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645–654年

大化改新と難波宮

孝徳朝、改新詔、評制と中央集権化

645年の乙巳の変によって蘇我入鹿が殺害され、父の蘇我蝦夷も自害すると、王権中枢の政治構造は大きく組み替えられました。皇極天皇は譲位し、軽皇子が孝徳天皇として即位します。中大兄皇子は皇太子となり、中臣鎌足、阿倍内麻呂、蘇我倉山田石川麻呂、高向玄理、僧旻らが新しい政治の中核に入りました。

この政権が進めた一連の改革は、後に「大化改新」と呼ばれます。しかし、大化改新を「645年に日本の古代国家制度が一日で完成した出来事」と理解すると実態を見誤ります。奈良県立万葉文化館も、646年の「改新の詔」には『日本書紀』編纂時の文飾が指摘される一方、後の郡につながる評の設置など地方行政改革は実施が確実視されると説明しています。

新政権は政治の中心を飛鳥から難波へ移しました。難波は瀬戸内海を通じて九州・朝鮮半島・中国大陸へつながる国際港湾地域でした。ここに造られた前期難波宮は、明確な中軸線と大規模な朝堂院を備えた、本格的な宮殿として日本列島史上の大きな転換を示します。大阪歴史博物館は、652年に完成した難波長柄豊碕宮を、日本史上初めての本格的な宮殿と説明しています。

一方、改革を進めた政治連合は安定していたわけではありません。649年には右大臣・蘇我倉山田石川麻呂が謀反の疑いを受け、山田寺で自害しました。653年には中大兄皇子が飛鳥へ戻ることを求め、孝徳天皇が拒否すると、皇太子、皇族、主要臣下の多くが難波を離れました。孝徳天皇は翌654年に難波で死去します。

645~654年は、完成した中央集権国家の時代ではありません。王権が地域首長・氏族社会の上に、新しい地方行政、官人制度、土地・人民把握、宮都、外交秩序を重ねようとした実験の時代でした。改革の多くは、この後の斉明・天智・天武・持統朝を経て徐々に制度化されていきます。

乙巳の変後の新政権

645年6月の乙巳の変は、蘇我本宗家を王権中枢から排除した政変でした。しかし、政変の実行者がそのまま新しい国家制度を完成させたわけではありません。

新しい政治連合には、皇族だけでなく、阿倍氏、蘇我氏の別系統、中臣氏、海外経験を持つ知識人などが参加しました。

とくに注目すべきなのは、蘇我入鹿を倒した後も蘇我氏そのものが排除されなかった点です。蘇我倉山田石川麻呂は右大臣となり、新政権の中枢に入りました。

乙巳の変は「王家対蘇我氏」という単純な戦争ではなく、王族と複数氏族による政治連合の組み替えでした。

孝徳天皇の即位

皇極天皇の譲位を受け、軽皇子が孝徳天皇として即位しました。

政変の中心人物だった中大兄皇子自身が即位しなかったことは重要です。王位には年齢、系譜、王族内の合意、有力氏族との関係など複数の条件が必要だったと考えられます。

孝徳天皇は単なる名目的な君主ではありません。難波遷都、大規模宮殿造営、外交、改新政策などは孝徳朝という王権の下で進められました。

中大兄皇子は皇太子へ

中大兄皇子は孝徳朝で皇太子となります。後の天智天皇です。

『日本書紀』では、改新政策の多くに中大兄皇子が深く関与したように描かれます。一方、孝徳天皇、左右大臣、国博士なども政治を担っており、中大兄一人を「改革の実行者」とすることはできません。

653年に中大兄皇子が大規模な飛鳥帰還を主導したことを見ると、皇太子が独自の政治基盤と多数の支持者を持っていたことは確かです。

左大臣・右大臣・国博士

『日本書紀』によれば、新政権では阿倍内麻呂が左大臣、蘇我倉山田石川麻呂が右大臣となりました。

さらに、高向玄理と僧旻が「国博士」に任じられたと記されます。二人とも中国大陸で長期間学んだ経験を持つ人物でした。

海外制度を知る人物が政権中枢へ組み込まれたことは、改革が単なる氏族間の人事交替ではなく、東アジアの制度を参照しながら政治構造を再編しようとする性格を持っていたことを示します。

