Art Library

Francisco de Goya

フランシスコ・デ・ゴヤ

スペイン / 1746–1828 / ロマン主義/近代スペイン美術

フランシスコ・デ・ゴヤ(1746–1828)は、18世紀後半のスペイン宮廷でタペストリー原画と肖像画を制作しながら出世し、同時に版画、素描、私的な小品では迷信、欲望、暴力、戦争、老い、恐怖といった人間の不安定な側面を執拗に描いた画家です。明るい宮廷装飾《日傘》から、王家の公式肖像、《裸のマハ》、社会風刺の《ロス・カプリチョス》、ナポレオン戦争を扱った《1808年5月3日》と《戦争の惨禍》、自宅の壁へ描いた《黒い絵》まで、同じ作家とは思えないほど表現を変化させました。しかし、その制作を「若い頃は明るく、耳を失ってから暗くなった」という一本道で説明することはできません。1792–93年の重病で聴覚を失った後も、ゴヤは宮廷画家としてさらに昇進し、公式肖像と、注文から比較的自由な批判的作品を同時に制作しています。ゴヤを見るうえで重要なのは、宮廷と批判、理性と幻想、現実の観察と想像、公共的な作品と私的な作品が、一人の画家の中で並行していたことです。

生涯と制作の変遷

フエンデトドスからサラゴサ、そしてイタリアへ

ゴヤは1746年3月30日、スペイン北東部アラゴン地方のフエンデトドスに生まれました。家族はほどなくサラゴサへ戻り、1760年頃から画家ホセ・ルサンの工房で学びます。マドリードの王立美術アカデミーの競争試験にも挑戦しましたが、若い時期には期待した評価を得られませんでした。

1769年頃、自費でイタリアへ渡り、ローマを中心に古典彫刻や絵画を研究します。Fundación Goya en Aragónによれば、1771年にパルマ美術アカデミーのコンクールへ《アルプスから初めてイタリアを望む勝利者ハンニバル》を出品し、佳作を得ました。帰国後はサラゴサの宗教画などを制作し、徐々に仕事を拡大します。

1775年、マドリードの王立タペストリー工場へ

1775年、ゴヤはマドリードへ移り、義兄フランシスコ・バイユーらのもとで王立サンタ・バルバラ・タペストリー工場の原画制作に参加します。Pradoによれば、王太子夫妻の宮殿を飾るタペストリーのため、祭り、遊び、恋愛、子ども、市井の人々など、当時のマドリード生活を題材とする作品を数多く制作しました。

《日傘》はその代表例です。若い女性と彼女を日差しから守る男性を明るい色彩で描き、下から見上げるような視点は、完成したタペストリーが窓の上方に設置されることを計算したものです。タペストリー原画は単なる職人的下絵ではなく、特定の建築空間に合わせて人物、光、視点を設計する仕事でした。

宮廷での上昇

1780年にReal Academia de San Fernandoの会員となり、貴族、銀行家、知識人の肖像を描く機会が増えます。Pradoによれば1786年に国王付き画家、1789年に宮廷画家、1799年には首席宮廷画家に昇進しました。

この出世は重要です。後世のゴヤは「権力を暴く反体制的な天才」として語られがちですが、実際には長年にわたりスペイン王室の公式画家として成功しました。同時に、啓蒙思想を共有する知識人とも交流し、公式の仕事とは異なる批判的な素描や版画を制作します。制度の外から批判したのではなく、制度の中心近くにいながら複数の顔を持つ作家でした。

1792–93年、重大な病

1792年末から1793年初頭、ゴヤは原因が確定していない重病にかかり、回復後も重度の聴覚障害が残りました。MetとPradoはいずれも、この病がその後の制作の重要な転換期と重なったことを記録しています。

