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697–710年

大宝律令と律令国家

文武朝、「日本」国号、遣唐使、平城遷都へ

697年、持統天皇は孫の軽皇子へ王位を譲り、文武天皇が即位しました。文武が受け継いだのは、単なる王位だけではありません。天武・持統朝に整備された飛鳥浄御原令、庚寅年籍、藤原京、官人制度、地方行政、国史編纂といった国家形成の蓄積そのものを継承しました。

この時代最大の転換は701年の大宝律令です。刑罰法である「律」と、官制・地方行政・戸籍・税・身分・軍事・儀礼など国家運営の規則を定める「令」が一組の体系として整備され、中央には神祇官・太政官と八省を中心とする官僚組織、地方には国・郡・里を基礎とする行政制度が整えられました。奈良文化財研究所は、大宝律令の施行によって官司名や地方行政単位が大きく変化し、「評」から「郡」へ切り替わったことが701年前後の木簡から確認できると説明しています。

大宝律令は、7世紀半ばの大化改新から始まった一連の国家再編が、一つの成文法体系としてまとまった重要な節目です。しかし「701年に突然すべてが完成した」と考えるべきではありません。戸籍、評制、官位、都城、文書行政はすでに天智・天武・持統朝から発達しており、大宝律令はそれらを整理し直し、より統一された法体系へ組み込んだものです。また、大宝律令の原本は現存しておらず、後の養老律令や注釈書、木簡などから内容を復元しています。

702年には粟田真人を執節使とする遣唐使が海を渡りました。当時の中国は唐ではなく武則天の「周」の時代でしたが、日本側では通常、この使節も遣唐使の系列に数えられます。この使節をめぐる中国側史料は、列島国家が「倭」ではなく「日本」という国号を対外的に示していく時期を考えるうえで重要です。ただし、国号変更の正確な年月日や、どの使節が初めて「日本」を名乗ったかには研究上の議論があります。

707年に文武天皇が死去すると、その母である阿閉皇女が元明天皇として即位しました。翌708年には和同開珎が発行され、同年には平城への遷都が決定されます。710年、都は藤原京から平城京へ移りました。法典、戸籍、官僚制、貨幣、外交、都城が相互に結びつき、8世紀の律令国家が本格的に動き始めます。

697年 文武天皇即位

697年8月、持統天皇が譲位し、軽皇子が文武天皇として即位しました。奈良県の年表は、697年を持統譲位・文武即位の年として整理しています。

文武は草壁皇子と阿閉皇女の子で、天武天皇と持統天皇の孫にあたります。父の草壁皇子は689年に即位しないまま死去したため、王位は祖母の持統から孫の文武へ移りました。

壬申の乱以来、王位継承は国家安定を左右する最大の問題でした。697年の譲位は、現君主が生存中に後継者を明確にし、正式な即位へつなげることで、武力衝突を避けながら王統を継承する試みでした。

持統から孫へ — 生前譲位による継承

持統天皇は死によって王位を空席にしたのではなく、自らの意思で軽皇子へ譲位しました。

これは672年の壬申の乱、大津皇子事件、草壁皇子の早世という継承危機を経験した政権にとって重要な選択でした。

生前の前君主が新君主を支えることで、王位継承を「君主死後の実力争い」から制度化された政治手続へ近づけることができます。

文武天皇

文武天皇は即位時には若い君主でした。奈良県立万葉文化館は、697年2月に皇太子となり、同年8月に即位したと整理しています。

文武朝では、天武・持統朝に構想・施行された制度を基礎に、より体系的な律令法典が編纂されます。

文武個人の政治を、藤原不比等など臣下がすべて代行したと単純化することはできません。若い天皇、持統太上天皇、皇族、高位官人が共同する政権の中で国家制度が形成されました。

