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686–697年

持統朝と律令国家の形成

飛鳥浄御原令、庚寅年籍、藤原京

686年9月、天武天皇が死去しました。壬申の乱に勝利して成立した天武政権は、律令編纂、氏族秩序の再編、位階制度、国史編纂、都城計画など多くの国家事業を開始していましたが、その大半は完成前でした。政治を引き継いだのが皇后の鸕野讃良皇女、後の持統天皇です。

持統は天武の死後すぐには即位せず、皇后のまま政務を執る「称制」の時期を約三年半続けました。その間に大津皇子事件、天武の殯と埋葬、草壁皇子の死という重大な王位継承問題に直面します。それでも国家制度の整備は停止せず、689年には天武朝から編纂が進められていた飛鳥浄御原令が施行されました。

690年、持統天皇が正式に即位し、同年には庚寅年籍が作成されます。奈良文化財研究所の整理では、670年の庚午年籍が全国規模で作られた最初の戸籍であるのに対し、690年の庚寅年籍は飛鳥浄御原令に基づいて作られた最初の戸籍として位置づけられます。国家が人民を戸単位で把握し、土地、税、兵役、身分を行政制度に結びつける仕組みが具体化しました。

同時に、天武朝末から構想されていた新しい都の建設が再開されます。藤原京です。発掘調査によって、造営用運河から682~684年の年紀を持つ木簡や685年制定の位階名を記した木簡が出土し、工事が天武朝まで遡ることが分かっています。持統朝には京域の鎮祭、道路整備、官人への宅地班給、宮殿造営が進み、694年、持統天皇は飛鳥浄御原宮から藤原宮へ移りました。

藤原京は、宮だけを移す従来の「遷宮」とは性格が異なります。条坊道路によって都市を計画し、中央に巨大な藤原宮を置き、その周囲に官人の宅地、寺院、市、官衙を配置する本格的な都城でした。法、戸籍、官人、土地、都市を一つの国家システムとして結びつける空間が初めて本格的に成立したのです。

686年 天武天皇の死

686年9月、天武天皇が死去しました。天武は壬申の乱に勝利した後、八色の姓、位階制度、律令編纂、国史編纂、都城計画など国家構造を組み替える多数の政策を進めていました。

しかし死去時点では、新しい法典も新都も完成していませんでした。後継者として草壁皇子が重要な位置に置かれていましたが、天武から草壁へ直ちに王位が移ったわけでもありません。

皇后の鸕野讃良皇女が政務を引き継ぎ、即位しないまま王権を運営します。

持統による称制

奈良県の年表は686年の天武天皇死去と同時に、皇后が称制を開始したと整理しています。

「称制」は後世の歴史用語で、正式な即位を行わずに君主に準じて政務を執る状態を指します。斉明天皇の死後に中大兄皇子が行った政治と同様、実際の統治権と即位が必ずしも同時ではなかった古代王権の特徴を示します。

