Art Library

Jackson Pollock

ジャクソン・ポロック

アメリカ / 1912–1956 / 抽象表現主義

Installing Jackson Pollock’s Autumn Rhythm: Number 30, 1950 (The Met)
Jackson Pollock in 60 seconds (Royal Academy of Arts)
Jackson POLLOCK ‘Blue poles’ (Number 11, 1952) 1952 (National Gallery of Australia)
How Jackson Pollock Changed Painting Forever(Sotheby’s)
Jackson Pollock Action Painting

1930年代のアメリカでは、大恐慌によって画家たちも仕事を失い、多くが政府の美術事業に参加しながら制作を続けていました。当時、近代美術の中心地として知られていたのはパリで、アメリカでは自国の風景や労働者の暮らしを描く絵画が広まる一方、ニューヨークの若い画家たちはピカソやミロなどヨーロッパの前衛美術にも強くひかれていました。1940年代に入ると、ナチスによる迫害や第二次世界大戦を逃れたマックス・エルンストやアンドレ・ブルトンらがアメリカへ渡り、ニューヨークで若い画家たちと交流します。戦争の時代を生きる画家たちは、目に見える風景や出来事だけでなく、人間の不安や感情、無意識の世界をどう表現するかを模索していました。ヨーロッパの新しい美術を学びながら、その模倣にとどまらない独自の絵画を生み出そうとする動きの中に、ジャクソン・ポロックもいました。

ジャクソン・ポロック(1912–1956)は、床に広げたカンヴァスへ絵具を流し、複雑な線を重ねた作品で知られています。その仕事を高く評価したのが批評家クレメント・グリーンバーグでした。完成した画面の構成を重視する批評家と、無意識や自分の内面から生まれる形に関心を寄せた画家。その違いを知ると、ポロックの作品を別の角度から見ることができます。

西部での少年時代からニューヨークでの修業、リー・クラスナーとの出会いと結婚、海辺のアトリエでの制作、そして成功後の転換まで、彼の生涯にはさまざまな出来事がありました。初期の人物や動物の絵から《壁画》、巨大なドリップ作品、黒い絵へと変わっていく歩みをたどります。

アメリカ西部からニューヨークへ

移動の多い少年時代と兄たちの影響

1912年1月28日、ポロックはワイオミング州コーディで五人兄弟の末子として生まれました。家族は農場経営などを試みながらアリゾナやカリフォルニアを転々とし、ジャクソンは広い西部の土地で育ちます。父が測量の仕事をしていたため、少年もその仕事に同行することがありました。学校生活は落ち着かない時期もありましたが、美術への関心を持ち続けます。

長兄チャールズはすでに絵を学んでおり、ニューヨークでの生活を弟に勧めました。1930年、18歳になったポロックは兄を頼って東部へ移り、アート・スチューデンツ・リーグに通い始めます。画家になる道は、兄弟の存在と家族の移動の歴史の中から開かれました。(参照:ポロック=クラスナー・ハウス | ポロックの生涯)

ベントンの指導と壁画への関心

アート・スチューデンツ・リーグで学んだのは、アメリカ地域主義の画家トーマス・ハート・ベントンでした。ベントンは農村や労働者の生活を描き、人物と風景をうねるような構図で結び付ける画家です。ポロックは素描や構図の基本を学び、古典絵画も研究しました。1930年代初頭、ベントンの大型壁画のモデルも務めています。

同じニューヨークではメキシコの画家ホセ・クレメンテ・オロスコも巨大な壁画に取り組んでいました。ポロックは師の具象的な画風からのちに離れますが、数メートルに及ぶ画面を、端から端まで連続した動きで構成する経験は後年の作品につながります。(参照:ポロック=クラスナー・ハウス | ポロックの生涯)

大恐慌のなかで絵を描き続ける

1930年代のアメリカは大恐慌のさなかにあり、若い画家が作品を売って暮らすことは困難でした。ポロックは1935年から連邦美術事業で働き、公共事業による収入を得ながら絵画を続けます。仕事の時間を確保できたことは、独自の表現を探すうえで重要でした。

この頃の作品には人物、馬、荒々しい風景、激しく曲がる線が見られます。幻想的な風景を描いたアルバート・ピンカム・ライダーにも関心を持ち、地形や動物の形を写実と異なる方法で描きました。完成されたドリップ技法からは遠い作品群ですが、重い色彩と動きのある形は、初期の探究を伝えています。(参照:ポロック=クラスナー・ハウス | ポロックの生涯)(参照:スミソニアン美術史資料館 | ポロックとクラスナーの文書)

神話と無意識を描こうとする

シケイロスの実験工房で出会った新しい材料

1936年、ポロックはメキシコの壁画家ダビッド・アルファロ・シケイロスがニューヨークで開いた実験工房に参加しました。そこでは工業用塗料や噴霧器などを使い、絵具を流し、飛ばし、従来の筆とは違う方法で画面を作っていました。近代産業が生んだ材料を絵画に取り込む試みです。

ポロックにとって、この工房は液体の絵具を操作する新しい選択肢を知る機会になりました。1947年に床上制作へ移るまでには十年ほどの時間があり、技法は一度の発見で完成したわけではありません。壁画への関心、実験的な材料、個人的な図像が、しばらく並行して発展していきます。(参照:ポロック=クラスナー・ハウス | ポロックの生涯)

