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941–967年

朱雀朝後半と村上朝

皇位継承、藤原忠平・実頼・師輔、天暦の治

941年、藤原純友の勢力が鎮圧されると、東国の平将門と瀬戸内海の純友によって揺さぶられた大規模な地域紛争はひとまず終息した。しかし、それは地方社会の不安定さが解消されたことを意味しない。国司・郡司・在地有力者・武装した住民や軍事貴族の関係はなお流動的であり、中央政府は地方の治安や徴税を、京都から派遣した官人だけではなく、地域の有力者や臨時の軍事担当者に依存し続けた。承平・天慶の乱は終わっても、それを生み出した10世紀の政治・社会構造はそのまま次の時代へ持ち越されたのである。

京都では朱雀天皇がすでに成人し、藤原忠平が摂政から関白へ移っていた。忠平は将門・純友の乱の鎮圧を主導した政権中枢の人物であり、藤原北家の長として朝廷政治を支えたが、その政治は単純な「藤原氏の独裁」ではない。太政官には源高明をはじめ藤原氏以外の公卿もおり、藤原氏内部にも忠平の子である実頼・師輔らの間で将来の外戚関係をめぐる条件の差が生まれつつあった。さらに、天皇・太上天皇・皇后・皇太后・皇太子、そしてその母方の親族が重なり合うことで、王権は一人の権力者だけでは説明できない複合的な構造をとっていた。

946年に朱雀天皇が同母弟の成明親王へ譲位すると、村上天皇の治世が始まる。村上朝は後世、父醍醐天皇の「延喜の治」と並んで「天暦の治」と称賛され、摂政・関白に頼らず天皇が政治を行った理想的な時代として語られるようになった。しかし実際には、村上天皇の即位後もしばらく忠平は関白として存在し、949年の忠平死去後も左大臣藤原実頼・右大臣藤原師輔ら有力公卿が政務を担った。さらに、師輔の娘安子が村上天皇の後宮に入り、その皇子が次代の皇太子となることで、摂関政治を支える外戚関係はむしろ次の段階へ進んでいく。「天暦の治」は摂関政治の空白ではなく、その成熟過程の内部にあった時代として見る必要がある。

承平・天慶の乱後の朱雀朝 — 鎮圧のあとに残ったもの

941年までに平将門・藤原純友の勢力が相次いで崩れると、朝廷は大規模な反乱を鎮圧することに成功した。だが、東国と西国で同じ時期に国府や大宰府が攻撃された事実は、地方支配が中央の命令だけで維持されていたわけではないことを明らかにしていた。将門を倒したのは、朝廷から派遣された藤原忠文の征東軍が到着する前に動いた平貞盛・藤原秀郷らであり、純友追討でも小野好古や源経基に加え、伊予・瀬戸内の在地軍事力が重要だった。政府は反乱者を討つため、同じように地方に軍事基盤を持つ人びとの力を利用したのである。

この経験は、中央政府が地方武力を一律に排除する方向へ進んだことを意味しない。むしろ国司の支配を補助する追捕使・押領使のような臨時の軍事職は、必要に応じて用いられ続けた。治安維持のために武力を動員すれば、その武力自体が住民に負担を与えることもある。逆に軍事担当者を廃止すれば、国司や郡司だけで凶党・群盗に対応できない場合もあった。10世紀半ばの地方統治は、中央集権か地方自立かという二者択一ではなく、国司と在地有力者を結びつけながら、その力を制御しようとする不断の調整だった。

朱雀朝後半の中央政治も、乱の終結と同時に大きく転換したわけではない。藤原忠平は引き続き関白として朱雀天皇を補佐し、太政官の最上位に位置した。忠平は880年生まれで、この時期にはすでに60歳を超える老練な政治家であった。醍醐朝以来の政務経験をもち、菅原道真失脚後の朝廷、幼い朱雀天皇の即位、承平・天慶の乱という大きな局面を経て、政治制度と儀礼の運用に深く関わっていた。彼の日記『貞信公記』は909年から948年までの記録を伝え、同時代政治を知る重要な古記録となっている。