病後、注文を受けた肖像画だけでなく、監獄、精神病院、火災、暴力、魔女、幻想的な場面などを描く小型作品や素描が増えます。ただし「耳が聞こえなくなったため暗い絵を描くようになった」と心理的因果関係を単純化することはできません。ゴヤは1799年に首席宮廷画家となり、1800年には《カルロス4世の家族》を制作しています。公的成功と私的な実験は同時進行していました。

1799年、《ロス・カプリチョス》

1799年、80点からなる版画集《Los Caprichos(ロス・カプリチョス)》を刊行します。男女関係、教育、無知、迷信、聖職者の腐敗、社会的虚栄などを、現実と幻想が混ざり合う場面によって風刺しました。

もっとも有名な第43番《理性の眠りは怪物を生む》では、机に伏した人物の背後へフクロウ、コウモリ、山猫が現れます。Pradoは、この作品を単純に「理性が眠ると迷信が勝つ」という一つの意味に限定せず、理性と想像力の関係について複数の解釈が可能な作品として紹介しています。

1800年、王家とマハ

1800年、《カルロス4世の家族》を制作します。豪華な衣装と勲章をまとった王族を大画面に並べ、左奥にはゴヤ自身も描かれています。ベラスケス《ラス・メニーナス》との関係を意識させる構成ですが、人物一人ひとりの顔と身体は非常に個別的です。

同じ頃、後に《裸のマハ》《着衣のマハ》と呼ばれる作品もマヌエル・ゴドイの所蔵となりました。《裸のマハ》のモデルが誰であるかは確定していません。アルバ公爵夫人とする有名な説もありますが、決定的な史料はありません。Pradoによれば作品は1800年にはゴドイの邸宅にあり、1814年には異端審問の調査対象となりました。

1808–1814年、スペイン独立戦争

1808年、ナポレオン軍による介入と王位をめぐる混乱からスペイン独立戦争が始まります。ゴヤは占領下のマドリードに残り、複雑な政治状況の中で仕事を続けました。戦争中からエッチング連作《戦争の惨禍》を制作しますが、生前には刊行されませんでした。

フランス軍撤退後の1814年、《1808年5月2日》と《1808年5月3日》を制作します。Pradoはこの二作について、単純な愛国的英雄画とは異なり、スペイン側とフランス側双方の暴力が連鎖する構造と、死を前にした恐怖を前面に出したものと説明しています。

1819年、Quinta del Sordo

1819年、ゴヤはマドリード郊外の別荘Quinta del Sordoを購入します。1820–23年頃、その室内壁に現在《黒い絵》と総称される14点を直接描きました。《サトゥルヌス》《犬》《魔女の安息日》《サン・イシドロの巡礼》などです。

これらは王室や教会から依頼された公開作品ではなく、自宅の壁を覆った私的な絵画でした。1870年代に壁からカンヴァスへ移され、その過程で絵具層が大きく失われた作品もあります。現在美術館で見る《黒い絵》は、ゴヤの家にあった当初の状態そのものではありません。

ボルドーへ

1824年、フェルナンド7世による政治的抑圧が強まる中、ゴヤはフランスへ渡り、主にボルドーで生活するようになります。1826年には宮廷画家としての給与を維持したまま正式に退職する許可を得ました。

晩年も制作を止めず、リトグラフ《ボルドーの闘牛》や肖像、素描など新しい技法を試しました。1828年4月16日、ボルドーで死去しました。82歳でした。

宮廷画家――タペストリーから王家の肖像へ

宮廷画家であることは「保守的」であることと同じではない

ゴヤは約半世紀にわたり、王室や貴族と密接に働きました。現代では批判的な版画や《黒い絵》が強く印象に残りますが、経済的・社会的な基盤を築いたのは宮廷と上流階級の仕事です。

一方、宮廷の注文作品にも鋭い観察があります。衣装、髪型、宝飾品を正確に描きながら、人物ごとの年齢、身体、表情を均質化しません。公式肖像に必要な権威と、具体的な人間の個別性を同時に描きました。