鸕野讃良皇女はこの間、単に次の王を待つのではなく、法令施行、官人制度、都造営など天武朝の国家事業を継続しました。

単なる「中継ぎ」と考えない

古代の女性天皇を「男性後継者が育つまでの中継ぎ」とだけ説明する見方があります。しかし持統の場合、それだけでは実際の政治を説明できません。

天武朝で皇后として王族秩序の中心におり、686年以後は自ら政務を担い、689年の飛鳥浄御原令施行、690年の庚寅年籍、藤原京造営を主導しました。

持統は天武政策の継承者であると同時に、制度を実際に施行・運用する君主でした。

686年 大津皇子事件

天武の死からまもなく、大津皇子が謀反を企てたとして逮捕され、死を命じられました。

奈良県立万葉文化館によれば、大津皇子は天武天皇と大田皇女の子で、686年に謀反の疑いで処刑されています。

大津は天武の有力な皇子の一人であり、草壁皇子にとって王位継承上の競合者になり得る人物でした。

大津皇子事件をどう読むか

後世には、持統が実子・草壁皇子の即位を確実にするため大津皇子を排除したという説明があります。

奈良県立万葉文化館もそのような説があることを紹介していますが、持統自身が事件を計画したことを直接示す同時代資料はありません。

『日本書紀』の謀反記事、後世の文学的な大津皇子像、王位継承をめぐる政治的推測を区別する必要があります。

天武天皇の殯

天武の死後、長期間の殯が行われました。

殯は遺体を最終埋葬まで安置し、皇族・氏族が死者を悼みながら、系譜や功績を確認する政治的儀礼でもありました。

即位や官制が新しくなっていく一方で、王の死をめぐる儀礼には古い王権文化がなお強く残っていました。

688年 天武天皇の埋葬

688年、天武天皇は檜隈大内陵へ葬られたと奈良県・橿原市の年表は整理しています。

現在の天武・持統天皇陵は明日香村にあり、後に持統自身も同じ陵へ合葬されたと伝えられます。

夫婦で一つの陵に葬られることは、天武・持統二代の政治的連続性を象徴的に考える上でも重要です。ただし持統の死と合葬は702年であり、本記事の時期より後です。

草壁皇子

草壁皇子は天武天皇と鸕野讃良皇女の子で、681年に皇太子となったと『日本書紀』は記します。

679年の吉野の盟約にも参加し、天武の後継者として重要な位置を占めていました。

草壁が即位すれば、壬申の乱後の天武系王統は父から子へ継承されることになります。しかし、その実現前に草壁は死去します。

689年 草壁皇子の死

689年4月、草壁皇子が死去しました。奈良県立万葉文化館も、持統3年4月に草壁が薨じたと整理しています。

天武死後に王位継承の中心とされた人物を失ったことで、王権は再び後継者問題に直面しました。

草壁には軽皇子、後の文武天皇がいましたが、この時点ではまだ幼少でした。持統が翌690年に自ら即位する背景を考える際、この世代間の空白は重要です。

再び生じた王位継承問題

壬申の乱は王位継承争いから始まりました。そのため天武・持統政権にとって、次の継承を内戦なく実現することは国家制度そのものに関わる課題でした。

大津皇子が死に、草壁皇子も死去した後、天武の皇子には高市皇子、忍壁皇子らがなお存在しました。

それでも690年に即位したのは鸕野讃良皇女自身でした。この即位によって、若い軽皇子へ王統をつなぐまで政治を安定させる枠組みが成立しました。

689年 飛鳥浄御原令

689年6月、飛鳥浄御原令が施行されました。奈良県、奈良県立万葉文化館、橿原市はいずれも689年を施行年として整理しています。

天武朝の681年に律令編纂が命じられてから、約8年後の施行です。

法典そのものは現存していないため、全条文の内容を直接確認することはできません。しかし、後の大宝令より前に中央政府の官制、地方行政、戸籍などを体系的に規定する法令が施行された重要な節目です。

