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622–645年

蘇我氏の最盛期と乙巳の変

王位継承、山背大兄王、遣唐使

622年に厩戸皇子が死去し、626年には蘇我馬子、628年には推古天皇が相次いで世を去りました。推古朝を約30年にわたって支えた主要人物が短期間に失われたことで、王権は新しい継承問題に直面します。厩戸皇子の子・山背大兄王は有力な王族でしたが、最終的に即位したのは田村皇子、後の舒明天皇でした。

この時代、蘇我氏は王権中枢で大きな力を維持します。馬子の後を継いだ蘇我蝦夷は大臣となり、その子・入鹿も皇極朝で政治的影響力を強めました。『日本書紀』は蝦夷・入鹿を王権をしのぐほど「専横」した人物として描きます。しかし、この史書は蘇我本宗家が滅んでから約75年後、乙巳の変の勝者側につながる王権によって編纂されたものです。その描写をそのまま6世紀末から7世紀前半の政治実態とみなすことには慎重さが必要です。

同時に、倭王権は東アジアの新しい秩序へ対応していました。618年に中国では隋に代わって唐が成立し、630年には犬上御田鍬らが第一回遣唐使として派遣されます。608年に隋へ渡った僧旻、南淵請安、高向玄理らも長期滞在を経て帰国し、中国大陸で経験した制度・思想・国際情勢に関する知識を持ち帰りました。

舒明朝には、王権自身が仏教政策の主導権を強めます。639年には百済大寺の造営が始まり、奈良県の資料では、これを大王自身が建立を主導した最初の大規模寺院として位置づけています。蘇我氏が飛鳥寺を建立した時代から、仏教寺院の造営が王権そのものの政治事業へ移っていく変化が見えます。

そして643年、蘇我入鹿の軍勢によって山背大兄王とその一族が滅亡したと『日本書紀』は記します。二年後の645年には、中大兄皇子と中臣鎌足らが飛鳥板蓋宮で入鹿を殺害し、翌日には父・蝦夷も自害しました。この事件が「乙巳の変」です。乙巳の変と、その後数年にわたる政治制度改革である「大化改新」は同じ出来事ではありません。本記事では645年の政変までを扱い、改革の具体的内容は次の記事で検討します。

厩戸皇子の死後

622年、厩戸皇子が死去しました。推古朝では王族として政治・仏教・外交に深く関与したと伝えられ、斑鳩にはその政治的・宗教的基盤が形成されていました。

厩戸皇子の死後、その子である山背大兄王が斑鳩の上宮王家を継承します。法隆寺は、山背大兄王が父の遺志を受け継いだ人物として寺伝に位置づけています。

しかし厩戸皇子の死によって、次の大王候補の構図は大きく変化しました。推古天皇には長い在位期間がありましたが、その後継者を誰にするかという制度的なルールはまだ確立していませんでした。

626年 蘇我馬子の死

626年、蘇我馬子が死去したと『日本書紀』は記します。奈良県の年表も626年を馬子没年として整理しています。

馬子は敏達・用明・崇峻・推古の複数の王の時代を通じて王権中枢にあり、587年の物部守屋との戦争、崇峻大王の擁立と殺害、飛鳥寺の建立、推古朝の政策などに関与したと伝えられます。

40年近く王権政治に影響した人物の死は、大王家と蘇我氏との関係を次世代へ移す大きな転換でした。

蘇我蝦夷が大臣となる

馬子の死後、その子・蘇我蝦夷が大臣となったと奈良県の年表は記します。

蘇我氏の政治力は一代で消えませんでした。大王家との婚姻、飛鳥周辺の土地基盤、仏教寺院、渡来系集団とのつながりなど、馬子の時代に形成された政治資源が蝦夷へ継承されたためです。

一方で、馬子の時代と蝦夷の時代を同じ「蘇我氏支配」として一括するべきではありません。推古、厩戸皇子、馬子という長期政治の枠組みが崩れた後、蝦夷は新しい王位継承問題と東アジア情勢に対応する必要がありました。

