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724–743年

聖武朝の危機と国家仏教

長屋王の変、天然痘、国分寺、墾田永年私財法

724年、元正天皇が譲位し、首皇子が聖武天皇として即位しました。天武・持統から草壁皇子、文武天皇を経て続く王統を継ぐ若い君主です。同年、長屋王が左大臣となり、東北では多賀城が創建されました。平城京を中心とする律令国家は、中央官僚制、国郡制、戸籍、班田、租税、軍事を全国へ拡大しつつありました。

しかし聖武朝前半は、制度が安定して発展した時代ではありません。729年には左大臣長屋王が謀反の疑いを受け、妻の吉備内親王や子らとともに死へ追い込まれる長屋王の変が起こりました。その後、藤原不比等の娘で聖武天皇の夫人だった光明子が皇后となり、武智麻呂・房前・宇合・麻呂の藤原四兄弟が政界の中心へ進みます。

さらに734年には畿内を中心とする大地震、735年には九州で天然痘流行が始まり、737年には全国規模の大流行へ拡大しました。藤原四兄弟も相次いで天然痘で死去します。近代の歴史疫学研究では、この735~737年流行が列島人口の約4分の1から3分の1を失わせた可能性まで論じられており、奈良時代社会を襲った最大級の人口危機の一つでした。ただし当時の全国人口統計は存在せず、死亡率推計には幅があります。

藤原四子政権崩壊後には、皇族出身の橘諸兄が右大臣となり、唐から帰国した吉備真備や玄昉らが重用されます。これに不満を持った藤原広嗣は740年、玄昉・吉備真備の排除を求める上表を送り、九州で兵を挙げました。反乱は鎮圧されましたが、聖武天皇は同年に平城京を離れ、伊賀・伊勢・美濃・近江を巡った後、山背国の恭仁京へ政治中心を移します。

741年、恭仁京で国分寺・国分尼寺建立の詔が出されました。各国に寺院を置き、『金光明最勝王経』『法華経』などを通じて国家と人々の安寧を祈る全国的仏教政策です。742年には近江国紫香楽で新しい宮の造営が始まり、743年、聖武天皇は紫香楽で盧舎那大仏造立を発願しました。同じ743年には墾田永年私財法も出され、新たに開墾した田地の永年私有が一定条件のもとで認められます。

この二つの政策は別々に見えますが、どちらも天然痘大流行後の国家再建と深く関係します。国分寺と大仏は仏教によって社会秩序を立て直そうとする政策であり、墾田永年私財法は人口減少や耕地荒廃のなかで農業生産を回復させようとする政策でした。聖武朝前半は、「国家仏教が栄えた時代」というより、政争、疫病、地震、反乱、土地制度の問題に直面した律令国家が、宗教・制度・都市・土地政策を総動員して危機へ対応した時代として見る必要があります。

724年 聖武天皇即位

724年2月、元正天皇が譲位し、首皇子が聖武天皇として即位しました。奈良県の年表も、神亀元年の主要事項として聖武即位を挙げています。

聖武は文武天皇と藤原宮子の子で、天武・持統天皇の曾孫にあたります。文武の死後、元明・元正という二人の女性天皇を経て、天武系王統の若い男性君主へ王位が移りました。

天武・持統系王統の継承

聖武即位は、天武天皇から草壁皇子、文武天皇、首皇子へつながる王統を安定させる長期的な政治過程の一つでした。

草壁は即位前に死去し、文武も若くして死去したため、王統を継続するためには持統、元明、元正が政権を担う必要がありました。

聖武朝を理解するには、個々の天皇を独立した政権として見るだけでなく、7世紀末から続く王位継承政策の延長として捉える必要があります。

長屋王が左大臣となる

聖武即位と同じ724年、長屋王が左大臣となりました。

長屋王は天武天皇の皇子・高市皇子の子で、母方も天智天皇系王族につながる有力皇親でした。

藤原不比等が720年に死去した後、長屋王は王族官人の中心人物として政権を担いました。

この時点の政治を「藤原氏が一貫して支配した」と説明することはできません。皇族・藤原氏・他の高級官人が並存し、政権内部の均衡は大きく変化しました。

724年 多賀城創建

同じ724年、陸奥国に多賀城が創建されました。

多賀城市によれば、多賀城は大野東人によって築かれ、陸奥国府が置かれたほか、奈良時代には鎮守府も置かれました。約900メートル四方の区域に政庁、実務官衙、工房、兵士の宿舎などが配置されていました。