持統太上天皇

持統は697年の譲位後も政治的に重要な存在でした。後の『続日本紀』では太上天皇として記されます。

文武朝初期の国家政策を考える際、持統が完全に「引退」していたとみなすことはできません。

天武朝以来の政策を知る前君主が存命のまま、若い文武天皇を支える構造は、政権の連続性を高めました。

藤原京を受け継ぐ新政権

文武天皇は藤原宮で即位しました。藤原京は694年に持統天皇が遷都した、日本列島最初の本格的な計画都城です。

奈良文化財研究所は、藤原京が条坊道路を持ち、中央に藤原宮を置き、官人宅地や大寺院を含む都市として機能したと説明しています。

文武朝の大宝律令は、この都市空間に置かれた官司と官人を動かす法制度でした。律令と都城は別々の制度ではなく、互いを必要とする国家装置でした。

698年 薬師寺の完成

奈良県の年表は698年に薬師寺、現在「本薬師寺」と呼ばれる藤原京期の寺院が完成したと整理しています。

薬師寺は680年、天武天皇が皇后の病気平癒を願って建立を発願したとされ、持統・文武朝まで造営が続きました。

一つの国家的大寺院が複数代の君主によって建設されることは、王権政策が個々の君主の一代限りではなく、国家事業として継承されるようになったことを示します。

700年 道昭の火葬

奈良県の年表は700年、僧・道昭が遺言により火葬され、記録上日本最初の火葬例となったと整理しています。

道昭は653年の遣唐使で入唐し、玄奘から仏教を学んだとされる僧です。

火葬という葬法自体がこの時初めて列島に存在したと断定することはできませんが、文献に明確に記録された重要な例であり、仏教とともに葬送文化が変化していく時代を象徴します。

葬送文化の変化

7世紀には前方後円墳が終息し、薄葬令、方墳・八角墳、仏教寺院、火葬など、死者をめぐる文化が大きく変化しました。

古墳時代には巨大な墳墓建設が王や首長の権威表現でしたが、律令国家では位階、官職、宮都、寺院など別の制度が社会的地位を表すようになります。

道昭の火葬は、こうした長期変化の中で見る必要があります。

大宝律令編纂へ

天武天皇は681年に律令編纂を命じ、持統朝の689年には飛鳥浄御原令が施行されました。

文武朝では、その制度をさらに整理し、刑罰法を含む本格的な律令体系を作る作業が進みます。

『続日本紀』には700年、刑部親王をはじめ藤原不比等、粟田真人らに律令の撰定を命じた記事が残ります。

刑部親王

刑部親王は天武天皇の皇子で、大宝律令編纂の中心となった王族です。

律令編纂が皇族一人の著述作業だったわけではありません。刑部親王は総裁的な立場で、多数の官人・学者を組織する役割を持ったと考えられます。

王族が国家法典の編纂責任を担うことは、律令が単なる官人の技術文書ではなく、王権そのものの基本法体系だったことを示します。

藤原不比等

藤原不比等は藤原鎌足の子で、文武朝以後急速に政治的地位を高めます。

700年の律令撰定者に名を連ね、701年には大納言級の政治中枢へ進みました。708年には右大臣となります。

後世の藤原氏が巨大な政治勢力となるため、不比等を最初から「藤原氏支配」を完成させた人物のように見てしまいがちですが、文武朝ではまだ皇族・他氏族と並ぶ国家官僚の一人として制度形成に参加していました。

19人の編纂者と専門知識

大宝律令の編纂には、刑部親王・藤原不比等だけではなく、粟田真人、下毛野古麻呂、伊吉博徳ら多数の官人が参加したとされます。

その中には遣唐使経験者、外交・漢文に通じる官人、渡来系氏族に関係する知識人などが含まれました。

唐の制度を理解しながら、それを列島社会へ適用できる形に組み替えるには、語学、法制、行政、外交の複合的な知識が必要でした。

701年 大宝律令の完成

701年、大宝律令が完成・施行段階に入ります。奈良県の年表、奈良文化財研究所、国立公文書館はいずれも701年を大宝律令成立の重要年として位置づけています。

大宝律令は「律」6巻、「令」11巻から成ったと伝えられます。律は犯罪と刑罰を中心に規定し、令は官制、戸籍、税、軍事、身分、儀礼など国家運営の広範な制度を定めました。