681年の編纂開始から八年

飛鳥浄御原令を「持統が新しく一から作った法律」と考えるのは適切ではありません。

681年、天武天皇は律令を定め、法式を改めるよう命じました。持統は天武死後にその編纂事業を引き継ぎ、689年に施行へ移しました。

天武・持統二代をまたぐ国家事業であり、壬申の乱後の政治改革が一代限りで終わらなかったことを示します。

「令」の施行として考える

飛鳥浄御原令について「律令」と一括して呼ぶことがありますが、制度史上は注意が必要です。

奈良文化財研究所の地方行政資料では、689年を「飛鳥浄御原令の施行」とし、「律は未施行」と整理しています。

現存する法典がないため刑罰法である律がどの程度整備されていたかには議論があります。本記事では、確実に施行が伝えられる「令」を中心に扱います。

成文法で国家を動かす

氏族社会では、政治の多くが慣行、身分、個別の命令によって運営されていました。

成文法典を整えることは、誰がどの官職を担うのか、地方をどう区分するのか、人民をどう登録するのかを共通ルールで運営する方向への大きな変化です。

法の存在だけで全国が即座に同じ制度へ変わるわけではありませんが、王権が「個別の氏族関係」ではなく「法による行政」を目指したことが重要です。

官司と地方行政

飛鳥浄御原令の施行時期には、中央の官司と地方行政施設の整備も進みます。

奈良文化財研究所系の地方行政研究では、7世紀第4四半期頃から各地で政庁を備えた地方官衙が現れ始めることが指摘されています。

地方豪族を完全に排除して中央官人へ置き換えたのではなく、在地首長を新しい行政組織へ組み込みながら中央政府との関係を制度化していく過程でした。

690年 持統天皇即位

690年1月、鸕野讃良皇女が正式に即位して持統天皇となりました。

天武死後から約3年4か月、称制によってすでに政治を行っていたため、690年の即位を「ここから初めて政治権力を持った」と考えることはできません。

即位は、王権の正式な儀礼秩序を整え、持統自身の君主としての位置を明確にする出来事でした。

女性君主と政治権力

推古、皇極・斉明に続き、持統も女性君主です。

古代女性天皇を一律に「皇位継承のつなぎ」と説明すると、持統が称制・即位・譲位を通じて約11年間以上にわたり国家政策を主導した事実が見えなくなります。

持統は天武の政策を引き継ぎながら、法令を施行し、戸籍を作り、都城を完成させ、孫の文武への王位継承を実現した政治主体として見る必要があります。

690年 庚寅年籍

690年、庚寅年籍が作成されました。

奈良県は持統即位と同年の主要政策として庚寅年籍を挙げています。また国立国会図書館のレファレンス資料は、689年に飛鳥浄御原令が施行された後、令に基づく人民把握を実施するため造籍が命じられ、690年の戸籍が「庚寅年籍」と呼ばれると説明しています。

