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1387–1391年

義満の大守護統制と明徳の乱

土岐康行の乱、六分一衆、内野合戦

一三八七年から一三九一年は、足利義満が室町幕府の最大の構造問題だった「強すぎる守護大名」を本格的に統制し始める時期である。南北朝内乱を通じて幕府は各地の守護へ軍勢催促、半済、警察、所領執行など大きな権限を与えた。その結果、土岐氏や山名氏のように複数国の守護職を一族で保持し、京都の政治そのものへ影響を与える巨大勢力が生まれた。

義満は彼らを一挙に軍事征服したわけではない。一三八七年に美濃・尾張・伊勢三国守護の土岐頼康が死去すると、守護職を康行と満貞へ分け、一族内部の対立へ介入する。争いが軍事化すると康行を追討し、一三九〇年までに三国一体の土岐氏支配を解体した。続いて山名氏でも、時義死去後の惣領争いへ介入し、氏清・満幸に時熙・氏幸を討たせた後、今度は時熙らを赦免して満幸を追放する。

一三九一年十二月、山名氏清・満幸らは京都へ進軍し、内野周辺で幕府軍と激突した。『明徳記』はこの戦いを華々しい軍記として描くが、現存本文には異本・増補があり、作者も確定していない。人物の会話、心理、兵数、一騎討ちをそのまま事実として用いるのではなく、幕府文書・守護文書・日記・地方編年史料と重ねて読む必要がある。

この五年間には、義満の富士遊覧・厳島参詣、東寺領の土地裁判、尾張守護交替、因島地頭職、百姓職請負、そして一三九一年の飢饉・疫病も同時に存在する。本記事では、土岐・山名の二つの「乱」を単独の合戦史としてではなく、守護職、人事、旅行、都市、土地、生活を通じて義満政権が全国秩序を再構成する過程として追う。

1387–1391年 — 巨大守護を「敵」にする前に、まず内部を組み替える

元中四年・至徳四年(一三八七)から元中八年・明徳二年(一三九一)にかけて、足利義満は室町幕府の全国支配にとって最大の構造問題だった巨大守護勢力へ本格的に介入する。最初の対象は、美濃・尾張・伊勢三か国の守護を兼ねた土岐氏であり、続いて山陰・西国を中心に一族で十一か国もの守護職を持った山名氏だった。

この過程を「義満が強大な大名を次々に討ち滅ぼした」とだけ理解すると重要な部分を見落とす。義満はまず守護家内部の家督・分国継承問題に介入し、同族の別系統へ守護職を与え、対立する一方を幕府命令で討たせる。その結果、巨大な一族領国を複数の家へ分割し、最終的には将軍が守護職の配分を決定する位置を強めた。

一三八七年、土岐頼康死去後の分国配分から、一三九〇年の土岐康行の乱を経て、一三九一年の明徳の乱へ至る流れには共通した政治手法が見える。一方で、すべてを義満が最初から完全に計画した「謀略」と断定することも慎重でなければならない。家督争い、所領紛争、守護家内部の不満という現実の対立があり、義満はそれを利用しながら政策判断を重ねた。

そして一三九一年十二月、山名氏清・満幸らが京都へ攻め込み、内野周辺で幕府軍と激突する。氏清は戦死し、山名氏の守護国は大きく削減された。翌年の南北朝合一を目前に、義満は京都周辺で自らに対抗しうる巨大守護連合を一度解体したのである。

なぜ1387–1391年を一つの記事にするのか

今回の五年間は、年数を基準に区切ったものではない。一三八七年の土岐頼康死去を契機として、義満が大守護の分国継承へ介入する政治が始まり、一三九一年の明徳の乱後処理でその手法が一つの完成形を示すからである。

土岐氏の乱と明徳の乱は別事件として教科書では分けられるが、どちらも複数国守護を持つ一族内部へ将軍が介入し、守護職の再配分によって勢力を削減するという共通構造を持つ。

