Clyfford Still as Teacher (Clyfford Still Museum)
クリフォード・スティル(Clyfford Still)は、20世紀のアメリカで活動した画家です。大きな画面を占める色の領域、不規則に裂けるような境界、厚く置かれた絵具によって、抽象表現主義の中でも独自の絵画を作りました。初めて見ると、岩肌や大地、炎を思い浮かべることもありますが、作品を特定の風景へ置き換えなくても、その力を感じることができます。
スティルの絵画では、何が描かれているかと同じくらい、絵の前でどのように見るかが重要になります。遠くから色の広がりを見て、近づいて表面を確かめ、もう一度離れる。その往復の中で、単純に見えた画面が複雑な密度を持っていることに気づきます。1930年代の人物画から晩年の抽象画までをたどると、形、大きさ、素材に対する探究が見えてきます。
CONTENTS
クリフォード・スティルとはどんな画家か
スティルは1904年、ノースダコタ州グランディンに生まれ、ワシントン州とカナダのアルバータ州で育ちました。北米西部の生活を背景に制作を始め、1930年代には人物や風景を描き、1930年代末から1940年代初頭にかけて抽象へ移っていきます。抽象表現主義がニューヨークの運動として語られることが多い中で、その形成期を西部で過ごしたことは重要です。
成熟期の作品は、大きな色面と不規則な形によって構成されています。色面の広がりを重視するカラーフィールド・ペインティングとの関係も語られますが、彼の表面は均一に塗られた平坦な面とは限りません。絵具の厚みや境界の細かい変化が、大きな構成と同時に働きます。
作品には、年号やPH番号を用いた名前が多く見られます。人物、土地、出来事を説明する題名が与えられていないため、見る人は色と形の関係から作品へ入ることができます。番号を暗号のように解読するより、どの作品を見ているかを識別する表記として読み、実際の画面へ視線を戻すとよいでしょう。
スティルは作品の見せ方にも強い関心を持ち、商業的な美術の環境から距離を置きました。その姿勢はしばしば孤高の画家という印象につながります。しかし、制作には学校で教えた経験、ほかの芸術家との交流、作品を紹介した美術館や画廊の存在も関わっています。一人の強い意志と、その周囲の環境をともに見ることで、経歴をより具体的に捉えられます。
北米西部の経験と、初期の人物画
スティルの幼年期と青年期には、ワシントン州スポケーンとアルバータ州ボウ・アイランドでの生活があります。クリフォード・スティル美術館は、北米西部の経験を制作の背景として紹介しています。大地や労働の経験を知ると、初期の人物画や、後年の縦に伸びる形を見るための手がかりになります。
ただし、抽象画の形をすべて山や畑の輪郭と決めることはできません。経験は作品の背景にあり、画面の各部分へ直接対応する図解とは異なります。絵を見て風景を連想したとき、その連想を大切にしながら、実際にどの色や境界からそう感じたかを確認すると、作品そのものを見る時間が深まります。
1936年の《PH-77》は、彼が人物を描いていた時期を知るための作品です。身体の形が画面の中に存在し、その縦方向の伸びや周囲との関係を見られます。後年の抽象作品と比較するときは、人物の姿がいつ消えたかだけでなく、身体と空間を考える関心がどう変わったかにも注目してください。
初期作を独立した作品として見る
初期の人物画は、成熟した抽象画のための未完成な段階ではありません。人間の姿を描くことで、形の緊張、重さ、画面の中での位置を考えていました。抽象作品を知った後で見ると別の関係が見えますが、その時点の制作には固有の問題があったはずです。
小さな《PH-643》は、窓用シェードを支持体に使っています。後年の大きなカンヴァスだけを知っていると、彼の制作を一種類の形式へ限定してしまいがちです。この作品の大きさと素材を確認すると、描くものと描く場所を選びながら、さまざまな条件の中で仕事をしていたことがわかります。
人物画と小品を大型の抽象画の前に置いて考えると、作家の経歴が少し違って見えてきます。最初から完成した様式があり、それを拡大したのではありません。物や人物の見え方を変え、材料を選び、画面の大きさを試す中で、後の表現が生まれていきました。