《カルロス4世の家族》は王家を嘲笑した絵なのか

この作品は後世、王族を醜く描いた風刺やカリカチュアとして繰り返し説明されてきました。しかし、ゴヤが王家を嘲笑する意図で描いたことを示す確実な史料はありません。Pradoは、ゴヤが首席宮廷画家に任命された直後の公式肖像として、各人物を個別化する卓越した能力を強調しています。

現代の鑑賞者が顔立ちに不穏さや緊張を感じることと、画家が秘密裏に王家を侮辱したと断定することは別です。作品そのものの観察と、後世に付加された物語を区別する必要があります。

1792–93年の病と聴覚喪失

転換点ではあるが、原因を単純化しない

重病後のゴヤには、注文主から比較的自由な作品が確実に増えます。Pradoはこの時期を、初期素描アルバムから《ロス・カプリチョス》へつながる、より独立した制作方向の始まりとして位置づけています。

しかし、病後に社会から完全に孤立したわけではありません。肖像画家としての名声は上がり、1799年には宮廷で最高位に到達します。聴覚喪失と作品の暗さを一対一で結びつけるより、身体的変化、啓蒙思想との交流、政治的不安、版画という媒体、注文から自由な制作環境が同時に作用したと考える方が適切です。

見ることへの集中

聴覚を失った後も、ゴヤは周囲の人々を大量に素描し続けました。通りの人物、女性、老人、囚人、修道士、夢、奇妙な生物まで、日常観察と想像が同じノートの中へ入ります。

外界を正確に写すことと、内面の幻想を描くことを別のジャンルに分けず、両者を往復したことが後期ゴヤの大きな特徴です。

《ロス・カプリチョス》――理性と幻想

社会風刺と怪物が同じシリーズにいる

《ロス・カプリチョス》の前半には、結婚、売春、教育、身分、虚栄など現実社会を風刺する作品が多く、後半では魔女、悪魔、怪物、動物化した人間が増えていきます。

それらは別々の世界ではありません。迷信、欲望、無知、権力が、現実の人物と幻想的怪物の間を行き来する構造になっています。

《理性の眠りは怪物を生む》

題名から「理性が眠ると怪物が現れる」という啓蒙主義的教訓を読み取ることはできます。しかしPradoは、準備素描に残る説明を踏まえ、想像力を否定する作品ではなく、理性と想像力をどのように結びつけるかという問題も含むと整理しています。

ゴヤにとって幻想は排除すべき敵ではありません。幻想だけでは怪物を生み得る一方、理性と結びつけば芸術を生み出す。後の《黒い絵》まで続く、現実と想像の関係を考える重要な出発点です。

ゴヤの作品をどう見るか

「明るいゴヤ/暗いゴヤ」に二分しない

《日傘》と《サトゥルヌス》は極端に異なります。しかし初期タペストリーにも喧嘩、誘惑、貧困、事故を扱う作品があり、晩年にも穏やかな肖像や実験的なリトグラフがあります。

作品の雰囲気だけで人生を二分するより、誰のために、どこへ置くために、どの媒体で制作したかを見ることが重要です。

光源を見る

《1808年5月3日》では地面のランタン、《日傘》では陽光、《黒い絵》では不明瞭な暗闇が人物の見え方を決めています。ゴヤは光を自然描写だけでなく、誰を見るべきかを指定する演出として使います。

顔と身体を分けて見る

肖像画では衣装が華麗でも、顔は驚くほど直接的です。戦争画では顔が恐怖を示す一方、敵兵は背中を向けた反復する身体として描かれる場合があります。

一人ひとりを個人として見せるのか、匿名化された集団として見せるのか。その差が作品の倫理的な構造を作っています。

版画ではタイトルも作品の一部として読む

《戦争の惨禍》の「これはもっとひどい」「見ることができない」「なぜ?」のような短い言葉は、場面を客観的に説明するキャプションではありません。見る人の反応を誘導しながら、断定しきれない距離を残します。

