1352年
正平一統の崩壊と北朝再建
足利直義の死、南朝京都占領、三上皇連行、武蔵野合戦、後光厳天皇
一三五二年は、南北朝時代の政治秩序が一年の間に何度も作り直された異例の年である。前年、足利尊氏は弟直義を討つため南朝へ帰順し、北朝の崇光天皇と皇太子直仁親王が地位を失い、元号も南朝の「正平」へ統一された。いわゆる正平一統である。年初、尊氏は直義を鎌倉へ追い込み、二月二十六日に直義が急死する。観応の擾乱は尊氏の勝利で終わるかに見えた。
しかし同じ二月二十六日、後村上天皇は賀名生を出て京都回復へ動く。閏二月二十日、楠木正儀ら南朝軍が足利義詮を破って京都を占領し、光厳・光明・崇光の三上皇と直仁親王を確保した。関東でも宗良親王、新田義興・義宗らが鎌倉を一時占領し、尊氏は武蔵へ退く。南朝は東西から足利支配を揺さぶった。
義詮は近江で軍を立て直し、三月十五日に京都を奪還する。後村上天皇と南朝軍は男山八幡へ退いて五月末まで抗戦したが、最終的に賀名生へ戻った。それでも三上皇と神器は南朝側に残ったため、北朝は通常の皇位継承ができない。八月十七日、義詮と京都の公家社会は広義門院の権威を用いて弥仁親王を後光厳天皇として践祚させ、九月には文和へ改元した。本記事では、正平一統崩壊を単なる「裏切り」や「南朝の最後の反撃」とせず、王権、土地、寺社、年号、地域交通、日常生活まで含む一年の構造変化として追う。
CONTENTS
- 1352年 — 一年で王権の枠組みが二度変わる
- 年初の尊氏と直義 — 観応の擾乱の最終局面
- 直義の鎌倉での生活と監視
- 2月26日、足利直義が死去
- 直義毒殺説をどう扱うか
- 直義の死で観応の擾乱は終わったのか
- 正平一統の内部にあった矛盾
- 寺社人事と所領が一統を揺らす
- 2月26日、後村上天皇が賀名生を出発
- 楠木正儀 — 正行の後を継ぐ南朝軍事指導者
- 住吉 — 南朝京都進出の前進拠点
- 閏2月19日、後村上天皇が男山八幡へ
- 閏2月20日、南朝軍が京都を占領
- 南朝の京都攻撃を「裏切り」の一語で終わらせない
- 三上皇と直仁親王を確保する
- 皇族の移送と政治権力
- 義詮は近江へ退き、すぐ反撃を準備する
- 1352年の文書に三つの年号が現れる
- 3月15日、義詮が京都を奪還
- 3月18日、東寺領への濫妨狼藉を禁止
- 3月22日、義詮が久世庄の権利処理を命じる
- 男山八幡をめぐる長期戦
- 四条隆資の戦死
- 5月28日、男山八幡陥落
- 6月2日、三上皇らを賀名生へ
- 関東でも南朝が同時に攻勢へ
- 宗良親王が征夷将軍に任じられる
- 新田勢、鎌倉を一時占領
- 武蔵野合戦 — 小手指原・高麗原・笛吹峠
- 笛吹峠の笛の伝承を史実化しない
- 鎌倉街道が戦線を作る
- 1352年攻勢を「南朝最後の反撃」と単純化しない
- 京都を奪還しても北朝をすぐ再建できない
- 広義門院が果たした異例の役割
- 8月17日、後光厳天皇践祚
- 神器なしの践祚
- 後光厳天皇を「幕府が勝手に作った天皇」で終わらせない
- 公家社会を再起動する
- 9月27日、文和へ改元
- 15歳の後光厳天皇と『入木抄』
- 12月29日、後光厳天皇綸旨が東寺関係に残る
- 戦争の最中にも田地は売られ、職が引き継がれる
- 若狭太良庄百姓の訴え
- 戦争と濫妨狼藉
- 朝廷再建と寺社の相互依存
- 三上皇連行を後世の「南朝忠節」だけで見ない
- 後光厳朝の正統性問題
- 一年の中で変わる「現在」
- 日本史の中でこの時代を見る意味
- 主な流れ
- 次の時代へ — 京都争奪の反復と旧直義派の再編
- 参考資料・出典
1352年 — 一年で王権の枠組みが二度変わる
正平七年・観応三年・文和元年(一三五二)は、南北朝時代の中でも政治秩序が異常な速さで組み替わった年である。前年の正平一統によって北朝は停止され、室町幕府も南朝年号「正平」を使用していた。足利尊氏は南朝から直義・直冬追討の権威を得て東国へ向かい、年末から正月にかけて弟直義を破って鎌倉へ入った。二月二十六日、直義は鎌倉で急死する。ここだけを見れば、観応の擾乱は尊氏の勝利で終わり、足利政権が再び統一されるように見えた。
ところが同じ二月二十六日、後村上天皇は賀名生を出発して京都回復の軍事行動を開始する。楠木正儀ら南朝軍は閏二月二十日に京都を占領し、義詮を近江へ追った。関東でも宗良親王、新田義興・義宗、脇屋義治らが鎌倉を攻撃し、尊氏を一時鎌倉から退かせる。南朝は東西で同時に足利勢力へ圧力をかけたのである。
義詮は閏二月二十三日には、正平一統で停止していた北朝年号「観応」を復活させて軍勢を催促し、三月十五日に京都を奪還した。南朝軍と後村上天皇は男山八幡へ移り、五月末まで抵抗したが敗れて賀名生へ戻る。その間、光厳・光明・崇光の三上皇と旧皇太子直仁親王は南朝方に連行され、北朝は天皇だけでなく院政を担う上皇と三種の神器を欠くという制度的危機に陥った。
それでも足利義詮らは北朝を再建する。八月十七日、光厳上皇の第二皇子弥仁親王が後光厳天皇として践祚し、九月二十七日には文和へ改元した。親王宣下や神器、父である光厳上皇の直接意思確認を欠く異例の継承だった。一三五二年は、正平一統、南朝京都占領、北朝再建という三つの政治秩序が一年の中で連続した、南北朝史の大転換年である。
年初の尊氏と直義 — 観応の擾乱の最終局面
一三五一年末、足利尊氏は南朝から直義追討の綸旨を得て東海道を進み、直義軍と駿河・相模で戦った。薩埵山周辺の戦闘や早川尻の攻防を経て直義側は崩れ、一三五二年正月、直義は尊氏に降伏した。尊氏は一月五日頃に直義とともに鎌倉へ入ったとする叙述が一般的である。