一三九二年には南北朝合一が実現する。そこから先は南朝との講和と神器受渡しという別の国家的転換が中心になるため、本記事は明徳の乱が終わる一三九一年で閉じる。

1387年、後小松天皇元服

北朝では後小松天皇が一三八二年に六歳で践祚しており、一三八七年正月三日に元服した。国史大辞典系の解説は、この幼帝の即位式で左大臣義満が補佐役を務めたこと自体が異例だったと指摘する。

一三八七年の政治を見る際、北朝天皇がすでに後小松であることは重要である。義満は将軍・左大臣・准三后として朝廷儀礼へ深く関わり、幼帝を支える政治的位置を占めていた。

ただし後小松天皇を義満の単なる傀儡とみなすべきではない。朝廷制度・公家社会・院政の回路は存続し、義満はその制度内部へ入り込むことで影響力を強めた。

1387年8月、嘉慶へ改元

北朝では至徳四年八月二十三日、一三八七年に嘉慶へ改元した。改元理由には即位・疾疫が挙げられる。南朝は後亀山天皇の元中四年を用いた。

一三八七年から八九年までの短い嘉慶年間は、土岐氏の分裂が進み、義満が東国・富士方面へ大規模な移動を行う時期にあたる。

同じ西暦年を北朝文書では嘉慶元年、南朝文書では元中四年と記すため、南北朝末期でもなお二つの政治的時間が併存している。

1387年、土岐頼康死去

土岐頼康は美濃守護を基盤に尾張・伊勢守護を兼ね、南北朝内乱を通じて東海最大級の守護勢力を築いた。東寺百合文書にも、死去直前の至徳四年五月、管領斯波義将が尾張国大成庄領家職について頼康へ命令を出した文書が残る。

頼康の政治力は抽象的な「三か国領有」だけではなく、各国の守護代・国人へ命令し、寺社荘園の土地裁判を執行する日常支配として現れていた。

一三八七年の頼康死去によって、巨大な三国守護体制を誰が継ぐかが幕府政治の重大問題になる。

康行と満貞に分けられた守護職

頼康死去後、義満は三か国の守護職を一人へまとめて継承させず、康行に美濃・伊勢、満貞に尾張を与えたと整理される。これによって頼康一代で形成された三国一体の勢力は分割された。

義満が最初から土岐氏を滅ぼす長期計画を持っていたかは直接史料から慎重に考える必要があるが、少なくとも守護職を分配して一族内部の力関係を変えたことは明瞭である。

守護職は一族の私有財産ではなく、将軍が任免する職であるという原則を具体的に示す人事でもあった。

東寺文書に現れる尾張守護交替

嘉慶二年六月二十一日、管領斯波義将は東寺領尾張国大成庄領家職について新守護土岐満貞へ命令を出した。九月十三日には満貞が守護代蜂屋信濃守へ施行を命じ、十月二十九日には守護代から現地担当者へ命令が伝達されている。

この一連の文書は、頼康から満貞への守護交替が単なる系図上の出来事ではなく、現地の土地支配実務を実際に切り替えたことを示す。

将軍・管領の決定が守護、守護代、現地担当者へ段階的に伝わることによって、京都の人事が尾張の荘園社会に実効性を持つ。

大守護再編の横で百姓職は請け負われる

嘉慶二年二月二十七日の東寺百合文書には、与一入道が田地一反半の百姓職を請け負う文書が残る。大守護の家督問題と同じ年、農村では誰が特定田地を耕作し、どの升で年貢を納めるかが文書化されていた。

