1860年代のフランスでは、ナポレオン3世の第二帝政のもとでパリの都市改造が進み、人々の暮らしや余暇の風景が変わっていました。美術界では国の審査によるサロンが依然として大きな影響力を持ち、歴史画や伝統的な人物画が重んじられていました。クールベの写実主義、マネが描いた現代の人物、森や海辺で自然光を観察する画家たちの活動は、何を絵画の主題とし、どこでどう描くかという問題を新しくしていました。
その変化のただ中で、南フランスのモンペリエからパリに出たのがフレデリック・バジール(Frédéric Bazille、1841–1870)です。医学の勉強から絵画へ進み、モネやルノワールらとともに制作を重ねた彼は、故郷の強い日差しの下に大きな人物像を置く表現に取り組みました。アトリエでの相互肖像、サロンへの大作の出品、男性裸体、晩年の女性像へと関心は広がります。1870年に普仏戦争で命を落とすまでの約8年間に、後の印象派が生まれる以前の絵画と、バジール独自の探究が刻まれています。
CONTENTS
モンペリエの家族と画家への道
故郷メーリック荘の風景
フレデリック・バジールは1841年12月6日、南フランスのモンペリエで生まれました。父ガストンは葡萄栽培や農業に関わり、地方政治にも携わった人物です。母カミーユの実家も地域の有力な商人・地主層に属し、プロテスタントの裕福な家庭で育ったバジールは、若くして美術品に触れる機会に恵まれました。近隣に住む収集家アルフレッド・ブリュイヤスが集めたクールベやドラクロワの作品も、同時代の絵画を知る窓口となりました。
モンペリエ郊外のメーリック荘は、レズ川の谷とカステルノー=ル=レズの村を見下ろす家族の夏の居所でした。テラスを覆う樹木の深い影、その向こうに広がる明るい村落、乾いた空気の中で輪郭を保つ建物が、後の《ピンクのドレス》《家族の集い》《村の眺め》に繰り返し現れます。南仏の土地はバジールにとって、人物と風景を同じ画面に置くための継続的な制作の場となりました。(参照:オルセー美術館|回顧展解説/《ピンクのドレス》作品解説)
医学の勉強から絵画へ
1859年にモンペリエで医学を学び始めたバジールは、彫刻家ボーサン親子のもとで素描も続けました。1862年には医学の勉強を継続する約束でパリへ移り、大学の授業と画塾を行き来します。パリで接した作品と若い画家たちとの交流によって、絵画へ向かう意志は次第に強くなりました。
1864年に医学試験に失敗すると、家族の反対を受けながらも画家としての活動に専念します。仕送りが継続されたことで、大きなキャンバスを用意し、アトリエを借り、夏には南仏で制作する生活を築くことができました。その経済的条件は、後に画家仲間へ場所や援助を提供することにもつながります。(参照:オルセー美術館|生涯と教育)
パリの仲間たちと戸外制作の始まり
グレール画塾での出会い
パリで入門したシャルル・グレールの画塾で、バジールはクロード・モネ、オーギュスト・ルノワール、アルフレッド・シスレーと出会いました。素描と人物構成を重んじる教育を受けつつ、彼らはアトリエの外へ出て、身近な風景や現代の人物を描く方法を試していきます。
1860年代のフランスでは、国の審査によるサロンが画家の主要な発表の場でした。歴史画や神話画の伝統が大きな権威を持ち、クールベの写実主義やマネが描いた同時代の人間像は、その規範を揺さぶっていました。1863年の落選展が注目を集めた時代に、若い画家たちは確かな人物描写の技術を手放さず、実際の光を絵画へ取り込もうとしていました。(参照:オルセー美術館|画塾と同時代の美術/ナショナル・ギャラリー|展覧会概要)
フォンテーヌブローからノルマンディーへ
モネとともに訪れたフォンテーヌブローの森では、バルビゾン派に続く戸外制作の経験を重ねました。1864年にはノルマンディーのオンフルール周辺でウジェーヌ・ブーダンやヨハン・バルトルト・ヨンキントの自然観察にも触れています。水辺の反射や移り変わる空を現場で見ることは、アトリエの照明に合わせて人物を描く訓練とは異なる経験でした。
バジールが強く惹かれたのは、大きな人物像を自然光の下で成立させることでした。1863年末の手紙にも『日差しの中の人物を描く』という関心が記され、初期から風景と人物を結び付ける課題を意識していたことが分かります。(参照:オルセー美術館|戸外人物画の研究)
《ピンクのドレス》――人物の背後に広がる光
