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約1万6000年前–約3000年前

縄文時代

定住、狩猟採集、集落と長期社会

約1万6000年前、日本列島の人々は新しい道具を使い始めます。土器です。粘土を成形して焼いた容器は、食料を煮る、植物のアクを抜く、液体を扱う、食物を保存するといった行為を可能にし、それまでの旧石器時代とは異なる暮らしの基盤を作りました。同じ頃、最終氷期は終わりへ向かい、気候は次第に温暖化します。森林、海岸線、動植物の分布が変化するなかで、人々は移動性の高い狩猟採集生活から、より長期間同じ場所を利用する生活へ移っていきました。

この長い時代を、日本考古学では縄文時代と呼びます。ただし、始まりと終わりの年代は研究・地域によって異なります。国立歴史民俗博物館は、約1万6000年前から約1万1000年前を縄文時代草創期、その後、九州北部で水田稲作が始まる約3000年前までを縄文社会の展開期として展示しています。一方、北海道・北東北の縄文遺跡群では約1万5000年前から約2400年前までという幅を示します。本記事では前の記事との連続性を優先し、約1万6000年前から約3000年前を大きな範囲として扱います。

縄文時代は一万年以上続きました。これは、日本の歴史の中でも圧倒的に長い時間です。その間、気候も人口も集落の規模も地域間交流も大きく変化しました。そのため「縄文人はこう暮らしていた」と一つの姿にまとめることはできません。北海道から九州、さらに島々まで南北約3000キロメートルに広がる列島では、海、山、森、河川、雪、火山といった異なる環境に応じて、それぞれ異なる生活が営まれました。

そして縄文社会の最も重要な特徴は、狩猟・採集・漁労を基盤としながら、本格的な定住生活を長期間維持したことです。農耕国家が成立しなければ人々は定住できない、という単純な歴史像には当てはまりません。北海道・北東北の縄文遺跡群が世界文化遺産に登録された理由の一つも、農耕社会へ移行せず、自然環境に適応しながら一万年以上にわたり定住社会を発展させた点にあります。

縄文時代とは何か

「縄文時代」は日本列島独自の時代区分です。北海道・北東北の縄文遺跡群の公式資料は、約1万5000年前から約2400年前を縄文時代として説明しています。世界史の時間軸に置けば、同じ期間に中国大陸では新石器文化から青銅器時代、春秋戦国時代までが進み、ヨーロッパでも農耕社会や金属器文化が展開していました。

つまり、世界各地で農耕、牧畜、都市、国家が発達していく長い期間に、日本列島では狩猟・採集・漁労を主な生業とする定住社会が長期にわたり存続しました。このことを「発展が遅れた」と見るのではなく、日本列島の自然環境と社会が異なる歴史経路をとったと考える必要があります。

縄文時代という名称は、土器表面に縄を押し付けた文様に由来します。しかし、時代の特徴は縄文土器そのものだけではありません。定住、集落、貝塚、墓、交易、植物利用、漁労、祭祀といった生活全体の長期的変化を含む時代です。

草創期から晩期まで

縄文時代は非常に長いため、一般に草創期、早期、前期、中期、後期、晩期の六つに区分されます。ただし、それぞれの年代境界は地域や研究によって前後します。

草創期には旧石器時代以来の移動生活の要素がまだ強く、土器と細石刃などが併用されます。早期になると温暖化が進み、定住性の高い集落が増えます。前期から中期には各地で大規模集落が発達し、三内丸山遺跡のような拠点的なムラも現れます。

後期から晩期になると、大型集落のあり方が変化し、墓地や祭祀場が独立して形成される例が増えます。環状列石や大規模な共同墓地もこの時期に発達します。

一万年以上を「縄文時代」という一語でまとめると、こうした変化が見えにくくなります。現代の日本史で平安時代から令和までを一つの時代として扱う以上の長さがあることを意識する必要があります。

