ヒルマ・アフ・クリント(1862–1944)は、20世紀初頭のスウェーデンで、自然主義的な風景画・肖像画を制作する職業画家として活動する一方、交霊会、神智学、薔薇十字思想、のちには人智学への関心を通じて、目に見えない世界の構造を色、幾何学、植物的形態、文字、記号によって表そうとした画家です。1906年に始めた《神殿のための絵画》では、カンディンスキー、モンドリアン、マレーヴィチらのよく知られた抽象絵画に先立つ時期から、大規模な非具象的イメージを制作しました。しかし、その作品は当時のモダニズムの公開ネットワークの中で広く流通せず、本人も限られた神智学・人智学の文脈でのみ見せています。そのため、今日の評価では「最初の抽象画家」と単純に順位づけするより、20世紀初頭に抽象が生まれた複数の経路の一つとして見ることが重要です。彼女の制作では、霊的体験、自然科学、植物観察、数学的秩序、身体的な制作行為が切り離されず、一つの研究として結びついていました。
CONTENTS
生涯と制作の変遷
ストックホルムで正統的な美術教育を受ける
ヒルマ・アフ・クリントは1862年10月26日、ストックホルム郊外のカールベルク宮殿で生まれました。父フレドリック・ヴィクトルは海軍士官で、測量や数学、自然への関心を持つ家庭環境で育ちます。Moderna Museetによれば、1880年から工芸・素描教育を受け、1882年から1887年までRoyal Academy of Fine Artsで学びました。当時のスウェーデンでは女性が高等美術教育を受けられる制度がすでに存在しており、アフ・クリントは卒業時に高い評価を受けています。
卒業後は風景画、肖像画、植物画を制作し、展覧会へ出品する職業画家として活動しました。Hilma af Klint Foundationによれば、1886年から1914年まで二十数回の展覧会に自然主義的作品を出品しています。現在よく知られる抽象作品だけを見ていると忘れやすい点ですが、彼女は写実的なデッサン、人体、植物、風景を描く訓練を十分に身につけていました。
目に見えない現象への関心
19世紀末は、交霊術、神智学、心霊研究がヨーロッパで広く流行した時代です。同時にX線、電磁波、原子など、それまで肉眼では確認できなかった現象が科学によって次々と語られるようになりました。Moderna Museetは、アフ・クリントの不可視世界への関心を、宗教と科学が互いに無関係だった時代としてではなく、両者を統合しようとする思想が広がっていた同時代の状況の中に位置づけています。
彼女は1879年頃から交霊会に参加し、1890年代には霊的存在からメッセージを受け取ったと記録しています。1904年にはTheosophical Societyへ加入しました。これは単なる私生活上の信仰ではなく、後の制作方法、色彩、記号体系、連作構成そのものへ深く関係します。
1896年、「5人」を結成
1896年、アフ・クリントはアンナ・カッセル、シグリッド・ヘドマン、コーネリア・セーデルベリ、マティルダ・ニルソンとともに、霊的グループ「De Fem(5人)」を形成しました。彼女たちは定期的に集まり、祈り、瞑想、交霊、筆記、自動描画を行い、その内容を詳細にノートへ記録しました。
ここで重要なのは、初期の自動描画をアフ・クリント一人の作品として扱わないことです。Moderna Museetは、「5人」のセッションでは誰がペンを持ったかが必ずしも重要視されず、個人作者が記録されない場合も多かったと説明しています。後のアフ・クリント作品に現れる螺旋、植物形態、幾何学形、文字の一部は、この女性たちによる共同的な実践の中ですでに現れていました。
1906年、《神殿のための絵画》を始める
アフ・クリントの記録によれば、1906年、彼女が「高次の霊的存在」と考えた存在の一つAmalielから、大規模な絵画群を制作する役割を与えられたと受け止めました。同年11月、《原初の混沌》から《神殿のための絵画》を開始します。
このプロジェクトは1906年から1915年まで続き、途中1908–12年の中断を挟みながら、最終的に193点で構成されました。色、幾何学、植物、生殖を思わせる形、文字、十字、円、三角形などを使い、人間の成長、男女、精神と物質、光と闇といった二項の対立と統合を扱います。
1907年、《10の最大物》
1907年10月から12月にかけ、アフ・クリントは約3.2×2.4メートルの巨大な作品10点を短期間で制作しました。《10の最大物》です。幼年期、青年期、成人期、老年期という人生の四段階を扱いますが、人物を写実的に描くのではなく、花、細胞、卵、螺旋、曲線、文字のような形を柔らかな色彩の中へ浮かべています。