ただし、忠平の存在をもって「藤原氏が国家を完全に支配した」とみなすのは単純化である。朱雀天皇自身も成人して政務に関わり、重明親王ら皇族、公卿、弁官、外記など多数の官人が国家運営に参加していた。律令制以来の官司や太政官の手続きも機能していた。摂政・関白は天皇に代わる別の政府ではなく、天皇と太政官政治の結節点として働いていたと見る方が実態に近い。

945年の志多羅神 — 群衆・神輿・社会不安

朱雀朝後半を考えるうえで、宮廷政治だけでは見えない重要な出来事が945年の志多羅神の動きである。『本朝世紀』などによれば、この年、摂津国方面から「志多羅神」と呼ばれる神を載せた神輿が、多数の人びとを伴って移動した。群衆は幣を捧げ、鼓を打ち、歌い踊りながら進み、最終的に石清水八幡宮へ向かったと伝えられる。國學院大學の研究紹介では、この出来事を不特定多数の参加者が神輿とともに移動する祭礼形態の重要な早期事例として位置づけている。

この運動の正確な性格を、後世の「一揆」や宗教運動と同じものとして扱うことはできない。史料に見える神名や託宣、群衆の歌には信仰・農耕・疫病・社会不安が重なっており、参加者全体に共通した政治目的があったと断定する根拠もない。ただ、将門・純友の乱が終わって数年しかたっていない時期に、京都周辺で官司の統制とは異なるかたちの大規模な人の移動が生じたことは重要である。

10世紀の都市と村落では、疫病、旱魃、飢饉、治安悪化、重い徴税などが人びとの生活に直接影響した。国家は神社への奉幣、読経、恩赦、租税免除などを通じて災害への対応を試みたが、人びとの側でも神仏に救いを求め、新しい信仰や集団行動が生まれた。志多羅神の行列は、朝廷の公式祭祀だけでは説明できない宗教的エネルギーが、都と地方の交通路を通じて可視化された出来事だった。

朱雀天皇の譲位と村上天皇即位 — 皇位継承の安定化

朱雀天皇には皇位を継ぐ男子がいなかった。そこで944年、同母弟の成明親王が皇太子となり、946年に朱雀天皇が譲位すると即位して村上天皇となった。成明親王は醍醐天皇と藤原穏子の子で、朱雀天皇とは同母兄弟である。穏子は藤原基経の娘であり、良房・基経以来続いてきた藤原北家と皇統の婚姻関係の中に位置していた。

この継承は、醍醐朝末期に起きた保明親王・慶頼王の相次ぐ死と比べると、比較的明確な手続きのもとで進んだ。保明親王、慶頼王、朱雀天皇、成明親王という継承候補の変化を経て、皇統は再び醍醐天皇と穏子の子の系統に保たれた。皇位継承は天皇の意思だけで決まるものではなく、皇太子を誰にするか、どの后妃の子を有力候補とするか、公卿がどう支持するかという複数の条件に左右された。

村上天皇の即位後、同年には大嘗会が行われた。宮内庁書陵部が紹介する大嘗会関係資料には、946年の村上天皇の御禊について、外記記・重明親王の記録・藤原師輔の日記『九暦』・藤原師尹の日記など複数の記録が引用されている。これは、即位儀礼が天皇個人の行事ではなく、皇族・公卿・官司が関わる国家的な儀礼体系として運営されていたことを示すと同時に、10世紀の政治が日記や儀式記録を大量に生み出す社会になっていたことを物語る。

村上天皇は即位時20歳であり、幼帝ではなかった。そのため朱雀天皇即位時のような摂政は必要とされなかったが、藤原忠平は関白として留任した。ここからも、関白は単に幼い天皇の代行者ではなく、成人天皇の政務を補佐し、上奏文書や公卿議定と天皇を結ぶ役割を担う地位として定着しつつあったことがわかる。