守護家の内紛は地域社会へ大きな影響を及ぼすが、農業・年貢・土地請負の日常が完全に止まるわけではない。

政治史を支配者交代だけで描かず、同じ時代に土地利用・耕作契約が続いていたことを確認する必要がある。

1388年、義満の富士遊覧

室町時代年表は嘉慶二年九月、義満が駿河国で富士山を見物したと記す。義満はこの時期、京都を離れて大規模な供奉を伴う移動を行っている。

こうした旅は私的な観光だけでなく、各地の守護・国人が将軍を迎え、宿泊・警固・贈答を担う政治儀礼でもあった。将軍自身が地域へ姿を現すことで、守護との主従関係を可視化する。

ただし『富士遊覧は大守護を威圧するためだけの軍事デモだった』と単純に目的を一つに固定するのは避ける。参詣・見物・社交・政治的示威が重なる中世的な移動として見る方が適切である。

将軍の旅が作る権力

京都に座したまま御教書を出すことと、自ら数多くの武士を従えて地域を移動することでは、権力の見え方が異なる。供奉する守護・国人、沿道の警固、宿所提供、贈答は、将軍との関係を公開の形で確認する儀礼になる。

義満の旅は各地の情報収集の機会でもあり、守護家の内部事情や地域勢力の配置を知る場となった可能性がある。

後世の中央集権国家の巡幸とは制度が異なるが、移動する将軍が広域政治秩序を身体的に示す点は重要である。

1389年、康応へ改元

嘉慶三年二月九日、北朝は康応へ改元した。病事を改元理由とし、翌一三九〇年三月には早くも明徳へ改元するため、康応は一年余りの短い年号である。

南朝は元中六年を使用した。南北朝分裂が終盤に入っても、二つの年号体系は維持されている。

この康応元年に、義満の厳島参詣、山名時義死去、土岐康行討伐開始という重要事件が重なった。

1389年3月、義満の厳島参詣

広島県史年表によれば、一三八九年三月四日、義満は厳島神社参詣のため京都を出発し、十日に厳島へ到着、翌十一日に参詣した。二十日には御座船が安芸忠海付近で座礁し、二十一日には山名時義の招きで尾道天寧寺へ入ったとされる。

この旅の様子は今川貞世が記した『鹿苑院殿厳島詣記』によって詳しく知られる。国立国会図書館にも写本が伝わる。

厳島参詣は宗教的巡礼であると同時に、西国の大内・山名・小早川など有力武士と将軍が直接接触する大規模な政治行事だった。

『鹿苑院殿厳島詣記』をどう読むか

『鹿苑院殿厳島詣記』は今川貞世による紀行として伝わり、義満一行の航路・景観・和歌などを知る貴重な資料である。

一方、紀行文は移動の事実だけでなく、景物・歌・儀礼を文学的に構成する文章でもある。旅程の骨格と、場面の美的表現・人物評価を同じ確度で史実化しないことが重要である。

義満の旅行を理解する際には、県史年表のような編年史料整理と紀行本文を重ねて使う。

大内義弘の存在感

厳島参詣では大内義弘が周防下松で義満を迎えたと広島県史年表は記す。大内氏は周防・長門を基盤として中国・北九州へ勢力を広げ、幕府の西国政策に不可欠な守護へ成長していた。

一三九一年の明徳の乱でも義弘は幕府軍の主力として戦い、乱後に和泉守護を得る。山名氏を削減する政策が、結果として大内氏をさらに巨大化させるという逆説がここに生じる。

義満の大守護統制は、大守護そのものを消滅させる政策ではない。一つの大守護を抑えるため別の大守護を利用し、その後また新たな均衡調整が必要になる。

1389年、山名時義死去

康応元年五月、山名時義が死去した。豊岡市史や山名氏関係資料では、時義期の山名一族は十一か国の守護職を持ち、日本全国六十余州のほぼ六分の一に相当するとされ、「六分一衆」「六分一殿」と呼ばれた。

十一か国を一人が一円支配したわけではなく、一族の複数家が守護職を分有している。したがって『山名氏が日本の六分の一を一人の大名として統治した』と理解するのは不正確である。