直義は幕府草創以来、土地裁判・安堵・寺社政策を担った政権中枢であり、単なる反乱武将ではない。その人物が将軍である兄に降伏したことは、尊氏・直義という二重権力構造の終焉を意味した。しかし直義派の武将や直冬勢力は各地に残り、中央人物の降伏だけで全国の対立が即座に解消されたわけではない。
さらに尊氏自身も、前年の正平一統によって南朝へ形式的に帰順していた。北朝を停止させて得た南朝の権威で直義を追討した尊氏が、直義降伏後にどのような王権秩序を作るのかは未解決のままだった。
直義の鎌倉での生活と監視
降伏後の直義は鎌倉で尊氏の管理下に置かれた。後世の叙述では浄妙寺境内の延福寺に幽閉されたと説明されることが多いが、滞在場所の細部や警固の具体像については史料ごとの差を意識する必要がある。
政治的に重要なのは、直義が自由に全国の支持者へ命令できる状態ではなくなったことである。直義が持っていた安堵・裁判の権威と人的ネットワークは生きていても、本人が鎌倉で拘束されれば、それを統合する中心が失われる。
一方、尊氏は直義をただちに処刑しなかった。兄弟関係、足利一門内の政治、直義支持者への影響などを考えれば、降伏者をどう処遇するかは非常に慎重な問題だった。
2月26日、足利直義が死去
正平七年二月二十六日、足利直義は鎌倉で死去した。享年四十七。コトバンク収録の人名辞典や観応の擾乱解説では、この日を直義没日として一致している。
偶然にも前年同日は、高師直・師泰ら高一族が武庫川で殺害された日だった。この一致は後世の物語を強く刺激し、『太平記』では尊氏が弟へ毒を盛ったと疑わせる形で直義の死が語られる。観応の擾乱を兄弟相克の悲劇として完成させるには、非常に印象的な日付である。
しかし、直義が死んだという事実と、尊氏が毒殺したという断定は分けなければならない。
直義毒殺説をどう扱うか
直義の死については古くから毒殺説がある。『太平記』は「毒物を口にして亡くなった」という趣旨の風聞を記し、後世には尊氏が弟を殺したという理解が広まった。辞典類にも「毒殺されたともいう」「尊氏による毒殺といわれる」と記される。
一方、毒殺を直接証明する同時代の確実な医療記録や命令文書が残るわけではない。病死説、健康状態悪化説、尊氏以外の関係者による毒殺説など研究上複数の見方がある。『太平記』が事件当日の検死記録ではなく、後に成立・改編された軍記物語であることも忘れてはならない。
したがって本記事では、「直義は二月二十六日に急死した」「当時から毒殺の疑いを生む状況だった」「『太平記』は毒殺風聞を伝える」という三点を区別し、尊氏毒殺を確定史実とはしない。
直義の死で観応の擾乱は終わったのか
歴史辞典では直義の死をもって観応の擾乱の終結とすることが多い。この整理は、尊氏と直義という幕府中枢の二大権力の直接抗争が終わったという意味では妥当である。
しかし全国の政治対立は終わらない。直義の養子直冬は西国で活動し、山名氏・桃井氏など旧直義派も残る。関東では上杉憲顕ら直義系の人脈があり、南朝は正平一統を利用して勢力を拡大しようとしていた。
つまり「観応の擾乱の終結」と「南北朝内乱の安定化」は同じではない。むしろ直義が消えたことで、南朝と尊氏・義詮の対立が再び前面へ出る。
正平一統の内部にあった矛盾
一三五一年の正平一統は、南朝と幕府が長期的な制度統合を十分に詰めた末の和平ではなかった。尊氏は直義追討の背後を安全にするため南朝へ帰順し、南朝は北朝を停止させて自らの正統性を実現するため尊氏を受け入れた。双方の短期的利害が一致した政治同盟だった。
北朝の官位・寺社人事・所領裁判をどこまで無効にするのか、建武政権期に南朝側が主張した土地秩序をどこまで復活させるのか、幕府の守護・恩賞体系を南朝がどこまで承認するのかについて、深い対立が残った。
義詮にとっては、京都の行政・寺社・武士を現実に動かす必要があり、南朝の要求を全面的に実施すれば幕府の支持基盤を傷つけかねない。南朝側から見れば、北朝を停止させた以上、京都の政治秩序を南朝基準へ組み替えることは当然だった。
寺社人事と所領が一統を揺らす
正平一統では、北朝が任命した寺社の要職を南朝側の人物へ改めることや、建武政権以来の土地処分をめぐる問題が浮上した。寺社の座主・長者・住持人事は宗教内部の問題ではなく、広大な寺領と政治的権威に直結する。
また幕府が武士へ安堵・恩賞した土地を南朝が別の権利者へ戻すなら、現地武士は自分の所領を失う。和平を制度化するには、十五年以上にわたる内乱で積み上がった膨大な土地権利を再整理する必要があった。
正平一統が短命に終わった背景には、皇統問題だけでなく、誰が土地を支配し寺社を統率するかという実務上の利害対立があった。
2月26日、後村上天皇が賀名生を出発
富田林市史によれば、後村上天皇は正平七年二月二十六日に賀名生を出発し、京都回復へ向かった。二十七日に河内東条の観興寺・寛弘寺とされる場所に宿泊し、二十八日には住吉へ入った。
この日が直義の死去日と同じであることは象徴的だが、両事件に直接因果関係があったと即断する必要はない。南朝の京都進出はそれ以前から準備され、後村上天皇は義詮へ八幡臨幸の意向を伝えていたとされる。
重要なのは、後村上天皇自身が行宮から移動し、軍事行動と王権移動を一体化させたことである。天皇の所在が軍勢の正統性と政治目標を可視化した。
楠木正儀 — 正行の後を継ぐ南朝軍事指導者
京都攻撃の中心武将の一人が楠木正儀である。四條畷で兄正行を失った後も、正儀は河内東条を拠点に南朝軍を再編し、和泉・河内で活動を続けていた。
正儀は後世、父正成・兄正行のような一貫した忠臣像には収まりにくい。のち幕府へ降る時期もあり、和平交渉にも関わる。そのため近代的な忠君史観では評価が複雑になった。
