テートのキュレーター、グレゴール・ミュアーとフィオンタン・モランが、移民の物語、LGBTQIアイデンティティ、そして死と宗教への関心といった視点からウォーホルについて語ります。ブランドの背後にいる人物に出会いましょう。これまで見たことのない作品も含め、あなたが知らないウォーホルの姿が垣間見えるかもしれません。アンディ・ウォーホル展は、テート・モダンで7月27日に再開し、2020年11月15日まで会期が延長されました。
20世紀前半、ニューヨークの美術界では、絵画とは何を描き、誰が作るものなのかという問いが繰り返されていました。フランス出身のマルセル・デュシャンは、1910年代に既製品を美術の場へ置くことで、作家の選択と作品の成立条件を問い直しました。戦後アメリカでは抽象表現主義が広まり、巨大なキャンバスに残る画家の筆触や身体的な動きが注目されていました。テレビ、雑誌、広告、映画が暮らしに浸透するなかで、商品や有名人の写真も人々にとって日常的な視覚環境になっていきます。
この時代に、ピッツバーグ出身のアンディ・ウォーホル(Andy Warhol、1928〜1987年)は、ニューヨークの広告制作で成功したのち、スープ缶や映画スターの写真を美術作品に変えていきました。1963年にはデュシャンの展覧会を訪れ、のちに本人を映画に撮っています。彼の関心は絵画から映画、音楽、出版、写真、抽象表現、共同制作へ広がり、最晩年にはレオナルド・ダ・ヴィンチの《最後の晩餐》に向かいました。移民の家庭で育った少年がどのように芸術家となり、商業イラストレーター時代の仕事をどのように変化させたのか。まずは故郷と家族、そして1950年代のニューヨークからたどっていきましょう。
CONTENTS
ピッツバーグで育ち、芸術家を志す
移民の家庭と少年時代
アンディ・ウォーホルは1928年8月6日、アメリカのペンシルベニア州ピッツバーグに生まれました。出生時の名前はアンドリュー・ウォーホラ。父アンドレイと母ジュリアは、現在のスロバキア東部にあたる地域から移住したカルパト・ルーシン系の移民でした。労働者階級の家庭で三男として育ち、家族はビザンティン典礼のカトリック教会に通っていました。教会に並ぶイコンや信仰行事は、彼の幼少期の日常に含まれていました。
ピッツバーグは製鉄業で発展した工業都市で、ウォーホル一家も移民労働者が暮らす地域に住んでいました。父が亡くなった後も家族はアンディの教育を支え、絵を描く才能を伸ばしていきます。のちにウォーホルの住居で母ジュリアが生活し、彼の作品に独特の筆跡を残したことは、家族の関係が成人後の制作にも続いていたことを示します。
幼い頃は病気のため学校を休み、家で絵を描き、漫画や映画雑誌の写真を眺める時間を過ごしました。母ジュリアも絵や文字を描き、のちにニューヨークで息子の書籍制作に協力することになります。少年時代から親しんだ印刷物と母の絵が、のちに彼が使う視覚表現の身近な環境を形作っていました。(参照:アンディ・ウォーホル美術館 | 生涯)(参照:ウォーホル財団 | 伝記)
美術学校で学んだ図案と印刷の考え方
ピッツバーグではカーネギー美術館の教育プログラムなどを経て、1945年にカーネギー工科大学へ入学しました。専攻した図案設計は、印刷や広告などの仕事と深く関わる分野でした。1949年に卒業し、ニューヨークへ移った時点で、ウォーホルは広告用の図像を描く技術と、印刷媒体に合わせて画面を組み立てる知識を身に付けていました。
大学で学んだ「図案」は、印刷や広告に用いる画像を、見る人が短時間で理解できるように設計する分野です。写真の原版、文字の配置、図柄の縮尺、色の重ね方といった問題に、ウォーホルは若い頃から触れていました。美術学校で受けた教育の具体的な範囲と、後の作品に用いられた技法は区別する必要があります。それでも、絵画とグラフィック・デザインの境界を横断する活動の土台になったことは確かです。
学業を終えた頃のニューヨークでは、ファッション誌、百貨店、レコード会社が大量のイラストレーションを必要としていました。ギャラリーの抽象絵画と広告の図版は異なる世界で評価されていた時代です。ウォーホルはまず、雑誌や商品のためのイメージを作る職業から活動を始めます。(参照:アンディ・ウォーホル美術館 | 生涯)(参照:ホイットニー美術館 | 回顧展)
ニューヨークの商業イラストレーター時代
靴の広告から生まれた独特の線
1949年にニューヨークへ移ったウォーホルは、『グラマー』『ヴォーグ』などの雑誌、百貨店、靴メーカーの広告を手がけました。1950年代には受賞歴を重ね、マディソン街の広告業界で人気のあるイラストレーターとなります。なかでも靴の仕事は重要で、I・ミラー社の広告や、高級靴を幻想的に変えた一連の作品によって名前を知られました。商品そのものを正確な図面にするより、細い輪郭と余白、装飾によって魅力的な印象を作り出しています。
靴の広告では、尖ったつま先や高いヒールが軽やかに描かれ、インクの滲みが商品に柔らかな質感を与えました。図柄を再利用できる転写工程は、依頼に応じて画像を数多く制作する仕事に適していました。MoMA所蔵の《失われた靴を求めて》は、靴の形を題材とした小冊子です。本文の線画を印刷で複製したうえで友人たちと手彩色したことが知られ、発想と制作工程を複数人で共有する働き方がすでに現れています。
特徴的なのが「ブロッテッド・ライン」と呼ばれる転写線画です。下絵をなぞったインクが乾く前に別の紙を重ねて押し、線を移します。一本の線が細かく途切れたり、点状に滲んだりするため、印刷された輪郭にも手描きの揺れが残りました。ウォーホル美術館の技法解説によれば、原図を使えば似た図柄を何度も転写でき、助手や友人と彩色作業を分担することも可能でした。(参照:アンディ・ウォーホル美術館 | 転写線画の技法)(参照:MoMA | 『失われた靴を求めて』)
手作り本と母ジュリアとの共同作業
商業広告の傍ら、ウォーホルは友人や仕事上の関係者へ渡す小さな本を制作しました。《25匹のサムという名の猫と1匹の青い猫》には猫の図柄が並び、題名の綴りにまで遊び心が表れています。1959年にはスージー・フランクフルトと料理の空想を楽しむ『ワイルド・ラズベリーズ』を制作しました。母ジュリアによる独特の手書き文字も、こうした本の表情を形作っています。
1950年代には、著名人の顔や靴を描く仕事に加え、男性の身体や足を描いた私的な素描も制作しました。ホイットニー美術館の2018年の回顧展は、ファッション関係者を描いた華やかな作品と、当時は公に見せられなかった親密な図像を並べて紹介しました。戦後アメリカの社会的な規範と、ウォーホルが個人的に描いた対象の関係は、広告だけを見ていると見落とされやすい側面です。
書籍にはオフセット印刷や手彩色が用いられ、完成部数の少ない贈答品という性格もありました。ここでウォーホルは、印刷によって複数作れるイメージに色や文字の違いを加え、知人との関係を通じて配布していました。大量複製と手仕事、依頼制作と私的な制作が並走した1950年代の姿は、ポップ・アート以前の彼を知るうえで欠かせません。(参照:ホイットニー美術館 | 回顧展と初期作品)(参照:JSTOR | 1950年代の画業と刊行物)
画廊とショーウィンドウのあいだ
ウォーホルは1950年代からニューヨークで個展を開き、広告以外の美術作品も発表していました。1956年の金色の靴の作品には、トルーマン・カポーティをはじめとする著名人の名前が書き込まれています。靴がその人物の代わりに現れる、肖像画と商品広告を重ねたような発想です。商業作品の制作と美術家としての活動は、同じ都市生活の中で並行していました。
1956年には世界一周旅行の途中で日本を訪れ、京都と東京に滞在しました。京都市京セラ美術館の展覧会資料によれば、旅先では写真を撮る代わりにスケッチブックに鉛筆で見聞を記録していました。日本滞在時の素描には清水寺なども登場します。スープ缶の絵画で国際的に知られるより前、ウォーホルは商業イラストレーターとして得た成功を背景に海外旅行を楽しめるようになっていました。(参照:京都市京セラ美術館 | ウォーホルの1956年の日本旅行)
1961年には百貨店ボンウィット・テラーのショーウィンドウに、自らの広告・漫画由来の絵画を展示しました。商品を見せる売場の窓に美術作品が置かれた経験は、その後のスープ缶や箱の展示へつながる歴史的な場面です。ウォーホルが作品を発表する場所は、画廊の壁と商業空間の両方に広がり始めていました。(参照:ホイットニー美術館 | 商業美術から絵画へ)(参照:ホイットニー美術館 | 初期制作の資料)
商品と漫画を描き、ポップ・アートへ進む
漫画と広告を大きなキャンバスへ
1960年から1961年頃にかけて、ウォーホルは漫画のコマ、新聞広告、住宅設備の広告などを拡大した絵画を手がけました。画面には吹き出しや太い輪郭線が現れ、広告で使う強い文字と単純な図形が絵画の主題になりました。ロイ・リキテンスタインも漫画を題材にしていた同時期です。ウォーホルの初期作品にはまだ筆の動きが目立つものもあり、のちの均一な印刷画面とは異なる質感があります。
この頃の作品には、コミックに由来するヒーローや女性の顔、広告の中の住宅設備など、媒体ごとに異なる印刷様式が混在していました。新聞や漫画の線を大きなキャンバスへ移せば、紙面では目立たなかった描線の太さや色面の粗さが見えてきます。リキテンスタインが印刷物の網点を絵具で細かく再現する方向に進んだのに対し、ウォーホルはほどなく既存の図柄をシルクスクリーンで転写する技術へ重点を移しました。
当時のニューヨークでは、ジャクソン・ポロックやウィレム・デ・クーニングらの抽象表現主義が強い存在感を持っていました。ウォーホルは、感情的な筆触が称賛された時代に、誰もが見慣れた商品図版を大画面へ持ち込みました。新聞や広告を模写するという選択には、すでに流通している像を絵画の出発点にするという変化がありました。(参照:ホイットニー美術館 | 初期ポップ絵画)(参照:MoMA | ウォーホルの画業)
コカ・コーラの瓶とドル紙幣
