How art speaks to anxiety | Joan Mitchell’s Ladybug | UNIQLO ArtSpeaks (The Museum of Modern Art)
Artists on Artists: Stanley Whitney on Joan Mitchell’s Fearless Career and the Drama of Painting (San Francisco Museum of Modern Art)
あなたには何が起こるのでしょうか?ジョーン・ミッチェルが、手を汚すことについて語ります。
ジョアン・ミッチェル(1925–1992)は、戦後ニューヨークの抽象表現主義と深く関わりながら、風景、光、水、樹木、詩、音楽、人や動物の記憶を、色と筆触の関係へ変換し続けたアメリカの画家です。画面には激しいストロークや滴りが現れますが、制作は衝動任せではありませんでした。
1957年に本人が語ったように、自由であることと、自分の筆が何をしているかを把握することは両立しており、色の位置、筆触の重さ、白地との距離を慎重に調整していました。1940年代末の半具象的な都市風景から、1950年代のニューヨークで確立した抽象、1960年代の凝縮された色塊、ヴェトゥイユ移住後の巨大な多面作品、そして最晩年の樹木やひまわりを思わせる画面まで、約45年間にわたり抽象絵画の内部で大きく変化し続けました。
CONTENTS
生涯と制作の変遷
シカゴで育ち、絵画を学ぶ
ミッチェルは1925年2月12日、シカゴに生まれました。父は医師でアマチュア画家、母マリオン・ストロベルは詩誌『Poetry』の編集に関わっており、幼い頃から美術館、音楽、詩に触れる環境で育ちました。Joan Mitchell Foundationによれば、11歳頃には本格的に絵画を学び始め、若い時期には乗馬、飛び込み、フィギュアスケートなど競技スポーツにも熱心に取り組みました。
1942年からSmith Collegeに在籍したのち、1944年にSchool of the Art Institute of Chicagoへ移り、1947年にBFAを取得します。学生時代には人物、静物、風景を描き、デッサン、油彩、版画、解剖学、美術史を学びました。Foundationの技法研究が示すように、後年の自由に見える筆触の背景には、画面構成、色の重ね方、質感、光や影を扱う伝統的な訓練がありました。
1947–1949年:フランスと抽象化への移行
卒業時に旅行奨学金を得たミッチェルはフランスへ渡り、1940年代末をパリなどで過ごしました。この時期の作品では、キュビスムを思わせる平面的な形によって人物や都市空間を組み替える試みが見られます。《Backyards》では建物、窓、緑地をまだ読み取ることができますが、それらはすでに独立した色面と形の組み合わせへ変わり始めています。
1949年末にアメリカへ戻りニューヨークへ定住すると、具象的な像は急速に薄れます。Foundationは1951年頃までにミッチェルが完全な抽象へ移行したと説明しており、《Cross Section of a Bridge》では橋そのものを描写する代わりに、青、灰色、赤、黄の形と線の関係によって空間を構成しています。
ニューヨーク・スクールへの参加
1950年代初頭、ミッチェルはニューヨークの画家や詩人たちのコミュニティに入り、1951年の「9th Street Show」に参加しました。1952年にはNew Galleryで最初のニューヨーク個展を開催し、その後Stable Galleryで定期的に発表します。Whitney、Art Institute of Chicago、MoMAなど主要美術館も1950年代のうちから作品を収蔵しました。
ウィレム・デ・クーニング、フランツ・クライン、フィリップ・ガストンらと同じ時代のニューヨークで、ミッチェルは大きな画面、身体的な筆触、制作過程を見せる表面を共有しました。一方、外界との関係を切らず、湖、水、街路、樹木、光、特定の場所や人の記憶を制作の出発点にしたことが、彼女の抽象を特徴づけます。
1950年代:画面中央へ集まる筆触
《City Landscape》《Hemlock》《Ladybug》など1950年代の作品では、多数の短い筆触や線が画面の中央付近へ集まり、その周囲に白い領域が残される構成が多く見られます。MoMAは《Ladybug》について、一見即興的に見える色の集積が実際には慎重に組み立てられており、画面全体を均質に覆うオールオーヴァー構成ではなく、形と背景の緊張を残した点を指摘しています。