「大化」という年号

『日本書紀』は645年に「大化」という年号が定められたと記します。伝統的には日本で最初の公的年号とされています。

年号を用いることは、王の在位だけではなく、王権自身が時間を区切り、政治の年代を管理することを意味します。

ただし初期年号の使用実態については史料上の議論もあります。8世紀以後のように全国の行政文書へ統一的に年号が使われる制度が、645年から直ちに完成していたと考える必要はありません。

難波への政治中心移動

645年、新政権は政治の中心を飛鳥から難波へ移します。奈良県の年表も、孝徳天皇即位と難波長柄豊碕宮への遷都を同年の重要事項として整理しています。

実際の宮殿建設は数年を要し、652年に本格的な難波長柄豊碕宮が完成したと『日本書紀』は記します。

つまり645年の「遷都」を、一日で完成した新都へ全官人が移動した出来事と考えるより、難波を新たな王権中心として整備し始めた長期事業と考える方が適切です。

なぜ難波だったのか

難波は大和から西へ出る水陸交通の結節点であり、大阪湾から瀬戸内海へ直接つながります。

北部九州、朝鮮半島、中国大陸との外交使節・留学生・物資は海から難波へ到着しました。飛鳥よりも国際交通へ接続しやすい場所です。

また河内・摂津には有力氏族、渡来系集団、生産拠点が多く存在しました。難波は国内政治と対外交流を結びつける位置にありました。

難波津と東アジア

大阪市立図書館は、古代の難波津をヤマト王権の海への玄関口と説明しています。法円坂周辺では5世紀の大型倉庫群も確認されており、難波が孝徳朝以前から物資集積・外交に重要な場所だったことが分かります。

孝徳朝はゼロから都市を作ったのではなく、すでに発達していた港湾・交通拠点を政治中枢へ格上げしました。

この選択によって、王権の中心は内陸の氏族拠点だけではなく、東アジアへ開かれた港湾都市と結びつくようになります。

645年から始まる改革

改革は646年正月の「改新の詔」だけで始まったわけではありません。

『日本書紀』には645年中に地方へ使者を送り、人民・土地を調査し、不正を正し、鐘や匱を設けて訴えを受け付けるなど、複数の政策が記されています。

これらの記事すべてを同時代の原文として確認できるわけではありませんが、王権が地方首長を通じた従来の間接的支配を見直し、中央から地方へ直接関与しようとした方向性は重要です。