1864年の《ピンクのドレス》では、従姉テレーズ・デ・ズールがメーリック荘のテラスに腰掛け、こちらに背を向けています。ピンクと灰色の縦縞の服に黒いエプロンを重ねた姿は木陰に沈み、その先には陽光を受けたオレンジ色の屋根と村の建物が広がります。樹木を両側に配した画面構成は、前景と遠景の明るさの差を強めています。
準備素描では従姉が正面を向く案も試されています。完成作で後ろ姿を選んだことにより、鑑賞者の視線は人物を経由して風景へ向かい、肖像画と風景画の境界が曖昧になります。バジールは人物の形を保ちながら、周囲の光によって場の広がりを描き出しました。(参照:オルセー美術館|《ピンクのドレス》)
共同アトリエとサロンでの試行錯誤
THROUGH THE EYES OF JEAN-PHILIPPE DELHOMME – “Bazille’s Studio” by Frédéric Bazille(Musée d’Orsay)
住まい、制作、批評を分かち合う
バジールはパリでたびたびアトリエを移し、1864年にはモネとフュルステンベルク通りで、1867年にはルノワールとヴィスコンティ通りで部屋を共有しました。1868年にはルノワールとともにラ・コンダミーヌ通りの広いアトリエへ移ります。画家仲間はそこへ出入りし、互いの絵を見せ、モデルを務め、作品を批評しました。
経済的に余裕のあったバジールは、アトリエ代やモデル代に苦しむ友人を支援しました。仲間の生活を支えることと、同じ場所で絵画を試すことが結び付いていた点に、この交友関係の特徴があります。マネ、ファンタン=ラトゥール、作家エミール・ゾラ、批評家ザカリー・アストリュクらを含む交流は、美術・文学・音楽を横断するものでもありました。(参照:オルセー美術館|パリのアトリエ)
モネとルノワールを描いた室内の肖像
1865年の《即席の病室》には、足を負傷してベッドに横たわるモネが描かれています。小さな画面には、同時代の歴史上の人物でも理想化された英雄でもなく、日々をともに過ごす友人の姿があります。バジールは身近な出来事を絵画の主題として捉えました。
1867年の《ピエール=オーギュスト・ルノワール》では、暗い服の友人が椅子に座り、静かな室内の奥から顔と手が浮かび上がります。ルノワールも制作中のバジールを描きました。画家たちが互いをモデルにする習慣は、モデル代を節約する実用的な方法であると同時に、まだ評価の定まらない同世代の姿を記録する共同制作でした。(参照:《即席の病室》/《ルノワールの肖像》)
サロンへの出品と《庭の女たち》の購入
1866年、バジールは大型の人物画《ピアノを弾く若い女性》と静物画《魚》をサロンに送り、受理されたのは《魚》でした。審査結果は失望をもたらしたものの、画家にとってサロンは作品を公に示す重要な機会であり続けます。バジールはその後も大きな人物画に取り組み、受理と拒否の両方を経験しました。
翌1867年には、サロンから拒否されたモネの《庭の女たち》を購入しています。高さ2メートルを超す大作に資金を投じたことは、困窮する友人を助けると同時に、新しい人物画の試みを近くで見続けることでもありました。バジール自身の《家族の集い》にも、戸外の大画面へ複数の人物を配置する課題が引き継がれていきます。(参照:オルセー美術館|サロンと交友/モネ《庭の女たち》)
南仏の光と大画面の人物画
エーグ=モルトの城壁と水面
1867年、南仏の城壁都市エーグ=モルトで描いた《エーグ=モルト西城壁》では、城壁の斜線が水際に沿って奥へ延び、淡い青緑色の水面と広い空がそれを受け止めます。建築物の輪郭は明確で、砂地や水面には伸びやかな筆触が残されています。
バジールは準備素描で構図を考えたうえで、絵の具をすべて均一に塗り込めず、支持体が見える部分も残しました。完成度を細部の描き込みだけで測らない制作態度が、この風景画から伝わります。大きな形の配置によって強い日照と土地の広がりを表した作品です。(参照:ナショナル・ギャラリー|《エーグ=モルト西城壁》)
《家族の集い》――肖像画を屋外へ
1867年から翌年にかけて制作した《家族の集い》は、約152×230センチメートルの横長の画面に、家族や親族とバジール自身を配置した大作です。人々はテラスの木陰に集まり、白い衣服、黒い上着、遠景の緑が異なる明るさで描き分けられています。人物がそれぞれ画家の方へ顔を向ける姿勢には、集団肖像画の伝統も残っています。
