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Francis Bacon

フランシス・ベーコン

イギリス(アイルランド生まれ) / 1909–1992 / 戦後イギリス具象絵画/スクール・オブ・ロンドン

Youtube : ダミアン・ハースト、フランシス・ベーコンについて語る | アーティストインタビュー | TateShots

フランシス・ベーコン(Francis Bacon、1909–1992)は、20世紀の人物画を根本から更新した画家です。彼の作品では、人間の顔や身体は安定した輪郭を持ちません。顔は引き延ばされ、口は叫びへ変わり、身体はねじれ、溶け、途中で消えかけます。しかし、ベーコンは人物を単純に「醜く歪めた」のではありません。写真、映画、美術史上の名画、医学書、動物写真、新聞、雑誌など大量の既存イメージを組み合わせ、静止した一枚の肖像では捉えられない身体の動き、時間、欲望、恐怖、記憶を絵画へ変換しました。

そのため、ベーコンの絵画を「不安」「孤独」「実存」といった戦後的な言葉だけで説明すると、制作の具体的な仕組みが見えにくくなります。彼はモデルを目の前に座らせて直接写生するより、友人John Deakinが撮った写真、Eadweard Muybridgeの連続写真、映画の一場面、VelázquezやVan Gogh、Ingres、Rembrandtらの複製図版を床や棚に散乱させ、それらを繰り返し見ながら描きました。写真を忠実に写すのではなく、複数の像を重ね、切り取り、反転し、事故的な筆触を利用して、元の写真には存在しなかった人物像を作ります。

彼が「偶然」を重視したこともよく知られています。絵具を擦り、布で拭き、筆以外の道具を使い、予期しなかった形が現れると、それを身体の一部として利用しました。一方、死後に保存されたReece Mewsの制作室には、破られ、折られ、絵具で汚れた写真や図版、構図を検討した資料が大量に残されていました。Estate of Francis Baconも、本人が公のインタビューで偶然性を強調した一方、制作室の資料は実際にはかなり慎重で意図的な準備を行っていたことを示すと説明しています。ベーコンの絵画は、偶然か計画かのどちらかではなく、その二つを衝突させることで成立していました。

ベーコンの生涯は、Dublin、London、Berlin、Paris、Monte Carlo、Tangier、Madridなど複数の都市を横断します。1909年にDublinでイギリス人の両親のもとに生まれ、慢性的な喘息を抱えながら育ちました。16歳頃に家を離れ、1927年にBerlinとParisを経験します。ParisではPicassoの作品に強い刺激を受け、やがて家具・室内装飾のデザイナーとしてLondonで活動を始めました。画家として美術学校教育を受けたわけではなく、デザイン、展覧会、写真、映画、複製図版を通して自分の視覚言語を作っていきます。

1933年には《Crucifixion》がHerbert Readの『Art Now』に掲載され、一時的に注目されます。しかし1934年の個展は成功せず、1936年のInternational Surrealist Exhibitionでは「十分にシュルレアリスム的ではない」として出品を拒まれました。ベーコンはこの時期の作品の多くを自ら破棄しています。後年、1944年《Three Studies for Figures at the Base of a Crucifixion》以前の作品をほとんど自分の本格的な制作に数えなかったこともあり、美術史上の「出発点」は35歳頃に置かれることが多くなりました。

《Three Studies for Figures at the Base of a Crucifixion》は1945年4月、第二次世界大戦のヨーロッパ終戦直前にLefevre Galleryで初公開されました。鮮烈なオレンジの背景に、目を持たず、長い首と開いた口を持つ三体の生物的な像が並びます。題名はキリスト磔刑を参照しますが、ベーコン自身はAeschylus『Oresteia』の復讐の女神Furies/Eumenidesを念頭に置いていました。戦時下の観客に強烈な印象を与えましたが、特定の戦争事件を図解した作品ではありません。キリスト教図像、ギリシャ悲劇、動物と人間の中間の身体を一つの三連画へ圧縮したことが重要です。

1946年《Painting》では、肉の枝肉、黒い傘、スーツ姿の男、黄いろい花、暗い室内のような形が一枚へ重なります。MoMAによれば、ベーコンは当初「草原に降りる鳥」を描くつもりだったものが、制作中の変化によって全く異なる像になったと説明しました。ここには彼の方法が端的に現れています。最初の構想を忠実に実現するのではなく、絵具の形や連想によって別の像へ進み、結果としてより強いイメージが生まれれば、出発点を捨てます。

1940年代末からは、Velázquez《Pope Innocent X》の複製図版とSergei Eisensteinの映画《Battleship Potemkin》に登場する叫ぶ乳母の静止画を組み合わせ、いわゆる「叫ぶ教皇」の連作へ向かいました。ベーコンはVelázquezの原作を実見せず、写真複製を通して繰り返し参照しました。これは不足ではありませんでした。むしろ複製だからこそ、原作の色彩や物質性から自由になり、教皇の権威ある座像へ映画の叫びを侵入させることができました。

1953年《Study after Velázquez’s Portrait of Pope Innocent X》では、紫の衣を着た教皇が暗い縦線の中で口を開きます。椅子や空間を示す線は檻のようにも見え、権威ある人物が守られているのか閉じ込められているのか判然としません。同年の《Study for Portrait VII》では、David Sylvesterの肖像として始まった像が制作途中で再びVelázquezの教皇へ接近しました。肖像は特定人物の外見を保存するものではなく、複数の人物像が重なる場になります。

同じ1953年の《Study of a Baboon》は、ベーコンの動物への関心を示す重要作です。MoMAによれば、参照元はMarius Maxwellの1925年の野生動物写真集でした。猿は檻の内側とも外側とも読める位置に置かれ、半透明の身体と鋭い歯を見せています。ベーコンは人間と動物を対立させるのではなく、動物の動作、歯、口、筋肉を人間の身体理解へ持ち込みました。後の人物画で口や四肢が動物的に見えるのも、この関心とつながります。

1950年代には南アフリカを訪れ、野生動物を実際に見る一方、Cairoで古代エジプト彫刻を見ました。Estateは、彼がエジプト美術を非常に高く評価し、Sphinxを複数作品へ取り入れたことを記録しています。またTangierでは恋人Peter Lacyとの関係を続け、LondonではSohoのColony Roomを中心とする友人たちと交流しました。画家Lucian Freud、Frank Auerbach、Michael Andrews、Isabel Rawsthorne、Henrietta Moraes、批評家David Sylvester、写真家John Deakinらが、後に多くの肖像のモデルや参照元になります。

1961年、South Kensingtonの7 Reece Mewsへ移り、そこが死までの主要な制作室となります。狭い部屋には写真、雑誌、画集、書籍、絵具、布、筆、新聞紙などが積み重なり、床は足の踏み場もないほどでした。しかしベーコンにとってはこの混沌が視覚資料庫でした。死後、制作室はJohn EdwardsからDublinのHugh Lane Galleryへ寄贈され、約7,000点の物品が位置まで記録されて移設・再構築されました。このアーカイブは、彼がどの写真や本を繰り返し使ったかを具体的に研究できる重要な資料になっています。