「大宝」という年号も701年に始まり、国立歴史民俗博物館は大宝以後、日本で年号が途切れることなく継続して用いられると説明しています。

律と令

律を現在の刑法、令を現在の行政法に単純対応させる説明は分かりやすい一方、古代律令の範囲はより広いものでした。

令には官人制度、戸籍、土地、税、学校、軍事、医療、儀礼、交通、倉庫、家族・身分など、社会運営の広範な規則が含まれていました。

つまり律令は一分野の法律ではなく、国家そのものをどのように組織するかを文章化した巨大な制度体系でした。

大宝律令は現存しない

大宝律令の原本は現在まで伝わっていません。

後の養老律令、9世紀の注釈書『令集解』、各種史書、木簡などによって内容が部分的に復元されています。

そのため、後世の養老律令にある条文を無条件に「大宝律令にもまったく同じ形で存在した」と考えることには注意が必要です。

701年に国家が突然生まれたわけではない

大宝律令を「日本の国家が完成した年」と一言で説明すると、それ以前の半世紀にわたる制度形成が見えなくなります。

評制、庚午年籍、庚寅年籍、飛鳥浄御原令、位階、官司、藤原京など、律令国家の部品はすでに天智・天武・持統朝に作られていました。

701年の意味は、それらを唐の律令を参照した一つの法体系として整理し直し、中央・地方へ統一的に適用し始めたことにあります。

二官八省

奈良文化財研究所は、大宝律令の制定によって中央官司の名称と組織が大きく変化し、神祇官と太政官を筆頭とする二官八省の制度が成立したと説明しています。

太政官の下には中務省、式部省、治部省、民部省、兵部省、刑部省、大蔵省、宮内省が置かれ、それぞれの下に職・寮・司などの組織が配置されました。

政治を氏族の長同士の協議だけで行うのではなく、職務ごとに専門官司を分ける官僚国家の構造が明確になります。

神祇官

神祇官は国家的な祭祀を担当する官司です。

律令国家が中国の制度を参照したからといって、列島の祭祀が政治から消えたわけではありません。むしろ在来の神祇祭祀を中央官司の一部として組織化しました。

仏教、唐風法制、神祇祭祀を同じ国家の中に並存させることが古代日本の特徴でした。

太政官と八省

太政官は一般政務を統括する中枢組織で、その下に八省が置かれました。

各省は官人の人事、民政、軍事、司法、財政、宮廷生活などを分担します。

藤原京左京七条一坊からは、大宝元年・二年頃の官司文書木簡がまとまって発見されており、中務省、内蔵寮、画工司など新制度下の役所名や文書形式が実際に使用されていたことが分かります。

官人制と位階

律令国家では、官人は位階と官職によって国家組織に配置されます。

氏族の出自は依然重要でしたが、「どの氏族に属するか」だけで政治的地位が決まるのではなく、個人がどの位階を持ち、どの官職に任じられているかが行政上の位置を示します。