家族の一人ひとりを識別できるように描く要求と、戸外の日差しを一つの画面に組み込む要求を、バジールは慎重な構図で両立させようとしました。1868年のサロンで受理され、本人は審査の結果を皮肉まじりに家族へ伝えています。若い画家が公的な発表制度の中で新しい主題を試していたことを示す作品です。(参照:オルセー美術館|《家族の集い》)
《村の眺め》――自然光の中の一人の人物
《村の眺め》(1868年)には、白いドレスの若い女性が松の木陰に座り、その向こうにレズ川と村の家並みが広がります。縦長の大画面で人物は前景を占め、遠景の建物まで続く空間には涼しい影と強い日差しの差が表れています。絵具の明るさの違いが、人物と背景の距離を生みます。
1869年のサロンではこの作品が受理され、同じく出品した《網を投げる漁師》は拒否されました。ベルト・モリゾは手紙で《村の眺め》を評価し、戸外に人物を置くという同世代の課題をバジールが実現したことに言及しています。その成果は、風景の中で人物の量感を失わせず、自然光の下で同じ空間に存在させた点にあります。(参照:ファーブル美術館|《村の眺め》/オルセー美術館|サロン出品史)
男性裸体と自然の中の身体
《網を投げる漁師》とサロンの審査
大きな人物を屋外に描く課題は、1868年頃から男性裸体の作品へ広がりました。《網を投げる漁師》では、裸の男性が川辺に立って網を投げ、背中から腕へ伸びる身体の動きが画面の中心になります。神話上の英雄としての裸体とは異なり、自然の中で働く人間の具体的な動作が描かれています。
バジールは1869年、《網を投げる漁師》を《村の眺め》とともにサロンへ出品しました。審査員が受理したのは着衣の女性を描いた《村の眺め》でした。裸体画には長い伝統があったものの、古典的な物語から離れた等身大に近い男性の身体は、当時の審査基準と緊張する表現だったことがうかがえます。(参照:オルセー美術館|男性裸体とサロン)
《夏の情景》――水辺で過ごす若者たち
《夏の情景(水浴者たち)》は、約1.6メートル四方の画面に、レズ川で水浴する若い男性たちを配した作品です。岸辺に休む者、衣服を脱ぐ者、水へ入る者などの動きが、横方向の広がりをもつ風景の中でつながります。人体の輪郭や姿勢は丁寧に整えられ、明るい日光が肩や背中に当たっています。
1869年夏に構想し、パリで加筆した後、1870年のサロンで展示されました。日常の水浴を題材にしながら、人物の配置には古典的な群像構成の研究が生きています。批評家ザカリー・アストリュックは日光の強さを表す力に注目しました。裸体を現代の余暇の風景へ置く試みは、バジールの人物画が到達した独自の領域です。(参照:バジール作品総目録|《夏の情景》/オルセー美術館|裸体画)
晩年の作品――室内、女性像、共同制作
《化粧》――布と肌をめぐる室内画
1869年末から1870年春にかけて制作された《化粧》は、豪華な布や絨毯、毛皮に囲まれた裸体の女性と、彼女に付き添う二人の女性を描いています。白い肌や衣服、褐色の肌、鮮やかな織物を並べた色彩の組み合わせは、南仏の戸外人物画とは異なる感覚を画面に生みます。ドラクロワの東方趣味やマネの《オランピア》、古典的な裸体画を意識した構成も認められます。
画面に描かれた女性たちの関係には、第二帝政期の植民地主義や人種表象の習慣も映っています。ファーブル美術館は準備素描や手紙を通して制作過程を説明しており、作品がサロン入選を念頭に置いた大作だったことが分かります。1870年サロンでは《夏の情景》が受理され、《化粧》は拒否されました。オルセー美術館の《バジールのアトリエ》の解説と作品総目録も、この結果を記録しています。(参照:ファーブル美術館|《化粧》の制作/作品総目録|サロン出品記録/オルセー美術館|《バジールのアトリエ》)
《牡丹を持つ若い女性》と黒人モデル
1870年には、黒人女性と牡丹を主題にした二つの作品も描かれました。ワシントンのナショナル・ギャラリー所蔵作では、縞模様の布を頭に巻いた女性が花を詰めた籠の後ろから身を乗り出し、こちらを見つめています。白いブラウス、赤い耳飾り、淡い桃色の牡丹が、女性の表情と手の動きを際立たせています。
花束を差し出す人物の構成には、マネ《オランピア》の黒人侍女と花束を思わせる要素があります。バジールはこの作品で黒人女性を画面の中心に据えました。フランスでは1848年の奴隷制廃止後も植民地支配と人種的不平等が続いていました。現在の所蔵館記録にはモデルの名前が残っておらず、過去の展覧会記録には差別的な旧題も確認できます。2019年のオルセー美術館の展覧会や、その後の大西洋世界の黒人表象を扱う展示では、モデルとなった人々の存在と社会的背景が詳しく検討されました。(参照:ナショナル・ギャラリー|《牡丹を持つ若い女性》/オルセー美術館|黒人モデル展/大西洋世界の黒人表象)
