Expert’s voice | An impressionist painting by Johan Barthold Jongkind | Venduehuis The Hague
Venduehuis The Hagueはオランダのデン・ハーグに拠点を置く、同国最古の歴史を持つオークションハウス(競売会社)
Expert’s voice | A Winter Landscape by Johan Barthold Jongkind | Venduehuis The Hague
19世紀半ばのヨーロッパでは、風景画が大きな変化の時期を迎えていました。オランダには17世紀以来、低い地平線の上に空を広く取り、運河や船、風車を描く絵画の伝統がありました。フランスではサロンが画家の発表と評価を左右する重要な制度であり、同時にバルビゾン派の画家たちが自然の姿を自分の眼で確かめる制作を進めていました。鉄道、橋、港湾施設が都市の風景を変え、画家の前には新しい場所と光景が現れていました。
その二つの絵画文化の間を移動したのが、オランダ生まれのヨハン・バルトルト・ヨンキント(Johan Barthold Jongkind、1819–1891)です。1846年にパリへ渡り、セーヌ川の河岸やノルマンディーの港を描いた彼は、現場で得た素描や水彩をもとにアトリエで油彩を構成する方法を発展させました。後にクロード・モネが自らの眼を育てた人物として名を挙げた画家でもあります。
ヨンキントの作品には、広い空を支える確かな構図と、雲や水面の移ろいを短い線と色で捉える軽やかさが共存しています。パリの橋、働く船、オランダの運河、南仏の海、ドーフィネの山並みを通じて、その見方がどのように形成され、変わっていったかをたどります。(参照:オルセー美術館|ヨンキント回顧展解説)
CONTENTS
オランダで学んだ風景の組み立て方
ハーグの素描学校とスヘルフハウト
ヨンキントは1819年、オランダ東部のラットロップに生まれました。少年期には公証人事務所で働いた時期があり、1837年にハーグへ移って素描学校で学びます。そこで師事したアンドレアス・スヘルフハウトは、冬の運河や低地の風景を得意とする画家でした。ヨンキントにとって、風景を描くことは、地形や建物を正確に並べる訓練であると同時に、広い空と地上の小さな事物との関係を組み立てる訓練でもありました。
オランダの風景画には、画面の下方に大地や水辺を置き、その上を空に大きく譲る構図が繰り返し現れます。水平方向に伸びる岸と、それに対して立つ風車や船のマストが、平坦な土地に奥行きとリズムを作ります。ヨンキントはこの組み立て方を生涯保持し、やがてパリの橋やノルマンディーの港にも応用しました。オランダで身につけた構図が、彼の新しい観察を支える土台になります。(参照:オルセー美術館|初期の教育と構図)
戸外で素早く描く水彩
スヘルフハウトのもとでヨンキントが学んだのは、完成油彩のための厳密なデッサンに加え、戸外で風景の全体を素早く捉える方法でした。黒い線で風景の骨格を作り、薄く溶いた色を大きく置く。地平線、雲、水面の位置関係を先に押さえることで、光の状態が変わる前に画面の主要な特徴を記録できます。
後年の水彩では、この方法がさらに簡潔になります。色が置かれない部分も画面の重要な要素となり、紙の白が日差しや水面の明るさを担います。ヨンキントの水彩を理解するうえでは、形を描き込む技量に加えて、残す線と省く部分を選ぶ判断を見ることが大切です。(参照:オルセー美術館|水彩の制作方法)
1846–1855年|パリとセーヌ河岸の風景
イザベイのアトリエから近代都市へ
1845年、ハーグを訪れていたフランスの海景画家ウジェーヌ・イザベイと出会ったことが、ヨンキントの活動を広げました。翌1846年にパリへ移り、イザベイのアトリエで学びます。海と空の荒れた表情、船がつくる斜線、雲の劇的な動きは、ロマン主義的な海景画の重要な要素でした。ヨンキントも当初はこうした構成や気象の表現を吸収しました。
パリではカミーユ・コロー、シャルル=フランソワ・ドービニー、テオドール・ルソーらの画家と交流する機会を得ました。イザベイの劇的な景観と、コローが追求した柔らかな大気の感覚を知る環境の中で、ヨンキントは自分の得意とする水辺の風景を広げていきます。ノルマンディーを最初に訪ねたのも、このパリ初期の時期でした。(参照:オルセー美術館|パリ時代と交流)
名所と荷船が同居するセーヌ川
1849年ごろから、ヨンキントはセーヌ河岸の素描を集中的に描くようになります。川越しに見えるノートルダム大聖堂、ポン・ヌフ、ルーヴル周辺の建築は、パリの歴史を伝えるよく知られた景観です。その近くには荷船、クレーン、工事用の構造物、行き交う人々の生活もありました。ヨンキントは新旧の要素を同じ眺めの中で受け止めています。
1854年の《オルセー河岸からの眺め》では、左岸から見た歴史的建築の連なりに、川岸の荷船やクレーンが堂々と入り込みます。都市の働く場所に目を向けたことが、この作品の特色です。油彩の画面が現地の素描をもとに組み立てられている点にも注目できます。現代的な題材を選ぶ視線と、構図を整理する伝統的な訓練が結びついています。(参照:メトロポリタン美術館|《オルセー河岸からの眺め》)
