アド・ラインハート(Ad Reinhardt)は、20世紀のアメリカで、絵画の条件を厳しく絞り込んだ画家です。代表的な黒の絵画は、最初は一面の黒に見えますが、見続けると色のわずかな差と幾何学的な構造が現れます。少ない要素へ向かう制作は、見る経験を少なくすることではありません。何を見るか、どれほどの時間を見るかという問いを、絵画の前へ持ち込みました。
一方、彼は風刺漫画を描き、文章を書き、教育に携わり、社会的な問題にも意見を示しました。静かな黒の絵画だけから、無口で社会と無関係な人物を想像すると、その活動の幅を見落とします。初期の色彩豊かな抽象、コラージュ、単色の絵画、風刺と反戦の仕事を合わせて見ることで、芸術をどのようなものとして守ろうとしたかが見えてきます。
CONTENTS
アド・ラインハートとはどんな画家か
ラインハートは1913年、ニューヨーク州バッファローに生まれました。コロンビア大学で美術史を学び、1930年代から抽象絵画に取り組みます。多くの画家が人物や風景を描くことから出発したのに対し、彼は早い時期から抽象的な構成に関心を持っていました。成熟期の黒の絵画にも、形をどのように配置するかという初期以来の問いが残っています。
抽象表現主義の時代に活動しましたが、激しい身振りや個人的な感情を画面へ直接示すことには批判的でした。筆触を目立たせず、色数や構成を制限し、絵画を外部の物語へ結びつける手がかりを減らします。この選択は、同時代の抽象画がすべて同じ方向へ進んでいたわけではないことを示します。
彼の考えを表す言葉に、「芸術としての芸術」(Art-as-Art)があります。芸術を、政治的な宣伝、文学的な説明、商品としての成功などの目的へ従属させず、芸術そのものの条件で考えようとする姿勢です。ただし、これは本人が政治や社会への関心を持たなかったという意味ではありません。何を絵画の中で行い、何をほかの活動で行うかを、意識的に分けようとしていました。
1960年代の正方形の黒い絵画は、この姿勢を具体的な形式へまとめたものです。大きさと構成を繰り返し、差を最小限に近づけながら、見ることが成立するぎりぎりの条件を探ります。一枚の作品だけでなく、似た形式の複数作を比較すると、反復が彼にとってどのような仕事だったかを考えられます。
美術史を学び、抽象を選ぶ
ラインハートはコロンビア大学で、マイヤー・シャピロのもと、美術史や美学を学びました。1935年の卒業後は、美術学校でも絵画を学びます。技術だけを身につけてから歴史へ関心を持ったのではなく、美術がどのように語られ、何を基準に評価されるかという学びが、早い時期から制作と並んでいました。
1930年代の抽象画を見ると、彼が最初から黒だけを描いていたのではないことがわかります。《無題》(1938)には鮮やかな色と幾何学的な形があり、寒色と暖色の対比が画面を動かしています。後年の抑制された作品を知っていると、こうした色の強さが意外に感じられるかもしれません。
最初から抽象に向き合う
彼の初期作を、具体物の形が少しずつ消える過程として説明する必要はありません。形と色の配置そのものが制作の出発点になります。抽象は、対象を描けないための代案ではなく、何を絵画の主題にするかという選択でした。
小さな《絵画のための習作》(1938)では、グアッシュと切り貼りした紙が使われています。塗る行為と、形を動かして置く行為を組み合わせることで、構成を検討できます。完成した大画面の印象だけから作家を考えるより、こうした小さな試みを見ると、抽象的な関係を具体的に作る仕事が見えてきます。
1937年には、アメリカン・アブストラクト・アーティスツに加わりました。抽象美術を支持する人々との活動は、制作の場と発表の場の両方に関わります。抽象が後に広く知られるようになったことを知っていても、当時、その価値を主張し、展示の機会を作る必要があったことは忘れられません。
彼は1936–1941年に、WPAの連邦美術計画でイーゼル絵画部門の仕事をしました。公共の美術事業との関係がありながら、自身の絵画では抽象を選ぶ。この違いは、活動の条件と作品の形式を一つにまとめずに考えるための手がかりになります。
コラージュと、画面全体へ広がる構成