しかし一三五二年時点では、南朝が京都を奪還するための最重要軍事指導者の一人であり、和田助氏ら地域武士を率いて畿内交通網を動かした。
住吉 — 南朝京都進出の前進拠点
後村上天皇が二月二十八日に入った住吉は、大坂湾岸と河内・京都を結ぶ交通上の重要地域で、住吉大社を中心とする宗教空間でもあった。南朝は以前から摂津・河内の活動で住吉を利用している。
海上交通に近く、南河内の楠木氏拠点と京都へ向かう陸路を接続できるため、住吉は政治・軍事の前進拠点になり得た。ここから男山八幡へ北上する動きは、南朝が山間の賀名生から一気に京都周辺へ政治中心を移そうとしたことを示す。
軍勢移動には地域寺社・宿・市場・村落からの兵粮、馬、輸送力が必要であり、天皇の移動も大規模な随行組織を伴った。
閏2月19日、後村上天皇が男山八幡へ
京都府立京都学・歴彩館の資料は、正平七年閏二月十九日、後村上天皇が男山八幡に本陣を置いたと整理する。男山の石清水八幡宮は京都南西の要衝に位置し、淀川水系と山城・河内を結ぶ交通を見渡す。
石清水八幡宮は武家からも朝廷からも崇敬を受ける大社であり、単なる軍事陣地ではない。天皇がここへ入ることは、京都進出の軍事上の利点と宗教的権威を同時に持った。
一方、巨大な寺社境内へ軍勢が入れば、社領・神人・参詣路・周辺村落は戦争へ巻き込まれる。八幡の戦いは王権争いであると同時に、宗教都市をめぐる戦争でもあった。
閏2月20日、南朝軍が京都を占領
閏二月二十日、楠木正儀ら南朝軍は京都の足利義詮軍を破った。細川頼春は七条大宮付近の戦闘で戦死し、義詮は近江へ退いた。富田林市史は、和田助氏軍忠状にもこの日の京都合戦での忠節が記されているとする。
南朝による京都占領は、建武政権崩壊後に吉野へ移って以来の大きな成果である。しかし後村上天皇自身が直ちに京都内の恒常的宮殿へ入り、安定した政権を作ったわけではない。天皇は男山を中心に行動し、戦争は続いている。
京都を奪ったことと京都を統治できることは別である。義詮軍を追い出した後、南朝は公家・寺社・都市・所領行政を維持しながら足利方の反撃に備える必要があった。
南朝の京都攻撃を「裏切り」の一語で終わらせない
足利側から見れば、尊氏・義詮は前年に南朝へ帰順して正平一統を成立させたため、南朝の軍事進出は和議違反に見えた。義詮は後村上天皇が住吉へ進んだ段階から抗議したと富田林市史は伝える。
一方、南朝側から見れば、正平一統は北朝を廃して後村上天皇を唯一の天皇とする秩序である。京都に幕府が残り、旧北朝官人・寺社人事・土地秩序が事実上継続するなら、「統一」が実質化していないと考える余地があった。
どちらが約束を破ったかという道徳判断だけでなく、正平一統について双方が想定した政治制度が一致していなかったことを見る必要がある。
三上皇と直仁親王を確保する
南朝軍の京都占領後、旧北朝の光厳上皇・光明上皇・崇光上皇と旧皇太子直仁親王は八幡へ移され、三月四日には河内東条の広河寺へ移された。八幡陥落後の六月二日には、さらに賀名生へ移される。
北朝再建を防ぐうえで、旧北朝皇族を南朝の管理下に置くことは大きな政治的意味を持った。とくに光厳上皇は北朝皇統の中心、光明上皇は第二代北朝天皇、崇光上皇は正平一統で廃された直前の天皇である。
後世には「拉致」「連行」など強い言葉で表現されるが、当時の政治行動としては敵対する王権の中枢人物を確保し、再擁立を防ぐ措置だった。その移動環境がどの程度強制的・過酷だったかは、同時代記録と後世の叙述を分けて検討する必要がある。
皇族の移送と政治権力
中世の王権は天皇個人だけではなく、上皇・皇太子・女院・公家家門・神器・院宣発給者が組み合わさって動く。三上皇と直仁親王を同時に南朝側が確保したことは、北朝の継承と院政の両方を切断しようとする効果があった。
北朝は従来、光厳上皇の院政権威を足利政権と組み合わせていた。上皇が南朝方へ移されれば、京都に残る義詮は新しい天皇を立てるための通常の院宣・譲位手続きを利用できない。
一三五二年後半の北朝再建が異例の方法になった理由は、まさにこの皇族移送にある。
義詮は近江へ退き、すぐ反撃を準備する
閏二月二十日に京都を失った義詮は近江へ退いた。しかし敗走して政治活動を停止したわけではない。京都府立京都学・歴彩館の資料によれば、閏二月二十三日にはすでに「正平」年号を捨て、正平一統で停止していた「観応三年」を復活させて近江の武士へ軍勢催促状を出した。
わずか三日で年号を切り替えたことは、正平一統の崩壊が行政文書上でも即座に表現されたことを示す。元号は抽象的な皇統論ではなく、軍勢命令の日付として政治的に機能した。
義詮は南朝の京都占領を「合体御違変」と位置づけ、正平一統が南朝側によって破られたと主張して軍事動員の正当性を作った。
1352年の文書に三つの年号が現れる
一三五二年は、同じ一年の中で幕府関係文書に「正平七年」「観応三年」「文和元年」が現れる異例の年である。正平一統中は幕府も南朝年号正平を使用し、南朝京都占領後に義詮は観応を復活させ、後光厳天皇践祚後の九月二十七日に文和へ改元した。
東寺百合文書には正平七年二月二十五日の幕府引付頭人奉書、観応三年三月十八日の幕府禁制、観応三年八月二十一日の義詮御判御教書、文和元年十二月二十九日の後光厳天皇綸旨案が残る。
日付の変化だけで、一年の間にどの王権を幕府が認めていたかが見える。南北朝期の元号は政治史の一次史料そのものだといえる。
3月15日、義詮が京都を奪還
義詮は近江で軍勢を集め、三月十五日には南朝軍を破って京都を奪還した。南朝の京都占領は一か月に満たない短期間で終わる。
この短さをもって「南朝の京都攻撃には意味がなかった」とすることはできない。南朝は三上皇らを確保し、正平一統を破綻させ、北朝再建を通常の皇位継承では不可能にするという大きな政治成果を残した。