Reece Mewsへ移った翌年、1962年《Three Studies for a Crucifixion》を制作します。各パネル約198×145センチという大型三連画で、鮮やかな赤橙色の空間に肉塊、横たわる身体、吊られた身体のような像が並びます。1944年の三連画よりはるかに大きく、ここから三連画はベーコンの代表的な形式になります。宗教的祭壇画の形式を使いながら、中心に信仰対象を置くのではなく、互いに切断された時間や身体を並置しました。

同年には《Study for Three Heads》も制作しました。中央がベーコン自身、左右がPeter Lacyの顔とされる小型三連画で、MoMA資料によれば、1962年Tate回顧展の開幕日にLacyの死を知った後の喪失と深く結びついています。大型三連画が壮大な歴史や身体を扱う一方、30センチ程度の小さな肖像三連画では、親しい人物の顔が暗い空間から浮かびます。ベーコンにとって三連画は大きさではなく、同じ人物や出来事を一枚へ統合せず、複数の像として並べる方法でした。

1963年頃にGeorge Dyerと出会い、その後Dyerは1960年代の主要なモデルになります。ベーコンはDyerを直接長時間座らせるより、John Deakinが撮影した写真を使って描きました。1968年《Portrait of George Dyer in a Mirror》では、回転椅子に座るDyerと鏡像が一つの画面へ存在します。身体は大きく変形していますが、鏡の中の顔は比較的自然な形を残します。鏡は「真実の顔」を映す装置ではなく、同じ人物が同時に複数の姿を持つことを示します。

1971年、Grand Palaisで大規模回顧展が開かれる直前、DyerはParisのホテルで薬物と酒の過剰摂取により亡くなりました。その後ベーコンは《In Memory of George Dyer》《Triptych August 1972》《Triptych May–June 1973》など、いわゆるBlack Triptychsを制作します。ここではDyerが単なる追悼肖像として穏やかに描かれるのではなく、ドアの中へ消え、影に吸収され、便器や室内とともに崩れる身体として現れます。喪失を一つの象徴へまとめず、記憶の断片が反復する構造にしています。

1970年代には自画像も急増しました。ベーコンはDavid Sylvesterとの対話で、周囲の人々が次々に亡くなり、描く相手が少なくなったため自分を描くようになったと述べています。1979年《Three Studies for Self-Portrait》では、黒い背景から三つの頭部だけが浮かび、顔が少しずつ回転するように見えます。The Metは、三つの像が映画の緩やかなパン撮影のように時間を作ると説明しています。一枚の「本当の顔」ではなく、時間の中で変わる三つの自己像です。

1980年代には画面がさらに簡潔になります。身体は広い単色面の中へ孤立し、空間を示す線も最小限になります。《Study of the Human Body》(1981–82)では、人物がほとんど胴体と脚だけへ縮約されます。Estateは、晩年のベーコンが人体を「切り株と一対の脚」のような最小形へ削ぎ落としながら、エアゾール塗料やパステルを使って表面をさらに繊細にしたと説明しています。初期より暴力が弱まったというより、少ない要素で同じ緊張を作る方向へ進みました。

1991年の《Triptych》は、完成した最後の大型三連画です。左右のパネルにはベーコン自身とブラジル人レーシングドライバーを参照した頭部が置かれ、中央には肉塊のような身体が黒い開口部から現れます。MoMAは、伝統的な三連祭壇画では中央に崇拝対象が置かれるのに対し、ここでは不定形な肉体が中心にあると説明しています。1944年から約半世紀を経ても、三連画、黒い空間、身体、写真断片という基本的な問題が別の姿で残っています。

1992年4月、健康状態が悪化する中でMadridを訪れ、28日に心臓発作で亡くなりました。制作室には未完成の肖像が残されていました。遺産は長年の友人John Edwardsへ渡り、のちにReece Mewsの制作室がDublinへ移されます。2016年にはEstateによる全5巻のcatalogue raisonnéが刊行され、584点の番号付き作品が整理されました。ベーコン研究は死後も、伝記的神話だけではなく、制作室資料、写真、書籍、技法、展覧会歴から制作過程を再検討する方向へ進んでいます。

2024年National Portrait Galleryの《Francis Bacon: Human Presence》、2025年Fondation Pierre Gianaddaの《Présence humaine》は、1940年代から晩年までの肖像をまとめ、Baconの人物画を単なる「歪み」の様式ではなく、親しい友人・恋人・自身の顔との長期的な関係として再検討しました。2026年にはGagosian Parisで1982~90年の晩年作3点が展示され、MonacoのFrancis Bacon MB Art FoundationではPeter Beardとの交流を扱う《Figures in the Raw》、ViennaのAlbertinaでは《Picasso–Bacon》が開催されています。現在の評価では、戦後の恐怖を象徴する画家という固定像を超え、写真、肖像、美術史、動物、デザイン、晩年作まで含めた複数のベーコン像が検討されています。

生涯と制作の変遷

1909年、Dublinに生まれる

Francis Baconは1909年10月28日、DublinのLower Baggot Streetにある施設で生まれました。両親はイギリス人で、父Anthony Edward Mortimer Baconは退役軍人で馬の飼育・調教に関わり、母Christina WinifredはSheffieldの鉄鋼業で財を築いたFirth家の出身でした。Estateは、彼を「British artist born in Dublin」とする現在の一般的な美術館表記と整合する伝記を公開しています。

幼少期から慢性的な喘息があり、馬や狩猟を重視する父との関係は緊張していました。第一次世界大戦期には家族でLondonへ移り、その後再びIrelandへ戻ります。Irish War of IndependenceやCivil Warの時期に複数の家を転々とした経験もあり、安定した一つの故郷を持つ幼少期ではありませんでした。

後年の絵画にこの幼少期を直接「原因」として読み込むべきではありませんが、閉ざされた室内、湾曲した空間、馬や動物、身体への緊張が長く残ったことは、伝記的背景として確認できます。

1926年、家を離れる

16歳頃、同性愛をめぐる父との深刻な対立を経て家を離れ、Londonへ向かいました。正式な美術教育を受ける計画があったわけではありません。母からの少額の送金、短期の仕事、知人の援助に頼りながら生活しました。

この時期のBaconを、早熟な「天才画家」として遡及的に描くのは正確ではありません。本人もまだ職業的な方向を持っておらず、美術家になる決意は後から形成されました。