《ポン・ヌフ》に見える観察と再構成
《ポン・ヌフ》(1849–50年)は、ヨンキントの制作方法を早い段階から伝える油彩です。基礎となったのは1849年の素描でした。メトロポリタン美術館の調査によれば、作品では橋のアーチが実際の五つから四つに減らされ、ドーフィーヌ広場が省かれ、遠くのノートルダム大聖堂が近づけられています。画家は都市の風景を詳しく観察したうえで、画面のまとまりを優先して配置を変えました。
画面上では橋の重みを持つ水平線と、上方を占める変化に富んだ空が向き合います。イザベイから学んだロマン主義的な海景の影響も、この強い空の演出に認められます。現地で得た資料をアトリエで組み直す姿勢は、ヨンキントの後年の制作にもつながっていきます。(参照:メトロポリタン美術館|《ポン・ヌフ》作品解説)
サロンでの評価と不安定な生活
1848年にはパリのサロンに出品し、1852年に三等メダルを受けています。1851年には《ハルフルール港》、1853年には《エスタカード橋》が国家によって購入されました。月夜の風景やパリの眺めを描く画家として名が知られ、サロンという公式な発表の場でも一定の成果を得ていた時期です。
その評価は安定した生活へ直結しませんでした。留学と修業を支えていたオランダ王室からの手当は1853年に停止し、借金が重なります。1855年のパリ万国博覧会でも望んだ賞を得られず、ヨンキントはフランスを離れてオランダへ戻る決断をしました。作品の革新と生活上の困難が同時に存在したことは、その後の制作と交流を理解する手がかりになります。(参照:オルセー美術館|サロンでの活動と帰国)
1855–1861年|帰国、友人たちの支援、再出発
帰国後も続いたオランダ風景の制作
1855年からの数年間、ヨンキントはオランダを主な活動場所としました。ロッテルダムの港、運河、風車といった馴染みの景色に改めて取り組みます。港には帆柱の集まる垂直線があり、雲の動きと船の静かな輪郭が対照をなします。この時期の油彩《ロッテルダム港の眺め》(1856年、ティッセン=ボルネミッサ美術館)には、17世紀オランダ海景画に連なる構図と、素早い観察を生かした空の表現が共存しています。
フランスとの関係は帰国後も続きました。1857年にパリを訪れ、1858年にディジョンの展覧会で銀メダルを受け、1859年にはサロンへ作品を出品しています。画商ピエール=フィルマン・マルタンとの関係も続いていました。ヨンキントはオランダを描きながら、フランスの観客と市場に作品を届けていたのです。(参照:ティッセン=ボルネミッサ美術館|《ロッテルダム港の眺め》)
1860年の救済とフェッセルの支え
経済的な苦境を知ったフランスの画家仲間は、ドリア伯爵の発案で支援のための競売を組織しました。コロー、ドービニー、ナルシス・ディアズを含む93人の芸術家が作品を提供したと、オルセー美術館の回顧展資料は伝えています。売却益は負債の整理と渡仏の費用に充てられ、画家アドルフ=フェリックス・カルスがオランダからの帰還を助けました。
フランスへ戻ったヨンキントを支えたのが、オランダ出身のジョゼフィーヌ・フェッセルでした。フェッセル家は長く生活の拠り所となり、旅や制作を続けるうえでも重要な存在になります。ヨンキントの生活には精神的な不調と飲酒による問題が重なった時期がありました。支援者の役割と制作活動の変化を合わせて捉えることで、1860年代の活発な制作がどのような環境に支えられていたかが見えてきます。(参照:オルセー美術館|友人の支援とフェッセル家)
再出発後の《ローズモン城跡》
1861年の《ローズモン城跡》には廃墟というロマン主義的な題材が選ばれています。広い空と低く伸びる地面の中に、城跡と人物が収められ、筆の運びが形の輪郭を柔らかくします。廃墟に物語を託す画面というより、光を受ける土地と空の広がりがまず目に入る作品です。
この油彩は1863年の落選者展に出品されます。ヨンキントがサロンで評価されてきた経歴を持ちながら、公式審査から外れた作品の展覧会にも参加したことは、当時の美術制度と画家の活動を考えるうえで示唆的です。作品の具体的な構図は後の主要作品欄で詳しく扱います。(参照:オルセー美術館|《ローズモン城跡》出品歴)
1862–1865年|ノルマンディー、ブーダン、モネ
港、海岸、変わりやすい天候
1862年以降、ヨンキントはノルマンディーの海岸へ繰り返し出かけます。ル・アーヴル、サント=アドレス、オンフルール、トルーヴィルなどでは、港の船や桟橋、雲の流れ、海面の光が描く対象になりました。干満や天候によって同じ場所の様子が変わることは、戸外で素早く記録する方法の意義を際立たせます。
サン=シメオン農場は、当時この地方を訪れた画家たちの交流の場でした。ヨンキントはウジェーヌ・ブーダンと親しくなり、若いクロード・モネやフレデリック・バジールとも接しました。画家たちが同じ海岸を見ながら異なる方法を試したことは、後の印象派につながる重要な制作環境でした。(参照:オルセー美術館|ノルマンディーでの交流)