藤原忠平晩年 — 関白と太政官政治

村上天皇の即位後も、藤原忠平は政権の最上位にいた。彼は936年から太政大臣であり、941年には朱雀天皇の成人にともなって摂政から関白へ移っている。幼帝には摂政、成人後には関白という後世よく知られる形が、制度的な慣行として整っていく過程に忠平は位置していた。

もっとも、関白が存在するから天皇が何もしなかったわけではない。平安中期の政治は、天皇への奏聞、公卿による陣定、太政官符・宣旨の発給、蔵人所を通じた命令、各官司の実務など複数の経路で進んだ。天皇、関白、大臣、公卿、弁官・外記・蔵人は、それぞれ異なる権限と実務を担っていた。関白を頂点とする単純なピラミッドではなく、儀礼と文書手続きが政治そのものを構成していたのである。

949年、忠平は70歳で死去した。東京大学史料編纂所の「大日本古記録」は、『貞信公記』を藤原忠平の日記として909~948年分を収める一方、忠平の次男藤原師輔の日記『九暦』を930~960年の記録として整理している。忠平の死によって一人の関白の時代は終わるが、政治実務や儀礼知識は彼の子世代へ継承された。藤原北家の権力は、個人のカリスマだけではなく、日記・故実・婚姻・官職経験の蓄積によって再生産されていく段階に入っていた。

「天暦の治」をどう見るか — 親政という後世の評価

村上天皇の治世は、後世「天暦の治」と呼ばれた。天暦は947年から957年までの年号であり、父醍醐天皇の「延喜の治」と対にして「延喜・天暦の治」と称される。とくに949年の忠平死去後、村上天皇が新たな摂政・関白を置かずに政務を行ったことが、「天皇親政」の象徴として評価されてきた。

しかし、この評価語自体が同時代の政治をそのまま説明する中立的な名称ではない。後世の貴族社会では、醍醐・村上両朝が儀礼・文化・政治の模範として回顧され、さらに中世以降には摂関や院政に対置される理想的な天皇政治として意味づけられていった。日本大百科全書の解説も、「延喜・天暦の治」を両天皇の治世を聖代として賛美した呼称とし、村上天皇没後まもなく両朝の故事を追慕する言説が現れたことを指摘している。

したがって、「村上天皇が藤原氏を退けて親政を実現した」という物語にしてしまうと実態を誤る。忠平死後、左大臣藤原実頼と右大臣藤原師輔は太政官の中核にあり続けた。村上天皇の中宮安子は師輔の娘であり、のちに冷泉天皇・円融天皇となる皇子を産んだ。つまり、摂政・関白という官職が一時置かれていなくても、藤原北家が王権から離れていたわけではない。むしろ后妃・皇子・大臣・官人ネットワークを通じて、次代の摂関政治を準備していた。

一方で、摂関が常置されなかったことに意味がないわけでもない。村上天皇は成人天皇として政務判断や儀礼に参加し、日記『天暦御記』も残した。宮内庁書陵部には、応和3年・4年の記事を含む『天暦御記』の後世写本が所蔵されている。天皇自身が政務・儀礼を記録し、先例を参照して政治を行うことは、平安中期の王権の重要な特徴だった。「親政」と「摂関政治」は完全に排他的な二制度ではなく、同じ太政官・宮廷社会の中で天皇と有力公卿の関係がどのように組まれていたかの違いとして見る必要がある。

藤原実頼と師輔 — 北家内部の役割分担と競合

藤原忠平の子世代では、長男実頼と次男師輔がとくに重要である。忠平死後、実頼は左大臣として太政官首班に位置し、師輔は右大臣としてこれを支えた。実頼は官位上は兄として上位にあり、故実や政務に通じた公卿として後に関白となる。一方の師輔は、娘を天皇の后妃とし、皇子の外祖父となることで、王権との婚姻関係の面で大きな優位を得ていく。

この違いは、藤原北家を一枚岩として見てはならないことを示す。摂関政治とは「藤原氏」という一つの集団が機械的に天皇を支配する体制ではなく、北家内部の複数の家系が、官職・婚姻・皇子女・邸宅・家司・寺院との結びつきなどを通じて競合しながら形成した政治秩序だった。実頼系と師輔系の差は、のちの九条流・小野宮流など摂関期の家格と政治文化へつながっていく。