ウォーホルはコカ・コーラの瓶とロゴ、ドル紙幣も描きました。《グリーン・コカ・コーラ・ボトルズ》では、同じ形のガラス瓶が列をなし、手前に並ぶ個々の瓶には刷りの濃淡や輪郭の違いがあります。誰もが知っている商品が、絵画の画面いっぱいに広がる風景です。ウォーホル自身がコーラについて、富裕層も普通の人も同じものを飲むという趣旨を述べたことは知られています。
《グリーン・コカ・コーラ・ボトルズ》を近くで見ると、瓶の輪郭線や文字の濃淡は完全には一致しません。画面の上方から下方へ、同じような瓶が規則的な列として続きます。誰の家にもある消費財の形が絵画の大部分を占め、一般的な人物画や風景画とは異なるスケール感を生みました。貨幣やポイント・スタンプに視線を移すと、商品そのものと、それを流通させる交換の仕組みが同じ時期の主題になっていたことも分かります。
ドル紙幣は国家が価値を保証し、同じ図柄が大量に刷られる印刷物です。ウォーホルは紙幣の図柄を繰り返し、消費のための交換手段そのものを絵画の主題にしました。1962年の《S&Hグリーン・スタンプ》では、買い物の景品交換に使われるスタンプの図案が規則的に並びます。瓶、紙幣、販売促進のスタンプは、アメリカの消費経済を支える異なる種類のイメージでした。(参照:ホイットニー美術館 | 《グリーン・コカ・コーラ・ボトルズ》)(参照:MoMA | 《S&Hグリーン・スタンプ》)
《キャンベル・スープ缶》の32点と展示方法
Andy Warhol’s Soup Cans: Why Is This Art? (Smarthistory)
1962年、ウォーホルはキャンベル社のスープ缶を描いた32枚のキャンバスを制作しました。当時販売されていた32種類のスープに対応する作品で、各画面の大きさは縦50.8センチ、横40.6センチ。赤と白のラベルや金色の装飾、印刷された文字がほぼ同じ形式で描かれ、スープの種類を表す商品名が入れ替わります。チェダー・チーズ味のラベルにある黄色い新商品表示など、缶ごとの小さな差も描き込まれました。
キャンバスには鉛筆で輪郭を取り、映写機で文字を投影してなぞり、アクリル絵具で塗る工程が使われました。ラベル下部の金色の百合紋様はゴム印によるものです。整列した画面は工業製品のように見えますが、赤い部分の色味や印の位置には微妙なばらつきがあります。写真製版シルクスクリーンを本格導入する前に、手作業で均質さを作り込んだ作品です。
キャンベルのラベルは当時すでに数十年間ほとんど変わっておらず、画面には市場でおなじみのスープ缶がほぼそのままの姿で現れます。スープ缶を選んだ理由について、ウォーホルは長年同じスープを昼食に食べていたと語っています。この缶がすでに多数の人に共有された図柄だったことが、32枚の同形の絵画を成立させる条件にもなりました。
同年7月、ロサンゼルスのフェラス・ギャラリーで展示された32点は、画廊主アーヴィング・ブルームの発案により、商品棚を思わせる細長い台の上に一列に置かれました。当時の反響は一様ではなく、ブルームが一組の作品として保管したことが、後のMoMA収蔵につながります。現在よく見られる4列8段の展示と、初公開時の一列の配置では、鑑賞者が受ける印象も変わります。(参照:MoMA | 《キャンベル・スープ缶》(1962年))(参照:MoMA | スープ缶と反復制作の研究)
ニューヨークでの個展と新しい主題
1962年11月、ウォーホルはエレノア・ウォードが運営するステイブル・ギャラリーで、ニューヨークにおけるポップ絵画の個展を開きました。スープ缶だけに絞ったフェラス・ギャラリーの展示とは異なり、マリリン・モンローやエルヴィス・プレスリー、商品、貨幣などが並びました。短期間に制作した多様な作品が、共通する方法で扱えることを示す展示となりました。
ステイブル・ギャラリーの展覧会は、アメリカ美術の中心都市ニューヨークで、ウォーホルの新しい絵画がまとまって紹介された機会でした。著名なスターの肖像と商品画像が同列に扱われることは、商品と人物それぞれの「広告される姿」に目を向けさせます。新しい絵画を画廊で発表することによって、広告の図柄を美術として受け入れるかどうかという問題が同時代の観客の前に現れました。
商品、スター、報道写真は、人々が何度も目にする複製画像という点でつながっています。ウォーホルが次に発展させた制作方法は、すでに印刷されている写真を再びキャンバスへ印刷するものでした。この技術の変更は作品の図柄、制作速度、共同制作の仕組みを同時に変えていきます。(参照:MoMA | ウォーホルと1962年の展覧会)(参照:ホイットニー美術館 | 回顧展)
写真とシルクスクリーンが変えた絵画
写真を版にし、キャンバスに刷る
1962年後半、ウォーホルは写真製版のシルクスクリーンを本格的に使い始めました。新聞や映画の宣伝写真を選び、必要な部分を切り取り、白黒の強いコントラストへ変換して版を作ります。絵具で下地を塗ったキャンバスの上に版を置き、スキージーでインクを押し通すことで画像を転写しました。商業用の製版業者がスクリーンを作ることもあり、助手と役割を分担できる制作方法でした。
写真製版の版に適した原画像を作るためには、元の写真の明暗を整理し、スクリーンに転写できる黒と白の領域へ調整する必要があります。下地のアクリル絵具が乾いてから版を重ねるため、肌の色と輪郭線が正確に合わない場合もあります。広告や新聞で使われる印刷技術をキャンバスへ持ち込んだことにより、写真由来の顔が抽象的な色面の上に重なる、当時の新しい絵画表面が生まれました。
同じ版を繰り返し使えるため、スターの顔を別の背景色や大きさの画面に重ねたり、新聞写真を格子状に反復したりできます。写真を見ながら一枚ずつ描き写す方法と異なり、原画像の粒子や輪郭の荒さもそのまま画面へ残ります。雑誌や新聞のために作られた画像が、美術館で展示される絵画の素材になりました。(参照:ウォーホル美術館 | 写真製版シルクスクリーンの工程)(参照:MoMA | 技法の変化)
刷りのずれ、色の違い、画像の欠落
シルクスクリーンの版は同じ像を繰り返せます。実際の絵画には、インクが薄くなって顔の一部が消えた箇所、版と下地色がずれた箇所、輪郭が二重になった箇所が見られます。ウォーホルはこれらの結果を生かし、ひとつの写真から多数の作品を作りました。どの顔を何回刷るか、どこを空白にするかという選択によっても画面の構成は変わります。
同じ写真版を繰り返しても、作品ごとに背景や印刷回数を変えられます。何枚かを並べて一つの構図にしたり、大きな余白に一つだけ顔を置いたりすることで、画像の社会的な意味も異なって見えます。シルクスクリーンの機械性と偶然性をめぐる説明は、作品のどこにインクが溜まり、どこで印刷が欠けているかを観察して初めて具体的になります。
当時の抽象表現主義では、筆跡を画家の身体や判断の痕跡として評価する傾向がありました。ウォーホルの画面に現れる線は主として写真と印刷工程に由来します。手作業の跡は別の場所へ移り、画家が原画像を選び、版を再利用し、反復の間隔や配色を決めることが制作の中心になりました。(参照:MoMA | 印刷技法と反復)(参照:MoMA | 《ゴールド・マリリン・モンロー》)
マリリンからエルヴィスへ、スターの顔を描く
アンディ・ウォーホル作、「ゴールド・マリリン・モンロー」、キャンバスに合成ポリマー塗料、シルクスクリーンインク、71.25 x 57インチ(211.4 x 144.7 cm)、1962年(ニューヨーク近代美術館所蔵)
《ゴールド・マリリン》と映画の宣伝写真
1962年8月にマリリン・モンローが亡くなると、ウォーホルは映画『ナイアガラ』(1953年)の宣伝写真をもとに肖像を制作し始めました。《ゴールド・マリリン・モンロー》では、約2メートルの金色の画面の中央に、鮮やかに彩色されたマリリンの顔がひとつ浮かびます。もとになったのは映画会社が宣伝用に撮影し、すでに広く流通していた写真です。
《ゴールド・マリリン・モンロー》は縦211.4センチ、横144.7センチの大きなキャンバスですが、顔が占める面積は比較的小さく、周囲に広い金色の空間が広がります。顔の鮮やかな黄色い髪と赤い唇、青みのある化粧は写真の階調とは異なる色に置き換えられました。MoMAの解説は、金地が宗教的なイコンを思わせることと同時に、ずれた化粧や輪郭に印刷物としての儚さが表れていることを指摘しています。
金地は宗教的なイコンを連想させ、ウォーホルの幼少期に身近だったビザンティン典礼の視覚文化との関係も論じられています。中央の顔は強い色彩に覆われ、輪郭や唇の位置には印刷のずれが残ります。死後も繰り返し表示されるスターの顔と、印刷によって作られた不安定な肖像が、同じ画面に収まっています。(参照:MoMA | 《ゴールド・マリリン・モンロー》(1962年))(参照:ウォーホル財団 | 信仰と制作の背景)
《マリリン二連画》の50の顔
Anatomy of an Artwork: Andy Warhol’s Marilyn Diptych at Tate Modern (Sotheby’s)
テート・モダンの永久コレクションに収蔵されているアンディ・ウォーホルのこの記念碑的な作品は、女優マリリン・モンローの死後わずか数ヶ月後に描かれました。1962年のマリリン・ディプティクは、彼女の驚異的な名声を称えるとともに、人生の無常についての考察でもあります。
1962年の《マリリン二連画》には同じ顔が50回並び、左半分は華やかな色彩、右半分は白黒で刷られています。右側では印刷が次第に淡くなり、目鼻が不鮮明になっていきます。画面を近くから見ると、同じ写真のはずなのに濃度や輪郭の違いによって表情が変わって見えます。
二連画という形式は、祭壇画など宗教美術で用いられてきた形式でもあります。ウォーホルの作品では、同じ顔を二つの領域に分け、彩色された像と白黒の像を並べています。マリリンの死去直後という制作時期を考えると、華やかな有名人の画像と像の消失が隣り合う状態は、芸能人が亡くなった後も社会の中で写真だけが増えていく現象と深く関わっています。