この時期の制作を記録した美術批評家アーヴィング・サンドラーによれば、ミッチェルは遠くから画面を確認し、次に何を行うかを判断していました。筆を動かす瞬間には自由でありながら、制作全体は連続した判断の積み重ねでした。
1955年以降、フランスとの往復
1955年頃からミッチェルはニューヨークとフランスを行き来するようになり、カナダ出身の画家ジャン=ポール・リオペルと長期的な関係を持ちました。1959年にはパリへ生活の中心を移しますが、ニューヨークとの関係を切ったわけではありません。展覧会や友人との交流のため頻繁にアメリカへ戻り、フランスとニューヨーク双方の美術環境の中で制作を続けました。
1960年代初頭の作品では、以前の短い筆触だけでなく、絵具を投げる、滴らせる、こする、薄く流すなどの方法が増えます。《Blue Tree》では青や茶の色塊が中央へ凝縮し、その周囲へ細い滴や薄い絵具が広がります。Foundationはこの時期、コルシカ島や南フランスの荒々しい地形や樹木も着想源になったと説明しています。
1968年、ヴェトゥイユへ
1968年、ミッチェルはパリ北西のヴェトゥイユに土地と家を取得し、セーヌ川を見下ろす環境で制作するようになります。自然との距離が大きく変わり、庭、樹木、花、畑、川の光が日常的な経験になります。1969年の《Sunflower》以後、自然を示す題名と鮮烈な色彩がさらに増えました。
ヴェトゥイユ移住後は複数のカンヴァスを連結した巨大作品も本格化します。《Plowed Field》は幅5メートルを超え、《Salut Tom》や《La Vie en rose》はさらに大きな横長画面です。画面の前に立つ鑑賞者が一度に全体を見渡すのではなく、左右へ視線や身体を移動させるスケールになりました。
主要作品
半具象的な都市風景から1950年代ニューヨークの抽象、1960年代の凝縮された色塊、ヴェトゥイユ移住後の自然と巨大な多面作品、1980年代の高密度な色彩、最晩年の自然への直接的な接近までを追える8作品を選びました。作品は現在も著作権保護下にあるため、ART LIBRARYでは画像なしで掲載します。
裏庭
Backyards / 1950 / 油彩・カンヴァス / 74.6 × 96.5 cm
Joan Mitchell Foundation
完全な抽象へ移る直前の重要作品。建物のファサード、窓、緑地など都市風景をまだ読み取れますが、空間は平面的な色と幾何学的な形の組み合わせへ分解されています。Foundationは1948–50年頃の作品にキュビスムからの影響を指摘しており、具象的な場所が色と形へ転換されていく過程を確認できます。
ヘムロック
Hemlock / 1956 / 油彩・カンヴァス / 231.1 × 203.2 cm
Whitney Museum of American Art, New York
緑、青、黒の長短の筆触が白い領域の中で中央へ集まる1950年代の代表作。Whitneyは、白い絵具が色の背後だけでなく上にも重なるため、前景と背景が曖昧になる点を指摘しています。題名は完成後に付けられ、ウォレス・スティーヴンズの詩『Domination of Black』に登場するhemlockに由来します。
ブルー・ツリー
Blue Tree / 1964 / 油彩・カンヴァス / 245.4 × 198.1 cm
Worcester Art Museum, Worcester
1959年のパリ移住後に進んだ技法変化を示す作品。青と茶を中心とする厚い色の塊が中央に集まり、周囲へ滴りや薄い絵具が広がります。Foundationは1960年代初頭のミッチェルが、投げる、滴らせる、こするといった方法を増やし、南フランスや地中海沿岸の岩場・樹木からも刺激を受けたと説明しています。
ひまわり
Sunflower / 1969 / 油彩・カンヴァス / 259.1 × 179.1 cm
The Metropolitan Museum of Art, New York
1968年のヴェトゥイユ移住直後に制作したひまわり作品群の一作。Foundationは、この時期に自然を直接示す題名と豊かな色彩が増えたこと、ひまわりが幼少期から親しんだファン・ゴッホへの長年の関心とも結びついていたことを紹介しています。花の写生ではなく、生長と衰えを含む植物への感覚を色と筆触へ置き換えています。
耕された畑
Plowed Field / 1971 / 油彩・カンヴァス / 280 × 540.1 cm
Fondation Louis Vuitton, Paris
幅5.4メートルの三面作品。金、緑、黄土、赤などの不規則な色面が並び、耕地を上空または広い視野から見たような感覚を生みます。Foundationによれば、1960年代以降ミッチェルは複数パネルを本格的に使い、パネルの垂直な切れ目によって視線の往復と画面全体のリズムを作りました。