師輔は宗教界との関係でも存在感を示した。天台僧良源と結びつき、比叡山横川の整備を支援したことが研究されている。J-STAGE掲載の研究では、師輔が横川に法華三昧堂を建立し、954年に法華三昧を修したことなどが『九暦』から確認されている。政治家の宗教支援は単なる個人信仰ではなく、寺院組織・僧侶人脈・皇族や后妃の祈願と結びつき、宮廷政治の重要な資源でもあった。

藤原安子と憲平親王 — 外戚関係が次代を決める

村上朝の政治構造を理解するうえで、藤原師輔の娘安子は欠かせない。安子は村上天皇の後宮に入り、のち皇后となった。950年、安子は憲平親王を産む。憲平親王は生後まもなく皇太子となり、のちの冷泉天皇となる。宮内庁の冷泉天皇陵の案内でも、冷泉天皇の父を村上天皇、母を皇后安子としている。

皇太子選定は単に長男かどうかだけで決まるものではなかった。村上天皇には他の后妃が産んだ皇子もおり、藤原元方の娘祐姫が産んだ広平親王などもいた。後世の『大鏡』には、師輔が安子の懐妊中から男子誕生を期待したという逸話があるが、『大鏡』は11世紀後半に成立した歴史物語であり、その具体的描写を10世紀の現場記録としてそのまま事実認定することはできない。とはいえ、安子の皇子が皇太子となれば師輔が外祖父となるという政治的意味は明白であり、后妃と皇子をめぐる婚姻戦略が藤原氏内部の将来を左右したことは確かである。

重要なのは、村上天皇が摂政・関白を置かなかった期間にも、この外戚構造が急速に強まっていた点である。949年に忠平が死去して「天暦の治」が本格化した翌950年、師輔の外孫である憲平親王が皇太子となった。つまり、表面的には関白が不在でも、次の天皇をめぐる政治条件は藤原北家の婚姻関係によって形成されていた。

その後、安子は為平親王、守平親王など複数の皇子を産んだ。守平親王はのちの円融天皇である。これにより師輔の血統は、冷泉・円融という二人の天皇の外戚として大きな政治的基盤を得ることになる。10世紀後半以降の摂関政治は、この村上朝で成立した皇統と藤原北家の婚姻関係なしには理解できない。

受領・押領使・地方社会 — 乱後も続く治安と徴税の課題

承平・天慶の乱後、地方行政では受領を中心とする国衙支配がいっそう重要になった。律令制初期のように中央政府が全国の戸籍・計帳を直接的に把握し、個々の人身を基礎に税を集める仕組みは大きく変質していた。国司、とくに現地行政を担う受領には、一定の官物を中央へ送る責任と引き換えに、国内支配の裁量が広がっていく。

ただし受領が一国を自由に支配できたわけではない。郡司、田堵・有力農民、寺社、中央貴族の荘園、軍事力を持つ在地有力者など、多様な主体との交渉が必要だった。徴税・土地管理・治安維持が一体となるほど、行政には武力が必要となり、その武力を誰に委ねるかが問題になった。

952年の越前国では、追捕使・押領使の随兵が国内を横行し、人民を脅かすとして、国司側から両使の停止を求める申請が出されたことが『朝野群載』などに伝わる。福井県史も、この史料を、国司支配に反抗する者を軍事的に抑えるための押領使が、逆に秩序を乱す側面を持った例として紹介している。

ところが同じ952年、出雲国では凶党追捕のため清滝静平を押領使に任じる措置が取られたことが研究で確認されている。ある国では押領使を止め、別の国では必要として設置する。この対照は、政府が全国一律の軍事制度を運用していたのではなく、それぞれの国の治安状況と国司からの申請に応じて対応していたことを示す。10世紀の地方軍制は、後世の常設的な武士団だけを想定すると見えにくい、臨時性と行政性を持っていた。