一方、都市を長期支配できなかったことは南朝の限界でもある。義詮側は近江・美濃・山城の武士を再動員でき、京都周辺の所領・寺社ネットワークも利用できた。
3月18日、東寺領への濫妨狼藉を禁止
京都奪還の三日後、観応三年三月十八日、義詮方の佐々木秀綱は山城国拝師庄、院町、久世上下庄、上桂庄など東寺領で自軍による濫妨狼藉を禁止する禁制を出した。京都府立京都学・歴彩館はこの文書を、南北朝内乱の一場面を直接伝える国宝東寺百合文書として紹介している。
この禁制は、「幕府軍が京都を取り戻した=秩序が即座に回復した」わけではないことを示す。味方の軍勢であっても、駐屯地周辺で略奪・押領・宿泊強制が起きる危険があり、寺院は保護文書を必要とした。
戦争における社会的被害は敵軍によるものだけではない。勝者の軍隊も地域社会にとっては負担となり得るため、軍紀と禁制が必要だった。
3月22日、義詮が久世庄の権利処理を命じる
東寺百合文書には三月二十二日付の足利義詮御判御教書が残り、東寺八幡宮領山城国久世庄の濫妨人を排除し、寺家雑掌へ土地を渡すよう武士へ命じている。
京都奪還直後で男山の南朝軍との戦争が続く中でも、義詮は寺領訴訟・土地引渡しを処理していた。戦争指揮と行政は別々の時期に行われるのではなく同時進行する。
寺院にとっては、どの軍が京都を取ったかだけでなく、自分たちの荘園を誰が実際に保護してくれるかが政権評価の重要な基準だった。
男山八幡をめぐる長期戦
京都を奪還された南朝方は男山八幡へ退き、後村上天皇と楠木正儀らはそこで抵抗を続けた。義詮軍は三月二十一日頃から男山への総攻撃を本格化させるが、ただちに陥落させることはできなかった。
男山は桂川・宇治川・木津川が合流する淀川水系を望む要地で、南の河内と京都を結ぶ交通を押さえられる。山上の宗教施設と防御地形を利用すれば、南朝は京都奪還後も義詮軍を拘束できた。
一方、長期籠城には兵粮・水・退路が必要である。南朝方は河内・和泉の拠点と連絡を保つため周辺でも戦いを続けた。
四条隆資の戦死
南朝公卿の四条隆資は、後醍醐天皇の正中・元弘期から活動し、建武政権でも雑訴決断所・恩賞方などに関わった古参政治家だった。南朝成立後も後村上天皇を支え、一三五二年の男山八幡の戦いで足利義詮軍と戦って戦死した。
コトバンク収録の人物辞典は五月十一日を没日とする。隆資の死は、南朝が単に若い武士集団ではなく、後醍醐期以来の公家政治家も自ら戦争の危険にさらされていたことを示す。
公家と武士を「政治をする公家」「戦う武士」と機械的に分けることはできない。南朝では皇族・公家が軍事行動へ直接関与する場面が多かった。
5月28日、男山八幡陥落
富田林市史は、正平七年五月二十八日に八幡が落城し、後村上天皇が再び賀名生へ戻ったとする。南朝軍は三月末から五月にかけて荒坂山や和泉方面でも戦い、退路と補給線を確保しようとしていた。
男山の長期抵抗によって南朝は二か月以上足利方を拘束したが、京都を再奪還することはできなかった。義詮側は畿内の武士を再結集し、南朝方の地域拠点を圧迫した。
一三五二年の畿内戦線は、京都の一日占領ではなく、住吉・京都・男山・河内・和泉を結ぶ数か月の広域戦争として見る必要がある。
6月2日、三上皇らを賀名生へ
男山陥落後の六月二日、光厳・光明・崇光三上皇と直仁親王は河内東条から賀名生へ移された。南朝は京都・男山を失っても、北朝再建の中核となり得る皇族を自らの管理下に置き続けた。
これにより足利方は、従来の北朝院政をそのまま復活させることができなくなる。光厳上皇に院宣を出してもらい、その皇子へ正式な皇位継承を命じてもらう通常の手順が使えないからである。
南朝は軍事的には京都を失ったが、王権制度をめぐる交渉力では大きなカードを保持した。
関東でも南朝が同時に攻勢へ
畿内で楠木正儀らが京都を攻撃した同じ時期、関東では宗良親王を奉じる新田義興・義宗、脇屋義治ら南朝系勢力が挙兵した。山川日本史小辞典は、新田義興が一三五二年に宗良親王を擁し、義宗らと上野で挙兵して一時鎌倉を占領したと整理する。
正平一統で南朝は尊氏を形式上の帰順者としていたが、尊氏が直義を倒して東国支配を固めれば、南朝側にとって足利氏の軍事力が再び巨大化する。関東攻勢はその機を捉えたものだった。
畿内と関東の攻勢がどこまで中央で一元的に調整されたかは慎重に考える必要があるが、南朝が複数地域で足利支配を揺さぶったことは確かである。
宗良親王が征夷将軍に任じられる
信濃史料の年表は、正平七年閏二月六日、後村上天皇が宗良親王を征夷将軍に任じたと記録する。宗良親王は後醍醐天皇の皇子で、信濃・遠江・越後など東国・中部の南朝勢力と長く関係を持っていた。
征夷将軍任官は、尊氏の征夷大将軍職に対抗する象徴的意味を持つ。南朝が単に幕府を否定するだけでなく、自らの皇子へ武家軍事統率の権威を付与しようとしたと見ることができる。
ただし宗良親王が東国南朝軍の全作戦を一人で直接統制していたと誇張すべきではない。在地で兵を集め、道を確保し、城を維持したのは新田氏・上杉系旧直義派・信濃国人など複数の地域勢力だった。
新田勢、鎌倉を一時占領
新田義興・義宗らは上野方面から鎌倉街道を南下し、鎌倉へ迫った。尊氏は一時鎌倉を離れ、武蔵国神奈河方面へ退いたことが『園太暦』所載文書などから知られる。新田勢は短期間ながら鎌倉を押さえた。
鎌倉は旧鎌倉幕府の政治都市であり、足利基氏を中心とする東国統治拠点でもある。新田義貞の子らがここを奪うことは、軍事以上に象徴的効果が大きかった。
しかし南朝方は鎌倉を長期保持できなかった。尊氏は武蔵で軍勢を再編し、反撃へ移る。
武蔵野合戦 — 小手指原・高麗原・笛吹峠