人物の形から、独立した色と形へ
スティルの抽象への移行は、1938–1942年頃に進みました。この時期の作品を見ると、人物らしい縦長の形と、具体物に限定しにくい色面が同時に存在する場合があります。具象と抽象を完全に切り分けるより、その間で何が変わっているかを見ることができます。
1941年の《PH-169(1941-R)》は、その移行を考える作品です。縦長の形式は、身体の立ち姿を連想させる一方で、画面の形は人物の輪郭としてだけ働くものではありません。色や支持体の存在が、対象を表すことから少しずつ独立して感じられます。
この作品の支持体はデニムです。素材の記載を読むと、画面をすべて絵具で作られた図像として見る習慣を変えられます。支持体の色や質感が見え方に関わる場合、描くことは新しい色を加えることだけでなく、すでにある面との関係を作ることでもあります。
抽象への移行を「人物が消えた」とだけ説明すると、絵画の働きの変化を捉えにくくなります。人物に属していた縦の伸びや緊張が、人物を描かなくても存在できるようになる。地面や空を示していた領域が、特定の場所に限定されず、色の広がりとして感じられるようになる。そうした変化を画面の中で確かめることができます。
1945年の《PH-315》と《無題》を見比べると、同じ頃にも異なる形の配置が試されていることに気づきます。具体物を連想させる部分があっても、それを作品全体の答えにする必要はありません。対象に似ていることと、画面の中で何をしているかは別の問いです。
ニューヨークとの関係、そして距離
1940年代後半のスティルは、ニューヨークの新しい美術を紹介した画廊と関わりました。ペギー・グッゲンハイムのアート・オブ・ディス・センチュリー、続いてベティ・パーソンズの画廊は、彼の作品を紹介する重要な場所になります。1950年代にはニューヨークで活動し、抽象表現主義の中で認識されるようになりました。
この時代の作品には、絵を見る人の身体を越える大きさがあります。小さな額の中の風景を見る場合と異なり、大画面の前では、視野のかなりの部分が作品によって占められます。スティルの絵画が変えるのは、描かれる対象だけではなく、絵と見る人の距離の関係でもあります。
一方で、彼は1950年代初頭に商業画廊との関係を断ち、1961年にメリーランドへ移りました。ニューヨークから離れたことは、抽象表現主義の中心的な物語から距離を置くことでもありました。しかし、作品を作る活動が終わったわけではありません。後年の絵画と紙の仕事は、制作が長く続いたことを示しています。
孤立という言葉だけで晩年を説明すると、作品の変化より経歴の印象が前に出てしまいます。美術界との距離、展示の機会、日々の制作は、それぞれ区別して考える必要があります。公の場所で目にする機会が減ったとしても、アトリエでの探究が減ったとは限りません。
大きな色面と、裂けるような境界
スティルの成熟期の画面を見ると、広い色の領域と、ぎざぎざした境界が目に入ります。境界は定規で引いた線のように均一ではなく、細くなったり、急に広がったりします。その変化が、視線を止めたり、別の部分へ導いたりします。
大きな黒や赤の領域を一つの形として見た後、その縁をゆっくりたどってみてください。少しの色の突出や、細い別の色によって、画面全体の関係が変わることがあります。多くの要素を描き込まなくても、境界の変化だけで複雑な動きが生まれます。
背景と形が入れ替わる
抽象画を見ても、私たちは一方を形、もう一方を背景として捉えようとします。スティルの作品では、その区別が一定でない場合があります。最初は大きな面が前に見えていても、細い明るい領域に目を向けると、広い面が奥へ退くように感じられることがあります。
この変化は、隠された具体物を見つけたということではありません。色と形の関係によって、空間の感覚が動いているのです。遠近法で奥行きを作る方法とは異なり、何が前で何が後ろかを一つに決められないまま、画面に広がりを感じることができます。
