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842–858年

文徳朝と藤原良房

道康親王、惟仁親王、外戚政治、幼帝即位

842年の承和の変で皇太子恒貞親王が廃されると、仁明天皇の皇子・道康親王が新しい皇太子となりました。これによって、嵯峨系と淳和系の間で皇位を交互に継承する構想は崩れ、仁明天皇からその実子へ皇位をつなぐ方向が強まります。道康親王の母は藤原順子で、その兄が藤原良房でした。王位継承と藤原北家の外戚関係が、ここからさらに深く結びついていきます。

承和の変から文徳天皇即位までの8年間、仁明朝は続きました。この間、藤原良房は842年に大納言となり、848年には右大臣へ昇ります。一方、838年遣唐使に加わって唐へ渡った円仁は、会昌の廃仏という大規模な仏教弾圧を経験しながら唐各地で求法を続け、847年に帰国しました。唐で9年以上を過ごした円仁が持ち帰った密教・天台教学は、その後の比叡山と平安仏教を大きく変えます。

850年3月、仁明天皇が死去し、皇太子道康親王が文徳天皇として即位しました。同じ850年に、文徳天皇と藤原良房の娘・明子の間に惟仁親王が生まれます。惟仁親王は同年11月に皇太子となりました。生後1年に満たない幼児が皇位継承者に定められたことは、母方祖父である藤原良房の政治的立場を大きく強めました。

文徳天皇には惟仁親王より年長の皇子がいました。844年生まれの第一皇子・惟喬親王です。母は紀静子で、後世の説話では文徳天皇が惟喬を皇太子に望んだものの、藤原良房が惟仁を推して対立したと描かれました。さらに惟喬・惟仁双方の護持僧が祈祷で争った、競馬・相撲で皇太子を決した、といった伝説まで発展します。しかしこれらの物語は後世の『江談抄』『平家物語』などで拡張されたもので、850年の政治過程をそのまま記録した同時代史料ではありません。

文徳朝では藤原良房の地位が着実に上昇します。すでに右大臣として太政官の中心にありましたが、857年には太政大臣となりました。太政大臣は律令官制上の最高官で、「その人がいなければ置かなくてもよい」とされた特別な職です。奈良時代には藤原仲麻呂が唐風名の「太師」、道鏡が「太政大臣禅師」を称した例がありますが、平安初期に通常の太政大臣として臣下が就任することは極めて異例でした。

良房の権力上昇を「藤原氏が天皇を支配した」とだけ説明することはできません。文徳天皇自身が成人君主として在位し、左大臣源信、右大臣藤原良相、伴善男ら複数の有力官人が政権を構成していました。良房の政治的強みは、官職の高さだけでなく、文徳天皇の母方伯父であり、皇太子惟仁の母方祖父であるという二重の外戚関係にありました。

858年8月、文徳天皇が32歳で死去すると、皇太子惟仁親王が9歳で即位し、清和天皇となります。幼帝の即位によって、外祖父であり太政大臣である藤原良房が政務を代行・補佐する必要性が高まりました。後世、良房は「人臣最初の摂政」として知られますが、858年に正式な摂政任命の勅があったかについては史料上議論があります。『公卿補任』などは天安2年の摂政就任を記す一方、『日本三代実録』で明確に「天下の政を摂行」する勅が確認されるのは866年の応天門の変の際です。

842~858年は、後の摂関政治がすでに完成していた時代ではありません。むしろ、王位継承が父子方向へ傾き、幼い皇太子が選ばれ、外祖父が最高官として後見するという条件が初めて組み合わされた時代です。この構造が、清和・陽成朝を通じて藤原良房・基経の政治へ発展していきます。

承和の変後の政治

842年7月、嵯峨上皇の死直後に承和の変が起こり、皇太子恒貞親王は廃されました。仁明天皇の皇子・道康親王が代わって皇太子となります。

823年以来、嵯峨系と淳和系を交互に皇位へつなぐ構想が続いていましたが、恒貞廃太子によってその仕組みは崩れました。皇位は仁明天皇の実子へ継がれる方向へ変化します。