地方へ使者・国司を派遣する

奈良文化財研究所系の資料には、645年8月の「東国等国司」、646年3月の「東国国司等」「東国朝集使等」に関する『日本書紀』記事が整理されています。

ここで使われる「国司」が、後の律令制下の国司と同じ制度だったと考えることには注意が必要です。

7世紀中頃は、中央から派遣された使者と地域首長による在地支配が重なりながら、新しい地方統治の形を試していた段階でした。

土地と人民を把握する

中央集権的な政治を作るためには、各地域に誰が住み、どれだけの土地があり、誰が生産物を負担できるかを把握する必要があります。

氏族が個別に人々を支配するだけでは、王権が全国規模で税や労働力を配分することはできません。

大化改新の核心の一つは、地域・氏族ごとに分散していた人民・土地への権利を、より強く王権が把握しようとする方向にありました。

646年 「改新の詔」

『日本書紀』は646年正月に四か条からなる「改新の詔」が出されたと記します。

奈良県立万葉文化館は、その内容を豪族による人民・土地所有の廃止、天皇による統一的支配制度の導入、地方行政組織の整備などを命じたものと説明しています。

ただし現在伝わる文面には、後の律令制度で用いられた用語が入り込んでいることが指摘されています。詔全文を646年当時の原文そのままとみなすことはできません。

改新詔の四つの柱

伝えられる改新詔は、大きく四つの方向を示しています。

第一は、王族・豪族が持っていた子代、屯倉、部曲、田荘など従来の人的・土地的支配を再編することです。

第二は、京師・地方行政区画、交通制度などを整えることです。

第三は、戸籍・計帳を作成し、土地を人民へ給付する仕組みを設けることです。

第四は、従来の負担を整理し、新しい税・労役体系を構築することです。

これらは後の律令国家の制度とよく対応しますが、すべてが646年に完成したわけではありません。

「公地公民」をどう考えるか

大化改新は長く「公地公民制の成立」と説明されてきました。

ただし「公地公民」という四字熟語を、そのまま646年に公布された制度名のように理解するべきではありません。後世の歴史学で、土地・人民を王権的な支配の下へ再編する方向を要約するために用いられてきた言葉です。

地方首長や氏族が持っていた支配権が一夜ですべて消えたわけでもありません。地域首長は後の評督・評造、さらに郡司につながる地方支配者として国家制度の中へ組み込まれていきます。

戸籍・計帳・班田構想

改新詔には戸籍・計帳を作り、人民へ田を班給する制度が記されています。

後の班田収授法では戸籍に基づき口分田を給付し、その田に対して租を負担させました。奈良県立万葉文化館は班田収授法を、中国の均田制を参考に導入された制度として説明しています。

しかし全国的な戸籍整備が確実に確認されるのはさらに後です。670年には庚午年籍が作られたことが『日本書紀』と木簡資料から確認されます。

したがって646年の詔は、後の制度につながる政策方針を示すものとして理解し、完成した全国的班田制と同一視しないことが重要です。

制度は一度に完成していない

『日本書紀』の改新詔を読むと、後の律令国家の制度がほぼ完成形で提示されているように見えます。

しかし実際には、地方行政、戸籍、班田、官位、税制は天智・天武・持統朝まで数十年かけて整備されます。701年の大宝律令によって、ようやく体系的な律令国家制度が文書化されます。

大化改新は「完成した制度の公布」というより、7世紀中頃以降の国家再編を始動させた政策群として捉える方が実態に近いと考えられます。

評制 — 地方行政の再編

大化改新の中で、実施が確実視される改革の一つが「評」の設置です。

評は後の「郡」にあたる地方行政単位です。国の下に評を置き、地域首長を評督・評造などとして組織する制度が7世紀中頃から後半に形成されました。

奈良県立万葉文化館も、後の郡につながる評の設置など地方行政改革については実施が確実視されていると説明しています。

「郡」ではなく「評」

ここには、大化改新研究で非常に重要な史料問題があります。

現在の『日本書紀』に残る646年の改新詔では、地方区分に「郡」という文字が使われています。しかし、7世紀後半の同時代木簡では「評」が使われています。

大宝令施行後の701年頃を境に「評」から「郡」へ表記が変わったことが木簡から判明しました。

つまり『日本書紀』の改新詔には、8世紀の編纂者が自分たちの時代の制度用語へ書き換えた部分があることが具体的に確認できます。

木簡が変えた大化改新研究

奈良文化財研究所が紹介する石神遺跡の木簡には、665年に相当する「乙丑年」とともに「三野国…評」「五十戸」と記された例があります。

これは、後の「国―郡―里」制度の前身となる「国―評―五十戸」の地方組織が、少なくとも665年段階で実際に機能していたことを示します。

この発見だけで646年の改新詔全文の信憑性が証明されたわけではありません。しかし、7世紀中頃から後半に地方行政組織が急速に整備されたことを考古資料が裏づけています。