《1951-T 第3番》や《PH-18(1955-F)》のような大型作品は、色の大きなまとまりと小さな境界の変化を同時に見るための例になります。図版を小さく表示すると大きな構成が強く見え、細部は消えやすくなります。画像の印象と実物で可能な見方の違いを意識すると、鑑賞の限界も具体的に理解できます。
色に一つの感情を対応させる必要もありません。黒を悲しみ、赤を怒りと固定すると、同じ色が別の作品で異なる働きをすることを見落とします。周囲の色、面積、絵具の状態によって印象は変わります。色の意味より、色が画面の中でどう働くかを先に確かめる方法が役立ちます。
絵具の厚みと、塗られていない場所
スティルは自分で油絵具を混ぜ、パレットナイフを主に使いながら、筆も用いて制作しました。素材と道具の選択は、独特の表面を考えるための手がかりです。ナイフで置かれた絵具は、広がりながら厚みを残し、画面の中に小さな凹凸を作ります。
厚く置かれた絵具は、単に力強さを示すものではありません。同じ色の領域でも、表面の起伏によって光の受け方が変わり、離れた位置と近い位置で違う印象が現れます。画面を平面的な色の配置として見る方法と、物質を持った表面として見る方法が、同時に必要になります。
支持体が見える部分にも注目してください。絵具がない場所を、まだ描いていない空白として扱う必要はありません。塗られた領域との違いが、明るさ、密度、距離の感覚を作る場合があります。布の面は、絵画の外にあるものではなく、画面を構成する一部になります。
大きな形の中にも手の仕事がある
遠くから見ると、色面は一度に置かれた大きな形のように見えるかもしれません。近づくと、絵具の段差や小さな変化から、表面が均一ではないことに気づきます。こうした細部は、何かを写実的に描くための情報ではなく、塗る行為が作る情報です。
作品を写真で見ると、この物質性は伝わりにくくなります。画像の中の影を絵具の凹凸と決めつけることもできませんが、素材欄と寸法を併せて読むことで、実物には別の経験があると想像できます。画面の構成を確認することと、表面を確認することを分けて考えると、図版の使い方も明確になります。
スティルの制作は、油彩とカンヴァスの一種類だけには限定されません。美術館の材料に関する展示は、支持体や描画材料の実験も紹介しています。今回の作品でも窓用シェードやデニムが登場します。画風という大きな言葉の下に、具体的な材料を選ぶ仕事があることを忘れずに見たいところです。
大画面の前で、身体の大きさを感じる
《1947-H 第1番(PH-265)》は高さが2メートルを超えます。《PH-920》は横幅が4メートルを超えます。画像では同じ大きさに縮小して並べられても、実物の前では、見る人との関係が大きく異なります。作品の寸法は、付属するデータではなく、鑑賞を考える重要な情報です。
縦長の作品では、視線が上へ伸びる感覚が強くなります。横長の作品では、左右へ広がり、全体を一度で見る位置と部分を見る位置の距離が変わります。単に大きい作品とまとめるより、高さと幅の関係を見ると、画面が作る経験を具体的に考えられます。
見る距離を変えてみる
最初は作品全体が見える位置で、色の大きなまとまりを確認します。次に一つの境界へ近づき、形の小さな変化を見ます。その後、最初の位置へ戻ると、さっき見た境界が全体の中で別の意味を持つことがあります。鑑賞は、全体か細部かの二者択一ではなく、両者を往復する行為です。
近い位置では一度にすべてを見渡せないことがあります。それは鑑賞の失敗ではありません。作品の広がりを、部分を移りながら経験する方法でもあります。視線を動かす速度や、立つ場所の違いが、作品の印象を変えます。
大きな絵が必ず圧迫感を与えるとも限りません。広い明るい領域から開放感を感じる場合もあり、細い形が空間を引き締める場合もあります。画面の大きさ、色の面積、境界の形を一緒に見ながら、自分がどの部分からその印象を受けたかを確かめてください。
作品番号と題名をどう読むか
スティルの作品には《PH-261》《PH-920》などの番号や、《1951-T 第3番》のような年号を含む表記があります。これらを見て、数字に隠された主題を探したくなるかもしれません。しかし、まずは作品を識別するための表記として扱うのがよいでしょう。