戸籍は国家が人民を直接把握する基礎台帳でした。

庚午年籍から庚寅年籍へ

670年には天智朝で庚午年籍が作られていました。奈良文化財研究所はこれを全国規模の最初の戸籍と位置づけています。

690年の庚寅年籍が重要なのは、飛鳥浄御原令の施行後、法令に基づく戸籍として作成された点です。

庚午年籍が人民把握の大きな出発点であるなら、庚寅年籍はその仕組みを令制の行政へ組み込む段階だったと整理できます。

令に基づく人民把握

戸籍の作成は、単なる人口調査ではありません。

誰がどの戸に属し、年齢・性別・身分がどうなっているかを記録することで、土地の班給、租税、労役、兵役などの対象を決めることができます。

国家が人民一人ひとりを行政上の対象として把握することは、氏族や地域首長を介した古い支配から律令的支配へ移るための基礎でした。

戸籍は何を記録するのか

後の律令戸籍では、戸主を中心として家族構成、年齢、性別、身分などが記録されます。

690年の庚寅年籍そのものは現存していないため、その全国的な書式を直接確認することはできません。

しかし後の戸籍制度と史料記事から、戸を国家行政の基本単位として登録する制度が整えられていったと考えられます。

班田収授への基盤

戸籍は班田収授と密接に関係します。

後の律令制度では、戸籍に登録された人々に一定の基準で口分田を班給し、その土地を基礎として租を徴収します。

奈良県は、持統朝に飛鳥浄御原令、庚寅年籍、班田制の実施が進められ、律令政治が具体化したと説明しています。

ただし全国で完全に均一な班田が690年に一度で完成したと考えるべきではありません。土地制度の実施には測量、地方行政、戸籍更新が必要で、継続的な運用が前提でした。

六年ごとの造籍という制度

後の令制では戸籍は6年ごとに作成することが原則となります。

国立国会図書館のレファレンス資料も、律令の規定では6年に一度戸籍を作成する制度だったと説明しています。

人口は出生・死亡・移住によって変化します。一度作った戸籍だけでは土地・税・兵役を公平に割り当てられません。

定期的に情報を更新する仕組みを持つことによって、国家行政は単発の調査から継続的な統治へ変わります。

地方首長と戸籍行政

飛鳥の中央政府が全国の村へ直接官人を送り、すべての住民を一人ずつ調査したわけではありません。

実際の造籍・税徴収には、評などの地方行政を担う在地首長層の協力が不可欠でした。

中央集権化とは地方豪族の消滅ではなく、彼らが持つ地域支配能力を国家行政の中へ組み込み、その情報を中央へ集約する過程でもありました。

軍事制度と人民把握

戸籍整備は軍事制度とも関係します。

白村江敗戦後、王権は防人や山城を整え、天武朝には諸国へ陣法を習わせる命令が出されています。持統朝にも兵士への武事教習が行われたことが研究資料に整理されています。

どの地域から何人の兵士を動員できるかを知るためにも、人口と戸を把握する行政基盤が必要でした。

法、戸籍、税、軍事は別々の制度ではなく、同じ中央政府を支える情報基盤の上に成り立ちます。

持統朝の祭祀と行幸

持統朝では行政制度の整備と並行して、祭祀・行幸が頻繁に行われました。

奈良県立万葉文化館の持統天皇解説には、吉野への多数の行幸、伊勢行幸、藤原宮予定地への行幸などが記録されています。

王権が法や文書だけで成立するわけではありません。神祇祭祀、行幸、儀礼を通じて君主の存在を地域・氏族社会に示すことも統治の重要な要素でした。

繰り返された吉野行幸

持統天皇は非常に頻繁に吉野へ行幸しました。

吉野は672年に大海人皇子が壬申の乱へ出発した場所であり、679年には天武・持統と六皇子が盟約を結んだ場所でもあります。

持統の吉野行幸をすべて同じ目的で説明することはできませんが、天武政権の成立と王族秩序の記憶に深く関係する政治的・儀礼的空間だったことは重要です。

692年 伊勢行幸

692年、持統天皇は伊勢へ行幸しました。奈良県立万葉文化館の人物解説では、この行幸に三輪高市麻呂が反対したものの、天皇は行幸を行ったと『日本書紀』の記事が整理されています。

