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764–770年

称徳天皇と道鏡

西大寺、法王、宇佐八幡宮神託事件、光仁天皇即位

764年9月、藤原仲麻呂、恵美押勝の軍事行動が失敗し、仲麻呂は近江で敗死しました。仲麻呂と密接な政治関係にあった淳仁天皇は翌10月に廃位され、淡路へ送られます。孝謙上皇は再び天皇位へ戻り、二度目の治世を始めました。後世、この重祚後の天皇を称徳天皇と呼びます。

称徳朝の政治で最も注目される人物が僧・道鏡です。孝謙上皇の病気を看護したことで信任を得た道鏡は、仲麻呂失脚後に急速に昇進し、765年に太政大臣禅師、766年には法王となりました。767年には法王宮職という道鏡のための官司も設けられ、弟の弓削浄人も768年に大納言へ進みます。

しかしこの時代を「女帝が僧に惑わされ、道鏡が国家を私物化した」とだけ理解するのは適切ではありません。称徳朝には左大臣藤原永手、右大臣吉備真備をはじめとする律令官人が存在し、官僚組織も継続して機能していました。奈良県の資料も、道鏡の政治的地位の上昇と同時に、称徳天皇が吉備真備ら官人の意見を用いた政治を行ったことを示しています。

称徳天皇は仲麻呂の乱の平定を祈願した四天王像造立を契機として西大寺を創建し、西隆寺という尼寺も造営しました。また恵美押勝の乱後の鎮護を目的として百万基の小塔を作る「百万塔」事業を進め、その内部へ印刷した陀羅尼を納めました。百万塔陀羅尼は770年に完成し、南都の十大寺へ分置されます。制作年代が明確な現存印刷物として世界史的にも重要な資料です。

769年、称徳朝最大の政治事件が起こります。大宰府の神官から、宇佐八幡宮が「道鏡を天皇にすれば天下は太平となる」と告げたという神託が中央へ報告されました。称徳天皇は神意を再確認するため和気清麻呂を宇佐へ派遣します。清麻呂が持ち帰った神託は最初の報告を否定する内容で、清麻呂は大隅国へ流されました。

この事件は後世、皇位を奪おうとした道鏡と、それを阻止した和気清麻呂という物語として語られてきました。しかし八尾市も、最初の神託を誰が主導したのかには諸説があるとしています。道鏡自身が神託を偽造したことを直接示す同時代資料はなく、称徳天皇が実際に道鏡を即位させると最終決定していたかも慎重に考える必要があります。

同じ769年、称徳天皇は道鏡の出身地である河内国弓削へ行幸し、由義宮を「西京」と位置づけました。弓削氏の氏寺だった弓削寺も由義寺へ改称・拡張され、平城京とは別の政治・宗教拠点を造ろうとする大規模計画が進みます。しかし770年、称徳天皇が死去すると計画は中止され、道鏡は下野薬師寺の別当に移されました。

後継者となったのは白壁王です。天智天皇の孫にあたり、志貴皇子の子であった白壁王は、62歳で即位して光仁天皇となりました。称徳天皇には子がなく、天武天皇系の直系王統がここで途切れ、政治の中心となる皇統は天智系へ移ります。ただし光仁の妃・井上内親王は聖武天皇の娘で、その子・他戸親王も存在していたため、王統の継承は単純な「天武系から天智系への断絶」ではなく、複数の血統と婚姻関係を組み合わせて再編されました。

764年 称徳天皇の重祚

764年、恵美押勝の乱で藤原仲麻呂が敗死すると、淳仁天皇は天皇位を退けられ、淡路へ配流されました。

孝謙上皇は再び天皇として政務を執ります。同一人物が一度譲位した後に再び即位することを重祚と呼びます。古代では皇極天皇が斉明天皇として重祚した先例がありました。

孝謙の二度目の治世を後世「称徳天皇」と呼びます。称徳朝は770年まで約6年間続きます。

仲麻呂政権崩壊後の再編

藤原仲麻呂は大師、太政大臣相当まで昇り、淳仁天皇のもとで強い政治力を持っていました。

仲麻呂敗死後、その唐風官名政策や人事の一部は改められ、政権は孝謙上皇側に立った人々を中心に再編されます。

吉備真備は中央政界で再び重要な位置へ進み、藤原永手も高位官人として政権を支えました。一方、孝謙上皇の信任を得ていた道鏡も、僧侶として異例の政治的位置を占めるようになります。