閏二月下旬、尊氏軍と宗良親王・新田氏ら南朝軍は武蔵国各地で戦った。信濃史料は閏二月二十八日、小手指原・高麗原・笛吹峠などで戦い、宗良親王側が敗れて信濃へ退いたと記録する。所沢市も、小手指ヶ原が一三三三年・一三三五年に続いて一三五二年の武蔵野合戦の戦場となったことを紹介している。
鎌倉街道上道は上野から武蔵を経て鎌倉へ向かう主要交通路であり、小手指原・笛吹峠はその沿線に位置する。戦場が連続しているのは、軍勢が街道をめぐって前進・後退したためである。
この戦いによって尊氏は関東南朝軍を押し返し、鎌倉支配を回復した。
笛吹峠の笛の伝承を史実化しない
埼玉県の観光・地域資料には、武蔵野合戦に敗れた宗良親王が月明かりの下で笛を吹いたため「笛吹峠」と呼ばれるようになったという伝承が紹介されている。
しかし、地名由来として現在伝わる美しい物語と、合戦当日に親王が実際に笛を吹いたことを確認する同時代史料は区別する必要がある。地域伝承は、宗良親王が信濃・武蔵の歴史記憶へどう組み込まれたかを知る文化史料として重要である。
本記事では、武蔵野合戦そのものは史実として扱い、笛を吹いた場面は伝承として明示する。
鎌倉街道が戦線を作る
所沢市の文化財資料は、鎌倉街道上道と小手指ヶ原が一三三三年の鎌倉幕府滅亡、一三三五年の中先代の乱、一三五二年の武蔵野合戦という三度の大戦の舞台になったことを説明する。
同じ場所で合戦が繰り返されるのは偶然ではない。上野・武蔵から鎌倉へ大軍を動かす主要道路が限られ、渡河点・丘陵・平坦地が軍勢配置を決めたからである。
街道は政治中心を結ぶインフラであると同時に、軍勢通過による宿泊・兵粮・馬草負担を周辺村落へもたらす戦争の通路でもあった。
1352年攻勢を「南朝最後の反撃」と単純化しない
辞典によっては、一三五二年の京都・鎌倉同時攻勢を南朝最後の大規模作戦と位置づける。畿内・関東を同時に揺さぶる規模という点では大きな節目である。
しかしその後も南朝軍は一三五三年、一三五四~五五年などに京都を占領・攻撃し、九州では懐良親王・菊池武光がむしろ勢力を拡大する。一三五二年で南朝軍事力が消滅したわけではない。
正確には、京都と鎌倉をほぼ同時に奪取し、全国の足利支配を一挙に反転させようとした作戦として、一三五二年は最大級の画期だったとする方がよい。
京都を奪還しても北朝をすぐ再建できない
義詮が三月十五日に京都を取り戻しても、北朝の天皇は存在しなかった。崇光天皇は前年の正平一統で廃位され、その本人を含む三上皇と直仁親王は南朝の管理下にある。三種の神器も南朝へ渡っていた。
通常なら上皇の院宣や譲位、神器継承を通じて新天皇を立てる。しかしその制度資源が京都から失われている。幕府が軍事的に京都を持っていることと、王権の正統的継承を再建できることは別問題だった。
この危機は、武家政権が皇位制度を自由に作れるわけではなく、朝廷内部の権威・儀礼を必要としていたことを示す。
広義門院が果たした異例の役割
北朝再建で重要な役割を果たしたのが広義門院寧子である。広義門院は後伏見上皇の女御で、光厳・光明両天皇の母、花園天皇の准母にあたる。
三上皇が南朝方にいるため、足利義詮は広義門院に新天皇擁立の権威を求めた。コトバンク収録の人物辞典は、一三五二年、義詮の要請によって広義門院が後光厳天皇践祚の令旨を出したと説明する。
女院の令旨を皇位継承の制度的根拠として使うことは通常の継承手続ではない。それでも持明院統の家長的権威を京都側で確保するための現実的な方法だった。
8月17日、後光厳天皇践祚
一三五二年八月十七日、光厳上皇の第二皇子弥仁親王が践祚し、後光厳天皇となった。山川日本史小辞典は在位を一三五二年八月十七日から一三七一年三月二十三日までとする。
弥仁親王はもともと出家する予定だったともされ、皇太子ではなかった。兄崇光上皇と直仁親王が南朝方にいるため、従来予定された皇位継承線を外れて新たな候補が立てられた。
後光厳天皇の践祚は、南朝による三上皇確保が北朝皇統を消滅させなかったことを示すと同時に、皇位継承の制度が非常時に大きく変形し得たことを示す。
神器なしの践祚
後光厳天皇は三種の神器を欠いた状態で践祚した。南朝は正平一統で神器を回収し、その後も保持していたためである。また父光厳上皇の直接の意思を京都で確認することもできなかった。
講談社系人名辞典は、後光厳天皇が親王宣下も神器もなく、広義門院の命令という異常な方法で即位したと説明する。この「異常」は正統性がなかったという意味ではなく、通常の儀礼条件を満たせない非常事態だったという意味である。
神器の不在は、その後の北朝の正統性論争に長く影響する。皇位は儀礼物だけで成立するのではないが、神器が王権の可視的継承物である以上、欠如は政治的弱点になった。
後光厳天皇を「幕府が勝手に作った天皇」で終わらせない
足利義詮が北朝再建を強く必要とし、幕府の軍事的支援なしに後光厳天皇の践祚が難しかったことは明らかである。しかし、後光厳天皇を「幕府が自由に選んだ飾り」とする説明も単純すぎる。
弥仁親王は光厳上皇の実子であり持明院統の皇族である。広義門院や二条良基をはじめ京都に残る公家社会が継承手続を構成し、朝廷官人が儀礼・文書を再建した。
北朝は武家だけでも公家だけでも再建できず、幕府の軍事力と持明院統・公家社会の制度資源が結合して成立した。
公家社会を再起動する
天皇を立てても、朝廷が機能するには関白、公卿、弁官、蔵人、寺社関係者など多数の人々が必要である。三上皇連行後の京都では、残った公家たちが後光厳朝の官職・儀礼を再編した。
北朝再建を一人の天皇擁立だけで説明すると、こうした行政社会が見えない。官位任命、綸旨発給、寺社祈祷、荘園権利確認を再び動かすことで初めて朝廷として機能する。