628年 推古天皇の死

628年、推古天皇が死去します。奈良県の年表は、翌629年に舒明天皇が即位したと整理しています。

推古は約36年間在位し、その間に遣隋使、冠位十二階、仏教興隆、飛鳥寺、斑鳩の王族政治などが進みました。長期政権だっただけに、死後の継承問題は重要でした。

『日本書紀』には、推古が明確な後継者を公式に決めないまま亡くなり、山背大兄王と田村皇子が有力候補となったという構図が描かれます。

王位継承問題

7世紀前半には、後世のような厳密な皇位継承法はありませんでした。大王家の血統を持つ複数の成人王族が候補となり、有力氏族や王族の支持によって即位が決まる政治的な側面が大きくありました。

山背大兄王は厩戸皇子の子として斑鳩に強い基盤を持ちました。一方、田村皇子は敏達系王族につながり、後に舒明天皇となります。

この継承争いを「蘇我氏が好きな王を選んだ」とだけ説明すると、王族間の系譜、複数氏族の利害、推古朝の政治関係を見落とします。

山背大兄王

山背大兄王は厩戸皇子の子で、母は蘇我馬子の娘・刀自古郎女とされます。つまり蘇我氏とも血縁関係を持つ王族でした。

法隆寺・法起寺の寺伝は、山背大兄王を厩戸皇子の遺志を受け継いだ人物として伝えています。法起寺の由緒では、厩戸皇子が岡本宮を寺にするよう山背大兄王へ遺命したとされます。

後に蘇我入鹿によって排除されることから、蘇我氏対厩戸系王族という単純な対立に見えますが、山背大兄王自身が蘇我氏の血を引いている点は重要です。7世紀政治は氏族名だけできれいに二陣営へ分けられるものではありませんでした。

田村皇子

田村皇子は後の舒明天皇です。押坂彦人大兄皇子の子・茅渟王の系統につながる王族で、敏達天皇の血統を引くとされます。

推古死後、田村皇子と山背大兄王のどちらを次の大王にするかが問題となり、最終的には田村皇子が即位しました。

この選択によって、後の天智天皇・天武天皇へつながる王統が政治の中心へ進みます。舒明の后である宝皇女、後の皇極・斉明天皇との間に中大兄皇子、大海人皇子らが生まれるためです。

629年 舒明天皇の即位

629年、田村皇子が舒明天皇として即位しました。奈良県の年表と明日香村の飛鳥宮跡資料はいずれも629年即位、630年頃の飛鳥岡本宮を記しています。

舒明朝は、推古朝の制度を引き継ぎながら、王権自身が仏教・外交・大規模造営をより積極的に主導していく時代になります。

また、舒明の即位によって蘇我氏が政治から排除されたわけではなく、蘇我蝦夷は引き続き大臣として王権中枢に存在しました。

「蘇我氏が王位を決めた」と単純化しない

『日本書紀』の記述からは、蝦夷が舒明即位を支持した重要人物だったことが読み取れます。しかし、大王の選出を蘇我蝦夷一人が自由に決められたと断定することはできません。

王位候補は王族である必要があり、その支持には他の王族・有力氏族も関与しました。舒明自身も独自の王統基盤を持っています。

蘇我氏の力が非常に大きかったことと、蘇我氏が王権そのものだったことは同じではありません。

飛鳥岡本宮

舒明天皇は飛鳥岡本宮を宮としました。現在の飛鳥宮跡では、舒明朝の岡本宮、皇極朝の板蓋宮、斉明朝の後飛鳥岡本宮、天武・持統朝の飛鳥浄御原宮が重なっていることが発掘調査で確認されています。