廃位された淳仁天皇

淳仁は764年に廃位され、親王としての地位も失い、「淡路公」として淡路へ送られました。

現在「淳仁天皇」と呼ばれますが、この追号が与えられて歴代天皇へ加えられたのは明治時代です。

奈良時代当時には、政争で天皇位を失った人物として長く扱われました。

765年 淳仁の死

奈良県立万葉文化館によれば、765年10月、淡路にいた淳仁は幽閉状態に耐えられず逃亡を試み、捕えられた翌日に死去しました。

死の具体的状況は『続日本紀』の記録に依存します。

わずか前年まで天皇だった人物が、廃位・配流の後に33歳ほどで死去したことは、奈良朝の王位継承が法制度だけでは安定しなかったことを示します。

道鏡

道鏡は河内国若江郡、現在の大阪府八尾市周辺を基盤とする弓削氏の出身とされます。

奈良県は、道鏡が義淵の弟子と伝えられ、東大寺僧・良弁のもとで学び、宮中では看病禅師として活動したと説明しています。

762年に孝謙上皇の病を看護したことから信任を得て、少僧都へ昇進しました。764年の仲麻呂敗北後、その政治的地位はさらに高まります。

後世の「怪僧」像をそのまま使わない

道鏡は後世の説話や通俗史で、「女帝を惑わせ皇位を奪おうとした怪僧」として描かれることが多くありました。

しかしその人物像には、称徳朝後の勝者側による政治的評価、僧侶が政務へ参加したことへの反発、女性君主と男性僧の関係を性的逸話へ変換する後世の物語が重なっています。

道鏡を無条件に擁護する必要もありませんが、後世の悪人像と8世紀の確認可能な政治行動を分けて考える必要があります。

765年 太政大臣禅師

765年、道鏡は太政大臣禅師となりました。

八尾市によれば、称徳天皇は同年、弓削行宮に滞在した際に道鏡を太政大臣禅師へ任命しています。

通常の太政大臣と全く同じ制度的地位だったかには検討が必要ですが、「大臣」と「禅師」を組み合わせた称号自体が、宗教的権威と国家政務を接続する異例の職でした。

僧侶が政務へ参加する

奈良時代の僧侶はすでに国家と密接に結びついていました。

東大寺・国分寺・戒壇制度、祈雨、病気平癒、国家安穏の法会など、仏教者は公共的役割を担っていました。

道鏡の特徴は、その宗教的役割を越え、太政大臣禅師・法王という政治中枢の地位へ直接進んだ点にあります。

藤原永手と吉備真備

称徳朝には道鏡だけでなく、通常の律令官僚も政治中枢にいました。

766年には藤原永手が左大臣、吉備真備が右大臣となります。

吉備真備は717年遣唐使の留学生として唐で長期間学び、帰国後は学問・行政・軍事で活躍した官人です。藤原永手は藤原北家の房前の子で、仲麻呂と同じ藤原氏でも政治的位置は異なりました。