シュルレアリスム、無意識、描くこと

第二次世界大戦期、欧州から亡命したシュルレアリスムの芸術家たちはニューヨークで活動していました。ポロックはピカソやミロの絵に強くひかれ、夢、神話、心の奥から生まれるイメージに関心を深めます。また1930年代末から治療を受ける過程で、ユング心理学の象徴や無意識に関する考え方にも接しました。

1944年、雑誌『Arts & Architecture』の質問に答えたポロックは、欧州近代美術の中でも、芸術の源泉を無意識に見いだす考えに強く関心があると語っています。これは作品の成功後に批評家が与えた説明ではなく、本人が初期の段階で述べた関心です。彼は、まだ形になっていない内面の経験を、絵を描くことで見いだそうとしていました。(参照:ニューヨーク近代美術館(1956年) | ポロック本人の発言集)(参照:ポロック=クラスナー・ハウス | ポロックの生涯)

《雌狼》の中で動物と記号が重なる

1943年の《雌狼》(The She-Wolf)には、左を向く動物の身体と、文字を思わせる黒い線や印が入り交じっています。題名からはローマを建国した双子を育てた雌狼の神話が連想されます。ポロックはその物語を作品の唯一の意味として説明することを避け、イメージを一つの答えに閉じ込めませんでした。

表面の多彩な絵具の跡には、のちのドリップ作品へつながる自由な材料の扱いも見られます。1943年の初個展に出品され、翌年ニューヨーク近代美術館が購入しました。神話や無意識への関心と、具体的な画面の組み立てが結び付いた初期の重要作品です。(参照:ニューヨーク近代美術館 | 《雌狼》(1943年))

「アメリカらしい絵画」への距離

1930年代のアメリカでは、ヨーロッパに頼らず自国独自の美術を育てようとする声がありました。ポロックは1944年の回答で、国ごとに切り離した絵画を作る発想に疑問を示しています。彼にとって重要だったのは、ピカソやミロらが取り組んでいた現代絵画の問題でした。

彼は、自分がアメリカ人であることは、描かれた絵にも自然に現れると考えていました。後に作品が「新しいアメリカ絵画」の象徴として世界へ紹介されることと、画家自身が国民的な様式を意識的に作ろうとしたことは、同じではありません。(参照:ニューヨーク近代美術館(1956年) | ポロック本人の発言集)

ペギー・グッゲンハイムと巨大な《壁画》

画商の支援と最初の個展

ニューヨークで前衛美術を紹介していたペギー・グッゲンハイムは、ポロックの作品に注目して1943年に「アート・オブ・ディス・センチュリー」で初個展を開きました。欧州のシュルレアリスムとアメリカの若手画家が出会うこの画廊は、作品を批評家や収集家に知ってもらう大切な場所でした。

グッゲンハイムはポロックと契約し、ニューヨークの自宅の玄関ホールのために巨大な絵を注文します。経済的な支援と発表の機会が同時に得られたことで、彼は従来よりはるかに大きな画面に取り組めるようになりました。(参照:ポロック=クラスナー・ハウス | ポロックの生涯)(参照:アイオワ大学スタンリー美術館 | 《壁画》(1943年))

《壁画》の六メートルに及ぶ絵の流れ

《壁画》(Mural、1943年)は幅約604センチの作品です。縦に伸びる形と左右へ大きくうねる線が連続し、身体を持つ生き物や行列を思わせながら、明確な物語にはまとまりません。人間の視野を越える横幅が、作品の前を移動して鑑賞する経験を生みます。

制作を一晩で終えたという有名な逸話は、ゲティ保存修復研究所による科学調査と一致しません。絵具層の分析から、いくつかの段階を経て制作されたことが示されています。一部に流動的な絵具の飛散が見つかる点も重要です。ドリップ技法が確立する以前から、大画面と絵具の物理的な動きを試していました。(参照:ゲティ保存修復研究所 | 《壁画》の調査)(参照:アイオワ大学スタンリー美術館 | 《壁画》(1943年))

リー・クラスナーとの出会いと結婚

すでに独自の仕事を持っていたクラスナー

リー・クラスナー(1908–1984)はブルックリンに生まれ、クーパー・ユニオンやナショナル・アカデミーで絵画を学びました。1930年代にはハンス・ホフマンの指導でキュビスムや近代絵画の構成を深め、アメリカ抽象美術家協会の活動にも参加していました。ポロックと出会ったとき、彼女はすでに同時代の前衛絵画に深く関わる画家だったのです。

クラスナーはマティスの色彩、モンドリアンの構成、ピカソの形態などを研究し、自分の絵画を育てていました。相手の作品を鋭く見極める力は、そうした実践の中で培われたものです。彼女の経歴を結婚から語り始めると、それまで積み重ねてきた仕事が見えなくなってしまいます。(参照:ポロック=クラスナー・ハウス | クラスナーの画業)(参照:ニューヨーク近代美術館 | リー・クラスナー)