奈良県の「ならいこ」は、飛鳥岡本宮を630年に舒明天皇が造営した宮とし、その後同じ場所に複数代の宮が置かれたことを飛鳥宮の重要な特徴として説明しています。

大王が代替わりするたびに宮を移す政治から、同じ政治空間を継続的に利用する方向へ変化し始めた点は、王権組織の成長と関係します。

唐の成立と東アジア

618年、中国大陸では隋が滅び、唐が成立しました。推古朝末期から舒明朝にかけて、倭が向き合う中国王朝は隋から唐へ変わります。

唐は東アジア諸国に大きな影響を与える帝国へ成長し、高句麗・百済・新羅もそれぞれ唐との外交関係を構築しました。

倭王権にとって、中国の制度・仏教・学問を学ぶだけでなく、朝鮮半島三国と唐の関係を把握することが安全保障と外交の上で重要になっていきます。

630年 第一回遣唐使

630年、『日本書紀』では犬上御田鍬らが唐へ派遣されます。奈良県立万葉文化館は、これを遣唐使の初見として説明しています。

遣隋使から遣唐使へ相手王朝は変わりましたが、海外へ使節・留学生・学問僧を送り、外交と知識獲得を同時に行う政策は継続しました。

この遣唐使は、後の奈良・平安時代まで断続的に続く大規模な対外交流制度の出発点になります。

犬上御田鍬

第一回遣唐使の大使とされる犬上御田鍬は、推古朝の608年の遣隋使にも参加したとされる人物です。

隋と唐という二つの中国王朝との外交経験を持つ人材が継続して利用されたことは、王権内部に外交実務の経験が蓄積していたことを示します。

外交は一度きりの特別行事ではなく、専門知識を持つ人材を必要とする継続的な国家業務へ変わりつつありました。

遣唐使は何を求めたのか

遣唐使の目的は、貢物を持って中国皇帝へ挨拶することだけではありません。政治制度、仏教、文物、書籍、暦、医薬、国際情勢などを学び、倭へ持ち帰ることが大きな意味を持ちました。

奈良県立万葉文化館も、遣唐使が国際的地位の向上と中国の先進的文物の輸入に大きな役割を果たしたと説明しています。

7世紀前半の倭は、唐の制度をそのままコピーしたのではなく、得た知識を既存の氏族政治へどう組み込むかを模索する段階でした。

632年 僧旻の帰国

632年、608年に隋へ渡った僧旻が新羅の使者とともに帰国したと奈良県の年表は記します。

奈良県の資料によれば、僧旻は隋が唐へ変わる時期を含めて20年以上中国大陸に滞在し、唐の皇帝や新羅王が仏教を政治的に保護する姿を知りました。

こうした長期留学者は、書物だけでは伝わらない宮廷儀礼、官僚制、都市、寺院、国際関係を実際に見た人物でした。

長期留学がもたらした知識

推古朝の留学生・学問僧が帰国し始めると、王権は唐の政治制度について具体的な情報を得られるようになります。

唐は皇帝を中心に官僚制、法、地方行政、租税、軍事を大規模に組織する国家でした。倭の氏族政治とは制度の規模が大きく異なります。

帰国者が直ちに唐式制度を導入したわけではありませんが、「別の国家運営が存在する」という具体的知識そのものが、7世紀中頃の改革を構想する前提になりました。

636年 田中宮へ

奈良県の年表では、636年に舒明天皇が田中宮へ遷ったとされています。

飛鳥岡本宮から別の宮へ移ることは、依然として王の代・事情に応じて宮を移す古い慣行が残っていたことを示します。

一方、飛鳥岡本宮の場所は後の皇極・斉明・天武・持統朝に再利用されます。飛鳥が王権の恒常的政治中心へ成長する流れは途切れませんでした。

639年 百済大寺

639年、舒明天皇は百済川のほとりに「大宮」と「大寺」を造るよう命じたと史料に記されます。この大寺が百済大寺です。

奈良県の資料は百済大寺を、大王自身の発願によって造営された最初の大規模寺院と位置づけています。奈良文化財研究所の発掘成果では、桜井市の吉備池廃寺が百済大寺にほぼ確実に比定され、巨大な塔基壇などが確認されています。