1927年、BerlinとParis

1927年春にBerlinを訪れ、Weimar期の都市文化、建築、映画、夜の生活に触れました。Estateは、Eisenstein《Battleship Potemkin》をこの時期に見た可能性を挙げています。後に繰り返し使う「叫ぶ乳母」の静止画は、映画そのものではなく複製された静止画像として制作室へ残りました。

その後Parisへ移り、Galerie Paul RosenbergでPicassoの作品を見ます。Baconにとって特に重要だったのは、人体が自然主義的な外見から自由に変形されながら、なお身体として強く認識できることでした。1930年代前半の《Crucifixion》にはPicassoの生物的な形態が明瞭に残っています。

1929–30年、家具と室内装飾

Londonへ戻ると、Queensberry Mewsに制作室を構え、家具、敷物、室内装飾を手がけました。クローム鋼管とガラスを使う家具はBreuer、Le Corbusier、Eileen Grayなどのモダニズム・デザインと関係し、1930年には雑誌『The Studio』で「1930 Look in British Decoration」の例として紹介されます。

このデザイン経験は後の絵画と切り離せません。Baconの人物はしばしば椅子、カーテン、円形の台、室内の線によって配置されます。人物そのものだけでなく、「身体をどの空間へ置くか」を強く意識する感覚は、室内デザインの経験とも響き合います。

1933年、《Crucifixion》

1933年《Crucifixion》がHerbert Readの『Art Now』に掲載され、collector Sir Michael Sadlerに購入されました。23歳頃のBaconにとって最初の明確な成功でした。

しかし1934年のTransition Galleryでの個展は不評で、1936年にはInternational Surrealist Exhibitionへの出品も拒否されます。Baconは大量の初期作品を破棄し、制作量も落ちました。そのため現在残る1930年代作品は少数です。

第二次世界大戦とCivil Defence

喘息のため兵役には適さないと判断されましたが、Air Raid Precautionsに参加し、空襲後のLondonで民間防衛活動に従事しました。喘息悪化のため1943年に辞めています。

この経験から1944年作品を直接「戦争画」と断定することはできません。Baconが同時期に強く読んでいたのはT. S. Eliotを経由して知ったAeschylus『Oresteia』であり、復讐、罪、循環する暴力という古代悲劇の構造が重要でした。

1944–45年、《Three Studies for Figures at the Base of a Crucifixion》

三枚の小さな板に描かれた異形の存在は、Baconが後年自らの本格的な制作の出発点と認めた作品です。Estateのcatalogue raisonnéでは油彩とパステル・ファイバーボード、各パネル約94×74センチと記録されています。

1945年4月に初公開された時、Londonは長い戦争の終盤にありました。その歴史的状況は観客の受容に影響しましたが、絵そのものは特定の戦場や犠牲者を描いていません。古代ギリシャのFuriesと磔刑画の形式が、目を持たない叫ぶ存在へ組み替えられています。

1946年、《Painting》

《Painting》は、牛の枝肉とスーツ姿の人物、傘、暗い空間を組み合わせた巨大な絵画です。MoMAは第二次世界大戦直後の公的人物を思わせる像として解説しつつ、Bacon自身の説明では出発点は全く別の「鳥」の絵でした。

この作品は、彼にとって構想と完成の間が直線ではなかったことを示します。一つの形が別の連想を呼ぶと、作品は元の題材を捨てて進みます。Baconが後に「accident」を重視したのは、このような変化を制作の中心に置いていたからです。

1948–49年、Hanover Galleryと黒い頭部

1946年《Painting》をErica Brausenが購入し、Baconはその後Hanover Galleryと長く関係を結びます。1948年にはMoMAが《Painting》を購入し、国際的な評価への重要な一歩となりました。

1948~49年の《Head》シリーズでは、灰色や黒の画面から人物の口、歯、耳、肩が断片的に現れます。1949年の最初のHanover Gallery個展で発表された《Head VI》では、VelázquezのPope Innocent Xと叫びの像が本格的に結びつきました。

1950年代、教皇・動物・スーツの男

1950年代は、Pope paintings、動物、Man in Blue、Sphinx、Van Gogh variationsなど、複数のシリーズが並行します。どれも「自分の目の前にあるモデル」を忠実に描く方法ではなく、既存画像を変形する方法です。

1953年のPope作品では、Velázquezの権威ある肖像を参照しながら、口を叫びへ変え、縦線や囲いによって身体を閉じ込めます。同時期のBaboonでは野生動物写真を利用します。人間と動物、権威と恐怖、肖像と映画の静止画が同じ制作方法で扱われました。

1953–54年、《Man in Blue》

七点からなる《Man in Blue》では、暗い室内にスーツ姿の男性が座ります。Estateによれば、一部はHenley-on-ThamesのImperial Hotelで出会った男性がきっかけでした。

人物は個人としての情報をほとんど持たず、スーツ、顔、椅子、暗闇だけに縮約されます。Baconがportraitとanonymous figureの境界を探っていた時期です。

1950年代後半、Van Gogh

1957年にはVan Gogh《The Painter on the Road to Tarascon》をもとに複数作品を制作しました。原作は第二次世界大戦中に失われたと考えられており、Baconが参照できたのは複製でした。

ここでも「原作を直接見ること」が制作条件ではありません。複製画像の色や輪郭を自由に変え、Van Goghの歩く画家を、自分の絵画の速度と厚みに翻訳します。Baconにとって美術史は保存すべき見本ではなく、再使用するためのイメージ群でした。

1961年、7 Reece Mews

South Kensingtonの小さな元馬車小屋へ移り、上階の狭い部屋を制作室としました。以後31年間、より広い場所を持つようになっても、結局この部屋へ戻り続けました。

壁や扉には絵具が付着し、床には写真、新聞、画集、書籍、布、容器が堆積しました。整然とした資料庫ではありませんが、Baconは自分が必要な画像の位置を把握していたとされます。混沌は制作の外側ではなく、像同士を偶然隣り合わせる仕組みでもありました。

1962年、Tate回顧展

1962年Tate Galleryで約90点を集めた大規模回顧展が開催され、Baconは戦後British paintingの中心人物として位置づけられました。これに合わせるように大型《Three Studies for a Crucifixion》を制作します。

同展開幕日にPeter Lacyの死を知らされたことは、1962年《Study for Three Heads》や翌年の《Landscape near Malabata, Tangier》を理解する上で重要です。Baconの肖像は、身近な人の顔を記録するだけでなく、不在になった人物を繰り返し画面へ戻す方法にもなりました。

1963年以降、George Dyer

1963年末頃にGeorge Dyerと出会い、以後Dyerの顔と身体は最も頻繁に描かれる主題の一つになります。Estateは二人の関係をstormyと表現し、Dyerの不安定さとBaconの制作への依存が長く続いたことを記録しています。

BaconはDyerを直接見ながら描くより、John Deakinの写真を使いました。写真は折られ、汚され、切り取られ、顔の一部だけが参照されます。そのため「写真から描いた」ことは写実性を意味しません。写真を壊すことで、絵画の像を作ります。