東寺百合文書に年末の後光厳天皇綸旨案が残ることは、新しい朝廷が数か月で具体的な寺社行政を始めていたことを示す。
9月27日、文和へ改元
後光厳天皇践祚後の九月二十七日、北朝は観応三年から文和元年へ改元した。改元は後光厳天皇の代始改元であり、北朝が再建されたことを時間秩序の上でも明確にした。
同じ一三五二年に幕府関係文書が正平、観応、文和を順に使うことは、政治秩序の断絶と再建を端的に表す。年号が変わるたびに、書状・裁許状・売券・請文の日付も変わる。
一方、南朝は正平七年を使い続けているため、文和改元によって再び二つの年号体系が並立した。正平一統の終わりが制度上確定したのである。
15歳の後光厳天皇と『入木抄』
宮内庁書陵部は、尊円親王が後光厳天皇のためにまとめた書道入門書『入木抄』を所蔵する。奥書から文和元年十一月十五日の成立と知られ、この日、十五歳の後光厳天皇が読書始を行ったことと関係すると考えられている。
神器も三上皇もない危機の中で擁立された若い天皇に、読書始・手習始を行わせることは、単なる教育行事ではない。天皇として必要な学問・書の素養と宮廷儀礼を整え、新王権を日常へ定着させる行為でもあった。
戦争と皇位継承の年に、筆・紙・墨・手本の選び方を教える書が作られたことは、王権が軍事だけでなく文化的実践によって再生されたことを示す。
12月29日、後光厳天皇綸旨が東寺関係に残る
東寺百合文書には文和元年十二月二十九日付の後光厳天皇綸旨案が残り、近江国速水庄の修正壇供について命令している。
八月に践祚した後光厳天皇の朝廷が、年末には寺院儀礼を支える荘園負担について綸旨を発給していたことが分かる。北朝再建は象徴的宣言だけでなく、具体的な寺社行政の再起動だった。
戦争で皇族を失っても、文書を作り、荘園へ負担を命じ、儀礼を維持する行政能力を回復することで王権は制度として存続した。
戦争の最中にも田地は売られ、職が引き継がれる
一三五二年の東寺百合文書には、幕府の禁制・裁許状だけでなく、上久世庄の公文職、田地譲状、下久世庄の本銭返売券など地域社会の日常取引も残る。十二月二十日には松御前が下久世庄の田地を本銭返の形で売却した文書が作られている。
京都が南朝・足利方の戦場になり、年号が何度も変わる年でも、人々は土地を譲り、売り、職を引き継いだ。生活は政治秩序の安定を待ってくれない。
こうした売券・請文は、南北朝内乱を武将の合戦だけではなく、農村・荘園の財産関係が継続する社会として見る重要な史料である。
若狭太良庄百姓の訴え
東寺百合文書には正平七年二月二十四日、若狭国太良庄の百姓らが連署して所務職問題を訴えた重申状が残る。直義の死、後村上天皇の進発、京都をめぐる危機の直前にも、荘園の百姓たちは現地の代官・所務をめぐって寺家へ具体的な要求を出していた。
百姓を戦争に翻弄されるだけの受動的存在と考えるべきではない。彼らは連署し、先の申状を参照し、自分たちに不利な所務が庄家・寺家双方に難儀をもたらすと論じる。
中央の王権が変わっても、荘園経営には現地住民との交渉が必要だった。
戦争と濫妨狼藉
三月十八日の東寺領禁制や、その後の久世庄関係文書に「濫妨」「狼藉」という語が現れることは、京都周辺の戦争が土地支配へ直接被害を与えていたことを示す。
軍勢は兵粮・宿泊・馬草を必要とし、敵方所領だけでなく味方側の寺領へも入り込む。寺社は禁制を得て軍勢による侵害を防ごうとするが、紙の命令が現場ですぐ守られるとは限らない。
幕府が繰り返し打渡命令・請文を必要としたことは、戦時の権利実現が困難だったことを物語る。
朝廷再建と寺社の相互依存
後光厳朝は寺社に祈祷・壇供を求め、寺社は新しい天皇・幕府から所領保護を求める。政治権力と宗教施設は一方向の支配関係ではなく、互いに必要な資源を交換する関係だった。
王権にとって寺院の祈祷は国家安穏・天皇安全を支える儀礼資源であり、寺院にとって王権の綸旨は荘園支配を正当化する法的資源である。
一三五二年のように王権が再建された年ほど、この相互依存が明瞭に見える。
三上皇連行を後世の「南朝忠節」だけで見ない
南朝が三上皇らを賀名生へ移した出来事は、後世の南朝正統論では北朝を完全に屈服させた場面として評価される一方、北朝側からは強制的連行の被害として記憶された。
現代の歴史叙述では、どちらかの道徳的立場に立つより、北朝再建を妨げる政治措置としての合理性と、皇族の自由を奪う強制性の双方を見る必要がある。
また三上皇らはその後何年も南朝側の管理下に置かれるため、この事件は一三五二年だけで完結せず、京都の北朝皇統と南朝の交渉関係を長期に規定する。
後光厳朝の正統性問題
後光厳天皇は神器を欠き、父光厳上皇や兄崇光上皇が南朝にいる中で擁立されたため、その践祚は北朝史の中でも特異である。後世の皇統論では、この異例性が北朝正統性をめぐる議論に利用された。
しかし一三五二年の京都社会では、新しい朝廷を作らなければ官位・寺社行政・宮廷儀礼を継続できない。義詮・広義門院・公家たちは、利用可能な制度資源を組み合わせて王権を再建した。
正統性を抽象的な理念だけでなく、日常行政を継続できる制度的能力として見ると、後光厳朝がなぜ存続したかを理解しやすい。
一年の中で変わる「現在」
一三五二年の人々にとって、自分たちが生きる「現在」の公式名称は何度も変わった。正平一統下では正平七年、義詮が反撃を始めると観応三年、後光厳天皇の代始改元後は文和元年である。
現在の歴史家はすべてを西暦一三五二年へ換算できるが、当時の文書作成者はどの年号を書くかを政治的に選ばなければならない。年号選択が命令の有効性や発給者の正統性と結びついた。
南北朝期の政治分裂は、人々の時間認識そのものを分裂させたのである。