映画の宣伝写真は本来、スターの姿を識別し、記憶させるためのものです。ウォーホルは同じ写真を増やし、その鮮明さが失われる様子まで作品にしました。鑑賞者は、鮮やかな左側と薄れていく右側を行き来しながら、大量に流通するスター像の魅力と摩耗の両方を目にします。(参照:テート | 《マリリン二連画》(1962年))(参照:MoMA | スターの肖像と反復)
《ダブル・エルヴィス》の等身大の身体
My Favorite Things: Andrew Burkhardt on Andy Warhol’s “Double Elvis” (Seattle Art Museum)
「私はアートに対する型破りなアプローチが大好きで、ウォーホルや当時の他のアーティストたちが、アートの見方を変え、より身近で、より誰にとっても身近なものにしたのだと思います。」—アンドリュー・バークハート デザイナーのアンドリュー・バークハートがセレブリティとアメリカについての考えを語り、アンディ・ウォーホルの興味深い背景や、「ダブル・エルヴィス」が今日のような姿になった経緯についても紹介します。
この1963年の作品は、現代において最も尊敬される2人の人物、ロックンロールの王とポップアートの王子を結びつけています。
1963年、ウォーホルはエルヴィス・プレスリーの西部劇『燃える平原児』(1960年)の宣伝用写真を使い、拳銃を構える全身像を銀色のキャンバスへ刷りました。《ダブル・エルヴィス》では、ほぼ等身大の人物が二度印刷され、二つの像の位置が少しずれています。顔を画面に並べたマリリンの作品とは異なり、ここでは映画の中の演技を思わせる身体の動きが生まれます。
MoMA所蔵の《ダブル・エルヴィス》は縦約211センチの大作です。人物が拳銃をこちらへ向ける姿は、映画宣伝で使われる強いポーズをほぼそのまま残しています。銀地に重なった像は、スクリーンのずれによって二重露光写真のように見えます。1963年のロサンゼルスの個展には、人物が一人から複数へ増える作品が出品されました。全身像の反復が、壁面に並ぶ人物の数と、映画の時間的な動きを同時に感じさせます。
フェラス・ギャラリーでの展示に関しては、同じ人物を連続印刷した長いキャンバスをロサンゼルスに送り、切り分け方や展示に画廊側が関わったことが記録されています。どこからどこまでを一枚の作品にするかという判断まで、制作と流通の工程に含まれるようになりました。(参照:MoMA | 《ダブル・エルヴィス》)(参照:ホイットニー美術館 | エルヴィスの肖像)
ジャクリーン・ケネディと報道される悲しみ
アンディ・ウォーホル作「ナイン・ジャッキーズ」|アメリカ手話(ASL)による動画(ホイットニー美術館)
教育者のローレン・リドロフが、展覧会「アンディ・ウォーホル―AからB、そして再びAへ」で展示されているアンディ・ウォーホルの作品「ナイン・ジャッキーズ」について解説する。
1963年11月のケネディ大統領暗殺後、ウォーホルはジャクリーン・ケネディの報道写真を使って《ナイン・ジャッキーズ》などを制作しました。暗殺前の笑顔、悲しみに沈む顔、葬儀の前後に撮られた姿が、異なる大きさや色彩で並びます。国家的事件がテレビと新聞で繰り返し報道されるなか、一人の人物の表情も公共の記憶となっていました。
《ナイン・ジャッキーズ》では九つの肖像が規則的な構成で並びます。笑顔を見せる顔と深い悲しみを表す顔が繰り返され、同じ人物の表情がニュースの流れに沿って変化したことを伝えます。画面には異なる場面の写真が混在し、ひとつの悲劇をめぐって何度も見せられた顔を集めた構成になっています。
ウォーホルは大統領暗殺を伝える報道写真からジャクリーンの表情を選び、並び順と反復を変えました。スターの宣伝写真と報道写真は、撮影された理由も内容も異なります。その差を残したまま同じ印刷技法へ通したことが、1960年代の肖像制作の特徴となりました。(参照:メトロポリタン美術館 | 《ナイン・ジャッキーズ》)(参照:MoMA | ウォーホルの1960年代作品)
新聞写真が伝えた事故、死、社会の暴力
《129人がジェット機事故で死亡》と新聞の一面
作品は著作権の都合上、掲載できません。こちらからご確認ください。
1962年の《129 Die in Jet》は、航空事故を大きく報じた新聞の第一面をもとにしています。大きな見出しと粗い写真がキャンバスに拡大され、出来事そのものより、事故が新聞上でどのような画像と言葉になったかが強く表れています。この作品にはまだ手描きの工程が多く残り、後の事故写真を反復したシルクスクリーン連作へ向かう過程を知ることができます。
《129 Die in Jet》には新聞見出しの文字が大きく残されているため、画像を見た人は事故の規模を言葉からも知ります。ウォーホルのその後の事故作品では、文字を除き、写真だけを反復する方法が増えます。新聞記事という情報のまとまりから、写真の一部を切り出して独立させる転換が進んでいったことを、前後の作品から確認できます。
事故を目撃していない読者は、報道写真と見出しを通して出来事を知ります。ウォーホルは、その写真を別の画面へ移し替え、鑑賞者がニュースを読むときと美術作品を見るときの経験を重ねました。商品広告と同じ紙面に悲劇が掲載される大衆メディアのあり方が、ここで絵画の主題になります。(参照:ホイットニー美術館 | 《129 Die in Jet》)(参照:ホイットニー美術館 | 1960年代の制作)
《オレンジ・カー・クラッシュ》の反復と空白
0:55sから、《オレンジ・カー・クラッシュ》が紹介されています。
アンディ・ウォーホル ホワイト・ディザスター
畏敬の念を呼び起こし、その存在自体が普遍的な人間の経験に対する崇高な考察を促す芸術作品は、極めて稀である。こうした作品こそが、その時代を象徴し、人類の根本的な関心事を語るだけでなく、それを永遠に記憶にとどめるのである。1963年のアンディ・ウォーホルの『ホワイト・ディザスター(ホワイト・カー・クラッシュ19回)』は、紛れもなくこうした真の傑作の一つである。鑑賞者の頭上にそびえ立つウォーホルの巨大なキャンバスは、抗いがたい磁力で鑑賞者を内側へと引き込み、白いキャンバスは、内側から、あるいは上空から照らされているかのように、かすかに奇跡的な輝きを放つ。純白の背景に、正確な意図をもって積み重ねられ、繰り返される暗いイメージの列は、上昇の体験へと私たちの視線を絶えず上へと導く。そこで私たちは、馴染み深くもあり奇妙でもあり、個人的でありながら普遍的でもあり、美しくもあり恐ろしくもあるイメージを、否応なく見つめざるを得なくなる。
1963年の《オレンジ・カー・クラッシュ・フォーティーン・タイムズ》は、報道された自動車事故の写真を14回並べた巨大な二連画です。左側のキャンバスには同じ事故写真がオレンジ色の地に重なり、右側には図像を持たないオレンジ色の広い画面が置かれています。全体の幅は4メートルを超え、近くで写真の細部を見ることと、大きな色面として作品を捉えることの両方を要求します。
作品全体の大きさは約268.9×416.9センチで、事故写真を繰り返した左の画面と、単色の右の画面が並ぶことで横方向へ大きく広がります。人物や自動車の写真の細部は、離れて見ると濃い模様として読まれます。印刷された情報と印刷されなかった色面を一度に捉えるには、観客も作品の前で視点を移動しなければなりません。
事故の写真は繰り返されるほど構図上の模様にも見えます。右側の空白は、画像が大量に表示される左側と対になり、視線を止める場所になります。ウォーホルが反復のもたらす感覚の鈍化について語ったことは知られていますが、この作品の衝撃は消えたとは言い切れません。何度も提示される事故と、画像のない空間が並ぶ具体的な配置を見れば、その複雑さが伝わります。(参照:MoMA | 《オレンジ・カー・クラッシュ・フォーティーン・タイムズ》)(参照:ウォーホル美術館 | 「死と惨事」の研究)
《電気椅子》と制度としての死
1963年以降の《電気椅子》シリーズでは、死刑に使われる椅子の写真を拡大し、異なる色彩で反復しました。自動車事故の写真と違い、画面に犠牲者の身体は見えません。椅子の周囲の床や壁、室内の空気感が残り、空の空間が死刑制度を連想させます。
電気椅子の写真は、政府による死刑執行の場を示す記録画像として撮影されたものでした。椅子の周囲には人物が写っておらず、室内には静けさがあります。シリーズの画面ではピンク、青、赤、銀色などの色が用いられるため、深刻な主題が鮮やかな絵画表面として現れます。写真の内容と、画面を塗る色の関係を読むことが重要です。
原写真の撮影状況と、絵画として印刷された状態の双方が関係します。電気椅子は国家による処刑に用いられる器具として知られており、その知識によって空の部屋にも切迫感が生まれます。ウォーホルは報道写真の情報を完全に消さずに、それを巨大な色面と反復の構成へ移しています。(参照:ウォーホル美術館 | 《電気椅子》と「死と惨事」)(参照:MoMA | ウォーホル作品解説)
《バーミングハムの人種暴動》と公民権運動
《バーミングハムの人種暴動》(1964年)の原画像は、写真家チャールズ・ムーアが1963年にアラバマ州バーミングハムで撮影したものです。警察犬が非暴力の公民権運動参加者を襲う場面が『ライフ』誌に掲載され、全国へ伝わりました。ウォーホルは写真の向きを反転し、拡大してシルクスクリーン版画に使用しました。
アラバマ州の公民権運動は、アメリカで人種隔離の撤廃を求める運動が全国的に注目された出来事です。1963年5月17日付の『ライフ』誌に掲載されたムーアの写真は、警察の行動を多くの読者へ伝えました。ウォーホルが使用した画像は、無許可で使用し、著作権をめぐって、訴訟に発展しました。作品を理解するためには、元の写真を撮影した人と、その写真を美術作品へ移した人の役割を区別して考える必要があります。
