の風景の中を、小さな赤い騎馬隊が横切ります。Russian Museumの解説は、無限の空間の安定と赤い騎手の脆さを対比し、黙示録的騎手か、世界革命の不可避性を示す像かという複数の読みを提示しています。

画面は具象風景へ戻っているようでいて、土地と空はほぼ水平な色帯です。Suprematismで獲得した平面構成が、再び物語的イメージへ埋め込まれています。

1933年、《Self-Portrait (Artist)》

晩年の《Self-Portrait》では、自分自身をイタリア・ルネサンスの君主やヴェネツィアのDogeを思わせる衣装で描きます。Russian Museumは、顔の表情より威厳ある姿勢と、イコンの聖人像を思わせる手のジェスチャーを強調しています。

画面右下には、署名の代わりのように小さな黒い正方形を置きました。つまり最晩年に具象肖像へ戻っても、《黒の正方形》は過去に捨てた様式ではありません。人物画とSuprematismが同一画面に共存しています。

1935年、レニングラードで死去

1935年5月15日、Leningradで死去しました。ロシア美術館は現在、絵画101点、50点以上のグラフィック、2点のarchitecton、応用芸術作品を所蔵する世界最大規模のMalevichコレクションを持っています。

一方、1927年にGermanyへ残された作品群は、Stedelijk MuseumやMoMAなど西欧・米国のコレクションへ入りました。ソ連国内で非具象作品が長く公に展示されにくかった時期に、西側に残った作品群がMalevichの国際的な評価を維持する大きな役割を果たしました。

キーウとウクライナの農村――原点としての農民文化

Malevichの国籍表記は現在も美術館ごとに異なります。MoMAは「Russian, born Ukraine」、Metropolitan Museumは「Ukrainian」、Russian Museumはロシア・ソビエトの前衛作家として扱い、British Museumは複数の帰属を併記しています。これは単純な表記ミスではなく、彼の生涯が複数の帝国・国家・文化圏にまたがったためです。

幼少期のUkraineの農村文化は、1910年代の農民像と晩年のSecond Peasant Cycleの両方に現れます。SuprematismをParis Cubismだけから生まれた幾何学的抽象として理解すると、この土着的な視覚文化の層が抜け落ちます。

モスクワ――印象主義から新原始主義へ

20世紀初頭のMalevichは、印象主義、象徴主義、Fauvismに近い色彩、新原始主義などを短期間で試しました。1990年のNational Gallery of Art回顧展も、Impressionism、Symbolism、Neo-Primitivism、Cubo-FuturismからSuprematism、晩年の具象までを一つのキャリアとして構成しています。

農民像では、洗練された遠近法や肉体描写を避け、太い輪郭、単純な形、大胆な色を使います。民衆版画やイコンを参照しながら都市の前衛芸術へ持ち込むことで、「高級美術/民衆文化」という序列そのものを揺さぶりました。

キュボ・フューチュリズム――身体を機械へ変える

Cubo-Futurismでは、対象を複数の面へ分解するCubismと、速度、機械、時間を扱うFuturismが結びつきます。Malevichはこれを農民や日用品へ適用しました。《Woman with Pails》では農民の身体が機械部品の反復へ変わり、《Samovar》では家庭用品が金属的な面へ分裂します。

対象の分解が進むと、幾何学形態そのものが対象より強くなります。SuprematismはCubo-Futurismを突然否定して生まれたのではなく、対象を分解し続けた結果、対象がなくても形同士の関係だけで絵画を成立させられるという地点へ進んだものと考えられます。

《太陽の征服》――舞台から正方形へ

1913年の《Victory over the Sun》では、詩、音楽、身体、舞台美術が共同制作されました。V&Aは、Malevichの白黒の舞台デザインに《Black Square》へつながる幾何学構成が現れているとしています。

オペラでは未来人が太陽を捕らえ、自然の旧秩序を終わらせます。これはSuprematismそのものの理論ではありませんが、「自然の模倣から離れる」という次の段階を象徴的に先取りしました。

アロジスム――意味のつながりを壊す

《An Englishman in Moscow》では、人物の顔に魚が重なり、梯子、蝋燭、文字などが不可解に並びます。一つ一つの物は認識できますが、全体として論理的な場面を作れません。

Stedelijk Museumは、この「alogical period」がSuprematismへ進む最初の段階だったと整理しています。対象を消す前に、対象が「意味を伝える」という役割を壊しました。