飛鳥寺が蘇我馬子による氏族寺院として成立したのに対し、百済大寺では王権自らが寺院建設の主体となりました。

王権が仏教造営を主導する

奈良県の資料は、舒明が百済大寺を造営したことを、仏教興隆の主導権が蘇我氏だけではなく王権へ移っていく重要な段階として説明しています。

これは「蘇我氏が仏教、王家が在来祭祀」という単純な役割分担がすでに崩れていたことを示します。

仏教寺院は外交、学問、儀礼、技術者の集積地でもあります。王権が巨大寺院を自ら造営することは、新しい国際文化を王の権威へ直接結びつける政策でした。

百済宮と大寺

639年の詔では寺だけでなく宮も同時に造営され、舒明は640年に百済宮へ移ったと奈良文化財研究所の資料は整理しています。

宮殿と大寺を同じ地域で大規模に建設することは、政治と仏教を空間的にも結びつける試みでした。

後の藤原京・平城京では宮都と官寺が国家的な都市空間を構成します。百済宮・百済大寺は、その前段階として見ることができます。

大規模造営と労働動員

奈良文化財研究所の百済大寺資料には、造営のため近江・越などから人夫を動員したという『日本書紀』の記事が整理されています。

遠隔地域から多数の人々を集め、大規模な寺と宮を建設するには、氏族や地方首長を通じた広域的な労働動員が必要です。

王権が巨大古墳だけでなく、生きた政治・宗教施設へ大規模労働を投入するようになったことは、古墳時代から古代国家への構造変化を示します。

640年 南淵請安・高向玄理の帰国

640年、608年に留学生として隋へ渡った南淵請安と高向玄理が帰国したと奈良県の年表は記します。

二人は約30年間、中国大陸で隋の滅亡と唐の成立を経験しました。

彼らが持ち帰ったのは書籍や制度知識だけではありません。王朝交替、国際戦争、官僚政治、都市行政など、東アジア最大の政治社会を実地に観察した経験でした。

南淵請安

奈良県の資料は、南淵請安を608年に隋へ留学し、640年に帰国した学僧・知識人として紹介しています。

『日本書紀』は、中大兄皇子と中臣鎌足が南淵請安のもとへ学びに通い、その往復の途中で蘇我氏打倒の策を練ったという逸話を伝えます。

この逸話が政変計画の実態をどこまで正確に保存しているかは分かりません。しかし、乙巳の変を担う次世代の政治家が、隋・唐を直接知る帰国者の知識に接したと伝えられていることは象徴的です。

海外知識と国内政治

唐の制度を知ったから直ちに「蘇我氏を倒そう」という結論が出たわけではありません。蘇我氏自身も長く大陸文化の受容を支えてきた氏族です。

一方、7世紀中頃には、王権と地域首長の関係をより制度化し、外交文書・官位・租税・地方支配を整理する必要性が高まっていました。

海外知識は特定の氏族を否定する思想ではなく、国内政治を別の形に作り替えるための選択肢を増やしたと考える方が適切です。

641年 舒明天皇の死

641年、舒明天皇が死去しました。奈良文化財研究所の百済大寺資料では、舒明は百済宮で死去し、その北で殯が行われたという史料記事が整理されています。

舒明朝は、遣唐使の開始、帰国留学生の受け入れ、王権による百済大寺建立など、推古朝から次の国家改革へつながる政策が蓄積された時期でした。

しかし、その死によって再び王位継承問題が生じます。

642年 皇極天皇の即位

642年、舒明の皇后だった宝皇女が即位します。後の皇極天皇であり、655年には斉明天皇として重祚する人物です。

奈良県立万葉文化館は、皇極元年の即位、翌643年の飛鳥板蓋宮への移動、645年の乙巳の変と譲位を整理しています。

皇極は中大兄皇子と大海人皇子の母でもあります。この王統が、その後の天智・天武朝へ直接つながっていきます。

推古から皇極へ — 女性君主の継続

推古に続き皇極も女性君主として即位しました。古代の女性大王をすべて「男性後継者が決まるまでの中継ぎ」と説明することはできません。

皇極自身が外交・祭祀・宮殿造営の中心に位置し、645年には王権中枢で起きた政変を直接経験しています。

一方、王位継承候補となる成人男性王族が複数存在する中で、皇極の即位が政治勢力間の均衡に役立った可能性も考えられます。個別の即位事情をその都度検討する必要があります。