伊勢と王権祭祀の関係は後世さらに強まりますが、7世紀末にも皇室祭祀と地域支配を考える重要な場所でした。

ただし、この行幸を後世の伊勢神宮制度がそのまま完成した状態として理解することは避ける必要があります。

氏族の祖先記録

691年には、十八氏族に祖先の墓記を提出させたと『日本書紀』は記します。

奈良県立万葉文化館の持統天皇解説にもこの記事が整理されています。

天武朝の国史編纂、684年の八色の姓と同様、氏族の系譜と由緒を王権側で把握する政策の延長として見ることができます。

誰がどの祖先を持ち、王権とどのような関係にあるかを記録することは、氏族の政治的身分を決める基礎でした。

藤原京造営の再開

持統朝最大の国家事業の一つが藤原京の完成です。

橿原市は、天武天皇が新しい国家づくりのため都造営を始め、686年の天武死によって一時中断した後、持統天皇が690年に造営を再開したと説明しています。

藤原京は一人の君主が短期間で思いついて作った都市ではなく、天武・持統二代にわたる計画事業でした。

天武朝から始まっていた都造り

『日本書紀』には676年頃から新都造営をうかがわせる記事があり、684年には「宮室之地」を定めたとされます。

さらに考古学的にも、藤原宮中心部を通る造営用運河から天武11~13年、682~684年の年紀木簡と、685年制定の位階「進大肆」を記した木簡が見つかっています。

奈良文化財研究所は、これらを藤原宮造営が天武朝末にすでに始まっていたことを示す有力な証拠としています。

藤原宮造営用運河

藤原宮の建設時には、宮中心部を南北に貫く大規模な運河が掘られました。

奈良文化財研究所によれば、大極殿北側で確認された運河は幅6~9メートル、深さ約2メートルで、宮殿資材を運び込むために用いられました。

運河は宮殿完成前に埋め戻され、その上に大極殿や内裏など中枢施設が建設されます。

都市建設のために一時的な物流インフラまで設計する大規模な国家工事でした。

全国から動員された役民

藤原宮・藤原京の造営には各地から多数の役民が動員されました。

奈良文化財研究所は、『万葉集』の「藤原宮の役民の作る歌」や、「大里評」と記された瓦などから、遠隔地域を含む全国的な人員・物資動員が行われたことを紹介しています。

巨大都市を建設する能力は、王権が法令・戸籍によって人民と地域を把握する能力と切り離せません。

近江から運ばれた木材

『万葉集』に残る藤原宮造営の歌は、近江の田上山から木を切り出し、川を利用して大和へ運んだ様子を描きます。

奈良文化財研究所は、木材を筏にして宇治川・木津川方面へ運び、さらに陸路・水路を組み合わせて藤原宮へ搬入した可能性を説明しています。

都城建設は大和盆地だけで完結する工事ではなく、近畿圏を越える資源調達網を必要としました。

200万枚を超える瓦

藤原宮では主要建物に礎石建ち・瓦葺きが本格的に採用されました。

奈良文化財研究所は、藤原京で必要とされた瓦を200万枚以上と推定し、その大量需要を満たすため大和だけでなく遠隔地の瓦窯にも生産を発注したと説明しています。

建築技術の問題だけではなく、原料、燃料、工人、輸送を中央が組織する大規模生産体制が必要でした。

691年 新益京の鎮祭と宅地班給

橿原市の藤原宮関係年表では、691年に新益京の地を鎮める祭りが行われ、官人へ宅地が班給されたと整理されています。

都市の道路だけを先に作るのではなく、そこへ官人を実際に居住させ、政治中枢を移す準備が進んでいました。

宅地の広さは官人の身分に応じて配分されたと考えられ、都市空間そのものが官人秩序を可視化する仕組みになります。

692年 京の道路と宮地

692年、持統天皇は新しい京の道路を視察し、藤原宮の地を鎮める祭祀を行ったと橿原市の年表は伝えます。

宮殿だけでなく、道路・宅地・儀礼空間をまとめて整備することで、都市全体が政府機構の一部となります。

飛鳥では宮・寺院・官衙が地形に合わせて点在していましたが、藤原京では道路を基準に都市を規則的に区画します。

条坊で都市を区切る

奈良文化財研究所は、藤原京を中国の影響を受けた条坊を完備する最初の本格的な都城と説明しています。

南北・東西に走る道路によって都市を碁盤目状に区切り、その中に宮、宅地、寺院、市などを配置します。

道路は単なる交通路ではありません。住所、土地配分、行政管理、儀礼行列の基準となる都市の骨格でした。

藤原京の規模

藤原京の範囲は長く東西約2.1キロ、南北約3.2キロ程度と考えられていました。

しかし発掘調査によってさらに外側から条坊道路が相次いで確認され、橿原市は現在、東西約5.3キロ、南北約4.8キロの広大な京域を紹介しています。

奈良文化財研究所も、旧来の推定範囲を越えて宅地・道路が広がることが判明し、平城京をしのぐ規模の都市像が明らかになりつつあると説明しています。

都市中央の藤原宮

藤原宮は藤原京のほぼ中央に置かれました。

橿原市によれば、宮域は東西925.4メートル、南北906.8メートル、約84ヘクタールに及びます。

後の平城宮のように都の北端中央へ宮を置く構成とは異なり、藤原京の中央に王権中枢を配置する独特の都市構造です。

藤原宮の構造

藤原宮内部には、天皇の住居である内裏、国家的儀礼の中心となる大極殿・朝堂院、官人が集まる朝集殿院、行政実務を行う官衙などが配置されました。

橿原市は、その性格を現在の皇居、国会議事堂、霞が関の官庁街を合わせたものにたとえています。

王の住居と政府機関が一つの巨大な宮域へ集約されることで、中央政府が空間として可視化されました。

大極殿と朝堂院

大極殿は君主が国家的な儀礼を行う中心建物です。朝堂院は官人が列席し、朝政・儀礼を行う空間でした。

奈良文化財研究所の発掘では、朝庭から幡を立てたと考えられる遺構も確認されており、国家儀礼が一定の形式と空間配置に従って行われていたことが分かります。

律令国家とは法律の集合だけではなく、君主と官人を空間的・儀礼的に並べる制度でもありました。

官衙を宮へ集める

藤原宮の東西には行政実務を行う官衙区画が設けられました。

飛鳥時代には有力氏族の邸宅や複数地点に分散していた政治機能が、宮城という一つの空間へ集まり始めます。

飛鳥浄御原令による官制と、藤原宮という行政空間が組み合わさることで、中央政府は制度と建築の両面から形を得ていきました。

官人の宅地

藤原京では宮の外に官人の宅地が配置されました。

奈良文化財研究所は、条坊で区切られた宅地が身分に応じた広さで支給されたと説明しています。

官人がそれぞれの氏族拠点から毎日遠く離れた宮へ出仕するのではなく、首都内に居住して中央政府に勤務する都市型官人社会が形成されていきます。

寺院と都城

藤原京域には大官大寺、薬師寺など大規模寺院が置かれました。

奈良文化財研究所は、官立大寺院として大官大寺と薬師寺が東西に配置されたと説明しています。

寺院は宗教施設であると同時に、僧侶、経典、土地、工人、儀礼を管理する大規模組織です。律令国家の首都では政治施設と仏教施設が同じ都市計画の中へ組み込まれていきました。