地方首長は消えなかった

評制が導入されたからといって、それまでの地方首長が全員解任され、中央官人に置き換えられたわけではありません。

むしろ王権は、地域社会の実情を知り、労働力・生産物を集めることができる在地首長を新しい地方行政の担当者として組み込む必要がありました。

後の郡司に地方豪族が任じられたことからも、中央集権化とは地方権力の消滅ではなく、それを王権制度の中に再配置する過程だったことが分かります。

税制再編の方向

改新詔は従来の負担体系を整理し、田地や戸を基礎にした新しい負担制度を作る方向を示します。

後の律令制では租・調・庸などの税制が整いますが、その完成を646年へ遡らせることはできません。

重要なのは、誰がどの氏族に属するかだけでなく、戸籍・土地・行政区画を通して人民の負担を把握しようとする方向が強まったことです。

646年 薄葬令

646年には、墓制を規制するいわゆる「薄葬令」も『日本書紀』に記されます。

奈良県は、大化改新の中で薄葬令によって墳墓や墓室の規模が規制されたと説明しています。

それまで大型古墳は、王や首長の政治力を示す最も巨大な構造物でした。王権が墓の規模や葬送のあり方を規制しようとしたことは、各氏族が独自に権威を表現する方法へ中央が介入することを意味します。