こうした軍事職の担い手の中から、のちに武士の家系として知られる人びとが成長していく。しかし「武士が完成した」と一線を引くことは難しい。国司の家人、郡司層、軍事貴族、在地領主、運送・警固を担う者などが重なりながら、11世紀以降の武士団につながる関係が形成されていった。承平・天慶の乱後も、その長期的変化は続いていたのである。

947年の北野天満宮創建 — 道真の御霊から天神信仰へ

947年、京都の北野に菅原道真を祀る社が創建された。現在の北野天満宮である。京都市の公式解説では、天暦元年(947)の創建とされ、959年には藤原師輔によって社殿が整備されたと伝えられている。菅原道真は901年に大宰府へ左遷され、903年に没したが、その後、都で起きた落雷や政界有力者の死が道真の怨霊と結びつけて理解されるようになり、御霊信仰が発展した。

ただし、「道真の怨霊が実際に災害を起こした」と歴史事実として書くことはできない。重要なのは、当時の人びとが災害や異変を政治的・宗教的秩序の乱れと結びつけ、死者の霊を慰める祭祀によって社会の安定を回復しようとしたことである。930年の清涼殿落雷はとくに強い記憶を残し、道真の名誉回復と神格化を促す一因となった。

京都市上京区の解説では、942年に多治比文子が道真を祀るよう神託を受けたとする伝承や、947年に近江の神職の子にも託宣があったとする縁起が紹介されている。これらは後世の天神縁起を含む宗教的伝承であり、成立時期や史料的性格を区別して読む必要があるが、10世紀半ばに北野の祭祀が成立し、その後朝廷・藤原氏の保護を受けて拡大したことは重要である。

天神信仰は、怨霊を鎮める御霊信仰から、雷神・災厄除け、さらに学問・文芸の神としての信仰へと長い時間をかけて展開する。947年は、その後全国へ広がる天満宮信仰の制度的な拠点が京都に形成された画期だった。

951年の撰和歌所と『後撰和歌集』 — 宮廷文化の制度化

村上朝は政治だけでなく、和歌史でも重要な時代である。951年、村上天皇の命によって宮中の昭陽舎、通称梨壺に撰和歌所が置かれ、『後撰和歌集』の編纂が始まった。撰者として大中臣能宣、清原元輔、源順、紀時文、坂上望城が参加し、「梨壺の五人」と呼ばれる。

『後撰和歌集』は905年頃に成立した『古今和歌集』に次ぐ第二の勅撰和歌集である。国文学資料では、951年に編纂が始まったことは確かだが、完成年については一つに確定していない。現存本には序文がなく、本文にも伝本差があるため、天暦年間の数年間をかけて成立したとみる説や、未定稿性を指摘する見解がある。したがって「951年に完成した」と断定するより、「951年に撰集事業が始まった」と書く方が史料上慎重である。

撰和歌所では『後撰和歌集』だけでなく、『万葉集』の読解・訓点作業も行われたとされる。これは、古い歌集を読み直し、新しい宮廷文化の基礎資料として再編する作業でもあった。和歌は個人の感情表現であると同時に、贈答、婚姻関係、宮廷儀礼、屏風歌、歌合などを通じて貴族社会のコミュニケーションを構成した。

960年には、天徳4年内裏歌合が行われた。国文学研究資料館の国書データベースには「内裏歌合/天徳四年」の伝本が複数確認され、また「村上御時内裏女房歌合/天徳四年三月三十日」の資料も公開されている。村上朝は、和歌を単なる私的な趣味ではなく、天皇・后妃・女房・公卿が参加する宮廷文化の中心へ押し上げた時代だった。

こうした文化活動は、後世「天暦の治」が理想化される際の重要な根拠にもなった。政治的な安定だけでなく、天皇自身が詩歌・音楽・儀礼に関与したという記憶が、「聖代」のイメージを形成したのである。