1915年、《黒の正方形》

黒い四角と白い余白しかなければ、物語、人物、風景、遠近法、技巧的な描写に注意を向けることができません。残るのは黒と白の対立、形の位置、表面、絵具、カンヴァスです。

Malevichはこれを「zero of form」と考えました。何もないゼロではなく、既存の具象芸術を一度ゼロへ戻し、そこから新しい造形を始めるゼロです。実物は完全な機械的正方形ではなく、手で塗られ、現在は大きな亀裂が走っています。理念の純粋さと絵画物質の不均一さが同居しています。

「0.10」展――シュプレマティスムの公開

《Black Square》だけを単独で見ると、黒い正方形一枚がSuprematismのすべてのように感じられます。しかし0.10展でMalevichは39点を密集して展示しました。黒い正方形、円、十字、単色の長方形、複数色の動的構成が同じ部屋に並びます。

正方形は「最終作品」ではなく、そこから多様な形態が派生する起点でした。ゼロまで減らすことと、ゼロから増やすことが同時にあります。

シュプレマティスム――「純粋な感覚の優位」

正方形、円、十字、長方形という形から、厳密な数学的体系を連想しやすくなります。しかしMalevichが強調したのは「pure feeling」でした。物を描写する役割から色と形を解放し、それ自体が見る者へ作用する状態を作ります。

白地も空白ではありません。MoMAはMalevichが白を無限の空間と考えたと説明しています。遠近法で奥行きを描くのではなく、形の周囲に白を広げることで、図形が重力から切り離されて浮いて見えます。

マレーヴィチの作品をどう見るか

《黒の正方形》を「誰でも描ける」で終わらせず、1915年にそれを絵画として成立させるまでの農民画、Cubism、Futurism、舞台、alogical paintingの過程を見ます。作品単体の制作難度より、「何を絵画として認めるか」という歴史的な変更が重要です。

Suprematist paintingでは色面だけでなく白い空間を見ます。形と形の間にどの程度の白があり、どちらへ傾き、どの方向へ動いて見えるかを追います。また実物には筆触と輪郭の揺れが残るため、デジタルな幾何学図形のように平滑な作品だと思わないことも重要です。

晩年の人物画も単純な「後退」と決めつけない方がよいでしょう。政治的圧力は重要な背景ですが、《Girls in a Field》や《Self-Portrait》はSuprematistな色面、イコン的構成、初期農民主題を組み合わせ、自分の複数の過去を再編集しています。

主要作品

キュボ・フューチュリズム期の《Woman with Pails》と《Samovar》から、アロジスムを経た《Black Square》、1915–18年のシュプレマティスム、白一色へ向かう《White on White》、1920年代の立体的展開《Gota》、そして晩年の農民像と《Self-Portrait》まで、マレーヴィチの制作が「具象→抽象」の一方向だけではなく、対象・無対象・建築・人物を往復したことが分かる11点を選びました。生年・制作年には資料間の異同があるため、作品年は各所蔵館の最新記録を優先しています。

水桶を持つ女:動的配置

Woman with Pails: Dynamic Arrangement / 1912–1913(裏面に1912) / 油彩・カンヴァス / 80.3 × 80.3 cm

The Museum of Modern Art, New York

農民女性が水桶を運ぶ場面を、円筒、円弧、平面の反復へ分解したキュボ・フューチュリズム期の代表作。人物はまだ題名に残っていますが、身体と周囲の空間が機械的な構造へ接近しています。MoMAの来歴記録では、1927年にMalevichがBerlinへ持参し、そのままGermanyに残した約70点の一つで、後にMoMAへ入った作品群の重要作でもあります。

所蔵館の作品情報 ↗

サモワール

Samovar / 1913 / 油彩・カンヴァス / 88.5 × 62.2 cm

The Museum of Modern Art, New York

ロシアの家庭用湯沸かし器を、複数の金属的な面と曲線へ分解したキュボ・フューチュリズム作品。1913年Union of Youth展、1914年Salon des Indépendants、1915年Tramvai Vにも出品されました。対象の形が画面全体へ拡散し、具象的物体から独立した幾何学形態へ向かう過渡期を示します。