1940年の《コラージュ》《新聞紙のコラージュ》は、切り貼りした紙で構成されています。既存の印刷物には文字や図像があり、何かを伝えるために作られた情報が残っています。しかし、切って配置し直すことで、その紙は別の画面の一部になります。
見るときは、紙片に何が書かれているかを読む方法と、濃淡、形、重なりを確認する方法の両方があります。文字を読んでいた視線が、あるところで形の配置へ移る。そうした切り替わりを意識すると、既存の情報が構成の材料になる過程を感じられます。
MoMAは《コラージュ》について、画面の端まで広がる構成を紹介しています。中央に主題を置き、その周りを背景にする方法とは異なり、全体へ密度が広がります。後年の単色絵画の簡潔な印象と比べると、多数の要素を使う制作から少数の条件へ向かったことがわかります。
要素を増やすことと、減らすこと
コラージュには、形を重ねるたびに新しい関係が生まれる面白さがあります。一方、黒の絵画では、構成や色の差を限りなく抑えることが重要になります。方向は異なって見えても、画面をどのように組み立てるかという問題は続いています。
初期の材料の多様さを、後年の仕事に不要なものとして扱う必要はありません。紙片の境界を明瞭に見せる作品と、黒の中に境界を沈める作品を比較すると、形を見せる条件そのものが変化していることに気づきます。見える要素の数だけではなく、要素同士の関係がどれほど明確に示されるかを見ることができます。
コラージュは、小さな紙片を扱う手の仕事でもあります。大きな抽象的な構成を考えることと、材料を切り、貼り、位置を調整することがつながっています。芸術についての厳しい言葉だけでなく、具体的な制作の手順があったことを、作品の素材からも確かめられます。
白、青、赤——単色絵画の中の差
1950年代のラインハートは、色を限定した絵画を制作します。白、青、赤の作品を見ると、単色絵画は一種類の色を均一に塗るだけの形式ではないことがわかります。一つの色の範囲を選ぶことで、明るさや透明さ、暖かさと冷たさの差が目立つようになります。
1950年の《第107番》は、白と白に近い地の関係による縦長の画面です。MoMAの解説では、透明な部分と不透明な部分、横方向の筆触が紹介されています。色数が少なくても、塗り方と層の関係が、画面に微妙な構成を作ります。
1952年の《抽象絵画(青)》と《抽象絵画、赤》は、どちらも高さが約2.7メートルの縦長の形式です。同じような縦横比で異なる色を使うと、形式を比較しながら、色が空間の印象へ及ぼす働きを考えられます。青、赤という名称だけでなく、それぞれの内部にある違いへ目を向けてください。
色を限定すると、何が見えてくるか
多くの色がある画面では、大きな対比へ視線が向かいます。近い色だけで構成された画面では、最初は一つのまとまりとして見えても、時間をかけると内部の差が現れる場合があります。色を減らすことは、違いをなくすことではなく、違いを受け取る速度を変える方法になります。
赤の縦長作品について、MoMAは暖かい色と冷たい色が作る前後の感覚を説明しています。対象や遠近法を描かなくても、色同士の関係によって、前へ出るような部分と奥へ退くような部分を感じられます。単色に近い画面にも、見る人が経験する空間があります。
メトロポリタン美術館所蔵の《赤い絵画》は、同じ1952年でも横に広い形式です。赤の作品という共通点だけでまとめず、大きさと縦横比を比べると違いがわかります。縦へ伸びる感覚と、横へ広がる感覚は、同じ色であっても異なる経験を作ります。
筆を使いながら、筆触を抑える
抽象表現主義の絵画には、筆の動きや絵具の跡を強く見せる作品が多くあります。ラインハートは、それとは異なる条件を選びました。筆を使って塗ることと、筆を動かした痕跡を鑑賞の中心にすることは同じではありません。彼は制作の跡を目立たせず、色の関係へ注意を向けようとします。
MoMAは青の作品の解説で、筆触を消すための筆の扱いを紹介しています。制作の技術をなくしたのではなく、技術によって手の痕跡の目立ち方を抑えています。表現の少ない絵画に見えることと、少ない仕事でできた絵画であることは区別する必要があります。