《バジールのアトリエ》――絵の中の制作共同体
1870年の《バジールのアトリエ》では、ラ・コンダミーヌ通りの制作室に画架、額装された絵画、ピアノが並び、画家と友人たちがそれぞれの活動を続けています。中央でパレットを持つ長身のバジールの姿には、マネが筆を加えたと伝えられています。右側では音楽と文学に通じた友人エドモン・メートルがピアノに向かっています。
壁にはサロンに拒否された《化粧》や《網を投げる漁師》、ルノワールの作品と考えられる絵も掛けられています。アトリエは仕事場であり、友人の絵を見比べて議論する場所であり、作品を蓄える場所でもありました。絵の中で人物と作品が共存する構成そのものが、印象派成立以前の画家たちの活動を物語っています。(参照:オルセー美術館|《バジールのアトリエ》/回顧展|共同アトリエ)
《ルツとボアズ》――最後に取り組んだ歴史画
最後の夏にバジールが構想した《ルツとボアズ》は、旧約聖書の物語とヴィクトル・ユゴーの詩《眠れるボアズ》を背景に持つ大画面です。南仏の昼間の人物像で培った身体と土地の構成を、夜と聖書の物語へ移そうとする制作でした。1870年8月初めの手紙では、本人が制作の進行を家族に知らせています。
作品は未完成のまま残されました。2016〜17年の技術調査では、このキャンバスの下から、1866年のサロンで拒否され失われたと思われていた《ピアノを弾く若い女性》の構図が見つかっています。ひとつの支持体に重なる二つの絵が、人物画をめぐるバジールの試行と描き直しを伝えています。(参照:オルセー美術館|最晩年の制作/ナショナル・ギャラリー|X線調査)
普仏戦争による中断と作品の継承
1870年の志願と戦死
普仏戦争が始まった1870年、バジールは家族の反対を受けながら8月16日に第3ズアーヴ連隊へ志願しました。従軍を決めた心情については複数の説明が試みられており、本人の書簡からは危機にある国への奉仕を考えていたことが読み取れます。
11月28日、ロワレ県ボーヌ=ラ=ロランドの戦闘で銃撃を受け、28歳で亡くなりました。29歳の誕生日まで8日を残しての死でした。その四年後に印象派の第1回展覧会が開かれます。バジールが残した作品は、独立展以前の画家たちが共有していた課題と、彼自身が選び取った別々の表現を今日へ伝えています。(参照:オルセー美術館|戦争と画家の死/ファーブル美術館|バジール)
家族による保存と公立美術館への寄贈
生前に作品を売る機会が限られていたバジールの絵画は、多くが家族の手元に残りました。1898年には母カミーユが《村の眺め》などをファーブル美術館へ寄贈し、弟マルクも複数の作品を公的なコレクションへ移しています。1905年には《家族の集い》がフランス国家の所蔵となり、現在オルセー美術館で保存されています。
こうした来歴が明確に残されたことは、短い活動期間の作品を整理するうえで大きな意味を持っています。家族の書簡や作品の旧蔵記録を通して、制作の場所、出品の経緯、友人たちとのやり取りを照合する研究も進められています。(参照:オルセー美術館|所蔵来歴/ファーブル美術館|作品と資料)
国際回顧展と書簡研究が見せた画家像
2016〜17年、ファーブル美術館、オルセー美術館、ワシントンのナショナル・ギャラリーが共同で開いた回顧展は、バジールの画業を作品そのものから詳しく検討しました。展覧会に向けて多くの作品に保存科学的な調査が行われ、11点の絵画の下層から別の構図が確認されています。初期の人物画、男性裸体、南仏の風景、晩年の歴史主題を通して、彼の仕事を多面的に捉える資料が揃いました。
2026年、ファーブル美術館は研究者フランソワ・ドルトのアーカイブと関連資料を活用する研究助成を募集しています。同館が紹介する関連資料には、バジールの自筆書簡76通、父の書簡8通、画家仲間などによる書簡22通が含まれます。今日の研究は、作品の表面に見える図像と、手紙や下層画像に残った制作の過程を行き来しながら、その短い制作期間を具体的に復元しています。(参照:ナショナル・ギャラリー|2017年の調査報告/ファーブル美術館|ドルト研究助成)
主要作品
《ピンクのドレス》から《家族の集い》《村の眺め》、友人たちの肖像、男性水浴者を描いた《夏の情景》、晩年の《化粧》《牡丹を持つ若い女性》《バジールのアトリエ》《ルツとボアズ》まで。1864〜70年の代表的な12作品を、制作年・素材・所蔵先とともに紹介します。