同じ作者の作品を比較するとき、番号と制作年を分けて読むと役立ちます。PH番号だけから制作の順番を推測せず、所蔵館の年記を確認してください。同時期にも異なる大きさや構成の作品があり、番号の並びがそのまま画風の変化を示すわけではありません。
物語を説明する題名がないことは、見る人が何を感じてもよいから作品を見なくてよい、という意味ではありません。解釈の自由は、画面の具体的な観察と結びつきます。何かに似ていると感じたなら、どの形や色からそう感じるのかを確かめる。題名が与える答えの代わりに、見る行為が出発点になります。
今回の主要作品は所蔵館の名称を基準にしています。同じ作品に複数の表記がある場合は、括弧の中の番号も残しました。作品名の表記を正確に保つことは、別の作品と混同せず、美術館の資料へつなげるために必要です。
主要作品
1930年代の小品と人物画から、1940年代の転換、成熟期の大型絵画、1970年代の作品まで12点を紹介します。作品番号を手がかりに、形や大きさ、支持体の違いを見比べてください。
PH-643
PH-643 / 1934 / 窓用シェードに油彩 / 29.2 × 23.5 cm
クリフォード・スティル美術館
井戸の物語との関係から美術館が紹介する小さな作品。後年の巨大な抽象画からは想像しにくい寸法と支持体を持っています。大きさだけでなく、素材の条件に注目すると、彼の制作が一種類のカンヴァスに限られていなかったことがわかります。具体的な経験を描く段階と、形を独立させる後の仕事をつなぐ出発点として見たい一枚です。
PH-77
PH-77 / 1936 / カンヴァスに油彩 / 111.1 × 144.1 cm
クリフォード・スティル美術館
人物を描いていた1930年代の作品。身体の形をたどると、縦の伸びや画面内の緊張が、後年の抽象画を見るときの感覚につながります。人物画を単なる未熟な前段階とせず、身体と環境の関係を考える独立した作品として見てください。抽象への移行は、関心をすべて捨てることではなく、表現の仕組みを変える過程でした。
PH-169(1941-R)
PH-169 (1941-R) / 1941 / デニムに油彩 / 148.6 × 65 cm
サンフランシスコ近代美術館(SFMOMA)
細長い形式とデニムの支持体を持つ、抽象への移行期の作品。縦方向の形を目で追うと、人物らしさと独立した色面の間にある緊張を感じられます。題名だけでなく素材欄も見ることで、画面の色が絵具だけから生まれるとは限らないことに気づけます。後年の大画面とは違う条件の中で、形を組み立てる試みです。
PH-315
PH-315 / 1945 / カンヴァスに油彩 / 125.7 × 91.4 cm
クリフォード・スティル美術館
1940年代半ばの作品。細い形や色面のつながりを、何かの輪郭と見るか、独立した配置と見るかで印象が変わります。見る人によって道具や身体などの連想が生まれても、それを唯一の答えにする必要はありません。人物画との連続と、具体物から離れた画面の働きの両方を感じられる位置にあります。
無題(1945)
Untitled / 1945 / カンヴァスに油彩 / 108 × 85.7 cm
ホイットニー美術館
無題の抽象画。物語を説明する題名がない分、色の位置と境界が鑑賞の出発点になります。一見すると大きな形だけでできていても、縁の小さな変化が視線の速度を変えます。同時期の《PH-315》と比較し、画面の中で何が形としてまとまり、何が背景に感じられるかを確かめると、抽象への展開を具体的に見られます。
1947-H 第1番(PH-265)
1947-H No. 1 (PH-265) / 1947 / カンヴァスに油彩 / 233.7 × 147.3 cm
メトロポリタン美術館
高さが2メートルを超える縦長の画面。小さな図版では形の配置として見えるものが、実物では身体に対する大きさを持ちます。色面の境界を追う見方と、画面全体に向き合う見方を往復してください。作品が大きいことは、情報を増やすためというより、見る人が絵の前で経験する空間を変える働きを持っています。
1951-T 第3番
1951-T No. 3 / 1951 / カンヴァスに油彩 / 238.8 × 208.3 cm