道康親王

道康親王は827年、仁明天皇と藤原順子の間に生まれました。藤原順子は藤原冬嗣の娘であり、その兄が藤原良房です。

道康親王にとって良房は母方の伯父にあたります。承和の変後の立太子によって、藤原北家は皇太子の母方親族として王位継承に近い位置を得ました。

842年 道康親王立太子

恒貞親王の廃太子後、道康親王が皇太子となりました。

事件の結果として、仁明天皇の皇位を息子へ直接つなぐ王位継承が設定されました。

ただし842年時点で「父子継承が永続的な原則として確立した」とまでは言えません。平安初期の皇位継承には、なお兄弟・叔父・甥など複数の可能性が残っていました。

交互継承構想の崩壊

嵯峨・淳和両系統の均衡を保つ交互継承は、二人の上皇の権威によって支えられていました。

840年に淳和上皇、842年に嵯峨上皇が死去すると、その調整構造が失われます。

承和の変と道康立太子は、王位継承の重心が現天皇の子へ移る大きな節目でした。

842年 藤原良房が大納言へ

承和の変と同じ842年、藤原良房は大納言となりました。

良房は藤原冬嗣の子で、嵯峨・仁明両朝を通じて昇進してきた藤原北家の有力官人です。

妹順子が仁明天皇の后で、その子道康親王が皇太子になったことにより、官人としての地位と外戚としての立場が重なっていきます。

良房と藤原北家

藤原氏は一つの統一的政治集団ではありません。南家、北家、式家、京家に分かれ、それぞれ異なる官人・婚姻関係を持っていました。

810年の薬子の変では式家の藤原仲成・薬子が失脚し、その一方で北家の藤原冬嗣が嵯峨天皇側近として台頭しました。

良房はその北家の政治基盤を引き継ぎ、王家との婚姻をさらに強化した人物です。

仁明朝後半の政権

842年以後も仁明天皇は成人君主として政務を行い、太政官には藤原良房だけでなく源常・源信、伴善男、橘氏・紀氏など多様な官人が存在しました。

藤原北家の台頭は重要ですが、この時点で国家機構全体が良房一人の私的支配下に置かれたわけではありません。

844年 惟喬親王誕生

844年、後の文徳天皇・道康親王の第一皇子として惟喬親王が生まれました。

国立国会図書館の典拠情報も惟喬親王を844年生まれ、文徳天皇の皇子としています。

850年に文徳が即位した時点で、惟喬はすでに数歳になっており、年長皇子として王位継承候補になり得る位置にいました。

紀静子と紀氏

惟喬親王の母は紀静子です。

紀氏は古代以来の有力氏族で、武内宿禰系の系譜を持つ氏族として多くの官人を出してきました。しかし9世紀には藤原北家ほど太政官上層と皇室婚姻を継続的に掌握してはいませんでした。

