672–686年
壬申の乱と天武朝
王権再編、飛鳥浄御原宮、律令国家への加速
672年、天智天皇の死後、王位継承をめぐる対立が大規模な内戦へ発展しました。大海人皇子と、大友皇子を中心とする近江朝廷が争った壬申の乱です。奈良県立万葉文化館は、この戦争を大海人皇子と太政大臣として近江大津宮の朝廷を主宰していた大友皇子との争いと説明しています。
大海人皇子は吉野を出て、伊賀・伊勢から美濃へ進みました。美濃の不破道や鈴鹿方面の交通路を押さえ、東国の兵力を集めたことが大きな勝因となります。一方、近江朝廷側は西国で十分な軍事動員に成功せず、大和・近江で相次いで敗れました。7月には瀬田橋付近での戦闘を経て近江朝廷が崩壊し、大友皇子は自害したと『日本書紀』は伝えます。
勝利した大海人皇子は飛鳥へ戻り、673年に飛鳥浄御原宮で即位して天武天皇となりました。壬申の乱の最大の政治的意味は、単に君主が交替したことではありません。近江朝廷側の有力者が後退し、戦争を自らの軍事力と人的結びつきによって勝ち抜いた天武のもとに、従来より強い政治的主導権が集中したことです。
天武朝では、豪族が個別に保有してきた人々や土地への支配を再編し、皇族を政治中枢へ配置し、氏族秩序・位階・法制度を改める政策が相次ぎました。681年には律令を定め法式を改める詔が出され、同年には帝紀と上古の諸事を記録する事業も始まったと『日本書紀』は記します。684年には八色の姓によって氏族秩序が再編され、685年には新しい位階制度が整えられました。
同時に、天武朝の国家形成は「完全な中央集権国家が完成した」という意味ではありません。地方支配、戸籍、税制、法典、都城はなお形成途上でした。681年に編纂が命じられた律令は、天武の生前には完成せず、持統朝の689年に飛鳥浄御原令として施行されます。天武朝は律令国家の完成ではなく、その制度設計を本格的に加速させた時代と位置づける方が適切です。
CONTENTS
- 672年 壬申の乱
- 天智死後の王位継承
- 大友皇子
- 大海人皇子
- 吉野からの挙兵
- 伊賀・伊勢を抜ける
- 鈴鹿の交通路を押さえる
- 不破道と東国の兵力
- 地方豪族が戦争を左右する
- 大和での戦闘
- 近江での戦闘
- 瀬田橋の決戦
- 大友皇子の死
- 壬申の乱の史料をどう読むか
- 列島規模の内戦
- 勝者が得た政治的主導権
- 政治中心を飛鳥へ戻す
- 飛鳥浄御原宮
- 673年 天武天皇即位
- 「天皇」号をどう考えるか
- 「日本」国号をどう考えるか
- いわゆる皇親政治
- 大臣を置かない政治
- 皇子たちを政治へ組み込む
- 675年 私有民・私有地の再編
- 氏族の支配を国家へ組み替える
- 地方支配はまだ在地勢力に依存する
- 唐・新羅戦争後の東アジア
- 新羅との外交
- 唐との距離
- 南島への使者と王権の視野
- 北方集団との関係
- 679年 吉野の盟約
- 草壁皇子
- 鸕野讃良皇女
- 皇子間の秩序を作る
- 680年 薬師寺建立の発願
- 王権と仏教
- 681年 律令編纂の開始
- 飛鳥浄御原令はまだ完成していない
- 681年 国史編纂の開始
- 歴史を書くことと統治
- 飛鳥池工房
- 国家的な総合工房
- 683年 銅銭使用の詔
- 富本銭
- 貨幣経済が完成したわけではない
- 684年 八色の姓
- 氏族秩序を再編する
- 渡来系氏族と忌寸
- 685年 新しい位階
- 官人制への移行
- 都城構想
- 藤原京への前段階
- 686年 朱鳥改元
- 天武天皇の病
- 686年 天武天皇の死
- 殯と政治
- 大津皇子事件