Moderna Museetによれば、10点は約40日間で制作され、各作品にはおよそ4日が費やされたと考えられています。また彼女のノートには、同じ「5人」のメンバーだったコーネリア・セーデルベリと友人グステン・アンデションが制作工程を補助したことも記録されています。巨大作品を「孤独な天才が一人で一気に描いた」という物語だけには還元できません。
1908年、制作中断とルドルフ・シュタイナー
1908年までに《神殿のための絵画》第一部111点を完成させます。同じ年、神智学の指導者として知られていたルドルフ・シュタイナーと会い、作品を見せました。近年のFoundationの年譜では、シュタイナーは彼女の霊媒的方法に批判的だった可能性が高いと整理されています。
同時期、母が失明し、介護のため大きなスタジオを手放したこともあり、《神殿のための絵画》は約4年間中断します。1912年に制作を再開した後は、初期より幾何学的構成が明確になり、キリスト教的記号も増えます。また彼女自身の解釈が以前より積極的に入り込むようになります。
1914–1915年:《白鳥》《鳩》《祭壇画》
《白鳥》では黒と白の二羽の白鳥から始まり、連作が進むにつれて具象形が分解され、円、色面、幾何学構成へ変化します。光と闇、男性と女性、生と死といった対立が、最終的に一つの均衡へ近づく過程として構成されています。
1915年には《鳩》に続いて三点の《祭壇画》を制作し、《神殿のための絵画》を完結しました。Moderna Museetは《祭壇画》を、物質世界へ下降する精神と、再び統一へ向かって上昇する精神という二つの方向を要約した作品として説明しています。
1916年以後――完成した作品を「研究」する
《神殿のための絵画》完成後、制作は終わりませんでした。1916年の《パルジファル》144点、1917年の《原子》シリーズなどでは、以前受け取ったと考えていたメッセージを自分自身で整理し、理解しようとします。1917–18年には精神世界についての長大な文章もまとめました。
さらに《神殿のための絵画》全作品を、白黒写真と水彩の縮小版によって記録した「青い本」10冊を作成します。巨大作品を持ち運べないための資料であると同時に、自作を分類し直す研究ノートでもありました。アフ・クリントは制作する画家であるだけでなく、自分の作品を後から分析し、体系化する研究者でもありました。
主要作品
《神殿のための絵画》の出発点である《原初の混沌》から、《10の最大物》《進化》《知識の樹》《白鳥》《祭壇画》、さらに完成後の研究を示す《原子》と1920年代の水彩まで、アフ・クリントが一つの抽象様式へ固定されず、霊的・科学的探究を変化させた流れを追える8作品を選びました。作品画像についてはHilma af Klint Foundationが写真利用を管理しているため、ART LIBRARYでは現段階で画像なしで掲載します。
原初の混沌、WU/薔薇シリーズ、グループI、No.1
Primordial Chaos, The WU/Rose Series, Group I, No. 1 / 1906–1907 / 油彩・カンヴァス / 53 × 37 cm
The Hilma af Klint Foundation, Stockholm (HaK 001)
193点からなる《神殿のための絵画》の最初のシリーズ《原初の混沌》の第1作。東京国立近代美術館の2025年作品リストではHaK 001。シリーズでは青と黄、UとW、螺旋、生殖や再生を思わせる形が反復され、Moderna Museetは、精神から物質世界が分化していく過程と、女性/男性、精神/物質などの極性を扱うものとして解説しています。
10の最大物、グループIV、No.3、青年期
The Ten Largest, Group IV, No. 3, Youth / 1907 / テンペラ・紙(カンヴァスに裏打ち) / 321 × 240 cm
The Hilma af Klint Foundation, Stockholm (HaK 104)
高さ3.2メートルを超える《10の最大物》の一作。幼年期、青年期、成人期、老年期を扱う10点のうち青年期に属します。花弁、細胞、巻貝、文字のような形が巨大なオレンジ色の場に浮かびます。Moderna Museetによれば10点は約40日間で制作され、紙を床に置いて描いた可能性が高く、制作工程にはコーネリア・セーデルベリらの補助もありました。
進化、WUS/七芒星シリーズ、グループVI、No.7