作品名には当時の報道に用いられた「人種暴動」という語が残っていますが、写真が写しているのは警察によるデモ参加者への攻撃です。メトロポリタン美術館は、この題名と写真の事実の差も指摘しています。ウォーホル自身の政治的立場を作品から一義的に決めることは慎重であるべきですが、当時の人種差別的暴力を報じた写真が美術へ移されたという事実と、原写真をめぐる著作権紛争は重要です。(参照:メトロポリタン美術館 | 《バーミングハムの人種暴動》(1964年)・Andy Warhol / Birmingham Race Riot ホイットニー美術館・ホイットニー美術館 |《バーミングハムの人種暴動》(1964年))
マルセル・デュシャンと実際に出会う
レディメイドが変えた作品の条件
マルセル・デュシャンは1913年の《自転車の車輪》、1917年の《泉》などによって、既製品を選び、題名や置き場所を変えることを美術の問題にしました。そこでは作家が素材を手で加工することと、作品を成立させることの関係が問い直されます。ウォーホルが商品を絵画にした行為は、その歴史の上で比較されてきました。ウォーホルは商品パッケージを絵画に描いたのち、箱そのものに似せた彫刻も制作しました。
デュシャンの《泉》は1917年に便器を美術展へ提出した作品として知られています。その後のレディメイドには、当初の物が現存しないものや、後年に版として再制作されたものもあります。1964年にはアルトゥーロ・シュヴァルツによる複製版が発表され、作品を複製すること自体がデュシャンの仕事の歴史に含まれました。ウォーホルの箱も複数の木製オブジェとして制作されたため、両者は美術作品が何をもって特定されるかという問題で比較できます。
1960年代初頭、デュシャンは若い作家たちによって改めて注目されていました。彼のレディメイドは1964年に複製版としても制作されます。ブラッドリー・ベイリーの研究(2017年オンライン公表、2018年刊行の『Visual Resources』第34巻所収)は、1960年代のポップ・アートの隆盛がデュシャン自身による再制作の判断にも関係したと論じています。デュシャンから後の作家への影響と、デュシャンが新世代を意識した可能性を区別する必要があります。(参照:ポモナ大学美術館 | デュシャンと《ブリロ・ボックス》)(参照:ブラッドリー・ベイリー(2018年) | デュシャンとポップ・アート)
パサデナの回顧展での対面
ウォーホルとデュシャンが実際に会った記録も残っています。詩人ジョン・ジョルノの回想によると、1963年5月21日、ニューヨーク近代美術館での「Americans 1963」展の開幕時に、デイヴィッド・ホイットニーが二人を紹介しました。同年10月にはカリフォルニア州のパサデナ美術館で開かれたデュシャンの回顧展にウォーホルが参加しています。ホイットニー美術館の映画目録には、同年の作品として《Duchamp Opening》も記録されています。
二人の交流については、作品を比べる研究に加えて、当時の展覧会と撮影の記録も残っています。1965年、ニューヨークのコルディエ&エクストロム画廊で開催されたデュシャンの展覧会では、ウォーホルが彼を撮影しました。その場面を撮ったナット・フィンケルスタインの写真《Warhol Films Duchamp》がメトロポリタン美術館に所蔵されています。スミソニアン国立肖像画美術館の記録には、ウォーホルによる1966年の無声映画《スクリーン・テスト:マルセル・デュシャン》もあります。
前年の夏に同じロサンゼルス地域でスープ缶を発表していたウォーホルにとって、パサデナの回顧展は、自身の作品と比較される前衛美術の先行例を実際に見る機会でもありました。
これらの記録は両者の対面と撮影を裏付けます。作品上の共通点を考えるうえで重要な材料ですが、制作の具体的な助言を受けた、あるいは長期的な師弟関係を結んだとまでは確認されていません。ウォーホルの仕事には、デュシャンのレディメイドと共通する問いと、広告や写真製版に根差した独自の制作工程が併存します。(参照:ブラッドリー・ベイリー(2018年) | ジョン・ジョルノによる二人の出会いの記録)(参照:メトロポリタン美術館 | 《Warhol Films Duchamp》(1965年))(参照:スミソニアン国立肖像画美術館 | デュシャンのスクリーン・テスト(1966年))
《ブリロ・ボックス》は既製品のコピーだった
1964年、ウォーホルは洗剤用たわし「ブリロ」などの輸送箱を模した木製の彫刻を制作しました。木工職人に合板の箱を作らせ、下地を塗り、助手とともに商品ロゴをシルクスクリーンで刷っています。完成品にはブリロのほか、ケロッグ、ハインツ、デルモンテなどの商標が現れます。ステイブル・ギャラリーで箱を積み上げた展示は、狭い倉庫や食料品店の保管場所を思わせました。
デュシャンのレディメイドが実際に製造された既製品を選んで提示したのに対し、《ブリロ・ボックス》は本物の段ボール箱を木材で再制作した作品です。寸法と印刷された模様を近づけるほど、見た目が似た二つの物を区別する手がかりは設置場所や制作履歴へ移ります。
商品の元のグラフィックは、商業デザイナーのジェームズ・ハーヴェイによって制作されました。1964年5月の『TIME』誌は、ハーヴェイがステイブル・ギャラリーで自分のデザインが木箱に刷られているのを目にしたことを伝えています。(参照:『TIME』(1964年5月15日) | 包装デザイナーとウォーホル)ウォーホルはその既存の箱の図柄を借用し、美術用の木箱へ印刷しました。1964年の哲学論文「アートワールド」で、アーサー・ダントーは《ブリロ・ボックス》を取り上げ、外見だけで物を美術作品と判断できないことを論じました。作品の物理的な姿と、美術史や理論の知識を必要とする鑑賞の関係が、ここから哲学的な問題へ展開していきます。(参照:アーサー・ダントー(1964年) | 「アートワールド」原論文)
ウォーホル美術館によれば、制作にはジェラード・マランガやビリー・リニッチも参加しました。箱は大量に制作されましたが、当初の販売には苦戦し、画廊主エレノア・ウォードも箱が売れにくかったことを回想しています。展示、複数人による加工、商業品への擬態という具体的な条件に、デュシャンから継承された問題が新たな形で現れます。(参照:ウォーホル美術館 | 《ブリロ》の制作と展示)(参照:ポモナ大学美術館 | デュシャンとの関係)
公共空間への進出と花の連作
万国博覧会で消された《13人の最重要指名手配犯》
1964年のニューヨーク万国博覧会では、建築家フィリップ・ジョンソンが設計したニューヨーク州パビリオンの外壁に、ウォーホルの《13人の最重要指名手配犯》が設置されました。素材は1962年のニューヨーク市警察の手配写真です。正面と側面から撮られた顔を大きな正方形のパネルに印刷し、格子状に並べています。
パビリオンは当時のニューヨークの未来的な公共建築でした。その壁に貼られた警察の顔写真は、スター写真や広告と同じように巨大化されながら、見る人へ異なる社会的な情報を伝えます。作品を銀色で覆った処置によって、完成した画像と、その画像を見せることを拒んだ行政上の判断の両方が作品史に残りました。現在の研究では、残された写真、制作資料、塗りつぶしの経緯が重要な証拠となっています。
1964年4月15日に設置された作品は、数日後に銀色の塗料で覆われました。会場が正式に開いたとき、通行者が見ることのできたのは銀色の大きな面でした。映画スターなら歓迎されやすい巨大な顔写真も、警察の手配写真を公共施設に示すことは政治的な争点になりました。のちにウォーホルは同じ版を使い、キャンバス作品を制作しています。(参照:ウォーホル美術館 | 万国博覧会と《13人の最重要指名手配犯》)
《花》を写真から切り抜き、色を変える
1964年の《花》は、写真家パトリシア・コールフィールドが『モダン・フォトグラフィー』誌に掲載したハイビスカスの写真をもとに制作されました。ウォーホルは元写真を正方形に切り取り、複数の花を強い色の平面に変えました。同年のレオ・カステリ画廊での展示に向け、複数の大きさの版を作っています。のちにはさらに小さな版も制作され、花の図柄が繰り返し展開されました。
花の図柄は、大きな四角いキャンバスにも小型の作品にも適応でき、展示では壁一面に同じ花が並びました。元写真の自然な奥行きは、背景の草葉を強い暗色へ変えることで大幅に単純化され、各花びらの形が色の輪郭として際立ちます。花を選んだことでウォーホルの主題は明るくなりましたが、写真を選び、切り取り、色を変え、反復するという制作工程は引き継がれています。
事故写真を用いた作品と比べると、《花》は鮮やかで装飾的に見えます。制作工程には共通点があります。他者が撮影した写真を切り出し、明暗を単純化し、色を加えて反復する方法です。この写真の無断使用はコールフィールドとの著作権上の紛争にもつながり、作品の元画像を誰が作ったのかという問題を生みました。(参照:メトロポリタン美術館 | 《花》(1964年))(参照:ホイットニー美術館 | 写真と引用の問題)
主要作品
ウォーホルの主要な制作を、1962年のスープ缶から最晩年の《最後の晩餐》まで8点で紹介します。絵画や版画に加え、ファクトリーで制作した肖像映画も含みます。
キャンベル・スープ缶
Campbell’s Soup Cans / 1962 / アクリル、メタリック・エナメル塗料・カンヴァス、32点組 / 各 50.8 × 40.6 cm
The Museum of Modern Art, New York
当時販売されていた32種類のCampbell’sスープを一種類ずつ描いた32点組。1962年のFerus Galleryで棚に並ぶ商品のように展示されました。シルクスクリーン以前の作品で、多くの工程が手作業で行われています。
ゴールド・マリリン・モンロー
Gold Marilyn Monroe / 1962 / シルクスクリーン・インク、アクリル・カンヴァス / 211.4 × 144.7 cm
The Museum of Modern Art, New York
1962年のマリリン・モンロー死後に制作。映画『Niagara』の宣伝写真をもとに、金色の大きな余白の中央へ顔を配置しています。スターの顔を複製可能な公共イメージとして扱った初期の代表作です。
オレンジ・カー・クラッシュ・フォーティーン・タイムズ
