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1165–1168年

六条朝と高倉天皇即位

憲仁親王立太子、藤原基実死去、平清盛太政大臣、厳島神社大造営

1165年(永万元年)、二条天皇が若くして死去すると、その皇子で生後一歳にも満たない順仁親王が六条天皇として皇位を継いだ。平治の乱後に二条天皇を中心として形成されていた政治の回路はここで大きく組み替えられ、後白河上皇が再び皇位継承と朝廷人事に強く関与する余地が広がった。もっとも、それは「院政が完全復活した」という一語で説明できるものではない。幼帝の外戚・乳母家、摂関家、上皇の院近臣、平清盛一門、寺社勢力、国司・受領がそれぞれ異なる制度的位置から政治に参加し、誰か一人がすべてを直接支配する構造ではなかった。

この時期の中心には、後白河上皇と平滋子の間に生まれた憲仁親王、のちの高倉天皇がいる。1166年、憲仁は立太子し、六条天皇とは別の皇位継承線が明確になった。同じ年には摂政藤原基実が24歳で急死し、弟の藤原基房が摂政となる。一方、基実の妻であった平盛子には基実の遺領の相当部分が伝えられ、摂関という官職・藤氏長者の地位と、摂関家の経済基盤である所領の継承が必ずしも一体ではなくなった。そこに盛子の父清盛と、摂関家家司として財務・所領実務に通じた藤原邦綱らが関わったことは、平氏が王朝国家の外側から既存秩序を打ち倒したのではなく、その内部の婚姻・所領・官職・家政機構へ深く入り込んだことをよく示している。

1167年、清盛は太政大臣に任じられた。武家出身者がこの官職に到達したことは象徴的であるが、ここを「武家政権が完成した瞬間」と断定すると、当時の政治制度を見誤る。太政大臣は律令官制上の最高官ではあっても、清盛が全国の武士を統率する将軍職についたわけではなく、新しい政府を六波羅に設置したわけでもない。清盛は数か月で太政大臣を辞し、翌1168年には病を契機として出家する。それでも権力を失わなかったのは、官職一つではなく、後白河院との関係、滋子を介した皇室との姻戚、盛子を介した摂関家領、平氏一門の知行国・国司、厳島神社、瀬戸内海交通など複数の基盤がすでに形成されていたからである。

京都以外でも重要な変化が進んでいた。安芸・備後では国司、留守所、荘園、厳島神社が年貢・土地・港湾をめぐって結びつき、1168年には太田荘の年貢輸送のため尾道村内に倉敷地を設ける申請が現れる。平泉では藤原秀衡が柴田郡の神社年貢を神祇官へ代納しており、奥州藤原氏も中央の官司・祭祀秩序と接続していた。さらに1168年、栄西が最初の入宋を果たす。後世の鎌倉仏教へ直結する成果をこの時点にすべて読み込むべきではないが、人・書物・宗教知識が海を越えて移動する回路がすでに活発に働いていたことは重要である。

二条天皇死後 — 幼帝六条天皇の朝廷

二条天皇は1165年6月に幼い皇子順仁親王へ譲位し、同年7月28日に崩御した。平治の乱後、二条天皇の側には藤原経宗・惟方らをはじめ天皇を政治の中心に据えようとする人脈が形成されていたため、その死は単なる代替わり以上の意味を持った。六条天皇は前年1164年11月に生まれたばかりで、即位時には乳児である。天皇個人が政務を判断できないことは明らかであり、誰が幼帝を養育し、誰が摂政となり、院がどの範囲まで政務を主導し、どの公卿が朝儀を執行するかという周囲の制度が重要になった。

幼帝は平安時代に珍しくないが、六条天皇の場合は、父二条天皇がすでに死去している一方、祖父後白河上皇が健在であった。そのため皇位と院政の関係は、鳥羽上皇と崇徳・近衛天皇の時代とは異なる形で組み直された。後白河院は六条天皇の祖父として院庁を動かし得るだけでなく、自身に別の皇子憲仁がいた。このことが六条朝を最初から不安定な「仮の政権」にした、と結果から逆算するのは慎重であるべきだが、少なくとも複数の皇位継承可能性が並存していたことは確かである。