それでも、一族ネットワークとしてこれほど多数の守護国を持つことは、将軍にとって無視できない軍事・政治力だった。

「六分一衆」をどう理解するか

「六分一衆」という呼称は山名氏の強大さを象徴するが、中世の国数を現代の面積比・人口比へ直接変換できるわけではない。国ごとの面積・生産力は大きく異なり、守護職も土地所有権そのものではない。

守護は軍勢催促、警察、半済、使節遵行などを通じて国内へ強い権限を持つが、国中の荘園・国衙領を私有するわけではない。

それでも十一か国の守護職を一族で占めることは、京都へ動員できる兵力、人事、交通路、所領裁判で巨大な影響力を持つことを意味する。

時義死後、山名氏内部の継承問題

時義死後、その子時熙と氏幸が但馬・伯耆を中心に惣領系統を継ぐ一方、満幸や叔父氏清との対立が表面化した。これは義満が無から作り出した対立ではなく、山名氏内部の家督・守護職配分をめぐる現実の緊張だった。

義満はこの対立へ介入し、満幸・氏清側を用いて時熙・氏幸側を攻めさせる。翌年には逆に時熙らを赦免し、満幸を処分する。

将軍が一族内部の裁定者となることで、誰が惣領で誰が守護職を持つかという山名家内部の問題が幕府政治そのものへ変わった。

1389年、土岐康行討伐へ

土岐氏では、尾張守護となった満貞と、美濃・伊勢を持つ康行側の対立が武力衝突へ発展した。世界大百科事典系の解説は、康行の従弟・娘婿にあたる詮直が満貞を迎撃し、康行がこれを支援したことで内乱が拡大したとする。

一三八九年四月、義満は康行討伐の兵を派遣した。事件は一三九〇年まで続く。

『土岐康行の乱』『土岐氏の乱』『美濃の乱』など複数の呼称があるが、単に康行一人が幕府へ突然反逆した事件ではなく、守護職分割を契機とする一族内戦へ幕府が介入した過程として理解する必要がある。

義満の「分断策」を万能の陰謀として描かない

後世の概説では、義満が最初から土岐氏を分裂させるため守護職を分け、争わせたと説明されることが多い。結果だけを見れば、土岐氏の三国体制は解体され、義満が最大の利益を得た。