所蔵館の作品情報 ↗

黒のシュプレマティスム正方形

Black Suprematist Square / 1915 / 油彩・カンヴァス / 79.5 × 79.5 cm

The State Tretyakov Gallery, Moscow

1915年12月の《0.10》展で初公開されたシュプレマティスムの中心作。展覧会では39点のMalevich作品の上方、宗教イコンを置く「赤い角」に掲げられました。Malevichが「zero of form」と位置づけた正方形は、具象絵画を一度ゼロへ還元し、新しい無対象絵画を始める基点でした。現在知られるBlack Squareは4ヴァージョンありますが、本作が最初の1915年版です。

所蔵館の作品情報 ↗

シュプレマティスム・コンポジション:飛行する飛行機

Suprematist Composition: Airplane Flying / 1915(裏面に1914) / 油彩・カンヴァス / 57.3 × 48.3 cm

The Museum of Modern Art, New York

黄色、赤、黒などの長方形が白地の上を斜めに浮遊する初期シュプレマティスム作品。飛行機そのものは描かれておらず、「飛行」は形態が重力から離れた感覚として示されます。MoMAは、白地を無限の理想空間、色面をその内部で伸び、回転し、重なる要素として説明しています。

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ナップサックを背負う少年の絵画的リアリズム――第四次元の色彩量

Painterly Realism of a Boy with a Knapsack – Color Masses in the Fourth Dimension / 1915 / 油彩・カンヴァス / 71.1 × 44.5 cm

The Museum of Modern Art, New York

白地に赤と黒の二つの四角形だけを置いた作品。題名には「少年」「ナップサック」という具象的な語が残りますが、人物像は存在しません。Malevichがシュプレマティスムを「new painterly realism」と呼んだ理由がよく表れ、外界を再現する代わりに色と形そのものを新しい現実として扱っています。

所蔵館の作品情報 ↗

シュプレマティスム(Supremus No. 56)

Suprematism (Supremus No. 56) / 1916 / 油彩・カンヴァス / 71 × 80.5 cm

The State Russian Museum, St. Petersburg

多数の色面が斜め方向へ重なり、回転・上昇するような動きを作るDynamic Suprematismの代表作。最初のBlack Squareの静的な集中から、色と形の関係が複数方向へ展開する段階を示します。Russian MuseumはMalevich最大規模のコレクションを所蔵し、本作はそのシュプレマティスム期の主要作です。

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シュプレマティスム絵画

Suprematist Painting / 1916–1917 / 油彩・カンヴァス / 97.8 × 66.4 cm

The Museum of Modern Art, New York

細長い黒・赤・青・黄色などの色面が、白い空間を異なる方向へ移動するように配置された作品。幾何学形態を均等な格子へ固定せず、傾き、距離、重なりによって重力のない動的空間を生みます。1927年Berlinに残され、後にMoMAへ入った作品の一つです。

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シュプレマティスム・コンポジション:白の上の白

Suprematist Composition: White on White / 1918 / 油彩・カンヴァス / 79.4 × 79.4 cm

The Museum of Modern Art, New York

少し青みを帯びた白地に、わずかに温かい白の正方形を傾けて置いたシュプレマティスムの極限的作品。MoMAは、色彩という絵画の要素をほぼ取り除きながら、筆触、白の差、輪郭、傾きによって無限空間と浮遊感を作る作品と説明しています。「何もない」のではなく、差を最小化することで表面と空間への感覚を最大化しています。

所蔵館の作品情報 ↗

色と重力――図形はなぜ浮いて見えるのか

ルネサンス以来の遠近法では、線を一点へ収束させたり、手前を大きく奥を小さくしたりして奥行きを作ります。Suprematismではそのような空間をほぼ使いません。代わりに、白い場の中で形の大きさ、傾き、重なり、間隔を変えます。斜めに置かれた細長い長方形は進んでいるように見え、小さな色面は遠く、大きな面は近く感じられる場合があります。奥行きを描写するのではなく、知覚上の「力」で空間を作っています。

MoMAはMalevichが航空技術や航空写真に関心を持っていたことを《White on White》の解説で指摘しています。地上の通常の上下関係から離れ、空中から世界を見る経験は、重力のないSuprematist空間と親和性を持ちました。《Airplane Flying》という題名も、飛行機そのものを描くのではなく、形態が「飛ぶ」という感覚へ注意を向けます。

《白の上の白》――抽象の終点ではなく次の段階

1915年には黒と白の最大の対比を使い、1918年には白と白の最小の対比へ進みました。これを「何もなくなった」と考えると、Malevichがその後建築模型へ進んだ理由が見えにくくなります。色差がほとんど消えると、白い形の傾き、表面の筆触、わずかな色温度の差が強く意識されます。絵画の物質的表面と無限空間のイメージが同時に現れます。