氷期の終わりと温暖化

縄文社会の成立を考える上で、地球規模の気候変動は重要です。最終氷期が終わると気温が上昇し、日本列島では落葉広葉樹林が広がりました。ドングリ、クリ、クルミ、トチノミなど、食用になる堅果類を大量に得られる森林環境が形成されます。

大型動物中心の狩猟だけでなく、シカ、イノシシ、ノウサギなど中小型動物、魚介類、木の実、山菜、根茎類など、多様な資源を組み合わせる暮らしが可能になりました。

食料源が一つに集中しないことは、季節ごとに異なる資源を利用できるという意味でもあります。春、夏、秋、冬それぞれの採集・漁労・狩猟を組み合わせることで、一定地域で年間を通じて生活する条件が整っていきました。

縄文海進 — 海岸線が大きく変わる

温暖化によって巨大氷床が溶けると、海面が上昇しました。縄文時代前期には現在より海が内陸へ深く入り込んだ地域があり、この現象は「縄文海進」と呼ばれます。

現在の東京湾沿岸をはじめとする低地では海岸線が現在と大きく異なり、内湾や干潟が広がりました。こうした浅い海は貝類や魚類の生育に適し、沿岸集落の生活を支える重要な資源地となりました。

海面変化は集落の立地にも直接影響しました。現在は内陸にある貝塚が、縄文時代には海岸近くに位置していた例があります。過去の生活を理解するには、現代の地図をそのまま過去へ当てはめることができません。

土器が生活を変えた

土器の使用によって、人々は食料を煮ることができるようになりました。硬い植物を柔らかくするだけでなく、トチノミなどに含まれるアクを水にさらし、加熱して食べやすくすることもできます。

北海道・北東北の縄文遺跡群は、土器の使用を定住化を示す初期の重要な指標として位置づけています。重く壊れやすい土器を大量に持つことは、頻繁に長距離移動する生活には向きません。同じ場所を繰り返し、あるいは長期間利用することで土器の利点が大きくなります。

土器はまた貯蔵にも使われました。食料を保存できれば、採集したその日にすべて消費する必要がなくなります。季節的に大量に得られる食料を後の時期へ回すことが、定住生活を支えました。

弓矢と新しい狩猟

縄文時代には弓矢が本格的に使われるようになります。石鏃を装着した矢は、旧石器時代の槍に比べて小型で、森林内でシカやイノシシなどを狙う狩猟に適していました。

温暖化によって森林が広がると、ナウマンゾウのような大型動物を開けた場所で追う旧石器型の狩猟環境は減少します。森林内を移動する中小型動物へ対応するため、狩猟技術も変化しました。

落とし穴も利用されました。狩猟は単純に獲物を見つけて追うだけでなく、動物の習性、移動経路、季節を理解し、複数の技術を組み合わせる計画的な活動でした。

定住生活とムラ

縄文時代には、生活拠点としてのムラが各地に形成されました。住居だけではなく、墓、貯蔵穴、捨て場、作業場、祭祀の場所など、異なる機能を持つ空間が集落内に配置されます。

北海道の垣ノ島遺跡では、竪穴建物による居住域と土坑墓による墓域が分離しており、生活の空間と死者を葬る空間が区別されていました。集落はただ家を無秩序に並べた場所ではなく、社会的なルールに従って使い分けられる空間になっていました。

ただし、縄文時代の全期間、すべての人が一年中一つの集落から動かなかったわけではありません。定住性が高まっても、狩猟、漁労、採集、石材採取などのため季節的に移動したと考えられます。定住と移動は対立するものではなく、固定した拠点を持ちながら広い範囲を利用する生活でした。