日本史の中でこの時代を見る意味
一三五二年を見る第一の意味は、観応の擾乱の勝敗と南北朝対立の勝敗が一致しなかったことにある。尊氏は直義を降伏させた直後に、南朝の東西同時攻勢によって京都と鎌倉を脅かされた。
第二に、直義の死を尊氏毒殺と無条件に断定しないことが重要である。急死と毒殺風聞は確認できても、殺害命令の確実な同時代証拠はない。『太平記』の物語性を意識しなければならない。
第三に、正平一統崩壊を単なる南朝の裏切りとするのも不十分である。土地・寺社人事・皇位について一統後の秩序像が双方で一致していなかったことが背景にある。
第四に、南朝の京都占領は短期間でも政治的効果が大きかった。三上皇・直仁親王を確保し、北朝を通常の継承手続では再建できない状態にした。
第五に、義詮が三日後には観応年号を復活させたことは、元号が単なる暦ではなく政治的主権の表示だったことを示す。一年の東寺文書に正平・観応・文和が並ぶのは極めて象徴的である。
第六に、男山八幡の戦いは宗教施設が政治・軍事の拠点となる中世社会を示す。大社は聖地であると同時に土地・人・交通を持つ巨大組織だった。
第七に、関東の武蔵野合戦を同時に見ることで、南朝の戦争が京都だけの反攻ではなかったことが分かる。新田氏・宗良親王らは鎌倉を一時占領し、足利東国支配を大きく揺さぶった。
第八に、笛吹峠の笛や『太平記』の劇的逸話は、事件後に形成された記憶として重要だが、同時代史実とは区別する必要がある。
第九に、後光厳天皇の践祚は王権制度の柔軟性を示す。神器・上皇・皇太子という通常の継承資源を失っても、広義門院・公家社会・幕府が別の手続を組み立てて北朝を再建した。
第十に、『入木抄』や読書始は、王権再建が軍事だけでなく教育・書・宮廷文化によって行われたことを示す。十五歳の新天皇を天皇として育てる制度的実践が必要だった。
第十一に、東寺百合文書の禁制・裁許状・売券・百姓申状は、王権が何度変わっても社会生活が続くことを示す。土地を守り、売り、年貢を納め、訴訟する日常の上に政治変動が重なっていた。
そして最後に、一三五二年は「南朝が勝った年」「北朝が復活した年」のどちらか一方ではない。南朝は京都と鎌倉を一時奪い、北朝中枢皇族を確保するほどの成果を上げながら、京都の恒常支配には失敗した。幕府は京都・鎌倉を奪還し北朝を再建したが、神器も上皇も失った。その双方の不完全な勝利が、南北朝内乱をさらに長期化させたのである。
主な流れ
- 1352年正月 — 足利直義が尊氏に降伏し、尊氏とともに鎌倉へ入る。観応の擾乱は最終局面へ。
- 1352年2月24日 — 若狭国太良庄の百姓らが所務職問題について東寺へ連署重申状を提出。
- 1352年2月26日 — 足利直義が鎌倉で急死。『太平記』は毒殺風聞を伝えるが、尊氏毒殺を確定できる同時代証拠はない。
- 1352年2月26日 — 後村上天皇が賀名生を出発し、京都回復のため北上を開始。
- 1352年2月28日 — 後村上天皇が住吉へ入り、南朝軍の畿内攻勢が本格化。
- 1352年閏2月6日 — 後村上天皇が宗良親王を征夷将軍に任じたと『信濃史料』が記録。
- 1352年閏2月19日 — 後村上天皇が男山八幡に本陣を置く。
- 1352年閏2月20日 — 楠木正儀ら南朝軍が京都を占領。細川頼春が七条大宮付近で戦死し、足利義詮は近江へ退く。
- 1352年閏2月23日 — 義詮が正平年号を放棄し、北朝年号「観応3年」を復活させて軍勢を催促。
- 1352年閏2月下旬 — 新田義興・義宗、宗良親王ら南朝軍が鎌倉を一時占領。尊氏は武蔵へ退く。
- 1352年閏2月28日 — 武蔵野合戦。小手指原・高麗原・笛吹峠などで尊氏軍が南朝軍を破り、宗良親王らは退却。
- 1352年3月4日 — 光厳・光明・崇光三上皇と直仁親王が八幡から河内東条の広河寺へ移される。
- 1352年3月15日 — 義詮軍が京都を奪還。南朝軍は男山八幡を中心に抗戦を継続。
- 1352年3月18日 — 佐々木秀綱が東寺領拝師庄・久世庄・上桂庄などへの自軍の濫妨狼藉を禁止。
- 1352年3月22日 — 義詮が東寺八幡宮領久世庄の濫妨停止・土地引渡しを命じる。
- 1352年5月11日 — 南朝公卿四条隆資が男山八幡の戦いで戦死。
- 1352年5月28日 — 男山八幡が陥落し、後村上天皇は賀名生へ退く。
- 1352年6月2日 — 三上皇と直仁親王が河内東条から賀名生へ移される。
- 1352年8月17日 — 弥仁親王が後光厳天皇として践祚。神器・三上皇を欠く異例の北朝再建。
- 1352年9月27日 — 北朝が観応から文和へ改元。南朝は正平を継続。
- 1352年11月15日 — 尊円親王が後光厳天皇のため『入木抄』をまとめる。同日、15歳の天皇が読書始を実施。
- 1352年12月20日 — 山城国下久世庄で田地の本銭返売券が作成され、内乱下でも土地取引が継続。
- 1352年12月29日 — 後光厳天皇綸旨案が近江国速水庄の修正壇供について発給され、新北朝の寺社行政が具体化。
次の時代へ — 京都争奪の反復と旧直義派の再編
一三五二年末、足利尊氏・義詮は京都と鎌倉を回復し、後光厳天皇を擁立して北朝を再建した。しかし光厳・光明・崇光三上皇と直仁親王は南朝側にあり、神器も戻っていない。南朝は畿内で楠木正儀らの軍事力を保ち、九州では懐良親王・菊池武光が勢力を伸ばしていた。
さらに観応の擾乱で直義側についた山名時氏、桃井直常、足利直冬らは完全には消えていない。尊氏・義詮への反対勢力が南朝と結びつけば、京都は再び攻撃される。