「ゴヤ自身の本音」と断定しない

《黒い絵》や《カプリチョス》は非常に私的に感じられるため、画家の心理を直接読んでしまいやすい作品です。しかし作品の正確な意味を本人が説明していない場合も多くあります。

うつ、狂気、死への恐怖など、後世の心理診断を作品から逆算するのではなく、当時の政治、宗教、民間信仰、文学、図像、制作場所と併せて見る必要があります。

主要作品

王室のタペストリー原画から、首席宮廷画家としての公式肖像、裸体画、社会風刺版画、戦争表現、そして自宅の壁へ描いた《黒い絵》まで、ゴヤが約50年間にわたって制作の目的・媒体・表現を変えていく流れを追える8作品を選びました。作品そのものはパブリックドメインですが、デジタル画像の利用条件は所蔵館ごとに確認します。

日傘

El quitasol (The Parasol) / 1777 / 油彩・カンヴァス / 104 × 152 cm

Museo Nacional del Prado, Madrid

王太子夫妻の宮殿を飾るタペストリーの原画として制作。若い女性と日傘を差す男性を明るく描き、下から見上げる視点は完成したタペストリーが窓上に設置されることを計算したものです。Pradoは、古典的なピラミッド構図と光・影の巧みな処理を指摘しています。後の暗いゴヤだけでは見えない、宮廷装飾画家としての出発点を示す作品です。

所蔵館の作品情報 ↗

カルロス4世の家族

The Family of Carlos IV / 1800 / 油彩・カンヴァス / 280 × 336 cm

Museo Nacional del Prado, Madrid

1799年に首席宮廷画家となった直後に制作した王家の公式集団肖像。豪華な衣装、勲章、宝飾品を描きながら、各人物の顔と身体を強く個別化しています。後世には王家を嘲笑したカリカチュアという読みも広まりましたが、ゴヤ自身の風刺意図を裏づける確実な史料はなく、Pradoはまず卓越した人物描写として位置づけています。

所蔵館の作品情報 ↗

裸のマハ

La maja desnuda (The Naked Maja) / 1795–1800 / 油彩・カンヴァス / 97.3 × 190.6 cm

Museo Nacional del Prado, Madrid

横たわるヴィーナスの伝統を参照しながら、神話的属性をほとんど持たない同時代の女性裸体を正面から提示します。1800年にはマヌエル・ゴドイ邸に記録され、1814年には異端審問の調査対象となりました。モデルをアルバ公爵夫人とする説は有名ですが確証はなく、人物の身元は確定していません。

所蔵館の作品情報 ↗

理性の眠りは怪物を生む

El sueño de la razón produce monstruos (The Sleep of Reason Produces Monsters) / 1799 / エッチング、アクアチント / 版面 21.2 × 15.1 cm

The Metropolitan Museum of Art, New York

80点からなる《Los Caprichos》第43番。机に伏した人物の背後へフクロウ、コウモリ、山猫などが現れます。社会の無知や迷信への啓蒙主義的批判として読める一方、Pradoは準備素描を踏まえ、理性と想像力をどう結びつけるかという芸術論も含むと紹介しています。Metの所蔵画像はPublic Domainです。

所蔵館の作品情報 ↗

1808年5月3日、マドリード、あるいは処刑

The 3rd of May 1808 in Madrid, or “The Executions” / 1814 / 油彩・カンヴァス / 268 × 347 cm

Museo Nacional del Prado, Madrid

1808年5月2日のマドリード蜂起後、フランス軍が住民を処刑した夜を1814年に描いた作品。顔を見せず銃を構える兵士と、ランタンに照らされ両腕を広げる処刑対象の男性を対置します。Pradoは対作品《5月2日》とともに、単純な英雄主義ではなく、暴力の連鎖と死を前にした恐怖を中心にした作品として説明しています。

所蔵館の作品情報 ↗

これはもっとひどい

Esto es peor (This is worse) / 1810(初版刊行1863) / エッチング、ラヴィ、ドライポイント / 版面 約15.2 × 20.1 cm