1971年、Grand PalaisとDyerの死

1971年10月、Grand Palaisで大回顧展が開幕する二日前、DyerがParisのホテルで亡くなりました。Baconは展覧会予定を変えず、公の場へ出続けましたが、その後数年間、Dyerの死を繰り返し三連画へ描きました。

《Triptych August 1972》では、左右にDyerらしき人物が座り、中央では二つの身体が暗い円形の場で絡みます。床には黒い影が広がり、身体から何かが流れ出すようにも見えます。追悼の物語を一枚へまとめるのではなく、異なる場面を三つに分離することで、記憶の断続性を保っています。

1970年代後半、自画像

1970年代、Baconは自画像を集中的に制作します。大きな全身像だけでなく、約35×30センチの小型頭部を三枚組にすることも多くなりました。

1979年The Met所蔵《Three Studies for Self-Portrait》では、三つの顔が同じ黒い空間に浮かびます。連続写真のようですが、完全な時間順序はありません。顔の変形によって、同じ人物が一瞬ごとに別の存在になるように見えます。

1980年代、身体の縮約

1980年代には、人物の周囲の情報がさらに減ります。大きな赤、橙、灰色、青の背景に、身体が一つだけ置かれ、室内を示す線や文字も最小限になります。

《Study of the Human Body》(1981–82)では人体が胴と脚へ近い形に縮約され、《Blood on the Floor—Painting》(1986)では人物すら消え、床の血痕のような赤い形だけが残ります。Baconの関心が「歪んだ顔」という一つの様式に限定されていなかったことが分かります。

1991年、《Triptych》

MoMA所蔵《Triptych》は、Bacon最後の完成した三連画です。左右には写真から切り出された頭部が身体の上に置かれ、中央には黒い開口部から肉体が押し出されるように見えます。

三連画を映画的な並置として考えていたBaconにとって、三つのcanvasが物語の「前・中・後」を示す必要はありません。同時に存在するが一つには統合できない三つの像を並べることが重要でした。

1992年、Madridで死去

1989年に腎臓の手術を受けるなど健康状態は悪化していましたが、1992年4月にMadridへ渡ります。数日後に重篤となり、4月28日に心臓発作で死去しました。82歳でした。

制作室には1991年11月頃から置かれていた未完成の肖像が残りました。Baconは葬儀を望まず、遺灰はEnglandで私的に散骨されました。遺産はJohn Edwardsへ渡り、死後の保存・研究体制へつながります。

Dublin――喘息、馬、幼少期の不安定な環境

Baconの幼少期は、Irelandのcountry house文化と、その環境へ身体的に適応できない経験の両方を含みます。父は馬の調教師で、家族生活には馬と狩猟が身近にありましたが、喘息のあるFrancisはそうした活動から距離がありました。

後の作品へ「父への恐怖」を直接読み込むことは慎重であるべきですが、人間と動物、支配と拘束、身体が外部の力へ晒される状態は長く制作の中心に残ります。彼の作品が動物を単なる比喩としてではなく、身体の動きそのものの資料として扱うことにも注目できます。

BerlinとParis――Picassoと映画に出会う

Berlinで経験した映画・都市文化と、Parisで見たPicassoは、Baconが「現実に似せて描かなくても身体を強く感じさせられる」と理解する大きな契機でした。

特にPicassoの1920年代の人体変形は、1933年《Crucifixion》から1944年《Three Studies》まで長く残ります。ただしBaconはCubismの空間分析を継承するのではなく、生物的で肉体的な形としてPicassoを受け取りました。

Eisensteinの映画も同様です。映画全体の物語より、一人の女性が叫ぶ短い瞬間を静止画像として取り出します。Baconは映像を映画として再現せず、「口」という局所的な形を別の肖像へ移植しました。

家具・室内装飾――画家になる前の仕事

1930年前後のBaconは、現在なら家具デザイナー・室内装飾家として知られていても不思議ではないほど、実際に家具と敷物を制作していました。クローム、ガラス、簡潔な幾何学というモダニズム・デザインの語彙を使っています。

後の絵画に登場する円形の台、椅子、カーテン、直線的な囲いは、単なる背景ではありません。人物をどのような人工空間へ置けば身体が最も強く見えるかを考える「舞台設計」として働きます。

作品を壊す――1930年代の失敗と自己編集

Baconは生涯にわたって自作を厳しく選別し、気に入らない絵を切り裂き、破棄しました。特に1930年代から40年代前半の作品は大量に失われています。

この行為によって、現在の私たちが見るBacon像そのものが本人によって編集されています。1944年を「出発点」に見せる歴史も、自然に形成されたのではなく、本人がそれ以前の多くを消した結果です。

したがって「突然1944年に完成されたBaconが現れた」と考えるのではなく、失敗、模倣、デザイン、破棄を十年以上繰り返した後に、本人が残す価値があると判断した作品が現れたと見る方が正確です。

1944年――《Three Studies》を出発点にする

三体のFuriesは、人間とも動物とも言い切れません。目がなく、口が強調され、身体は台の上に置かれます。ここでBaconは「肖像の歪曲」より前に、身体を種類の不明な存在として作っています。

三枚を分ける形式も重要です。一つの大画面の中で三体を統合せず、それぞれ独立したcanvasへ置きます。鑑賞者は三枚を比較しながら視線を移し、その間の空白を自分でつなぎます。この構造が後の大型triptychへ発展します。

《Painting》――予定していた像を捨てる

《Painting》の制作過程についてBaconは、鳥を描こうとしていたものが突然別の像へ変わったと語っています。この逸話が重要なのは、「偶然に傑作ができた」というロマンティックな話だからではありません。

重要なのは、作家が最初のアイデアへ忠実である必要はないと考えていたことです。絵具の形が別の連想を呼んだ時、構想を捨てる判断ができる。制作中に現れたものを読む能力がBaconの「chance」の核心です。

生カンヴァスの裏面――消しにくい支持体を選ぶ

1940年代後半、Monte Carlo滞在中に、Baconは下地処理された表ではなくカンヴァスの裏側、つまり生地に近い面へ描く方法を始めました。Estateによれば、下地済みcanvasを使い切った際に裏面へ描いたところ、絵具が表面へ強く食い込み、薄い絵具も吸収される性質を気に入ったことがきっかけでした。

これは技法上きわめて重要です。下地のある滑らかな表面なら絵具を拭き取って修正しやすいのに対し、生地へ染み込んだmarkは完全には消えません。Baconは偶然を重視しながら、失敗の痕跡も残りやすい支持体を自ら選びました。