天武・持統朝の位階改革が、大宝律令の官位制度へ整理されていきました。

蔭位と官人社会

一方、律令官僚制は現代的な能力主義の官僚制ではありません。

高位官人の子や孫には、父祖の地位に応じて一定の位階を得やすくする「蔭位」の仕組みがありました。

国家は氏族秩序を完全に廃止したのではなく、貴族・官人家の世襲的優位を法制度の中へ再編しました。

国・郡・里

大宝令下では、地方行政が国・郡・里の三段階を基本に整理されました。

奈良文化財研究所は、大宝令を境として地名表記が「評」から「郡」へ、「五十戸」から「里」へ変化したことを木簡から確認しています。

行政区画を全国で同じ名称・階層に統一することは、中央政府が地方を共通制度で把握するために必要でした。

国司

各国には中央から国司が派遣されます。

国司は国内の行政、租税、軍事、司法などに関わり、中央政府と地方社会をつなぐ役割を担いました。

地方の有力者だけに統治を任せるのではなく、中央官人を定期的に地方へ赴任させることで、中央の法と命令を全国へ広げる仕組みが形成されました。

郡司

郡を実際に運営した郡司には、旧来の地方豪族・首長層が多く任じられました。

つまり中央集権化によって地方豪族が消滅したわけではありません。

在地で人々や土地を把握してきた首長の能力を利用しながら、その地位を中央政府が承認する地方官へ組み替えたのです。

「評」から「郡」へ

7世紀後半の同時代木簡では、後の「郡」にあたる行政単位を「評」と書きました。

ところが701年の大宝令施行を境に「郡」という表記へ変化します。

奈良文化財研究所は、701年前後の年紀木簡によってこの切り替えが実証されたことを、いわゆる「郡評論争」を決着させた重要な発見として紹介しています。

木簡が示す制度転換

法律の制定だけなら、史書の記録を読むしかありません。しかし木簡は、実際の行政現場で制度がどう使われたかを直接示します。

藤原京から出土した大宝元年・二年の木簡には、新しい官司名、位階、国郡里制、文書形式などが確認できます。

国立歴史民俗博物館が所蔵する福岡市元岡・桑原遺跡出土「大宝元年」木簡の複製は、大宝令が施行された同年に九州でも「大宝」の年号が使われたことを示す資料として紹介されています。