The Metropolitan Museum of Art, New York

《戦争の惨禍》第37番。切断された裸体が樹木に突き刺された場面を描きます。古典彫刻を思わせる人体の形式と、現実の極端な暴力が衝突します。連作は戦争中から制作されましたがゴヤの生前には刊行されず、1863年に初版が出ました。Metの所蔵画像はPublic Domainです。

所蔵館の作品情報 ↗

サトゥルヌス

Saturn / 1820–1823 / 壁面への混合技法、のちカンヴァスへ移転 / 143.5 × 81.4 cm

Museo Nacional del Prado, Madrid

Quinta del Sordoの一階を飾っていた《黒い絵》の一作。自分の子を食べるサトゥルヌスという古典神話を、暗闇の中で裸体へ食らいつく巨大な人物として描きます。王室や展覧会のためではなく自宅の壁に直接描かれた作品で、1870年代のカンヴァスへの転写を経て現在の状態になっています。

所蔵館の作品情報 ↗

犬

The Drowning Dog / 1820–1823 / 壁面への混合技法、のちカンヴァスへ移転 / 131.5 × 79.2 cm

Museo Nacional del Prado, Madrid

《黒い絵》の一作。画面下部に犬の頭だけが現れ、その上を巨大な黄褐色の空間が占めます。具体的な状況は明確ではなく、孤独や不安の象徴として後世に多く解釈されてきました。Pradoは転写時に《黒い絵》が大きな損傷を受けたことを記録しており、現在の表面すべてをゴヤ本来の状態とみなすことには注意が必要です。

所蔵館の作品情報 ↗

肖像画と権力――「風刺」に決めつけない

衣装と身体を同時に描く

ゴヤの肖像画では、絹、レース、金糸、勲章、宝飾品が大胆な筆触で描かれます。近くで見ると細部は省略されているのに、少し離れると豪華な素材として成立します。

一方、顔や手には個別性が残ります。貴族を理想化しすぎず、だからといって必ずしも風刺するわけでもない。この距離感が、後のマネを含む近代肖像画へつながる重要な特徴として評価されてきました。

《裸のマハ》と「モデル探し」

《裸のマハ》では女性が鑑賞者を正面から見返します。伝統的なヴィーナスの横たわる裸体を参照しながら、神話的属性をほとんど持たず、同時代の女性として提示されます。

有名な「モデルはアルバ公爵夫人」という説は確証がありません。モデルの身元を特定することより、裸体像が私人のコレクションに置かれ、後に異端審問の対象となった社会的状況を見る方が作品史として確実です。

戦争を英雄物語にしない

《1808年5月3日》

画面右には銃を構えるフランス兵が横一列に並び、顔はほとんど見えません。左には処刑を待つ人々と死体があり、白いシャツの男性が両腕を広げています。ランタンの人工光が彼を照らします。

通常の戦争画であれば、英雄の勝利や軍隊の秩序が中心になります。ここでは勝者の顔ではなく、死ぬ側の恐怖が中心です。Pradoも、この作品と《5月2日》を、英雄的な記念画より暴力の非合理性を強調するものとして説明しています。

《戦争の惨禍》

戦争中から制作された《戦争の惨禍》では、処刑、切断された身体、性暴力、飢餓、死体、逃げる民衆などが繰り返されます。Pradoは、この連作が同時代の宣伝的な戦争表象から離れ、フランス軍とスペイン側双方の残虐性を批判したと説明しています。

シリーズはゴヤの生前には刊行されず、最初の版は1863年でした。つまり当時の大衆へ即時に戦争反対を訴える報道作品ではありません。私的に作り続けられ、後世に公開された点も重要です。

《これはもっとひどい》

樹木に刺し貫かれた切断死体を描く《Esto es peor(これはもっとひどい)》では、古典彫刻を思わせる身体の美しさと、極端な暴力が同じ像にあります。

美しい人体を理想化する美術の伝統が、戦争によって破壊された身体を表すために使われます。美術史的な「美」と現実の残虐さを衝突させるところに、ゴヤの戦争表現の強さがあります。