643年 飛鳥板蓋宮

643年、皇極天皇は小墾田宮から飛鳥板蓋宮へ移ったと明日香村は説明しています。

現在の飛鳥宮跡では、板蓋宮を含む複数時期の宮殿遺構が重なっています。板蓋宮は645年の乙巳の変の舞台として知られます。

飛鳥宮では、君主の居住空間と、政務・儀礼を行う空間が一体として形成されていきました。後の律令宮殿へつながる政治空間の発達が見られます。

宮殿が政治儀礼の中心になる

政治が複雑化すると、王の私的居住だけでなく、多数の氏族・外国使節を集める公式儀礼空間が必要になります。

明日香村の飛鳥宮跡資料は、宮が居住エリアと政務・儀礼の宮殿エリアから構成され、東アジア諸国との交流の舞台になったと説明しています。

645年の政変が宮殿内部で行われたことも、政治決定と外交儀礼がこの空間に集中していたからこそ可能でした。

蘇我入鹿の登場

皇極朝では、蘇我蝦夷の子・入鹿が政治の前面へ現れます。

『日本書紀』は入鹿を非常に強い権力を持った人物として描き、山背大兄王一族の滅亡や、王家に似た称号・施設を用いたという記事を記します。

しかし入鹿自身が残した文書はなく、その人物像のほとんどは後に彼を討った側の国家史を通して知られます。

入鹿を単純な「悪役」として扱うのではなく、蘇我本宗家が王権内部でどのような位置を占め、なぜ他勢力との衝突に至ったのかを考える必要があります。

蝦夷・入鹿父子の政治的位置

蝦夷・入鹿父子は、蘇我稲目・馬子以来の婚姻・土地・仏教・渡来系人材のネットワークを継承していました。

一方、舒明・皇極系王族も王権自身の寺院建設や遣唐使を進め、蘇我氏だけに国際文化の窓口を依存しない政治基盤を強めています。

この二つの動きを「蘇我氏対天皇家」という固定した対立にすることはできませんが、7世紀前半には王権と最有力氏族との力関係を再調整する必要が高まっていました。

『日本書紀』が描く蘇我氏

『日本書紀』は蘇我蝦夷・入鹿が大王のように振る舞い、政治秩序を乱したという印象を強く与えます。

しかし国立国会図書館が紹介する近年の大化改新研究では、乙巳の変を記す史料自体が中大兄皇子・中臣鎌足側に偏っており、政変の目的や首謀者、王位継承問題を再検討する必要があるとされています。

蘇我氏が大きな権力を持ったことは確かでも、その権力が「違法な独裁」だったかどうかは後世の政治理念を含む評価です。具体的な行動と後世の人物評価を分ける必要があります。

644年 甘樫丘の邸宅記事

明日香村の歴史年表は、『日本書紀』の記事として644年に蘇我蝦夷・入鹿が甘樫丘に邸宅を並べて建て、「宮門」と称したと整理しています。

この記述は、蘇我氏が王権に匹敵する権威を示した例として長く引用されてきました。

ただし、「宮門」などの語が事件後の編纂者によって蘇我氏の不遜さを強調するため配置された可能性も研究上指摘されています。

甘樫丘周辺に蘇我氏の強い政治基盤があったことと、史書がその行動をどのように評価したかは分けて考えるべきです。

山背大兄王との対立

舒明即位の際に有力候補だった山背大兄王は、皇極朝にも斑鳩を中心とする上宮王家の指導者として存在しました。

彼は厩戸皇子の子であり、蘇我氏とも血縁を持つため、単純な反蘇我勢力だったとは言えません。

しかし王位継承の可能性を持ち、独自の王族集団と寺院・土地基盤を持つ上宮王家は、王権中枢の政治構図で無視できない勢力でした。

643年 上宮王家の滅亡

643年、『日本書紀』は蘇我入鹿が山背大兄王の斑鳩宮を攻撃し、山背大兄王とその一族が滅亡したと記します。奈良県の年表にも同年の出来事として整理されています。

法隆寺も、山背大兄王をはじめ厩戸皇子の一族が蘇我入鹿の軍勢によって滅亡したと寺史で説明しています。

この事件によって、厩戸皇子系王族の有力な王位継承ラインが政治の中心から消えました。645年の政変を考えるうえで、その二年前に王族集団が武力で排除されたことは重要です。