旱魃・穀価・救済と乾元大宝 — 10世紀半ばの経済

宮廷文化が華やかさを増した一方、10世紀半ばの社会は気候不順や疫病に繰り返し襲われた。東京大学史料編纂所の「日本中世気象災害史年表稿」には、956年に「天下大いに旱魃」とする記録や、京都で雨乞いの奉幣が行われたことが掲げられている。同年には服御の常膳を減らし、諸国の一定の未進調庸を免除し、貧窮者への賑給を命じたことを示す史料もある。

957年には水害・旱魃・疫病、穀価高騰と飢えを伝える記録がある。こうした記述は全国一様の被害を数量的に示すものではないため、現代の災害統計のように扱うことはできない。しかし、朝廷が祈雨、奉幣、読経、租税免除、賑給などを組み合わせて対応していたことは、政治と災害対応が密接に結びついていたことを示している。

958年には乾元大宝が発行された。日本銀行貨幣博物館は、古代国家が7世紀後半から10世紀にかけて複数の銅銭を発行したものの、銅不足や銭貨の軽小化・質の低下によって信用を失い、958年の乾元大宝を最後に新しい銅銭の発行が途絶えたと説明している。以後、米・絹・布などが価値尺度や支払い手段として重要性を増す。

これは「貨幣経済が消滅した」という意味ではない。銭貨は地域や場面によって引き続き使われ、交換・信用取引も存在した。ただ、国家が新銭発行によって統一的な銭貨流通を維持する政策は行き詰まった。律令国家の財政が人頭税中心から土地・官物・受領の請負的徴税へ変化する中で、貨幣制度もまた大きな転換点を迎えていた。

村上朝が「天暦の治」と称賛される一方で、旱魃、疫病、穀価高騰、銭貨制度の衰退が進んでいた事実は重要である。後世の「聖代」という評価と、当時の生活世界は同じではない。政治史上の理想化を検討するには、農業生産、災害、物価、地方財政まで視野に入れる必要がある。

960年の内裏焼亡 — 宮廷空間と災害

960年、平安宮内裏が大規模な火災に見舞われた。『日本紀略』などに伝えられる天徳4年9月23日の内裏焼亡である。内裏は天皇の日常生活と政務、后妃・女房の居住、各種儀礼が集中する王権の中心空間であり、その焼失は単なる建物火災ではなかった。

平安京では木造建築が密集し、火災は繰り返し発生した。内裏焼亡は宮廷の居所と儀礼空間を一時的に失わせ、天皇の移徙、新たな御所の確保、神宝・文書・調度の扱い、再建費用の調達など多くの行政課題を生んだ。以後も内裏は何度も焼失し、天皇が貴族邸宅を里内裏として用いる政治文化が発達する一因となっていく。

天徳4年は、春に著名な内裏歌合が行われた年でもあった。同じ年の宮廷を「文化の華やかな中心」と「焼亡する脆弱な木造都市空間」という両面から見ると、平安宮廷の実像がより具体的になる。文化的繁栄と災害は別々の歴史ではなく、同じ都市社会の中で同時に存在していた。

さらにこの年には旱魃や大風に関する記録も残る。史料編纂所の災害年表には、7月の長期旱魃に対する神泉苑の放水や雩祭、8月の大風が掲げられている。火災原因をこれらの気象現象と単純に結びつけることはできないが、960年前後が自然災害・疫病・都市火災への対応を迫られた時期だったことは確認できる。

空也・良源・応和宗論 — 都市社会と仏教の変化

10世紀半ばには、寺院仏教にも新しい動きが見られる。比叡山では良源が活動し、藤原師輔ら有力貴族の支援を受けながら横川を再興した。良源はのち966年に第18代天台座主となり、火災や荒廃を経た比叡山の再建を進める。天台宗の教団組織が宮廷・藤原氏との結びつきを深めたことは、平安中後期の政治と宗教を考えるうえで重要である。