ラ・ヴィ・アン・ローズ
La Vie en rose / 1979 / 油彩・カンヴァス、4パネル / 280.4 × 681.4 cm
The Metropolitan Museum of Art, New York
幅約6.8メートルに及ぶ四面作品。長年のパートナー、ジャン=ポール・リオペルとの関係が終わる時期に制作されました。Foundationは題名を、リオペルがミッチェルを『Rosa Malheur』と呼んだことや、本人が好んだエディット・ピアフの歌への皮肉を含むものとして説明しています。各パネルは異なる強度を持ちながら、色と筆触が全体を横断します。
ラ・グランド・ヴァレ IX
La Grande Vallée IX / 1983 / 油彩・カンヴァス / 260 × 260.4 cm
Musée des impressionnismes, Giverny
1983年の《La Grande Vallée》群の一作。友人が幼少期に遊んだ理想的な谷について語った記憶が制作のきっかけとなりました。Foundationは、この作品群をミッチェルの中でも特に色彩の強度と密集した筆触が際立つものとして紹介しています。自分自身が見た風景ではなく、他者から聞いた場所の記憶さえ絵画へ変換した例です。
メルシー
Merci / 1992 / 油彩・カンヴァス / 280 × 359.4 cm
Joan Mitchell Foundation
死去した1992年に制作された最晩年の作品の一つ。白い画面の中で黄色、青などの強い色が垂直方向や絡み合う筆触として浮かびます。Foundationは、癌を抱え時間が限られていることを知りながら制作していた時期の、身体的な強度と切迫感を指摘しています。題名の『Merci』は、自然や樹木の存在そのものへの感謝という晩年の発言ともつながります。
「風景を描く」のではなく、風景が残したものを描く
記憶された風景
ミッチェルは自分の絵画について、自然を鏡のように再現するのではなく、記憶された風景と、そこから残った感情を描くという考えを繰り返し語りました。Foundationも、都市、湖、川、畑、樹木などが直接的な写生ではなく、記憶と感覚を通過して作品へ現れることを制作の中心として位置づけています。
したがって《Hemlock》を見て、画面の中央に「木の形」を探すだけでは十分ではありません。Whitneyが説明するように、緑や青の筆触、白い領域、短い線と長い線が作るリズムによって、光、風、樹木の動きのような身体感覚が呼び起こされます。題名も制作後に付けられることが多く、像を先に決めてそれを抽象化したとは限りません。
都市も風景になる
ミッチェルにとって「風景」は自然だけではありませんでした。《Backyards》《City Landscape》《Evenings on 73rd Street》のような作品では、シカゴやニューヨークの建物、街路、夜の集まりといった都市的な経験も出発点になります。
1957年の《Evenings on 73rd Street》という題名は、友人の家で画家や詩人たちと過ごした夜の記憶に由来します。風景とは目の前に広がる地形だけでなく、特定の時間、場所、人間関係、音まで含む経験のまとまりでした。
詩と音楽
母が詩誌の編集に関わっていた環境で育ったミッチェルにとって、詩は生涯身近なものでした。《Hemlock》の題名はウォレス・スティーヴンズの詩に由来します。晩年まで詩人との交流が多く、作品を物語や寓意ではなく「詩のようなもの」と捉える発言も残しています。
これは詩の内容を絵で説明するという意味ではありません。色、間、反復、強弱を組み合わせ、言葉では置き換えられない感覚を成立させるという点で、絵画と詩や音楽を近いものとして考えていました。
激しい筆触と「コントロール」
「アクション・ペインティング=無計画」ではない
ミッチェルの画面には飛沫、滴り、速い線が多く、制作写真だけを見ると一気に描いたように想像しやすい作品です。しかしFoundationの材料研究によれば、1950年代の作品でも一枚に数日から数週間、場合によっては数か月を費やし、以前に置いた筆触を消すより、その選択を生かしながら次の層を加えていくことが多くありました。
1957年、サンドラーの取材でミッチェルは、自分の仕事にある自由は「かなりコントロールされている」という趣旨を明言しています。偶然に現れた効果を使う場合も、それを採用する判断を行えば、その時点で単なる偶然ではなくなります。
一本の筆触ではなく、筆触同士の関係
デ・クーニングやクラインと同様、筆触そのものには身体的な強さがあります。しかしミッチェルでは一本の「英雄的なストローク」を見せるより、短い線、長い線、乾いた擦れ、厚い絵具、透明な滴りを何層にも組み合わせます。