しかし個々の当事者には家督・分国・婚姻・被官関係という自律的な利害がある。義満がすべての行動を意のままに操ったと考えると、中世守護家の主体性を過小評価する。

より慎重には、義満が実在する一族内対立を利用し、守護任免権と追討命令を通じて自らに有利な秩序へ再編したと捉えるべきである。

1390年、北朝は明徳へ

康応二年三月二十六日、北朝は明徳へ改元した。天災・兵革などを理由とする改元で、南朝は元中七年を用いた。

同年三月、土岐康行の軍事的抵抗は大きく崩れ、美濃・伊勢の守護職を失う。

明徳という年号は翌年の山名氏との戦争、さらに一三九二年の南北朝合一を覆うため、義満政権の大転換期を象徴する年号となる。

1390年、土岐康行の勢力縮小

土岐康行の乱の結果、美濃は頼康の弟頼世、伊勢は仁木義長へ配分され、尾張は満貞が保持したとされる。土岐一族が東海三国を一体的に支配する構造は解体された。

土岐氏そのものが滅亡したわけではない。美濃守護家は別系統で存続し、後世まで重要な守護大名であり続ける。

義満の狙いを『有力氏族の根絶』とするより、複数国を一つの家へ集中させない守護職再配分と理解する方が、実際の戦後処理に合う。

美濃一国へ収斂する土岐氏

世界大百科事典系の説明では、乱後、土岐氏が長期的に保持する守護職は美濃一国へ収斂した。頼康期の三国守護体制は再現されない。

これは守護家の地域基盤が消えたという意味ではない。美濃では土岐氏・斎藤氏・国人層が独自の領国構造を形成していく。

将軍側にとっては、一族を完全に排除するより、主たる一国に勢力を限定して幕府秩序の中へ残す方が統治上利用しやすかった。

義満、山名氏清・満幸に時熙らを討たせる

土岐氏の処理とほぼ同じ頃、義満は山名氏の内部争いにも介入した。山名時煕・氏幸兄弟を、氏清・満幸側に追討させ、時熙らは但馬を離れて備後方面へ逃れた。

広島県史年表は一三九〇年三月、時熙・氏幸が但馬から備後へ退いた流れを記す。一方、山名氏関係の具体日付や人物名には系図・軍記由来の情報も混在するため、細部の確度には注意が必要である。

重要なのは、将軍が山名一族内部の一方へ追討権を与え、守護職を再配分した政治構造である。

氏清・満幸の拡大は一時的だった

時熙らを追放した結果、氏清・満幸側は但馬・伯耆・隠岐などの守護職を得て勢力を拡大した。

しかしその拡大は義満の守護任免によって成立したため、将軍が方針を変えれば不安定になる。翌一三九一年、義満は満幸を処分し、時熙らを赦免する。

同じ一族内で「幕府方」と「反幕府方」が固定しているのではなく、将軍との関係と守護職配分によって短期間に立場が反転する点が重要である。

大戦争の準備期にも土地行政は続く

東寺百合文書には明徳元年八月五日、義満が平野社領山城国散在田地について守護役・役夫工米・大嘗会米などの停止を命じた下知状案が残る。

土岐氏の乱と山名氏内紛が進む時期にも、将軍は神社領の課役免除という個別行政を行っている。

軍事動員だけでなく、寺社所領を保護し、どの役を免除するかを決めることも将軍権力の重要な一面だった。

1391年、飢饉と疫病

広島県史年表は『常楽記』を根拠に、一三九一年に飢饉があり疾疫が流行したと記す。政治史では明徳の乱が中心となる年だが、人々の生活にとっては食料不足と病気が重大問題だった。

飢饉・疫病の規模や地域差を一つの編年記録だけから全国一律に断定することはできない。しかし戦争動員と同じ年に社会的危機が記録されている点は重視すべきである。

大軍が京都へ集結することは兵粮需要や物流にも影響する。軍事史と生活史を完全に切り離さず見る必要がある。

1391年、細川頼之が再び上洛

広島県史年表は明徳二年四月三日、細川頼之が上洛し、その後養子頼元が管領となったと記す。頼之は一三七九年康暦の政変で京都を追われた人物である。

十二年後に旧政権の中心人物が再び京都へ戻れることは、室町幕府の政争が一族の永久排除を原則としなかったことを示す。

明徳の乱では細川氏も幕府軍の一翼を担う。有力守護を追放し、赦免し、別の敵への軍事力として再利用する政治手法が繰り返される。

1391年、満幸失脚

一三九一年、山名満幸は上皇領出雲横田荘の押領問題などを理由に出雲守護職を没収され、京都から追放されたとされる。一方、前年に追われた時熙・氏幸は赦免された。

この急激な方針転換を、義満が最初から山名一族を全滅させるため仕組んだ罠と断言するのは慎重である。しかし結果として義満が山名一族を相互に争わせ、守護職配分を再構成する形になったことは否定できない。

満幸にとっては、幕命に従って時熙らを攻撃した翌年に自分が処分されるため、将軍への不信が急激に高まる条件となった。

氏清が満幸側へ立つ

山名氏清は時氏の子で、和泉・丹波などの守護を務めた有力者だった。満幸と結び、義満に対抗する側へ進む。

『明徳記』は満幸が氏清を説得する会話や、義満への怒りを詳細に描く。しかしこうした内心・会話をそのまま史実として採用することはできない。

史料上確実なのは、氏清が満幸らと軍事行動を選択し、分国軍勢を率いて京都方面へ進出したことである。

12月、山名方が京都へ進軍

明徳二年十二月、山名氏清・満幸らは幕府に反し、和泉・丹波・山陰方面から京都へ向かった。複数方向から進軍したとされ、幕府側も細川・畠山・大内・赤松・一色など有力守護を京都へ集めた。