作品に見える「一発の激しい筆触」は、自由だけではなく、やり直しにくさという危険を伴っています。その緊張が表面の強度につながります。

Velázquezと叫ぶ教皇

BaconはVelázquez《Pope Innocent X》を繰り返し参照しましたが、長い間Romeの原作を直接見ませんでした。複製図版を大量に所有し、その像へEisensteinの叫ぶ女性、眼鏡、カーテン、檻のような線を組み合わせます。

Velázquezの原作が権力者の心理的な存在感を細密に捉えた肖像だとすれば、Baconはその「権威ある座像」という骨格を残しながら、人物の顔を叫びへ開きます。権力と脆弱さが一つの身体へ同時に現れます。

「叫ぶ教皇」を反宗教的な風刺だけで説明するのも十分ではありません。無神論者だったBaconにとって宗教図像は信仰対象ではありませんでしたが、数百年にわたり強いイメージとして生き残った構図そのものに価値がありました。

写真から描く――複製を「現実」より好む

Baconは親しい人物を描く時でさえ、本人を目の前に置くより写真を好みました。モデルがいると、その人物を傷つけることを恐れて自由に変形できないと語っています。

John Deakinが撮影したGeorge Dyer、Lucian Freud、Isabel Rawsthorne、Henrietta Moraesらの写真は、制作室で折られ、踏まれ、絵具を浴び、輪郭が切り取られました。その物理的な損傷が新しい形のきっかけになることもありました。

写真は正確な情報源というより、人物をいったん平面の像にして、再び壊せる状態へする装置でした。Baconの肖像が「似ているのに、写真とは全く違う」理由はここにあります。

動物と人間――Muybridge、猿、Sphinx

BaconはMuybridgeの連続写真集を長年使い続けました。歩く人、走る人、レスリングする男性、動物の運動を複数の瞬間へ分解した写真は、一つの固定poseではない身体を考えるための理想的な資料でした。

さらに野生動物写真、baboon、chimpanzee、犬、bullなどを作品へ取り込みます。人間を動物へ貶めるというより、筋肉、重心、口、歯、動きという身体の共通性を見るためです。

古代EgyptのSphinxにも惹かれました。人間と動物を一つにした古代彫刻は、Baconが現代の写真資料から作っていた混成的な身体と別の時代から響き合います。

フランシス・ベーコンの作品をどう見るか

最初に「なぜこんなに歪んでいるのか」と心理的な理由を探すより、どの部分が動いて見えるかを追うと作品へ入りやすくなります。鼻が横へずれ、口が複数の位置へ重なり、脚が円弧を描くのは、身体を一瞬に固定しないためです。

次に背景を見ます。単色面、円形の台、透明な箱のような線、カーテン、ドアなどが、人物を閉じ込めたり舞台へ上げたりします。背景は感情を説明する雰囲気ではなく、身体へ力を加える装置です。

三つ目に参照元を確認します。Velázquez、Muybridge、Eisenstein、Deakin写真などを知ると、Baconがどこを残し、どこを消したかが見えます。ただし「元ネタ当て」で終わらず、複数の資料が一つの像へどう混ざったかを見ることが重要です。

最後に絵具の表面へ近づきます。顔の一部は厚く擦られ、別の部分は薄い染みのようで、乾いた刷毛、布、指、エアゾールなど異なる処理が共存します。遠くからは身体、近くからは物質へ戻る。この往復がBaconの絵画の核心です。

主要作品

1944年の出発点《Three Studies for Figures at the Base of a Crucifixion》から、《Painting》、叫ぶ教皇、動物、Van Gogh、1962年の大型triptych、Peter LacyとGeorge Dyerの肖像、喪失を扱うBlack Triptychs、自画像、1980年代の簡潔な人体、最後の1991年《Triptych》まで、Baconが約半世紀にわたり身体と像をどう変化させたかが分かる12点を選びました。

磔刑図の基部の人物のための三習作

Three Studies for Figures at the Base of a Crucifixion / 1944 / 油彩、パステル・ファイバーボード、3点組 / 各 約94 × 74 cm(不整形)

Tate, London

Baconが後年、自身の本格的な制作の出発点とみなした三連画。鮮烈な橙色の背景に、人間とも動物とも断定できない三体の像を配置しています。題名は磔刑図を参照しますが、本人はAeschylus『Oresteia』のFuries/Eumenidesを念頭に置いていました。1945年4月の初公開は戦時下のLondonで大きな衝撃を与えました。

所蔵館の作品情報 ↗

絵画

Painting / 1946 / 油彩、パステル・リネン / 197.8 × 132.1 cm

The Museum of Modern Art, New York

枝肉、傘、スーツ姿の人物、暗い室内を組み合わせた初期の代表作。Bacon自身は、当初は草地へ降りる鳥を描こうとしていた作品が制作中に全く別の像へ変化したと語りました。最初の構想を守るより、絵具の偶発的な形から別のイメージを発展させる方法が明確に現れています。

所蔵館の作品情報 ↗

ベラスケス《教皇インノケンティウス10世像》による習作

Study after Velázquez's Portrait of Pope Innocent X / 1953 / 油彩・カンヴァス / 153 × 118 cm

Des Moines Art Center, Iowa

Velázquezの《Pope Innocent X》を、写真複製を介して作り変えた「叫ぶ教皇」の代表作。権威を示す座像へEisenstein《Battleship Potemkin》の叫ぶ乳母を思わせる開いた口と、檻・カーテンのような縦線を重ねます。原作の忠実な模写ではなく、美術史と映画イメージを衝突させた作品です。

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ヒヒの習作

Study of a Baboon / 1953 / 油彩・カンヴァス / 198.3 × 137.3 cm

The Museum of Modern Art, New York

Marius Maxwellの1925年の野生動物写真集に掲載されたヒヒを参照した大型作品。MoMAは、檻が動物の前にも後ろにも見える曖昧な空間を指摘しています。半透明の身体と鋭い歯によって、人間/動物、自由/拘束というBaconの長期的な関心を示します。

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ファン・ゴッホの肖像のための習作 IV

Study for Portrait of Van Gogh IV / 1957 / 油彩・カンヴァス / 152.5 × 116.5 cm

Tate, London

Van Goghの失われた《The Painter on the Road to Tarascon》を複製図版から作り直した一連の作品の一つ。原作を直接見ることのできない状況を制約とせず、歩く画家の輪郭を厚い色彩と激しい筆致へ翻訳しました。Baconにとって美術史上の作品も、写真や映画と同じく再編集できるイメージ資料だったことを示します。

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磔刑のための三習作

Three Studies for a Crucifixion / 1962 / 油彩・カンヴァス、3点組 / 各 198.1 × 144.8 cm

Solomon R. Guggenheim Museum, New York

Reece Mews移転後に制作した最初の大型三連画。赤橙色の空間に横たわる身体、肉塊、吊られたような人物を三つの場面へ分離しています。1944年の小型三連画から規模を大きく拡張し、以後Baconが重要な主題を扱う際の中心形式となった大型triptychの出発点です。