版画――公開作品とは別の思考空間

ゴヤは版画家でもあった

油彩の代表作だけでなく、版画はゴヤの制作の中心です。若い頃にはベラスケス作品を版画に翻訳し、後に《ロス・カプリチョス》《戦争の惨禍》《闘牛技》《ロス・ディスパラテス》という大規模な連作を制作しました。

エッチング、アクアチント、ドライポイント、バーニッシャーなどを組み合わせ、線だけでなく広い暗部と粒子状の階調を作りました。闇から人物が浮かび上がるゴヤ独特のイメージは、アクアチントと非常に相性が良いものでした。

複製可能だからこそ、絵画とは違うことができる

版画は複数部数を作れる一方、宮廷の公式肖像とは違い、小さな紙面を個人的に手に取って見る媒体です。《カプリチョス》では社会風刺、《戦争の惨禍》では公開しにくい暴力を扱いました。

ゴヤにとって版画は油彩の廉価版ではなく、別の思想と視覚言語を試せる独立した制作領域でした。

《黒い絵》――自宅の壁に描いた私的な絵画

14点は展覧会のために描かれたのではない

《黒い絵》はQuinta del Sordoの一階と二階の壁面を飾っていました。Pradoは、その私的で親密な環境がゴヤに大きな自由を与えたと説明しています。

現在のタイトルや並びを、美術館用に計画された連作のように捉えることには注意が必要です。ゴヤがどのような順序で鑑賞することを想定していたか、各作品を正確に何と呼んでいたかは完全には分かりません。

《サトゥルヌス》

自分の子を食べる神サトゥルヌスという古典神話を描きます。しかしルーベンスなどの先行作品と比較すると、ゴヤの像は宮廷的な神話画から大きく離れ、暗闇の中で裸の身体に食いつく異様な存在として現れます。

権力、時間、老い、恐怖など多くの解釈が可能ですが、一つの寓意へ固定することはできません。

《犬》

《The Drowning Dog》では、画面下部から犬の頭だけが現れ、その上には巨大な黄褐色の空間が広がります。犬が実際に何に沈んでいるのか、何を見ているのかは明確ではありません。

20世紀の抽象絵画を思わせる極端な余白のため、孤独や絶望の象徴としてしばしば読まれます。しかし、そうした現代的心理解釈だけでなく、本来は壁面装飾の一部であり、隣接する作品や部屋の構造とともに存在していたことを忘れない方がよいでしょう。

現在の表面は転写後のもの

1873年にQuinta del Sordoを取得したÉmile d’Erlangerは、壁画をカンヴァスへ移す作業を依頼しました。Pradoは《犬》などについて、転写の際に大量の絵具が失われたと記録しています。

現在見える荒れた表面のすべてを、ゴヤ本人の意図的な筆触とみなすことはできません。保存史も作品の見え方に大きく影響しています。

ゴヤはなぜ「近代的」に見えるのか

美しさだけを芸術の条件にしなかった

ゴヤは宮廷の華麗な衣装も、切断死体も、魔女も、精神病院も、老人も、犬も同じ制作人生の中で描きました。絵画が「高貴で美しいもの」を示すべきだという従来の枠を大きく押し広げています。

Pradoは《Goya. Light and Shade》展で、ゴヤの技法と概念が後の近代美術の自由化へ道を開いたと位置づけ、「最初の近代画家」という歴史的評価も紹介しています。これは絶対的な称号というより、後世がゴヤの制作に近代美術の問題を見いだしてきたことを示します。

マネへの具体的な影響

ゴヤから後の画家への影響は抽象的な評価だけではありません。Pradoによれば、エドゥアール・マネは1865年のスペイン旅行で《1808年5月3日》を見ており、その後《皇帝マクシミリアンの処刑》を制作する際に参照しました。