称徳・道鏡政権を「僧侶だけの政府」と見ることはできません。

墾田政策の抑制

743年の墾田永年私財法以後、貴族や寺院による土地開発が進みました。

奈良県の道鏡解説は、称徳・道鏡政権が寺領を除いて貴族による新規土地開発を禁止する政策を行ったと説明しています。

これは墾田永年私財法そのものを永久廃止したという意味ではなく、有力者による過度な開墾・土地集中を一時的に抑制する政策として見る必要があります。

殺生・献上をめぐる政策

同じ奈良県資料は、称徳朝に鷹・犬などを用いた狩猟を禁じ、諸国から京へ肉・魚を献上することを停止させる政策もあったと紹介しています。

仏教の不殺生思想が政治規制へ反映された例と考えられます。

ただし奈良時代社会から肉食・漁労そのものが消えたわけではありません。国家儀礼・献上や特定の行為を規制する政策と、日常生活全体を区別する必要があります。

仲麻呂の乱と西大寺発願

西大寺によれば、764年9月11日、藤原仲麻呂の反乱が発覚したその日に孝謙上皇は乱の鎮圧を祈願し、四天王像を造立することを誓いました。

翌765年、重祚した称徳天皇が誓願を実行して金銅四天王像を造り、西大寺造営が始まります。

西大寺の成立は称徳朝の仏教政策と、仲麻呂の乱という政治危機への宗教的対応を直接結びつけています。

765年 西大寺創建

765年、西大寺が創建されました。

奈良県は称徳天皇の発願による寺院としてこの年を創建年に置き、西大寺自身も四天王像造立を起点に寺院が形成されたと説明しています。

平城宮の東に位置する東大寺に対し、宮の西側に大寺院を造ることで、平城京の宗教空間が東西に大きく展開しました。

東大寺に対する西の大寺

西大寺の公式資料によれば、780年の『西大寺資財流記帳』では、創建期の寺域は約48ヘクタールに及び、薬師・弥勒の両金堂、東西両塔、四王院、十一面堂院など100棟を超える堂舎があったとされます。

現在の西大寺の境内だけから創建時の規模を想像すると、実態を大きく見誤ります。

称徳朝の西大寺は、東大寺に対応する国家的大寺院でした。

発掘から見える西大寺

奈良文化財研究所は、西大寺跡の発掘によって創建伽藍の規模・建物配置・瓦・工房などを研究してきました。

2025年には西大寺・西隆寺の最新の発掘成果をまとめた研究書も刊行しています。

史書に残る「勅願寺」という言葉だけでなく、実際に巨大な資材・工人・労働力を投入した国家工事だったことが考古学から確認できます。

百万塔の発願

764年の恵美押勝の乱後、称徳天皇は百万基の小塔を造ることを発願しました。

奈良国立博物館は、『無垢浄光大陀羅尼経』に基づいて作製された事業で、770年に完成したと説明しています。

反乱後の動乱を鎮め、国家安穏を祈る仏教事業として位置づけられます。

無垢浄光陀羅尼経

小塔内部には『無垢浄光大陀羅尼経』に説かれる陀羅尼が納められました。

陀羅尼は仏教の呪文・真言的な文言で、災厄を除き功徳を得るものと考えられていました。

塔を造り陀羅尼を納めること自体が、国家と人々の安寧を祈る宗教実践でした。

百万基という大量生産

「百万塔」という名称は比喩ではなく、史料では百万基の小塔を造る事業として記されます。

木製の塔身と相輪を轆轤で大量生産し、内部へ陀羅尼を一巻ずつ納めました。

実際に100万基すべてが予定どおり同じ形式で完成したのかを一基ずつ確認することはできませんが、法隆寺には4万数千基が伝来したと奈良国立博物館は説明しており、巨大な量産事業だったことは確かです。