二人の出会いと制作をめぐる交流

二人は1941年末から1942年初頭にかけてニューヨークで知り合いました。1942年の合同展「French and American Painting」をきっかけに、同じ展覧会に名を連ねたポロックの作品をクラスナーが見に行ったことが、親しい交流へつながります。クラスナーは後に、彼の画面から受けた強い印象を回想しています。

二人は交際を始め、互いに制作の問題を話し合うようになりました。クラスナーは知り合いだった画家や批評家をポロックのアトリエに案内し、グリーンバーグとの関係が生まれるうえでも重要な役割を果たします。同時にポロックの自発的な線の扱いは、緻密な構成を重視していたクラスナー自身にも刺激を与えました。(参照:ポロック=クラスナー・ハウス | クラスナーの画業)(参照:スミソニアン美術史資料館 | クラスナーの口述記録)(参照:ニューヨーク近代美術館 | リー・クラスナー)

結婚、家の購入、海辺への移住

1945年10月、ポロックとクラスナーはニューヨークで結婚しました。二週間ほど後の11月5日、ロングアイランド東部のスプリングスにある小さな農家へ移ります。ペギー・グッゲンハイムが頭金2,000ドルを貸し、夫妻は銀行から住宅ローンを借りて住まいを手に入れました。まだ画家としての成功が確実でない時期の大きな決断でした。

家には当初、屋内の配管設備もセントラルヒーティングもありません。二人は生活を整える一方で、それぞれの仕事場を確保しました。クラスナーは家の中の小さな部屋、ポロックはのちに改装した納屋で絵を描きます。住まいの環境そのものが、それぞれの作品の規模と作り方に関係するようになりました。(参照:ポロック=クラスナー・ハウス | 住居と制作環境)

スプリングスの家で二人が描いたもの

床を自由に使える納屋のアトリエ

1946年、ポロックは家の裏の納屋を敷地の別の場所へ移し、広いアトリエへ改造しました。暖房も人工照明も乏しい建物でしたが、大きなカンヴァスを広げて歩き回ることができました。画面に対して正面から筆を動かすだけでなく、四方から近づける制作条件が整います。

納屋の床には流れ落ちた絵具が何年も積み重なりました。1953年に床が覆われた後、1987〜88年の調査で古い床板が再発見され、《秋のリズム》や《ブルー・ポールズ》などに関係する色の痕跡が保存されています。現在は制作の物理的な記録を確かめられる場所です。(参照:ポロック=クラスナー・ハウス | 住居と制作環境)(参照:ポロック=クラスナー・ハウス | 保存されたアトリエ)

クラスナーの《リトル・イメージ》

ポロックが広い納屋を使う一方、クラスナーは家の小さな部屋で絵を描き、《リトル・イメージ》と呼ばれる作品群を発展させました。小さな形や線が密に並び、読めない文字の列を思わせる画面です。同じ時代の二人の絵を並べると、共通する抽象への関心と、規模や構成の違いがよく分かります。

クラスナーは家事や対外的なやり取りにも多くの時間を割き、ポロックの仕事を伝える役割を担いました。その一方で、自分の絵画を捨てることはありませんでした。やがて自作を切り刻んで新しい画面へ組み直すコラージュにも進みます。夫婦が互いに刺激を受けながらも、独立した画家として試行錯誤していたことは重要です。(参照:ニューヨーク近代美術館 | リー・クラスナー)(参照:ポロック=クラスナー・ハウス | クラスナーの画業)

床へ置いたカンヴァスと流れる絵具

四方から制作できる画面へ

1947年頃、ポロックは床にカンヴァスを置き、棒や硬い筆、缶から流動性の高い塗料を落とす方法を本格化させました。筆が画面に触れなくても線が生まれます。液体の粘度、棒を動かす速度、画面との距離、身体の向きによって線の太さや曲がり方が変わり、床の四方を歩きながら画面全体を作ることができます。

ポロックは1947〜48年に雑誌『Possibilities』へ寄せた「My Painting」で、床の上では自分も絵の一部になったように感じると説明しています。これは新技法を発明したという宣伝文句ではなく、制作場所と身体の関係についての本人の実感です。(参照:ニューヨーク近代美術館(1956年) | ポロック本人の発言集)(参照:ポロック=クラスナー・ハウス | 保存されたアトリエ)

《フル・ファゾム・ファイヴ》に重なる二つの技法

1947年の《フル・ファゾム・ファイヴ》は高さ約129センチ、幅約77センチの画面に青緑、黒、銀などの絵具が重なります。ニューヨーク近代美術館の記録によれば、ポロックは初めイーゼル上で筆やパレットナイフを用い、その後画面を床へ移して塗料を滴らせました。新旧の制作方法が同じ作品に残っています。

絵具の厚い表面には鍵、釘、硬貨、タバコの吸い殻、ボタンなどが埋め込まれています。物の輪郭を描く線よりも、塗料そのものの厚みや動きが目立ちます。画面は一枚の平らな像であると同時に、物体が層を作る場所でもありました。(参照:ニューヨーク近代美術館 | 《フル・ファゾム・ファイヴ》)

ポロック自身が語った、絵を描いているとき

「My Painting」では、制作している間は何をしているのか十分に意識しておらず、描いたものと向き合ううちに作品が分かってくる、という趣旨を語っています。形を壊したり描き直したりすることも、画面との関係の中で起こると述べました。最初から完成像を決めて、その通りに塗る方法とは異なる経験です。