中央の法律が、短期間で地方の文書行政へ浸透していたことが分かります。

里と戸

地方行政の最小単位では、複数の戸をまとめて「里」を構成しました。

戸は単なる現代的な同居家族ではなく、律令行政上の人民編成単位です。

戸籍・計帳を通じて人々を戸に登録し、その戸を基礎に土地・税・労役・兵役を割り当てることで、国家は地域社会を行政上の数値として把握できるようになります。

戸籍・計帳

戸籍は一定期間ごとに人口・身分・家族関係を登録し、計帳は毎年の課税対象などを把握する行政文書として用いられました。

690年の庚寅年籍によって令制戸籍の基盤はすでに整えられていましたが、大宝令はその仕組みをより体系化します。

行政が継続して機能するには、法律だけでなく大量の文書作成・保存・更新が必要でした。

班田収授

律令国家では、戸籍に基づいて一定年齢以上の人民へ口分田を班給し、死亡などに応じて返還させる班田収授の仕組みが制度化されました。

ただし全国で理想どおり同一条件の班田が継続的に行われたと考えるべきではありません。土地条件、地域差、戸籍の精度など現実の運用には多くの問題がありました。

重要なのは、土地の配分と人民登録を国家制度として結びつけたことです。

租・調・庸と労役

人民には田地にかかる租、地域の産物や布などを納める調、労役に代わる庸などの負担が課されました。

さらに一定期間の労役、兵役、地方から都への運搬なども社会に大きな負担を与えます。

律令国家の壮大な宮殿・道路・寺院・行政制度は、各地の農民が生産し、運び、働くことで維持されていました。

律令国家と農民の負担

中央集権化は、地方社会から見れば国家との接触が増えることでもありました。

戸籍へ登録され、田を班給される一方、税と労役を負担し、場合によっては兵士として動員されます。

律令制度を「近代的な行政の始まり」とだけ評価すると、国家制度を支えた人々の負担が見えにくくなります。

良民と賤民

律令社会では、人々は法的身分によって分類されました。

後の養老令で詳しく確認できるように、良民と賤民の区別があり、賤民内部にも複数の身分区分が置かれました。

大宝令の具体的条文は失われていますが、律令国家が人々を単に納税者として登録するだけでなく、法的身分によって分類する社会秩序を持っていたことが重要です。

軍事制度

白村江敗戦以来、列島国家は兵士・防人・烽・山城などの軍事制度を整えてきました。

大宝令では軍事行政も官制・地方行政の中へ位置づけられます。中央では兵部省が軍事に関わり、地方では戸籍などを基礎に兵士を把握する制度が整えられていきます。

国家が人民を登録することは、税を徴収するためだけでなく、必要なときに兵力を動員するためでもありました。

官道・駅制と情報網

中央政府が地方を統治するには、命令を送り、官人・使者を移動させ、地方から文書・税物を都へ運ぶ道路網が不可欠です。

律令国家では各地の国府を結ぶ官道と、駅家・駅馬を利用する交通制度が整えられました。

7世紀の烽火や軍事道路から発達した情報網が、8世紀には日常的な行政交通へ組み込まれていきます。

文書行政

大宝律令施行後、政治はますます文書によって動くようになります。

藤原京左京七条一坊から出土した木簡には、役所が中務省へ物資搬出許可を申請する「解」と呼ばれる文書形式などが確認されています。

誰が何を命じ、どの役所が受け取り、何を運び出したかを記録することで、行政を再確認できる仕組みが生まれました。

印と行政の標準化

律令国家の文書には官司・諸国の印が用いられ、文書の公的効力を確認する制度が整えられます。

口頭命令だけで政治を行うのではなく、書式、署名、印、保管を組み合わせることで「国家の命令」を個人の言葉から切り離すことができます。

官人が交替しても同じ制度を継続できる官僚国家には、こうした文書標準化が不可欠でした。

「大宝」と年号

701年には年号が「大宝」となりました。

国立歴史民俗博物館は、日本では大宝以降、年号が途切れることなく1300年以上用いられていると説明しています。

年号は時間そのものを中央国家が統一して表示する仕組みです。「大宝元年」と書かれた木簡が九州でも見つかることは、全国の行政文書が同じ国家時間へ組み込まれていく過程を示します。

702年 遣唐使

702年、大規模な遣唐使が出発しました。奈良県の資料では、粟田真人を中心とし、山上憶良、道慈らが参加した使節として整理されています。

白村江後の669年以来、30年以上本格的な遣唐使は派遣されていませんでした。

この間に倭王権は壬申の乱、天武・持統朝の国家改革、大宝律令制定を経験しています。702年の使節は、制度を作り替えた列島国家が中国王朝との公式関係を改めて構築する外交でした。

粟田真人

粟田真人は大宝遣唐使の中心人物です。國學院大學の古典文化学事業は、真人が大宝律令編纂に参加し、701年に遣唐執節使に任じられたことを紹介しています。

『旧唐書』には真人が経史を読み文章を理解し、立ち居振る舞いも整った人物として評価された記述があります。

法典編纂に参加した人物が、その制度を持つ国家の代表として中国へ渡ったことは象徴的です。

相手は武則天の周だった

「702年の遣唐使」と呼びますが、この時点で中国の唐王朝は一時中断していました。

690年、武則天は国号を「周」として皇帝となり、705年に唐が復活します。そのため粟田真人らが到着した中国王朝は厳密には武周です。

遣唐使という名称は日本史上の使節系列を示す便宜的名称であり、当時の中国政治の実態とは区別する必要があります。

山上憶良・道慈らの渡航

奈良県の通史資料は、702年の遣唐使に山上憶良、道慈らが参加したと整理しています。

山上憶良は後に『万葉集』を代表する歌人となり、道慈は帰国後に仏教界・大安寺などで重要な役割を持ちます。

遣唐使は外交官だけを運ぶ船ではありません。僧侶、学生、知識人が中国で長期間学び、その知識を帰国後の制度・文化へ持ち込む仕組みでもありました。

大宝遣唐使の意味

大宝遣唐使には複数の意味がありました。

新しい律令国家として国際的地位を示す外交、唐・武周の制度・儀礼・文書形式を学ぶ情報収集、仏教・学問・技術の獲得などです。

さらに藤原京の次の都となる平城京を考える際、中国都城に関する新しい情報がこの使節によってもたらされた可能性も指摘されています。

国号「日本」

7世紀の中国史料では列島国家は主に「倭」と呼ばれていましたが、8世紀初頭には「日本」という国号が中国側史料に現れます。

『旧唐書』『新唐書』などの記述は、倭から日本への国号変更をめぐる重要史料です。702年出発の粟田真人使節は、新しい国号を対外的に示していく時期と重なります。

「日本」という名称には、中国大陸から見て日の昇る方向に位置するという東方意識との関係が考えられてきましたが、名称成立を一つの理由だけで説明することには注意が必要です。

国号変更を一日で決めたとしない

国号「日本」がいつ、誰の命令で正式に決定されたのかを記す同時代の国内文書は残っていません。

天武朝成立説、持統朝成立説、大宝律令との関係を重視する説、遣唐使外交との関係を重視する説など研究があります。

したがって「702年、粟田真人が唐へ行って初めて日本と名乗った」と断定するのも、「701年の大宝律令に国号変更条文が明記されていた」と断定するのも慎重であるべきです。