重要なのは個々の筆触の激しさだけではなく、どの色が隣り、どの線が上にあり、どこで止まり、どこに白が残るかです。MoMAの《Ladybug》は、厚い絵具と流れる絵具、平らな面と盛り上がった面が同時に使われている例として分かりやすい作品です。
ジョアン・ミッチェルの絵画をどう見るか
遠くから全体の重心を見る
最初に数歩離れ、色が画面全体へ均等に広がっているのか、中央や左右どちらかへ集まっているのかを見ます。1950年代では白地の中に筆触の集積が浮く作品が多く、1970年代以降には画面全体の密度が上がる作品も増えます。
「抽象だから全体が同じ」ではありません。色の重心、空白、左右のバランスを確認すると、作品ごとの構成差がかなり明確になります。
次に白を見る
色だけを追わず、白い部分を一つの色として見ることが重要です。ミッチェルは白いカンヴァスを単純に塗り残しただけではなく、色の上から白い絵具を重ねることもありました。
そのため、白が「何もない背景」なのか、後から前面へ押し出された色なのかは一見して分かりません。この前後関係の不安定さが、画面の空間を大きく動かします。
同じ色の違いを見る
ミッチェルは青、緑、黄、紫を繰り返し使いますが、一つの「ミッチェル・ブルー」のような固定色があるわけではありません。同じ青でも、薄く透けた青、絵具が盛り上がった青、緑に近い青、紫に近い青が隣り合います。
色名ではなく、厚さ、周囲の色、面積、筆触の方向を比較すると、彼女が色を物質として扱っていたことが見えてきます。
身体の速度を想像する
細く長い線は腕が比較的連続して動いた痕跡かもしれません。短く厚い塊では、筆が画面へ強く接触しています。滴りは重力の方向を示し、乾いたブラシ跡では下の色やカンヴァスが透けます。
ただし、筆触をそのまま心理状態へ直結させる必要はありません。「激しい線=怒り」と読むより、速度、圧力、絵具の量、重なりを物理的に追う方が、ミッチェルの複雑な制作へ近づけます。
白は背景ではない
色を囲む空白
1950年代の代表作では、色の集積の周囲に広い白が残ります。この白によって、筆触は一つの塊として見えると同時に、周辺へ広がろうとする運動も強調されます。
Whitneyの《Hemlock》では白が色の後ろだけでなく一部では上にも重なり、前景と背景の境界を曖昧にします。MoMAの《Ladybug》でも、空白のように見える領域に複数の白い絵具層があります。
カンヴァスを「色」として使う
Foundationに残る1957年の発言で、ミッチェルはカンヴァスそのものを色として使うという趣旨を語っています。生地が見える部分と白く塗った部分、さらに色彩の筆触が並ぶことで、支持体まで画面構成へ参加します。
この考え方によって、色を全面へ塗り尽くす必要がありません。何も塗らない場所も、積極的な判断として成立します。
多面作品と身体的なスケール
複数のカンヴァスを一つの作品にする
1960年代から、ミッチェルは二枚、三枚、四枚のカンヴァスを連結した作品を本格的に制作します。Foundationによれば、理由の一つは実用的で、大型作品を一枚の巨大なカンヴァスとして扱うより、小さな単位に分けた方が制作や運搬が容易でした。
しかし実用性だけではありません。ミッチェルはパネルの間に生じる垂直線そのものを好みました。その切れ目によって色や筆触が一度中断され、隣の面へ移るたびに見るリズムが変化します。
横長画面を「読む」
《Plowed Field》は三面構成で幅約5.4メートル、《La Vie en rose》は四面構成で約6.8メートルに達します。正面から一度に把握するより、左から右へ視線を動かし、それぞれのパネルの違いを比較する必要があります。
Foundationは《La Vie en rose》について、四つのパネルが交響曲の四楽章のように異なる強度を持ちながら展開すると説明しています。抽象画でありながら、時間をかけて「読む」構造を持っています。
風景のスケール
巨大な横長画面は、風景の写真のようなパノラマではありません。それでも、視野に入り切らない横幅、左右へ移動する視線、全身を超える高さによって、実際の自然の中へ立ったときの身体感覚に近いものを作ります。
風景を描写するのではなく、風景の中に身体が置かれる感覚を、絵画の寸法そのもので作ることができます。
ニューヨークからフランスへ
「アメリカの抽象表現主義者」だけではない
ミッチェルはニューヨーク・スクールの重要人物として評価されましたが、人生の半分近くをフランスで暮らしました。1959年にパリへ定住し、1968年からはヴェトゥイユを主要な制作拠点にしています。