巨大古墳政治の終わり

大型前方後円墳は7世紀以前からすでに減少しており、薄葬令だけが古墳時代を終わらせたわけではありません。

仏教寺院、宮殿、官衙など、新しい公共建築が政治権威の中心へ移ったことも大きな要因です。

奈良県も、7世紀には前方後円墳から方墳、さらに天皇墓に特徴的な八角墳へ変化する流れの中で薄葬令を位置づけています。

墓の巨大さを競う政治から、宮・寺院・官僚制度によって権威を示す政治への転換が進みました。

墓を王権が規制する

薄葬令が示す重要な点は、死者の墓さえ氏族が自由に決める私的領域ではなく、王権が規制対象と考え始めたことです。

墓の規模、葬送に投入する人員・期間などを身分に応じて制限する発想は、社会的地位を中央の秩序で統一的に位置づけようとする考え方とつながります。

ただし薄葬令後も大型古墳や豪華な墳墓は造られます。法令が直ちに全国の葬送習慣を統一したわけではありません。

新しい宮殿を造る

大化改新を考える上で、文章で記された詔以上に重要な考古学的証拠の一つが難波宮です。

制度改革を行うには、官人を集め、政務を行い、外国使節を迎え、物資を管理する恒常的な政治空間が必要です。

難波宮は、王族の住居に付属する宮ではなく、内裏、朝堂院、官衙などを大規模に配置した政治施設でした。

前期難波宮

大阪市中央区法円坂周辺では、発掘調査によって二時期の難波宮跡が重なって確認されています。その古い段階が「前期難波宮」です。

大阪市は前期難波宮を、大化改新による難波遷都の後に営まれた難波長柄豊碕宮と考えています。

大阪歴史博物館も、前期難波宮を孝徳天皇の難波長柄豊碕宮に相当するとする理解が現在広く受け入れられていると説明しています。

中軸線と朝堂院

前期難波宮では、内裏から南へ明確な中軸線が延び、その左右に政治施設が配置されました。

大阪市の文化財資料は、内裏・朝堂院・宮城南門と、その東西の官衙からなる大規模な構造を紹介しています。

大阪歴史博物館は、652年に完成した宮殿が明確な中軸線と広大な朝堂院を備えた、日本史上初めての本格的宮殿だったと説明しています。

王の住居と政治官庁を空間的に秩序立てて配置すること自体が、中央政府という新しい政治概念を建築で表したものと見ることができます。

官衙が集まる宮城

前期難波宮の周辺では官衙に関係する建物群も発見されています。

政治の実務を行う施設が宮の中・周辺へ集中することは、各氏族の邸宅で分担されていた政治機能を、王権の中心空間へ集める方向を示します。

まだ後の律令官司のように整然とした省庁制度が完成していたわけではありませんが、「宮廷」と「政府」が空間的に一体化していく重要な段階でした。

652年 宮殿完成

『日本書紀』は652年に難波長柄豊碕宮が完成したと記し、その壮麗さを強調します。

大阪歴史博物館も652年の完成を紹介し、難波遷都を大阪の都市史の重要な出発点と位置づけています。

645年の政変から約7年をかけて完成した巨大宮殿は、新政権が制度だけでなく、政治を実行する恒常的な物理基盤を作ろうとしたことを示します。

前期難波宮の年代論

ただし、前期難波宮のすべての遺構を孝徳朝の一度の工事で完成したものとみなすかについては研究上の議論があります。

大阪市文化財協会の2024年研究では、孝徳朝造営説が多くの支持を得る一方、より後の年代を考える説や、複数段階の建替えを考える説も紹介されています。

現在の大阪市・大阪歴史博物館の一般的な解説では難波長柄豊碕宮に比定されていますが、遺構各部の年代については考古学的検討が継続しています。

647–648年 北方支配の拡大

孝徳朝の改革は畿内や西日本だけを対象にしていません。

『日本書紀』は647年に越国に渟足柵を造り、648年には磐舟柵を整えたと記します。現在の新潟県方面にあたります。

奈良文化財研究所系の古代山城・官衙研究資料でも、孝徳朝の対蝦夷政策として渟足柵・磐舟柵の記事が整理されています。

王権が東北日本へ支配・交流範囲を広げる過程も、中央集権化と同時に始まっていました。

渟足柵・磐舟柵

「柵」は単なる城壁ではなく、王権が北方地域へ人員を置き、交通・交易・軍事・行政の拠点を作る施設だったと考えられます。

『日本書紀』は磐舟柵の整備に際して越・信濃の人々を移して「柵戸」としたと記します。

この政策は後の東北経営につながりますが、7世紀中頃に北日本全域が王権へ完全服属したことを意味しません。現地の蝦夷と呼ばれた諸集団との交易・同盟・軍事衝突を伴う長い過程の始まりでした。

官人秩序の再編

推古朝には冠位十二階が導入されましたが、孝徳朝にも冠位制度の改定が重ねられます。

官人の地位を王権が位によって整理することは、氏族の姓だけに依存しない中央政治秩序を作るために必要でした。

ただし有力氏族の政治基盤が冠位によって消えたわけではありません。阿倍氏や蘇我倉氏のような大氏族は、官位制度と並んで独自の人員・土地・婚姻関係を持ち続けました。

蘇我倉山田石川麻呂

蘇我倉山田石川麻呂は、乙巳の変で中大兄皇子側に協力し、新政権では右大臣となった人物です。

蘇我本宗家を倒した政治連合の中に、蘇我氏の別系統が参加していたことを象徴する人物でもあります。

641年から山田寺の造営を始めており、奈良文化財研究所は山田寺を石川麻呂の発願による初期仏教寺院としています。

649年 石川麻呂事件

649年、蘇我倉山田石川麻呂は謀反の疑いをかけられました。『日本書紀』によれば、難波から大和へ逃れ、自ら建立していた山田寺で自害します。

奈良文化財研究所の山田寺発掘調査報告も、649年を石川麻呂が事件によって死亡した年として整理しています。

その後、謀反の訴えが虚偽だったと判明したと『日本書紀』は記します。事実関係の詳細は史料に依存しますが、新政権内部でも激しい権力闘争が続いていたことを示す事件です。