694年 藤原宮への遷都

694年12月、持統天皇は飛鳥浄御原宮から藤原宮へ移りました。

奈良文化財研究所、奈良県、橿原市はいずれも694年を藤原京遷都年として整理しています。

『日本書紀』では新しい都を「新益京」と表現します。「藤原京」という呼称は後世の史料・研究で一般化した名称です。

最初の本格的都城

奈良文化財研究所は藤原京を、条坊を完備した日本最初の本格的な中国式都城と位置づけています。

難波宮や飛鳥にも大規模宮殿はありましたが、宮城を中心に道路・宅地・寺院を広大な都市として計画的に配置した点で藤原京は画期的です。

国家の中心が「王の宮」から「宮を核とする首都」へ変わったと言えます。

長安の単純なコピーではない

藤原京はしばしば「唐の長安を模倣した都」と説明されます。中国都城制の強い影響を受けたことは確かです。

しかし、藤原宮を京のほぼ中央に置く構成は、後の平城京・平安京とも、中国の長安とも異なります。

奈良文化財研究所も、中国の影響を受けながら藤原京独自の配置を持つことを示しています。

外国制度をそのまま複製したのではなく、列島側の政治条件に合わせて再構成した都城と理解する必要があります。

都城が国家制度を可視化する

藤原京では、君主は宮の中心に位置し、その周囲に官人、寺院、市、住民が道路によって配置されます。

これは行政制度を都市空間へ変換したものとも言えます。

官職・位階・戸籍によって人々を分類し、条坊・宅地によって空間を分類する。持統朝の国家形成では、人と土地を同じように測定・区分・配置する発想が明確になります。

木簡と文書行政

藤原宮・藤原京からは大量の木簡が出土しています。

年紀、地名、物資、官司などを記した木簡は、税・食料・労働・行政文書を処理する日常的な文字行政が急速に拡大していたことを示します。

689年を示す「己丑年」と記された木簡も藤原宮跡から出土しており、奈良文化財研究所はこの年が飛鳥浄御原令頒布年にあたることを指摘しています。ただし、その年紀が何を意味するかは不詳とされています。