画面が偶然だけでできたと言っているわけではありません。現れた形を見て、続けるか、変更するかを判断しています。ポロックがアメリカ先住民の砂絵の制作方法に触れているのも同じ文章です。儀礼に結び付いた砂絵と彼の絵画は背景が異なりますが、床の上で画面と向き合う方法への関心を示す発言です。(参照:ニューヨーク近代美術館(1956年) | ポロック本人の発言集)

最初のドリップ作品が公開される

ベティ・パーソンズ画廊での発表

ペギー・グッゲンハイムがヨーロッパへ移ると、ポロックはベティ・パーソンズ画廊で発表するようになります。1948年1月の個展では、《フル・ファゾム・ファイヴ》などの新しい作品群が紹介されました。従来の風景画や人物画のように見える対象を示さず、線や色の重なりが画面全体を覆う作品は、鑑賞者にも新しい見方を求めました。

当時の評価は割れていました。大胆な構成を評価する批評がある一方、塗料を撒いただけだと受け取る人もいました。後世に有名になった技法が、展覧会の時点で万人に理解されたわけではありません。(参照:ニューヨーク近代美術館 | ポロックの年譜)(参照:ポロック=クラスナー・ハウス | ポロックの生涯)

《ナンバー1A、1948》の手形と番号

《ナンバー1A、1948》では、横幅約264センチの画面に黒、白、茶色、灰色の線が重なり、ポロック自身の手形も残っています。落とした絵具による線と、直接触れた手の跡を一緒に見ることができます。手で触れずに描く方法へ移っても、身体との接点が完全に消えたわけではありません。

同じ頃、ポロックは作品に番号を付けることが増えました。クラスナーは後に、題名が鑑賞者に特定の物語を想像させることを避け、絵そのものを見てもらうためだったと説明しています。数字の名を持つ絵の前では、見る側が線の密度や色の関係を自分で探すことになります。(参照:ニューヨーク近代美術館 | 《ナンバー1A、1948》)

巨大な絵画と高まる名声

『ライフ』誌が紹介した新しいアメリカの画家

1949年8月、アメリカの大衆誌『ライフ』は、ポロックが合衆国で最も優れた現役画家なのかと問いかける見出しの記事を掲載しました。作品を見る機会がなかった多くの読者にも名前が広がり、抽象絵画と、少し荒々しい印象を持つ画家の写真が一緒に知られるようになります。

成功は生活にも表れました。1949年末には展覧会の売上によって、夫妻が暮らす家に配管と暖房を整える余裕が生まれます。貧しい時代から絵を描いてきたポロックにとって、一般的な知名度の拡大は生活の変化も伴う出来事でした。(参照:ポロック=クラスナー・ハウス | ポロックの生涯)(参照:ポロック=クラスナー・ハウス | 住居と制作環境)

《秋のリズム》を近くと遠くから見る

1950年の《秋のリズム》(Autumn Rhythm: Number 30)は、幅約526センチ、高さ約267センチの巨大な絵です。下塗りも木枠への張り込みもしていないカンヴァスを床に置き、黒、白、褐色などの塗料を棒や硬い筆から流しました。画面には線の密度が高い場所と、カンヴァスの地が大きく見える場所があります。

遠くからは画面全体のリズムが見え、近づくと細い線と太い線、重力で垂れた滴の違いが分かります。中心となる人物や物がない「オールオーヴァー」の構成は、端まで単調な模様で埋めることではありません。密度の差や線の方向が、見る人の視線を動かします。(参照:メトロポリタン美術館 | 《秋のリズム》(1950年))

《ワン》と、重ねられた制作の時間

《ワン:ナンバー31、1950》も約5.3メートルの横幅を持つ作品です。黒、白、アルミニウム色などの線が重なり、細かな飛沫の奥から太い流れが見えます。大画面のどこを見ても、線が交差して異なる層を作っています。

ニューヨーク近代美術館の2013年の保存修復調査では、絵具層や画面に入り込んだ小さな物体が調べられました。作品は一回の動作で完成したものではなく、何度も作業し、確認して線を重ねたものです。ワシントンのナショナル・ギャラリーが所蔵する《ラベンダー・ミスト》にも、塗料の質感や手形など制作中の痕跡が残ります。(参照:ニューヨーク近代美術館 | 《ワン:ナンバー31、1950》)(参照:ニューヨーク近代美術館 | 《ワン》の修復調査(2013年))(参照:ワシントン・ナショナル・ギャラリー | 《ラベンダー・ミスト》の技法)

ハンス・ナムートが撮った制作中の姿

1950年、写真家ハンス・ナムートがスプリングスの納屋でポロックを撮影しました。カンヴァスの周囲を歩き、棒や缶を動かして絵具を落とす姿が、写真と短い映像に残っています。完成した画面だけでは伝わりにくい制作姿勢が、多くの人に知られるようになりました。

写真に収められた瞬間は、実際の長い制作工程の一部です。画家は線を重ねた後で画面から離れ、次に加える線を考え、作業を再開します。制作中の姿の印象が強いため、作品そのものの細かな判断が見えにくくなった面もありました。(参照:ニューヨーク近代美術館 | ポロックの年譜)(参照:ニューヨーク近代美術館 | 《ワン》の修復調査(2013年))