1919年に公開された文章でMalevichは、色彩の空を乗り越え、白い自由な深淵へ泳ぎ出すというイメージを使いました。MoMAは《White on White》を、当時の革命後の解放感とも関係する作品として説明しています。ただし、政治革命と白い絵画を一対一で対応させる必要はありません。美術上の「対象からの解放」と社会変革への期待が、同じ時代のユートピア的想像力の中で重なっていました。

1917年革命――前衛と新社会

1917年以後、Malevichを含む多くの前衛芸術家が教育、文化行政、祝祭装飾、出版などへ参加しました。旧帝政下の芸術制度が崩れ、新しい社会の造形を作れるという期待がありました。Malevichも文化教育行政に関わり、Suprematistな造形を公共空間や応用芸術へ拡張します。

しかしSuprematismとConstructivismを同じ「革命的幾何学」としてまとめることはできません。Tatlin、Rodchenkoらが生産、工業、実用性へ強く向かったのに対し、Malevichは芸術を実用品へ完全に従属させることへ抵抗しました。彼にとって無対象芸術は、物質的生産だけでは説明できない感覚・精神・宇宙的空間を扱うものでした。

ヴィテブスクとUNOVIS――個人の作品から集団の造形へ

1919年、MalevichはVitebsk Art Schoolへ招かれます。Marc Chagallが築いた学校で、El Lissitzky、Nikolai Suetin、Ilya Chashnikら若い作家・学生が集まりました。Malevichの到着後、Suprematismは学校内で急速に影響を広げます。

1920年に組織されたUNOVISでは、作品を個人名で署名せず黒い正方形を記号として使用することもありました。Malevichの同年の文章には「On ‘I’ and the Collective」という題名もあります。一人の天才作家の個性を中心に置く近代芸術から、集団で新しい造形環境を作る方向へSuprematismを広げようとしました。

UNOVISはポスター、建物、路面電車、祝祭装飾などへ幾何学形態を展開しました。MoMAはSuprematist designsがVitebskの街路装飾や応用芸術へ使われたことを記録しています。絵画の中にある赤い正方形が、そのまま都市の壁面へ移動します。

絵画の外へ――本、街路、陶器、教育

Malevichは1910年代から未来派の詩人たちと本を制作し、1920年代にはSuprematist理論を図版と文章で出版しました。《Suprematism: 34 Drawings》では、形の展開を図解しながら理論を流通させます。絵画は一点物ですが、本は複数作れます。新しい視覚言語を教育・出版を通して広げることが重要になりました。

Suprematistな形態はティーポットやカップなどにも応用されました。ただし、Malevichの応用芸術は「便利で大量生産しやすいデザイン」だけを目標にしていません。実用物の形そのものを不安定にし、日常生活の中へ非対称な幾何学を入れることで、機能と造形の関係を再考しました。

アルヒテクトン――シュプレマティスムを建築へ

Suprematist paintingで正方形が基本単位だったように、architectonでは白い直方体・立方体が基本単位になります。複数の量塊を積み、ずらし、突き出し、空間的な関係を作ります。Centre Pompidouは、これを「絵画の三次元的展開」と説明しています。

《Gota》は高層建築を思わせますが、窓、入口、階段、部屋など具体的な機能は示されません。Malevichは建築を実用性から解放した純粋な空間活動として考えました。これは実際の住宅を設計するModernist architectsとは異なる立場です。

多くのoriginal architectonsは完全な状態では残りませんでした。Centre Pompidouの《Gota》は、1978年に約800個の残存石膏部材と歴史写真をもとにPoul Pedersenが再構成したものです。そのため現在見る《Gota》は「1923年の模型そのもの」と「後世の再構成」の両方を含みます。

1927年、ワルシャワとベルリン――西欧へ残された作品群

1927年、WarsawとBerlinでMalevichの作品が大規模に公開されました。Berlinでは初期、Cubo-Futurism、Suprematism、architectonを含む長い制作が紹介され、西欧の美術家たちが彼の仕事を直接見る重要な機会になります。

MalevichはBauhausを訪問し、理論書《Die gegenstandslose Welt》がBauhausbücher第11巻として刊行されました。Metropolitan Museumの書誌記録も、原版がMunichで1927年に出版されたことを示しています。