Orange Car Crash Fourteen Times / 1963 / シルクスクリーン・インク、アクリル・カンヴァス、2点組 / 全体 268.9 × 416.9 cm
The Museum of Modern Art, New York
死亡事故の報道写真を14回反復し、その隣に同色の空白画面を置いた《Death and Disaster》の代表作。悲惨なイメージが反復によってパターン化し、衝撃と麻痺が同時に生じます。
ブリロ・ボックス(ソープ・パッド)
Brillo Box (Soap Pads) / 1964 / ポリ酢酸ビニル、シルクスクリーン・インク・木 / 43.3 × 43.2 × 36.5 cm
The Museum of Modern Art, New York
1964年のステイブル・ギャラリーで商品箱のように積み上げられた木製彫刻。木工職人が合板箱を制作し、ウォーホルと助手が塗装・シルクスクリーンの工程を進めました。既製品そのものを選んだデュシャンのレディメイドと比較され、美術作品と商品の外見上の区別を問い直す作例です。
スクリーン・テスト
Screen Tests / 1964–1966 / 16mmフィルム、白黒、サイレント / 撮影約3分/上映約4分、シリーズ
The Andy Warhol Museum, Pittsburgh
固定カメラで人物を無言のまま撮影した16ミリの肖像映画。撮影はフィルム1巻分の約3分、映写速度を落とした上映では約4分です。ホイットニー美術館の研究では472の撮影肖像が確認されており、1966年にマルセル・デュシャンを撮影した作品も含まれます。
自画像
Self-Portrait / 1966 / シルクスクリーン・インク、合成樹脂塗料・カンヴァス、9点組 / 各 57.2 × 57.2 cm/全体 171.7 × 171.7 cm
The Museum of Modern Art, New York
9枚の正方形キャンバスに自身の顔を反復。映画スターや著名人と同じ複製技法で自分自身を扱い、作家自身のペルソナも流通するイメージへ変えています。
マオ
Mao / 1972 / シルクスクリーン、10点組 / 各 91.4 × 91.4 cm
The Museum of Modern Art, New York
毛沢東の公式肖像をもとにした10点の版画ポートフォリオ。政治的プロパガンダとして大量流通していた顔を、鮮やかな色彩と反復によってスター肖像と同じ視覚システムへ移しています。
最後の晩餐
The Last Supper / 1986 / シルクスクリーン・インク、アクリル・カンヴァス / 302.9 × 668.7 cm
The Museum of Modern Art, New York
レオナルド・ダ・ヴィンチ《最後の晩餐》の複製図版を素材とした最晩年の大画面作品。1986年にさまざまな大きさと配色の関連作が数多く制作され、1987年初めにミラノで発表されました。ウォーホルのビザンティン・カトリック信仰と、画像の再複製という一貫した制作方法の双方から研究されています。
ファクトリーで絵画、映画、音楽が交差する
アンディ・ウォーホルとエルジェ、ファクトリーにて(1972年)
銀色のスタジオと新しい共同制作
1963年末から1964年にかけて、ウォーホルはマンハッタン東47丁目231番地のスタジオを拠点にしました。ビリー・ネイムが銀色の塗料やアルミ箔で内装を変えた空間は、やがて「ファクトリー」として知られるようになります。ジェラード・マランガ、写真家、映画出演者、詩人、音楽家、訪問者たちが集まり、キャンバスへの印刷、映画の撮影、社交が同じ場所で進みました。
制作を手伝ったジェラード・マランガは詩人でもあり、画面への印刷、映画出演、写真撮影など複数の活動に関わりました。ビリー・ネイムは銀色の空間を設え、訪問者を記録しました。スタジオには映画監督、モデル、音楽家、友人が出入りしました。こうした人々の仕事を一括して「ウォーホルが一人で作った」としてしまうと、ファクトリー特有の環境と作品の成立過程が見えにくくなります。
写真を選ぶ、スクリーンを製版する、下地を塗る、刷る、乾燥させる、記録するという工程には、ウォーホル本人のほか複数の協力者が関わりました。ファクトリーという名前が示す大量生産の印象と、実際に出入りした個人の多様性は、この場所の二つの特徴です。作品の制作履歴を調べる際には、誰が撮影し、刷り、出演し、展示を準備したかを区別する必要があります。(参照:ウォーホル美術館 | ファクトリーの形成)(参照:ホイットニー美術館 | 共同制作と活動環境)
《スリープ》と《エンパイア》が見せる時間
ウォーホルは1963年に16ミリ映画の撮影を始めました。《スリープ》では詩人ジョン・ジョルノが眠る姿を長時間にわたって撮影し、《キス》ではさまざまな人物のキスを連続して映しました。1964年の《エンパイア》は、夜のエンパイア・ステート・ビルディングを固定カメラで撮った作品です。商業映画のような物語上の事件や頻繁な場面転換が少なく、人物の小さな動きや建物の光の変化を見る時間が長く続きます。
《スリープ》は撮影された眠る身体が繰り返し映る作品で、一定の時間をそのまま記録した映像とは上映の構成も異なります。《エンパイア》では同じ建物の輪郭と夜景の光の変化が長時間持続します。映画のストーリーを追うことに慣れた観客は、物語の進展より、映像そのものがどのように時間を占めるかを経験することになります。
《エンパイア》の上映時間はフィルムを毎秒16コマで映す場合に8時間を超えます。絵画で同じ写真を何度も見せたウォーホルは、映画ではほぼ同じ光景を長く見続ける経験を作りました。映画史の観点では、撮影、映写速度、観客の集中力をそれぞれ問う実験にもなりました。(参照:ホイットニー美術館 | ウォーホル映画研究プロジェクト)(参照:ホイットニー美術館 | 映画の上映と解説)
《スクリーン・テスト》に写った人々
1964〜1966年の《スクリーン・テスト》では、スタジオにやって来た俳優、芸術家、作家、友人たちを、動かないカメラの前に座らせて撮影しました。16ミリフィルム1巻の撮影時間は約3分で、一般に遅い速度で上映されるため約4分間の肖像になります。カメラに向かって沈黙する人物は、まばたき、視線の逸れ、表情の変化を隠しきれません。静止写真とは異なる、時間を含んだ肖像です。
撮影された人物には、ルー・リード、ニコ、イーディ・セジウィック、マルセル・デュシャンなど、後に名の知られた人物も含まれます。固い表情でカメラを見つめる人もいれば、笑ったり視線を外したりする人もいます。同じ撮影条件が、モデルの性格やその日の状態によって異なる結果を生むという点で、ウォーホルのシルクスクリーン肖像にも通じる作品群です。
ホイットニー美術館の研究では、このシリーズに472の撮影肖像が確認されています。ウォーホルが1966年にデュシャンを撮った作品もその一つです。誰をカメラの前に座らせたかという選択によって、ファクトリー周辺の人物関係をたどる資料にもなっています。初期のスター肖像で既存の写真を使っていた画家が、ここでは自分のカメラで人物の像を作りました。(参照:ホイットニー美術館 | スクリーン・テスト472本の研究)(参照:スミソニアン国立肖像画美術館 | デュシャンの肖像映画)
《チェルシー・ガールズ》と地下映画の観客
1966年の《チェルシー・ガールズ》では、二つの映像が並んで映され、異なる部屋や人物の場面が同時に進みます。画面を二分する上映形式によって、観客はどちらの人物に注目するかを自分で選ぶことになります。撮影された出演者たちは俳優に限られず、ファクトリーに集まる人物たちの言葉や振る舞いも作品になりました。
《チェルシー・ガールズ》に登場する人物には、ニューヨークのアンダーグラウンド文化に関わった人々が含まれます。商業映画がスターを遠い存在として見せるのに対し、ファクトリーの映画では、撮影に居合わせた人物の時間や即興的な振る舞いが作品となりました。上映形式と出演者の選択の両方が、映画という媒体で可能な肖像表現を変えたのです。
ウォーホルの映画は1963〜1968年に約650本制作されたとホイットニー美術館の研究プロジェクトは説明しています。映画作品の大部分は長く公開されず、1980年代以降、MoMAやホイットニーなどの協力によって保存・調査が進められました。今日の作品理解は、上映当時の反響だけでなく、フィルム目録と保存修復の研究によって支えられています。(参照:ホイットニー美術館 | 映画目録と保存研究)(参照:ウォーホル美術館 | 映画・映像コレクション)
ヴェルヴェット・アンダーグラウンドと公演
ウォーホルは1960年代半ば、ロックバンド「ヴェルヴェット・アンダーグラウンド」と関わり、歌手ニコの参加を支援しました。1966年に展開した《エクスプローディング・プラスティック・イネヴィタブル》では、生演奏、映画の投影、照明、踊る人々が同じ空間に重ねられました。絵画の一面へ印刷した複数の画像が、実際の会場では映像と音と人の動きとして広がりました。
ジャケットに描かれたバナナの黄色い図柄は、音楽そのものとは別の入口として多くの人に記憶されました。視覚イメージが音楽作品の外装となり、さらに作家の名前と結び付いて流通する仕組みです。ウォーホルが音楽家として楽器を演奏したという説明とは区別して、制作協力、舞台演出、プロモーションという具体的な役割を見る必要があります。
バンドのデビュー・アルバム『ヴェルヴェット・アンダーグラウンド&ニコ』には、ウォーホルのバナナの図案が使われました。レコード・ジャケットは1950年代にも手がけていた仕事ですが、ここでは音楽、人物の売り出し方、ライブの演出までが結び付きます。美術館の展示空間と、音楽を聴く場所の境界を横断した活動でした。(参照:ウォーホル美術館 | 音楽・映像・ファクトリーの活動)(参照:ストックホルム近代美術館 | ウォーホル略伝)
《シルバー・クラウズ》と動く彫刻