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三つの頭部のための習作

Study for Three Heads / 1962 / 油彩・カンヴァス、3点組 / 各 35.9 × 30.8 cm

The Museum of Modern Art, New York

中央にBacon自身、左右にPeter Lacyを配した小型三連画。1962年Tate回顧展の開幕日にLacyの死を知った時期と結びつきます。大型の歴史的triptychとは対照的に、小さな黒い画面へ親密な顔だけを置き、一人の人物を複数の像として記憶する方法を示します。

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鏡の中のジョージ・ダイアーの肖像

Portrait of George Dyer in a Mirror / 1968 / 油彩・カンヴァス / 198 × 147 cm

Museo Nacional Thyssen-Bornemisza, Madrid

長年の恋人George Dyerを回転椅子と鏡とともに描いた大型肖像。実像の身体と顔は激しく変形する一方、鏡の中の顔は二つに分断されながら比較的自然な特徴を残します。一人の人物に複数の外見と時間を共存させるBaconの肖像方法を代表します。

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7 Reece Mews――混沌とした制作室

7 Reece Mewsの制作室は、Baconの制作方法を考える上でほとんど一つの作品に近い重要性を持っています。狭い部屋の床には写真、新聞、書籍、紙片が積み上がり、壁や扉には絵具が飛び散り、棚には顔料、筆、容器、布などが無秩序に置かれていました。しかし死後の調査から、この混沌は単なる片づけられない部屋ではなく、数十年分の視覚資料が蓄積した実用的な環境だったことが分かります。

Hugh Lane Galleryは1998年、John EdwardsとEstateから制作室の寄贈を受け、約7,000点の物品を一つずつ番号化し、位置を記録しました。壁、扉、階段など建築的要素も含めてLondonからDublinへ移され、2001年に再構築された制作室が公開されました。

ここから見えてきたのは、Baconの絵画が記憶や即興だけで生まれていたわけではないことです。同じ写真を何度も折り、切り、踏み、別の本のページと隣接させ、長期間保存していました。床に落ちた二つの画像が偶然並ぶことも、制作上の「事故」を生む環境だったと考えられます。

三連画――三つの時間を一つにしない

Baconにとって三連画は、宗教美術から借りた古い形式でありながら、映画的な時間を作る現代的な装置でもありました。本人は三つの画像を別々のcanvasへ並べることを好み、映画への関心と関連づけて語っています。

1944年《Three Studies for Figures at the Base of a Crucifixion》では三体のFuriesが別々に置かれ、1962年《Three Studies for a Crucifixion》では異なる肉体的場面が連続します。1972年のDyerをめぐる三連画では、記憶や死が別々の時間断片として並びます。1991年の最後のtriptychでも三枚は一つの物語へ統合されません。

伝統的な祭壇画では中央パネルが意味の中心となることが多いのに対し、Baconでは左右と中央の関係は不安定です。鑑賞者は視線を往復し、三枚の間にある物理的な隙間を越えて意味を作る必要があります。この「つながっているが一枚ではない」状態が、人間を一つの像へ固定しない彼の方法に適していました。

肖像――似顔絵を壊して本人へ近づく

Baconの肖像は、顔を似せることを拒絶しているように見えます。しかし本人は、単なる歪曲ではなく、通常の写実より強く人物の「事実」を捉えたいと考えていました。

Lucian Freud、Isabel Rawsthorne、George Dyer、Henrietta Moraes、Peter Beard、Michel Leiris、John Edwardsなど、長く描いた相手の多くは親しい友人や恋人です。よく知らない人物を大量に描いたわけではありません。外見を崩すためには、むしろ人物をよく知っている必要がありました。

一枚の写真に似せるのではなく、複数の写真、記憶、実際の会話、身体の動きを重ねます。その結果、鼻や目の位置はずれていても、知人にはその人物だと認識できる肖像になります。Baconにとってportraitは「外見の正確さ」と「本人らしさ」が一致しないことを試す場所でした。

Peter Lacy――愛情、暴力、喪失

Peter Lacyは1950年代のBaconにとって重要な恋人でした。Estateの伝記は二人の関係を強烈で破壊的なものとして記録しています。LacyはTangierへ移り、BaconもLondonとMoroccoを往復しました。

この私生活を絵画の直接的な「原因」とするのは危険ですが、Lacyの存在は肖像制作と喪失の問題に具体的に関わっています。1962年Tate回顧展の開幕日にLacyの死を知らされ、同年《Study for Three Heads》ではBacon自身とLacyの顔を三つの小さなパネルへ配置しました。

中央に自己像、左右に失われた恋人という構成は宗教的な祭壇画を思わせますが、救済の物語にはなりません。三つの顔は暗闇から一時的に現れるだけです。

George Dyer――写真から作られた身体

George Dyerは1960年代のBacon作品でもっとも頻繁に現れる人物の一人です。大柄な身体、横顔、座る姿、鏡の前の姿が、John Deakinの写真を介して繰り返し描かれました。

《Portrait of George Dyer in a Mirror》(1968)では、Dyer本人と鏡像が一つの画面へ同居します。Museo Thyssen-Bornemiszaは、身体と実像の顔が激しく変形している一方、鏡像の顔を左右でつなぐと比較的自然なDyerの横顔になることを指摘しています。

ここでは鏡像が「虚像」で現実の身体が「真実」だとは言えません。むしろ変形した身体、比較的写実的な反射、Baconが記憶するDyerという複数の像が同時に成立します。一人の人間を一つのportraitへ収められないことが作品の構造です。

Black Triptychs――死を物語にしない

Dyerの死後に制作された一連のBlack Triptychsは、Baconの制作でもっとも個人的な作品群の一つです。《In Memory of George Dyer》(1971)、《Triptych August 1972》、《Triptych May–June 1973》が中心です。

《Triptych August 1972》では、Dyerの身体、絡み合う裸体、黒い影、円形の台、ドアのような空間が三枚へ分離されています。Estateのcatalogue raisonnéによれば、各パネルは198×147.5センチで、1972年7月に短い間隔で順次完成しました。

重要なのは、Dyerの死を感傷的な追悼肖像にしなかったことです。実際の死を想起させる室内、身体、影はありますが、「この順番で事件が起きた」と説明する物語にはなりません。記憶は反復されても完全には再構成できないという状態がtriptych形式によって保たれます。

自画像――一つの顔を固定しない

Baconの自画像では、自己を内省的に「表現」するというより、自分の顔も他人と同じく変形可能な資料として扱います。写真や鏡を参照しながら、頭部を捻り、目鼻の位置をずらし、複数の瞬間を一つへ重ねます。

1979年《Three Studies for Self-Portrait》では、三つの小さな頭部が黒い背景から現れます。The Metは、その移動が映画の緩やかなパンのように見えると説明しています。静止したportraitでありながら、三枚を順に見ることで時間が生まれます。