山田寺と事件の記憶

山田寺は石川麻呂の死後も造営が続き、後世まで重要寺院として存続しました。

奈良文化財研究所の発掘では東回廊の建築部材が倒れた状態で残り、7世紀寺院建築を知る極めて重要な資料となっています。

石川麻呂の政治生命が649年で終わっても、その氏寺は消滅しませんでした。政治的敗者の一族や文化基盤が、政変後も社会に残り続ける例です。

改革政権は一枚岩ではない

石川麻呂事件から分かるのは、「改革派」が一枚岩の集団だったわけではないということです。

乙巳の変で同じ側に立った人物同士でも、数年後には政治的対立によって排除される可能性がありました。

大化改新を「旧勢力と改革勢力の戦い」と二分するより、王族・氏族が新しい秩序の主導権をめぐって連合と対立を繰り返した過程として見る必要があります。

650年 白雉改元

650年、白い雉が献上されたことを祥瑞として、年号が「大化」から「白雉」へ改められたと『日本書紀』は記します。

白い動物など珍しい自然現象を、王の徳に応じて天が示す吉兆と解釈する思想は、中国の政治文化に深く関係します。

改元は単にカレンダー名を変える行為ではなく、王権が天意や国際的な政治思想を用いて自らの正統性を表現する行為でした。

祥瑞と王権

推古朝以来、倭王権は仏教だけでなく、中国由来の礼・暦・官位・祥瑞思想も受け入れていました。

白雉改元は、中国の制度をそのままコピーしたというより、東アジアで共有される政治言語を倭王権が自らの君主権へ取り込んだ例です。

政治改革は税制や行政組織だけではなく、君主をどのような存在として表現するかという理念の改革でもありました。

652年の班田記事をどう見るか

奈良県の歴史年表では652年に班田収授法が施行されたと整理されています。

ただし、全国規模で戸籍に基づき口分田を定期的に班給する後の律令的班田制が、652年に完成形で実施されたと考えることには慎重さが必要です。

670年の庚午年籍、690年の庚寅年籍、7世紀後半の評制木簡などを見ると、人民・土地把握は数十年をかけて制度化されています。

652年の記事は、土地配分政策が孝徳朝で実施・模索されたことを示す一方、後の完成した班田収授制との間には制度形成の段階差があると考えるべきです。

653年 遣唐使

653年、倭王権は再び唐へ使節を派遣しました。

孝徳朝の改革は国内制度だけでなく、唐との外交を継続しながら行われています。統一帝国の制度・仏教・学問を学ぶことは、国家改革そのものと深く関係していました。

遣唐使には学生・学問僧も参加し、中国大陸で専門知識を学びました。

道昭と玄奘

653年の遣唐使に従って唐へ渡った僧の一人が道昭です。大阪市は、道昭が入唐後に玄奘三蔵の教えを受けたと紹介しています。

玄奘はインドへ赴き大量の仏典を中国へ持ち帰った唐代を代表する僧です。

道昭の留学は、倭が仏教を百済経由で受容する段階から、中国大陸の最新の仏教教学へ直接接続する段階へ進んだことを示します。

外交使節に宗教・学問人材を同行させる政策は、その後の遣唐使でも続きます。

653年 孝徳と中大兄の対立

653年、孝徳天皇と中大兄皇子の政治関係は決定的に悪化したと『日本書紀』は伝えます。

奈良県の資料によれば、中大兄皇子は都を倭京、すなわち飛鳥方面へ戻すことを求めましたが、孝徳天皇はこれを受け入れませんでした。

なぜ中大兄が難波を離れようとしたのかは明確ではありません。氏族基盤、王族政治、飛鳥の寺院・宮との関係など、複数の要因が考えられます。

中大兄皇子らが飛鳥へ戻る

孝徳が還都要求を拒否すると、中大兄皇子は皇極前天皇、間人皇后、多くの皇族・臣下を伴って飛鳥へ戻ったとされます。

奈良県の資料は、皇后までもが中大兄皇子に従って戻ったと説明しています。

この出来事は、皇太子が王権中枢の多数の人々を動かせるほど強い政治力を持っていたことを示します。

同時に、孝徳天皇と皇太子の間で政治方針と支持基盤が分裂したことも分かります。

難波に残された孝徳天皇

653年以後、孝徳天皇は難波に残ります。

わずか前年に壮大な難波長柄豊碕宮が完成したにもかかわらず、王権中枢の多くが飛鳥へ移るという事態になりました。

これは、巨大な宮殿を建設すれば政治中心が自動的に固定されるわけではないことを示します。古代王権の政治中心は、宮殿そのものよりも、王族・氏族・官人がどこに集まるかによって決まりました。