平城京で聖武政権が始まった年に、東北でも巨大な行政・軍事拠点が造られたことは、律令国家が中央と地方を同時に再編していたことを示します。

東北支配の拠点

多賀城は単なる軍事要塞ではありませんでした。

多賀城市は、多賀城が陸奥国府として地方行政を担い、さらに鎮守府を伴うことで東北北部への軍事・政治拠点として機能したと説明しています。

税、文書、兵士、物資、外交的交渉をまとめる複合拠点であり、中央政府が東北社会へ制度を広げる前線でした。

「蝦夷の地」は空白地ではない

中央史料では律令支配外の東北住民を広く「蝦夷」と呼びました。

しかし多賀城市の歴史解説が示すように、多賀城創建以前から仙台平野周辺には大規模集落や有力者の墓が存在し、政治的・経済的・文化的に成熟した地域社会が形成されていました。

律令国家の「領域拡大」は無人地帯への進出ではなく、既存社会の上に国府・城柵・税・軍事秩序を重ねる過程でした。

平城京と聖武朝

聖武天皇は平城宮で即位しました。

平城京には大極殿、朝堂院、官司、寺院、東西市、官人宅地などがあり、全国から税物と行政文書が集まりました。

聖武朝の危機が大きな影響を持ったのは、この高度に集中した国家システムがすでに成立していたからでもあります。

首都を支える地方社会

平城京は巨大な消費都市でした。

都に住む皇族、官人、寺院関係者、工人などを支えるため、地方から米、布、塩、海産物、薬、木材などが運ばれました。

感染症や飢饉で地方人口が減少すれば、単に村落社会が被害を受けるだけでなく、税と物流を通じて中央政府の運営にも影響します。

山上憶良と筑前

726年頃、山上憶良は筑前国司として九州に赴任しました。

憶良は717年遣唐使で唐へ渡った経験を持ち、帰国後は東宮、後の聖武天皇に学問を教えたともされます。

地方官として筑前に滞在した時期には、大伴旅人らと筑紫歌壇を形成し、『万葉集』に多くの作品を残しました。

『貧窮問答歌』が示す社会

山上憶良の「貧窮問答歌」は、貧しい生活、税負担、寒さ、飢えを描く『万葉集』の著名な作品です。

文学作品をそのまま奈良時代農民全体の統計資料として扱うことはできません。

それでも、平城京の壮大な宮殿や寺院の背後に、租税・労役を負担する地方社会が存在していたことを考える重要な史料です。

727年 基王誕生

727年、聖武天皇と光明子の間に男子・基王が生まれました。

奈良県の年表によれば、基王は誕生から約1か月後に皇太子とされます。

聖武にとって待望の男子であり、天武・持統系王統を次世代へ継承する存在として大きな政治的意味を持ちました。

生後まもない立太子

乳児を皇太子とすることは、王位継承候補を早い段階で明確にする政治でした。

壬申の乱以来、王位継承が内戦・政変の原因となってきたことを考えれば、政権にとって後継者の確定は重大です。

一方、乳幼児死亡率の高い時代に、幼い一人の皇子へ王統を集中させることは大きな不安定要因でもありました。

728年 基王の死

728年、基王は1歳になる前に死去しました。

男子後継者を失ったことは、聖武政権に大きな衝撃を与えました。

その後、藤原氏の血を引かない安積親王も誕生しますが、聖武の後継をめぐる政治は再び不安定になります。

金鍾山寺と東大寺の前史

東大寺は、基王の菩提を追修するため728年に建てられた山房、後の金鍾山寺をその起源の一つと説明しています。

この寺院は741年の国分寺建立政策の中で大和国の金光明寺へ発展し、後に東大寺となります。

したがって東大寺は最初から巨大国家寺院として一度に造られたのではなく、皇太子追善の寺院から国分寺、大仏寺院へ段階的に拡大しました。

729年 長屋王の変

729年、左大臣長屋王が国家を傾けようとしているとの密告があり、長屋王は妻の吉備内親王、子らとともに自殺へ追い込まれました。

奈良県立万葉文化館は、この事件を「長屋王の変」として整理し、事件後に光明子が皇后となり、藤原四兄弟が政界の中心へ進んだと説明しています。

「謀反」の密告

長屋王に向けられた容疑は、国家を傾けようとする謀反に関わるものでした。

しかし謀反計画の具体的実態を示す独立した同時代資料が十分に残っているわけではありません。

事件後の政治的受益者や光明子立后との関係から、藤原四兄弟による政治的排除だったとする理解が広くありますが、事件の全過程を単純な陰謀として確定することにも慎重さが必要です。