Foundationは、彼女の作品がアメリカとフランス双方の美術的展開と対話し、それぞれの地域で異なる批評的受容を受けたことを指摘しています。制作をニューヨークの1950年代だけで完結させると、1960年代以後の長い展開を見失います。
ヴェトゥイユとモネ
ヴェトゥイユはクロード・モネが19世紀末に暮らした地域でもあり、セーヌ川沿いの風景と深く結びついています。ミッチェルはモネの方法を模倣したわけではありませんが、色と風景、庭、水、季節の変化への関心という点で両者は後に比較されるようになりました。
2022–23年にはFondation Louis Vuittonで「Monet–Mitchell: Dialogue」が開催され、両者の作品が並置されました。ただし、ミッチェル自身の参照先はモネだけではありません。セザンヌ、マティス、ファン・ゴッホを長く重視し、特に色と自然の関係に強い関心を持っていました。
晩年――樹木、ひまわり、色の密度
1980年代の《La Grande Vallée》
1983年の《La Grande Vallée》群は、友人が語った幼少期の理想的な谷の記憶をきっかけに制作されました。Foundationは、この作品群をミッチェルの制作の中でも特に色彩が強く、密集した筆触によって自然の再生力を感じさせるものとして紹介しています。
ここでも実在の谷を写した風景ではありません。他人の記憶として聞いた場所さえ、色と筆触の出発点になります。「自分が見たもの」だけが制作の材料ではなく、言葉によって受け取ったイメージも絵画へ変換されています。
病気の中で制作を続ける
1984年に癌と診断された後も、ミッチェルは制作を続けました。1989年には股関節手術後、パリのモンパルナスに別のスタジオを借り、パステルにも集中的に取り組みます。晩年には色彩がさらに鮮烈になり、樹木やひまわりを思わせる形が以前より読み取りやすくなる作品も現れます。
Foundationは1992年の作品について、抽象と具象の境界が以前より透過的になり、樹木やひまわりといった直接的な参照が強まったと説明しています。これは抽象を放棄したというより、長年避けてきた具体的な像との距離を最後まで変化させ続けたものです。
《Merci》
1992年の《Merci》は最晩年の作品の一つです。Foundationによれば、黄色、青などの強い色が白い画面の中に持ち上がるように配置され、重い色彩と軽い空間が均衡しています。
題名の「Merci」は感謝を意味します。ミッチェルはファン・ゴッホがひまわりの存在へ感謝したことに触れ、自分は木が存在することへ感謝するという趣旨を語りました。長く描き続けた自然との関係が、晩年には非常に直接的な言葉へ近づいています。
抽象表現主義のなかでの位置
「女性の抽象表現主義者」という補助的な位置から見る必要はない
1950年代のニューヨーク美術界では男性作家が批評の中心になりやすい環境がありましたが、ミッチェルは生前から継続して主要ギャラリーで発表し、Whitney、MoMA、Art Institute of Chicagoなどに早くから収蔵されています。Foundationによれば、1974年にはWhitneyで重要な個展が開催され、1982年にはMusée d’Art Moderne de la Ville de Parisで個展を開いた最初のアメリカ人女性作家となりました。
ジェンダーによる制度的条件は無視できませんが、それだけを説明の中心にすると、約45年間にわたる絵画上の変化が見えにくくなります。筆触、色、白地、記憶、多面構成、スケールという具体的な問題を追う必要があります。
抽象表現主義を一つの様式として反復しなかった
ミッチェルは1950年代に評価を確立した後、その画面を固定しませんでした。1960年代には投げる・流す絵具を増やし、1970年代には大きな色面と多面構成、1980年代には密度の高い色の網、1990年代には自然物を想起させる形へと変化しています。
その意味で、彼女を1950年代ニューヨークの「ジェスチャー絵画」の一例としてだけ見るのは不十分です。抽象絵画という限られた条件の中で、風景や記憶をどこまで異なる形へ変換できるかを生涯試し続けた画家でした。
画像利用について
ジョアン・ミッチェルは1992年に死去しており、作品は現在も著作権保護下にあります。Joan Mitchell Foundationはミッチェルの全作品および著作について著作権許諾を管理し、作品画像の複製には申請を求めています。許諾された画像には原則として「© Estate of Joan Mitchell」のクレジットが必要です。ART LIBRARYでは主要作品画像を無断転載せず、現段階では作品情報とFoundationおよび所蔵館へのリンクで構成します。