ソ連へ急遽戻ることになったMalevichは、約70点をGermanyへ残しました。MoMAの来歴記録では、Hugo Häring、HannoverのAlexander Dornerらが作品を保管し、Nazis政権下では破壊を避けるため収蔵庫へ移されました。Malevichは二度と回収できず1935年に死去しますが、この偶然によって作品が西側に残り、MoMAやStedelijk Museumなどを通して戦後西欧・アメリカにSuprematismが紹介されました。

制度との衝突――研究所閉鎖と逮捕

1917年直後には新体制の文化建設へ参加したMalevichですが、1920年代後半には抽象芸術が次第に政治的に疑われるようになります。National Gallery of Artの1990年回顧展資料は、1920年代初頭からSuprematistsと写実的社会主義芸術を求める勢力との対立が強まり、1920–27年には絵画制作自体が減ったとしています。

GINKhUKは「国家予算で支える閉鎖的な修道院」のようなものだと新聞で攻撃され、1926年末に閉鎖されました。さらに1927年Germany旅行後の国際的な接触も疑いの対象となり、1930年にMalevichは逮捕されます。ほどなく釈放されましたが、国際前衛と自由に交流できた1910–20年代の環境は終わりつつありました。

晩年の人物像――抽象から「戻った」のか

《Girls in a Field》では農民の身体が再び現れますが、顔は単純化され、服は赤、青、黄、白の幾何学面へ分割されています。背景の畑も遠近法的な風景ではなく、色帯の構成です。具象的対象を復活させながら、その内部にSuprematistな造形を保持しています。

Russian Museumは1928–29年の農民画を、Suprematismの非物質性と具象を融合する段階として説明しています。《Girls in a Field》の裏面には「1912」と過去へ遡る日付と、「Supranaturalism」という独自の語まで記されています。これは単に昔の作品をコピーしたのではなく、自分の初期農民画をSuprematismを経た後の視点から作り直す試みでした。

第二次農民連作――顔のない身体

《Peasant》《Female Torso》《Girls in a Field》の人物は、特定個人の表情を描きません。顔を完全に空白にした作品さえあります。顔を消すことで、人物は「誰か」より農民・人間そのものの記号に近づきます。Suprematismで外界の対象を基本形へ還元した方法が、人体へ戻ってきたとも考えられます。

1920年代末から1930年代初頭のソビエト農村は、強制的な集団化と急激な社会変革を経験していました。Russian Museumの解説も、《Head of a Peasant》について、失われつつある農民世界の運命と結びつける解釈を提示しています。ただし各人物を具体的な歴史事件の直接的な図解と断定するより、Malevich自身の幼少期からの農民文化への関心と、当時の社会的危機の両方が重なる作品として見る方が慎重です。

《自画像》――ルネサンスと黒い正方形

1933年の《Self-Portrait (Artist)》は、Suprematismの創始者がRenaissance paintingを思わせる格式ある肖像形式へ戻ったように見えます。しかしこれは古典への全面降伏ではありません。人物は歴史的衣装をまとい、手はイコン的ジェスチャーを示し、右下には小さな黒い正方形が置かれています。

黒い正方形は1915年の一作品から、Malevichという作家そのものを示す記号になっています。具象人物画の右下へ正方形を置くことで、晩年の自分とSuprematismを断絶させません。古典、イコン、前衛を同じ自画像に接続しました。

作品年代を書き換える――自分の歴史を作る

Malevichの作品研究を難しくする大きな問題が、本人によるbackdatingです。《Girls in a Field》は1928–29年制作ですが、裏面に1912年と記されています。MoMA所蔵作品にも制作年と裏面年記が異なる例があります。

Malevichは後年、Suprematismの起源を1913年《Victory over the Sun》へ遡らせました。そのため古い文献や展覧会では《Black Square》を1913年とする場合があります。現在、最初の油彩《Black Square》は1915年制作としてTretyakov Galleryが扱っています。一方、1913年の舞台デザインにはその形を予告する構成が存在します。「アイデアの誕生」と「絵画作品の制作」を区別する必要があります。

西欧への影響と作品の生存

VitebskでMalevichに接したEl Lissitzkyは、SuprematismをProunへ展開し、絵画と建築の間にある空間構成を作りました。その活動はGermanyやBauhausへつながります。MoMAはMoholy-Nagyの《Q 1 Suprematistic》について、1922年のFirst Russian Art Exhibition in Berlinがロシア前衛を西欧へ紹介し、Malevichの考えがBauhausへ取り込まれたと説明しています。