ブーダンとモネが見たヨンキントの水彩
ブーダンは海辺の空を繊細に観察した画家で、ヨンキントの水彩がわずかな線と色で雲の流動性を表していることに強い関心を寄せました。ブーダンの空が少しずつ移り変わる調子を丁寧に描くのに対し、ヨンキントの水彩では黒チョークの線と透明な色が途切れながら並びます。紙の白い余白が、描かれた空気や光と結びつきます。
モネはブーダンから戸外で制作する経験を得ており、ヨンキントとの出会いによってさらに学んだと回想しています。ヨンキントは若い画家に素描を見せるよう促し、色の置き方や制作上の判断を説明したと伝えられています。モネが後に自分の眼の教育をヨンキントに負ったと述べたのは、この観察と省略の方法に関わる証言です。実際に二人の作品を比較するときは、ヨンキントの水彩とモネが発展させた油彩の方法を区別して見る必要があります。(参照:オルセー美術館|ブーダンとモネの証言)
ノルマンディーの風景を油彩へ移す
この作品は、1865年8月から9月にかけて、ヨンキントがノルマンディー海岸の町オンフルールを3度目に訪れた際に描かれました。オンフルールは、若いクロード・モネも1860年代前半から中頃にかけて制作活動を行った場所です。3年後の1868年、批評家のテオフィル・トレは次のように述べています。「ヨンキントの作風は万人受けするものではないが、強い感情が独創的に表現された、自発的な絵画を愛する者には喜ばれるだろう。……真の画家は、印象に突き動かされ、速やかに制作を進めるものだ。」
ノルマンディーの滞在からは、《オンフルール港》の水彩や《オンフルール》(1865年)の油彩などが生まれました。船、埠頭、遠景の建物という構成要素は比較的限られています。その間を満たす空や水面は絶えず変化し、絵の中の時間を感じさせます。ヨンキントは同じ港を何度も観察し、風景の骨格を保ちながら異なる光の状態を描きました。
《セーヌ川とノートルダム》(1864年)にも、こうした時期の感覚が現れています。大きな空や川の斜線という安定した構図に、細かな反射と分割された筆触が重なります。オランダで学んだ空間の組み立て方と、フランスで深めた光への関心を同じ画面の中で見ることができます。(参照:オルセー美術館|《セーヌ川とノートルダム》)
水彩・油彩・版画を行き来する制作
現場の水彩とアトリエの油彩
ヨンキントの制作には、戸外で得た観察を水彩や素描に記録し、その資料からアトリエで油彩を制作する流れがありました。現場では輪郭を速く押さえ、空や水面の変化を洗うような色で記します。油彩では構図を整理し、船や建物、地平線の位置を調整して一枚の作品にまとめます。二つの媒体はそれぞれ異なる役割を担っていました。
この方法は画家自身の書簡にも確認できます。1856年に友人のウジェーヌ・スミッツへ送った手紙で、ヨンキントは自然から制作した絵画について、まず水彩を描き、それをもとに油彩にしたという趣旨を説明しています。水彩がその場で得た経験の記録となり、油彩が構成を考え直す場となる。両者の結びつきは、制作過程を知るための具体的な証拠に支えられています。(参照:ティッセン=ボルネミッサ美術館|1856年の書簡と制作過程)
線、日付、記憶を使って描く
ヨンキントの水彩には、制作した日付や地名が書き込まれた作品が数多くあります。現地で目にした場所と時間を結び付ける記録としての性格がうかがえます。1871年の《ヌヴェールへの道》には九月の日付と地名が書かれ、《グルノーブル》にも1883年九月の日付が残されています。後年の鑑賞者にとっても、絵がどの旅や観察に結びつくかを考える手がかりとなります。
記憶も重要な役割を果たしました。オルセー美術館の資料によると、故郷オランダへの最後の旅は1869年でした。その後もヨンキントは、過去に見た運河や港を描き続けています。以前の素描、水彩、記憶を使って風景を再構成することが、同じ題材を何度も描く行為を支えていました。(参照:オルセー美術館|記憶による風景の再構成)
エッチングに残る線の骨格
ヨンキントは油彩と水彩に加え、版画にも取り組みました。1862年のエッチング集には、運河沿いの家々や風車など、絵画と共通する題材が現れます。版画では線の間隔や強弱によって岸辺、船、建物の形を組み立てます。色彩を取り去った画面を見ると、ヨンキントが風景の主要な部分をどれほど少ない線で捉えていたかが伝わります。
1868年にはアントワープ港の夕景を描いたエッチングも制作しています。水彩の色面を支える下描きと版画の線は技法として異なり、港の複雑な構造を選び取るという点でつながっています。油彩だけに目を向けると捉えきれない、線を中心としたヨンキントの仕事を示す領域です。(参照:ナショナル・ギャラリー|ヨンキントの版画作品)
1866–1891年|旅を重ねた晩年の風景
Wind Mill at Antwerp Johan Barthold Jongkind 1866 (The Met / PUBLIC DOMAIN)