The Evolution, The WUS/Seven-Pointed Star Series, Group VI, No. 7 / 1908 / 油彩・カンヴァス / 101.5 × 132.5 cm
The Hilma af Klint Foundation, Stockholm (HaK 075)
《神殿のための絵画》第一部を締めくくる《進化》シリーズの一作。Moderna Museetは、男性/女性、光/闇、善/悪などの極性が鏡像的な構成の中で均衡へ向かう作品群として解説しています。ダーウィン的な生物進化の図解ではなく、神智学における魂の精神的発展という考えが重ねられています。
知識の樹、Wシリーズ、No.1
Tree of Knowledge, The W Series, No. 1 / 1913 / 水彩、グアッシュ、黒鉛、インク・紙 / 45.7 × 29.5 cm
The Hilma af Klint Foundation, Stockholm (HaK 133)
《神殿のための絵画》再開後に進めた《知識の樹》シリーズの第一作。旧約聖書の知識の樹だけでなく、北欧神話の世界樹や、人体と宇宙を接続する『cosmic tree』の考えとの関係も研究されています。目に見える植物の形を、地上と精神世界、ミクロコスモスとマクロコスモスを結ぶ図式へ変換した作品です。
白鳥、SUWシリーズ、グループIX:第I部、No.17
The Swan, The SUW Series, Group IX: Part I, No. 17 / 1915 / 油彩・カンヴァス / 150.5 × 151 cm
The Hilma af Klint Foundation, Stockholm (HaK 165)
《白鳥》は1914–15年に制作された連作で、黒と白の白鳥から始まり、途中で具象が幾何学へ変化します。No.17はその抽象化が進んだ段階の代表例として知られます。Moderna Museetは、光と闇、男性と女性、生と死という対立が分解・変形され、最終的に統一へ向かう視覚的リズムをシリーズの中心としています。
祭壇画、グループX、No.1
Altarpieces, Group X, No. 1 / 1915 / 油彩、金属箔・カンヴァス / 237.5 × 179.5 cm
The Hilma af Klint Foundation, Stockholm (HaK 187)
《神殿のための絵画》を締めくくる三点の《祭壇画》の一つ。上向き三角形の頂点に黄金の円を置き、物質世界から精神的統一へ上昇する方向を示すものとしてアフ・クリント自身の体系の中で位置づけられています。三点の《祭壇画》は、それ以前の193点にわたる探究を圧縮した総括的作品群です。
原子シリーズ、No.10
The Atom Series, No. 10 / 1917 / 水彩、黒鉛、金属色・紙 / 27 × 25 cm
The Hilma af Klint Foundation, Stockholm (HaK 362)
《神殿のための絵画》完成後、不可視の世界をより分析的に考えた《原子》シリーズの一作。Moderna Museetによれば、多くの画面では右下に物理的原子、左上にエーテル的・形而上的原子を対応させています。20世紀初頭に急速に発展した原子研究を、自然科学の図解ではなく、物質と精神を接続する自身の世界観へ取り込んだシリーズです。
花と樹木を見ることについて:アザミ
On the Viewing of Flowers and Trees, Thistle / 1922 / 水彩・紙 / 25 × 35 cm
The Hilma af Klint Foundation, Stockholm (HaK 644)
1920年代に幾何学的抽象から離れ、湿潤水彩へ制作方法を変更した時期の作品。人智学の影響を受けながら、植物の外形を図式化する以前の方法とは異なり、色が紙の上で流れ混ざる過程そのものを使って自然の精神的側面を表そうとしました。60歳を超えてからも表現方法を大きく変えたことを示す重要な後期作品です。
「5人」と自動描画
シュルレアリスムより前の自動描画
「5人」は1896年から長期間にわたり、意識的に形を決めず手を動かす自動描画を行いました。後のシュルレアリストが1920年代にautomatic drawingを展開するより前の実践です。
ただし、歴史的な目的は異なります。シュルレアリストがフロイト的無意識へのアクセスを重視したのに対し、「5人」は自分たちが霊的な存在からメッセージを受信していると理解していました。同じ「自動描画」という形式でも、思想的背景を区別する必要があります。