皇子本人の年齢・資質だけでなく、母方親族の政治的位置が皇位継承に影響する構造が強まっていました。

847年 円仁帰国

847年、天台僧円仁が唐から日本へ戻りました。

円仁は838年遣唐使に加わって唐へ渡り、帰国まで9年3か月にわたって滞在したことが研究資料から確認されています。

公式遣唐使本隊が839年に帰国した後も唐に残り、五台山・長安などで仏教を学びました。

9年3か月の唐滞在

円仁は遣唐使の通常の外交日程を超えて唐国内を移動し、寺院・僧侶・新羅人社会などとの関係を築きました。

長期滞在によって、国家公式使節だけでは得にくい宗教実践や地域社会の情報を記録しました。

帰国後、その経験は比叡山の教学・儀礼へ強く影響します。

会昌の廃仏

円仁は唐の武宗による会昌の廃仏を現地で経験しました。

845年前後、唐政府は寺院財産・僧尼を大規模に整理し、多くの仏教施設を破却・還俗させました。

日本から仏教の先進地として見られていた唐そのものが、国家政策によって教団を大きく解体したことは、9世紀東アジア仏教史の重要な転換です。

『入唐求法巡礼行記』

円仁は唐での行動を日記として記録し、現在『入唐求法巡礼行記』として知られています。

寺院、儀礼、旅程、行政手続、外国人社会、会昌の廃仏などが具体的に記録され、9世紀唐社会を知る第一級の史料です。

日本史だけでなく、中国史・東アジア交流史にとっても重要な資料となっています。

848年 良房が右大臣へ

848年、藤原良房は右大臣となりました。

太政官の最高層に入り、仁明朝末には国家政務を担う中心官人の一人となります。

承和の変で甥道康が皇太子となったことと、良房自身の官人としての昇進が並行していました。

850年 仁明天皇死去

850年3月、仁明天皇が死去しました。

宮内庁は仁明天皇を第54代、次の文徳天皇を第55代としています。皇太子道康親王が皇位を継ぎます。

842年の立太子から8年を経て、承和の変後に設定された王位継承が実現しました。

文徳天皇即位

道康親王は文徳天皇として即位しました。

国立公文書館によれば、文徳天皇の治世850年3月から858年8月までの出来事は、後に『日本文徳天皇実録』全10巻として編纂されました。

文徳朝は9年足らずですが、その間に幼児皇太子と外戚藤原良房という、その後の政治を方向づける構造が成立します。

850年 惟仁親王誕生

文徳天皇即位と同じ850年、惟仁親王が生まれました。後の清和天皇です。

京都市は清和天皇を嘉祥3年、850年生まれ、藤原良房の孫として紹介しています。

父は文徳天皇、母は藤原明子です。

藤原明子

藤原明子は藤原良房の娘で、文徳天皇の女御となりました。

宮内庁書陵部の資料解説では、清和天皇の母として藤原明子を確認でき、後に染殿后と称されたとされています。

良房にとって、娘の子が皇太子となることは、自身が天皇の外祖父となる可能性を意味しました。

染殿と良房の邸宅

良房の邸宅は染殿と呼ばれ、惟仁親王も幼少期を良房の邸で過ごしたと伝えられます。

京都市上京区は、850年に生まれた清和天皇が良房の染殿第に住んだと紹介しています。

外祖父の邸宅で皇子が育つことは、母方親族が皇子の養育・人的ネットワークを担うことを意味します。外戚政治は官職だけでなく、幼少期からの生活基盤にも支えられていました。

850年 惟仁親王立太子

850年11月30日、惟仁親王が皇太子となりました。京都大学の即位儀礼研究がまとめた立太子年表でも、この日付が『文徳実録』に基づいて示されています。

生まれた年のうちに皇太子となったことになります。

生後1年未満の皇太子

惟仁親王は生後1年に満たない段階で皇太子となりました。

皇太子本人が政治判断や官僚人事を行える年齢ではありません。東宮を支える官人、乳母、母方親族が王位継承者の生活・政治環境を構成します。

そのため外祖父良房の立場は、成人皇太子の外戚以上に重要になりました。

惟喬親王と惟仁親王

文徳天皇には第一皇子惟喬親王がいました。惟仁親王より年長であり、皇子としての出生順位だけを見れば惟喬が先です。

しかし皇位継承は単純な長子相続ではありません。母の身分、母方氏族、現天皇・上皇・高級官人の支持などが複合的に作用しました。

850年には良房の娘明子を母とする惟仁親王が皇太子となります。

後世に形成された皇位争いの伝説

惟喬親王が皇太子になれなかったことは、後世多くの物語を生みました。

滋賀県立図書館のレファレンス資料では、『江談抄』に惟喬側・惟仁側の僧侶がそれぞれ立太子を祈願したという話があり、『平家物語』では競馬・相撲などさらに劇的な物語へ展開したことが紹介されています。