将軍直轄軍だけで山名氏を破ったのではない。義満がこれまで競争関係にあった複数の守護を幕府軍として組織できたことが勝敗を左右した。

つまり明徳の乱は『将軍対守護』という単純な戦争ではなく、『将軍を中心とする守護連合対山名氏内の一派』という性格を持つ。

1391年12月30日、内野合戦

十二月三十日、京都内野周辺で幕府軍と山名軍が激突した。内野は平安宮大内裏跡周辺にあたり、京都市街に近い場所で大規模戦闘が起こった。

山名氏清は戦死し、満幸らは敗走した。赤松義則の弟将則も幕府方として戦死しており、幕府軍側にも大きな損害があった。

合戦を『わずか一日で義満が山名氏を滅ぼした』と単純化すると、そこに至る二年以上の一族内紛・守護再配置を見失う。

『明徳記』の兵数・奮戦譚を慎重に扱う

明徳の乱の詳細は軍記『明徳記』に多く依存する。同書には軍勢配置、武将の奮戦、会話、討死場面などが劇的に描かれる。

国立国会図書館は『明徳記』を作者未詳、義満側近の人物による可能性がある軍記と解説する。現存刊本は近世の古活字・版本であり、事件当日の原本そのものではない。

したがって兵数、人物の発言、戦場での心理、細かな一騎討ちを同時代公文書と同じ確度で採用せず、幕府・守護の文書、日記、編年史料と照合する必要がある。

『明徳記』は一度に固定した記録ではない

『明徳記』研究では、本文に異本・増補があり、初稿と後の改訂の関係が論じられている。早稲田大学の研究は、作者自身が表現や記録性を意識しながら改訂した可能性を検討している。

明徳の乱の首謀者とされる満幸のその後など、版本系統によって叙述の追加が見られる点も指摘される。

軍記を全面的に否定するのではなく、事件の記憶がどのように編集・語り直されたかを見る史料として使うことが重要である。

山名氏は滅亡していない

『明徳記』や後世の説明には「山名氏を滅ぼした」といった強い表現が見られるが、実際には山名一族は存続した。時熙は但馬、氏幸は伯耆などの守護職を回復し、その後の山名氏惣領家は時熙系統を中心に再建される。

兵庫県立歴史博物館や豊岡市史も、明徳の乱後に山名氏が但馬などで守護大名として存続したことを示す。

義満が成功したのは氏族の絶滅ではなく、十一か国規模に広がった守護職を削減し、幕府に従う系統へ再編したことである。

乱後の守護職再配分

明徳の乱後、山名氏の旧守護国は幕府方諸将へ再配分された。和泉は大内義弘、美作は赤松義則など、乱で軍功を立てた有力守護が新たな守護職を得た。

これは恩賞であると同時に、旧山名領を複数家へ分割して再び一族へ集中させない政策でもあった。

しかし大内氏・赤松氏を強くするため、新たな巨大守護問題の芽も生む。義満政権は守護大名をなくすことはできず、その配置を継続的に調整する必要があった。

赤松義則と明徳の乱

兵庫県立歴史博物館は、赤松義則が明徳二年十二月の山名氏討伐で弟将則を失いながら戦い、翌年正月に美作守護を獲得したとする。

赤松氏は播磨・備前に美作を加え、山陽道東部で大きな守護勢力となる。

山名氏削減によって将軍権力だけが増えるのではなく、協力した守護にも新しい領国が与えられる。室町幕府は守護間の均衡を調整する政権だった。

大内義弘の拡大という次の課題

大内義弘は明徳の乱で幕府方として大きな功績を挙げ、和泉などの守護職を得る。周防・長門を基盤とする大内氏が畿内の和泉へまで進出することで、義弘の政治力はさらに高まった。