ポロックが描きたかったものとグリーンバーグの評価

ポロック自身の言葉に残る最初の関心

1944年のポロックは、芸術の源泉としての無意識に関心を示していました。初期の絵には動物や人間、神話的な記号が現れます。1947〜48年の「My Painting」では、描いている間に作品がどのような姿になっていくかを確かめ、自分も画面の中にいるように制作する感覚を語ります。技法が変わっても、内面から形が生まれることへの関心は続いていました。

1950年頃、ウィリアム・ライトとの録音対話でポロックは、現代の画家は外の対象を描くことだけを目指さず、自分の内側から制作を始めると語っています。飛行機や原子爆弾のある時代には、新しい時代にふさわしい方法が要るとも述べました。彼の発言には、個人の感情と、現代の生活に向き合う意識の双方が読み取れます。(参照:ニューヨーク近代美術館(1956年) | ポロック本人の発言集)(参照:スミソニアン協会 | ポロックの録音インタビュー)

グリーンバーグが評価した画面全体の構成

クレメント・グリーンバーグ(1909–1994)は1943年からポロックを論じ、同時代のアメリカ絵画に大きな可能性をもたらす画家として高く評価しました。彼が見ていたのは、作者の心の動きについての説明だけではありません。色と線がどう組み合わされ、絵画としてのまとまりを生んでいるかという問題です。

1948年の論考「The Crisis of the Easel Picture」でグリーンバーグは、中心に主要人物や見どころを置く従来の画面とは異なり、反復する線や色が全体に広がる構成を論じました。ポロックのドリップ作品は、画面のあらゆる場所が見る対象となる例です。グリーンバーグはその特徴を、近代絵画の展開の中で重要な達成として評価しました。(参照:ゲティ研究所 | グリーンバーグの批評と資料)(参照:美術史研究 | グリーンバーグの「イーゼル絵画の危機」と《壁画》)(参照:ニューヨーク近代美術館 | ポロックの批評史)

制作の理由と、完成作品への評価を分ける

同じ絵を二人の方向から考えてみると分かりやすくなります。ポロックは床に立ち、塗料を流して生まれた形を見つめ、必要なら線を足したり壊したりしました。そこには無意識や身体感覚への関心がありました。グリーンバーグは完成した画面から、中心を持たない新しい構図と線や色の秩序を見いだしました。

つまり、画家が描こうとした理由と、批評家がその絵に見いだした美術史的な価値は別の問いです。ポロックが初めから絵画の平面性を理論的に証明しようとしていたと理解する根拠はありません。一方、彼が画面の構成を考えず感情のまま描いたという説明も正しくありません。二つの関心は重なりますが、出発点まで同じだったわけではないのです。(参照:ニューヨーク近代美術館(1956年) | ポロック本人の発言集)(参照:ニューヨーク近代美術館 | ポロックの批評史)(参照:ゲティ研究所 | グリーンバーグの批評と資料)

ローゼンバーグは制作という出来事に注目した

1952年、評論家ハロルド・ローゼンバーグは「The American Action Painters」で、カンヴァスを行為が起こる場として考えました。これは、出来上がった画面の構成を強く評価したグリーンバーグとは別の視点です。絵を描く判断と動きに目を向ける「アクション・ペインティング」の説明は、ポロックを理解する際に大きな影響を持ちました。

ポロックが1947年に床で制作を始めた時点で、この言葉が確立していたわけではありません。作品が先にあり、批評が後からそれぞれの意味を読み取りました。グリーンバーグもローゼンバーグも重要ですが、いずれかの解釈をそのまま画家本人の制作意図に置き換えることはできません。(参照:ニューヨーク近代美術館 | ポロックの批評史)(参照:ニューヨーク近代美術館 | ポロックの年譜)

黒い作品の中から再び現れた像

色を減らした《エコー》と黒い流れ

1951年、ポロックは成功を収めた多色のドリップ作品から方向を変え、下塗りしていないカンヴァスへ黒いエナメルを流した作品群を発表します。《エコー:ナンバー25、1951》では、黒い線が大きな余白を残して広がり、顔や身体を思わせる形も見えてきます。色数を絞ったことによって、一本一本の線の向きがはっきり目に入ります。

ニューヨーク近代美術館はこのシリーズを、ポロックが非具象的な画面から別の方向へ進んだ仕事として説明しています。国立西洋美術館の《ナンバー8、1951、黒い流れ》も、同じ時期の重要な作品です。ポロックは評判になった方法をそのまま続けるより、新しい画面の可能性を探っていました。(参照:ニューヨーク近代美術館 | 《エコー》(1951年))(参照:国立西洋美術館 | 《ナンバー8、1951、黒い流れ》)

具象への関心は消えていなかった

《雌狼》に動物の身体が描かれていたことを思い出すと、1951年の黒い絵に現れる人物らしい形は、初期から続く関心として見えてきます。1940年代後半には線を密に重ねることで像が見えにくくなっていましたが、黒い線を減らすと、空白の中から再び顔や身体の断片が立ち上がります。