高市皇子

高市皇子は天武天皇の皇子で、壬申の乱でも大海人側の軍事指揮に関わったとされる重要な王族です。

持統朝では太政大臣級の政治的地位を持ち、690年には藤原宮予定地を視察したと橿原市の年表に記されています。

草壁皇子死後の王族政治を支える中心人物の一人でした。

696年 高市皇子の死

696年、高市皇子が死去しました。

橿原市の藤原宮関係年表も持統10年の出来事として高市皇子の死を記しています。

草壁皇子に続き、有力な天武系皇子を失ったことで、次世代の軽皇子を王位へ進める政治環境がさらに強まります。

軽皇子

軽皇子は草壁皇子と阿閉皇女、後の元明天皇の子です。後の文武天皇となります。

つまり天武・持統の孫にあたり、草壁を経由して天武系王統を次世代へ継承する人物でした。

父・草壁は即位前に死去したため、持統政権は祖母から孫へ王位をつなぐ形を作ることになります。

697年 軽皇子立太子

奈良県立万葉文化館の文武天皇解説によれば、697年2月に軽皇子が皇太子となりました。

王位継承者を明確にし、その後に持統が譲位するという手順は、壬申の乱や大津皇子事件のような継承争いを避ける政治的意味を持ちます。

王位継承を武力ではなく、現君主の意思と制度化された立太子・譲位によって実現しようとする変化です。

697年 持統天皇の譲位

697年8月、持統天皇は軽皇子へ譲位しました。奈良県の年表も697年を「持統天皇譲位、文武天皇即位」と整理しています。

持統自身が死去する前に後継者へ王位を渡したことは、継承の安定化という点で非常に重要でした。

古代王権では君主の死後に後継を決めることが争いの原因になってきました。生前譲位によって、前君主が生きたまま新君主の即位を支える仕組みが成立します。

文武天皇即位

軽皇子は文武天皇として即位しました。

奈良県立万葉文化館によれば、697年2月に立太子し、同年8月に即位しています。

文武朝では、持統朝までに整備された飛鳥浄御原令・戸籍・藤原京を基盤に、さらに本格的な法典編纂が進められます。

その成果が701年の大宝律令です。

譲位後も続く持統の政治的存在

持統は697年の譲位後も生存し、文武政権を支えました。

『続日本紀』では後に太上天皇として記され、702年まで政治・行幸に関わります。

したがって697年の譲位を「持統が引退して政治から消えた出来事」と考えるべきではありません。

生前譲位によって若い文武天皇を即位させつつ、経験を持つ前君主が政権を支える体制が形成されました。

律令国家はまだ完成していない

694年に藤原京が成立し、飛鳥浄御原令と庚寅年籍が運用されていたとしても、この時点で後世の律令国家制度がすべて完成したわけではありません。

地方行政ではなお「評」が用いられ、701年の大宝令施行後に「郡」へ改められます。大宝律令そのものもまだ存在しません。

国号「日本」、官制、律令用語、遣唐使外交なども7世紀末から8世紀初頭にさらに制度化されます。

持統朝は完成点ではなく、天武が設計した国家構想を実際に法・戸籍・都市として機能させ、文武朝の大宝律令へ接続した時代でした。

日本史の中でこの時代を見る意味

686~697年は、戦争や政変の派手さよりも、国家制度が日常的に「動き始める」ことに重要性があります。

第一に、王位継承の方法が変化しました。大津皇子事件や草壁皇子の死を経ながら、持統は自ら即位し、最後には生前に軽皇子へ譲位しました。壬申の乱のような武力継承ではなく、現君主が後継者を明確にして政権を移す方法が成立します。

第二に、天武朝で構想された法律が実際に施行されました。689年の飛鳥浄御原令は、国家を成文法によって運営する重要な段階です。法典の全文は失われていますが、690年の庚寅年籍と結びつくことで、法律が行政実務へ変換されていったことが分かります。

第三に、人民把握が制度化されました。戸籍は、人を氏族の一員としてだけでなく、国家が登録する行政上の人口として扱います。土地の班給、税、兵役、労働力動員を同じ台帳につなげることで、中央政府の支配はより具体的になります。

第四に、中央政府を収容する都市が誕生しました。藤原京では宮、官衙、宅地、寺院、市、道路が計画的に配置されます。飛鳥の複数施設を寄せ集めた政治空間から、政府の構造そのものを都市として設計する段階へ進みました。

第五に、この国家形成は列島全体の資源を必要としました。全国から役民を動員し、近江から木材を運び、遠隔地で瓦を焼かせる藤原宮造営は、中央政府が地域社会へ及ぼす動員力の拡大を具体的に示します。

そして持統朝の最後に、政治は次世代へ引き渡されます。697年に文武天皇が即位すると、飛鳥浄御原令を基礎に新たな律令編纂が進み、701年に大宝律令が完成します。藤原京という首都と、全国戸籍を持つ政府が、本格的な律令法典を得ることで、日本古代国家は次の段階へ入ります。

主な流れ

次の時代へ — 大宝律令と「日本」

697年、持統天皇は孫の軽皇子へ王位を譲り、文武天皇が即位しました。天武・持統二代で進められた国家形成は、藤原京という首都、飛鳥浄御原令、庚寅年籍という具体的な制度として次世代へ引き渡されます。

しかし、飛鳥浄御原令は最終的な律令法典ではありませんでした。文武朝では刑部親王、藤原不比等らを中心に新たな法典編纂が進められ、701年に大宝律令が完成します。中央官制、地方行政、位階、戸籍、税制などがより体系的に整理され、702年には新しい律令を携えた遣唐使が派遣されます。

この頃、中国側の史料では倭に代わって「日本」という国号が明確に現れるようになります。君主号、国号、法典、都城、外交文書が同じ国家体系の中へ揃い始めます。

次の記事では、697–710年|大宝律令と律令国家 — 文武朝、「日本」国号、遣唐使、平城遷都へとして、大宝律令編纂、藤原不比等、702年遣唐使、国号「日本」、文武天皇の死、元明天皇即位、和同開珎、平城京造営、710年遷都までを扱います。

参考資料・出典

本ページは、奈良県、奈良県立万葉文化館、奈良文化財研究所、橿原市、国立国会図書館等の公開資料を参照してART LIBRARYが独自に構成・執筆しています。686年の大津皇子事件については、持統が草壁皇子のために大津を排除したとする説を確定事実とはしていません。飛鳥浄御原令は法典本文が現存せず、奈良文化財研究所の地方行政研究を踏まえて、689年に「令」が施行されたことを中心に記述しました。庚寅年籍についても現物が残らないため、全国すべてで同一形式の登録が完全に実施されたとは断定していません。藤原京については、古い復元案より広い範囲で条坊道路が発見された現在の発掘成果を採用し、中国都城の影響を認めつつ長安の単純な複製とはしていません。