義満は山名氏を抑えるため大内氏を利用したが、その成功によって今度は大内氏が将軍にとって大きな存在となる。

この構造は一三九九年の応永の乱へつながる。大守護統制は一度の勝利で完成する政策ではなく、勢力均衡を絶えず組み替える連続過程だった。

京都市街の近くで起きた戦争

内野合戦は京都の政治中心から遠く離れた国境戦ではなく、洛中・上京に近接する場所で行われた。室町殿を中心に発達した都市にとって、大守護同士の戦争が日常空間へ接近したことになる。

兵の移動、宿泊、兵粮、火災への警戒、負傷者・死者の処理など、戦争は都市社会へ直接負担を与えた。

義満が京都市政・警察権を幕府へ集約してきたことは、こうした軍事危機への対応能力とも関係する。

飢饉・疫病の年に軍勢が集結する

一三九一年は飢饉・疾疫が記録される年でもあった。その年末に各地から大軍が京都へ集まった。

史料から両者の直接因果を単純に結ぶことはできないが、食料事情の悪化した社会で大規模軍事動員が行われたことは、兵粮・宿泊・輸送の負担を考えるうえで重要である。

政治史上の『義満権力の勝利』は、都市住民や農村から見れば必ずしも安定や生活改善と同義ではなかった。

東寺領をめぐる行政は止まらない

一三八七~九一年の東寺百合文書には、尾張大成庄、備後因島、安芸国衙、若狭太良庄、洛中敷地などをめぐる大量の幕府・守護文書が残る。

土岐・山名という大守護が政治危機に陥っても、彼ら自身やその後継守護が寺社領の打渡し・押領停止・段銭免除を処理している。

幕府制度の強さは、政変のたび行政が消滅するのではなく、担当守護を替えながら文書行政を継続できる点にある。

因島地頭職と山名時義

一三八七年、義満は備後国因島地頭職を東寺へ寄進し、管領斯波義将は備後守護山名時義へ施行を命じた。二年後の一三八九年にも因島をめぐり幕府から山名時義へ命令が出ている。

因島は瀬戸内海の海上交通に位置する島で、寺院領の年貢・所務を確保するには現地武士と守護の協力が必要だった。

明徳の乱直前まで、幕府と山名氏は反乱者と中央権力という固定関係ではなく、日常行政を共同で担う関係にあったことが分かる。

大守護は幕府の敵である前に幕府の構成員

土岐頼康も山名時義も、長年にわたり幕府命令を地域へ執行する守護だった。彼らが強くなったのは幕府に反対したからだけではなく、幕府が全国統治のため多くの権限を守護へ委ねた結果でもある。

したがって大守護と将軍の対立は、中央国家と地方反乱の単純な二項対立ではない。同じ政権を構成する有力者の権限配分をめぐる内部対立である。

義満の守護統制は、自らが必要として育てた地域権力を、今度はどのように制御するかという室町幕府固有の矛盾への対応だった。

将軍直轄軍だけで支配したわけではない

義満期には奉公衆など将軍直属の軍事基盤が整備されつつあった。しかし土岐氏・山名氏のような広域守護を討つ際、細川・斯波・畠山・大内・赤松・一色・京極など他の守護の軍勢が不可欠だった。

明徳の乱を『中央軍が地方大名を制圧した』と表現すると、幕府軍自身が守護連合であった点を見落とす。

義満の強さは守護を不要にしたことではなく、複数の守護を互いに競合させつつ、自分の命令のもとで動員できる位置を強めたことにある。

明徳の乱はなぜすぐ軍記になったのか

明徳の乱は京都で起こり、巨大守護山名氏と義満政権が直接衝突したため、同時代・近い時期から強い関心を集めた。『明徳記』は乱の顛末をまとめる軍記として成立し、その後写本・版本を通じて流布した。