- 持統称制へ
- 日本史の中でこの時代を見る意味
- 主な流れ
- 次の時代へ — 持統朝と律令国家
- 参考資料・出典
672年 壬申の乱
672年に起きた壬申の乱は、日本古代史上最大級の内戦です。奈良県は、現在の奈良県、三重県、岐阜県、滋賀県など広い地域を舞台に、大海人皇子と大友皇子の勢力が戦ったと説明しています。
戦争の直接的な争点は、天智天皇の後継者でした。しかし、単なる親族間の私的争いではありません。近江朝廷、東国・西国の地域勢力、大和の有力氏族、交通路と関所が動員され、王権を誰が掌握するかをめぐる列島規模の政治戦争となりました。
天智死後の王位継承
7世紀後半にも、後世のような固定した皇位継承法はありませんでした。天智天皇の同母弟である大海人皇子と、天智の子で近江朝廷の政治中枢にいた大友皇子の双方が、強い政治的立場を持ちました。
671年、大友皇子は太政大臣となり、大海人皇子は近江を離れて吉野へ退きました。『日本書紀』は天智と大海人の病床での会話を詳細に記しますが、その会話を同時代の逐語記録とみなすことはできません。
確実なのは、天智死後に継承秩序が安定せず、半年ほどのうちに武力衝突へ至ったことです。
大友皇子
大友皇子は天智天皇の子です。671年に太政大臣となり、天智死後の近江大津宮を中心とする朝廷を主宰したと奈良県立万葉文化館は説明しています。
後世には弘文天皇として歴代天皇に数えられますが、672年の戦争前に正式な即位が行われていたかについては古代史上の論点があります。
そのため本記事では、壬申の乱の当事者を説明するときは原則として「大友皇子」と表記します。
大海人皇子
大海人皇子は天智天皇の同母弟で、斉明朝・天智朝を通じて王権中枢にいた王族です。百済救援の西征にも参加し、天智朝では皇太子級の位置を占めたと『日本書紀』は伝えます。
671年に吉野へ退いた後も、大海人皇子には王族・舎人・地域豪族との人的ネットワークが残っていました。
壬申の乱では、この既存の個人的・地域的な結びつきを短期間で軍事動員へ転換できたことが勝敗を大きく左右します。
吉野からの挙兵
672年6月、大海人皇子は吉野を出て挙兵します。奈良県立万葉文化館によれば、吉野から伊賀・伊勢を経て美濃へ入り、東国での兵力動員に成功しました。
吉野宮は王権から完全に隔絶した山中ではありません。大和から伊勢・東国へ通じる交通路に接続できる位置にありました。
大海人皇子は近江へ直接向かわず、まず東方の交通路と兵力を確保する戦略を取りました。
伊賀・伊勢を抜ける
三重県の県史資料は、大海人皇子一行が6月24日に吉野を出て、大和の宇陀から伊賀へ入り、名張・伊賀を経て伊勢方面へ進んだ経路を『日本書紀』に沿って整理しています。
当初はごく少数の同行者でしたが、伊賀・伊勢の地域首長層が加わるにつれて軍勢が増えました。
この過程から、中央王族が単独で軍隊を所有していたのではなく、地方行政を担う首長や旧来の人的関係を通じて軍事力を集めていたことが分かります。
鈴鹿の交通路を押さえる
亀山市の資料によれば、『日本書紀』に「鈴鹿関司」が登場するのは壬申の乱の記事が最初です。
大海人側は鈴鹿方面の山道に兵を配置し、近江朝廷側から東国への移動や追撃を制限しました。
この戦争の経験は、後の鈴鹿・不破・愛発の三関の制度化にも大きく関係したと考えられています。王権にとって交通路の支配は、軍隊そのものと同じほど重要でした。
不破道と東国の兵力
大海人皇子側は、美濃の不破方面を早い段階で押さえました。奈良県は、大海人側が東国から近江朝廷への増援を防ぐため、不破関周辺の交通路を確保したと説明しています。