1966年の《シルバー・クラウズ》では、銀色に輝く風船状の物体がヘリウムと空気によって会場に浮かび、人が近づくとゆっくり位置を変えます。同じ年の《牛の壁紙》では、鮮やかな牛の頭部が壁面に繰り返し印刷されました。商品やスターの肖像と同様の反復が、鑑賞者の身体を取り囲む展示環境に移った例です。
《シルバー・クラウズ》の金属的な輝きは、銀色に整えられたファクトリーの空間とも響き合います。光を反射する浮遊物は鑑賞者の視点に応じて形を変え、時には人の手で押されて動きます。ポップ・アートが扱った大量生産の形や素材が、壁の外へ飛び出し、観客の身体と直接関わる作品になりました。
銀色の浮遊物はキャンバスを壁に固定する絵画とは動き方が異なり、空気の流れや来場者の動作によってその都度配置が変わります。シルクスクリーンの画面で生じた反復と偶然的な違いが、室内の空間と時間を使う作品にも現れました。(参照:ストックホルム近代美術館 | 《シルバー・クラウズ》と《牛の壁紙》)(参照:ホイットニー美術館 | 絵画から空間への展開)
銃撃事件を経て変化する生活と仕事
アンディ・ウォーホルを撃った女
1968年6月3日、アンディ・ウォーホルはニューヨークにある伝説的なファクトリーに足を踏み入れた。彼を待ち受けていたのは、ウォーホルが自分の作品を盗んだと信じていた急進的な作家、ヴァレリー・ソラナスだった。数分後、彼女は銃を取り出し、ウォーホルを撃った。ウォーホルは一命を取り留めたものの、この襲撃によって彼は一生消えない傷を負い、彼の人生、そしてファクトリーの運命は永遠に変わってしまった。この「セッション7」のエピソードでは、スコット・ライトがヴァレリー・ソラナスの驚くべき実話、アンディ・ウォーホルとの関係、彼女がその日の午後ファクトリーに向かった動機、銃撃事件そのもの、そしてその後二人に何が起こったのかを語る。これは現代美術史における最も奇妙で暗い章の一つである。
ファクトリーで起きた銃撃事件
1968年6月3日、ウォーホルは作家ヴァレリー・ソラナスにファクトリーで銃撃され、重傷を負いました。救命手術と入院を経て生還しましたが、その後も身体には大きな傷跡が残りました。事件後、スタジオへの出入りの仕組みや、ウォーホルを取り巻く人々との距離は変化していきます。
ウォーホルは事件後も制作、販売、出版を続けました。銃撃による傷は、のちに撮影された胴体の写真にも現れています。同時期の仕事には、注文肖像の拡大やメディア企業との協力もあり、スタジオ運営の変化には複数の事情が関わっていました。
以前の銀色のファクトリーで形成された自由な交流は、映画の撮影と社会的な注目の高まりのなかで徐々に別の形になっていました。事件はその変化を加速させました。ウォーホルは作品制作を続け、1970年代には肖像画、出版、写真、テレビなどを事業としても展開していきます。銃撃後の制作を単純な衰退期と考える見方は、近年の回顧展研究によって再検討されています。(参照:ウォーホル美術館 | 銃撃事件とその後)(参照:ホイットニー美術館 | 後半生の制作を再評価する回顧展)
雑誌『インタビュー』と著名人の会話
1969年、ウォーホルは雑誌『インタビュー』を共同創刊しました。映画、音楽、ファッション、美術などの分野で活動する人々の会話を掲載し、のちにはセレブリティ文化を伝える媒体として知られるようになります。彼が以前から関心を寄せていた著名人の顔や発言が、絵画だけでなく定期刊行物を通じて流通するようになりました。
ウォーホルは会話を録音し、日常の出来事を記録することにも熱心でした。1975年には『アンディ・ウォーホルの哲学』を刊行しています。作品について説明する本人の発言も、会話、録音、編集、出版の工程を経て社会へ出ていきました。彼の人物像を理解するためには、出版物やメディアへの出演が絵画制作と同じ時期に続いていた事実が重要です。(参照:ウォーホル財団 | 出版・制作活動の概要)(参照:ストックホルム近代美術館 | 雑誌と録音の活動)
銀髪の作家像と《自画像》
ウォーホルは銀色のかつら、サングラス、控えめな受け答えで知られるようになりました。映画スターを描くときに利用した顔の加工や反復を、自分自身の肖像にも応用しています。MoMA所蔵の1966年の《自画像》は9枚の正方形キャンバスで構成され、同じ顔が異なる色彩で並びます。
仕事の工程から画家本人の筆跡を後退させた時期に、ウォーホル自身の見た目は強い社会的な記号になりました。名声を得た後には、人々が「アンディ・ウォーホル」という作家をどのように見るかも制作の一部になっていきます。晩年の自画像では、かつらの立ち上がった輪郭と暗い背景が組み合わされ、初期の格子状肖像とは異なる不気味な印象を生みます。(参照:MoMA | 《自画像》(1966年))(参照:メトロポリタン美術館 | 晩年の《自画像》(1986年))
毛沢東から依頼肖像へ、顔を商品にする
アンディ・ウォーホルの毛沢東|半世紀の芸術を代表するアイコン|ガゴシアン
毛沢東の公式肖像を色彩で変える
1972年、ウォーホルは中国の政治指導者・毛沢東の肖像シリーズに着手しました。原画像には、中華人民共和国で広く流通していた公式肖像が使われました。顔の輪郭と髪形を残しながら、派手な青、黄、赤、緑などを重ね、時には筆で絵具を加えています。1960年代の映画スターの画像と同じく、社会に知られたひとつの顔から複数の作品を生みました。
毛沢東の肖像は、当時の中華人民共和国の印刷物で広く流通した顔であり、国家を代表する権威的なイメージでもありました。1972年にはニクソン大統領が中国を訪問し、米中関係が注目を集めています。作品の色彩や反復は映画スターの肖像にも共通するものですが、モデルの社会的な役割は大きく異なります。政治的な図像を大画面で扱う際に、ウォーホルが参照したのは、すでに多くの人が知る顔を再び印刷するという方法でした。
肖像のサイズは小さな版画から巨大なキャンバスまでさまざまです。政治的権威の象徴が、化粧を施したような鮮やかな顔へ変わり、壁面で強い存在感を持ちます。ウォーホルが政治的理念をどの程度表明していたかは作品の色だけでは決まりません。公的に流通した権力者の顔が、絵画の反復と色彩変更を通して新しい画像へ生まれ変わる過程が作品の具体的な特徴です。(参照:ウォーホル美術館 | 毛沢東シリーズと後半生)(参照:MoMA | 《マオ》(1972年))
有名人の注文肖像と仕事の仕組み
1970年代以降、ウォーホルは実業家、俳優、音楽家、社交界の著名人から肖像画を依頼されるようになりました。モデルをポラロイドで撮影し、写真を選んで版に変換し、色を組み合わせてキャンバスへ刷ります。マリリンの映画宣伝写真を利用した初期作と比べると、ここではウォーホル自身が肖像の元になる写真を撮ることが増えました。
依頼肖像は重要な収入源となり、彼のビジネス上の活動とも結び付きました。注文を受けるという仕組みは伝統的な肖像画にも見られます。ウォーホル独自の特徴は、複数の色彩案を容易に作れる写真製版と、作家の名前を含めた社会的なブランドが同時に働いたことです。彼は富裕層の肖像を商品として扱うことを隠さず、自分の商業活動を語る際にも積極的でした。(参照:ウォーホル美術館 | 依頼肖像と制作)(参照:ホイットニー美術館 | 商業と芸術を横断する制作)
《レディース・アンド・ジェントルメン》とモデルの名前
1974〜1975年、イタリアの画商ルチアーノ・アンセルミーノからの注文により、ウォーホルは《レディース・アンド・ジェントルメン》を制作しました。スタジオの協力者がニューヨークのバーなどでモデルを探し、黒人やラテン系のドラァグ・パフォーマー、トランス女性らがポラロイド撮影に応じました。ウォーホルは顔を鮮やかな色で塗り、シルクスクリーンと手描きの筆触を重ねています。
この連作では、制作上の判断の多くをウォーホルと周囲の協力者が行いました。モデルには撮影への謝礼が支払われ、作品は別の場所で高額な商品として流通しました。ホイットニー美術館の近年の解説は、当時のモデルが社会的に置かれた状況、肖像への本人たちの関与、作品が美術市場で受容された経緯を検討しています。華やかな画面の表面だけから制作関係を読み取ることはできず、モデルの記録と受容史が重要になります。
制作当時、肖像のモデルの名前は作品とともに十分に伝えられませんでした。のちの調査によって、マーシャ・P・ジョンソンやヘレン・モラレスらが特定されています。メトロポリタン美術館とホイットニー美術館の近年の解説は、モデルが受け取った謝礼や、作品が販売された美術市場との経済的な隔たりにも触れています。顔の魅力的な色彩だけでなく、誰が撮られ、誰が作品を所有し、名前がどのように記録されたかも作品の歴史に含まれます。(参照:メトロポリタン美術館 | 《レディース・アンド・ジェントルメン》)(参照:ホイットニー美術館 | モデルの表象と受容)
写真、録音、収集で日常を記録する
ポラロイドと日常のスナップ写真
ウォーホルは人物の肖像制作にポラロイドを使い、日常では35ミリのカメラで友人、街角、飲食店、パーティー、訪問者を撮りました。1976年以降に撮影した白黒写真だけでも十数万点規模の記録が残されています。完成した絵画の元画像、日記の代わりになる生活記録、知人との交流の記念という複数の役割を持つ写真です。
1970年代以降のポラロイドには、多くのモデルが正面や斜めから撮られた顔を残しています。写真が複数枚ある場合、同じ人物の表情や角度のどれを作品に採用したかという判断を比較できます。1980年代には大判ポラロイドや写真の縫合など、写真自体を展示作品として扱う方法も試しました。絵画のための素材と、完成した写真作品の境界が行き来されています。
モデルを撮影したポラロイドは絵画へ拡大され、日常のスナップはそのまま膨大な写真群として残りました。ウォーホルの視覚表現は、既存の報道写真を再利用するだけで完結しません。本人が継続的に写真を撮り、画像を蓄積する活動も並走していました。(参照:ウォーホル財団 | 写真資料の収蔵と研究)(参照:ホイットニー美術館 | 写真作品の展開)
箱に封じた日常の資料《タイム・カプセル》