ピンクのドレス
La Robe rose / 1864 / 油彩、キャンバス / 148 × 110 cm
Musée d’Orsay
メーリック荘のテラスに従姉テレーズ・デ・ズールを後ろ姿で描いた初期作。木陰の人物と、日差しを受けたカステルノー=ル=レズの村を、樹木の枠取りと強い明暗差によって結び付けています。
即席の病室
L’Ambulance improvisée / 1865 / 油彩、キャンバス / 48 × 65 cm
Musée d’Orsay
足を負傷して寝台に横たわるモネを描いた室内の小品。パリでアトリエを共有した画家仲間の日常を、親密な視線で捉えています。
ピエール=オーギュスト・ルノワール
Pierre Auguste Renoir / 1867 / 油彩、キャンバス / 61.2 × 50 cm
Musée d’Orsay
若きルノワールが暗い室内の椅子に腰掛ける肖像。ルノワールも制作中のバジールを描いており、画家同士の相互肖像という共同生活の一面を伝えます。
エーグ=モルト西城壁
The Western Ramparts at Aigues-Mortes / 1867 / 油彩、キャンバス / 60 × 100 cm
National Gallery of Art, Washington
エーグ=モルトの城壁を水辺から描いた風景画。長い斜線を持つ城壁、明るい水面、砂地と空の大きな面を、伸びやかな筆触でまとめています。
家族の集い
Réunion de famille / 1867–1868 / 油彩、キャンバス / 152 × 230 cm
Musée d’Orsay
メーリック荘に家族と親族を集めた横長の大作。肖像としての個々の人物像と木陰の自然光を統合し、1868年のサロンに受理されました。
村の眺め
Vue de village / 1868 / 油彩、キャンバス / 137.5 × 85.5 cm
Musée Fabre, Montpellier
木陰に座る白いドレスの女性の背後に、レズ川と村の眺めが広がります。大きな人物の量感を保ちながら戸外光を描き、1869年のサロンに受理されました。
エドモン・メートル
Edmond Maître / 1869 / 油彩、キャンバス / 83 × 64.2 cm
National Gallery of Art, Washington
親友エドモン・メートルを本と葉巻を手にした姿で描いた肖像。バジールのアトリエ文化が、絵画とともに文学や音楽を育んだことを伝えます。
夏の情景(水浴者たち)
Scène d’été / Summer Scene (Bathers) / 1869–1870 / 油彩、キャンバス / 160 × 160.7 cm
Harvard Art Museums / Fogg Museum
レズ川の岸辺に集う若い男性を約1.6メートル四方の画面に配置。古典的な群像構成を用いながら、現代の水浴と強い自然光を描いています。1870年のサロンで展示されました。
化粧
La Toilette / 1870 / 油彩、キャンバス / 130 × 128 cm
Musée Fabre, Montpellier
裸体の女性と二人の女性を布、毛皮、絨毯に囲まれた室内へ配した大作。色彩と素材感を追究するとともに、当時の人種表象にも関わる絵画です。1870年のサロンでは拒否されました。
牡丹を持つ若い女性
Young Woman with Peonies / 1870 / 油彩、キャンバス / 60 × 75 cm
National Gallery of Art, Washington
牡丹の籠を前に、花束を差し出す黒人女性が鑑賞者を見つめます。白いブラウス、赤い耳飾り、淡い花の色が表情と手の動きを際立たせています。
バジールのアトリエ
L’Atelier de Bazille / 1870 / 油彩、キャンバス / 98 × 128 cm
Musée d’Orsay
ラ・コンダミーヌ通りのアトリエに画家や音楽家が集う情景。画面中央のバジール像にはマネが筆を加えたとされ、壁にはサロンで拒否された作品も描かれています。
ルツとボアズ
Ruth et Booz / 1870 / 油彩、キャンバス / 137.5 × 202.8 cm
Musée Fabre, Montpellier
旧約聖書とヴィクトル・ユゴーの詩を背景にした未完の大作。科学調査では、このキャンバスの下層から初期の《ピアノを弾く若い女性》の構図が発見されました。