また、二条天皇の葬送時には延暦寺と興福寺の額打論が起こり、寺社勢力同士の対立が天皇の葬送という国家儀礼の場にまで持ち込まれた。1165年から1168年を理解するには、幼帝と院だけでなく、摂関家、公卿、寺社、武士が朝廷の儀礼・人事・警固を分担していたことを視野に入れる必要がある。

六条天皇 — 生後間もない天皇と政治の担い手

六条天皇は1164年生まれで、1165年から1168年まで在位した。即位した年齢の若さは際立っており、元服以前に退位して太上天皇となるという異例の経歴をたどる。だが、幼帝であることを理由に「天皇には意味がなかった」とするのも適切ではない。天皇の名で行われる除目・宣旨・儀礼、皇位を中心に組み立てられる摂政制度、内裏と里内裏の運用など、王朝国家の制度は幼帝の存在を中心として動き続けた。

政治判断の実質を担ったのは後白河院、摂政、上卿、蔵人・弁官などであるが、誰もが自由に天皇を代替できるわけではない。院政は天皇制の外に別国家をつくる仕組みではなく、上皇が天皇家の家長として院庁・院司・院宣などを用いながら、天皇の朝廷と重なって政治を行う仕組みであった。したがって六条朝では、後白河院が主導権を強めても、摂政や太政官、公卿の儀礼的・行政的役割は消えない。

後白河上皇 — 皇位継承へ再び強く関与する院

二条天皇の生前、後白河上皇と二条側近の間には皇位継承や政務主導をめぐる緊張があった。二条天皇の死によって、後白河院が政界から消えていたわけではないことが改めて明確になる。院御所法住寺殿を中心に、院司・近臣・武士・寺社との関係を持つ後白河は、幼帝六条の祖父として政治的影響力を行使した。

ただし、後白河院を近代国家の「最高権力者」のように描くと制度を単純化する。摂政は藤原氏から出され、公卿の議定や除目には既存の官制が必要であり、寺社の要求は武力だけで抑えられず、国衙行政は受領・在庁官人を通じて動く。後白河院の政治力は、こうした複数の制度と人脈を調整し、人事・所領・寺社造営・皇位継承を結びつけられる点にあった。

憲仁親王 — 滋子所生皇子の位置づけ

憲仁は1161年、後白河上皇と平滋子の間に生まれた。滋子は平時信の娘で、平時忠の妹、平清盛の妻時子の妹にあたる。この姻戚関係によって、憲仁は後白河院の皇子であると同時に、清盛一門と近い母方親族を持つ皇子となった。ただし、これを「清盛が最初から憲仁を天皇にする計画を立てていた」と断定する史料はない。1161年には憲仁擁立をめぐる動きが二条天皇側に警戒され、時忠や教盛らが処分されたことからも、皇位継承をめぐる構想は一度挫折していた。

二条天皇の死後、状況が変化する。六条天皇は二条天皇の皇子として即位したが、幼少であり、父帝もすでにいない。後白河院にとって、自身の皇子憲仁を次の継承者に位置づける政治条件が整っていった。そこには滋子の存在、清盛との姻戚、院近臣の支持が関わるが、同時に摂関家、公卿による儀礼的承認と朝廷の正式な立太子手続きが必要であった。

1166年、憲仁親王立太子 — 『愚昧記』立太子記

1166年(仁安元年)10月、憲仁親王は皇太子となった。藤原実房の日記『愚昧記』には「仁安元年十月立太子記」が伝わっており、この時期の立太子儀礼を知る重要な同時代史料である。『愚昧記』は実房の自筆原本・古写本を含む形で伝存し、東京大学史料編纂所が『大日本古記録』として翻刻しているため、後世の物語だけに頼らず朝廷儀礼の実態を追うことができる。

立太子は単に後白河院が「次の天皇」を指名したというだけの行為ではない。東宮職が置かれ、東宮御所が用意され、役人・乳母・家司が配置される。憲仁が東宮となることで、その周囲に新たな官人・貴族の奉仕関係が形成され、将来の天皇を中心とする政治ネットワークが制度的に立ち上がった。高倉天皇即位は1168年だが、政治的な準備は1166年の立太子によって大きく進んだ。