美濃・尾張など東国の兵力を動員できたことは壬申の乱の決定的要因の一つでした。
東国は中央から遠い「周辺」ではなく、王位を左右する軍事力と資源を持つ地域だったことが明確になります。
地方豪族が戦争を左右する
壬申の乱で大海人皇子が勝利できたのは、本人の軍事的能力だけではありません。
伊賀・伊勢・美濃などの地方首長、舎人、旧来の従者が大海人側に加わり、兵士・馬・食料・交通情報を提供しました。
一方、近江朝廷側は西国へ軍事動員を命じたものの、十分な兵力を集められなかったと奈良県立万葉文化館は説明しています。
7世紀後半になっても、中央政府の命令だけで全国の軍隊が自動的に動く制度は完成していませんでした。
大和での戦闘
大和では大伴吹負らが大海人皇子側として挙兵し、飛鳥古京をめぐって戦闘が行われました。
奈良県は、飛鳥が近江遷都後も重要な旧政治拠点であり、壬申の乱でも両陣営がその支配を争ったと説明しています。
近江に王宮が移っていても、飛鳥には宮殿・寺院・氏族拠点・行政機能が残っていました。飛鳥の確保は政治的にも象徴的にも重要でした。
近江での戦闘
大海人側は東国で集めた軍を近江へ進め、近江朝廷軍と複数地点で戦いました。
戦闘は一度の決戦ではなく、街道や河川、峠をめぐる連続した軍事行動でした。
壬申の乱は現代的な常備軍同士の戦争ではなく、地域ごとに集められた軍勢を複数方面へ展開する戦争でした。そのため交通拠点を先に押さえた側が有利になります。
瀬田橋の決戦
奈良県の壬申の乱解説では、7月22日に瀬田橋付近で近江朝廷軍との大きな戦闘が行われ、大海人側が突破したとされています。
瀬田川は近江大津宮へ接近する重要な地形障壁です。ここを突破されたことで近江側の防衛は崩れました。
翌日、大友皇子は自害したと『日本書紀』は記します。
大友皇子の死
大友皇子の死によって、近江朝廷側の組織的抵抗は終わりました。
戦争後、近江朝廷の有力者の一部は処罰されましたが、すべての旧官人が排除されたわけではありません。新政権には旧天智朝から引き継がれた行政経験・人材も必要でした。
壬申の乱後の政治は、旧体制の完全破壊ではなく、勝者が既存の制度・人材を再編成する過程でもありました。
壬申の乱の史料をどう読むか
壬申の乱の詳細な経過を伝える中心史料は『日本書紀』です。しかも『日本書紀』は天武天皇の命によって始まったとされる国史編纂事業の延長上で、720年に完成しました。
そのため、戦争の勝者である天武側の正統性を強く意識した叙述になっている可能性を考える必要があります。
移動経路や戦闘地を考える際には、『日本書紀』だけでなく、吉野宮跡候補、古代交通路、鈴鹿・不破周辺の遺跡などを組み合わせて検討する必要があります。
列島規模の内戦
壬申の乱は1か月ほどで決着しましたが、その地理的範囲は広大でした。
吉野、大和、伊賀、伊勢、美濃、尾張、近江など複数地域が軍事動員・交通封鎖・戦闘に関与しました。
白村江後に整えられつつあった交通路・地方行政・軍事動員の仕組みが、今度は国内の王位争いで利用されたとも言えます。
国家形成が進むほど、王位継承争いも宮廷内部だけで完結せず、列島規模の戦争になり得ることを示した事件でした。
勝者が得た政治的主導権
壬申の乱以前の王権では、大王と有力氏族の合意・競争が政治を大きく左右してきました。
天武は内戦に自ら勝利したため、特定の大氏族に擁立された君主とは異なる政治的立場を得ました。
奈良県は、壬申の乱後に近江朝廷側の有力豪族が後退し、大海人皇子へ強い政治力が集中したと説明しています。
これが天武朝の氏族秩序再編、官位改革、律令編纂を進める条件になりました。