アントワープとオランダの港
1866年にはベルギーのアントワープで風車や船を水彩に残しました。《アントワープの風車》では黒チョークによる風車の骨格と、その周囲に薄く置かれた色が見えます。線が示す構造に対して色の広がりは軽やかで、紙の余白が空気の明るさを保っています。船や風車を細密に埋め尽くす必要のない画面が成立しています。
1867年ごろの《ロッテルダムの眺め》は、馴染みの港の風景を改めて取り上げた水彩です。港の建物や船を横方向のまとまりに縮め、空と水面の広がりを前面に出しています。1870年代に向かうヨンキントは、以前から繰り返してきた題材を、次第に少数の線と色で描くようになります。(参照:メトロポリタン美術館|《ロッテルダムの眺め》)
ニヴェルネの道、川を渡る鉄道
1870年代にはニヴェルネ地方でも制作しました。1871年の《ヌヴェールへの道》は小さな紙面に道路と周囲の土地を描いた作品です。空と地面の関係をつかむために、身近な道路や畑を描くことにも意味がありました。作品にはその場所と日付が記され、旅の中で見た風景を残す水彩の役割がよく表れています。
同じ1871年の《川を渡る列車のある風景》には鉄道が登場します。近代化によって増えた橋や線路も、ヨンキントには風景の一部として映っていました。画面では列車を特別な主役として切り離すことなく、川や岸辺、空間の奥行きの中に置いています。初期のセーヌ河岸に描かれたクレーンや荷船と同様、日常の景色が変化していることを静かに記録した作品です。(参照:オルセー美術館|《川を渡る列車のある風景》)
ドーフィネの山並みと南仏の光
1873年ごろから、ヨンキントはフランス南東部のドーフィネ地方と関わりを深め、1878年以降はフェッセル家とともにイゼール県を生活の拠点としました。ノルマンディーの港やオランダの低地に加え、山、道路、川、橋のある内陸の風景が仕事の中心へ加わります。晩年は水彩による制作の比重が高まりました。
1880年の《ラ・シオタ》は南仏への旅行で制作された水彩です。黒い線、水彩、ガッシュが同じ紙面に重なり、描き残した紙の白が強い明るさに変わります。作品には10月8日の日付と地名が書き込まれています。画面を一様な色で埋めるのでなく、部分的な色の置き方によって光を感じさせる方法が際立っています。(参照:オルセー美術館|《ラ・シオタ》)
1883年の《グルノーブル》では、横に長い紙面に川、橋、街、遠くの山が広がります。黒チョークの線を下地に水彩とガッシュを重ねた作品で、岸辺から山並みへ視線が滑らかに移動します。若いころに学んだ低い地平線と広い空への関心は、山岳を含む晩年の風景にも形を変えて続いています。(参照:ナショナル・ギャラリー|《グルノーブル》)
晩年の暮らしと作品への評価
ヨンキントは晩年も精神的な不調と飲酒の問題を抱え、フェッセル家の支えを受けながら暮らしました。パリへの滞在は次第に減りますが、画商や収集家の間では評価が高まり、制作した作品が市場へ届く状況は以前より安定していきます。身体や生活に困難を抱えていた時期と、水彩による表現が充実していた時期が重なっています。
1891年にイゼール県で亡くなり、同年12月に行われた作品売立は成功を収めました。生涯を通してフランスとオランダの両方の風景を描き続けた作品群は、その後も画家や収集家、美術館の関心を集めます。晩年の水彩を初期の油彩と並べて見ると、技法が成熟する過程に加え、異なる地域を移動しても同じ方法を試し直す継続性が認められます。(参照:オルセー美術館|晩年と死後の売立)
主要作品
パリ初期の油彩、ノルマンディーの風景、オランダとアントワープの水彩、1870年代の道路と鉄道、晩年の南仏とドーフィネを描いた作品から12点を選びました。構図、筆触、線と色の使い方を作品ごとに確かめられます。
ポン・ヌフ
The Pont Neuf / 1849–1850 / 油彩、キャンバス / 54.6 × 81.6 cm
The Metropolitan Museum of Art, New York
セーヌ河岸の素描をもとに、橋のアーチ数や大聖堂の位置を変えて構成した初期油彩。空の広がりに師イザベイの影響が見えます。
オルセー河岸からの眺め
View from the Quai d'Orsay / 1854 / 油彩、キャンバス(板に貼付) / 43.8 × 66 cm
The Metropolitan Museum of Art, New York
1855年パリ万国博覧会出品作。歴史的建築だけでなくセーヌの荷船やクレーンを大きく扱い、近代都市の働く水辺を風景画へ取り込みました。
ローズモン城跡
Ruines du château de Rosemont / 1861 / 油彩、キャンバス / 34 × 56.5 cm
Musée d'Orsay, Paris
広い空の下に城跡を小さく置く1861年の油彩。1863年の落選者展に出品された記録が残っています。
セーヌ川とノートルダム
La Seine et Notre-Dame de Paris / 1864 / 油彩、キャンバス / 42 × 56.5 cm