平滋子と平氏の姻戚 — 清盛の権力を一人で説明しない

滋子は後白河院の寵愛を受け、憲仁の立太子後、その母として地位を上げた。1167年には女御となり、1168年には皇太后となる。のち1169年に院号宣下を受けて建春門院となるが、それは次の記事の時期に属する。重要なのは、滋子が単に「清盛の義妹」という付属的存在ではなく、後白河院と高倉天皇をつなぐ当事者として独自の政治的重みを持ったことである。

平氏一門の政治的上昇を清盛個人の軍事力だけで説明すると、滋子、時子、時忠、盛子など女性・廷臣を介した関係が見えなくなる。王朝社会では婚姻と出産、乳母関係、女房奉仕が政治的ネットワークの形成に直結する。憲仁の母滋子と清盛の妻時子が姉妹であることは、清盛にとって皇位継承への重要な接点だったが、それは後白河院の意思、滋子自身の立場、朝廷の制度を経由して初めて政治力となった。

藤原基実急死 — 24歳の摂政の死

1166年7月26日、摂政藤原基実が24歳で死去した。基実は藤原忠通の長男で、1158年に16歳で関白・藤氏長者となり、六条天皇即位後には摂政を務めていた。摂関家の嫡流を担う若い当主の死は、皇位継承と並んでこの年の大きな政治事件である。

基実の死で摂関家そのものが衰滅したわけではない。弟の基房が摂政・藤氏長者を継ぐ。しかし、基実には幼い子基通があり、妻盛子は清盛の娘であった。ここで問題となったのは、摂政・藤氏長者という公的・氏的地位を誰が継ぐかだけでなく、基実が管理していた摂関家領を誰が保持するかである。院政期の大貴族にとって、所領群は家政機構・家司・寺社造営・儀礼費用を支える経済基盤であり、その帰属は政治権力そのものに関わった。

藤原基房摂政 — 摂関職と所領継承の分離

基実の死後、弟基房が摂政となった。これだけを見れば摂関家内部で通常の兄弟継承が行われたように見える。しかし、基実の遺領の相当部分は妻盛子側へ伝えられ、基房が摂政になったことと、摂関家の経済基盤を全面的に継承したことは同義ではなかった。このずれは、後の基房と平氏の関係を考えるうえで重要である。

ただし「清盛が摂関家領を強奪した」とだけ表現するのも単純すぎる。基実の妻である盛子への相続、基実の幼い嫡男基通の将来、家司藤原邦綱らの判断、院・清盛の政治的力が重なって所領承継が行われた。王朝貴族の家産は近代的な一括相続財産とは異なり、本所職・領家職・預所職など重層的な権利関係によって構成されていたため、誰が「所有者」かを一語で決めにくい。

平盛子と摂関家領 — 婚姻・家司・所領

盛子は清盛の娘で、基実の妻となっていた。基実の死後、彼女は摂関家領の重要な部分を伝領する立場となる。これによって平氏と摂関家は、単なる政治的同盟以上に、所領管理を通じて結びついた。清盛が盛子の後見として影響力を持ったことは、平氏の経済基盤を大きく広げる契機となった。

ここで注目すべきなのは、武士が公家から土地を奪ったという構図ではない。清盛自身が公卿となり、娘が摂関家当主の妻となり、家司・受領・預所といった王朝社会の実務機構が所領を管理する。平氏の上昇は、武力による制度破壊ではなく、既存制度への高密度な参加によって進んだ。後の鎌倉幕府成立とは異なる、院政期特有の武門の権力形成である。

藤原邦綱 — 実務官人と巨大所領の管理

藤原邦綱は摂関家の家司として忠通・基実に仕え、伊予・播磨などの受領を歴任して富を蓄えた実務官人である。基実死後、盛子による遺領承継に関わり、その後は清盛との関係を深めたとされる。1166年には参議となり、公卿に列した。

邦綱の存在は、院政期の権力が「貴族か武士か」という二分法では捉えられないことを示す。国司として地方から財を集め、摂関家の家政実務を担い、皇族の乳母家ともなり、清盛にも近づく。こうした実務官人のネットワークが、所領から京都へ年貢を運び、邸宅・寺院・儀礼を維持する。清盛の権力も、この層を抜きにしては運営できなかった。