これらは惟喬の不運を説明する後世の伝説形成を知る史料であり、850年の宮廷会議を直接記録した資料ではありません。

祈祷合戦・競馬伝説を史実としない

「惟喬と惟仁のどちらを皇太子にするかを僧侶の祈祷や競馬で決めた」という説明は、歴史記事としては慎重に扱う必要があります。

平安宮廷で護持僧や密教修法が政治・王位継承と関係したこと自体は事実ですが、後世の説話的細部を同時代の政治過程と同一視できません。

皇子の母方血統

惟喬親王の母は紀静子、惟仁親王の母は藤原明子でした。

父はいずれも文徳天皇ですが、母方親族の政治的位置は大きく異なります。

9世紀の王位継承では、誰の子であるかだけでなく「誰を母とし、その母族がどれほど宮廷内部に基盤を持つか」が次第に重要性を増していました。

外戚とは何か

外戚は天皇の母・后などを通して天皇家と婚姻関係を持つ母方親族を指します。

幼い天皇の場合、外祖父・母方一族は養育、邸宅、側近人事、儀礼などを通じて政治へ接近しやすくなります。

後の摂関政治では、この外戚関係が藤原北家の権力形成の重要な基盤となりました。

良房の外戚的位置

良房は文徳天皇にとって母方伯父であり、惟仁親王にとって母方祖父でした。

現在の天皇と次代皇太子の双方へ近い血縁を持つことになります。

これに右大臣・太政大臣という官職が加わったことで、良房は王家と太政官を結ぶ非常に強い政治的位置を得ました。

「藤原氏支配」と単純化しない

文徳朝を「藤原良房がすべてを支配した時代」とするのは単純化です。

源信、藤原良相、伴善男、安倍安仁など複数の高級官人が太政官を構成していました。良相は良房の弟ですが、藤原氏内部も常に同一の政治意思を持つ一枚岩ではありません。

重要なのは、良房だけが持つ外祖父という位置が、官職上の序列とは別の政治資源になり始めたことです。

851年 仁寿への改元

文徳朝では851年に年号が嘉祥から仁寿へ改められました。

改元は祥瑞・災異・政治的節目などと結びついて行われ、天皇の治世を時間の区切りとして表現する国家儀礼でもありました。

遣唐使後の東アジア交流

838年使節を最後に、この時期には新たな遣唐使は実施されていません。

しかし唐・新羅・渤海との人的・物質的交流が停止したわけではありません。僧侶、商人、漂流民、外国使節などを通じた交流は続きました。

円仁の帰国も、国家使節本隊とは異なる航海・人的ネットワークによって実現しています。

円仁と天台密教

円仁は帰国後、唐で学んだ密教儀礼・念仏・天台教学を比叡山へ持ち込みました。

最澄が始めた日本天台宗は、円仁・円珍ら次世代僧侶によってさらに密教化し、宮廷儀礼にも大きく関わるようになります。

平安仏教の発展は空海・最澄の一代で完成したのではなく、弟子世代が唐から新知識を持ち帰ることで継続しました。

比叡山の宗教的拡大

比叡山延暦寺は平安京北東に位置し、国家鎮護と天台教学の中心として発展しました。

円仁の帰国後、比叡山では唐密教の儀礼体系が拡充され、後世の「台密」の基盤が形成されます。

南都仏教、東寺真言、高野山、比叡山という複数の宗教拠点が並立し、王権はそれらを使い分けました。

854年 斉衡への改元

854年、年号は斉衡へ改められました。

文徳朝は短い在位の中で嘉祥、仁寿、斉衡、天安と複数の年号を経験しています。

後世の「文徳朝」という一括した時代名とは異なり、当時の人々は元号によって政治時間を区切っていました。

国史編纂の継続

9世紀の朝廷は政治を行うだけでなく、その記録を正史として継続的に編纂しました。

840年に『日本後紀』が完成した後、仁明朝一代を記録する『続日本後紀』の編纂が進められます。

王位継承や政変の叙述は、後世の国家正統性を形成する作業でもありました。

『続日本後紀』の編纂

国立公文書館によれば、『続日本後紀』は833年2月から850年3月まで、仁明天皇在位18年間を記す全20巻の勅撰国史です。

完成は869年ですが、編纂は文徳朝に開始されました。

承和の変を詳しく伝える基本史料でもあります。

855年 国史編纂命令

855年、文徳天皇は藤原良房、伴善男、春澄善縄らに国史編纂を命じました。

のちに『続日本後紀』となる事業です。

政治当事者自身が国家史の編纂責任者となる構造は、政変記事を読む際に史料批判が必要な理由の一つです。

良房が編纂者になる意味

良房は承和の変後に政治的地位を上げ、その変を含む仁明朝の国史編纂にも関わりました。

だからといって『続日本後紀』の記事を「良房が捏造した記録」と決めつけることはできません。複数の編纂者・史料・官司記録を用いた国家事業だからです。

しかし勝者側の政権が最終的な公式史を作ったという構造は、常に意識する必要があります。

文徳朝後半の太政官

文徳朝後半には、右大臣良房を中心に、源信、藤原良相、伴善男、安倍安仁、源融らが高級官人として活動しました。