長屋王事件をどう読むか

『続日本紀』は朝廷が編纂した国家史であり、事件の記述も政権側の視点を持ちます。

また後世の研究では、長屋王と藤原氏を明確な二陣営として描くことがありますが、当時の皇族・貴族政治は婚姻関係や官職を通じて複雑につながっていました。

長屋王の変を理解するときは、「藤原氏対皇族」という単純な図式より、王位継承、皇后立后、律令官制、高級官人の権力関係が重なった政変として見る必要があります。

光明子の立后

729年8月、光明子が皇后となりました。

光明子は藤原不比等と県犬養三千代の娘で、聖武天皇の夫人、後の孝謙天皇の母です。

奈良県立万葉文化館は、天平元年8月の立后を確認しています。

皇族外からの皇后

奈良県の資料は、光明子を皇族以外から初めて皇后となった人物と位置づけています。

それ以前の皇后は基本的に王族女性でした。藤原氏出身の光明子立后は、外戚となる藤原氏の政治的位置を大きく高めます。

後世の藤原氏の外戚政治をそのまま8世紀前半へ投影するべきではありませんが、皇后の出自が王族から有力臣下氏族へ広がった重要な転換でした。

藤原四兄弟

藤原武智麻呂・房前・宇合・麻呂は藤原不比等の子で、光明皇后の兄弟です。

長屋王の変後にそれぞれ官位を高め、731年には四兄弟全員が参議以上の地位へ進みます。

中央政界で藤原一族の比重が著しく高まったため、この時期は「藤原四子政権」と呼ばれます。

730年 施薬院・悲田院

730年、光明皇后は皇后宮に施薬院を置き、平城京の左京・右京に悲田院を設けたと奈良県の資料は整理しています。

施薬院は病人へ薬や治療を提供し、悲田院は貧窮者・孤児などの救済に関わる施設と説明されます。

723年にも興福寺に関連する施薬・救済施設が設けられたとする資料があり、光明子の救済活動は立后以前から仏教と深く関わっていました。

仏教と救済

仏教では病者・貧者への施しが功徳として重視されます。

光明皇后の施薬院・悲田院は、王権・貴族の仏教信仰が社会的救済と結びついた例です。

ただし現代的な公的医療・福祉制度と同一視することはできません。対象者、規模、継続性には限界があり、国家社会保障制度が成立したわけではありません。

律令国家の医療

律令政府には典薬寮や内薬司など医療・薬物に関わる官司も存在しました。

奈良県立万葉文化館は、薬が高価で主に天皇・貴族・官人などが利用し、官司が薬の生産・治療を担当したと説明しています。

730年代後半の天然痘大流行は、このような限定的医療体制では対応できない規模の災害となります。

731年 藤原四子政権

731年、藤原四兄弟全員が参議以上となり、政権中枢にそろいました。

長屋王の死後、藤原氏が政界で大きな影響力を持ったことは確かです。

しかし聖武天皇、舎人親王など皇族、他氏族の官人も存在し、藤原四兄弟だけが国家を自由に動かしたと考えるのは単純化です。

733年 遣唐使

733年、新たな遣唐使が派遣されました。

この使節では、普照・栄叡らが唐へ渡り、日本に正式な戒律を伝える高僧を招くことを目指しました。

一方、717年遣唐使で長期間唐に留学していた吉備真備・玄昉らは、この使節の帰路に加わって帰国することになります。

普照・栄叡と伝戒師招請

奈良県の東アジア交流資料によれば、普照・栄叡は伝戒師を日本へ招くために入唐しました。

当時の日本には僧尼を正式に認定する戒律制度をより整備する必要がありました。

この招請活動が後に鑑真来日へつながりますが、鑑真が日本へ到着するのは753年で、本記事の時期より後です。

734年 遣唐使帰国

奈良県の年表は734年に遣唐使が帰国し、吉備真備・玄昉らが帰朝したと整理しています。

同時に菩提僊那、道璿、仏哲ら大陸・南アジア系の僧侶・知識人も日本へ渡りました。

遣唐使は日本人が外国文化を持ち帰るだけでなく、海外の人材そのものが日本社会へ移動する回路でもありました。

吉備真備と玄昉