清盛の昇進 — 武力だけではない公卿化

清盛は平治の乱後に参議へ進み、正三位、公卿として朝廷政治へ入った。その後の昇進は急速で、1167年には内大臣から左右大臣を経ずに太政大臣へ上る。これは武門出身者としてきわめて異例であり、後世から見ても象徴的である。

しかし清盛の昇進を「戦争に勝った褒賞」だけに還元することはできない。平治の乱からすでに数年がたち、清盛は院御所・寺社造営、国司・知行国、摂関家との婚姻、皇位継承への接点を積み重ねていた。公卿として朝議に参加すること自体が重要であり、清盛は武士でありながら貴族政治の最高位へ進んだのではなく、武門の棟梁であることと公卿であることを同時に成立させた。

1167年、平清盛太政大臣 — 何が変わり、何が変わらなかったか

1167年(仁安2年)2月11日、平清盛は太政大臣に任じられた。藤原実房の『愚昧記』にもこの任官が記録され、広島県立文書館の年表も『玉葉』を典拠として同日を掲げる。太政大臣は太政官の最高官であり、武門からここへ上ったことは、清盛が朝廷の外部勢力ではなく国家の最高位官人の一人になったことを示す。

ただし太政大臣を近世の「将軍」や近代の「首相」のように理解してはならない。平安後期の太政大臣は常置の実務責任者とは限らず、上皇の院政、摂政、左右大臣・内大臣、弁官・蔵人所など複数の政治回路が並存した。清盛は太政大臣になったから軍事・裁判・地方行政のすべてを指揮したのではない。

むしろ重要なのは、この任官が平氏一門の社会的身分を大きく押し上げたことである。嫡男重盛も権大納言へ進み、一門の人々が公卿・殿上人、国司・知行国主へ広がる。六波羅に武士が集住する一方、その権力の正統性と収入は朝廷官職・国衙・荘園・寺社との関係に依存していた。

太政大臣辞任 — 官職を離れても失われない権力

清盛は太政大臣就任から約三か月後の1167年5月に辞任した。最高官職への就任期間が短かったことは、この官職を長期的な行政指揮権として利用したのではなく、政治的・身分的到達点としての意味が大きかったことをうかがわせる。辞任後も清盛の影響力は弱まらない。

この点は院政期政治を理解するうえで重要である。官職が権力のすべてではない。清盛は一門の家長として人事・婚姻・所領管理に関与し、後白河院との関係を持ち、厳島神社を保護し、西国・瀬戸内海に人的基盤を持っていた。官職から退くことが即座に「引退」を意味しないのは、上皇が天皇を退位しても政治力を持つ院政そのものと共通する王朝社会の特徴でもある。

平氏一門の拡大 — 重盛・頼盛・時忠と役割の違い

この時期、平氏一門は同じ方向に動く単一組織ではなかった。重盛は清盛の嫡男として公卿への道を進み、頼盛は清盛の異母弟として独自の所領・人脈を持ち、時忠は滋子の兄として宮廷実務と皇位継承に関与した。教盛・宗盛らもそれぞれ官職を得る。後世の『平家物語』が描く「平家一門」のまとまりは重要な歴史記憶だが、現実の一門内部には世代・母系・所領・奉仕先の違いがあった。

1168年には頼盛・保盛父子が無断で厳島社へ参詣したとして解官された記録もあり、平氏一門だから何をしても許されたわけではない。朝廷の官人としての規律はなお作用していた。清盛の権勢が強まる一方で、一門各人は朝廷の官職秩序に組み込まれていたのである。

寺社と朝廷 — 延暦寺、祇園感神院、明雲

1160年代後半も寺社勢力は政治の中心にいた。延暦寺は広大な寺領・末寺・神人組織を持ち、日吉社や祇園感神院などを通じて京都内外の土地・商業・祭礼と関わった。1167年には明雲が天台座主となる。明雲は後に後白河院と清盛双方の戒師となり、平氏との関係でも知られるが、この段階から延暦寺と院・平氏の結節点となる人物が現れている。

寺社を「僧兵の暴力集団」とだけ見るのは不十分である。寺社は祈祷・祭礼・教育・僧侶組織を担う宗教権門であると同時に、荘園・保・職を持つ領主でもあった。神輿を奉じた強訴はその政治手段の一つだが、日常的には文書を発給し、裁判し、所領管理を行っていた。