ニューヨーク近代美術館(MoMA)
成熟期の大きな抽象画。色のまとまりを確認した後、境界の不規則さと表面の起伏を意識すると、画面が均一な塗り分けではないことがわかります。少数の色からなる構成でも、近づいたときと離れたときに異なる密度が現れます。画像だけでは縮小される身体との関係を、記載寸法からも想像してみてください。
PH-18(1955-F)
PH-18 (1955-F) / 1955 / カンヴァスに油彩 / 271.8 × 233.4 cm
クリフォード・スティル美術館
1950年代の大型絵画。番号と制作年を手がかりに、前後の作品と画面の広がりを比較できます。形の数を数えるだけでなく、色の大きな領域の中にどれほど小さな変化があるかを見てください。巨大な画面と細部の関係が、見る距離の変化を促します。単純な構図に見えることと、短い時間で見終わることは同じではありません。
PH-963
PH-963 / 1957 / カンヴァスに油彩 / 264.2 × 289.6 cm
クリフォード・スティル美術館
横幅が高さを少し上回る大きな画面。縦長の作品と並べて考えると、視線が上へ伸びる感覚と左右へ広がる感覚の違いが見えてきます。美術館のスタッフによる鑑賞記事も、作品が一つの解説だけで閉じないことを示しています。自分が最初に見た部分と、時間をかけて気づいた部分を区別すると、見方の変化を捉えられます。
PH-261
PH-261 / 1962 / カンヴァスに油彩 / 287 × 386.3 cm
サンフランシスコ近代美術館(SFMOMA)
メリーランドへ移った後の大型作品。横幅が3.8メートルを超え、色面と空間の関係を身体の尺度で考えさせます。ニューヨークから離れたことを制作の終わりと結びつけず、継続する実験として見たい一枚です。画面全体を一度に捉える視線と、部分をたどる視線を往復すると、広さの中の緊張を感じられます。
PH-920
PH-920 / 1974 / カンヴァスに油彩 / 290.3 × 433.1 cm
サンフランシスコ近代美術館(SFMOMA)
1970年代にも続いた、大きな画面による制作を示す作品。4メートルを超える幅は、作品を小さな画像として見るときに失われやすい要素です。形の少なさや広い領域を、表現の減少と決めつけず、部分同士の距離を作る選択として見てください。成熟期の作品と比べることで、同じ抽象の形式が異なる広がりを持つことがわかります。
PH-1090
PH-1090 / 1978 / カンヴァスに油彩 / 238.8 × 396.2 cm
クリフォード・スティル美術館
晩年の横長の作品。美術館では音楽との出会いを扱う記事でも紹介されていますが、特定の曲を描いた作品と断定することはできません。視線が止まる場所と流れる場所を探すと、形の間隔を時間の経験として感じられます。画面を見ながら自分の鑑賞の速度に気づくことも、彼の抽象画への自然な入り口です。
メリーランドで続いた晩年の制作
1961年にメリーランドへ移った後も、スティルは多くの作品を制作しました。美術館の「晩年の作品」展は、この時期の絵画と紙の仕事を取り上げています。ニューヨークとの距離が広がる一方で、制作の範囲は、巨大なカンヴァスから小さな紙まで続いていました。
1962年の《PH-261》、1974年の《PH-920》、1978年の《PH-1090》を並べると、移住後の長い時間に大型作品が制作されていたことがわかります。1950年代の絵画を知名度の高い完成期として、後の作品を付録のように扱うことはできません。色の領域、余白、大きさの関係は、その後も探究されていました。
画面に広い領域や少ない形が見えるとき、表現が衰えたと決める必要はありません。形の数を減らすことで、部分同士の距離や、支持体の存在が強く感じられる場合があります。見る人がどこで立ち止まり、どこへ視線を移すかという問題も、異なる方法で現れます。
晩年の制作を理解するには、作品を早い時期と比較しながら、変わった部分と持続した部分の両方を見ることが大切です。同じような境界があっても、色の面積や画面の幅が変われば、経験は同じではありません。様式の名前が同じでも、一作ごとの違いがあります。