皇族出身で臣籍降下した源氏、古代氏族、藤原各家が同じ太政官の中で並存しています。

平安初期政治を「藤原氏対その他」という二分法だけで説明することはできません。

857年 天安への改元

857年、年号は天安へ改められました。

同年、藤原良房の政治的位置を決定的に高める人事が行われます。

857年 藤原良房が太政大臣へ

857年2月、藤原良房が太政大臣となりました。

ジャパンナレッジの太政大臣解説は、文徳天皇が幼い皇太子の後見を意識して、外祖父良房を太政大臣に任じたと説明しています。

左大臣には源信、右大臣には藤原良相が置かれ、良房はその上位に位置しました。

太政大臣とは何か

太政大臣は太政官の最高官ですが、律令では「その人がいなければ欠員でもよい」とされる特別な職でした。

通常の行政実務を恒常的に担当する左大臣・右大臣とは異なり、国家を代表する最高位者として置かれます。

良房の就任は、皇太子惟仁の外祖父という立場と最高官職が結びつく出来事でした。

仲麻呂・道鏡との違い

奈良時代には藤原仲麻呂が「太師」、道鏡が「太政大臣禅師」と称した先例があります。

そのため「良房が日本史上初めて太政大臣になった臣下」と単純に書くことはできません。

一方、平安時代の通常の太政大臣制度へつながる先例として、良房の就任は極めて重要です。

良房の権力をどう見るか

良房が太政大臣になったことで、文徳天皇が名目的君主となったと断定することはできません。

文徳は官位授与、改元、祭祀、国史編纂など天皇としての政治行為を行っています。

良房の権力は天皇に代わる別政府を作ったことではなく、太政官最高位と皇太子外祖父という二つの制度的・親族的立場を兼ねたことにありました。

858年 文徳天皇死去

858年8月、文徳天皇が死去しました。

国立公文書館は『日本文徳天皇実録』の記録範囲を850年3月から858年8月までとしており、ここで文徳朝が終わります。

在位は約9年でした。

32歳での死

文徳天皇は827年生まれで、858年に32歳で死去しました。

若い天皇の死によって、皇太子惟仁親王は成人を待たずに即位することになりました。

幼児を皇太子にした850年の選択が、8年後に幼帝政治という現実の制度問題となって現れます。

清和天皇即位

惟仁親王は清和天皇として即位しました。

宮内庁は清和天皇を第56代、父を文徳天皇、母を太皇太后明子としています。

国立公文書館の『日本三代実録』は、858年8月以後の清和・陽成・光孝三代の政治を記録します。

9歳の幼帝

清和天皇は9歳で即位しました。

成人官人の協議を自ら主導できない年齢であり、太政官と外祖父良房が政治実務を支える必要がありました。

この幼帝即位が、摂政という後見制度を発展させる重要な条件となります。

外祖父良房による後見

清和天皇の母・明子は良房の娘です。良房は天皇の外祖父であり、同時に太政大臣でした。

王家に最も近い母方親族と、国家最高官職が同一人物に重なったことは、それ以前には見られにくい政治構造です。

良房は幼帝の政治を事実上補佐・代行する中心人物となりました。

858年の「摂政」をめぐる史料問題

教科書的には858年、藤原良房が「人臣初の摂政」となったと説明されることがあります。

一方、国立国会図書館のレファレンス資料が紹介する『国史大辞典』の解説では、『公卿補任』などが858年の摂政就任を記す一方、当時の史料上、正式な摂政宣下をどこまで確認できるかには問題があるとされています。

良房が幼帝の政務を事実上摂行したことと、法的・公式に「摂政」という職へ任命された時点は分けて考える必要があります。

正式な摂政任命は866年に確認される

『日本三代実録』では866年、応天門の変の際に、良房へ「天下の政を摂行」させる明確な勅が確認されます。

このため研究上、良房を858年から事実上の摂政と見る立場と、正式な摂政就任を866年とする慎重な整理があります。

本記事では858年を「良房が幼帝政務の中心的後見者となった年」とし、正式な摂政宣下については866年の記事で改めて扱います。

摂関政治の「始まり」をどう考えるか

858年に摂関政治が完成したわけではありません。

摂政・関白という制度、藤原北家の外戚婚、幼帝・成人天皇との関係は、その後100年以上かけて変化します。

しかし幼帝清和、外祖父良房、太政大臣という三つの条件が組み合わされた858年は、後世の摂関政治につながる大きな制度的転換点でした。

日本史の中でこの時代を見る意味

842~858年は、承和の変の後処理から幼帝清和天皇の即位までを通して、王位継承と外戚政治が新しい段階へ進んだ時代です。

第一に、皇位継承の構造が変わりました。嵯峨系と淳和系を交互に継承させる方式が崩れ、仁明から文徳、文徳から清和へと父子方向の継承が続きます。ただし長子相続ではなく、母方親族の政治的位置が後継者選定へ大きく影響しました。