1974年、スタジオの移転を契機に、ウォーホルは身の回りの物を段ボール箱に入れて保管するようになりました。手紙、写真、新聞の切り抜き、領収書、雑誌、土産物、業務記録などが箱に収められ、満杯になると閉じて日付や題名を記しました。この活動は《タイム・カプセル》として知られ、死去までに610箱に及びました。
箱に入れられた物品には、名の知れた人物の手紙と、すぐに捨てられてしまう広告やレシートが同じように含まれています。価値や知名度の異なる物を一緒に保管する点は、商品と有名人の画像を絵画へ並べた制作方法とも関連して考えることができます。保存された箱の内部を調べる研究は、作品の元となった図版、スタジオの日々の活動、ウォーホルが関わった人々の関係を明らかにします。
大量に届く情報や物品を整理して保存する行為は、ウォーホルが暮らした時代の視覚文化を調べる重要な史料を生みました。完成作の裏側にあった広告、写真、交友関係、日常の出来事が、後世の研究者によって確認できるからです。作品画像だけでは捉えきれない生活と制作のつながりが、箱の内容に残っています。(参照:ウォーホル美術館 | 《タイム・カプセル》と610箱の資料)(参照:ウォーホル美術館 | 日常資料のアーカイブ)
テレビ番組の制作と映像の流通
1970年代末からウォーホルはテレビ番組の制作にも力を入れました。『ウォーホルズ・ファッション』や『アンディ・ウォーホルズTV』にはファッション、芸能、著名人との対話が登場し、1980年代にはMTVで『アンディ・ウォーホルズ・フィフティーン・ミニッツ』が放送されました。映像、新聞、雑誌を扱ってきた彼の活動が、家庭のテレビ画面に届くようになります。
ホイットニー美術館の回顧展資料では、1979年から死去までに42回分のテレビ番組が制作されたと記録されています。映画館で上映する実験映画とは放送環境も観客層も異なります。ウォーホルは、媒体が変わるたびにイメージを作る方法と、その届け方を変えていきました。(参照:ホイットニー美術館 | テレビ・出版事業)(参照:ウォーホル財団 | メディアを横断する活動)
抽象絵画へ戻り、巨大な色面を作る
《酸化絵画》の化学反応と身体
1977〜1978年頃、ウォーホルは金属顔料を含む下地の上で化学反応を起こす《酸化絵画》を制作しました。銅の顔料などを塗ったキャンバスに尿を落とすと、成分に反応して緑、黒、茶色などの痕跡が現れます。ウォーホル自身や助手、訪問者が制作に参加し、滴下する量や成分によって異なる模様が生まれました。
一見するとポロックの滴下絵画を思わせる全面的な模様ですが、筆や棒で絵具を垂らす代わりに、身体と金属の化学反応で色が生まれます。ウォーホル美術館は保存修復の研究で、当時の材料と工程を調べ、反応の再現実験を行いました。制作後の表面が環境条件によって変化する問題も報告されており、絵具の物質性を考えるうえで重要な作品です。(参照:ウォーホル美術館 | 《酸化絵画》の保存科学研究)(参照:ホイットニー美術館 | 《酸化絵画》(1978年))
102枚がつながる《シャドウズ》
1978〜1979年の《シャドウズ》は、同じ大きさの102枚のキャンバスからなる巨大な連作です。画面には強い明暗差のある影のような形が印刷され、地の色は青、黄、赤、緑、紫などさまざまです。各作品は縦約193センチ、横約132センチ。ディア美術財団は全体を「多くの部分からなる一つの絵画」として扱い、展示空間の大きさに合わせて使用する枚数と並びを決めています。
《シャドウズ》は、設置する場所の壁の長さによって一度に展示できる枚数が変わります。ディア美術財団は、全102枚を一括して固定配置するのではなく、展示室に合わせて構成を調整してきました。作品の色と配置の連続は、観客が歩くことで経験されます。個々のキャンバスを一枚ずつ鑑賞する方法から、長い空間のなかで変化を見ていく方法へ、鑑賞の時間も変わります。
《キャンベル・スープ缶》が商品ごとに区別できる32枚だったのに対し、《シャドウズ》の画像は輪郭の曖昧な暗い形です。写真由来の版を反復しつつ、大きな色面にはモップや刷毛で絵具が塗られています。鑑賞者が壁沿いに歩くと、色と形が繰り返し変化する長い帯のような経験になります。写真、絵画、シルクスクリーン、展示空間の関係が新しく組み立てられた作品です。(参照:ディア美術財団 | 《シャドウズ》(1978〜79年))(参照:ディア美術財団 | 《シャドウズ》の展示と構成)
《ロールシャッハ》と《カモフラージュ》
1980年代には《ロールシャッハ》や《カモフラージュ》など、抽象的なイメージを中心にした作品も制作しました。前者はインクを折りたたんだ画面に転写したような左右対称の模様を巨大化し、後者は迷彩柄を大きな色面として絵画に広げます。どちらも画家が自由に描いた非具象形態という印象を持ちながら、既存の視覚システムや転写の仕組みから形が生まれています。
初期には商品広告や報道写真という見慣れた画像を使ったウォーホルが、晩年には「抽象画らしい形」も既存の型から見いだしました。《シャドウズ》では展示室を横断する長さ、《カモフラージュ》では周囲に溶け込むための模様そのものが主題となり、色と形をめぐる試みが続いていきます。(参照:ミルウォーキー美術館 | 晩年の抽象絵画)(参照:ホイットニー美術館 | 後期絵画の再検討)
若い芸術家との共同制作と晩年の肖像
バスキアと同じキャンバスを描く
1980年代初頭、ウォーホルはジャン=ミシェル・バスキアやキース・ヘリングら若い芸術家と交流しました。バスキアとは1984〜1985年頃、多数の共同絵画を制作しています。ウォーホルが企業ロゴや報道写真、単純な図柄を画面へ入れると、バスキアが人物、文字、線を描き足し、二人の作業が交互に進みました。
バスキアとの共同制作に先立ち、フランチェスコ・クレメンテを交えた三人の共同作業もありました。バスキアとウォーホルは、企業広告や看板のような記号を使いながら、手描きの人物像、単語、塗り潰しを加えました。1960年代のように他人が補助工程を担うだけの制作と比べると、双方が独自の画家として画面の主導権を持ち、作品の見た目を互いに変えていく仕事でした。
《パラマウント》では、企業ロゴの規則的な印刷と、バスキアの力強い筆触や文字が同じ画面に重なります。ウォーホルは1960年代には筆跡を目立たせない印刷画面を追究しましたが、共同制作では手描きの操作が再び重要になりました。二人の作品には競争や緊張も生まれ、共同制作の過程が単なる分業以上の関係だったことをホイットニー美術館の資料は伝えています。(参照:ウォーホル美術館 | バスキアとの共同制作)(参照:ホイットニー美術館 | 《パラマウント》(1984〜85年))
晩年の《自画像》と死をめぐる視線
1986年の自画像には、髪が逆立ったようなかつらと暗い背景が特徴的なものがあります。顔は強いコントラストで浮かび、黒い背景に身体が溶け込むため、頭部だけが宙に現れたように見えます。初期の《自画像》にあった明るい格子状の並びから、晩年には顔を単独で大きく提示する作品へと変わりました。
ウォーホルは1986年、自分の写真を縫い合わせた作品も制作しています。1968年の銃撃事件で負った身体の傷と結び付けた解釈は美術館の研究に見られますが、作品の陰影や縫い目については、実際の制作材料と関連作品を照合しながら読む必要があります。作家の顔が長年にわたって商品広告のように流通し続けた事実と、後年の自画像に現れる陰影や身体の扱いを区別して見る必要があります。(参照:メトロポリタン美術館 | 晩年の《自画像》)(参照:メトロポリタン美術館 | 縫い合わせた自画像)
宗教画《最後の晩餐》と最晩年
レオナルドの複製画像を再び複製する
1984年頃、画商アレクサンダー・イオラスは、レオナルド・ダ・ヴィンチの《最後の晩餐》を素材にした作品をウォーホルへ依頼しました。1986年、ウォーホルは絵画、版画など数多くの《最後の晩餐》作品を制作します。元画像には、レオナルドの壁画そのものから直接写し取ったものばかりでなく、版画や美術書を通して複製された図版も含まれていました。
原作の《最後の晩餐》は、キリストと十二使徒が横長の空間に座るレオナルドの壁画です。ウォーホルの作品では、その構図が写真や印刷物に由来する強い輪郭へ変換され、重ね刷りによって細部が失われることもあります。ある作品では同じ絵を繰り返して大画面を満たし、別の作品では企業ロゴや迷彩模様が宗教画の上に重なります。二つの異なる図像の混在を、本人の信仰告白に単純化せず、使用した原画像と制作工程から読み解く必要があります。
画面にはキリストと弟子たちの姿が繰り返し現れ、ある作品では二つの《最後の晩餐》が横に並び、別の作品では企業ロゴや迷彩柄が重ねられています。宗教画として古くから知られる構図が、新聞写真や映画スターと同様に、社会で繰り返し複製されたイメージとして使用されました。ウォーホル自身のビザンティン・カトリック信仰との関係も、近年の研究で改めて論じられています。(参照:ウォーホル美術館 | 信仰と《最後の晩餐》の研究)(参照:MoMA | 《最後の晩餐》(1986年))
ミラノでの展覧会と死
1987年初め、ミラノで《最後の晩餐》関連作品の展覧会が開催されました。会場のパラッツォ・デッレ・ステッリーネは、レオナルドの壁画があるサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ修道院の近くです。会場へ集まる観客は、長く模写と複製を通じて知られてきた名画を、ウォーホルの新たな作品として見ることになりました。
ウォーホル美術館の研究は、作品に使われたレオナルドの図像が、19世紀以降の版画や美術書に媒介されていた点を重視しています。最晩年の展覧会で示された作品は、世界的に知られた宗教画を新たに印刷したもので、戦後の広告写真を転用してきた仕事の延長に位置します。作品が発表されたミラノという場所も、レオナルドの原作と鑑賞者を結び付ける特別な条件でした。