国家的事件を英雄化せず、銃殺される身体と匿名の兵士を対置する構図は、19世紀以降の「現代史をどう描くか」という問題へ直接つながりました。

現実と幻想の境界を固定しなかった

近代性を技法だけに求める必要はありません。《カプリチョス》では現実社会が怪物へ変わり、《黒い絵》では神話と日常の境界が消えます。Pradoの20世紀美術に関する資料も、ゴヤを「現実と想像の間の弱い境界」を明らかにした画家として位置づけています。

宮廷画家、社会風刺家、戦争の観察者、幻想画家という複数のゴヤを一つへ整理できないこと自体が、後世の作家が繰り返し彼へ戻ってきた理由の一つです。

画像利用について

ゴヤは1828年に死去しており、作品そのものはパブリックドメインです。ただし、所蔵館が作成したデジタル画像の利用条件は別に確認する必要があります。The Metropolitan Museum of Artは《理性の眠りは怪物を生む》《戦争の惨禍:これはもっとひどい》などの所蔵画像をPublic Domain/Open Accessとして明示しています。一方、Museo del Pradoの作品ページでは画像ダウンロード時に個人利用・商業利用の区分が設けられています。ART LIBRARYでは作品の著作権状態と画像ファイルの利用条件を分け、Open Access/Public Domainが明示された画像を優先して登録します。

略年譜

1746
3月30日、アラゴン地方フエンデトドスに生まれる。家族はほどなくサラゴサへ戻る。
1760頃
サラゴサでホセ・ルサンの工房に入り、絵画を学ぶ。
1769–1771
イタリアへ渡り、ローマなどで古典美術を研究。1771年、パルマ美術アカデミーのコンクールで佳作。
1773
画家フランシスコ・バイユーの妹ホセファ・バイユーと結婚。
1775
マドリードへ移り、王立タペストリー工場のための原画制作を開始。
1777
《日傘》を制作。
1780
Real Academia de San Fernandoの会員となる。
1786
国王付き画家に任命される。
1789
カルロス4世の宮廷画家に任命される。
1792–1793
重大な病にかかり、回復後も重度の聴覚障害が残る。
1793–1798
注文から比較的自由な小型作品、素描、魔女・監獄・精神病院などを扱う作品が増加。
1799
80点からなる《ロス・カプリチョス》を刊行。首席宮廷画家に任命される。
1800
《カルロス4世の家族》を制作。《裸のマハ》もこの頃までに完成し、マヌエル・ゴドイのコレクションに記録される。
1808
スペイン独立戦争が始まる。占領下のマドリードを中心に複雑な政治状況の中で制作を継続。
1810頃–1815頃
《戦争の惨禍》の版を制作。連作は生前には刊行されず、1863年に初版。
1814
《1808年5月2日》《1808年5月3日》を制作。
1815–1816
《闘牛技》を制作・刊行。
1819
マドリード郊外のQuinta del Sordoを購入。同年、再び重病を経験。
1820–1823頃
Quinta del Sordoの壁面に、後に《黒い絵》と総称される14点を制作。
1824
フランスへ渡り、主にボルドーで生活。
1825
新しいリトグラフ技法を用いて《ボルドーの闘牛》を制作。
1826
スペインへ一時帰国し、宮廷画家としての給与を保ったまま退職・フランス居住の許可を得る。
1828
4月16日、ボルドーで死去。82歳。
1863
Real Academia de San Fernandoが《戦争の惨禍》を初めて刊行。
1870年代
Quinta del Sordoの壁画がカンヴァスへ移される。
1881–1889
《黒い絵》がスペイン国家へ寄贈され、後にPradoで展示される。

参考資料・出典

本ページはMuseo Nacional del Prado、Fundación Goya en Aragón、The Metropolitan Museum of Artなどの美術館・研究機関資料を参照してART LIBRARYが独自に執筆しました。原文の全文翻訳ではありません。

資料確認日:2026年10月1日 / ART LIBRARY