主要作品を横断して読む
人物の姿勢がつくる風景の奥行き
《ピンクのドレス》では、木陰に座る従姉の後ろ姿が、絵を見る人の視線を明るい村へ導きます。《家族の集い》では、複数の親族がこちらへ向き直り、人物の視線や衣服の白さが画面に別々の重心をつくります。同じメーリック荘でも、鑑賞者と人物との距離は作品ごとに違います。前者の静かな背中と後者の集団肖像的な正面性を見比べると、バジールが一つの構図に固執していなかったことが分かります。
《村の眺め》では、人物の白いドレスと背後の緑が隣り合いながら、光の冷たさと暖かさを分けています。遠景の村まで視線が届くのは、人物の周囲を曖昧に塗りつぶさず、手前の身体と遠くの建物を異なる明度で描き分けたためです。バジールの屋外人物画には、肖像画の視線や姿勢を重んじる態度と、風景画で培った空間の観察が共存しています。(参照:《ピンクのドレス》/《家族の集い》/《村の眺め》)
友人たちの肖像とアトリエの時間
《即席の病室》と《ピエール=オーギュスト・ルノワール》は、大画面の戸外人物画とは異なる親密な時間を捉えています。寝台のモネ、椅子に腰掛けるルノワールには、モデルとしての演出よりも、画家同士が互いの生活を見ていた経験が表れています。《エドモン・メートル》では本と葉巻を手にした友人が暗い背景に置かれ、文学と音楽に親しむ知識人としての姿が伝わります。
三つの肖像を経て《バジールのアトリエ》を見ると、人物の集まりが単なる記念写真のような場面を超え、個々の活動を持つ人々の居場所として表現されていることが見えてきます。ピアノを弾くメートル、絵を見つめる画家たち、壁に掛かった作品は、制作と鑑賞が同じ部屋で行われていた状況を示しています。(参照:《即席の病室》/《エドモン・メートル》/《バジールのアトリエ》)
土地の構成から水浴する身体へ
《エーグ=モルト西城壁》の広い水面では、画面の方向を決めるのは建築の長い斜線と水平線です。細かな建物の描写を抑えた大きな構成からは、バジールが風景の明るさを面と線の関係として整理していたことが読み取れます。
《夏の情景》では同様に広い自然空間へ複数の身体が置かれ、岸辺や樹木の形が人物の姿勢と呼応します。裸の若者たちの身体を、古典的な群像の安定感を持たせながら日常の水浴の場へ結び付けたことが、この絵の特徴です。構図を準備する仕事と、太陽の下で光を見る仕事が一つの制作に結び付いています。(参照:《エーグ=モルト西城壁》/作品総目録|《夏の情景》)
晩年の異なる三つの方向
《化粧》は、肌、絹、毛皮、絨毯の質感と色彩を重ねた室内画です。《牡丹を持つ若い女性》では、淡い花弁と布地の色が黒人女性の顔や手へ視線を導きます。ともに人物の存在を描きながら、前者は複数の女性を取り囲む装飾的な空間、後者は一人の女性と観客が向き合う近い距離を選びました。
未完の《ルツとボアズ》では、聖書と詩を通じた歴史画の構想が前面に現れます。三つの作品は、1870年のバジールが戸外人物画の成果だけにとどまらず、室内の色彩、近代の人物表象、歴史的な物語に関心を広げていたことを示します。制作を続けられた場合の行き先は分かりません。現存する絵には、それぞれ異なる試みが具体的な形で残っています。(参照:ファーブル美術館|《化粧》/《牡丹を持つ若い女性》/《ルツとボアズ》の調査)
制作方法から見えるバジールの選択
輪郭を保ちながら自然光を描く
モネが光や大気の変化によって対象の見え方を探るなかで、バジールは人物の大きさと輪郭を保持したまま自然の明るさを捉える方法を試しました。《ピンクのドレス》では木陰と日向が二つの領域に分かれ、《村の眺め》では白い服の人物が影の中にありながら十分な量感を持っています。自然光が人物の形をどう変えるかという問題への取り組み方に、二人の画家の違いが現れています。
大きな人物を現場で描くには、光の変化だけでなく、モデルの姿勢、画面の寸法、制作場所を考えなければなりません。バジールは素描を重ね、屋外での観察とアトリエでの構成を行き来しました。彼の作品は、サロンで求められた人物表現の技術と、戸外で得た視覚経験が出会う場所にあります。(参照:オルセー美術館|戸外の人物画/《ピンクのドレス》の技法)
塗り直されたキャンバスとX線調査
バジールは自分の絵を描き直し、支持体を再利用することがありました。2016〜17年の回顧展に先立つ調査では、複数の作品の下に花、果物、人物など別の構図が確認されました。特に《ルツとボアズ》の下から見つかった《ピアノを弾く若い女性》は、1866年にサロンへ応募した初期の大作が、後年の画面の内側に残っていたことを示しています。