竪穴建物で暮らす

縄文集落を代表する住居が竪穴建物です。地面を掘り下げて床面を作り、柱を立て、屋根をかけます。内部には炉があり、調理、暖房、照明などに使われました。

地面を掘り下げることで、外気の変化をある程度抑えることができます。寒冷地域でも暮らせる建築方法であり、修理しながら長期間使用された例もあります。

集落には通常の住居だけでなく、長さ10メートルを超える大型竪穴建物が存在することがあります。三内丸山遺跡では多数の大型建物跡が見つかっており、共同作業、集会、共同生活など複数の用途が考えられていますが、具体的機能は一つに確定していません。

狩猟採集民は何を食べていたのか

縄文人の食生活は非常に多様でした。「狩猟採集民」という言葉から肉中心の生活を想像しがちですが、植物性食料はきわめて重要でした。

三内丸山遺跡ではクリやクルミが大量に見つかり、イモ類や山菜なども利用されたと考えられています。またマメ類やヒョウタンなど栽培植物の種子も確認されています。

動物では地域によりシカ、イノシシ、ノウサギなどが捕獲されました。海や川ではマダイ、ブリ、サバ、ヒラメ、ニシン、サケ・マスなど多様な魚が利用され、貝類、イルカなどの海棲哺乳類も食料となりました。

つまり縄文社会は、一種類の食料に依存した社会ではありません。森林、河川、海岸、海洋という複数の環境を同時に利用することで、長期的な定住を可能にしていました。

木の実を主食級の資源にする

ドングリ、クリ、クルミ、トチノミなどの堅果類は、縄文時代の食生活を支えました。秋に大量に採集でき、乾燥させれば保存できるため、季節を越えて利用できます。

ただし種類によっては強いアクがあり、そのまま食べられません。すり石、敲き石、石皿で粉砕し、水にさらし、土器で煮るなど複数の工程が必要でした。

ここに、土器、石器、水場、貯蔵という技術が組み合わされます。単に「森に食料があった」から定住できたのではなく、自然資源を加工し保存する知識があったからこそ、森林を安定した食料供給地として利用できました。

「農業以前」でも植物を育てていた

縄文社会を「農業を知らない完全な狩猟採集社会」と考えるのも正確ではありません。国立歴史民俗博物館は、縄文人が狩猟・採集・漁労に加えて「栽培」も行っていたと説明しています。

三内丸山遺跡ではマメ類やヒョウタンなどの栽培植物が確認され、周辺環境についても、人々がクリやクルミなど有用な樹木を残しながら森林を管理していた可能性が示されています。

これは後の水田稲作のように、一種類の作物を大規模に育てる農耕社会とは異なります。しかし植物を選択し、植え、管理する行為は存在しました。狩猟採集と農耕の間に明確な一本の境界線があるわけではありません。

海と川を使う社会

日本列島は海に囲まれ、河川も多く、縄文社会では漁労が重要でした。釣り針、銛、網に使う石錘などが各地の遺跡から出土しています。

丸木舟も使われました。沿岸だけでなく、海峡を越えた移動や漁も行われていたと考えられます。旧石器時代から存在した海上移動の技術は、縄文時代にも重要でした。

魚種や漁具からは、人々が海の季節変化や魚の移動を理解していたことが分かります。サケが遡上する河川、貝が豊富な干潟、魚群が集まる内湾など、集落の立地そのものが漁労環境と密接に関係していました。

貝塚はゴミ捨て場だけではない

縄文時代を代表する遺跡の一つが貝塚です。食べた貝殻、魚骨、獣骨、壊れた道具などが長期間積み重なって形成されました。

貝殻に含まれるカルシウムによって土壌が中和されるため、通常は腐敗しやすい骨や角が保存されやすくなります。そのため貝塚は、縄文人の食生活、漁法、狩猟、道具、さらには人骨を研究する重要な資料となっています。

しかし貝塚を現代の「ごみ処理場」と完全に同じものと考えることもできません。場所によっては人骨や祭祀具が含まれ、物を捨てる行為に社会的・儀礼的意味が重なっていた可能性があります。