百万塔陀羅尼と印刷

百万塔へ納められた陀羅尼は印刷によって大量生産されました。

国立国会図書館は、770年という制作年代が明確な百万塔陀羅尼を、制作年代の明確な世界最古の印刷物として紹介しています。

大量の同一文言を短期間に複製する必要があった国家宗教事業が、印刷技術を大規模に利用した重要な例です。

印刷方法は確定していない

百万塔陀羅尼は印刷物ですが、具体的にどの方法で印刷したかについては議論があります。

国立国会図書館は木版説・銅版説などがあり、印刷法はなお確定していないと説明しています。

「世界最古級の印刷物」という評価と、「木版印刷だった」という技術的断定は分けて考える必要があります。

766年 道鏡が法王となる

766年、道鏡は法王となりました。

奈良県の年表では、765年の太政大臣禅師に続く昇進として整理されています。

僧侶でありながら国家政治の頂点に近い地位を占める、奈良時代でも極めて異例の制度です。

「法王」という異例の地位

「法王」は後世の上皇を意味する「法皇」と同じ制度ではありません。

道鏡のために設けられた特殊な称号で、仏教界の最高権威と政治的権力を結びつける性格を持ちました。

道鏡が天皇になったわけでも、通常の太政大臣制度が消えたわけでもありません。

天皇と法王

称徳朝では、天皇である称徳と法王道鏡が並んで高い政治・宗教権威を持つ構造が形成されました。

八尾市は、由義宮・由義寺の整備を称徳天皇と法王道鏡による政治・宗教構想と関係づけて説明しています。

ただし両者を制度上対等な「共同君主」と断定することはできません。最終的な天皇権威は称徳にありました。

道鏡一人で国家を動かしたわけではない

称徳朝の政治には藤原永手、吉備真備、大伴・石川・藤原各氏の官人など多数が関与しました。

律令の官司、国司、税制、軍事、地方行政が道鏡個人の私的組織へ置き換わったわけではありません。

道鏡の異例の地位を認めつつ、国家全体を「道鏡政権」とだけ呼ぶと通常の官僚機構の継続が見えなくなります。

767年 法王宮職

767年には法王宮職が設置されました。

奈良県立万葉文化館も称徳天皇の年譜で、神護景雲元年に法王宮職が設けられたと記しています。

「宮職」は皇族や皇后などの家政・財政を担う官司に用いられる名称であり、道鏡のための独自官司設置はその地位の高さを示します。

767年 西隆寺造営

767年、称徳天皇の意向で西隆寺の造営が始まりました。

奈良文化財研究所は、西隆寺を称徳天皇の勅願によって造られた、西大寺と対になる尼寺と説明しています。

東大寺と法華寺の関係に対応するように、西大寺の近くへ大規模な尼寺を配置する構想でした。

大規模な尼寺

西隆寺は単なる小規模尼寺ではありません。

奈良文化財研究所は、西大寺と西隆寺が東大寺に匹敵する広い寺域を持つ大寺院だったと説明しています。

称徳朝では僧寺と尼寺を対にした巨大寺院群によって、平城宮西側の宗教空間を再編しようとしていました。

西隆寺木簡が示す造営現場

西隆寺跡からは造営に関わる大量の木簡が出土しています。

奈良文化財研究所によれば、人夫への食料支給文書、帳簿、諸国から届いた物資の荷札、堂塔・仏像造営へ寄進された知識銭の付札などが含まれます。

寺院建設が信仰だけでなく、全国物資、会計、食料、労働管理を必要とする行政事業だったことが具体的に分かります。

神護景雲への改元

767年、年号は神護景雲へ改められました。

古代の改元は災害だけでなく、瑞祥とされる現象や政治的節目に応じて行われます。

称徳朝では天平神護、神護景雲という仏教的・祥瑞的な意味を帯びた年号が用いられました。

平城宮東院と称徳朝

奈良文化財研究所によれば、767年、称徳天皇は平城宮東側の張り出し部に瑠璃瓦を葺いた「東院玉殿」を建て、宴会・儀式を行いました。

現在復原されている東院庭園周辺は、称徳朝にも特別な宮廷空間として整備されていました。

西大寺・西隆寺だけでなく、平城宮内部でも称徳朝独自の建築・儀礼空間が形成されています。

768年 弓削浄人が大納言へ

768年、道鏡の弟・弓削浄人が大納言へ進みました。

奈良県は、道鏡の一門が異例の昇進をしたことが藤原氏など貴族層の不満を高めたと説明しています。

道鏡本人だけでなく、弓削氏全体の政治的位置が急速に上昇していたことが分かります。

弓削氏の昇進をどう見るか

有力者の親族が官位を得ること自体は奈良時代に珍しくありません。藤原氏や皇族も婚姻・血縁を政治基盤としていました。