1927年Berlinに残された作品群は、後にStedelijk Museum AmsterdamとMoMAなどへ入りました。StedelijkはMalevich作品とKhardzhiev Collectionを通してロシア前衛研究の主要拠点になっています。ソ連国内では公開が限られた一方、西側では国外に残った作品が巨大な影響力を持つという特殊な受容史が生まれました。

Malevich自身が《Black Square》を複数制作したことも重要です。Tretyakov Galleryは現在4ヴァージョンが知られているとしています。同じ形を描き直すことで、正方形は一枚の絵の固有イメージから、再現可能な記号へ変化しました。

マレーヴィチは何を変えたのか

第一に、Cubismの「対象を分解する抽象化」からさらに進み、最初から外界の対象を必要としない絵画を体系として作りました。幾何学的抽象には同時代の複数の先駆がありますが、正方形、円、十字、色面をnonobjective artの体系として理論化し、展覧会、文章、教育を通して継続的に展開したことがSuprematismの大きな歴史的意味です。

第二に、絵画の「ゼロ」を終点ではなく出発点にしました。《Black Square》は絵画を極端に減らしていますが、その後、《Airplane Flying》、複雑なSuprematist compositions、《White on White》、architectonsへ拡張しました。削減と増殖が同じ体系の中にあります。

第三に、白い余白を無限空間へ変えました。伝統絵画の背景は物が置かれる場所でしたが、Malevichの白地では、対象の代わりに色面そのものが浮遊します。背景/図という序列を変え、空白を積極的な空間として扱うことは、その後の幾何学的抽象、Constructivism、Minimal Art、デザインへ大きな影響を与えました。

第四に、Suprematismをカンヴァスだけで終わらせませんでした。UNOVISの出版、街路装飾、陶器、architectonsを通して、図形を生活環境へ拡張します。作品を一つの美術ジャンルに閉じず、視覚言語が社会の空間全体を変え得るという20世紀前衛の野心を代表しています。

そして晩年には、抽象画家として完成して終わるのではなく、農民と人物を再び描き、自作を遡及的に年代付けし、古典絵画とSuprematismを一つの自画像へ組み込みました。そのためMalevichのキャリアは「具象→抽象」という進化史だけでは説明できません。前進、反復、回帰、再記述を含めて、自分の造形体系そのものを生涯にわたり作り直した作家でした。