1167年、波々伯部村保司職 — 寺社領の現場と文書

国立歴史民俗博物館には、1167年2月5日付の「仁安二年感神院大別当桓円解文」が残る。祇園感神院の大別当桓円が、父から譲られた波々伯部村保司職の知行を認めるよう延暦寺政所へ申請した文書で、権長吏以下49名の連署を伴う。

この一通から、地方の土地支配が京都の大寺社とどのようにつながっていたかが見える。「保司職」は土地そのものだけでなく、その土地を管理し収益を得る職権であり、父から子へ譲られる一方、その知行には上級権門である延暦寺側の承認が必要だった。荘園公領制は中央と地方を切り離す制度ではなく、地方の田畠・年貢・職を京都の寺社・貴族へ結びつけるネットワークだった。

1168年の私領地売券 — 絹で支払われる土地代金

国立歴史民俗博物館所蔵の1168年7月19日付「紀氏女私領地売券」は、政治史からは見えにくい日常の経済を具体的に示す。紀氏女が私領地を秦末永へ売り渡した文書で、代価として上質の八丈絹が用いられている。博物館の解説は、当時、絹が貨幣として使用されていたことを指摘する。

12世紀後半には宋銭の流入が拡大していくが、社会全体が銭貨一本で取引していたわけではない。米、布、絹、物品、労働などが価値尺度・支払手段として併用されていた。土地も固定的な「先祖代々の領地」だけではなく、売買・譲与・寄進の対象となる。こうした文書の積み重ねが、荘園や在地領主の土地集積を支えていた。

国司・受領と地方行政 — 安芸・備後の具体例

清盛の政治的上昇を理解するうえで、西国の国司経験と国衙行政は欠かせない。清盛自身はかつて安芸守を務め、一門も西国の国司・受領職を多く得るようになる。ただし「平氏の知行国だから国衙が私物化された」と直線的に考えるべきではない。国司には租税の徴収、神社・寺院との調整、荒廃田の把握、中央への済物納入など具体的行政責任があった。

広島県立文書館の年表によれば、1167年12月には安芸国などの申請によって「不堪佃田」が定められ、備後国司については延任や年々の済物免除が認められている。不堪佃田は耕作不能・収穫困難な田地をめぐる行政判断に関わり、単なる中央の政争とは異なる地方財政の現実を示す。国司の任期や納税能力は、気候・耕作状況・荘園の拡大などに左右された。

太田荘と尾道 — 年貢を海へ積み出す仕組み

備後国の太田荘は、院政期から中世にかけて大規模荘園として展開する。1167年には備後守藤原雅隆が留守所に命じて戸張保を太田荘へ加えさせた記録があり、翌1168年には荘園の下司・沙汰人らが、年貢積み出しのため御調郡尾道村内に倉敷地を設けることを備後国衙へ申請している。

尾道市は1169年を公認の倉敷地・港としての画期としているが、その前年1168年にはすでに設置申請が進んでいたことが広島県史料年表から確認できる。内陸の荘園から集めた米を川・陸路で港へ運び、一時保管し、瀬戸内海航路で畿内へ送る。荘園経済は村の内部で完結しておらず、国衙・港・船・倉庫を含む物流網を必要とした。

こうした物流を考えると、平氏の西国基盤も単に「領地が多かった」から強かったのではないことがわかる。年貢を実際に集荷し、港へ移し、海上輸送し、京都で消費・換金する仕組みを持つことが重要だった。のちに清盛が大輪田泊を整備し、福原を重視する背景には、このような瀬戸内海物流の成長がある。

1168年、厳島神社大造営 — 海上社殿と清盛

厳島神社公式サイトは、安芸守経験を持つ清盛が神社を篤く崇敬し、1168年(仁安3年)に寝殿造の様式を取り入れた社殿へ修造したと伝える。広島県も同年を厳島神社大造営の年として掲げる。現在の社殿は後世の火災後に再建された建物を含むが、海上に回廊で建物を連ねる構成は、平安末期の清盛による整備を重要な出発点としている。