それでも弓削浄人の大納言昇進は、従来の中央最高貴族ではなかった一族が短期間で政権中枢へ上がった点で注目されます。

これが既存貴族の警戒を招き、769年の神託事件をめぐる政治環境の一部となりました。

宇佐八幡宮と国家

宇佐八幡宮、現在の宇佐神宮は豊前国にある有力神社でした。

八幡神はすでに聖武朝の東大寺大仏造営に協力する神として国家仏教と深く結びついていました。

遠く九州にある神社の神託が王位継承へ影響し得た背景には、八幡神が国家的な神として高い権威を得ていたことがあります。

八幡神と仏教

宇佐地域では仏教寺院と八幡信仰が早くから結びつき、神宮寺・放生会など神仏習合的な文化が形成されました。

東大寺大仏造営時には八幡神が大仏を助ける神として奈良へ迎えられます。

769年の事件を「神道が仏教僧の皇位継承を拒んだ」と単純化すると、当時の八幡神自身が仏教と密接に結びついていた事実を見失います。

769年 最初の神託

769年、大宰府から宇佐八幡宮の神託が中央へ報告されました。

奈良県の資料では、大宰主神・習宜阿曽麻呂が「道鏡を皇位につける」旨の神託を奏上したと整理されています。

この報告によって、僧侶である道鏡が皇位に関係する可能性が現実の政治問題として浮上しました。

習宜阿曽麻呂

習宜阿曽麻呂は大宰府で神祇に関わる大宰主神を務めていた人物です。

奈良県の資料は、769年に道鏡即位を求める宇佐八幡宮の神託を奏上し、称徳死後の770年には道鏡失脚とともに多禰島守へ移されたと説明しています。

最初の神託がどのように形成され、誰の政治的意図を反映したのかは議論が残ります。

和気清麻呂

和気清麻呂は備前国藤野郡、現在の岡山県和気町周辺の郡司層出身の官人です。

称徳朝では近衛将監などを務めていました。

最初の神託の真意を確認するため、朝廷から宇佐八幡宮へ派遣される役を担います。

宇佐への派遣

称徳天皇は宇佐八幡の意思を改めて確かめるため、使者を派遣しました。

和気町の資料では、清麻呂の姉で女官・尼僧でもあった和気広虫が使者候補となったものの、清麻呂が代わって派遣されたと伝えます。

奈良から宇佐までの長距離を移動し、国家的な皇位問題について神意を確認する異例の使節でした。

第二の神託

和気清麻呂が帰京して奏上した神託は、最初の報告を否定する内容でした。

国立国会図書館のレファレンス資料が引用する史料では、皇位は皇統を継ぐ者へ伝えるべきで、無道の者を排除すべきだという趣旨の神託とされています。

これによって道鏡を皇位へ進める構想は実現しませんでした。

清麻呂の大隅配流

清麻呂は最初の神託に反する報告を行った後、大隅国へ配流されました。

和気町は、この事件により清麻呂が大隅へ、姉の広虫が備後へ流されたと説明しています。

清麻呂は称徳死後、光仁天皇のもとで召還され、その後桓武朝で再び重要な官人となります。

和気広虫

和気広虫は孝謙・称徳天皇に仕えた女官で、出家後は法均尼と称しました。

和気町によれば、764年の恵美押勝の乱の際には処刑予定者の減刑を願い、多数の孤児を引き取ったと伝えられます。

769年の神託事件では弟・清麻呂とともに処分されましたが、後に都へ戻ります。

宇佐八幡宮神託事件をどう読むか

宇佐八幡宮神託事件は『続日本紀』など後世の国家編纂史料によって知られます。

称徳死後、道鏡は政治的敗者となり、光仁・桓武系の王統が続きました。そのため事件叙述には、後の王統から見た正統性の論理が関わっている可能性を考える必要があります。

最初の神託と第二の神託がどのような政治交渉の中で形成されたかは、完全には復元できません。

道鏡は本当に皇位を望んだのか

後世の定番的な物語では、道鏡自身が皇位を望み、偽神託を作らせたとされます。

しかし八尾市は、769年の事件について首謀者が誰であったかには諸説があると明記しています。

道鏡が皇位を望んでいた可能性を排除する資料もありませんが、自ら偽神託を命じたと確定する同時代証拠もありません。

本記事では「道鏡が皇位簒奪を企てた」という結論を事実として採用しません。

称徳天皇自身の政治判断

神託事件を道鏡だけの野心として説明すると、称徳天皇自身の政治的意思が消えてしまいます。

道鏡を太政大臣禅師・法王へ任じ、西大寺・西隆寺、由義宮を進めたのは称徳天皇の政権です。

一方、最初の神託をそのまま受け入れず、和気清麻呂を宇佐へ派遣して再確認させたのも称徳天皇でした。