イヌと人間

縄文時代にはイヌが人間とともに生活していました。狩猟で利用されたと考えられ、犬の骨が人間とは異なる扱いで丁寧に埋葬された例も知られています。

狩猟犬は、森林でシカやイノシシを追跡し、発見する上で有効です。犬との協力は、人間単独の狩猟とは異なる技術体系を作ります。

家畜化された動物と人間の関係は、後の農耕社会で突然始まったわけではありません。縄文社会でも、動物を単なる食料としてではなく、人間社会の中で特別な役割を持つ存在として扱っていました。

南北3000キロの地域差

国立歴史民俗博物館は縄文列島の特徴を「多様性」として展示しています。北海道から九州まで南北約3000キロメートルに及ぶ列島には、亜寒帯から温帯まで異なる生態系がありました。

北方ではサケ・マス、海獣、寒冷地の森林資源が重要になり、温暖な西日本ではシイ・カシ類など照葉樹林の資源が利用されます。内陸の山間部と沿岸部でも生活は異なります。

道具や土器の形にも地域差があります。しかし違いだけではなく、ヒスイや黒曜石などが遠距離を移動し、似た祭祀道具や技術が広い範囲で共有されることもありました。地域性と広域交流が同時に存在した社会でした。

三内丸山遺跡 — 大規模な定住集落

青森県青森市の三内丸山遺跡は、縄文時代前期から中期、紀元前約3900年から2200年、現在から約5900~4200年前に営まれた大規模集落です。

遺跡全体は約42ヘクタールに及び、多数の竪穴建物、大型竪穴建物、掘立柱建物、大型掘立柱建物、大人・子どもの墓、貯蔵穴、盛土などが確認されています。

この規模は、縄文社会が小さな家族単位だけで成り立っていたわけではないことを示します。集落内部には機能ごとの空間があり、多数の人々が一定のルールを共有して長期間生活していました。

ただし、三内丸山を「縄文時代の都市」とそのまま呼ぶことには注意が必要です。行政機関、文字、恒常的な市場、国家権力が確認される後世の都市とは社会構造が異なります。大規模な定住集落であることと、都市国家であることは同じではありません。

自然を利用するだけでなく管理する

三内丸山遺跡の調査は、「縄文人は自然から与えられたものだけを採っていた」というイメージを修正しました。

遺跡周辺では、集落形成前の森林から樹木構成が変化し、クリを中心とする環境が形成されていたことが示されています。公式解説では、人々がクリやクルミなどを残して他の木を伐採し、クリ林を管理していたと説明しています。

住居を建てるためには木を伐り、燃料も必要です。生活圏周辺の植生は、人間活動によって長期的に変化します。縄文社会は自然環境を壊さず「ありのまま」に生きた社会というより、環境を理解し、選択的に改変しながら維持した社会と見る方が適切です。

大型建物と共同作業

三内丸山遺跡では、通常の住居よりはるかに大きな大型竪穴建物や、直径約1メートルの太い柱を立てた大型掘立柱建物が確認されています。

大型建物を造るには、木材を選び、伐採し、運び、柱穴を掘り、複数人で組み立てる必要があります。一つの家族だけで完結する仕事ではありません。

具体的な用途は確定していませんが、集会、共同作業、儀礼、共同住居などが想定されています。少なくとも、集落内で多数の人々を組織して大規模作業を行う仕組みが存在したことは確かです。

遠距離交易

縄文社会は自給自足で孤立したムラの集合ではありませんでした。三内丸山遺跡では、ヒスイ、黒曜石、琥珀、アスファルトなど遠方の産地から運ばれた物資が見つかっています。