この姿勢を、感情を持たない画家という説明へ直結させることもできません。作品の中で何を示すかという判断と、作家がどのような人物であったかは別の問いです。見る人が画家の身振りを想像する手がかりを減らすことは、絵画の前で起こる視覚の経験を独立させる方法でもありました。
絵具の扱いを考えるときも、厚いか薄いかだけで判断せず、光沢、表面の滑らかさ、色差の見え方を見てください。作品が静かに見えるのは、動きがないからというより、強い痕跡が前に出ないように組み立てられているためかもしれません。そうした見方は、黒の絵画へ近づくためにも役立ちます。
黒の絵画——一面の黒から構造が現れる
1960年代の黒の絵画では、正方形の画面と、三列三段を基礎にした構成が重要になります。MoMA所蔵の1960–1961年と1963年の《抽象絵画》は、どちらも約152.4センチメートル四方です。大きさを繰り返すことで、見る人は作品ごとの派手な形式の違いより、内部のわずかな関係へ向き合います。
最初は黒い正方形として見えても、長く見ると複数の黒が現れ、十字のような構造が感じられます。形は、明るい輪郭線で囲まれていません。色の差が小さいため、明確に見える対象を次々に認識する鑑賞とは異なる時間が必要になります。
黒は一種類ではない
1963年の作品について、MoMAは黒に少量の赤、緑、青を加える方法と、光沢を抑えた表面を紹介しています。黒という一つの言葉の中に、色合いや明るさの異なる状態があります。作品を見るときは、黒の領域を一つの空白として扱わず、近い色の関係がどこで感じられるかを確かめてください。
十字を見つけることを、隠された図形の答え合わせにする必要はありません。構造が現れても、その見え方が常に同じ明瞭さで続くとは限りません。画面全体の黒として見る時間と、内部の区切りとして見る時間が行き来します。作品は、図形を一度認識すれば終わる仕掛けよりも、見え方の微妙な変化を経験する場として考えられます。
十字の構造を宗教的な象徴と決めることにも慎重さが必要です。形から連想することはできますが、その連想と、絵画の構成として使われていることは区別できます。作家が絵画に外部の意味を持ち込むことを避けた姿勢を知ると、形を象徴の説明へ固定せずに見る方法が見えてきます。
ホイットニー美術館所蔵の《抽象絵画》は、1960–1966年という長い制作期間を持ちます。同名の作品でも、支持体や寸法は完全に同じではありません。見た目の類似だけで複数作を一つにまとめず、所蔵館の情報を確認すると、制作の時間と個々の作品の存在が見えてきます。
見る時間と、再現画像の限界
黒の絵画を見る経験には、時間が関わります。これは、何分見れば正しく理解できるという規則ではありません。最初の印象だけでは受け取りにくい差が、注意を向けているうちに現れるということです。わずかな違いへ目を向けるために、鑑賞の速度を変える必要がある場合があります。
再現画像では、その差が伝わりにくくなります。画面の明るさや撮影条件が変わると、黒の内部の構造は強く見えたり、ほとんど見えなくなったりします。画像で一面の黒に見えることを、そのまま作品に差がない証拠にすることはできません。
反対に、画像を加工して内部の区切りを強調すれば作品を正しく理解できる、ともいえません。構造があることを知るためには役立っても、ゆっくり差が現れる作品の経験は変わります。情報として構成を知ることと、作品の前で見ることを分けて考える必要があります。
実物を見る機会があるなら、全体が見える位置でしばらく向き合い、色の差がどこから感じられるかを確認してください。構造が見えにくい場合も、すぐに理解できないことを失敗と考える必要はありません。作品、照明、距離、自分の注意が関わる経験として捉えられます。
風刺漫画、文章、社会への発言
黒の絵画と同じ作者が、美術界を風刺する漫画を描いたことは、ラインハートを知る上で欠かせません。1940年代の新聞『PM』では、美術の見方や芸術家の関係を、言葉と図像を使って鋭く示しました。黙って見ることを求める絵画とは、異なる伝達の方法です。
《アメリカの現代美術をどう見るか》では、美術家の関係を大きな木として描きます。系譜図は単に中立な整理ではなく、どの関係を強調するかという批評を含みます。美術史を学んだ経験と、絵を描く能力、ユーモアが、一つの紙面に結びついていました。