Musée d'Orsay, Paris
オランダ風景画以来の大きな空と対角線構図に、分割された筆触と水面反射を重ねた代表作。ヨンキントが『コローとモネの間』に位置づけられる理由がよく表れます。
曳舟道
The Towpath / 1864 / 油彩、キャンバス / 34.3 × 47 cm
National Gallery of Art, Washington
運河と道、樹木を低い地平線で結び、上方に広い空を描いた油彩。厚みのある筆触と水面の反射が特徴です。
オンフルール
Honfleur / 1865 / 油彩、キャンバス / 52.1 × 81.6 cm
The Metropolitan Museum of Art, New York
ノルマンディー滞在期の代表油彩。港、空、船を大きな面へ整理し、水彩で得た即時的な感覚をアトリエ油彩へ移した作品です。
アントワープの風車
Wind Mill at Antwerp / 1866 / 黒チョークの上に水彩 / 23 × 35.1 cm
The Metropolitan Museum of Art, New York
アントワープ滞在中の水彩。黒い線で風車と岸辺を簡潔に捉え、色を部分的に置いて紙の白を空気と光として生かしています。
ロッテルダムの眺め
View of Rotterdam / 1867頃 / 水彩 / 24.5 × 37.5 cm
The Metropolitan Museum of Art, New York
港湾都市を簡潔な線と薄い色面で捉えた水彩。オランダの記憶をフランスで成熟した省略的な視覚によって描き直しています。
川を渡る列車のある風景
Paysage avec un train passant une rivière / 1871 / 水彩、黒鉛 / 27 × 45.8 cm
Musée d'Orsay, Paris
田園風景の中に鉄道を自然に組み込み、自然と近代技術を対立させず同じ現在の風景として捉えた作品です。
ヌヴェールへの道
La Route de Nevers / 1871 / 水彩、鉛筆、紙 / 10.9 × 18.7 cm
Musée d'Orsay, Paris
1871年9月19日の日付と地名が残る小さな水彩。道や樹木、人物を簡潔に描いた旅の記録です。
ラ・シオタ
La Ciotat / 1880 / 水彩、黒鉛、ガッシュ / 24 × 47.5 cm
Musée d'Orsay, Paris
1880年10月8日の地名・日付が残る南仏の水彩。黒い線、水彩、ガッシュ、紙の余白が光を表します。
グルノーブル
Grenoble / 1883 / 黒チョークの上に水彩・ガッシュ / 16.5 × 51.5 cm
National Gallery of Art, Washington
1883年9月22日の日付が残る横長の水彩。川、橋、街、山並みを黒チョークと淡い色で捉えています。
《ポン・ヌフ》1849–50
画面の中央を横切るポン・ヌフは、都市の大きな構造を支える形として描かれています。橋の上方では雲が動き、奥にはノートルダム大聖堂が見えます。画家は川岸で取材した素描から油彩を組み立て、橋のアーチを実際より一つ少なく、遠景の大聖堂を近く配置しました。都市を眺める位置と画面の構成が必ずしも一致しないことを、所蔵館の調査が明らかにしています。
画面を横断する石の橋、遠くの尖塔、上方の空には、それぞれ異なる強さの線が与えられています。空の劇的な表情には師イザベイからの影響も見られます。1849年の素描と完成油彩を比較すると、ヨンキントの眼が捉えた都市の形と、絵画として選び直された形の違いを具体的に考えることができます。(参照:メトロポリタン美術館|作品解説と調査)
《オルセー河岸からの眺め》1854
セーヌ川の左岸から対岸を見渡す眺めです。画面にはチュイルリー庭園やルーヴル周辺、当時のオルセー宮やレジオン・ドヌール宮が含まれます。歴史を帯びた建築の足元には荷船が連なり、クレーンが立っています。大きな建築と働く船を同じ画面へ収めたところに、ヨンキントの都市風景の特徴があります。
水の反射を細かく重ねる部分と、船体を大きな暗い塊にまとめる部分の差が、河岸の仕事場としての奥行きを作ります。現地での素描をアトリエで油彩へ発展させた本作は、1855年のパリ万国博覧会に出品されました。制作と発表の経緯が作品記録に残る、パリ初期の代表例です。(参照:メトロポリタン美術館|作品解説・万国博覧会出品歴)
《ローズモン城跡》1861
低い土地の向こうに城跡が小さく置かれ、その上を空が大きく占めます。廃墟を描く絵画には、失われた時代の記憶や歴史的感傷を託す伝統がありました。ヨンキントの画面では、建物の存在と同じくらい、周囲の地面や雲の広がりが目に入ります。廃墟は風景全体を組み立てる一要素になっています。