確実に言えるのは、7世紀末から8世紀初頭の国家制度再編の中で「日本」という国号が成立・定着し、中国側にも認識されるようになったということです。

東アジアの中の新しい国家像

国号、君主号、律令、都城、外交儀礼は互いに関係しています。

列島国家は唐の制度を学びながらも、唐の地方行政単位になるのではなく、独自の君主と法体系を持つ国家として東アジア外交に参加しようとしました。

「日本」という国号の定着は、国内制度の中央集権化と対外的な国家表象が同時に進んだことを示します。

702年 持統太上天皇の死

702年、持統太上天皇が死去しました。奈良県の年表も、遣唐使派遣と持統死去を同年の出来事として整理しています。

686年の天武死後から16年間、称制、即位、譲位後を通じて国家形成を支えてきた人物がここで失われます。

文武政権は以後、持統という前世代の強力な政治的支柱なしで律令国家を運用する段階へ入ります。

703–707年 飢饉と国家行政

奈良県の通史資料は703~707年に飢饉が連続したと整理しています。

律令国家が制度を整えた直後から、自然災害や不作に対応する現実的な行政能力が問われました。

戸籍・税制を持つ国家にとって、凶作時にも同じ負担を機械的に課せば地域社会が維持できません。後の律令政治では賑給、租税免除、出挙など救済・財政政策が重要になります。

法典の制定だけではなく、異常事態に制度をどう調整するかが国家運営の実際でした。

704年 慶雲改元

704年、年号は「大宝」から「慶雲」へ改められました。

「慶雲」はめでたい雲、祥瑞を意味する名称です。

中国由来の祥瑞思想と年号制度が、国家政治の日常的な時間表記として定着していく様子が見えます。

704年 遣唐使の帰国

奈良県の通史年表では704年、粟田真人・山上憶良ら遣唐使が帰国したとされています。

中国滞在で得た情報は、外交だけでなく法制、仏教、都市、儀礼、文化へ影響を与えました。

遣唐使は「先進文化を持ち帰る」という抽象的な制度ではなく、特定の人間が海外で見聞きした制度を持ち帰り、日本側で選択・再構成する人的ネットワークでした。

大宝律令後の制度調整

大宝律令は一度公布すれば永遠に変更不要な法律ではありません。

施行後、実際の行政で生じる問題に応じて法令は修正・補足されていきました。

後に藤原不比等らが養老律令の編纂を進めることからも、大宝律令は完成点というより、律令政治を本格運用する最初の体系だったと考える方が適切です。

707年 文武天皇の死

707年、文武天皇が死去しました。奈良県の年表も同年を文武死去・元明天皇即位の年としています。

文武には藤原宮子との間に首皇子、後の聖武天皇がいましたが、この時点では幼少でした。

そこで文武の母である阿閉皇女が王位を継ぎます。

元明天皇即位

707年、阿閉皇女が元明天皇として即位しました。

阿閉皇女は天智天皇の娘で、草壁皇子の妃、文武天皇の母です。

天武・持統系の王統を、幼い首皇子へつなぐ位置にある人物でした。

元明朝では和同開珎の発行と平城京造営という、律令国家の経済・都市政策を象徴する二つの大事業が進みます。

再び女性君主が即位する

推古、皇極・斉明、持統に続き、元明も女性天皇です。

古代女性天皇を例外的な「中継ぎ」だけとみなすと、元明朝で実際に大規模な国家政策が進められたことが見えません。

一方で、幼少の首皇子へ王統をつなぐという継承上の事情が即位の重要な背景だったことも否定できません。政治主体としての実権と王位継承上の役割を同時に見る必要があります。