一方、京都の市中では空也が念仏を広めた。六波羅蜜寺の寺伝では、951年に空也が疫病退散を願って十一面観音を本尊とする道場を開き、963年には大般若経の供養を行ったとする。寺院縁起には後世の整序や宗教的伝承も含まれるため、すべてを同時代記録と同じ確度で扱うことはできないが、空也が10世紀半ばの京都で市井の人びとに念仏を勧め、「市聖」と呼ばれる存在となったことは広く知られている。

国家・貴族の大寺院だけでなく、都市の貧民や病者を対象とする宗教活動が可視化されることは、この時代の大きな変化である。疫病や死が身近な社会で、仏教は宮廷儀礼だけでなく、個々人の救済や往生の問題へ浸透していく。のちに源信の『往生要集』へ結びつく浄土教的世界観も、こうした10世紀の宗教環境の中で発展する。

963年には、村上天皇の宮中で「応和宗論」が行われた。村上天皇の発願による法華経書写の成就にあたり、清涼殿に南都・北嶺の学僧が招かれ、法相宗と天台宗を中心に成仏論をめぐる論争が行われた。日本大百科全書では、8月21日から5日間、南都と北嶺の碩学が参加し、法相宗の五姓各別と天台宗の一切皆成をめぐって論じたとされる。

後世の宗派史では、良源または仲算の「勝利」を強調する記述もあるが、史料ごとに評価が異なるため、単純な勝敗として扱うべきではない。重要なのは、皇居が高度な仏教学論争の舞台となり、天皇・公卿がその聴衆となったことである。村上朝の宗教文化は、御霊信仰、天神信仰、都市念仏、比叡山の教団再編、宮廷宗論など多層的に展開していた。

960年の宋建国と東アジア — 国家外交から海商の時代へ

村上朝の後半、東アジアでは大きな政治変動が起きた。907年に唐が滅亡した後、中国では五代十国の分裂期が続いていたが、960年に趙匡胤が宋を建国した。宋はその後中国の大部分を統一し、東アジアの海上交易は新たな段階へ進む。

日本は894年に遣唐使派遣を停止した後も、中国・朝鮮半島との交流を断ったわけではない。唐末・五代期にも海商や僧侶、漂着民を通じた移動は続いていた。10世紀前半には呉越や高麗などから外交的接触もあったが、日本側は正式な国家間外交には慎重だった。大宰府が対外交通の窓口となり、外国商人の来航を管理する一方、朝廷が必ずしも冊封的な外交関係へ入らないという形が形成されていった。

東京大学や大学リポジトリの研究では、9世紀から14世紀の東シナ海交流の特徴として海商の役割が重視されている。宋成立直後の960年代にただちに大量の宋船が日本へ来航したと断定できるわけではなく、記録が明確になるのは10世紀後半以降である。しかし村上朝は、国家使節を中心とした古代外交から、海商・貿易船・渡海僧が人と物を運ぶ中世的な海域交流へ移行する境目に位置していた。

この変化は、のちの国風文化を「外国文化を断って生まれた純日本文化」と説明できないことも示す。遣唐使の停止後も漢籍、仏典、香料、薬物、織物、陶磁器などの唐物は流入し続け、僧侶・商人を通じた情報交換も続いた。宮廷文化の独自性は、交流の消滅ではなく、交流の経路と担い手が変わる中で形成されたのである。

安子・師輔の死と村上朝後半 — 次代の政治条件

960年、藤原師輔が死去した。村上朝の太政官を実頼とともに支え、娘安子を通じて皇統と強く結びついた人物の死である。しかし師輔が築いた婚姻関係は死後も残った。憲平親王は皇太子であり、安子の子どもたちは次代以降の皇位継承に深く関わる。

964年には皇后安子が死去した。安子は村上天皇との間に多くの皇子女をもうけており、その死は後宮の力関係にも影響した。師輔と安子が相次いで没したことで、師輔本人が政治を動かすことはできなくなったが、その子伊尹・兼通・兼家らの世代が、外戚としての可能性を受け継いでいく。