《バジールのアトリエ》の下層からはルノワール《狩りのディアナ》に関係する習作も確認されています。現存する完成作の数と実際に試された構図の数には差があり、X線撮影が制作史を補っているのです。こうした科学調査は、表面の絵を鑑賞するだけでは分からない絵具の重なりと制作の順序を明らかにしました。(参照:ナショナル・ギャラリー|科学調査の発見)
略年譜
- 1841
- 12月6日、モンペリエに生まれる。父ガストン・バジールは地主・農学者・ワイン生産者として地域社会で活動し、母カミーユ・ヴィアラールも裕福な商人・地主層の出身だった。
- 1859
- 科学系バカロレアを取得し、モンペリエ大学医学部へ進学。同時に素描・絵画の学習を続ける。
- 1862
- 11月、医学を継続することを条件にパリへ移る。シャルル・グレールの画塾へ入り、アルフレッド・シスレー、オーギュスト・ルノワール、クロード・モネらと出会う。
- 1863
- モネらとフォンテーヌブロー周辺で制作し、戸外制作への関心を強める。パリでの医学の勉強と絵画を並行する。
- 1864
- 医学試験でつまずき、画家への進路を決定的にする。オンフルール周辺でモネ、ブーダン、ヨンキントらの制作に接し、戸外光の研究を深める。《ピンクのドレス》をメーリック荘で制作。モネとフュルステンベルク通りのアトリエを共有する。
- 1865
- 負傷したモネを描いた《即席の病室》。若い画家仲間との共同生活、相互肖像、作品批評が制作環境の中心となる。
- 1866
- サロンへ《ピアノを弾く若い女性》と静物《魚》を提出。前者は拒否、後者は受理され、バジールにとって初のサロン出品となる。後年のX線調査で、拒否作の一部が別作品の下層に残ることが判明する。
- 1867
- ヴィスコンティ通りでルノワールと共同生活。モネ《庭の女たち》を購入し、経済的に支援する。エーグ=モルトで集中的に風景制作。《ピエール=オーギュスト・ルノワール》を制作。
- 1867–1868
- メーリック荘で《家族の集い》を制作。家族集団と戸外光をサロン級の大画面で統合する。
- 1868
- 《家族の集い》がサロンで受理される。ルノワールとラ・コンダミーヌ通りの広いアトリエを共有。《村の眺め》《網を投げる漁師》へ着手し、戸外人物画と男性裸体を並行して追究する。
- 1869
- サロンで《村の眺め》が受理され、《網を投げる漁師》は拒否される。ベルト・モリゾが《村の眺め》を戸外人物画の成功例として評価。《エドモン・メートル》を制作し、夏には《夏の情景》の構想を進める。
- 1869–1870
- パリで《夏の情景》を仕上げる。男性の水浴者を現代の戸外裸体として大画面に配置し、古典的構図と南仏の光を接続する。
- 1870
- 《夏の情景》がサロンに受理され、賛否を伴いながら注目される。《化粧》《牡丹を持つ若い女性》《バジールのアトリエ》を制作。《化粧》は同じ年のサロンで拒否された。
- 1870
- 5月以降モンペリエへ戻り、メーリック荘周辺で最後の制作期に入る。《レズ川の岸辺の風景》を「牧歌」と呼び、旧約聖書とヴィクトル・ユゴーを参照した未完大作《ルツとボアズ》へ進む。
- 1870
- 8月16日、家族の反対を押し切って第3ズアーヴ連隊へ志願。普仏戦争へ従軍する。
- 1870
- 11月27日、曹長へ昇進。翌11月28日、ボーヌ=ラ=ロランドの戦闘で戦死。28歳、29歳の誕生日を目前にしていた。
- 1871以降
- 作品の大部分が家族・友人のもとに残り、バジールの評価は友人たちの印象派形成史の中で語られることが多くなる。
- 1898
- 母カミーユ・バジールが《村の眺め》《サギのある静物》をファーブル美術館へ寄贈。モンペリエでの公的なバジールコレクション形成が本格化する。
- 1905
- 《家族の集い》が国家コレクションへ入り、のちリュクサンブール美術館、ルーヴル美術館、ジュ・ド・ポームを経てオルセー美術館へ継承される。
- 1910
- グラン・パレでバジールを含む初期印象派世代の再評価が進み、死後評価が次第に広がる。
- 1918
- 弟マルク・バジールが《化粧》を含む重要作をファーブル美術館へ寄贈し、家族による作品保存・公的移管が継続する。
- 1924
- マルク・バジールの遺贈により《ピンクのドレス》《バジールのアトリエ》などバジール家に残されていた作品が国家へ移る。