周囲の親しい人々の死が増えたことをBacon自身は自画像増加の理由として挙げていますが、自画像は単なる代用品ではありません。自分の老い、顔の変化、死を、もっとも身近な身体資料として扱う仕事にもなりました。

檻、舞台、空間フレーム

Baconの人物は、透明な箱や檻のような線、円形の台、カーテン、ドア、部屋の角によって囲われることが多くあります。これらは写実的な建築ではありません。

線は人物を閉じ込めているようにも、逆に人物を画面の背景から切り離して見やすくする展示ケースのようにも見えます。Baconの初期に家具・室内装飾をしていた経験を考えると、人物を「どの空間へ置くか」は非常に意識的な問題でした。

2016年Tate Liverpoolの《Invisible Rooms》は、この透明な囲いを主題化しました。人体を変形するだけでなく、人物と空間の関係を最小限の線によって作り直した点がBaconの重要な発明です。

偶然と計画――「事故」はどこまで偶然なのか

BaconはDavid Sylvesterとのインタビューで、偶然、事故、無意識のmarkが絵を変えることを繰り返し語りました。絵具を投げたり、布で擦ったりした偶発的な形が、顔や肉体の一部へ変わることがあります。

しかし死後の制作室は、別の側面も明らかにしました。特定の写真を長年保存し、同じ図版へ何度も戻り、折り目や切断を利用しながら構図を考えていました。Estateも、studio evidenceはBaconが公言したより意図的な作家だった可能性を示すと説明しています。

つまり「偶然」は無計画という意味ではありません。準備された画像と構図の中へ予期しないmarkを入れ、それが有効かどうかを判断する。偶然を発生させ、それを選択する能力がBaconの技法でした。

美術史――Velázquez、Van Gogh、Ingres、Rembrandt

Baconは伝統を拒否した反古典的な画家に見えますが、実際には美術史への執着が非常に強い作家でした。Velázquezだけでなく、Rembrandt、Michelangelo、Ingres、Degas、Van Gogh、Cimabue、古代Egypt・Greek sculptureなどを繰り返し参照しました。

重要なのは、原作への忠実な敬意ではありません。Van Goghの失われた絵画を複製から描き、Ingresのdrawingを1980年代の人体へ変え、Velázquezの教皇にEisensteinの映画画像を重ねます。時代も媒体も異なる像を、一つのvisual archiveとして扱いました。

Hugh Laneの制作室には、美術書から破り取られたページが大量に残っています。そこにはpaint stain、折り目、破れがあり、美術史のmasterpieceが神聖な資料ではなく、実際に手で使い倒す制作材料だったことが分かります。

絵具と肉体――歪みではなく変化を描く

Baconの顔は歪んでいる、と言うこと自体は間違いではありません。しかし「元の正しい顔」があり、それを意図的に変形したと考えると不足があります。彼が描きたかったのは、一つの固定した外見ではなく、身体が運動、時間、感情、外力によって変わる状態でした。

Muybridgeの連続写真が重要だったのはそのためです。歩く、走る、格闘する身体は、一枚の静止poseでは把握できません。Baconは複数時点の身体を一枚の絵へ圧縮し、鼻や口がずれて見える形を作りました。

絵具も同様に固定されません。厚い塊、乾いた刷毛、薄い染み、擦った跡、エアゾールの粒子が一つの人物へ混在します。身体が「描かれている」のではなく、絵具の状態変化そのものが肉体へ見える瞬間を作ります。

1980年代――少ない要素へ

晩年のBaconは、初期作品より画面を大きく整理しました。鮮やかな赤橙色や淡い青灰色の背景に人物を一体だけ置き、空間を示す線も数本に減らします。

1982年頃の人体は四肢の一部が省略され、残った脚、尻、胴が彫刻的な塊になります。1986年《Blood on the Floor—Painting》では身体そのものが消え、その存在の痕跡だけが残るような画面になります。

2026年Gagosian Parisで展示された《Study from the Human Body—Figure in Movement》(1982)、《Study from the Human Body》(1986)、《Man at a Washbasin》(1989–90)は、この晩年の縮約を明瞭に示しました。同展は、Baconが晩年に「省略記号」のような方法へ進みながら、身体へ作用する力をより少ない形で示したと位置づけています。

制作室アーカイブ――死後に見えた制作方法

制作室の移設は、Bacon研究そのものを変えました。生前のインタビューだけに依存せず、どの本、写真、新聞、道具を実際に使ったかを物証から調べられるようになったからです。

例えばVelázquezやRembrandtの図版、Muybridgeの写真、street photography、医学・動物関連資料、色見本、写真家John Deakinの肖像写真などが残されています。資料の多くは美術館で保存される「きれいなアーカイブ」ではなく、破れ、汚れ、折れを含みます。

この物質的な損傷も制作情報です。折れた写真の顔が二重に見える、破れた輪郭が新しい身体を作る、隣の紙の像が偶然重なる。Baconの「distortion」は頭の中だけで生み出されたのではなく、実際の画像物体を傷つけて扱う過程ともつながっています。

2024–26年――「人間の存在」を再検討する

2024年National Portrait Gallery《Francis Bacon: Human Presence》は、1940年代から晩年まで50点以上を集め、Baconのportraitureを中心に再評価しました。Velázquezなど過去の肖像への応答、Lucian Freud、Isabel Rawsthorne、Peter Lacy、George Dyer、自画像、失われた恋人を記憶する大型作品までを一つの流れへ置きました。

2025年にはFondation Pierre Gianaddaへ《Présence humaine》として巡回し、約30点と写真資料を展示しました。ここで重要なのは、Baconを匿名的な「叫ぶ人間」の画家としてではなく、実際の人間関係の中でportraitを作り続けた画家として見る視点です。

2026年4~5月のGagosian Parisは晩年の大型作品3点へ焦点を絞り、同年5月からMonacoのFrancis Bacon MB Art Foundationでは写真家Peter Beardとの20年以上の交流を扱う《Figures in the Raw》が始まりました。さらに9月18日から2027年1月31日までAlbertina, Viennaの《Picasso–Bacon》が開催され、Baconにとって最初期から重要だったPicassoとの関係を約70点で比較しています。

これらの展覧会は、Baconの評価が完成済みではないことを示します。恐怖や叫びだけでなく、肖像、写真、デザイン、友情、動物、美術史、晩年の簡潔さなど、異なる入口から作品が読み直されています。

フランシス・ベーコンは何を変えたのか

第一に、写真時代の人物画を作り直しました。写真が外見を正確に保存できる時代に、絵画が写真より正確になる必要はありません。Baconは写真を出発点にしながら、それを壊し、複数の瞬間を重ね、絵画だけが作れる身体へ変えました。