1956年の発言でポロックは、無意識から制作すれば人物像が現れると述べています。抽象へ向かって一直線に進み、最後に方向を失ったという説明では、その時々の試みが見えにくくなります。(参照:ニューヨーク近代美術館 | ポロックの年譜)(参照:ニューヨーク近代美術館 | 《エコー》(1951年))

《ブルー・ポールズ》と晩年の新しい画面

《ブルー・ポールズ》の八本の縦線

1952年の《ブルー・ポールズ》は幅約490センチの絵で、細かな線や色の網目の上に八本の青黒い縦線が入っています。床上で流した塗料が作る複雑な表面に、力強い方向性が加わりました。線の網目と縦の柱のような形の両方を、同時に見ることができます。

オーストラリア国立美術館の保存研究では、八本の縦線は絵具を付けた木材の縁を画面へ押しつける方法で作られたと説明されています。ポロックは流動的な塗料を使い続けながら、画面を区切る明確な形も取り入れていたのです。(参照:オーストラリア国立美術館 | 《ブルー・ポールズ》)

《深淵》と筆による大きな白い領域

1953年の《深淵》(The Deep)は、黒く暗い部分を囲むように白い絵具が大きく広がる作品です。線が画面全体へ均等に伸びるドリップ作品とは違い、白い面と黒い裂け目のような形が強い対照を作っています。筆を使った部分もあり、材料や構図の選び方は以前と変わっています。

ポロックは一つの技法に自分を閉じ込めず、描かれる形と絵具の表面の関係を考え続けました。黒い線の作品と《深淵》を並べると、ドリップ作品の成功だけでは語れない、晩年の試行錯誤が見えてきます。(参照:ポンピドゥー・センター | 《深淵》(1953年))

制作の停滞、夫婦の別居状態、突然の死

制作が難しくなった最後の数年

1950年代前半、ポロックはシドニー・ジャニス画廊へ移り、1953年には《深淵》などの新しい作品を発表しました。その一方で、長く抱えていた飲酒の問題が再び深刻になり、制作する日が少なくなっていきます。1955年には展覧会が開かれましたが、以前のように次々と大画面を仕上げる状況ではなくなっていました。

美術界ではその名が知られ、作品に注目が集まっていました。しかし売れる画家になったことと、自分が納得できる絵を続けて描けることは同じではありませんでした。生涯の終わりを、技法の発展だけでなく制作環境や人間関係の変化とともに見る必要があります。(参照:ポロック=クラスナー・ハウス | ポロックの生涯)(参照:スミソニアン美術史資料館 | ポロックとクラスナーの文書)

クラスナーとの関係の変化

二人は長く、ポロックの飲酒をめぐる困難と、創作や生活の負担を抱えていました。関係は1950年代半ばに悪化し、ポロックは若い美術家ルース・クリグマンと交際するようになります。クラスナーは1956年夏、ヨーロッパへ旅行に出かけ、その間に夫婦は離れて暮らすことになりました。

クラスナーもこの時期、自らの絵画に取り組んでいました。1956年の《予言》(Prophecy)には、絡み合う身体を思わせる形が現れ、それ以前の小さな抽象作品から変化しています。夫婦の不和だけで彼女の作品を説明することはできませんが、二人が別々の芸術上の問題に向かいながら困難な日々を過ごしていたことは確かです。(参照:ポロック=クラスナー・ハウス | ポロックの生涯)(参照:ポロック=クラスナー・ハウス | クラスナーの画業)

交通事故とクラスナーに届いた知らせ

1956年8月11日、ポロックはイーストハンプトンで酒を飲んだ状態で車を運転し、事故を起こして亡くなりました。44歳でした。乗っていたエディス・メッツガーも死亡し、ルース・クリグマンは負傷して生き残りました。事故は、本人だけでなく同乗者の命も奪う出来事でした。

クラスナーは旅行先のパリで知らせを受け、急いでアメリカへ戻りました。ニューヨーク近代美術館が企画していた存命作家の展覧会は、1956年末から翌年にかけて没後回顧展として開催されました。画家の仕事は、突然終わりを迎えたのです。(参照:ポロック=クラスナー・ハウス | ポロックの生涯)(参照:ニューヨーク近代美術館 | ポロックの年譜)

主要作品

1943年の《壁画》から1947年の床上制作、1950年の巨大なドリップ作品、1951年の黒い絵、1952年の《ブルー・ポールズ》、1953年の《深淵》まで、制作の変化を伝える8作品を収録しています。

壁画

Mural / 1943 / 油彩、カゼイン・カンヴァス / 242.25 × 603.89 cm

Stanley Museum of Art, The University of Iowa

ペギー・グッゲンハイムのニューヨークの自宅玄関ホールのために依頼された巨大作品。後年のドリップ技法以前ですが、画面全体を横切る反復的な運動と約6メートルのスケールによって、ポロックの制作を大きく転換させました。Stanley Museumはこの作品を1943年、油彩とカゼインによるカンヴァス作品として記録しています。