略年譜
- 1925
- 2月12日、シカゴに生まれる。
- 1942–1944
- Smith Collegeに在籍。
- 1944–1947
- School of the Art Institute of Chicagoで学び、BFAを取得。
- 1947
- James Nelson Raymond Foreign Traveling Fellowshipを受け、フランスへ渡る。
- 1948–1950
- キュビスムなどを参照しながら具象的な風景・人物を解体し、急速に抽象へ移行。
- 1949
- アメリカへ戻り、ニューヨークに定住。
- 1951
- ニューヨークの「9th Street Show」に参加。ニューヨーク・スクールの活動へ本格的に加わる。
- 1952
- New Galleryでニューヨーク初個展。
- 1955
- ジャン=ポール・リオペルと出会う。以後ニューヨークとフランスを頻繁に往復。
- 1956
- 《Hemlock》を制作。
- 1957
- 《Ladybug》《George Went Swimming at Barnes Hole, but It Got Too Cold》などを制作。アーヴィング・サンドラーが制作過程を取材。
- 1958
- Whitney Museumが《Hemlock》を購入。Art Institute of Chicagoも《City Landscape》を収蔵。
- 1959
- パリへ生活の中心を移し、rue Frémicourtにスタジオを構える。
- 1960年代前半
- 絵具を投げる、滴らせる、こするなど技法を拡張し、中央に凝縮した色塊を持つ作品を制作。
- 1968
- パリ北西のヴェトゥイユへ移り、セーヌ川を望む環境を主要制作拠点とする。
- 1969
- 《Sunflower》を含むひまわりの作品群を制作。
- 1971
- 《Plowed Field》など巨大な多面作品を制作。
- 1974
- Whitney Museum of American Artで重要な個展が開催される。
- 1978–1979
- 《Salut Tom》《La Vie en rose》など大規模な多面作品を制作。
- 1982
- Musée d’Art Moderne de la Ville de Parisで個展。Foundationによれば同館で個展を開いた最初のアメリカ人女性作家となる。
- 1983
- 《La Grande Vallée》作品群を制作。
- 1984
- 癌と診断されるが、その後も制作を継続。
- 1988–1989
- 大規模回顧展「The Paintings of Joan Mitchell: Thirty-six Years of Natural Expressionism」がアメリカ各地を巡回。
- 1989
- 股関節手術後、パリ・モンパルナスにスタジオを借り、パステル作品にも集中的に取り組む。
- 1991
- パリ市のLe Grand Prix des Arts(Peinture)を受賞。
- 1992
- 《Merci》《Ici》など最晩年の作品を制作。10月30日、パリで死去。67歳。
- 1993
- 遺言に基づきJoan Mitchell Foundationが設立される。
参考資料・出典
本ページはJoan Mitchell Foundation、The Museum of Modern Art、Whitney Museum of American Art、SFMOMAなどの美術館・財団資料を参照してART LIBRARYが独自に執筆しました。原文の全文翻訳ではありません。
- Joan Mitchell Foundation — Biography
- Joan Mitchell Foundation — Illustrated Timeline
- Joan Mitchell Foundation — An Introduction Through Key Works
- Joan Mitchell Foundation — Materials and Practice
- Joan Mitchell Foundation — Places and Studios
- Joan Mitchell Foundation — Rights & Reproductions
- The Museum of Modern Art — Ladybug
- Whitney Museum of American Art — Hemlock
- SFMOMA — Bracket
資料確認日:2026年10月1日 / ART LIBRARY