- 1935–1959
- モンペリエ、パリなどで回顧的展示が断続的に行われ、バジールを単なる「モネやルノワールの友人」以上の画家として整理する研究が蓄積する。
- 1978
- シカゴ美術館などで大規模回顧展が開催され、英語圏でもバジール研究が拡大する。
- 1992
- モンペリエとブルックリンを含む回顧的研究・展示によって、南仏作品とパリのアトリエ文化の両面が再検討される。
- 1995
- ミシェル・シュルマンによるカタログ・レゾネ研究が作品整理の重要な基盤となる。
- 2003–2004
- マルモッタン・モネ美術館などでバジールを印象派前史の中心人物として見直す展覧会が行われる。
- 2016
- ファーブル美術館で《フレデリック・バジール――印象派の青春》開幕。オルセー美術館、ナショナル・ギャラリーとの国際共同研究として、X線調査、書簡、比較作品を用いて制作史を再構成する。
- 2016–2017
- 展覧会がオルセー美術館、ナショナル・ギャラリーへ巡回。男性裸体、再利用キャンバス、最晩年の歴史画志向など、従来の「早世した印象派」像を超える論点が提示される。
- 2019
- オルセー美術館《黒人モデル――ジェリコーからマティスまで》で《牡丹を持つ若い女性》を含む黒人モデル表象が再検討され、旧題・モデルの匿名化・人種表象の歴史が論点となる。
- 2022–2024
- 《アフロ・アトランティック・ヒストリーズ》など国際展を通じ、《牡丹を持つ若い女性》が大西洋世界の黒人表象・近代美術史の文脈から再評価される。
- 2026
- ファーブル美術館がフランソワ・ドルト資料群に関する研究助成を公募。バジール自筆書簡76通、父ガストンの書簡8通、モネ、ルノワール、エドモン・メートルら友人の書簡22通を含む一次資料に基づく研究を支援する。
まとめ
バジールの絵画を特徴づけるのは、人物の姿と屋外の光を同じ大きな画面に結び付けようとした粘り強い試みです。メーリック荘の木陰と日向、集団肖像の硬い姿勢、川辺に集う若者の身体には、伝統的な人物画の構成を持ちながら実際の土地と光を描こうとする姿勢が通っています。そこから生まれた作品は、モネやルノワールと課題を分かち合いながらも、彼らの絵画とは異なる手触りを持っています。
アトリエの交友と経済的支援は、新しい絵画が生まれる具体的な環境を支えました。晩年には女性像の色彩や黒人モデルの描写、歴史画の構想にも進み、さらに広い可能性を実際の作品へ移していました。1870年に制作は中断され、現存する画面には異なる方向を探る仕事が残されました。印象派が成立する前の1860年代を、その進路がまだ一つに決まっていなかった豊かな実験の時代として見せてくれる点に、バジールの美術史上の意味があります。(参照:オルセー美術館|回顧展)
参考資料・出典
作品名、制作年代、寸法、所蔵先は各美術館の収蔵記録を参照しました。生涯と制作環境にはオルセー美術館の回顧展解説、技法や下層画像にはナショナル・ギャラリーの科学調査、書簡資料にはファーブル美術館の公開情報を用いています。《化粧》の1870年サロン出品結果は、作品総目録とオルセー美術館の作品解説を照合しています。
- オルセー美術館|バジール回顧展・制作史
- ナショナル・ギャラリー|2017年バジール展
- ナショナル・ギャラリー|保存科学調査とX線画像の発見
- ファーブル美術館|フレデリック・バジール
- ファーブル美術館|フランソワ・ドルト研究助成
- オルセー美術館|《ピンクのドレス》
- オルセー美術館|《即席の病室》
- オルセー美術館|《ピエール=オーギュスト・ルノワール》
- オルセー美術館|《家族の集い》
- オルセー美術館|《バジールのアトリエ》
- オルセー美術館|モネ《庭の女たち》
- ナショナル・ギャラリー|《エーグ=モルト西城壁》
- ナショナル・ギャラリー|《エドモン・メートル》
- ナショナル・ギャラリー|《牡丹を持つ若い女性》
- オルセー美術館|2019年『黒人モデル』展
- ナショナル・ギャラリー|大西洋世界の黒人表象
- ファーブル美術館|《村の眺め》
- ファーブル美術館|《化粧》
- 作品総目録|《化粧》の来歴とサロン記録
- 作品総目録|《夏の情景》と同時代批評
- ファーブル美術館|《ルツとボアズ》
- プロテスタント博物館|バジールの生涯
- 国立美術史研究所|バジール資料
- ハーバード大学美術館|《夏の情景》所蔵記録