黒曜石は石鏃や刃物に向く石材、アスファルトは道具の接着などに使われます。一方、ヒスイや琥珀には装身具など象徴的な価値もありました。

遠距離交易には、直接原産地まで移動する方法と、複数集団の間を物が次々に渡る方法の両方が考えられます。どちらの場合でも、集落間の継続的な社会関係が必要です。

600キロ離れたヒスイ

三内丸山遺跡から出土したヒスイは、約600キロメートル離れた現在の新潟県糸魚川周辺から運ばれたと考えられています。

原石だけでなく、加工途中の未完成品や完成した珠も見つかっています。どこで加工したのか、誰が技術を持っていたのかを考える手がかりになります。

ヒスイは非常に硬く、加工には高度な技術と長い時間が必要です。実用品というより、装身具や特別な物として扱われました。こうした希少品の移動は、単なる物資交換だけでなく、集団間の関係や社会的価値の共有を示します。

海と川は交通路だった

縄文人は丸木舟を使いました。海や川は食料を得る場所であると同時に、人や物を運ぶ交通路でした。

山地を徒歩で越えるより、条件によっては沿岸や河川を舟で移動する方が大量の物を運べます。黒曜石、ヒスイ、アスファルトなどの広域流通には水上交通が重要だった可能性があります。

旧石器時代から人々は海峡を渡っていました。縄文時代には、定住拠点と海上交通が組み合わさり、各地域を結ぶネットワークがさらに発達しました。

交換がつないだ集団

遠隔地の物資を交換するには、相手との関係を維持する必要があります。単に物を物と取り替えるだけでなく、訪問、婚姻、共同祭祀、贈与など複数の社会関係が交換を支えた可能性があります。

文字記録がないため、具体的な制度や名称は分かりません。しかし、数百キロメートルに及ぶ物の移動は、一つのムラだけでは生活世界が完結していなかったことを示します。

交易網は食料不足や災害への対応にも役立った可能性があります。自分たちの地域で得られない石材や物資へアクセスできる社会関係は、定住生活の安定性を高めます。

墓をつくる社会

定住生活の発達とともに、死者を繰り返し同じ場所へ葬る墓域が形成されました。縄文遺跡では地面に穴を掘った土坑墓が多く確認されています。

墓が集落内部やその周辺に長期間維持されることは、その場所が生きている人々だけの生活拠点ではなく、過去の世代と結びついた土地になることを意味します。

北海道・北東北の遺跡では、前期・中期には大人の墓が列状に並び、後期には集落中央へ集中する例、晩期には居住域から独立した墓地を形成する例が確認されています。死者をどこへ置くかというルールも時代とともに変化しました。

子どもの埋葬

縄文時代には、乳幼児や子どもを土器の中へ葬る例があります。成人の土坑墓とは異なる埋葬方法が用いられました。

これは年齢によって死者の扱いが異なったことを示します。ただし、その背景にどのような死生観があったのかを具体的に説明する文字史料はありません。

重要なのは、埋葬方法に社会的な規則が存在したことです。死者の身体を単に処分するのではなく、年齢や状況に応じて一定の方法で葬る行為が共同体の中で共有されていました。

介護の痕跡 — 入江貝塚

北海道の入江貝塚からは、筋萎縮症に罹患していた成人男性の人骨が見つかっています。公式資料では、この人物が少なくとも十数年間にわたり周囲の人々から介護を受けて生活していたと説明されています。

重い身体障害があれば、狩猟、採集、移動など多くの作業を一人で行うことは困難です。それでも長期間生存していたことは、食料や日常生活を他者が支えていたことを示します。

これは縄文社会を理解する重要な資料です。共同体は単に一緒に狩りをする経済的集団ではなく、働けない人を長期間支えることができる社会でもありました。

祭祀と共同体

縄文遺跡からは、日常的な食事や生産だけでは説明しにくい遺構や遺物が見つかります。土偶、石棒、土版、特殊な配石、盛土、環状列石などです。

これらの具体的な意味は分かっていません。豊穣、出産、死者、病気、狩猟などさまざまな解釈が提案されていますが、一つの用途に断定することはできません。

一方、共同で大規模な祭祀空間を作ったことは確認できます。儀礼は、日常生活から切り離された個人的信仰ではなく、複数の集団が関係を確認する社会的行為でもあった可能性があります。