すでに1164年には清盛と平氏一門が「平家納経」を奉納していた。したがって1168年の造営は突然始まった単発の事業ではなく、厳島神社への継続的な信仰・奉納の延長にある。清盛が太政大臣に上った1167年にも厳島参詣の記事があり、京都での官位上昇と安芸の宗教拠点への関与は並行して進んでいた。

厳島神社を「日宋貿易のために造った」と目的論的に断定することには注意が必要である。海上交通の守護、平氏一門の結縁・祈願、旧任国安芸との関係、神主佐伯氏との結びつきなど複数の要素がある。ただし、厳島が瀬戸内海航路上に位置し、清盛の西国・海上交通への関心と重なることは確かである。

瀬戸内海交通 — 安芸・備後・摂津をつなぐ回路

12世紀後半の瀬戸内海は、京都と西国を結ぶ主要交通路だった。備後太田荘の年貢は尾道へ運ばれ、安芸の厳島神社には京都から貴族・武士が参詣し、九州の博多には宋船が来航する。東端の摂津には大輪田泊があり、畿内への物資流入を担った。

海上交通の担い手は平氏だけではない。各地の船人、荘園の下司・沙汰人、国衙、寺社、商人が重なり合って輸送を支えた。清盛の強みは、これらをゼロから作ったことではなく、既存の交通網上に国司・荘園・寺社・港湾との関係を持ち、その結節点へ政治的資源を投入できたことにある。

日宋交通 — 「清盛が貿易を独占した」と単純化しない

清盛は後世、日宋貿易の推進者として知られる。実際、福原・大輪田泊を重視し、のち1170年には宋人が福原へ来着する。しかし1165~1168年の段階で、清盛が日本と宋の貿易を独占し、宋船を自由に京都近郊へ呼び寄せていたと考えるのは早い。

宋との交易窓口では博多・大宰府が依然重要であり、民間商人や寺僧が交易・渡航を担った。輸入品には陶磁器、経典、書籍、香料、織物、銭貨などがあり、日本側からは砂金・硫黄などが輸出された。清盛の海域政策を理解するには、こうした既存の日宋交通へ平氏が接近し、西国支配・瀬戸内航路・福原を連結させていく過程として見る必要がある。

1168年、清盛出家 — 病、福原、政治的影響力

1168年、清盛は大病を患い出家した。出家の具体的な月日や法名については後世の『平家物語』諸本などに異同があり、物語本文だけから細部を確定することには注意が必要である。一方、清盛が仁安3年に病を契機として出家し、その後福原を重要な居所としたこと自体は広く確認されている。

出家は政治的引退を意味しなかった。院政期には上皇が出家して法皇となっても政治を続けるように、貴族・武士も入道後に家長として影響力を保つことがある。清盛は官職の第一線から距離をとりながら、一門の総帥として人事・所領・寺社・海上交通に関与し続ける。福原という京都外の拠点が本格的に意味を持ち始めるのも、この時期以後である。

六条天皇譲位と高倉天皇即位 — 1168年の皇位移動

1168年(仁安3年)2月、六条天皇は憲仁親王へ譲位し、憲仁が高倉天皇として即位した。六条天皇はまだ5歳ほどで元服前であり、幼いまま太上天皇となった。高倉天皇も8歳で、引き続き幼少の天皇であるが、政治的意味は大きく異なる。高倉は後白河院の実子で、母滋子は清盛の妻時子の妹だったため、後白河院と平氏を皇位継承の中心で結ぶ関係が制度化された。

ただし、高倉即位をもって「清盛が天皇を自由に選んだ」とは書けない。憲仁は1166年に正式に立太子しており、即位はその制度的継承の結果でもある。摂政基房、公卿、朝廷儀礼が機能し、後白河院の意思がその中で実現したと捉える方が実態に近い。

高倉朝は後白河院政と平氏権力がもっとも密接に協調する時期へ入る。その一方で、摂関家の基房、寺社勢力、院近臣など他の権門も消滅してはいない。この複数権門の共存が、1170年代後半に清盛と後白河院の対立が深まる際の前提となる。