個人作者ではなく共同的な制作
「5人」の記録では、筆記や描画を担当した人物が特定されていないものがあります。個人の独創性より、グループが何かを「受信する」ことが重視されていたためです。
この点は、後世にアフ・クリントを孤立した天才として再発見する物語を少し複雑にします。彼女の独自性は明らかですが、その前段階には女性たちによる長期間の共同実践が存在しました。
《神殿のための絵画》とは何か
193点を一つのプロジェクトとして考える
《神殿のための絵画》は一枚の代表作ではありません。《原初の混沌》《エロス》《10の最大物》《進化》《白鳥》《鳩》《祭壇画》など複数のシリーズとグループを含む193点の総体です。
Moderna Museetは、その全体テーマを「目に見える二元的世界を越えて、すべてが一つであるという知識を伝えること」と整理しています。各シリーズは異なる視覚言語を持ちながら、対立する二項を統合するという問題で結ばれています。
「神殿」は最初から実在した建物ではない
アフ・クリントは作品を収める神殿を構想し、後には螺旋状の建築案も描きましたが、実際の建物は実現しませんでした。Moderna Museetは、題名の「神殿」を必ずしも物理的な建築だけに限定せず、精神的進化の比喩としても理解できるとしています。
つまり作品は最初から通常の美術館の壁に一枚ずつ掛けるために構想されたとは限りません。シリーズを順番に進み、異なる段階を経験すること自体が構想の一部でした。
色・文字・螺旋――独自の記号体系
青と黄
《原初の混沌》から繰り返される青と黄は、彼女のノートでは女性的/男性的原理と結びつけられています。しかし、これを単純な性別の色分けとして見ると不十分です。作品全体では、二つの原理が交差し、混合し、統合されることが重要だからです。
UとW
文字も頻繁に現れます。Moderna Museetの解説では、《原初の混沌》に現れるWは物質、Uは精神と関連づけられています。一方、同じ文字が別シリーズで異なる働きを持つ場合もあり、記号辞典のように一対一で固定できるとは限りません。
螺旋
螺旋は成長、運動、生成、精神的な上昇などを連想させます。《10の最大物》では花、細胞、巻貝のような形とともに現れ、《パルジファル》第一作では暗闇から中心の白い光へ向かう道として描かれます。
自然界の形と霊的な成長の図式が同じ形の中へ重ねられる点が、アフ・クリントの記号体系の特徴です。
記号を解けば作品が「分かる」わけではない
アフ・クリント自身は大量のノートを残し、記号の意味を整理しようとしました。それでもModerna Museetは、作品には単一の意味がないことを強調しています。
色や文字の意味を調べることは有効ですが、それだけで終わらず、形が画面の中でどのように動き、変形し、別の形と結びついているかを見る必要があります。
ヒルマ・アフ・クリントの作品をどう見るか
「霊媒だから描けた」で終わらせない
アフ・クリント自身は初期《神殿のための絵画》について、下絵なしに自分を通して絵が直接描かれたという趣旨を記しています。この自己理解は作品を考えるうえで不可欠です。
一方、2025年の東京国立近代美術館の保存・技法研究は、《10の最大物》に下描き線、絵具の垂れや飛沫、支持体の裏打ち、絵具の粘度差など、具体的で身体的な制作痕跡が多数残ることを指摘しています。霊的説明と、画家が実際に紙・絵具・筆を扱った物質的工程は、どちらか一方を消すのではなく両方を見る必要があります。
シリーズの順序を見る
単独作品だけではなく、前後の絵を並べて見ると大きな変化が分かります。《白鳥》では二羽の具象的な鳥が、次第に幾何学へ変わり、最後に再び統合された鳥の形へ戻ります。
一枚の完成度だけではなく、形がシリーズ内で変容していく過程そのものが作品です。
サイズを確認する
《原初の混沌》は50cm程度ですが、《10の最大物》は高さ3メートルを超えます。同じ記号体系でも、身体を超えるスケールになると経験はまったく異なります。
巨大な花、螺旋、文字が鑑賞者の視野を覆うため、「記号を読む」というより、その内部に身体が置かれる感覚が生まれます。
自然の形を探す
完全な幾何学だけでなく、花弁、種、卵、巻貝、細胞、木、鳥など自然界を思わせる形が多くあります。アフ・クリントは抽象へ進んだから自然観察を捨てたのではありません。
目に見える自然から形を抽出し、それを目に見えない秩序のモデルへ変換したと考える方が、彼女の初期自然主義作品と抽象作品の関係を理解しやすくなります。
《10の最大物》――巨大な画面を身体で描く