708年 銅の献上と「和銅」

708年、武蔵国から自然銅が献上されたことを祥瑞として、年号が「和銅」へ改められたと史料は伝えます。

同じ年に国家は新しい貨幣、和同開珎を発行しました。

銅資源、改元、貨幣発行が同じ政治過程に結びついている点は、国家が自然資源・象徴・経済制度を一体的に扱ったことを示します。

和同開珎

708年、和同開珎の銀銭・銅銭が鋳造されました。奈良県の年表と日本銀行金融研究所貨幣博物館はいずれも708年の発行を確認しています。

和同開珎は長く「日本最初の貨幣」と説明されてきましたが、飛鳥池遺跡から7世紀後半の富本銭が発見されたため、現在は最初の鋳造貨幣とはされません。

それでも和同開珎は、律令国家が継続的な流通を意図して発行した貨幣制度の大きな節目です。

富本銭との違い

富本銭は天武朝の683年に記された銅銭との関連が強く指摘されています。

しかし富本銭がどの程度一般流通したのかには議論があり、その発行規模も和同開珎とは異なります。

日本銀行貨幣博物館は、和同開珎が律令国家の象徴として発行され、その後国家が銭貨の使用促進政策をとったことを説明しています。

国家が貨幣を発行する意味

国家貨幣には単なる交換手段以上の意味があります。

規格、文字、重量を国家が決め、価値を保証することで、王権の権威を経済活動へ広げることができます。

貨幣博物館は、和同開珎が平城京造営などの支払いにも使われ、国家が銭貨流通を促進したと説明しています。

ただし8世紀初頭に米・布などの現物経済が消えたわけではなく、銭貨は既存の交換・租税体系と併存しました。

708年 平城遷都の決定

708年、元明天皇は平城への遷都を決定しました。奈良県は和銅元年を「平城遷都の詔」の年として整理しています。

藤原京は694年に遷都したばかりで、わずか14年後に次の都造営が始まったことになります。

遷都の背景には政治、地理、交通、都市計画、中国都城制など複数の要因が考えられ、一つの理由だけで説明することはできません。

なぜ藤原京から移るのか

藤原京は日本最初の本格的な条坊都城であり、短期間で「失敗した都市」だったわけではありません。

大宝律令施行後、官僚機構と人口が拡大し、新しい国家儀礼・行政に適した宮都を再設計する必要が高まった可能性があります。

また平城の地は奈良盆地北部に位置し、山城方面や畿内各地への交通にも接続します。

遣唐使がもたらした大陸の最新知識が、新都構想へ影響した可能性も考えられています。

遣唐使がもたらした都市情報

奈良市の平城京解説は、平城京が大宝遣唐使のもたらした唐の都城に関する新しい情報を参照して造営されたと説明しています。

ただし「平城京は長安をそのまま縮小コピーした」と考えるべきではありません。

中国都城制を参照しながら、奈良盆地の地形、既存道路、国内官制に合わせて独自に設計されています。

平城京の計画

平城京は朱雀大路を中心に左京・右京を配置し、碁盤目状の条坊道路で市街地を区画する計画都市です。

平城宮は藤原宮のように京の中央ではなく、都市北端中央に置かれました。

さらに東側には外京と呼ばれる張り出し部分が形成されます。

奈良県の資料では、平城京の基本区域を東西約4.3キロ、南北約4.8キロとし、東側に外京が加わる構造を紹介しています。

藤原京から受け継いだもの

平城京は藤原京を捨ててゼロから作られた都市ではありません。

奈良文化財研究所の2026年特別展は、平城宮・京から飛鳥・藤原地域の宮殿・寺院と関係する瓦・土器が出土し、両地域の深い連続性が確認できると説明しています。

行政制度、人材、寺院、工人、建築資材などが旧都から新都へ移されました。

平城京造営

708年の遷都決定から710年まで、わずか約2年で新都造営が急速に進められました。

もちろん710年の時点で都市のすべてが完成していたわけではありません。宮殿、寺院、道路、宅地の建設は遷都後も長く続きます。

藤原京で得た都城建設の経験、全国からの労働力・物資動員、和同開珎を含む財政手段が、新都造営を可能にしました。

710年 平城遷都

710年、元明天皇は藤原京から平城京へ遷都しました。

奈良文化財研究所、奈良県、奈良県立万葉文化館はいずれも和銅3年、710年を平城遷都年としています。

ここから平城京を中心とする奈良時代が始まります。

ただし時代区分としての「奈良時代」が始まったからといって、飛鳥時代の制度や文化が断絶したわけではありません。律令、都城、寺院、官人、木簡行政の多くは飛鳥・藤原で形成された仕組みを継承しています。