絵画の外で、言葉を使う
彼は文章でも、芸術の条件について強い主張を行いました。1957年の「新しいアカデミーのための十二の規則」は、絵画に何を認め、何を取り除くかを否定的な表現で考える文章として知られています。規則をすべての作家へ適用する制作マニュアルとして読むより、自身の立場を明確にするための強い言葉として読むことができます。
政治的な活動も、黒の絵画からは直接読み取れない面です。1967年の《ノー・ウォー》は、ヴェトナム戦争に反対する版画集に寄せられました。文字を用いた抗議と、外部の目的を避ける絵画が同じ人物の活動にあります。この関係は、単純な矛盾として片づけるより、媒体と目的をどう分けたかを考える問いになります。
絵画を社会的な宣伝に従属させたくないことと、市民として社会へ発言することは、同じ問題ではありません。ラインハートの活動を見ると、純粋な芸術という言葉から社会との完全な断絶を想像することの難しさがわかります。絵画、風刺、文章、抗議を、それぞれの働きに応じて見る必要があります。
主要作品
1930年代の幾何学的抽象から、コラージュ、白・青・赤の絵画、成熟期の黒の絵画、反戦版画まで12点を紹介します。黒の代表作だけでなく、その前にあった色と構成の研究にも目を向けてください。
無題(1938)
Untitled / 1938 / カンヴァスに油彩 / 40.6 × 50.8 cm
ニューヨーク近代美術館(MoMA)
鮮やかな幾何学的な形が灰色の背景と組み合わされた初期作。黒の絵画から受ける印象とは大きく異なり、寒色と暖色の関係が視線を動かします。後の制作を知った上で見ると、色への関心を捨てたというより、色の差を働かせる条件を変えていったことを考えられます。小さな画面にも、抽象的な構成への明確な関心があります。
絵画のための習作(1938)
Study for a Painting / 1938 / 台板に貼った色紙にグアッシュ、切り貼りした紙 / 9.8 × 12.4 cm
ニューヨーク近代美術館(MoMA)
手のひらに近い大きさの習作。塗ることと紙を切り貼りすることを組み合わせ、形と色の配置を検討しています。大型の黒いカンヴァスだけを知っていると見落としやすい、材料を動かしながら構成を考える仕事です。小さな形式だからこそ、一つの形の位置が全体へ及ぼす働きを、まとまりとして確かめられます。
コラージュ
Collage / 1940 / 台板に切り貼りした印刷紙 / 39.8 × 33.6 cm
ニューヨーク近代美術館(MoMA)
印刷された紙を使い、画面の端まで構成を広げた作品。紙片に残る情報と、切り貼りによって作られる配置が同時に存在しています。文字や図像を読む見方から、形の密度と重なりを見る見方へ移ると、既存の印刷物が新しい画面へ変わる過程を感じられます。後年の単色作品との違いも、制作の幅を示しています。
新聞紙のコラージュ
Newsprint Collage / 1940 / 台板に切り貼りした印刷紙、色紙 / 40.6 × 50.8 cm
ニューヨーク近代美術館(MoMA)
新聞紙と色紙を組み合わせたコラージュ。情報を伝える紙が、別の視覚的な関係を作る材料になります。文字の意味を追うことと、紙面の濃淡や配置を見ることを交互に試してください。同年の《コラージュ》と比べると、素材の種類や画面の縦横比が、構成の受け止め方を変えることにも気づけます。
第107番
Number 107 / 1950 / カンヴァスに油彩 / 203.2 × 91.4 cm
ニューヨーク近代美術館(MoMA)
白と白に近い地の差を用いた縦長の絵画。単色という言葉から想像される均一な塗り面とは異なり、透明さと不透明さ、横方向の筆触が微妙な構成を作ります。黒の絵画へ向かう前から、少ない色の範囲に多くの違いを含ませていたことがわかります。見る距離を変え、全体の明るさと内部の区切りを比べたい作品です。
抽象絵画(青)
Abstract Painting (Blue) / 1952 / カンヴァスに油彩 / 275 × 102 cm