約40日で10点
《10の最大物》は1907年秋、約40日間で制作されました。各作品はおおむね高さ3.2メートル、幅2.4メートルあります。Moderna Museetによれば、床へ紙を置いて制作した可能性が高く、友人の補助も受けていました。
後世から見ると、巨大な支持体を床に置いて描く方法はポロックなど戦後アメリカ絵画を連想させます。ただし、歴史的関係があったわけではありません。形式的な類似をそのまま直接の系譜にしないことが重要です。
テンペラと紙
作品は紙にテンペラで描かれ、その後カンヴァスへ裏打ちされています。速乾性のあるテンペラは短期間で巨大作品を進めるうえで合理的でした。
東京国立近代美術館の2025年の調査では、テンペラだけでは説明しにくい粘度の高い絵具の隆起や、多様な飛沫・垂れも確認されています。巨大作品は「霊的に自動生成された平滑な記号」ではなく、身体と材料の格闘の痕跡を持っています。
人生の四段階
10点は幼年期2点、青年期2点、成人期4点、老年期2点に分けられます。しかし、年齢が上がるほど単純に形が複雑化/単純化するわけではありません。
2025年の東京国立近代美術館の解説は、神智学における輪廻転生の考えを踏まえると、No.10からNo.1へ戻る循環として構想された可能性にも触れています。人生を直線的な始まりと終わりではなく、循環する発展として見る考えです。
神智学から人智学へ――ルドルフ・シュタイナーとの関係
シュタイナーは単純な「理解者」ではない
アフ・クリントは1908年にルドルフ・シュタイナーと会い、のちにもその思想を長く学びました。従来は「シュタイナーが彼女の作品を認めず、50年公開しないよう命じた」という単純な逸話が語られることもありましたが、近年のFoundationの年譜はより慎重です。
シュタイナーは彼女の霊媒的方法に批判的だった可能性があり、アフ・クリント自身はその後も作品を理解してもらうため何度も接触を試みました。1920年以降は人智学協会に加入し、スイスのドルナッハへ何度も滞在しています。
1920年代に幾何学から水彩へ
Moderna Museetによれば、1920年のドルナッハ訪問後、アフ・クリントはしばらく制作を中断し、その後は幾何学的抽象から離れ、濡れた紙の上で色が流れる水彩へ方法を変えました。
これは初期の様式を生涯反復しなかったことを示します。60歳を超えてからも、精神世界を表す方法そのものを変更しました。
自然科学、植物、原子
科学と神秘思想を対立させない
アフ・クリントにとって、原子や植物の研究は宗教と反対側にあるものではありませんでした。目に見える表面の背後に、より深い構造が存在するという点で、自然科学と霊的世界観を連続したものとして考えました。
《原子》シリーズ
1917年の《原子》シリーズでは、多くの作品に二つの原子像が描かれます。Moderna Museetによれば、右下の大きな形が物理的原子のエネルギー、左上の小さな形がエーテル的・形而上的平面の原子を表すと彼女は説明しています。
当時、原子は科学界でも急速に研究が進んでいた不可視の領域でした。アフ・クリントは最新科学を正確に図解したのではなく、その発見を「目に見えない現実が存在する」という自分の世界観へ取り込みました。
植物を外見と「本質」に分けて描く
1919–20年の植物研究では、実際の花や穀物を自然主義的に描きながら、その横へ幾何学的な図を置き、植物の精神的性質を記録しました。1922年以後の《花と樹木を見ることについて》では、より流動的な水彩へ移ります。
自然を抽象化したのではなく、観察できる外観と、その背後にあると本人が考えた構造を同時に記録しようとした研究です。
「抽象絵画の最初の画家」だったのか
1906年という早さは重要
Moderna MuseetとGuggenheimはいずれも、アフ・クリントが1906年には明確な非具象的イメージを制作しており、カンディンスキー、モンドリアン、マレーヴィチなど一般に抽象絵画の先駆者とされてきた作家より早いと指摘しています。この事実は、20世紀抽象絵画の歴史を書き直す重要な材料です。
しかし「誰が一番早かったか」だけでは美術史にならない
一方で、彼女の非具象作品は当時ほとんど公開されず、同時代の前衛美術家へ広く影響を与えたわけではありません。自然主義作品は一般展覧会へ出品しましたが、《神殿のための絵画》は限られた神智学・人智学の文脈でのみ見せられました。