作品を残すこと、まとめて見せること
スティルは1979年にメトロポリタン美術館で大規模な回顧展を開き、翌1980年に亡くなりました。死後、彼のもとに残されていた作品は長い間、公の場で十分に見ることができませんでした。作家の知名度と、実際に知られている作品の範囲が一致していなかったことを考える必要があります。
2011年、デンバーにクリフォード・スティル美術館が開館しました。大量の作品と資料を一か所で研究し、初期から晩年までを継続して紹介できる環境が作られます。生前に公開された一部の代表作だけから作家像を作る場合と、多くの作品を時期ごとに比較できる場合では、見えてくる経歴が変わります。
一つの作家の作品をまとめて見ると、同じ時期の試みの幅や、繰り返し現れる形に気づけます。初期の具象作品、材料を変えた作品、紙の仕事も含めることで、大型の抽象画だけでは伝わらない制作の全体が見えてきます。美術館は完成した名声を展示するだけでなく、作家の理解を更新する場所でもあります。
作品を保存することも、鑑賞の前提です。厚い絵具、大きな支持体、異なる材料を持つ作品は、見せるために具体的な保存の仕事を必要とします。画面を純粋なイメージとしてだけ見ると、この物質的な側面は見えにくくなります。スティルの表面への関心は、作品をどう残すかという問題にもつながっています。
スティルの作品を楽しむための見方
最初に、色を一つ選んで見てください。その領域はどこからどこまで続き、どの部分で細くなるでしょうか。次に隣の色との境界をたどります。何かの輪郭として読む前に、境界そのものが作る方向とリズムを確かめると、画面へ入りやすくなります。
風景や身体を連想した場合は、その印象を無理に消す必要はありません。ただし、作家がその対象を描いたと断定する前に、資料の説明と自分の連想を区別してください。抽象画では、同じ形から複数の経験が呼び起こされます。その幅を保ちながら見ることができます。
次に、塗られた部分と支持体が見える部分、厚い部分と薄い部分を比べます。実物を見る機会があるなら、鑑賞できる範囲で位置を変えてください。画像を見る場合も、素材と寸法を読み、画面が物として持つ条件を補うと理解が深まります。
作品を複数見るときは、同じ色があるかだけでなく、縦長か横長か、境界の密度がどう違うか、余白がどれほど広いかを比較できます。1930年代の人物画と1940年代の作品を続けて見る方法もあります。一作の意味を決めるより、作品同士の違いから、何を探究していたかを考えられます。
抽象画を前にして、すぐに言葉が出てこなくても問題はありません。「広い」「重い」「細いところが気になる」といった簡単な感覚から始め、その感覚を生んだ具体的な部分へ戻ってください。知識を先にすべて身につけるより、観察と言葉を少しずつつなげることができます。
抽象表現主義の中の独自性
スティルは抽象表現主義の重要な画家ですが、この運動の画家たちは同じ画面を作っていたわけではありません。彼の場合、大きな色の広がりと不規則な境界、絵具の物質性が結びついています。運動の名前を知った後、実際の表面と構成へ戻ると、同時代の画家との違いが見えてきます。
また、彼の経歴はニューヨークだけで成り立っていません。北米西部での形成、ニューヨークでの発表、メリーランドでの制作が、それぞれ異なる時期を作ります。美術の中心都市との関係をたどりながら、その外で育った制作にも目を向ける必要があります。
スティルの作品は、絵画を見ることを、対象を見分ける行為から、色と形の前で時間を過ごす行為へ広げます。何かを描いているかという問いを残しながら、絵具の厚み、境界、画面の大きさへ目を向けると、抽象の経験が具体的になります。大きな絵の前に立つ自分自身も、その経験の一部として感じられるでしょう。
作品を知るための補足
PH番号には、どのような意味がありますか
美術館の説明では、PHに続く数字は、作家が作品に付けた写真の管理番号に由来します。番号を画面の主題を示す言葉として読む必要はありません。制作年は別に記載されているため、番号だけを順に並べて経歴を判断しないことが大切です。