ニューヨーク近代美術館(MoMA)
高さが2.7メートルを超える青の絵画。色を限定することで、近い色同士の差と、画面内部の関係が前に出ます。筆を使いながら筆触の目立つ痕跡を抑える仕事にも注目してください。感情を激しい動作として示す抽象とは異なる方法で、絵画の見る経験を組み立てています。赤の縦長作品と比較することもできます。
抽象絵画、赤(MoMA所蔵)
Abstract Painting, Red / 1952 / カンヴァスに油彩 / 274.4 × 102 cm
ニューヨーク近代美術館(MoMA)
赤の微妙な差と格子状の構成による縦長の作品。美術館は、暖かい色が前へ、冷たい色が奥へ感じられる関係を説明しています。単色に近づけることは、空間の感覚をなくすこととは限りません。色の名称がすべて赤であっても、それぞれの領域が同じ働きをしていないことを、境界とまとまりから確かめられます。
赤い絵画(メトロポリタン美術館所蔵)
Red Painting / 1952 / カンヴァスに油彩 / 198.1 × 365.8 cm
メトロポリタン美術館
同じ1952年の赤の絵画でも、こちらは横幅3.6メートルを超える形式です。MoMA所蔵の縦長作品と比較すると、色の限定だけでは作品の経験を説明しきれないことがわかります。横への広がりと内部の関係をたどり、画面を全体として見る位置と、細かな色差を見る位置を往復してみてください。
抽象絵画(1960–1961)
Abstract Painting / 1960–1961 / カンヴァスに油彩 / 152.4 × 152.4 cm
ニューヨーク近代美術館(MoMA)
一見黒い正方形に見える画面の中に、色の差と幾何学的な構造があります。輪郭を強く示さずに形を成立させるため、見始めたときと時間をかけた後では、受け取る情報が変わります。十字の形を見つけても鑑賞は終わりません。その形が現れたり、全体の黒へ戻ったりする微妙な関係を見続けられます。
抽象絵画(1963)
Abstract Painting / 1963 / カンヴァスに油彩 / 152.4 × 152.4 cm
ニューヨーク近代美術館(MoMA)
三列三段の構造と、赤・緑・青を含む黒の差による代表作。滑らかで光沢を抑えた表面は、強い筆触を見せる絵画とは異なる注意を促します。再現画像を明るく加工して形を強調すると、作品の微妙な見え方は変わります。黒の中に何があるかを急いで探すより、見る時間によって差がどう現れるかを感じたい作品です。
抽象絵画(1960–1966)
Abstract Painting / 1960–1966 / 麻布に油彩 / 152.4 × 152.7 cm
ホイットニー美術館
長期間制作された黒の絵画。正方形に近い形式の中に、色、明るさ、表面のわずかな違いがあります。同名のMoMA所蔵作とは別の作品で、支持体も所蔵館の記載では麻布です。似た構成を繰り返すことが、単なる複製ではなく、見る条件を厳しく保ちながら差を確かめる探究であったことを考えられます。
ノー・ウォー
No War / 1967 / 台板に貼った紙にリトグラフ / 紙66.2 × 53 cm/図像28.9 × 8.3 cm
ホイットニー美術館
ヴェトナム戦争への抗議のための版画集に寄せた作品。絵画に外部の目的を持ち込まない姿勢を主張した作家が、別の媒体では言葉を使って反戦の意見を示します。黒の絵画と同じものとして読むより、活動ごとの条件の違いを考えてください。社会と無関係な人物という単純な作家像を見直す手がかりになります。
「最後の絵画」という主張をどう考えるか
ラインハートは黒の絵画を、究極の絵画、最後に描ける絵画として語りました。この言葉を、1960年代以降は誰も絵画を作れないという歴史的な事実として読むことはできません。自分の制作の条件を極限まで絞り込み、それ以上加えるものを認めない姿勢を示す主張です。
彼の作品では、反復が重要になります。新しい色、新しい物語、新しい構図を次々に加える代わりに、似た大きさと構成を保つ。その中で微妙な差を作り、見る経験を確かめます。作品ごとに外見の大きな変化が必要だという考えに対して、別の制作のあり方を示しました。