環状列石 — 大規模な共同空間

縄文時代後期から晩期には、東北・北海道を中心に石を円形に配置した環状列石が築かれます。

多数の石を集め、運び、一定の配置に並べるには共同労働が必要です。周辺には墓、建物、貯蔵穴などが配置され、祭祀や埋葬に関係する空間だったと考えられています。

定住社会が成熟すると、各家庭の住居だけでなく、複数の人々が共有する大規模な場所が作られるようになります。共同体の関係を土地の上に固定する行為と見ることができます。

大湯環状列石

秋田県鹿角市の大湯環状列石は、紀元前2000~1500年頃に形成された大規模な祭祀遺跡です。万座環状列石は最大径約52メートル、野中堂環状列石は約44メートルに達します。

環状列石の周囲には、掘立柱建物、貯蔵穴、土坑墓などが同心円状に配置されています。また土偶、土版、石棒、石刀など祭祀・儀礼に関係すると考えられる資料が多数出土しています。

石の配置の一部は夏至の日没方向とほぼ一致します。ただし、これを精密な天文観測所と断定することはできません。季節、太陽、墓、儀礼が関係していた可能性を示す資料として慎重に考える必要があります。

共同墓地とキウス周堤墓群

北海道千歳市のキウス周堤墓群は、縄文時代晩期、約3200年前の大規模な共同墓地です。

地面を円形に掘り、その土を周囲へ盛り上げることで大きな土手を作り、内側へ複数の墓を配置しました。最大級のものでは周堤が高さ約2メートルに達し、内部に閉じた大きな空間を形成します。

一人の死者の墓ではなく、複数の死者を共同空間へ葬る墓地です。土地を大きく改変して墓域を明確にし、それを継続的に利用する行為から、共同体の系譜や死者との関係を長期間維持する社会が見えてきます。

縄文社会に「支配者」はいたのか

大規模集落、大型建物、環状列石、遠距離交易を見ると、縄文社会にも人々をまとめる役割を持つ人物がいた可能性は高いでしょう。しかし、後の弥生社会のような明確な王墓や武器の集中、さらに古墳時代の巨大首長墓に相当する証拠は確認されていません。

墓の副葬品や住居規模には差が見られる場合もありますが、それを固定的な身分制度や世襲王権と直接結びつけることはできません。

大型建造物を作るには共同作業を調整する仕組みが必要ですが、「指導者がいたこと」と「階級国家があったこと」は同じではありません。縄文社会の政治構造については、考古資料から分かる範囲を越えて断定しないことが重要です。

なぜ長期社会を維持できたのか

縄文社会が一万年以上続いた理由を一つに絞ることはできません。しかし、食料源を一種類に依存しなかったことは重要です。

森の木の実、山菜、シカやイノシシ、川の魚、海の魚介類など、地域と季節に応じて複数の資源を利用しました。さらに食料の保存、植物管理、漁具、弓矢、舟などの技術がそれを支えました。

遠距離の交流網も重要です。資源が不足した地域や季節に、他地域との関係を持つことは社会の安定に役立ちます。

ただし「縄文社会は一万年変わらない持続可能な理想社会だった」と考えるのも適切ではありません。集落の拡大と縮小、環境変化、地域ごとの人口変動、生活様式の変更が繰り返されていました。

縄文社会も変化し続けた

三内丸山のような大規模集落は永遠に続いたわけではありません。集落規模は時期によって変化し、後期以降には居住域より祭祀・墓地が目立つ地域もあります。

気候変動によって利用できる植物や海洋資源が変わり、火山噴火など自然災害の影響を受けた地域もあります。人々は集落を移動し、資源利用を変え、社会関係を組み替えました。

「縄文」という共通点がありながら、その内部では何度も社会の再編が起きています。一万年以上続いたのは、同じ生活を守り続けたからではなく、環境変化へ対応する方法を変え続けたからだと考える方が適切です。