吉備真備は唐で長期間学び、経書、礼制、暦、軍事、音楽など幅広い知識を持ち帰ったとされます。

玄昉も仏教を学び、多数の経典を持ち帰りました。

藤原四兄弟死後、二人は橘諸兄政権で重用されます。そのことが740年の藤原広嗣の上表で批判対象となりました。

菩提僊那・道璿・仏哲

734~736年頃、日本へ渡った海外僧の中には、インド出身とされる菩提僊那、唐僧道璿、林邑出身の仏哲がいました。

奈良県の資料は、彼らが大安寺などで仏教・文化の発展に関わったと説明しています。

菩提僊那は後に752年の東大寺大仏開眼供養で導師を務めることになります。

734年 天平大地震

734年には畿内を中心に大地震が発生しました。

奈良県の年表は、多数の死者が出た「天平大地震」として記し、マグニチュード7程度と推定する整理を示しています。

古代地震の規模推定には史料上の限界があるため、現代観測と同じ精度の数値として扱うべきではありません。

自然災害と律令国家

地震、旱魃、飢饉、疫病などは農業生産・税収・交通・人口に同時に影響します。

律令国家は全国的な制度を持つことで大規模な動員を可能にしましたが、全国的災害が起きれば逆に制度全体が同時に影響を受けます。

聖武朝の政治を理解する際、政争だけでなく自然環境と感染症を重要な歴史要因として見る必要があります。

735年 九州で天然痘流行

735年、九州で天然痘と考えられる疫病が流行し始めました。

奈良県の年表は「九州で天然痘が流行し、多数の死者」と整理しています。

歴史疫学研究では、この流行が735~737年に列島各地へ広がった、日本史上最初に明確に記録される大規模天然痘流行とされています。

感染が列島へ広がる

律令国家は道路、駅制、遣使、税物輸送、人員移動によって全国を結びました。

こうした交通網は行政を可能にする一方、感染症が地域間を移動する経路にもなり得ます。

九州で始まった疫病が畿内を含む広範囲へ拡大したことは、8世紀の列島がすでに密接な人的ネットワークで結ばれていたことを示します。

737年 天然痘大流行

737年、天然痘は全国規模の大流行となりました。

奈良県は、同年に藤原武智麻呂・房前・宇合・麻呂の四兄弟が相次いで天然痘で死去したとしています。

高級貴族だけでなく一般人口にも極めて大きな被害が出たと考えられ、税収・農業・地方行政・軍事に長期的な影響を与えました。

人口への甚大な影響

近代の歴史疫学研究では、735~737年の天然痘流行によって日本列島の人口の約25~35%が死亡した可能性が論じられています。

これは極めて大きな推計であり、事実であれば数十年にわたり人口構造・労働力・土地利用へ影響したことになります。

疫病後に耕地回復・開墾促進が国家課題となったことを考える際にも重要です。

「人口の3分の1死亡」をどう扱うか

8世紀には全国の死亡者を正確に集計した統計は存在しません。

「人口の3分の1」という数値は、史料と人口史研究から導かれた推計であり、直接数えた数字ではありません。

したがって本記事では、25~35%程度という研究上の推計を紹介しながら、確定した全国死亡率とは扱いません。

藤原四兄弟の死

737年、藤原四兄弟が相次いで死去しました。

同じ一族の高級官人が一年のうちに全員死亡したことで、政権構成は一変します。

藤原氏そのものが政治から消えたわけではありませんが、四兄弟の子世代はまだ十分な政治的地位を確立しておらず、政権中枢に大きな空白が生じました。

政権中枢の空白

天然痘は社会の人口を奪っただけでなく、政府の人事構造そのものを変えました。

病死した官人を補充し、行政を継続する必要が生じます。

感染症が政治史を直接変化させる例として、737年は極めて重要です。

橘諸兄政権

藤原四兄弟死後、橘諸兄が政権中枢へ進みました。

諸兄はもともと葛城王という皇族で、736年に臣籍へ下り「橘」の姓を名乗りました。奈良県立万葉文化館によれば、737年に大納言、738年に右大臣、743年に左大臣へ進みます。