反復しているから差がないと考えることも、差を見つけなければ価値がないと考えることも、作品を狭くしてしまいます。何を変えずに保つかという選択と、個々の作品を制作する時間の両方があります。近い形式を何度も描くことは、絵画の条件を繰り返し問い直す方法として見られます。
ミニマル・アートとコンセプチュアル・アートへの接点
MoMAの回顧展解説は、ラインハートの制作が、若い世代のミニマル・アートとコンセプチュアル・アートに影響したことを紹介しています。要素を減らすこと、形式を反復すること、芸術の定義を言葉で考えることは、後の動向を考えるための接点になります。
ただし、彼の絵画をそのままミニマル・アートの作品と同一視する必要はありません。黒のカンヴァスには、微妙な色差と、見る時間に関わる構造があります。単純な外形だけを比べると、個々の作品がどのような経験を作るかという違いが見えにくくなります。
芸術を言葉で考えたことも、絵画が不要になったこととは異なります。文章は制作の立場を示しますが、作品の前で起こる色の見え方は、文章だけでは置き換えられません。言葉による厳しい定義と、目で受け取る微妙な差が、彼の活動の中で共存しています。
1966年にはニューヨークのユダヤ博物館で作品の展覧会が開かれ、1967年に亡くなりました。1991年のMoMAの回顧展では、黒の作品だけでなく絵画、コラージュ、グアッシュが紹介されました。制作の全体を見ることは、黒い正方形という一つの印象から作家像を広げるために重要です。
ラインハートを楽しむための見方
最初に見るなら、1938年の《無題》と1963年の《抽象絵画》を比較すると、制作の変化がわかりやすくなります。鮮やかな色の対比と、黒の中の小さな差は、どちらも色の関係を使います。色があるかないかではなく、どれほどの差を、どのように見せるかが変わっています。
白、青、赤の作品を間に置くと、その変化をより細かく追えます。画面の縦横比、色の範囲、筆触の見え方を比べてください。色を減らす過程だけでなく、構成を規則的にする過程と、手の跡を抑える過程が重なっていることに気づきます。
黒の絵画では、十字や格子を見つけた後も、全体の黒へ視線を戻してみてください。形がどれほど強く見えるか、部分の差がいつ感じられるかを確かめると、単純な図形の鑑賞とは異なる時間が生まれます。何かを表す絵として見る習慣を、少し緩めることができます。
風刺や反戦の仕事を合わせて見ると、作品の形式と作家の社会的な姿勢を、必ず一つにまとめなくてもよいことがわかります。ラインハートの厳しさは、世界からすべてを排除することではなく、絵画で行う仕事の条件を定めることに向けられていました。その条件を知った後で作品へ戻ると、黒の中にある差を別の注意で見られるでしょう。
作品を知るための補足
モノクローム絵画とは、一色で塗った絵のことですか
一つの色を中心にした絵画を指しますが、画面全体が完全に同じ色であるとは限りません。ラインハートの青や赤の作品には、近い色の差と幾何学的な構成があります。黒の絵画でも、黒という言葉でまとめられる領域の中に違いがあります。色数を確認するだけでなく、内部の関係へ目を向けることが大切です。
《第107番》を見ると、白の範囲にも、透明さや筆触の違いがあることがわかります。単色を使うことは、塗り方を一つにすることとも同じではありません。色、表面、構成をそれぞれ確認すると、少ない条件から生まれる違いを見つけられます。
ロスコの絵画とは、どのように違いますか
MoMAは2008年に、ラインハートとマーク・ロスコの作品を並べ、両者の色と構成を紹介しました。ロスコでは輪郭のぼやけた色の領域と、その間の空間が重要になります。ラインハートでは、規則的な構造とごく近い色の差が、見え方を作ります。どちらも大きな身振りの筆触だけでは説明できない抽象ですが、形式は同じではありません。
比較するときは、暗い色を使うかどうかより、境界がどう見えるか、画面の内部がどのように分かれるかを見てください。似た時代と分類に属していても、作品が見る人へ促す注意は異なります。共通点を知った後に、実際の構成の違いへ戻ることができます。
黒の絵画は、どれも同じ作品なのですか