第二に、藤原北家の政治力は婚姻と官職の両方によって形成されました。良房が強かったのは単に藤原姓だったからではなく、右大臣・太政大臣という官職、文徳天皇の伯父、清和天皇の外祖父という複数の関係を同時に持ったからです。

第三に、惟喬親王と惟仁親王の皇位競争は、歴史と伝説の区別を考える好例です。惟仁が幼くして皇太子となったことは史料で確認できますが、祈祷や競馬で決着したという話は後世の説話です。人々が不公平に見える王位継承を説明するため、物語が数百年かけて形成されました。

第四に、国家と仏教の関係はさらに国際的に発展しました。円仁は唐で会昌の廃仏を経験し、密教・天台の知識だけでなく、9世紀唐の宗教政策と新羅人社会を詳細に記録しました。遣唐使本隊が帰国した後も、人の移動と知識交流は続いていました。

第五に、国家史編纂が政治権力と密接に結びついていました。承和の変で政治的利益を得た良房が、仁明朝を記す『続日本後紀』の編纂責任者になります。史料を否定するのではなく、誰がどの政権のもとで「公式の過去」を編集したかを考える必要があります。

第六に、857年の良房太政大臣就任は、外戚が太政官最高位へ立つ構造を作りました。奈良時代にも強力な臣下は存在しましたが、次代天皇の外祖父であることが最高官職と直結する形は、後の摂関政治により近いものです。

第七に、858年の清和天皇即位は幼帝政治を現実化しました。皇太子が幼いうちは将来の問題でしたが、文徳天皇の早い死によって9歳の天皇が即位すると、誰が天皇の政治を補佐するかが制度上の中心問題となります。

この問題は次の清和朝でさらに明確になります。866年、応天門が焼失すると伴善男が失脚し、藤原良房は正式に天下の政を摂行する権限を与えられます。承和の変から始まった藤原北家の上昇は、応天門の変によってもう一段階進むことになります。

主な流れ

次の時代へ — 清和朝と応天門の変

858年、9歳の清和天皇が即位し、外祖父藤原良房が太政官の最高位から幼帝を支える体制が始まりました。しかし朝廷には良房以外にも左大臣源信、右大臣藤原良相、大納言伴善男ら複数の有力者が存在していました。

866年、平安宮の応天門が焼失すると、最初は左大臣源信が放火の疑いを受けます。その後、告発と捜査を経て伴善男・伴中庸らが犯人として処罰され、伴氏は大きな政治的打撃を受けました。藤原良房は事件処理の過程で正式に政務摂行を命じられ、その権力をさらに強めます。

同じ清和朝には、864年の富士山噴火、869年の貞観地震・津波、疫病など大規模災害が相次ぎます。京都では869年、疫病鎮静を祈る御霊会が神泉苑で行われ、後の祇園祭へつながる宗教文化が形成されます。

次の記事では、858–876年|清和朝と藤原良房 — 応天門の変、摂政、貞観地震、御霊会として、幼帝清和、良房の政務摂行、864年富士山噴火、866年応天門の変、869年貞観地震と疫病、御霊会、872年良房死去、876年清和天皇譲位までを扱います。

参考資料・出典

本ページは、国立公文書館、宮内庁、宮内庁書陵部、京都市、国立国会図書館、京都大学の研究資料等を参照してART LIBRARYが独自に構成・執筆しています。惟喬親王と惟仁親王の立太子をめぐっては、惟仁親王が850年11月に皇太子となった事実と、後世の『江談抄』『平家物語』に現れる祈祷・競馬などの説話を区別しました。藤原良房についても、857年の太政大臣就任、858年以後の幼帝政治への関与を確認しつつ、858年に正式な摂政宣下があったかは史料上議論があるため、「人臣初の摂政」と単純に断定していません。明確な政務摂行の勅は866年に確認されるため、次の記事で改めて扱います。『続日本後紀』『日本文徳天皇実録』は国家編纂史書であり、政治事件を勝者側の公式叙述として読む必要がある点にも注意しました。