皇族出身者が臣籍降下して最高位官人となる点で、奈良時代の王族・臣下の境界が固定的ではなかったことも分かります。

吉備真備・玄昉の登用

橘諸兄のもとでは、唐から帰国した吉備真備・玄昉が政治・文化面で重用されました。

彼らは藤原氏一門ではなく、海外経験と専門知識を持つ人材でした。

この登用を「藤原氏排除」と一言で説明するより、天然痘後の政権が新しい知識人・官人を必要としたという行政上の背景も考える必要があります。

疫病後の社会再建

天然痘後には人口減少、農地荒廃、税収低下が問題となったと考えられます。

743年の墾田永年私財法を、723年の三世一身法だけへの制度修正として見るだけでなく、疫病後の農業生産回復という社会経済的文脈から評価する研究もあります。

律令国家は疫病を止められませんでしたが、その後の土地政策や宗教政策によって社会再建を試みました。

740年 藤原広嗣の乱

740年、藤原広嗣が九州で兵を挙げました。

奈良県立万葉文化館によれば、広嗣は藤原宇合の長男で、大宰少弐として九州にいた人物です。

玄昉・吉備真備の排除を求める上表を朝廷へ送り、その後軍事行動に移りました。

広嗣の不満と上表

広嗣は天然痘で父・宇合ら藤原四兄弟を失った後、政権中枢が橘諸兄・玄昉・吉備真備らへ移ったことに強い不満を持っていたと説明されます。

ただし「個人的左遷への逆恨み」だけで大規模な挙兵を説明することはできません。

九州の地方軍事力、中央政争、疫病後の社会状況など複数の条件が重なっていました。

九州での戦闘

朝廷は大野東人を大将軍とする追討軍を派遣しました。

奈良県立万葉文化館は、追討軍が豊前で広嗣軍を破り、広嗣が肥前の値嘉島方面へ逃れた後に捕えられて処刑されたと説明しています。

壬申の乱以来の全国規模内戦ほどではありませんが、律令国家成立後の重大な軍事反乱でした。

「反乱」という中央側の表現

藤原広嗣は中央政府の高級官人であり、中央政治への要求を掲げて軍を動かしたため、「藤原広嗣の乱」という歴史用語は比較的実態に即しています。

ただし戦争に参加した九州の人々すべてが広嗣と同じ政治目的を持っていたとは限りません。

軍事事件を中央指導者の名前だけで理解すると、地域社会の動員構造が見えなくなることに注意が必要です。

聖武天皇の関東行幸

藤原広嗣の乱が鎮圧へ向かう740年10月末、聖武天皇は平城京を離れて大規模な行幸へ出発しました。

奈良県立万葉文化館によれば、伊賀・伊勢・美濃・近江を経て山背国へ至り、平城京へ戻らないまま恭仁遷都を宣言しました。

出発が広嗣の乱直後であり騎兵を伴っていたことから、万葉文化館はこの行幸に軍事的色彩が強いと説明しています。

鈴鹿・不破を越える

行幸路は672年の壬申の乱で大海人皇子が利用した伊賀・伊勢・美濃方面と重なる部分があります。

聖武一行は鈴鹿関・不破関という重要交通拠点を越えました。

君主の行幸は宗教儀礼や巡行だけでなく、軍事・政治的な意味を持つ場合がありました。

740年 恭仁京へ

740年末、聖武天皇は山背国相楽郡の恭仁へ入り、新都造営を始めました。

木津川市によれば、平城宮から大極殿・朝堂院など政治中枢施設の一部が移築され、木津川流域の盆地に宮と京を造る計画が進められました。

恭仁京はわずか数年の短命な都となります。

恭仁宮の造営

発掘調査によって、恭仁宮域は南北約750メートル、東西約560メートルと確認されています。

大極殿基壇などが残り、後に宮跡は山城国分寺として利用されました。

現在の遺跡は、都城と国分寺という二つの国家施設が同じ場所に重なる稀有な例です。

なぜ都を移したのか

聖武天皇がなぜ平城京を離れたのかについては、藤原広嗣の乱、天然痘後の政治不安、橘諸兄との関係、仏教政策、新しい政治空間の構築など複数の説明があります。

単一の史料が「これが理由だ」と明記しているわけではありません。

本記事では、740年代の遷都を聖武個人の気まぐれとはせず、危機後の国家再構築を背景とする政治行動として扱います。