同名で似た形式の作品がありますが、別々の作品です。今回のMoMA所蔵作とホイットニー所蔵作では、制作年、支持体、寸法の記載が異なります。画像の類似だけで同一作と判断せず、所蔵館と年記を確認してください。
反復は、似た構成を使いながら条件を継続して考える方法でもあります。何かを新しく加えることだけでなく、何を変えずに保つかという選択があります。個々の作品を見ながら、同じ形式の中で制作を続ける意味を考えられます。
芸術の純粋さを主張したのに、なぜ反戦作品も作ったのですか
ラインハートは、絵画を政治的な説明の道具へ従属させないことと、社会的な意見を示すことを、活動の中で分けようとしていました。《ノー・ウォー》は、反戦の目的を持つ版画集への寄稿です。黒の絵画と同じ制作条件で読むより、媒体と発表の目的が違うことを確認できます。
この関係は、純粋な絵画を作る人は社会へ発言できない、という単純な分類では捉えられません。絵画、文章、風刺、抗議のそれぞれで、何を伝えようとしていたかを見る必要があります。複数の活動を知ることで、作品から伝記をすべて推測する見方も見直せます。
略年譜
- 1913
- ニューヨーク州バッファローに生まれる。
- 1931–1935
- コロンビア大学で美術史などを学び、1935年に卒業する。
- 1936–1941
- WPAの連邦美術計画、イーゼル絵画部門で仕事をする。
- 1937
- アメリカン・アブストラクト・アーティスツに参加する。
- 1938
- 鮮やかな幾何学的抽象や、切り貼りを用いた習作を制作する。
- 1940
- 《コラージュ》《新聞紙のコラージュ》を制作する。
- 1940年代
- 新聞や雑誌のための仕事、風刺漫画、商業美術にも携わる。
- 1946
- 『PM』に《アメリカの現代美術をどう見るか》を発表する。
- 1947
- ブルックリン・カレッジで教え始める。
- 1950
- 白の変化を用いた《第107番》を制作する。
- 1952
- 青と赤を限定的に用いた単色絵画を制作する。
- 1957
- 「新しいアカデミーのための十二の規則」を発表する。
- 1960年代
- 約152センチメートル四方の正方形を中心に、黒の絵画を反復して制作する。
- 1966
- ニューヨークのユダヤ博物館で作品の展覧会が開かれる。
- 1967
- 反戦版画《ノー・ウォー》を制作。同年、ニューヨークで死去。
- 1991
- MoMAで回顧展が開かれる。
参考資料・出典
生涯と制作史は美術館・研究機関の公開資料を参照し、作品の年記、技法、寸法、所蔵情報は各作品ページを基準にしました。作品の日本語題名には異訳があるため原題を併記しています。本文での画面構成や鑑賞についての記述には、これらの資料を踏まえた本記事の解釈も含みます。
- スミソニアン・アメリカ美術館:Ad Reinhardt
- MoMA:Ad Reinhardt(1991年回顧展)
- MoMA:Focus: Ad Reinhardt and Mark Rothko
- MoMA:Abstract Painting(音声解説)
- オーバリン大学アレン記念美術館:Ad Reinhardt
- オーストラリア国立美術館:American Masters / Ad Reinhardt
- ニューヨーク近代美術館(MoMA):《無題(1938)》
- ニューヨーク近代美術館(MoMA):《絵画のための習作(1938)》
- ニューヨーク近代美術館(MoMA):《コラージュ》
- ニューヨーク近代美術館(MoMA):《新聞紙のコラージュ》
- ニューヨーク近代美術館(MoMA):《第107番》
- ニューヨーク近代美術館(MoMA):《抽象絵画(青)》
- ニューヨーク近代美術館(MoMA):《抽象絵画、赤(MoMA所蔵)》
- メトロポリタン美術館:《赤い絵画(メトロポリタン美術館所蔵)》
- ニューヨーク近代美術館(MoMA):《抽象絵画(1960–1961)》
- ニューヨーク近代美術館(MoMA):《抽象絵画(1963)》
- ホイットニー美術館:《抽象絵画(1960–1966)》
- ホイットニー美術館:《ノー・ウォー》
資料確認日:2026年10月3日 / ART LIBRARY