約3000年前 — 水田稲作の開始

縄文社会に大きな変化をもたらしたのが、水田稲作の導入です。国立歴史民俗博物館の年代研究では、九州北部で紀元前10世紀後半、現在からおよそ3000年前に本格的な水田稲作が始まったとされています。

水田を作るには土地を平らにし、畦を築き、水を引き、排水を管理する必要があります。狩猟・採集・漁労を中心とする縄文社会とは異なる形で、土地と水を継続的に管理する生産体系が成立します。

しかし稲作が到来したからといって、縄文的な生活が一夜で消えたわけではありません。新しい農耕技術を受け入れる速度は地域によって異なりました。

縄文時代は全国同時に終わらなかった

国立歴史民俗博物館は、弥生時代の長さが地域によって異なることを強調しています。水田稲作を最初に受け入れた九州北部では早く弥生社会へ移行しましたが、東日本ではより遅くまで縄文的な生活要素が続きました。

北海道では本州以南と同じ水田稲作中心の弥生文化へ移行せず、その後「続縄文文化」と呼ばれる独自の歴史が展開します。南西諸島でも本州とは異なる歴史経路をたどります。

したがって、「約3000年前に縄文時代が終わり、日本全体が弥生時代になった」と一本の線を引くことはできません。日本列島には異なる時間が並行して存在していました。

日本史の中で縄文時代を見る意味

縄文時代を日本史の最初に置く意味は、「日本文化の原型を縄文に求める」ことではありません。現代の日本人の価値観や美意識を一万年前まで直接さかのぼらせることには無理があります。

重要なのは、日本列島の歴史が最初から一つの社会、一つの生業、一つの地域によって進んだわけではないことです。縄文時代には、環境の異なる多くの地域社会が存在し、互いに交易しながら、それぞれ異なる方法で暮らしていました。

また、国家や本格的農耕がなくても、大規模集落、遠距離交易、共同墓地、祭祀空間、長期介護を支える社会を作ることができました。社会の複雑さを国家の有無だけで測れないことを、縄文時代は示しています。

そして最後には、水田稲作という新しい生産方法が列島へ入り、縄文社会と長期間並存しながら地域社会を変えていきます。次の弥生時代は縄文を完全に断ち切って始まったのではなく、その社会、人、技術、地域差の上に形成されていきました。

縄文時代の主な流れ

次の時代へ — 水田稲作と弥生社会

約3000年前、九州北部へ朝鮮半島から本格的な水田稲作が伝わります。この技術は、単に新しい食料を増やしただけではありません。

水田を維持するためには、土地、水路、労働、種籾、収穫物を継続的に管理する必要があります。収穫物を貯蔵することで富を蓄積することも可能になります。集団間の協力と同時に、土地や収穫物をめぐる争い、富の差、政治的な指導力がこれまで以上に重要になります。

その一方、縄文系の生活・技術・人々は消滅しません。各地域で新しい水田稲作文化と在来の縄文文化が接触し、混ざり合い、異なる速度で社会が変化します。

次の記事では、約3000年前–紀元前3世紀頃|弥生時代の始まり — 水田稲作の伝来と列島社会の変化として、稲作がどこから、どのように伝わり、社会をどのように変え始めたのかを扱います。

参考資料・出典

本ページは、国立歴史民俗博物館、北海道・北東北の縄文遺跡群世界遺産事務局、三内丸山遺跡センター等の公開資料を参照してART LIBRARYが独自に構成・執筆しています。縄文時代の開始・終了年代には研究や地域による差があるため、本記事では前記事との連続性を考慮して約1万6000年前から約3000年前を大きな範囲とし、北海道・北東北の縄文遺跡群が示す約1万5000年前から約2400年前という範囲も本文中で説明しました。また、祭祀、社会的身分、集落内の役割など考古資料だけでは確定できない問題については、仮説を事実として断定していません。