村上天皇自身は967年5月に崩御した。宮内庁が管理する陵は京都市右京区の村上陵とされる。皇太子憲平親王が即位して冷泉天皇となると、藤原実頼が関白となり、村上朝に一時不在だった摂関が再び置かれる。さらに969年の安和の変を経て、源高明が失脚し、藤原北家の政治的優位は次の段階へ進む。

ここで重要なのは、村上天皇の死によって突然「親政から摂関政治へ」切り替わったわけではないことである。村上朝の20年間に、実頼・師輔らの政治経験、安子を通じた外戚関係、皇太子憲平の成立、伊尹・兼通・兼家ら次世代の成長が進んでいた。967年以後の摂関政治は、村上朝の外部から来た新制度ではなく、その内部で準備されていた。

日本史の中でこの時代を見る意味

941年から967年までを「承平・天慶の乱のあと」「天暦の治」という二つの言葉だけで理解すると、この時代の複雑さを見落とす。地方では反乱鎮圧後も押領使・追捕使を必要とする治安問題が続き、国司・在地有力者・軍事力の関係が再編されていた。中央では摂政・関白が一時不在となる一方、藤原北家と皇統の婚姻関係はさらに強化された。政治制度は崩壊と再建を繰り返すのではなく、律令的官司を残しながら新しい運用へ変化していた。

宗教史では、菅原道真を祀る北野の祭祀、志多羅神をめぐる群衆行動、空也の都市念仏、良源による比叡山再編、応和宗論が同じ時代に起きている。国家祭祀・御霊信仰・寺院教団・民衆信仰を別々に見るだけではなく、疫病や災害、政治的不安、都市人口の増加と結びつけて考えることで、10世紀の宗教世界が立体的に見えてくる。

文化史では、『後撰和歌集』の撰集、万葉集の訓釈、天徳内裏歌合などが宮廷の文化的権威を高めた。しかし同じ960年に内裏は焼失し、956~957年には旱魃・疫病・穀価高騰が記録される。華やかな王朝文化と不安定な生活環境は矛盾せず併存していた。後世が「聖代」と記憶した時代に、災害・飢え・徴税・武力・都市火災が存在したことを同じ歴史として見る必要がある。

経済史では、958年の乾元大宝を最後に古代国家による新銭発行が途絶える。対外関係では、960年の宋建国を前後して、国家使節を中心とする外交から海商を介した交流へ重心が移っていく。日本の政治・経済・文化が「内向き」になったのではなく、国家が人・土地・貨幣・外国との関係を管理する方法そのものが変わっていたのである。

そして最も重要なのは、「天暦の治」を摂関政治の反対語として固定しないことである。村上天皇が成人天皇として政務を担ったことは事実だが、その治世を支えたのは実頼・師輔ら藤原北家を含む公卿社会であり、師輔の娘安子から生まれた皇子が次代を継いだ。村上朝は「天皇親政最後の輝き」だけではなく、10世紀後半の摂関政治・受領支配・宮廷文化・都市宗教・海域交流が形を整えていく転換期だった。

主な流れ

次の時代へ — 冷泉天皇と安和の変

967年、村上天皇の崩御によって冷泉天皇が即位すると、藤原実頼が関白となった。村上朝では摂政・関白を置かない期間が続いたが、ここから摂関が再び朝廷政治の常設的な位置を占める方向へ進む。ただし、その変化を「天皇親政の終焉」とだけ捉えると、村上朝の内部で進んでいた外戚関係の形成を見落とす。

冷泉天皇の母は藤原師輔の娘安子であり、師輔の子伊尹・兼通・兼家らは新天皇の母方の伯父にあたる。一方、左大臣源高明は醍醐天皇の皇子として高い政治的地位を保っていた。969年に起きる安和の変では、源高明が謀反計画への関与を疑われて大宰権帥へ左遷され、朝廷の権力構造は大きく変化する。

次の記事では、967年の冷泉天皇即位から安和の変までを中心に、藤原実頼・伊尹・師尹・源高明、為平親王と守平親王をめぐる皇位継承、外戚関係、密告と処分の史料的問題を整理し、藤原北家の優位がどのような過程で形成されたのかを見ていく。

参考資料・出典