741年 国分寺・国分尼寺建立の詔

741年、聖武天皇は各国に国分寺・国分尼寺を建立するよう命じました。

東大寺は、この詔によって各国に金光明寺と法華寺が置かれる政策が進められ、大和国では金鍾山寺が大和国分寺・金光明寺へ発展したと説明しています。

国ごとに寺院を置くことで、仏教を首都の寺院だけでなく全国行政区分へ組み込む制度でした。

全国に寺院網を置く

国分寺・国分尼寺は国府と並ぶ地方国家施設となります。

僧尼が経典を読み、国家・地域の安寧を祈るとともに、寺院造営には地方の労働力・資材が動員されました。

律令国家の行政ネットワークの上に、全国的な仏教施設ネットワークを重ねる政策だったと言えます。

金光明四天王護国之寺と法華滅罪之寺

国分僧寺は一般に「金光明四天王護国之寺」、国分尼寺は「法華滅罪之寺」と呼ばれました。

東大寺は、国分寺政策が『金光明最勝王経』と『法華経』を重要な経典としていたことを説明しています。

名称自体に、仏法によって国家を護り、災厄を除こうとする思想が表れています。

国家仏教とは何か

「国家仏教」という言葉は、国家が仏教寺院・僧尼・儀礼を統治と結びつける構造を説明するのに便利です。

国分寺制度では中央政府が各国へ寺院建立を命じ、経典・僧尼・儀礼を全国的制度として組織しました。

仏教が私人の信仰だけではなく、国家的公共事業となった典型例です。

政治利用だけでは説明できない

一方、「聖武天皇は政治的宣伝のため仏教を利用した」とだけ説明すると、当時の宗教観を現代的政治戦略へ還元しすぎます。

疫病、地震、飢饉、政争を経験した人々にとって、仏教儀礼は実際に国家と人々の安寧を願う有効な実践として理解されていました。

政治権力と宗教的信念は分離せず、同じ政策の中で重なっていました。

地方社会と国分寺

全国に寺を建てることは地方に大きな負担を課します。

瓦、木材、土地、労働力、僧尼の維持費が必要であり、国分寺建立は地域経済・技術集団の再編にもつながりました。

同時に寺院は文字、仏教、工芸、建築技術が地方へ広がる拠点にもなります。

恭仁宮から山城国分寺へ

木津川市によれば、恭仁宮が都として使われなくなった後、大極殿など宮殿中枢施設の跡地は山城国分寺へ転用されました。

政治施設が宗教施設へ変換される例であり、聖武朝の都城政策と国分寺政策が空間的にも結びついていたことが分かります。

742年 紫香楽宮造営

742年、聖武天皇は近江国甲賀郡の紫香楽で離宮造営を始めました。

甲賀市によれば、紫香楽宮は743~745年を中心に聖武天皇によって造営された宮都で、関連遺跡は信楽盆地北部の東西約2キロ、南北約3キロに広がります。

恭仁京造営中に別の宮を造るという動きは、聖武朝の政治中心が極めて流動的だったことを示します。

紫香楽宮跡

紫香楽宮跡では宮殿関連施設、寺院跡、工房など複数の遺跡が確認されています。

甲賀市は、宮殿跡の南に大仏を造ろうとした寺院跡があり、周辺に複数の関連遺跡が分布すると説明しています。

文献上の短命な宮が、考古学によって具体的な広がりを持つ政治・宗教拠点として明らかになっています。

紫香楽を選んだ理由

なぜ聖武が紫香楽を重視したのかには複数の説があります。

近江と東国を結ぶ交通、甲賀地域の政治的条件、山林・資源、橘諸兄との関係、仏教理想都市の構想などが論じられてきました。

しかし一つの理由で確定することはできません。本記事では、紫香楽を大仏造立と結びついた新しい政治・宗教拠点として捉えます。

743年 墾田永年私財法

743年、墾田永年私財法が出されました。

奈良県立万葉文化館は、国司の許可を得て新たに開墾した土地について、収公せず永年にわたり私財とすることを認めた法令と説明しています。

律令土地制度の重要な転換ですが、「この日から土地が全面的に私有化された」と考えるのは誤りです。

三世一身法から20年

723年には三世一身法が出され、新たな灌漑施設を造って開墾した土地などについて期限付き保有が認められていました。