称徳は受動的な存在ではなく、複数の宗教者・官人・王族を用いて政策を決定する君主として見る必要があります。

女性天皇を性的物語へ還元しない

称徳天皇と道鏡の関係は、後世しばしば男女関係として誇張されました。

しかし二人の性的関係を直接証明する同時代資料はありません。

病気を治療した宗教者への信頼、仏教を重視する政治方針、藤原仲麻呂政権への対抗、王位継承問題など、確認できる政治・宗教条件から説明することが必要です。

769年 河内国弓削への行幸

769年、称徳天皇は河内国弓削へ長期間行幸しました。

八尾市によれば、10月から11月にかけて23日間滞在し、由義宮、寺院、市などの整備を進めました。

宇佐神託事件と同じ年に道鏡の出身地で大規模な政治空間を整えたことは、称徳朝後半の国家構想を考える上で重要です。

由義宮

由義宮は弓削地域に整備された宮です。

八尾市では、現在の由義神社周辺を含む地域で宮造営が進められたと説明していますが、宮の全容はまだ確定していません。

発掘では由義寺、関連する大型建物、大規模運河などが確認され、文献だけの「幻の宮」から考古学的研究対象へ変わりつつあります。

「西京」とされた由義宮

769年10月、由義宮は「西京」と位置づけられました。

八尾市は、平城京に対する西の都として整備されたと説明しています。

平城京を完全に廃して遷都したという意味ではなく、平城京と並ぶ政治拠点を河内に設ける構想と考える方が適切です。

称徳朝は西大寺・西隆寺に加え、河内にも新たな宮都と寺院を造ろうとしていました。

弓削寺から由義寺へ

八尾市によれば、由義寺はもともと弓削氏の氏寺であった弓削寺を、769年の西京整備にあわせて拡張・改称した寺院と考えられています。

道鏡個人の寺というより、氏族寺院を国家的な規模の寺院へ組み替えたものです。

平城京の西大寺・西隆寺と、河内の由義宮・由義寺という複数拠点が称徳朝後半に並行して整備されました。

由義寺跡の発掘

由義寺跡では塔基壇が発見され、国史跡に指定されています。

八尾市の発掘調査は、文献に記録された由義寺が実在したことを考古学的に裏付けました。

さらに資材を運ぶためとみられる大規模運河や大型建物も見つかり、周辺に大規模な造営活動があったことが分かってきています。

七重塔級の巨大塔

由義寺の塔跡は巨大な基壇を持ち、八尾市では七重塔を復元する研究・映像制作も行われています。

『続日本紀』には770年、由義寺の塔を造った諸司の官人・工人95人へ位階を与えた記事があります。

称徳天皇の死の直前まで造営が続いた国家的重要工事でした。

行幸と市

769年の由義宮滞在中、称徳天皇は龍華寺近くの川辺に設けられた市を見物したと八尾市は紹介しています。

官人たちが品物を売買する場が行幸儀礼の一部となりました。

宮都は政治施設だけでなく、人・物・芸能が集まる一時的な都市空間でもあったことが分かります。

770年 最後の由義宮行幸

770年2月から4月にかけて、称徳天皇は再び由義宮へ行幸しました。

八尾市によれば、この滞在は39日間に及び、六つの氏族の男女230人による歌垣なども行われました。

由義宮・西京構想は称徳朝最後の年まで継続していたことが分かります。

称徳天皇の病

奈良県の資料では、770年に由義宮へ行幸した称徳天皇はその後病に伏したとされています。

病状が重くなると王位継承問題が急速に現実化しました。

称徳天皇には子がなく、明確な皇太子も置かれていなかったため、次の天皇を誰にするかは政権最大の課題となりました。

770年 百万塔完成

宝亀元年、770年、百万塔の製作事業が完成しました。

奈良国立博物館は、恵美押勝の乱後に発願された百万基の小塔がこの年に完成し、南都の大寺へ分置されたと説明しています。

称徳朝最初期の政治危機から始まった祈願事業が、天皇の死の年に完成したことになります。

十大寺への分置

百万塔は東大寺、大安寺、元興寺、興福寺、薬師寺、西大寺、法隆寺など十大寺へ10万基ずつ分置されたと伝えられます。

現在まとまった数が伝来するのは主として法隆寺旧蔵品です。

百万塔事業は一寺院の祈願ではなく、奈良の大寺院ネットワークを利用した国家規模の仏教事業でした。

770年 称徳天皇死去

770年8月、称徳天皇が死去しました。

孝謙として749年に即位し、758年に譲位、764年に重祚して称徳となったため、二度の在位を合わせると奈良時代中盤の政治を長く担った君主でした。