斑鳩という政治拠点

山背大兄王が率いた上宮王家は、斑鳩宮、法隆寺、岡本宮など厩戸皇子以来の拠点を継承していました。

斑鳩は大和川水系を通じて河内・大阪湾方面と結ばれ、飛鳥とは別の王族政治拠点として機能し得る場所でした。

上宮王家の滅亡は一人の皇子の死だけではなく、飛鳥王権に並び得た王族拠点の政治的解体でもありました。

なぜ山背大兄王は排除されたのか

『日本書紀』は入鹿が古人大兄皇子を次の大王にしようと考え、山背大兄王を排除したという筋書きを示します。

しかし、この説明は後世の編纂史料に基づきます。国立国会図書館所蔵研究にも、皇極朝の政治過程や上宮王家滅亡、乙巳の変までの経緯を再検討する研究があります。

王位継承、王族間競争、蘇我氏内部の系統関係、他氏族との連携などが複雑に絡んでいた可能性があり、入鹿個人の野心だけを原因とすることは避けるべきです。

「専横」だけでは説明できない

643年の事件から645年の乙巳の変へ直線を引き、「入鹿の専横がひどくなったので正義の改革派が倒した」と説明すると、勝者側の歴史叙述をそのまま再現することになります。

実際には、蘇我氏は長く王権の外交・仏教・婚姻・制度形成を支えてきました。推古朝の改革も蘇我馬子を抜きには成立しません。

7世紀中頃に問題となったのは「改革する王権対改革を妨害する旧豪族」という単純な構図ではなく、どの王族・氏族連合が次の国家形成を主導するのかという権力再編でした。

中大兄皇子

中大兄皇子は舒明天皇と皇極天皇の子で、後の天智天皇です。奈良県立万葉文化館は、645年に中臣鎌足とともに蘇我入鹿を大極殿で斬り、その後皇太子となったと整理しています。

645年時点で中大兄皇子は若い王族でしたが、父母ともに王統の中心に位置し、有力な次世代王族でした。

乙巳の変後に直ちに即位せず、軽皇子、後の孝徳天皇を王位につけ、自身は皇太子として政治の中心へ入る点が重要です。

中臣鎌足

中臣鎌足は後の藤原鎌足です。中臣氏は古くから王権祭祀に関わる氏族でしたが、鎌足自身は645年政変を通じて急速に政治の中心へ進みます。

『日本書紀』と後世の『藤氏家伝』は、中大兄皇子と鎌足の密接な関係を乙巳の変の中心に置きます。

ただし、国立国会図書館が収録する研究では、『日本書紀』の事件叙述が編纂時に整理・再配置されている可能性が指摘され、鎌足・軽皇子・阿倍氏など政変を支えた政治連合を再検討する必要があるとされています。

南淵請安のもとへ通ったという伝承

奈良県の資料によれば、『日本書紀』は中大兄皇子と中臣鎌足が南淵請安のもとへ儒学を学びに通い、往復の途中で蘇我氏打倒策を練ったと伝えます。

これは非常に印象的な逸話ですが、二人がそこで具体的なクーデター計画を作ったことを示す同時代資料はありません。

一方、608年から640年まで中国に滞在した南淵請安が、唐の制度と国際情勢を伝え得た人物だったことは重要です。次世代政治家が海外制度に関する情報へ接近できる環境が整っていました。