この作品は1863年の落選者展に出品されました。オルセー美術館の所蔵記録には出品番号247が確認できます。空と地面を大きな関係として捉える伝統的な構図の上で、細部をまとめた筆触が働いており、同時代の批評家がヨンキントの作品に『印象』を見いだした背景を考える手がかりになります。(参照:オルセー美術館|所蔵・出品記録)
《セーヌ川とノートルダム》1864
広い空の下を、セーヌ川が斜めに流れています。その対角線が視線を奥へ運び、ノートルダム大聖堂の形を遠景に導きます。構図の骨格にはオランダ風景画の伝統が息づきます。橋や河岸、遠くの建築が大きな構造として結ばれ、その間を水面の反射と雲の変化が満たしています。
空の明るさは滑らかな単色で統一されず、細かな筆触と色の違いで表されています。水面も短いタッチを重ねることで揺れを生みます。オルセー美術館は、こうした分割された筆触と反射に加え、近代パリへ向けられた画家の関心を作品の特徴として説明しています。風景の構図と筆触を同時に観察できる作品です。(参照:オルセー美術館|作品解説)
《曳舟道》1864
運河沿いに延びる道、樹木、遠くの建物が、低い土地の帯を作っています。上方には青い空と白い雲が広がり、運河の水には岸の木々や空が反射しています。土手の道が奥行きを生み、樹木の縦線が平坦な土地にリズムを加えます。描かれているのは特別な名所ではなく、オランダの水路沿いで繰り返し出会う日常の風景です。
空や樹木の部分には厚く目立つ筆触も残されています。伝統的な運河の構図が、空の変化や水面の色の揺らぎを受け止めています。所蔵するワシントンのナショナル・ギャラリーの記録では、作品は1864年のキャンバスに油彩で、寸法は34.3 × 47 cmです。(参照:ナショナル・ギャラリー|《曳舟道》作品記録)
《オンフルール》1865
オンフルールの港は、船、埠頭、建築の輪郭に空と水面が重なる場所でした。ヨンキントはそこへ繰り返し足を運び、水彩や素描を蓄積しました。この油彩では港の要素が比較的大きなまとまりに整理され、空と船の位置関係によって風景の安定した骨格が作られています。
港の細部を一つずつ説明するより、空の色、水面の反射、船の暗い形がどう釣り合うかを見ると、画家の関心が伝わります。水彩で得たその日の印象が、油彩の構図の中でどのように留められたかを考えられる一枚です。1865年制作の油彩としてメトロポリタン美術館に収蔵されています。(参照:メトロポリタン美術館|《オンフルール》)
《アントワープの風車》1866
黒チョークの線が風車の支柱や羽根の形を押さえ、周囲に薄い水彩が置かれています。水彩の色は線の内側を均等に塗りつぶすために使われておらず、広がりと途切れを残します。線と色が完全に重ならないところに、空気の明るさや現場で筆を動かした速さを感じ取ることができます。
同じ風車でも、初期の油彩に見られる堅固な構成とは印象が異なります。遠近や物の輪郭を理解するための線と、光の変化を受け止める色が、それぞれの役割を持つからです。メトロポリタン美術館は、この作品の技法を黒チョークの上に水彩を置いたものとして記録しています。(参照:メトロポリタン美術館|《アントワープの風車》)
《ロッテルダムの眺め》1867年ごろ
港の建物や船の輪郭が水平方向に連なり、空と水面の大きな面がそれを囲んでいます。都市の姿は簡潔な線で示され、建物の細部より、遠くに集まる形と開けた水辺の関係が印象に残ります。ロッテルダムはヨンキントが帰国期にも繰り返し描いた土地であり、画家にとって長い時間をかけて見つめた風景でした。
水彩の薄い色と白い紙の余白がつくる明暗は、油彩による港の風景とは異なる速度で目に入ります。過去のオランダ海景画に通じる構図を使いながら、個々の物を少ない線にまとめる技法が発達しています。メトロポリタン美術館は制作時期を1867年ごろとしています。(参照:メトロポリタン美術館|《ロッテルダムの眺め》)
《川を渡る列車のある風景》1871
川のある土地に橋が架かり、その上を列車が通ります。運河や船を描き続けたヨンキントは、鉄道も風景の中の動きとして受け止めました。列車が示す近代技術と、空や川がつくる自然の広がりが同じ紙面を構成しています。遠景に向かって進む線の動きが、風景の奥行きを感じさせます。
黒鉛の輪郭に透明な水彩を重ねるこの作品には、1871年10月7日の日付が記されています。実際に訪れた場所を記録する行為と、変わりつつあった交通の風景が結び付く一枚です。オルセー美術館の記録では、27 × 45.8 cmの紙に描かれた作品とされています。(参照:オルセー美術館|作品・書き込みの記録)
《ヌヴェールへの道》1871
道路、樹木、荷車、人物など、ごく身近な要素で構成された小さな水彩です。横幅18.7 cmほどの紙面には、歩いて見つけた土地の特徴が短い線と色で収められています。大きな建築や劇的な海景を選ばず、道の向こうへ広がる空間とその日の明るさを主題としているところに、晩年の水彩に続く関心が現れています。
作品には『nevers, 19 Sept 71』という地名と日付の書き込みが残されています。これは題材の同定に役立つと同時に、ヨンキントの水彩が具体的な移動や観察の記録だったことを伝えます。オルセー美術館の記録では、水彩と鉛筆による紙作品とされています。(参照:オルセー美術館|《ヌヴェールへの道》)