作品に題名がないという説明と、資料上の識別表記があることは両立します。鑑賞では物語を指定しない一方、研究や所蔵品の管理には、どの作品かを正確に示す情報が必要です。番号を確認したら、実際の画面へ戻って見てください。
大きな作品だけを描いたのですか
大型の抽象画が広く知られていますが、初期の小品や紙の作品も制作しています。今回の《PH-643》は高さ約29センチメートルで、後年の大画面とは異なる大きさです。小さな作品と大きな作品では、形の配置が似ていても、見る距離と身体との関係が変わります。
紙の仕事も、単なる準備作業に限定できません。媒体を変えると、線を引く感覚、色を置く方法、表面の密度が変わります。大型油彩画の印象だけから作家像を決めず、別の大きさと材料の作品へ視野を広げると、探究の幅が見えてきます。
同じような形の作品は、どう比較できますか
形が似ているかを確認した後、画面の縦横比、色の面積、境界の細かさ、塗られていない領域を見ると違いを見つけやすくなります。作品の画像が同じ大きさに表示されている場合は、寸法も比較してください。形の類似だけでは、実物での経験が同じとはいえません。
また、最初に目が止まる場所を比較する方法もあります。同じ黒い領域があっても、別の色がどこに置かれるかによって、視線の動きは変わります。一見似た作品を急いでまとめず、見る時間を少し延ばすことで、一作ごとの関係が現れます。
略年譜
- 1904
- ノースダコタ州グランディンに生まれる。
- 幼年期・青年期
- ワシントン州スポケーン、カナダのアルバータ州ボウ・アイランドで生活する。
- 1930年代
- 人物や風景を描き、ワシントン州で教える仕事にも関わる。
- 1938–1942年頃
- 具象的な表現から抽象への移行を進める。
- 1941
- デニムを支持体とする《PH-169(1941-R)》を制作する。
- 1940年代前半
- ヴァージニアでも教える。
- 1946
- ニューヨークのアート・オブ・ディス・センチュリーで個展を開く。
- 1947年以降
- ベティ・パーソンズの画廊と関わる。
- 1950年代
- ニューヨークを主な活動地とし、大型の抽象絵画を制作する。1950年代初頭に商業画廊との関係を断つ。
- 1961
- メリーランドへ移り、絵画と紙の作品の制作を続ける。
- 1974
- 横幅4メートルを超える《PH-920》を制作する。
- 1978
- 《PH-1090》を制作する。
- 1979
- メトロポリタン美術館で大規模な回顧展が開かれる。
- 1980
- メリーランドで死去。
- 2011
- デンバーにクリフォード・スティル美術館が開館する。
参考資料・出典
生涯と制作史は美術館・研究機関の公開資料を参照し、作品の年記、技法、寸法、所蔵情報は各作品ページを基準にしました。作品の日本語題名には異訳があるため原題を併記しています。本文での画面構成や鑑賞についての記述には、これらの資料を踏まえた本記事の解釈も含みます。
- クリフォード・スティル美術館:Clyfford Still
- クリフォード・スティル美術館:Tools of the Trade
- クリフォード・スティル美術館:The Late Works
- クリフォード・スティル美術館:Art Collection
- クリフォード・スティル美術館:2011年開館発表
- クリフォード・スティル美術館:《PH-643》
- クリフォード・スティル美術館:《PH-77》
- サンフランシスコ近代美術館(SFMOMA):《PH-169(1941-R)》
- クリフォード・スティル美術館:《PH-315》
- ホイットニー美術館:《無題(1945)》
- メトロポリタン美術館:《1947-H 第1番(PH-265)》
- ニューヨーク近代美術館(MoMA):《1951-T 第3番》
- クリフォード・スティル美術館:《PH-18(1955-F)》
- クリフォード・スティル美術館:《PH-963》
- サンフランシスコ近代美術館(SFMOMA):《PH-261》
- サンフランシスコ近代美術館(SFMOMA):《PH-920》
- クリフォード・スティル美術館:《PH-1090》
資料確認日:2026年10月3日 / ART LIBRARY