したがって、カンディンスキーらを「実は二番手だった」と置き換えるだけでは不十分です。アフ・クリントの存在は、抽象絵画がパリ、ミュンヘン、モスクワなど公開された前衛運動だけから生まれたのではなく、宗教、科学、女性の霊的共同体など別の場所からも独立して現れたことを示します。
「抽象」という言葉を本人がどう考えていたか
アフ・クリント自身にとって、これらの形は現実から切り離された純粋な形ではありませんでした。色、円、螺旋、文字は、目に見えないと考えた世界を具体的に伝える記号です。
20世紀後半以降の形式的な「抽象絵画」というカテゴリーをそのまま彼女へ適用するだけでなく、本人が何を描いていると考えていたのかを併せて見る必要があります。
死後の受容と再評価
「20年間公開しない」は遺言ではなくノートの指示
長く、アフ・クリントが「遺言で死後20年間の非公開を命じた」と説明されることがありました。Moderna Museetは現在、この点を修正しています。1932年、彼女は《神殿のための絵画》を収録した「青い本」を含む複数のノートにX印を付け、それらを死後20年間開かないよう示しました。
この願いが存在したこと自体は重要ですが、「抽象作品を誰にも見せなかった」という説明も正確ではありません。Foundationによれば、1913年には神智学協会の展覧会で霊的作品17点を出品し、1928年にはロンドンのAnthroposophical Societyによる世界会議で《神殿のための絵画》の一部を見せています。公開範囲が非常に限定されていた、と考える方が適切です。
1944年、作品群を甥へ残す
1944年の死後、甥エリク・アフ・クリントが約1300点の作品と124冊のノート、2万6000ページを超える記録を受け継ぎました。1972年にはHilma af Klint Foundationが設立され、抽象作品と資料の保存・管理を担うようになります。
1980年代から国際的に知られる
Foundationは、1986年LACMAの《The Spiritual in Art: Abstract Painting 1890–1985》への出品を、本格的な国際的評価の重要な転換点として挙げています。その後展覧会が増え、2013年のModerna Museet大回顧展は欧州を巡回しました。
2018年Guggenheimと2025年東京
2018–19年のSolomon R. Guggenheim Museum《Hilma af Klint: Paintings for the Future》は、同館史上最多の来場者を記録しました。巨大な《10の最大物》を含む167点の絵画とノートが紹介され、国際的な知名度を決定的に高めました。
日本では2025年、東京国立近代美術館で《ヒルマ・アフ・クリント展 彼方》が開催されました。約140点を展示したアジア初の大規模回顧展で、《10の最大物》全10点も日本で初めて紹介されました。近年の研究は、彼女を神秘主義的な「発見された天才」としてだけでなく、材料、自然科学、女性運動、共同制作、記録・分類の実践を含む複雑な作家として捉え直しています。
画像利用について
アフ・クリントの作品自体の著作権保護期間と、作品を撮影したデジタル画像の利用権は分けて考える必要があります。Hilma af Klint Foundationは現在、作品画像のphotographic rightsを管理すると明示し、ウェブ上の低解像度画像は私的利用に限定しています。出版・記事などで高解像度画像を使用する場合はFoundation/Moderna Museetを通じた申請を求めています。ART LIBRARYでは、現段階では主要作品画像を無断転載せず、media_idは0のままとします。
略年譜
- 1862
- 10月26日、ストックホルム郊外カールベルク宮殿で生まれる。
- 1879
- 交霊会への参加を始める。
- 1880
- Tekniska skolanで素描を学び、Kerstin Cardonの絵画学校で肖像画を学ぶ。
- 1882–1887
- Royal Academy of Fine Artsで学び、優秀な成績で卒業。
- 1880年代後半–1900年代
- 風景、肖像、植物を自然主義的に描き、職業画家として展覧会へ継続的に出品。
- 1896
- アンナ・カッセルら四人の女性と「De Fem(5人)」を形成。交霊、筆記、自動描画を定期的に行う。
- 1904
- Theosophical Societyへ加入。霊的存在から「astral paintings」を制作する予告を受けたと記録する。
- 1906
- 《原初の混沌》から《神殿のための絵画》を開始。
- 1907