国立国会図書館所蔵の古活字版は慶長十九年刊記を持ち、和歌山県立博物館にも寛永九年刊の『承久記・明徳記』が伝わる。

近世に承久の乱・明徳の乱・応仁の乱が「三代記」としてまとめられることは、幕府と大規模反乱の歴史を連続的に読む後世の歴史意識を示す。

日本史の中でこの時代を見る意味

一三八七~九一年を見る第一の意味は、義満の大守護統制が単純な軍事征服ではなく、守護家内部の継承・分国問題へ介入する政治だったことにある。

第二に、土岐氏の三国支配解体では、守護職が一族の永久私有物ではなく、将軍の任免によって再配分される職だという原則が強く示された。

第三に、東寺領大成庄の文書は、守護交替が現地の土地行政へ実際に波及する過程を具体的に示す。

第四に、富士遊覧・厳島参詣のような将軍旅行は信仰・遊覧だけではなく、地方守護との関係を可視化し、広域政権を演出する政治行動でもあった。

第五に、山名氏の『六分一衆』という呼称を、面積や土地所有の六分の一と誤解しないことが重要である。十一か国守護職を一族が分有した政治的巨大さを示す表現である。

第六に、山名氏内紛は義満が無から作ったのではなく、惣領・守護職をめぐる一族内部の現実の対立があり、将軍はそれを利用して再編した。

第七に、義満を万能の謀略家として描くのも危険である。各守護家には独自の利害と判断があり、結果論からすべてを計画通りとみなすべきではない。

第八に、土岐康行の乱後も土岐氏は美濃守護として存続し、明徳の乱後も山名氏は但馬・伯耆などで存続した。義満の政策は氏族絶滅より守護国集中の解体だった。

第九に、明徳の乱で幕府方に大内・赤松ら大守護が参加したことは、将軍の軍事力自体が守護連合に依存していたことを示す。

第十に、その恩賞によって大内・赤松が強くなるため、大守護統制は一回で終わらない。山名を抑えた成功が次の大内問題を生む。

第十一に、『明徳記』は不可欠な史料だが、作者未詳の軍記であり、異本・増補がある。会話・心理・兵数を同時代公文書と同じ確度で使わない史料批判が必要である。

第十二に、一三九一年の飢饉・疫病は、将軍権力の強化と民衆生活の安定が同じではないことを示す。政治統合の陰で社会危機が続いていた。

第十三に、因島・大成庄・安芸国衙などの土地文書は、戦争の中でも全国の所領行政が継続していたことを示す。国家形成は合戦だけでなく文書の反復によって進んだ。

第十四に、京都内野での合戦は将軍の本拠都市そのものが守護内戦の戦場になり得たことを示す。義満の都市支配強化には治安・軍事危機への対応という側面もあった。

そして最後に、明徳の乱によって義満は南北朝合一交渉へ向かう直前に、西日本最大級の守護連合を分裂・再編した。翌一三九二年の講和は、この軍事・政治的優位を背景に進められることになる。

主な流れ

次の時代へ — 1392年、南北朝合一

一三九一年末の明徳の乱で山名氏の巨大守護連合が解体され、義満の京都・西国における政治的優位は一段と強まった。

南朝では後亀山天皇が吉野にあり、九州では菊池武朝・良成親王がなお抵抗を続けていたが、全国的に見れば南朝を支える大規模な守護連合は失われていた。

一三九二年、義満は大内義弘らを介して南朝との講和を進め、後亀山天皇が京都へ戻って後小松天皇へ三種の神器を渡す。次の記事は一三九二年を一つの大きな単年記事として、講和条件、神器、両統迭立、後亀山天皇帰京、九州南朝の反応まで詳しく扱うのが自然である。

参考資料・出典