所蔵館の作品情報 ↗

フル・ファゾム・ファイヴ

Full Fathom Five / 1947 / 油彩・カンヴァス、釘、画鋲、ボタン、鍵、硬貨、タバコ、マッチ等 / 129.2 × 76.5 cm

The Museum of Modern Art, New York

イーゼル制作から床上制作への移行を示す初期の重要作品。MoMAによれば、最初はイーゼル上で筆とパレットナイフを使い、後に床へ移して黒と銀のエナメルを滴らせました。表面には鍵、タバコ、釘、硬貨なども埋め込まれ、イメージと物質が一体化しています。

所蔵館の作品情報 ↗

ナンバー1A、1948

Number 1A, 1948 / 1948 / 油彩、エナメル塗料・カンヴァス / 172.7 × 264.2 cm

The Museum of Modern Art, New York

床に置いたカンヴァスへ流動性の高い塗料を滴らせる方法が明確に現れた作品。画面右上付近にはポロック自身の手形が残されています。この時期から作品名に番号を使うことが増え、具体的な題名によって鑑賞を方向づけることを避けました。

所蔵館の作品情報 ↗

秋のリズム(ナンバー30)

Autumn Rhythm (Number 30) / 1950 / エナメル・カンヴァス / 266.7 × 525.8 cm

The Metropolitan Museum of Art, New York

約5.3メートル幅の巨大作品。Metによれば、ポロックは下処理も枠張りもしていないカンヴァスを床に置き、棒や硬化したブラシを使って住宅用エナメル塗料を撒き、缶から直接滴らせることもありました。巨大な画面全体へ線が広がるオールオーヴァー構成の代表例です。

所蔵館の作品情報 ↗

ワン:ナンバー31、1950

One: Number 31, 1950 / 1950 / 油彩、エナメル塗料・カンヴァス / 269.5 × 530.8 cm

The Museum of Modern Art, New York

1950年夏から秋に連続して制作された巨大作品の一つ。MoMAは、缶から直接流す、棒や硬いブラシを使う、容器に穴を開けるなど複数の方法をポロックが使ったと説明しています。線の密度、速度、太さが異なり、一見無秩序な表面が多数の判断によって構成されています。

所蔵館の作品情報 ↗

エコー:ナンバー25、1951

Echo: Number 25, 1951 / 1951 / エナメル塗料・カンヴァス / 221 × 218.4 cm

The Museum of Modern Art, New York

成功した多色のドリップ作品から一転し、黒いエナメルを下地なしのカンヴァスへ流したシリーズの一作。線の中には目、顔、身体を思わせる形が現れます。MoMAは、ポロックが純粋な非具象へ固定されず、具象の痕跡を再導入した方向転換として説明しています。

所蔵館の作品情報 ↗

ブルー・ポールズ

Blue Poles / 1952 / 油彩、エナメル、アルミニウム塗料、ガラス・カンヴァス / 213 × 489.5 cm

National Gallery of Australia, Canberra

当初《Number 11, 1952》として展示され、後に《Blue Poles》という題名が付けられました。多数の流動的な線の上に八本の青黒い縦線が入り、オールオーヴァーな表面に強い構造を与えています。NGAの保存研究では、これらのポールが塗料を付けた木材の縁を画面へ押しつけて作られたことが示されています。

所蔵館の作品情報 ↗

深淵

The Deep / 1953 / 絵具・カンヴァス / 220.4 × 150.2 cm

Centre Pompidou, Paris

多色のドリップ作品とは大きく異なる晩年の作品。Centre Pompidouによれば、黒い地の上に大きな白い領域が広がり、長い裂け目のような黒い空間が残されています。1951年以降、ポロックがドリップ技法を一時的に離れ、筆やブラシも使いながら別の構成を模索していたことを示します。

所蔵館の作品情報 ↗

作品の表面に残った制作の時間

細い線、太い流れ、重なる層

ポロックのドリップ作品を近くで見ると、線の太さや色だけでなく、光沢、盛り上がり、塗料がとどまった箇所などが異なっています。《フル・ファゾム・ファイヴ》には物体が埋め込まれ、《ワン》には異なる塗料が幾重にも重なります。写真では同じ色面に見える箇所にも、実物では厚みや光り方の差があります。

塗料をいつ置いたかは、線がどの線の上を通っているかを追うことで部分的に分かります。保存修復による材料調査と、作品を見る人の観察をあわせると、完成した絵は一度きりの衝動の結果ではなく、多数の判断が残された表面として理解できます。(参照:ニューヨーク近代美術館 | 《ワン》の修復調査(2013年))(参照:ニューヨーク近代美術館 | 《フル・ファゾム・ファイヴ》)

遠くで構図を見て、近くで線を追う

《秋のリズム》や《ワン》のような大画面は、近くでは一本の線や絵具の跡が視野を占め、数歩離れるとそれらが画面全体に広がって見えます。どこか一か所を主役にせず、線の密度や方向を変えることで画面が構成されています。このような絵は「オールオーヴァー」と呼ばれます。

同じ絵でも見る距離によって経験が変わります。遠くでは構図が、近くでは塗料の物質性と制作の時間が見える。そうした往復をすると、グリーンバーグが注目した画面の秩序と、ポロックが取り組んだ制作の経験が、目の前の作品の中でどう出会っているかを自分の目で確かめられます。(参照:メトロポリタン美術館 | 《秋のリズム》(1950年))(参照:ニューヨーク近代美術館 | 《ワン:ナンバー31、1950》)(参照:ニューヨーク近代美術館 | ポロックの批評史)