同年2月22日、ウォーホルはニューヨークで胆嚢手術後の合併症により58歳で亡くなりました。最後の大規模な絵画制作には、若い頃から続けてきた宗教文化への接触と、既存画像の選択・複製という方法が重なっています。死後には財団が設立され、作品、写真、映画、手紙、スタジオ資料の保存と研究が続けられています。(参照:ウォーホル美術館 | ミラノ展と《最後の晩餐》)(参照:ウォーホル美術館 | 晩年と死去)
死後に進んだ作品研究と保存
美術館と財団が保存する膨大な制作
ウォーホルの死後、遺言に基づいてアンディ・ウォーホル視覚芸術財団が設立されました。1994年には生地ピッツバーグにアンディ・ウォーホル美術館が開館しています。美術館は絵画、彫刻、版画に加えて、映像、写真、日常の記録を収蔵・研究しています。作品の社会的な流通を扱った作家の仕事が、今度は膨大なアーカイブとして後世に残されました。
ウォーホル財団が支援するカタログ・レゾネでは、同じ図柄を用いた作品が制作時期、材料、展示、所有の履歴によって整理されています。大量の版画や、助手を含むスタジオで生まれた絵画には、それぞれの資料を照合する作業が必要です。さらに、映画や写真は作品を上映・複製するときの条件まで研究対象になります。作家の活動が幅広かったため、研究者や保存修復家が扱う資料も多岐にわたります。
財団が支援するカタログ・レゾネは、1960年代から1980年代の作品を順次記録し、個々の作品の制作材料、来歴、展示、研究史を整理しています。作品数の多さと助手による制作は、作品の同定や版の状態を調べる重要性も高めました。1960年代に生まれた実験を考えるためには、完成作品の画像に加えて制作・保存・流通の史料を読むことが不可欠になっています。(参照:ウォーホル財団 | 設立と美術館の歴史)(参照:ウォーホル財団 | カタログ・レゾネの研究)
再検討される映画、写真、後期絵画
1980年代以降、MoMA、ホイットニー美術館、ウォーホル財団、ウォーホル美術館は、1960年代の映画の保存や目録編纂に協力してきました。2018〜2019年のホイットニー美術館の大回顧展では、商業イラストレーション、初期ポップ絵画、映画、写真、1970年代の抽象画、晩年の作品を横断して展示し、銃撃事件後の制作の活発さを改めて明らかにしました。
同じ画像を何度も利用するウォーホルの方法は、写真の引用、広告、映像、デジタル画像が入り交じる今日の制作とも比較されています。当時の写真製版の工程、映画の撮影条件、紙媒体による流通を詳しく調べることによって、現在の画像編集との共通点や違いを具体的に考えられます。(参照:ホイットニー美術館 | ウォーホル映画の保存研究)(参照:ホイットニー美術館 | 大回顧展の研究成果)
略年譜
- 1928
- 8月6日、ピッツバーグのカルパト・ルーシン系移民家庭に生まれる。
- 1945–1949
- カーネギー工科大学で図案設計を学ぶ。
- 1949
- ニューヨークへ移住。雑誌や広告のイラストレーションを始める。
- 1950年代
- 靴の広告、転写線画、手作り本を制作。商業イラストレーターとして成功。
- 1956
- 世界旅行の途中に初来日。
- 1961
- ボンウィット・テラーのショーウィンドウに絵画を展示。漫画・広告を題材にした絵画を制作。
- 1962
- ロサンゼルスで《キャンベル・スープ缶》32点を発表。写真製版シルクスクリーンを導入し、マリリンの肖像を制作。
- 1963
- 5月にニューヨークでデュシャンに紹介され、10月にパサデナの回顧展で再会。《死と惨事》作品群を展開。映画撮影を始め、ファクトリーの活動が発展。
- 1964
- 《ブリロ・ボックス》《花》を発表。万国博覧会の《13人の最重要指名手配犯》が銀色に塗りつぶされる。
- 1964–1966
- 多くの人物を撮影した《スクリーン・テスト》を制作。
- 1965
- ニューヨークのデュシャン展で本人を撮影。
- 1966
- 《チェルシー・ガールズ》、音楽・映像公演、《シルバー・クラウズ》などを展開。デュシャンのスクリーン・テストを撮影。
- 1968
- ヴァレリー・ソラナスに撃たれ、重傷を負う。
- 1969
- 雑誌『インタビュー』を共同創刊。
- 1972
- 毛沢東の肖像シリーズを制作。依頼肖像の仕事が拡大。
- 1974–1975
- 《レディース・アンド・ジェントルメン》制作。1974年に《タイム・カプセル》の収集を開始。
- 1977–1978
- 《酸化絵画》を制作し、化学反応と身体による抽象表現を試みる。
- 1978–1979
- 102枚からなる《シャドウズ》を制作。
- 1980年代前半
- 《ロールシャッハ》など抽象絵画を制作し、テレビ制作も展開。
- 1984–1985
- ジャン=ミシェル・バスキアとの共同絵画を多数制作。
- 1986
- 《最後の晩餐》の作品群と晩年の《自画像》を制作。
- 1987
- ミラノで《最後の晩餐》関連作を発表。2月22日にニューヨークで死去。
まとめ
ウォーホルの活動をたどると、1950年代の商業イラストレーションで確立した「図像を作り、写し、配る」という仕事が、スープ缶の絵画、映画スターの肖像、報道写真の反復、ファクトリーの共同制作へと変化していったことが分かります。《キャンベル・スープ缶》の手描きの均質さと、その後のシルクスクリーンの濃淡やずれには、同じ図柄を何度も制作することへの継続した関心があります。
デュシャンが既製品を美術の場に置いて提起した問いは、《ブリロ・ボックス》で新しい形を取りました。ウォーホルは既製品そっくりの物をわざわざ制作し、商品が積まれた倉庫に似た場所を画廊につくりました。1963年の対面、1965年の撮影、1966年の肖像映画が示すように、二人は実際に交流しています。作品を比較することで、既製品を選ぶことと、その外観を大量に作り直すことの差も見えてきます。
ウォーホルの後半生では、映画や出版だけでなく、《シャドウズ》のような巨大な抽象画、バスキアとの共同制作、宗教的な《最後の晩餐》にも関心が向かいました。その全体を通じて、既存の画像が誰の手を経て作品となり、人々の前に現れるのかという問題が、異なる媒体と時代のなかで繰り返し試されています。(参照:ホイットニー美術館 | 生涯を通した作品研究)
Why Andy Warhol retrospective has special resonance in the Instagram age (PBS NewsHour)
参考資料・出典
- 『TIME』(1964年5月15日) | ハーヴェイと《ブリロ・ボックス》
- 京都市京セラ美術館 | ウォーホルの1956年の日本旅行
- アーサー・ダントー(1964年) | 「アートワールド」原論文
- ウォーホル美術館 | 晩年と死去
- ウォーホル財団 | メディアを横断する活動
- ホイットニー美術館 | 生涯を通した作品研究
- アンディ・ウォーホル美術館 | 転写線画の技法
- MoMA | 『失われた靴を求めて』
- JSTOR | 1950年代の画業と刊行物
- ホイットニー美術館 | 初期制作の資料
- MoMA | ウォーホル作品解説
- ホイットニー美術館 | 《グリーン・コカ・コーラ・ボトルズ》
- MoMA | 《S&Hグリーン・スタンプ》
- MoMA | 《キャンベル・スープ缶》(1962年)
- MoMA | 印刷技法と反復
- ウォーホル美術館 | 写真製版シルクスクリーンの工程
- MoMA | 《ゴールド・マリリン・モンロー》(1962年)
- テート | 《マリリン二連画》(1962年)
- MoMA | 《ダブル・エルヴィス》
- ホイットニー美術館 | エルヴィスの肖像
- メトロポリタン美術館 | 《ナイン・ジャッキーズ》
- ホイットニー美術館 | 《129 Die in Jet》
- MoMA | 《オレンジ・カー・クラッシュ・フォーティーン・タイムズ》
- ウォーホル美術館 | 《電気椅子》と「死と惨事」
- メトロポリタン美術館 | 《バーミングハムの人種暴動》(1964年)
- ポモナ大学美術館 | デュシャンとの関係
- Visual Resources(2018年) | 1963年の出会い
- メトロポリタン美術館 | 《Warhol Films Duchamp》(1965年)
- スミソニアン国立肖像画美術館 | デュシャンの肖像映画
- ウォーホル美術館 | 《ブリロ》の制作と展示
- ウォーホル美術館 | 万国博覧会と《13人の最重要指名手配犯》
- メトロポリタン美術館 | 《花》(1964年)
- ホイットニー美術館 | ウォーホル映画の保存研究
- ホイットニー美術館 | 映画の上映と解説
- ホイットニー美術館 | スクリーン・テスト472本の研究
- ウォーホル美術館 | 映画・映像コレクション
- ストックホルム近代美術館 | 雑誌と録音の活動
- MoMA | 《自画像》(1966年)
- メトロポリタン美術館 | 晩年の《自画像》
- MoMA | 《マオ》(1972年)
- メトロポリタン美術館 | 《レディース・アンド・ジェントルメン》
- ホイットニー美術館 | モデルの表象と受容
- ウォーホル財団 | 写真資料の収蔵と研究
- ウォーホル美術館 | 《タイム・カプセル》と610箱の資料
- ウォーホル美術館 | 日常資料のアーカイブ
- ホイットニー美術館 | テレビ・出版事業
- ウォーホル美術館 | 《酸化絵画》の保存科学研究
- ホイットニー美術館 | 《酸化絵画》(1978年)
- ディア美術財団 | 《シャドウズ》(1978〜79年)
- ディア美術財団 | 《シャドウズ》の展示と構成
- ミルウォーキー美術館 | 晩年の抽象絵画
- ウォーホル美術館 | バスキアとの共同制作
- ホイットニー美術館 | 《パラマウント》(1984〜85年)
- メトロポリタン美術館 | 縫い合わせた自画像
- ウォーホル美術館 | ミラノ展と《最後の晩餐》
- MoMA | 《最後の晩餐》(1986年)
- ウォーホル財団 | 設立と美術館の歴史
- ウォーホル財団 | カタログ・レゾネの研究
- ワシントン・ナショナル・ギャラリー | ウォーホルの生涯
- 森美術館 | ウォーホルの生涯と作品