- 《エロス》《大人物画》《10の最大物》を制作。《10の最大物》10点を約40日で完成。
- 1908
- 《進化》などを制作し、《神殿のための絵画》第一部111点を完成。ルドルフ・シュタイナーと初めて会う。母の介護などにより大規模制作を中断。
- 1908–1912
- 《神殿のための絵画》を中断し、神秘思想やキリスト教的文献の研究を続ける。
- 1912
- 《神殿のための絵画》制作を再開。以前より自分自身の解釈を強く加えるようになる。
- 1913
- 《知識の樹》シリーズを開始。神智学協会主催の展覧会に霊的作品17点を出品。
- 1914–1915
- 《白鳥》《鳩》を制作。
- 1915
- 三点の《祭壇画》を制作し、193点からなる《神殿のための絵画》を完結。
- 1916
- 144点からなる《パルジファル》シリーズを制作。
- 1917
- 《原子》シリーズを制作。Munsöにスタジオが完成し、《神殿のための絵画》全体を初めてまとめて見る環境を得る。
- 1917–1918
- 精神的世界観をまとめた長大な文章《Studies of the Life of the Soul》を作成。
- 1919–1920
- 植物、穀物、世界宗教などを図式的に研究。Thomasine Anderssonと《Flowers, Mosses and Lichens》を制作。
- 1920
- 母が死去。Anthroposophical Societyへ加入し、ドルナッハのGoetheanumを訪れる。
- 1922以降
- 幾何学的油彩から離れ、湿潤技法を用いた水彩を中心に制作。1941年までに400点以上を制作。
- 1928
- ロンドンのWorld Conference of Spiritual Scienceで《神殿のための絵画》の一部を展示。
- 1931
- 作品群を収める螺旋状の神殿建築を構想。
- 1932
- 複数のノートにX印を付け、死後20年間開かないよう示す。
- 1944
- 10月21日、事故の後に死去。約1300点の作品と124冊のノートを甥エリク・アフ・クリントへ残す。
- 1972
- Hilma af Klint Foundation設立。
- 1986
- LACMA《The Spiritual in Art: Abstract Painting 1890–1985》で紹介され、国際的再評価の重要な契機となる。
- 2013
- Moderna Museetで大規模回顧展《Hilma af Klint – A Pioneer of Abstraction》開催。欧州各地へ巡回。
- 2018–2019
- Solomon R. Guggenheim Museum《Hilma af Klint: Paintings for the Future》が同館史上最多の来場者を記録。
- 2025
- 東京国立近代美術館でアジア初の大規模回顧展《ヒルマ・アフ・クリント展 彼方》開催。
参考資料・出典
本ページはHilma af Klint Foundation、Moderna Museet、Solomon R. Guggenheim Museum、東京国立近代美術館などの財団・美術館資料を参照してART LIBRARYが独自に執筆しました。原文の全文翻訳ではありません。
- Hilma af Klint Foundation — About Hilma af Klint
- Hilma af Klint Foundation — Catalogue Raisonné
- Hilma af Klint Foundation — Image Rights
- Moderna Museet — Hilma af Klint: Artist, Researcher, Medium / In-depth
- Moderna Museet — Topics and Central Works
- Moderna Museet — The Ten Largest
- Solomon R. Guggenheim Museum — Who Was Hilma af Klint?
- Solomon R. Guggenheim Museum — Paintings for the Temple
- 東京国立近代美術館 — Hilma af Klint: The Beyond
- 東京国立近代美術館 — 工程と手段─ヒルマ・アフ・クリントの営み
- 東京国立近代美術館 — Hilma af Klint: The Beyond, List of Works
資料確認日:2026年10月1日 / ART LIBRARY