第二に、具象絵画を「写実か抽象か」という二択から外しました。顔、肉体、椅子、部屋は認識できますが、絵具は同時に抽象的なmarkとして強く存在します。人物を保ったまま、絵画表面を極端に自由に扱う道を示しました。

第三に、複製画像を美術史と同じ重要度で使いました。Velázquez、Ingres、Van Goghだけでなく、映画の静止画、野生動物写真、新聞、医学資料、友人のスナップ写真を同じ制作資料として並べます。high artとmass imageを一つの視覚資料庫へ入れました。

第四に、triptychを宗教的な祭壇画から心理的・映画的な形式へ変えました。三つのcanvasの間に物理的な断絶を残し、一人の人物、身体、出来事を一つの場面へ統合しません。時間や記憶の断片化を絵画の形式にしました。

第五に、肖像の「似ている」という基準を広げました。目鼻の位置を壊しても、人物をよく知ることで本人らしさへ近づけるという逆説的な方法を示しました。後のLucian Freud、Frank Auerbach、Marlene Dumas、Jenny Savilleを含む多くの人物画を考える上で重要な先例です。

第六に、制作上の失敗や偶然を排除せず、判断の材料にしました。ただし無計画な即興ではなく、豊富な参照資料と反復の中で偶然を選び取ります。完成作の強さは、自由と編集の両方から生まれています。

そして最も重要なのは、人間の身体を「固定した外見」から解放したことです。Baconの人物は壊れているのではなく、時間の中で変化しています。顔は動き、身体は力を受け、記憶と写真が重なり、肉体は絵具へ戻ります。20世紀の人物画において、身体を一つの姿として所有するのではなく、決して完全には固定できない存在として描いたことが、彼の大きな革新でした。

略年譜

1909
10月28日、Dublinにイギリス人の両親のもとに生まれる。
1910年代
IrelandとEnglandを行き来して育つ。幼少期から慢性的な喘息を抱える。
1924–1926
Dean Close School, Cheltenhamへ在籍。長期の正規教育はこの時期が中心。
1926
16歳頃に家を離れ、Londonで生活を始める。
1927
Berlinを訪れ、その後Parisへ。Picassoの作品に強い刺激を受ける。
1929–1930
Londonで家具・室内装飾の仕事を開始。Queensberry Mewsに制作室を構える。
1930
家具と敷物が雑誌『The Studio』に紹介される。Roy de Maistreらと作品を展示。
1933
《Crucifixion》制作。Herbert Read『Art Now』に掲載され、Sir Michael Sadlerが購入。
1934
Transition Galleryとして個展を開催するが不評。
1936
International Surrealist Exhibitionへの出品を拒まれる。1930年代の多くの作品を自身で破棄。
1940–1943
喘息のため兵役には就かず、Air Raid Precautionsで民間防衛活動に従事。
1944
《Three Studies for Figures at the Base of a Crucifixion》完成。
1945
Lefevre Galleryのgroup exhibitionで《Three Studies》を初公開。
1946
《Painting》完成。Erica Brausenが購入し、後のHanover Galleryとの関係へつながる。
1948
MoMAが《Painting》を購入。《Head I》。生カンヴァスの裏面へ描く方法を確立していく。
1949
Hanover Galleryで最初の本格個展。《Head VI》でVelázquezの教皇と叫びの像を結合。
1951–1952
South Africaを訪問。Cairoで古代Egypt美術を見る。動物とSphinxへの関心を深める。
1953
《Study after Velázquez’s Portrait of Pope Innocent X》《Study of a Baboon》《Study for Portrait VII》。New Yorkで初個展。
1954
Venice Biennale British Pavilionに出品。《Man in Blue》series。
1955
Institute of Contemporary Arts, Londonで最初の回顧展。
1957
Van Gogh《The Painter on the Road to Tarascon》による一連の作品を制作。
1959
São Paulo Bienalで個展。国際的評価がさらに拡大。
1961
7 Reece Mews, South Kensingtonへ移住。死まで主要な制作室として使用。
1962
《Three Studies for a Crucifixion》《Study for Three Heads》。Tate Galleryで約90点の大回顧展。開幕日にPeter Lacyの死を知る。
1963
George Dyerと出会う。Guggenheim Museum, New Yorkで大規模展。
1968
《Portrait of George Dyer in a Mirror》。
1971
Grand Palais, Parisで大回顧展。開幕直前にGeorge Dyerが死去。《In Memory of George Dyer》。
1972
《Triptych August 1972》。Dyerの死をめぐるBlack Triptychsを継続。
1973
《Triptych May–June 1973》。
1975
David Sylvesterとの対話集『Interviews with Francis Bacon』初版刊行。The Metで1968–74年の作品展。
1976
John Edwardsと親交を深め、以後重要な友人・モデルとなる。
1979
《Three Studies for Self-Portrait》。自画像を集中的に制作する時期。
1981–1982
《Study of the Human Body》。晩年の簡潔な人体表現へ進む。
1984
《Three Studies for a Portrait of John Edwards》。
1985–1986
《Study for Self-Portrait—Triptych》《Blood on the Floor—Painting》などを制作。
1989
Hirshhorn Museumを起点とする大規模回顧展。翌年LACMA、MoMAへ巡回。
1991
最後の完成大型三連画《Triptych》制作。
1992
4月28日、Madridで死去。82歳。制作室に未完成の肖像が残る。
1998
John Edwardsらが7 Reece Mewsの制作室をDublin City Gallery The Hugh Laneへ寄贈。
2001
Dublinで再構築されたFrancis Bacon Studioが一般公開される。
2013
東京国立近代美術館、豊田市美術館で日本での大規模なFrancis Bacon展。
2016
Estate of Francis BaconがMartin Harrison編『Francis Bacon: Catalogue Raisonné』全5巻を刊行。584点の番号付き作品を収録。
2024–2025
National Portrait Gallery, London《Human Presence》がFondation Pierre Gianadda, Martignyへ巡回。portraitureを中心に再検討。
2026
Gagosian Parisで晩年作展。Monacoで《Francis Bacon | Peter Beard: Figures in the Raw》。Albertina, Viennaで《Picasso–Bacon》開催。

参考資料・出典

本ページはThe Estate of Francis Baconと2016年版catalogue raisonné、The Museum of Modern Art、The Metropolitan Museum of Art、Solomon R. Guggenheim Museum、Museo Nacional Thyssen-Bornemisza、Centre Pompidou、Hugh Lane Gallery、National Portrait Gallery、Fondation Pierre Gianadda、Albertina、Francis Bacon MB Art Foundation等の美術館・財団・公式アーカイブ資料を参照し、ART LIBRARYが独自に執筆しました。私生活と作品の関係については伝記的事実を作品の単純な原因へ置き換えず、本人の発言、制作室資料、美術館による作品解説を区別して構成しています。原文の全文翻訳ではありません。

資料確認日:2026年10月1日 / ART LIBRARY