奈良時代の始まり

平城京では、大宝律令によって組織された中央官司が平城宮に集まり、全国の国司・郡司から税物・文書が送られます。

大陸との外交、寺院政策、貨幣、文書行政がさらに拡大し、『古事記』『日本書紀』『風土記』など国家的な記録編纂も進んでいきます。

8世紀初頭の国家は、7世紀の実験的な中央集権化から、より日常的に制度を運用する段階へ入ったのです。

日本史の中でこの時代を見る意味

697~710年は、律令国家が「構想」から「運用」へ移った時代です。

第一に、701年の大宝律令によって、中央官制、地方行政、戸籍、税、軍事、身分を共通ルールで扱う法体系が整いました。しかしその制度は大化改新以来の半世紀以上の積み重ねによって成立しており、701年だけを突然の国家誕生年とすることはできません。

第二に、法が実際の行政へ入りました。701年前後の木簡では官司名、文書形式、「評」から「郡」への変更、年号使用が確認できます。法律の存在だけでなく、地方の役所や官人がその規則に沿って文書を作成していたことが分かります。

第三に、国家の対外的な自己認識が変化します。702年遣唐使の時期には「日本」という国号が中国側にも現れ始めます。国号、天皇号、律令、都城を備えた国家が、東アジア国際秩序の中で自らの位置を表現するようになりました。

第四に、中央集権化は社会への負担を拡大しました。戸籍・班田・租税・労役・兵役によって、国家は農民の日常生活へより深く入り込みます。藤原京や平城京という巨大都市も、各地から集められた人・物資によって建設されました。

第五に、貨幣が国家政策として本格化します。708年の和同開珎は最古の鋳造貨幣ではありませんが、国家が継続的流通を意図して発行し、新都造営などに用いた点で重要です。法と文書だけでなく、貨幣によって経済を組織しようとする段階へ進みました。

そして710年の平城遷都によって、律令国家は新しい首都を得ます。しかし奈良時代は飛鳥時代と断絶した別世界ではありません。水田農耕社会、氏族政治、百済・新羅・唐との交流、大化改新、白村江、壬申の乱、天武・持統改革、藤原京という長い積み重ねが、平城京の国家を成立させました。

主な流れ

次の時代へ — 平城京と奈良時代

710年、平城京への遷都によって政治の舞台は奈良盆地南部の藤原京から北部の新都へ移りました。

平城京では大宝律令に基づく中央官僚制と地方行政が本格的に運用されます。各地から租税・産物・木簡・人々が都へ集まり、都からは命令・官人・文化が地方へ送り出されます。首都は国家の中心であると同時に、列島各地をつなぐ巨大な行政・物流拠点となります。

一方、律令制度の運用が進むほど、その矛盾も表面化します。人口増加、班田不足、農民の負担、逃亡・浮浪、疫病、蝦夷との軍事関係、仏教寺院の拡大、藤原氏をはじめとする貴族政治など、新しい問題が現れます。

次の記事では、710–724年|平城京と奈良時代の始まり — 元明・元正朝、古事記、日本書紀、地方支配として、平城京の都市構造、710年代の律令行政、712年『古事記』、713年風土記編纂命令、715年郷里制、717年遣唐使、718年養老律令編纂、720年『日本書紀』、隼人・蝦夷をめぐる国家領域、723年三世一身法、724年聖武天皇即位までを扱います。

参考資料・出典

本ページは、奈良県、奈良県立万葉文化館、奈良文化財研究所、奈良市、国立歴史民俗博物館、国立公文書館、日本銀行金融研究所貨幣博物館、國學院大學、国立国会図書館等の公開資料を参照してART LIBRARYが独自に構成・執筆しています。大宝律令は原本が現存しないため、後世の養老律令・注釈書と木簡研究によって復元される制度として扱いました。「701年に律令国家が突然完成した」とはせず、天智・天武・持統朝から続く制度形成の節目として位置づけています。また国号「日本」の成立時期については学説があり、702年遣唐使を国号成立の確定年とはしていません。平城京についても唐長安の影響を認めながら、単純な模倣都市とはせず、藤原京からの制度・技術・人材の連続性を重視しています。