政変を支えた人々

乙巳の変は中大兄皇子と中臣鎌足の二人だけで実行できる事件ではありませんでした。

『日本書紀』には蘇我倉山田石川麻呂、佐伯子麻呂、葛城稚犬養網田らが関与したと記され、政変後には軽皇子が孝徳天皇として即位します。

つまり蘇我本宗家の排除には、蘇我氏内部の別系統を含む複数の王族・氏族が参加しました。「反蘇我」という一枚岩の勢力ではなく、蘇我本宗家に代わる新しい政治連合が形成されたと見ることができます。

645年 乙巳の変

645年6月、中大兄皇子と中臣鎌足らが飛鳥板蓋宮で蘇我入鹿を殺害しました。明日香村は飛鳥宮跡を、この乙巳の変の舞台となった場所として説明しています。

奈良県立万葉文化館は、645年に中大兄皇子・中臣鎌足らが蘇我蝦夷・入鹿を滅ぼした乙巳の変を、その後の一連の政治改革である大化改新の始まりと位置づけています。

政変そのものは数日の政治・軍事事件でしたが、それによって王権中枢の勢力配置が根本的に変わりました。

飛鳥板蓋宮での入鹿殺害

『日本書紀』では、皇極天皇が出席する宮廷儀礼の場で入鹿を襲撃したと描かれます。

事件が大王の宮殿で実行されたことは、単なる氏族間の私闘ではなく、王位と中央政治を直接めぐるクーデターだったことを示します。

ただし、現存する事件描写は後世の編纂によるものです。誰が最初に計画し、皇極天皇がどこまで事前に知っていたのかなど、政変の内部事情には研究上の議論があります。

蘇我蝦夷の自害

入鹿が殺害された翌日、蘇我蝦夷は自邸に火を放ち、自害したと『日本書紀』は記します。

このとき「天皇記」「国記」などの書物も焼けたとする記事があります。推古朝に馬子と厩戸皇子が編纂したとされる記録との関係が考えられていますが、現物は残っていません。

蝦夷の死によって蘇我本宗家の政治的中心は崩壊しました。

蘇我氏全体が滅んだわけではない

「乙巳の変で蘇我氏が滅亡した」という表現は厳密には正確ではありません。

滅ぼされたのは蝦夷・入鹿を中心とする蘇我本宗家です。政変に協力した蘇我倉山田石川麻呂など蘇我一族の別系統は、その後も新政権で重要な地位に就きました。

さらに蘇我系氏族は後世にも残ります。乙巳の変は一氏族の完全消滅ではなく、蘇我一族内部を含む政治権力の再編でした。

皇極天皇の譲位

乙巳の変後、皇極天皇は軽皇子へ譲位しました。奈良県立万葉文化館は、645年に皇極が軽皇子、後の孝徳天皇へ譲位し、中大兄皇子が皇太子となったと整理しています。

皇極は後に655年、斉明天皇として再び即位します。したがって645年の譲位は、皇極の政治生命が終わったことを意味しません。

女性君主から男性君主へ単純に「正常化」したと見るのではなく、政変後の新しい政治連合を成立させるための王位再配置と考える必要があります。

孝徳天皇の即位

軽皇子は孝徳天皇として即位しました。新政権には中大兄皇子、中臣鎌足、阿倍内麻呂、蘇我倉山田石川麻呂らが参加します。

ここから難波への遷都、年号「大化」の採用、官制・地方支配・土地人民支配の改革が進められます。

しかしこれらは乙巳の変当日に一括して完成したわけではありません。645年から650年代へ続く長い改革過程でした。

中大兄皇子が直ちに即位しなかった意味

乙巳の変の中心人物でありながら、中大兄皇子は直ちに大王位につきませんでした。

これは大王位が単に政変の軍事的勝者へ自動的に与えられるものではなかったことを示します。王族内の年齢・系譜・政治的合意が重要でした。

中大兄は皇太子という位置で新政権の実権に深く関与し、その後も孝徳・斉明朝を通じて長期間即位せず政治を主導します。

乙巳の変と大化改新を分ける

教科書的説明では「645年、大化改新」と一つの事件のように覚えることがあります。しかし、現在は区別して理解する方が分かりやすいです。

乙巳の変は645年に蘇我入鹿が殺害され、蝦夷が自害した政変です。

大化改新は、その政変後に孝徳朝などで進められた一連の政治改革を指します。奈良県立万葉文化館も、乙巳の変を始まりとして、その後の詔による改革を大化改新と説明しています。