しかし期限後に国家へ収公されることを嫌い、十分な開墾促進につながらなかったと史料では説明されます。

743年の法は、この期限を撤廃して永年私財とすることで開墾への利益を強化しました。

墾田の永年私有

「永年私財」は、新たに開墾した土地を一定条件のもとで長期的に保持できることを意味します。

これにより有力貴族、寺院、地方豪族などが労働力を投入して大規模開墾を進める動機が強まりました。

後の荘園形成を考える重要な制度的背景となります。

所有には上限と手続きがあった

墾田永年私財法は無制限の土地囲い込みを認めたわけではありません。

奈良県立万葉文化館は、位階に応じた所有面積の上限、開墾手続き、許可などが定められていたと説明しています。

国家は私的開墾を奨励しながら、土地開発そのものを行政的に管理しようとしました。

公地公民が一日で崩壊したわけではない

教科書的な説明では、墾田永年私財法を「公地公民制崩壊の始まり」と表現することがあります。

長期的には私的土地支配拡大と荘園形成へつながる重要な契機です。

しかし743年以後も班田収授、租税、国衙による土地行政は続きます。律令土地制度がその日に消滅したわけではなく、公的土地支配と私的墾田保有が併存していくことになります。

初期荘園形成への影響

寺院・貴族は墾田予定地を確保し、農民や労働力を組織して新田開発を進めるようになります。

国立国会図書館が紹介する荘園研究でも、奈良時代の墾田永年私財法が後の荘園形成を考える重要な出発点として扱われています。

ただし奈良時代の初期荘園と、平安後期の領主的荘園を同じ制度として一括するべきではありません。荘園の性格は数百年かけて変化します。

743年 盧舎那大仏造立の詔

743年10月15日、聖武天皇は紫香楽で盧舎那大仏造立の詔を発しました。

東大寺は、天平15年に「生きとし生けるものが共に栄えること」を願い、金銅盧舎那仏一躯を造ることを発願したと説明しています。

現在の東大寺大仏は、この発願に始まる巨大国家事業です。

盧舎那仏とは何か

盧舎那仏は華厳経の世界観において宇宙的な仏として位置づけられます。

一つの地方や一人の君主だけを守る仏ではなく、あらゆる存在が相互に関係する世界を象徴します。

東大寺は、国分寺政策が国単位の国家安寧を祈る構想であるのに対し、大仏造立ではその範囲をさらに超え、「動植咸く栄えん」ことが願われたと説明しています。

「知識」と民衆参加

大仏造立詔では、身分や富の違いを越えて造仏へ参加することが呼びかけられました。

当時「知識」とは現代語のknowledgeではなく、仏教事業のために財物や労力を提供し、功徳を共有する人々・結縁を意味します。

国家命令による巨大事業である一方、民衆の自発的結縁という仏教的理念も強調されました。

行基と国家

民衆への布教や公共事業で知られた行基は、当初、律令政府から僧尼令に反する活動として警戒されていました。

しかし聖武朝後半には大仏造立への勧進で重要な役割を持ち、745年には大僧正に任じられます。

国家と民間仏教者の関係が、取り締まりから協力へ大きく変化した例です。

最初の大仏計画は紫香楽

現在、大仏といえば奈良・東大寺を思い浮かべますが、743年の最初の造立計画地は紫香楽でした。

甲賀市は紫香楽宮南側に大仏造立を目指した寺院跡があると説明しています。

744年には甲賀寺で大仏造立が開始され、745年に平城京へ還都した後、事業が奈良の金光明寺、後の東大寺へ移されます。

大仏と墾田永年私財法が同じ年に出た意味

743年には一方で巨大な盧舎那仏造立が発願され、もう一方で墾田永年私財法が出されました。

前者は宗教政策、後者は土地・農業政策ですが、天然痘大流行後の国家再建という文脈では互いに無関係ではありません。

人々の心理的・宗教的不安に対して仏教による安寧を求め、人口減少・農地荒廃に対して開墾促進で生産基盤を回復する。聖武政権は精神的秩序と経済的基盤の両方を再構築しようとしていました。