《ラ・シオタ》1880
南仏の海辺を捉えた横長の水彩です。黒い線で描かれた輪郭の上に薄い色が置かれ、ときに濃いガッシュが加わります。色と色の間には紙の白が広く残り、強い光の下で景色が途切れて見えるような感覚を生みます。ノルマンディーで描いてきた湿った空気とは異なる土地の明るさを、色の配置によって表した作品です。
オルセー美術館の記録には『La Ciotat 8 oct 1880』の書き込みが記されています。作品の仕上がりとともに、1880年10月の旅で見た風景を水彩へ移した具体的な時間も残っています。黒鉛、水彩、ガッシュが一枚の紙の上で共存している点に、後年の技法の広がりが見えます。(参照:オルセー美術館|《ラ・シオタ》)
《グルノーブル》1883
横に非常に長い画面の中へ、川、橋、街、遠くの山が連なります。平らに開けたオランダの風景とは地形が異なり、奥には山岳の起伏があります。ヨンキントは黒チョークの線で橋や岸の骨格を作り、水彩とガッシュを重ねて地面、空、遠景を描き分けました。画面の横方向の広がりと、奥へ向かう視線の動きが共存しています。
ワシントンのナショナル・ギャラリーが所蔵する作品で、寸法は視野内16.5 × 51.5 cm。1883年9月22日の日付が書かれています。長い旅の中で培った観察方法を、晩年の山と川の景色へ応用した例です。低い土地から山岳まで、ヨンキントが向き合った風景の広がりも感じられます。(参照:ナショナル・ギャラリー|《グルノーブル》)
サロンから印象派へ――評価の変化
ヨンキントは1840年代からサロンへ出品し、1852年には賞を得ました。その後、1863年の落選者展にも参加しています。《ローズモン城跡》の出品はオルセー美術館の記録から確認できます。こうした活動歴を踏まえると、公式の展覧会で評価されることと、新しい絵画の見方を追求することが、19世紀の画家にとって並行した課題だったことが分かります。
1874年の第1回印象派展には、ヨンキントは参加しませんでした。ブーダンやモネとの交流、短い筆触、変化する光への関心によって、彼の制作は印象派の歴史と深く結び付いています。同時に、構図をアトリエで組み直す方法、オランダ絵画から引き継いだ低い地平線、記憶から描いた故郷の景色は、ヨンキント自身の仕事を形づくるものです。後の運動との関係を理解することと、作品そのものの特質を見極めることを、同じ視野に置く必要があります。(参照:オルセー美術館|回顧展概要)
同時代の批評家カスタニャリは1863年の作品について、ヨンキントの絵画では『印象』が中心になると評しました。エドゥアール・マネは彼を近代風景画の重要な先達とみなし、ポール・シニャックは1927年の著書で『コローとモネの間』に位置づけています。評価の言葉は時代ごとに異なりますが、いずれも空気や光の変化をどう画面へ移したかに注目しています。(参照:オルセー美術館|同時代批評とシニャックの評価)
ヨンキントが近代風景画に残したもの
ヨンキントの絵画は、広い空を持つオランダの風景画から出発し、パリの橋や働く河岸、ノルマンディーの港、南仏の明るさ、ドーフィネの山並みへと主題を広げました。変わり続ける光や天候に向き合いながら、地平線と構図を慎重に選び、必要な形を線で残し、色の一部を紙の白へ委ねました。生涯を通じて培ったこの方法には、観察の速さと画面を組み立てる時間の両方が含まれています。
その成果はモネたちに受け継がれた観察の方法にも見いだせます。さらに、ヨンキント自身が残した素描や水彩、油彩、版画を見比べると、風景を描く行為が、一つの場所で得た視覚を何度も捉え直す仕事だったことが伝わります。オランダの静かな水路からパリの近代的な河岸まで、彼が描き続けたのは、それぞれの場所に現れる光と空気、そしてそれを絵画として留める方法でした。(参照:ティッセン=ボルネミッサ美術館|ヨンキントの経歴と影響)
略年譜
- 1819
- 6月3日、オランダ東部オーファーアイセル州ラットロップに生まれる。
- 1835頃
- 16歳で学校を離れ、公証人事務所に勤める。
- 1837
- 父の死後、母の許可を得てハーグへ移り、素描アカデミーで学ぶ。アンドレアス・スヘルフハウトに師事。
- 1845
- ハーグでフランスの海景画家ウジェーヌ・イザベイと出会い、パリへ来るよう勧められる。
- 1846
- パリへ移り、イザベイのアトリエへ入る。コロー、ドービニー、テオドール・ルソーらフランス風景画の環境へ接近。
- 1848
- パリのサロンへ初出品。
- 1849–1850
- セーヌ河岸を素描し、《ポン・ヌフ》などパリ風景の油彩を制作。
- 1851
- 《ハルフルール港》が国家買上げとなる。
- 1852
- サロンで3等メダル。
- 1853
- オランダ王室から受けていた支援が停止。経済的困難が深まる。
- 1854
- 《オルセー河岸からの眺め》を制作。
- 1855
- パリ万国博覧会へ出品。期待した評価を得られず、借金と精神的不調を抱えてオランダへ帰国。