ポロックの死後、クラスナーと作品が歩んだ時間

クラスナーが受け継いだ家とアトリエ

ポロックの死後、クラスナーは作品の管理や評価形成に関わりながら、自身の絵画制作を続けました。1957年以降は、かつてポロックが使っていた納屋を自分のアトリエとして使い始めます。広い空間で制作した《四季》(The Seasons、1957年)などには、以前の小品とは異なる身体的な広がりがあります。

クラスナーは1984年に亡くなるまで制作を続け、彼女の遺志によって夫妻の家は保存されました。現在のポロック=クラスナー・ハウスは、二人がそれぞれ異なる絵画を作った場所を伝えています。彼女をポロックの生涯の脇役とせず、独自の歩みを持つ画家として見ることが、夫妻の歴史を理解するために欠かせません。(参照:ポロック=クラスナー・ハウス | 住居と制作環境)(参照:ニューヨーク近代美術館 | リー・クラスナー)

批評の歴史の中で変わったポロック像

ポロックの死後、その作品はさまざまな考え方から読み直されました。グリーンバーグを受け継ぐ批評は色と線の構成を、ローゼンバーグらに近い批評は制作行為の痕跡を重視しました。さらに初期作品の神話的な象徴や、アメリカ美術が国際的に紹介される政治的・制度的な背景も研究されてきました。

2026年のメトロポリタン美術館の展覧会「Krasner and Pollock: Past Continuous」では、二人をそれぞれ独立した画家として扱いながら、互いの仕事の関係を検討しています。ポロックの作品を語る歴史も、一つの理論で終わったわけではありません。(参照:ニューヨーク近代美術館 | ポロックの批評史)(参照:メトロポリタン美術館 | クラスナーとポロック(2026年))

略年譜

1912
1月28日、ワイオミング州コーディに生まれる。その後アリゾナ、カリフォルニアなどで育つ。
1930
ニューヨークへ移住。Art Students Leagueでトーマス・ハート・ベントンに学ぶ。
1935
WPA Federal Art Projectに参加。
1936
ダビッド・アルファロ・シケイロスのExperimental Workshopに関わる。
1939–1940年代初頭
シュルレアリスム、神話的図像、メキシコ壁画などを参照した作品を制作。
1941
MoMAの「Indian Art of the United States」でナバホの砂絵制作を見る。
1942
リー・クラスナーと交流を深め、ニューヨークの前衛美術家たちとの関係が広がる。
1943
ペギー・グッゲンハイムのArt of This Centuryで初個展。《Mural》の制作を依頼される。
1944
MoMAが《The She-Wolf》を購入。
1945
リー・クラスナーと結婚。ロングアイランドのスプリングスへ移住。
1947
床に置いたカンヴァスへ塗料を滴らせる方法を本格化。《Full Fathom Five》などを制作。
1948
《Number 1A, 1948》など、オールオーヴァーなドリップ作品を制作。
1949
『Life』誌がポロックを大きく紹介し、一般的な知名度が高まる。
1950
《Autumn Rhythm》《One: Number 31, 1950》《Number 1, 1950 (Lavender Mist)》など巨大作品を制作。ヴェネツィア・ビエンナーレなどで海外展示。ハンス・ネイムスが制作風景を撮影。
1951
黒いエナメルを主体とした作品群を制作。《Echo: Number 25, 1951》などで具象的な形が再び現れる。
1952
Sidney Janis Galleryへ移籍。《Blue Poles》を制作。
1953
《The Deep》など、ドリップ期とは異なる構成の作品を制作。
1954–1955
制作量が減少。1955年にはSidney Janis Galleryで15年間を振り返る展覧会が開催される。
1956
8月11日、ニューヨーク州イーストハンプトンで自動車事故により死去。44歳。
1956–1957
MoMAが予定していた展覧会を没後の回顧展として開催。

まとめ

ポロックの画業は、ひとつの技法を見つけて完成させた物語としては収まりません。西部からニューヨークへ移り、師ベントンの構図やメキシコ壁画の技法を学び、神話や無意識のイメージを探しました。《壁画》で大画面に向き合った後、床で制作する方法を発展させ、成功のただ中で黒い絵や《深淵》へ進んでいます。

彼自身の発言を読むと、最初に心を引かれたのは、無意識や内面から現れる形でした。グリーンバーグが高く評価したのは、その制作から生まれた絵の新しい構成です。制作の意図と批評の価値判断は異なりながら、同じ作品の中で結び付いています。クラスナーとの関係も、才能を見いだした画家仲間の交流から結婚、共同生活、異なる仕事へと続きました。絵具が重なる表面と、その絵を作った人々の生活をともに見ることが、ポロックの作品をより深く理解する道になります。

参考資料・出典

作品の制作年・材料・所蔵情報は各所蔵館の記録と照合し、ポロック本人の発言は1944年の回答、1947〜48年の「My Painting」、録音対話などに基づいています。夫妻の生活と批評史については、美術史資料館、ポロック=クラスナー・ハウス、美術館の研究・展覧会資料を参照しています。