654年 孝徳天皇の死

654年、孝徳天皇は難波で死去しました。

その後すぐ中大兄皇子が即位したわけではありません。655年には母の皇極前天皇が再び即位し、斉明天皇となります。

中大兄皇子は乙巳の変以来王権中枢にありながら、さらに長期間皇太子の立場で政治へ関与します。この点でも7世紀の王位継承は単純な父子相続や実力者即位ではありません。

中央集権化はどこまで進んだのか

645~654年に、後の律令国家へつながる方向性が明確になったことは確かです。

王権は地方へ使者を送り、評制の基礎を整え、人民と土地を把握しようとし、官人序列を整え、墓制を規制し、大規模な難波宮を建設しました。

一方、戸籍・班田・税制・地方官制は完成しておらず、地域首長の力も残っています。新政権内部では石川麻呂事件が起こり、最後には孝徳天皇と中大兄皇子の政治分裂まで生じました。

したがって孝徳朝を「中央集権国家が完成した時代」ではなく、「王権が中央集権的な国家を作るための制度を本格的に試し始めた時代」と位置づけるのが適切です。

日本史の中でこの時代を見る意味

645~654年は、「大化改新」という一つの名称で圧縮されやすい時代です。しかし、その中身を分解すると、日本古代国家がどのように作られたのかが見えてきます。

第一に、乙巳の変と制度改革は別です。政変によって蘇我本宗家を排除した後、新政権は地方行政、土地、人民、税、葬送、宮都を実際に再編する必要がありました。

第二に、改革は一度に完成しません。646年の改新詔は重要ですが、その文章には後世の用語が含まれます。一方、評制木簡や難波宮の発掘成果は、7世紀中頃から後半に現実の制度変化が進んだことを示しています。

第三に、国家形成は制度だけではなく空間の変化でもありました。難波宮には内裏、朝堂院、官衙が集められ、王権が政治機能を一つの大規模宮城へ集中させようとしました。

第四に、中央集権化は地方豪族を単純に消滅させる政策ではありませんでした。地域首長を評制などの新しい行政秩序へ組み込み、王権との関係を作り替えることで進みました。

第五に、改革政権自身も不安定でした。蘇我倉山田石川麻呂の死、孝徳天皇と中大兄皇子の対立は、国家形成が合意された一本の政策ではなく、複数勢力の競争を伴う政治過程だったことを示します。

孝徳朝で始まった制度形成は、654年で終わりません。次の斉明朝には朝鮮半島情勢が急速に緊張し、王権は国内改革だけでなく、大規模な対外戦争へ巻き込まれていきます。その危機が、さらに強い中央国家を必要とする大きな契機になります。

主な流れ

次の時代へ — 斉明朝と白村江前夜

孝徳天皇が654年に死去すると、中大兄皇子はなお即位しませんでした。翌655年、母の皇極前天皇が再び王位につき、斉明天皇となります。

斉明朝では、飛鳥で巨大な宮殿・石造物・水利施設が造営され、王権の空間表現はさらに大規模になります。一方、東北方面では阿倍比羅夫の遠征が行われ、王権の北方進出も強まります。

そして朝鮮半島では、新羅と唐が接近し、660年に百済が滅亡します。倭王権は百済復興支援を決断し、斉明天皇自身が西日本へ移動する異例の事態となります。

次の記事では、655–663年|斉明朝と白村江の戦い — 百済救援、東アジア戦争と国家危機として、斉明天皇の重祚、飛鳥の大規模造営、阿倍比羅夫の北方遠征、660年の百済滅亡、筑紫への西征、斉明天皇の死、663年の白村江敗戦までを扱います。

参考資料・出典

本ページは、奈良県、奈良県立万葉文化館、大阪市、大阪歴史博物館、大阪市文化財協会、奈良文化財研究所、国立国会図書館等の公開資料を参照してART LIBRARYが独自に構成・執筆しています。646年の「改新の詔」は『日本書紀』が720年に編纂した本文に依存し、後世の制度用語による文飾が指摘されるため、詔の文章を646年の原文そのままとして扱っていません。一方、7世紀後半の木簡から「評」制が実際に存在したことが確認され、地方行政再編そのものは実施されたと考えられます。また、前期難波宮については孝徳朝の難波長柄豊碕宮とする理解を基本としつつ、個々の遺構の造営年代には研究上の議論があることを明記しました。652年の班田施行についても、後の全国的な班田収授制度が同年に完成したとは断定していません。