栄西の最初の入宋 — 宗教知識と海域交流

1168年4月、備中出身の僧栄西は最初の入宋を行った。建仁寺の寺伝・年表では、28歳で宋へ渡り、天台山などを訪ね、9月に帰国したとする。この最初の渡宋は、後年の第二回渡宋と異なり、まだ臨済禅の正式な伝法を受けて帰国した旅ではない。後世の「禅宗開祖」という評価から1168年の旅へ成果を先取りしないことが重要である。

それでもこの渡航は、12世紀後半の海域交流を考えるうえで重要である。栄西は僧であり、商人や外交使節ではないが、宋への航路を利用し、経典・仏教知識を求めて渡海した。同時期には重源も宋へ渡っており、宗教者の移動と民間貿易の航路は重なっていた。国家が遣唐使のような公式使節を派遣しなくても、人と文物の往来は続いていたのである。

平泉と藤原秀衡 — 神祇官へ届く奥州の年貢

奥州では藤原秀衡が平泉を中心に支配を進めていた。平泉町の年表によれば、1167年、秀衡は柴田郡の大高山・苅田峯両神社の年貢金を神祇官へ代納している。秀衡が従五位下・鎮守府将軍となるのは1170年であり、この時期にはまだ中央官位による公的地位が完成する前である。

それでも奥州藤原氏は京都と無関係な「独立国家」ではなかった。神祇官への納入、摂関家荘園との関係、陸奥国司、馬・金などの貢納を通じて王朝国家と接続していた。一方で、平泉には独自の寺院群・都市的景観・在地支配網があり、中央の一地方行政単位に還元することもできない。秀衡の時代は、この二重性がさらに明確になる。

日本史の中でこの時代を見る意味

1165年から1168年は、しばしば「平清盛が太政大臣となり平氏政権を確立した時代」と一行でまとめられる。しかし、実際に起きていたことはもっと複雑である。二条天皇死後の幼帝六条朝、後白河院の再浮上、憲仁親王立太子、基実急死、基房の摂政就任、盛子への摂関家領伝領、清盛の太政大臣就任と辞任、清盛出家、高倉天皇即位がわずか三年ほどの間に重なっている。

そこから見えるのは、武士が貴族を倒して新しい時代を始めたという単純な交代ではない。清盛は太政大臣となり、娘は摂関家当主の妻となり、義妹滋子は天皇の母となる。平氏は朝廷の外へ出るのではなく、朝廷・摂関家・院・寺社・国司制度の内側へ入り込むことで権力を拡大した。その意味で「平氏政権」は、後の鎌倉幕府と同じ仕組みの武家政権ではない。

同時に、地方社会を見ると、波々伯部村の保司職をめぐる延暦寺文書、絹を代価とする私領地売買、安芸・備後の国司行政、太田荘と尾道の物流、平泉の神祇官年貢代納が確認できる。中央の政治変動は、こうした地方の土地・年貢・交通によって物質的に支えられていた。京都の官位表だけでは、この時代の権力がどこから生まれていたのかを説明できない。

さらに1168年には厳島神社大造営と栄西の入宋が重なる。宗教と海域交通は別のテーマではない。寺社は所領と港を持ち、僧は海を渡り、平氏は瀬戸内海沿岸の国司・荘園・神社へ関与する。12世紀後半の日本は、京都中心の閉じた社会ではなく、東北から瀬戸内海・博多、さらに宋へ伸びる複数の交通回路によって構成されていた。

主な流れ

次の時代へ — 建春門院、福原、宋人、高倉朝

高倉天皇の即位によって、後白河院・滋子・清盛を結ぶ皇位継承の線は制度的に確立した。翌1169年、滋子は建春門院となり、清盛の福原山荘には後白河院が訪れる。1170年には宋人が福原へ来着し、藤原秀衡は鎮守府将軍となる。京都の朝廷政治、西国の海上交通、平泉の地域権力がそれぞれ新しい段階へ入っていく。

しかし、高倉朝を「平氏独裁」の始まりと決めつけるべきではない。摂政藤原基房、後白河院の近臣、延暦寺・興福寺などの寺社、各国の国司・在庁官人は引き続き独自の政治力を持つ。清盛と後白河院の協調が強まるほど、その内部に蓄積される所領・人事・寺社政策をめぐる摩擦も大きくなる。次の時代では、その協調の最盛期と、後の対立につながる条件を追う。

参考資料・出典