その死は称徳個人だけでなく、道鏡の政治的地位、西京・由義宮計画、そして王位継承の仕組みを一度に変える転換点となります。

後継者をめぐる問題

称徳天皇には子がおらず、770年時点で確定した皇太子もいませんでした。

天武天皇の子孫にはなお複数の王族が存在しましたが、奈良朝の政変で多くの皇族が失脚・死去しており、王位候補をめぐる政治関係は複雑でした。

左大臣藤原永手ら政権中枢は、白壁王を後継者へ進めます。

白壁王

白壁王は天智天皇の皇子・志貴皇子の子です。

つまり天智天皇の孫にあたり、長く続いた天武天皇系とは異なる王統に属しました。

一方、白壁王の妻・井上内親王は聖武天皇の娘です。その間に他戸親王が生まれており、白壁家は天智系と聖武・天武系王統を婚姻によって結ぶ位置にありました。

光仁天皇即位

770年、白壁王が即位し、光仁天皇となりました。

奈良県は、称徳天皇没後に藤原永手らによって擁立され、62歳で即位したと説明しています。

若い王族ではなく、長年政治社会を生き残ってきた年長の王族が選ばれた点が特徴です。

天智系王統へ

光仁の即位によって、皇位は天智天皇系の男子へ移りました。

天武天皇以来、およそ一世紀にわたり天武系王統が皇位の中心でしたが、称徳の死を境として政治の軸が変わります。

その後、光仁の子・山部親王が桓武天皇となり、現在まで続く皇統の歴史を考える上でも重要な転換です。

ただし770年の時点で山部親王が当然の後継者だったわけではありません。当初の皇太子は井上内親王との子・他戸親王となります。

井上内親王と他戸親王

井上内親王は聖武天皇の皇女で、光仁天皇即位後に皇后となります。

その子・他戸親王は聖武天皇の外孫であり、天武系王統との強い血縁を持ちました。

奈良県は、幼い他戸親王へ王統をつなぐ位置に白壁王を置くことが光仁即位の背景になったと説明しています。

この体制は772年の井上皇后廃后・他戸廃太子によって大きく変わりますが、それは次の記事で扱います。

道鏡の失脚

称徳天皇が死去すると、道鏡の政治的地位は急速に失われました。

称徳という最大の政治的後ろ盾を失い、光仁新政権のもとで法王として政務へ参加し続けることはできませんでした。

奈良県・八尾市は、称徳の死後に道鏡が下野薬師寺へ移されたと説明しています。

下野薬師寺別当へ

道鏡は下野国、現在の栃木県にある下野薬師寺の別当となりました。

これは中央政界から遠ざける人事でしたが、僧侶としての地位そのものを完全に奪って一般人へ戻したわけではありません。

下野薬師寺は東大寺・筑紫観世音寺と並ぶ戒壇を持つ重要寺院であり、道鏡はそこで772年に死去します。

弓削浄人らの処分

道鏡の弟・弓削浄人も政権中枢から排除され、土佐国へ流されました。

最初の神託を報告した習宜阿曽麻呂も地方官へ移されるなど、称徳・道鏡政権に関係した人々の人事が改められました。

770年は単なる天皇交替ではなく、政権ネットワークの大規模な再編でした。

道鏡は処刑されなかった

重要なのは、道鏡が「皇位簒奪を企てた逆賊」として処刑されたわけではないことです。

称徳死後に中央政界から排除されましたが、下野薬師寺別当という寺院職へ移されています。

この処遇は、後世の極端な悪人像と、770年当時の政府が実際に行った処分との間に差があることを示します。

称徳・道鏡像の形成

称徳天皇と道鏡は、日本史上とくに後世の道徳的評価を受けやすかった人物です。

女性君主と男性僧、仏教者の政治参加、皇位継承をめぐる神託という要素が組み合わさり、物語・説話の題材となりました。

しかし歴史として考えるときは、称徳の勅願寺造営、百万塔、土地政策、由義宮、官僚人事など具体的政策と、宇佐神託をめぐる不確実な部分を区別する必要があります。

日本史の中でこの時代を見る意味

764~770年は、奈良時代の中でも王権・仏教・氏族政治の関係が最も大きく組み替えられた時期の一つです。

第一に、僧侶が国家政治の最高層へ進みました。道鏡は太政大臣禅師、法王となり、法王宮職まで設けられます。しかし称徳天皇・左大臣・右大臣・太政官が消滅したわけではなく、宗教権威を既存国家組織へどう位置づけるかという実験的な政治構造でした。

第二に、称徳朝の仏教政策は巨大な物質的国家事業でした。西大寺・西隆寺・百万塔・由義寺の造営には工人、木材、瓦、金属、食料、銭、人夫が必要でした。仏教理念は祈りだけでなく、全国の生産・物流・労働を動かす制度となりました。