- 1857–1859
- オランダを拠点にしながらフランスとの関係を維持。1857年パリ訪問、1858年ディジョンで銀メダル、1859年サロン出品。
- 1860
- コロー、ドービニー、ディアズら友人たちが救済オークションを開催。その収益で借金を整理し、4月にパリへ戻る。ジョゼフィーヌ・フェッセルの支援を受け始める。
- 1861
- 《ローズモン城跡》など、自身の筆触を明確にした油彩を制作。
- 1862
- ノルマンディーへの継続的な旅行を開始。サント=アドレス、ル・アーヴル、オンフルールなどで水彩・素描を制作。エッチングも本格化。
- 1863
- 《ローズモン城跡》を含む三点を落選者展へ出品。批評家カスタニャリがヨンキントの「印象」を評価。
- 1862–1865
- ノルマンディーでウジェーヌ・ブーダンと親交を深め、若いクロード・モネ、フレデリック・バジールらと交流。サン=シメオン農場周辺でも制作。
- 1864
- 《セーヌ川とノートルダム》《曳舟道》、オンフルールの多数の水彩を制作。
- 1865
- 最後の大規模なノルマンディー旅行。《オンフルール》《ル・アーヴル、建造中の船の進水》などを制作。
- 1866
- ベルギーのアントワープを訪れ、風車、漁船、スヘルデ川の夕景を水彩で集中的に描く。
- 1867頃
- 《ロッテルダムの眺め》など故郷オランダの港湾を水彩で描く。
- 1869
- 最後のオランダ旅行。その後も記憶や過去の素描をもとにオランダ風景を描き続ける。
- 1871
- ニヴェルネ周辺で《ヌヴェールへの道》《川を渡る列車のある風景》など水彩を制作。
- 1873
- フェッセル家を通じドーフィネ地方との関係を深める。以後、イゼール県各地を繰り返し訪れる。
- 1878
- ラ・コート=サン=タンドレ周辺を生活の中心とし、フェッセル一家のもとで過ごす。パリ滞在は次第に少なくなる。
- 1880
- 南仏を旅行。《ラ・シオタ》など、水彩、黒鉛、ガッシュを組み合わせた大胆な作品を制作。
- 1883
- 《グルノーブル》などドーフィネの水彩を制作。油彩より水彩が主要な表現となる。
- 1880年代
- ラ・コート=サン=タンドレ、グルノーブル周辺、山村、道路などを描き続ける。紙の白と省略を生かす晩年様式が進む。
- 1891
- 2月9日、イゼール県サン=テグレーヴで死去し、ラ・コート=サン=タンドレに埋葬される。12月のアトリエ作品売立は成功を収める。
- 1927
- ポール・シニャックが著書でヨンキントを近代風景画の革新者として「コローとモネの間」に位置づける。
- 2003–2004
- ハーグ、ケルン、パリのオルセー美術館を巡回する大規模回顧展。油彩と水彩の全体像が再検討される。
参考資料・出典
画家の経歴と同時代の証言についてはオルセー美術館の回顧展資料を中心に、個別作品の制作年、材質、寸法、来歴と展覧会出品歴については各所蔵館の公開記録を参照しました。作品の造形に関する考察は、各作品の記録と照合しながら記述しています。
- オルセー美術館 | ヨハン・バルトルト・ヨンキント回顧展の詳細解説
- オルセー美術館 | ヨハン・バルトルト・ヨンキントの作家情報
- メトロポリタン美術館 | 《ポン・ヌフ》(1849–1850年)
- メトロポリタン美術館 | 《オルセー河岸からの眺め》(1854年)
- オルセー美術館 | 《ローズモン城跡》(1861年)
- オルセー美術館 | 《セーヌ川とノートルダム》(1864年)
- ナショナル・ギャラリー・オブ・アート | 《曳舟道》(1864年)
- オルセー美術館 | 《オンフルール港》(1864年)
- メトロポリタン美術館 | 《オンフルール》(1865年)
- グルノーブル美術館 | 《ル・アーヴルでの船の進水》(1865年)
- メトロポリタン美術館 | 《アントワープの風車》(1866年)
- オルセー美術館 | 《アントワープの漁船》(1866年)
- メトロポリタン美術館 | 《ロッテルダムの眺め》(1867年頃)
- オルセー美術館 | 《川を渡る列車のある風景》(1871年)
- オルセー美術館 | 《ヌヴェールへの道》(1871年)
- オルセー美術館 | 《ラ・シオタ》(1880年)
- ナショナル・ギャラリー・オブ・アート | 《グルノーブル》(1883年)
- ティッセン=ボルネミッサ美術館 | ヨンキントの経歴と画業
- ルーヴル美術館 | ブーダン宛書簡の写し(1862年9月17日)
- グルノーブル美術館 | 《グルノーブル近郊のイゼール川》とドーフィネ地方での制作
- Miller・Scully(2015年) | 《ポン・ヌフ》を再検討した研究
- ティッセン=ボルネミッサ美術館 | 《ロッテルダム港の眺め》(1856年)
- ティッセン=ボルネミッサ美術館 | 《オーフェルスヒー付近の曳舟道》(1865年)
- ナショナル・ギャラリー・オブ・アート | ヨンキントの所蔵作品一覧(素描・版画など)