略年譜

1879
2月23日、Russian EmpireのKyivに生まれる。両親はPolish系Catholic。幼少期をUkraineの製糖地域・農村部で過ごす。旧来の文献には1878年生まれの表記も残る。
1895–1896頃
Kyivで美術教育を受ける。農民文化、民衆装飾、刺繍などへの関心を深める。
1900年代前半
Moscowへ移り、Fyodor Rerbergのstudioなどで学ぶ。Impressionism、Symbolism、Post-Impressionismなど複数の様式を試す。
1907
Moscow Fellowship of Artistsなどの展覧会へ参加し、本格的な発表活動を開始。
1910
《Jack of Diamonds》展へ参加。Mikhail Larionov、Natalia Goncharovaらと交流し、Neo-Primitivismへ接近。
1911–1912
農民や労働者の身体を単純化した作品を制作。《Donkey’s Tail》などに参加。CubismとFuturismを結びつけるCubo-Futurismを展開。
1912–1913
《Woman with Pails: Dynamic Arrangement》制作。農民の身体を機械的・幾何学的な構造へ変換。
1913
《Samovar》制作。Aleksei Kruchenykh、Mikhail MatyushinらのFuturist opera《Victory over the Sun》の舞台・衣装を担当。後のBlack Squareを予告する幾何学的舞台図案が現れる。
1913–1914
《An Englishman in Moscow》などAlogical worksを制作。対象間の通常の論理関係を解体。
1915春
Suprematismの理論と絵画を本格的に展開。《From Cubism and Futurism to Suprematism: The New Painterly Realism》を刊行。
1915年12月
Petrograd《The Last Futurist Exhibition of Paintings 0.10》で39点を展示。《Black Square》を部屋のicon cornerに置き、Suprematismを公に提示。
1915–1916
《Airplane Flying》《Painterly Realism of a Boy with a Knapsack》《Supremus No. 56》など、色面が白い空間を浮遊する作品を展開。
1916–1917
斜めの細長い色面が複雑に動くDynamic Suprematismへ。Supremus誌を計画するが刊行には至らず。
1917
Russian Revolution後の文化行政・教育活動へ参加。非具象芸術を新社会の造形へ拡張しようとする。
1918
《Suprematist Composition: White on White》などWhite on White series。色彩の対比を極限まで減らす。
1919
MoscowのTenth State Exhibition《Nonobjective Creation and Suprematism》に参加。Vitebsk Art Schoolへ招かれる。
1920
VitebskでUNOVISを組織。《Suprematism: 34 Drawings》刊行。Black Squareを集団の記号として使い、出版・街路・応用芸術へSuprematismを拡張。
1922
Vitebskを離れ、学生とPetrogradへ移る。Museum of Artistic Cultureなどで活動。
1923
GINKhUKで研究を展開。白い石膏によるarchitecton《Gota》《Alpha》などの立体研究を開始。
1924–1925
Suprematist formsを建築・都市へ変換する研究を継続。《Houses of the Future: Pilot’s House》などを制作。
1926
Leningradskaia Pravdaの批判記事後、GINKhUKが年末に閉鎖される。
1927
Warsawで個展、BerlinのGroße Berliner Kunstausstellungで大規模展示。Bauhausを訪問。《Die gegenstandslose Welt》がBauhausbücher第11巻として刊行。急遽帰国し、多数の作品と資料をGermanyへ残す。
1928–1929
《Girls in a Field》《Head of a Peasant》《Female Torso》などSecond Peasant Cycle。Suprematistな色・形と具象人物を再統合。
1929
Tretyakov Galleryで個展。1915年版の劣化に対応し、ほぼ同寸の新しい《Black Square》を制作。
1930
Germanyとの国際的接触等を疑われて逮捕されるが、後に釈放。公的な前衛芸術の環境は急速に狭まる。
1930–1932
顔のない《Peasant》などPost-Suprematist figure paintingsを制作。人物を幾何学的記号へ近づける。
1932頃
《Red Cavalry》制作。水平な色帯の風景と小さな赤い騎馬隊を組み合わせる。
1933
《Self-Portrait (Artist)》制作。Renaissance/icon的肖像形式とBlack Squareの記号を同一画面へ置く。
1935
5月15日、Leningradで死去。
1936
MoMA《Cubism and Abstract Art》でMalevich作品が紹介され、西欧美術史・米国近代美術史の抽象系譜へ位置づけられる。
1950年代
1927年Berlinに残された作品の重要な一群がStedelijk Museum Amsterdamへ入り、同館がMalevich研究の主要拠点の一つになる。
1978
Centre Pompidouで残存部材と写真をもとにarchitectons《Gota》《Alpha》《Beta》などが再構成される。
1990–1991
National Gallery of Art、Hammer Museum、Metropolitan Museumを巡回する大規模回顧展《Kazimir Malevich 1878–1935》開催。
1999
MoMAのMalevich作品の取得についてEstateとの合意が成立し、1927年Berlin由来作品群の来歴・所有問題が再整理される。
2013–2014
Stedelijk Museum Amsterdam、Bundeskunsthalle Bonn、Tate Modernを巡回する大規模回顧展。初期から晩年、architectonsまでを包括的に再検討。
2015
《Black Square》公開100年。Tretyakov Galleryの科学調査や研究成果が改めて紹介される。
2017
Stedelijk MuseumのKhardzhiev Collection調査で《An Englishman in Moscow》の準備素描が発見され、Alogical period研究が進展。
2024–2026
Tretyakov Gallery、Russian MuseumなどでBlack Square、Suprematism、Russian Avant-Gardeに関する展示・講座・常設展示が継続し、生年や地域的背景を含む研究の更新が続く。

参考資料・出典

本ページはThe State Tretyakov Gallery、The State Russian Museum、The Museum of Modern Art、Centre Pompidou、Stedelijk Museum Amsterdam、National Gallery of Art、The Metropolitan Museum of Art、Victoria and Albert Museum、Museo Nacional Thyssen-Bornemisza、The Malevich Societyなどの美術館・研究機関・作家研究団体の資料を参照してART LIBRARYが独自に執筆しました。出生年・国籍・一部作品年代について資料間に相違があるため、相違そのものを明記し、出生年は出生記録を重視する近年の研究に従って1879年としました。原文の全文翻訳ではありません。

資料確認日:2026年10月1日 / ART LIBRARY