第三に、印刷が国家規模で利用されました。百万塔陀羅尼は宗教目的で大量に複製された文書であり、制作年代の明らかな現存印刷物として世界史的価値を持ちます。律令国家の文字文化は手書き文書だけでなく、大量複製技術へも広がりました。

第四に、神仏関係が政治の中心へ入りました。東大寺大仏を助けた八幡神が、769年には王位継承に関わる神託を発する存在として登場します。これは「神道対仏教」ではなく、すでに仏教と深く結びついた八幡信仰が国家的権威を持っていたからこそ起こり得た事件です。

第五に、宇佐神託事件は「道鏡の皇位簒奪」という一つの物語だけでは解決できません。最初の神託の形成過程、称徳天皇の意図、道鏡本人の意志、既存貴族の反応には不明点が残ります。八尾市も事件の首謀者について諸説があるとし、現在の研究では後世の道鏡悪人像をそのまま史実とはしません。

第六に、称徳天皇は自らの政治意思を持つ君主として見る必要があります。道鏡を登用し、西大寺・西隆寺・由義宮を造営し、最初の宇佐神託を再確認させたのはいずれも称徳政権でした。「僧に操られた女帝」という説明では、この時代の政策形成を理解できません。

第七に、770年の皇位継承は長期的な王統転換となりました。天武系の称徳天皇から天智系の白壁王・光仁天皇へ皇位が移り、その子山部親王が後に桓武天皇となります。ただし当初は聖武皇女・井上内親王とその子他戸親王によって天武系との血統的連続を保つ構想も存在しました。

称徳天皇の死によって道鏡の政治的地位と由義宮・西京計画は終わりましたが、奈良時代の問題そのものが解決したわけではありません。光仁朝では王位継承をめぐって井上皇后・他戸親王が失脚し、山部親王が皇太子となります。さらに東北では蝦夷との戦争が拡大し、平城京の政治構造も再び変化します。その先に長岡京・平安京への遷都がつながっていきます。

主な流れ

次の時代へ — 光仁朝と王統再編

770年、称徳天皇の死によって天武天皇系の直系王統は大きな転換点を迎え、天智天皇の孫・白壁王が光仁天皇として即位しました。

しかし光仁即位時点で王位継承問題が解決したわけではありません。皇后となった井上内親王は聖武天皇の娘であり、その子・他戸親王が皇太子となります。新しい天智系君主のもとでも、聖武・天武系王統との血統的接続が重視されました。

ところが772年、井上皇后は光仁天皇を呪詛したとして皇后を廃され、他戸親王も皇太子を廃されます。773年には光仁の別の子である山部親王、後の桓武天皇が皇太子となります。775年には井上内親王と他戸親王が同日に死去し、その後の災害や政変は二人の怨霊と結びつけて理解されるようになります。

次の記事では、770–781年|光仁朝と王統再編 — 井上内親王・他戸親王、山部親王、桓武天皇即位として、光仁即位、井上皇后と他戸皇太子、772年の廃后・廃太子、773年の山部立太子、蝦夷政策、井上・他戸の死、777~778年遣唐使、781年の光仁譲位と桓武天皇即位までを扱います。

参考資料・出典

本ページは、奈良県、奈良県立万葉文化館、奈良文化財研究所、西大寺、奈良国立博物館、国立国会図書館、八尾市、宇佐市、和気町等の公開資料を参照してART LIBRARYが独自に構成・執筆しています。称徳天皇と道鏡の関係については、後世の性的・道徳的逸話を史実として採用せず、官位・寺院造営・行幸・神託事件など確認可能な政治過程を中心に記述しました。宇佐八幡宮神託事件については、最初の神託の首謀者や道鏡自身の皇位への意思が確定できないため、「道鏡が偽神託を作らせ皇位簒奪を企てた」とは断定していません。百万塔陀羅尼については制作年代の明確な世界最古の印刷物という国立国会図書館の説明を採用しつつ、具体的な印刷方法は木版説・銅版説などがあり未確定であることを明記しました。由義宮については「西京」とされた史料を踏まえつつ、宮域の全容が考古学的に確定していないことにも注意しました。光仁即位については、単純な王統断絶ではなく、井上内親王・他戸親王を通じた聖武系との接続を含めて扱っています。