ただし聖武本人が二政策を一つの「復興計画」として明示した史料があるわけではありません。これは同時代状況を結びつけた歴史的な分析として理解する必要があります。

日本史の中でこの時代を見る意味

724~743年は、奈良時代の華やかな天平文化が形成される一方、律令国家が成立後最大級の危機に直面した時代です。

第一に、政治中枢が大きく入れ替わりました。長屋王の変によって皇族政治の中心人物が失われ、光明皇后の立后後には藤原四兄弟が政権の中心へ進みます。しかし737年の天然痘によって四兄弟全員が死亡し、今度は橘諸兄が政権を担います。国家制度が整っても、少数の高級官人へ権力が集中する政治は人の死によって大きく変動しました。

第二に、感染症が政治・経済・社会を同時に変えました。735~737年天然痘大流行は地方人口だけでなく政権中枢を直撃し、農業生産・税・労働力を減少させました。疫病は政治史の背景ではなく、国家政策を変える主体的な歴史要因でした。

第三に、律令国家の領域拡大が続きました。724年の多賀城は東北支配の行政・軍事拠点であり、中央政府は平城京の危機と並行して周辺地域への制度拡大を続けました。ただしそこには既存社会が存在し、国家支配は交渉と軍事力の双方によって進められました。

第四に、国家と仏教の結びつきが全国規模へ発展しました。光明皇后の施薬院・悲田院、741年の国分寺、743年の大仏発願は、仏教が宮廷個人の信仰を越え、社会救済と国家安寧の制度へ組み込まれていく流れを示します。

第五に、土地政策が大きく変化しました。723年の三世一身法では足りなかった開墾促進策を、743年の墾田永年私財法がさらに押し進めます。国家は公的土地支配の原則を維持しながら、私的な開墾利益を認めることで生産回復を図りました。その矛盾は後世の荘園形成へつながります。

第六に、都そのものが不安定になります。藤原広嗣の乱後、聖武天皇は平城京を離れて恭仁京へ移り、さらに紫香楽宮を造営しました。740年代前半の王権は、一つの固定首都から国家を統治するのではなく、新しい政治・宗教空間を探し続けました。

つまりこの時代の国分寺・大仏・墾田政策は「豊かな国家が巨大文化事業を始めた」だけではありません。巨大な社会危機を経験した国家が、仏教、土地制度、都城、外交知識を組み合わせて国家の再建を試みた結果でした。

主な流れ

次の時代へ — 遷都の連続と東大寺大仏

743年、聖武天皇は紫香楽で盧舎那大仏造立を発願しました。しかしそのまま紫香楽が安定した首都となったわけではありません。

744年には難波宮が皇都とされ、さらに紫香楽への政治中心移動が進みます。745年には紫香楽周辺で火災や地震などが続き、聖武天皇は平城京へ戻ります。大仏造立事業も紫香楽から奈良の金光明寺、後の東大寺へ移されます。

大仏造営には大量の銅、金、木材、燃料、工人、労働力が必要でした。行基が民衆への勧進を担い、749年には陸奥国から黄金が献上され、大仏の鍍金が可能になります。そして752年、インド出身の僧・菩提僊那を導師として大仏開眼供養が行われます。

次の記事では、743–752年|東大寺大仏と聖武国家 — 難波・紫香楽遷都、行基、黄金、開眼供養として、難波宮・紫香楽宮、平城還都、行基の大僧正任命、東大寺での大仏造営、陸奥産金、聖武譲位と孝謙天皇即位、752年大仏開眼までを扱います。

参考資料・出典

本ページは、奈良県、奈良県立万葉文化館、東大寺、多賀城市、木津川市、甲賀市、奈良文化財研究所、国立国会図書館、医学史・歴史疫学研究等の公開資料を参照してART LIBRARYが独自に構成・執筆しています。長屋王の変については、藤原四兄弟による排除とする一般的理解を紹介しつつ、謀反の実態や事件の具体的計画が完全に確認できるわけではないため、陰謀説を確定事実とはしていません。735~737年天然痘については人口の25~35%死亡という研究推計を紹介していますが、当時の全国死亡統計ではないため幅を持つ推計として扱っています。740年代の遷都についても原因を一つに限定していません。墾田永年私財法については土地私有を無制限に認めた法ではなく、位階別上限・許可手続きを伴う開墾促進政策として記述しました。また国分寺・大仏政策を単なる政治宣伝とも、純粋な宗教行為とも単純化せず、疫病・政争・社会復興の文脈と宗教的信念が重なる政策として扱っています。