本記事は乙巳の変までを扱い、646年の改新詔以後の制度改革は次の記事で詳しく検討します。

「大化改新」の史料問題

大化改新については、『日本書紀』が詳細な改革詔を記します。しかし同書は720年に成立しており、645~646年から約75年後に編纂されました。

奈良県立万葉文化館も、646年の「改新の詔」には後の制度を反映した文飾が指摘されており、改革実態には検討が必要だと説明しています。

一方、後の「評」につながる地方行政改革など、実施が確実視される制度変化もあります。

したがって「日本書紀に書いてある改革が645年に一度に全部実施された」と考えるのではなく、7世紀後半まで続く国家形成の過程として見る必要があります。

日本史の中でこの時代を見る意味

622年から645年は、「蘇我氏が権力を独占し、それを中大兄皇子が倒した時代」という物語だけでは捉えられません。

第一に、王位継承の仕組みがまだ固定されていませんでした。推古死後には山背大兄王と田村皇子が競合し、舒明死後には皇極が即位します。王族、蘇我氏、その他の有力氏族の合意・競争が大王位を左右しました。

第二に、蘇我氏が強大化する一方、王権自身も成長しました。第一回遣唐使を送り、百済大寺を造営し、外国制度と仏教を大王の政治へ直接取り込んでいます。王権は蘇我氏にすべてを依存する存在ではなくなっていました。

第三に、唐との外交と長期留学者の帰国によって、政治を考える材料そのものが変わりました。隋・唐の官僚制、法、寺院政策、国際秩序を知る人物が王権内部に増え、後の制度改革を構想できる人的基盤が形成されます。

第四に、643年の上宮王家滅亡と645年の乙巳の変は、国家形成が制度改革だけでなく、激しい王位継承・権力闘争を伴ったことを示します。

そして乙巳の変の勝者たちは、単に蘇我氏を排除するだけでは政治を維持できませんでした。新しい王を立て、中央官制、地方支配、土地・人民、外交、宮都を再編する必要があります。その実験が「大化改新」と呼ばれる次の時代です。

主な流れ

次の時代へ — 大化改新と難波宮

乙巳の変によって蘇我本宗家は排除されました。しかし、それだけでは新しい国家は生まれません。

孝徳天皇、中大兄皇子、中臣鎌足、阿倍内麻呂、蘇我倉山田石川麻呂ら新政権は、政治の中心を飛鳥から難波へ移し、地方支配、土地・人民、官人制度、外交、葬送慣行などを再編し始めます。

646年には『日本書紀』が「改新の詔」を記します。ただし、その文言のすべてを646年の原文とみなせるかには研究上の議論があります。一方で、評制など7世紀中頃から後半に実際に進められた地方制度改革は考古資料・木簡研究などから具体的に確認されます。

次の記事では、645–654年|大化改新と難波宮 — 孝徳朝、改新詔、評制と中央集権化として、乙巳の変直後の新政府、難波遷都、646年の改新詔、公地公民をめぐる問題、地方行政、薄葬令、冠位制度、外交、そして孝徳天皇と中大兄皇子の対立までを扱います。

参考資料・出典

本ページは、奈良県、奈良県立万葉文化館、明日香村、奈良文化財研究所、法隆寺、国立国会図書館等の公開資料を参照してART LIBRARYが独自に構成・執筆しています。舒明・皇極朝、山背大兄王一族の滅亡、蘇我蝦夷・入鹿、乙巳の変に関する政治事件は『日本書紀』など後世の編纂史料に依存する部分が大きいため、同書の人物評価や動機説明をそのまま確定事実とはせず、考古学的に確認された飛鳥宮跡、百済大寺跡などと区別して記述しました。また、乙巳の変と大化改新を区別し、645年の政変後に行われた制度改革を次記事へ分けています。