次の記事では年数を先に決めず流れを見ると、一三五三年から一三五五年頃の「南朝・旧直義派による京都争奪の反復、足利直冬の再進出、三上皇問題、九州征西府の成長」までを一つのまとまりとして検討するのが自然である。
参考資料・出典
- 富田林市文化財デジタルアーカイブ『富田林市史 第二巻』「正平一統」 — 1352年の後村上天皇進発、京都占領、観応年号復活、京都奪還、八幡陥落、三上皇移送、後光厳天皇践祚までを確認。
- 京都府立京都学・歴彩館(旧京都府立総合資料館)『総合資料館だより』165号「南北朝内乱の一齣を切り取った古文書」 — 閏2月19日の男山入陣、20日の義詮退去、23日の観応年号復活、3月15日の京都奪還、3月18日の東寺領禁制を確認。
- 京都府立京都学・歴彩館「東寺百合文書WEB 1352年」 — 正平7・観応3・文和元年の文書が同年に並ぶこと、幕府禁制・引付奉書・義詮文書などを確認。
- 京都府立京都学・歴彩館「足利義詮御判御教書案」 — 観応3年3月22日、東寺八幡宮領久世庄の濫妨停止・打渡しに関する義詮命令を確認。
- 京都府立京都学・歴彩館「東寺百合文書WEB 1352年検索結果」 — 上久世庄公文職請文、文和元年12月の田地売券など戦時下の日常土地行政を確認。
- 京都府立京都学・歴彩館「山城国下久世庄公文藤原広世畠地譲状」 — 文和元年12月15日の土地譲渡から、王権再編後も地域の土地継承が続いたことを確認。
- 京都府立京都学・歴彩館「東寺百合文書WEB」 — 正平7年2月24日の若狭国太良庄百姓連署重申状から百姓の所務職をめぐる訴えを確認。
- 京都府立京都学・歴彩館「後光厳天皇綸旨案」 — 文和元年12月29日の近江国速水庄修正壇供に関する綸旨案から後光厳朝の寺社行政を確認。
- 京都府立京都学・歴彩館「悲願の16年 後七日御修法」 — 正平一統期の1352年に南朝が国家密教儀礼を掌握したこと、正平年号使用の背景を確認。
- コトバンク「足利直義」 — 1352年2月26日の鎌倉での死、毒殺説が伝わることとその人物経歴を確認。
- コトバンク「観応の擾乱」 — 直義の鎌倉敗北・死をもって擾乱の決着とする一般的整理を確認。
- コトバンク「足利尊氏」 — 直義追討、1352年鎌倉での直義死後の東国政情回復、尊氏の関東滞在を確認。
- コトバンク「正平」 — 正平一統、1352年の南朝京都・鎌倉攻勢、観応復活、後光厳天皇擁立と文和改元の全体像を確認。
- コトバンク「文和」 — 1352年9月27日の文和改元、後光厳天皇の代始改元としての性格を確認。
- コトバンク「後光厳天皇」 — 1352年8月17日の践祚、神器・親王宣下を欠く異例の継承、在位期間を確認。
- コトバンク「広義門院」 — 足利義詮の要請で後光厳天皇践祚の令旨を出した広義門院寧子の役割を確認。
- 宮内庁書陵部紀要「琵琶の時代から笙の時代へ―中世の天皇と音楽―」 — 三上皇・皇太子移御という異常事態の中で後光厳天皇が1352年に践祚した背景を確認。
- 宮内庁書陵部「入木抄」ギャラリー — 文和元年11月15日の成立、15歳の後光厳天皇の読書始・手習始との関係、尊円親王による書道教育を確認。
- 宮内庁書陵部「公卿補任(29)」 — 文和元年から始まる後光厳天皇朝の公卿補任資料が伝わることを確認。
- コトバンク「新田義興」 — 1352年に宗良親王を奉じ、義宗らと上野で挙兵して一時鎌倉を占領し、武蔵野合戦で敗れた経過を確認。
- 山川出版社 Historist「新田義興」 — 1352年の鎌倉進撃・一時占領と武蔵各地での尊氏軍との戦闘を確認。
- 長野県立歴史館系ADEAC「信濃史料 巻六」 — 正平7年閏2月6日の宗良親王征夷将軍任官、閏2月28日の小手指原・高麗原・笛吹峠の戦闘を確認。
- 所沢市「鎌倉街道と小手指ヶ原古戦場」 — 小手指ヶ原が1352年武蔵野合戦の戦場となったことと鎌倉街道上道の交通史的位置を確認。
- 埼玉県「鎌倉殿の13人ゆかりの地(比企地域)」 — 笛吹峠と1352年武蔵野合戦、宗良親王が笛を吹いたとする地名伝承を確認し、伝承として区別して使用。
- 宮内庁書陵部紀要「地域社会における南北朝内乱についてのノート」 — 宗良親王が1352年閏2月に人見・金井原・小手指原で敗戦し信濃へ入った活動年表を確認。
- コトバンク「四条隆資」 — 後醍醐期以来の南朝公卿として活動し、1352年5月11日に男山八幡で戦死したことを確認。
- コトバンク「細川頼春」 — 義詮を補佐し、1352年閏2月20日の南朝京都攻撃で七条大宮付近にて戦死したことを確認。
- 国立国会図書館「重要文化財 師守記」 — 南北朝期京都の同時代官人日記として政治・宮廷社会を検証する基礎史料の性格を確認。
- 国立国会図書館サーチ『園太暦 巻三』 — 観応の擾乱・正平一統期を含む洞院公賢の日記刊本として、軍記と照合する同時代史料を確認。
- 小田原市歴史散策資料 — 1352年の足利尊氏軍・直義軍による早川尻合戦を地域史年表で確認し、年初の関東戦線の背景を参照。
- コトバンク「神奈川町」 — 1352年閏2月、新田義宗の鎌倉進攻で尊氏が一時武蔵神奈河へ退いたことを『園太暦』所載文書に基づき確認。
- コトバンク「大光明寺」 — 三上皇連行期に広義門院が持明院統の祈願・記憶を支える寺院を建立した背景を確認。
- 京都府立京都学・歴彩館「東寺百合文書WEB 1352年検索結果」 — 上久世庄・拝師庄などの濫妨、打渡し、請文が繰り返される戦時の土地行政を確認。
- 京都府立京都学・歴彩館「東寺百合文書WEB」 — 文和元年12月29日の後光厳天皇綸旨案と翌年の請文から、新北朝の綸旨が荘園負担へ実行される過程を確認。
資料確認日:2026年10月4日 / ART LIBRARY