政治中心を飛鳥へ戻す
戦争後、大海人皇子は近江大津宮をそのまま新政権の宮にはしませんでした。飛鳥へ戻ります。
奈良県立万葉文化館によれば、672年9月には岡本宮へ移り、翌673年に飛鳥浄御原宮で即位しました。
飛鳥は蘇我氏以来の政治・宗教拠点であり、寺院・工房・宮殿施設が蓄積していました。新しい国家制度を作る際にも、この既存の政治基盤を利用することが合理的でした。
飛鳥浄御原宮
明日香村の発掘調査によれば、飛鳥宮跡のⅢ-B期遺構が天武・持統朝の飛鳥浄御原宮に相当すると考えられています。
これは斉明・天智朝の後飛鳥岡本宮にあたるⅢ-A期の宮殿を改造・拡張したものです。
奈良文化財研究所も、飛鳥浄御原宮が後飛鳥岡本宮を整備・拡張した宮殿と考えられると説明しています。
天武政権は新しい場所にゼロから宮を作るのではなく、飛鳥に蓄積された王権施設を再編して新政権の中枢にしました。
673年 天武天皇即位
673年、大海人皇子は飛鳥浄御原宮で即位し、天武天皇となりました。
鸕野讃良皇女、後の持統天皇が皇后となり、天武朝の政治を支えます。
天武朝は686年まで続きますが、その政策の多くは天武一代で完結しません。律令、都城、戸籍、国史編纂などは皇后であった持統が継承し、7世紀末から8世紀初頭にかけて制度化されます。
「天皇」号をどう考えるか
天武朝は、「天皇」という君主号の成立を考える上でも重要です。
奈良文化財研究所の飛鳥池遺跡からは「天皇」と読める文字を持つ7世紀後半の木簡が出土しています。研究所は、これが君主号であれば天武天皇を指す可能性があり、天皇号が遅くとも天武朝に存在していたことを示す資料として重要だと説明しています。
ただし、その木簡の「天皇」が本当に君主号なのかについては解釈上の留保も示されています。また天皇号の成立時期そのものにも研究上の議論があります。
本記事では「天武天皇」という一般名称を使用しますが、「天武がある日突然天皇号を初めて発明した」と断定しません。
「日本」国号をどう考えるか
「倭」から「日本」へ国号が変化する時期についても、天武・持統朝は重要な研究対象です。
国立国会図書館には「『日本』国号と天武天皇」をはじめ、国号成立を天武・持統期の国家形成と関連づけて論じる研究が収録されています。
一方、国号変更の正確な年を天武朝の特定年に固定することには議論があります。
そのため本シリーズでは、天武朝を「日本という国号が制度化されていく重要な時期」として扱いますが、672年や673年を日本国誕生の確定年とはしません。
いわゆる皇親政治
天武朝は一般に「皇親政治」と呼ばれます。奈良県の解説も、天武が大臣を置かず、皇族を中心に政治を行ったとしています。
これは臣下の氏族を政治から排除したという意味ではありません。大伴氏、忌部氏、各地の氏族など多くの臣下が行政・軍事を担いました。
重要なのは、最高政治層に皇子・諸王を積極的に配置し、有力氏族一門が大臣として王権を左右する従来の構造を弱めた点です。
大臣を置かない政治
蘇我馬子・蝦夷、阿倍内麻呂、蘇我倉山田石川麻呂など、それ以前の王権では大臣級の有力氏族が大きな政治権限を持っていました。
天武朝では、そのような一人の大臣を頂点とする構造を採らず、皇族と複数官人を天皇の下に配置しました。
壬申の乱で氏族政治の再編に成功した天武だからこそ可能になった政治形態と考えられます。
ただし、後の太政官制がこの時点ですでに完成していたわけではありません。
皇子たちを政治へ組み込む
天武には草壁皇子、大津皇子、高市皇子、忍壁皇子など多くの皇子がいました。また天智天皇の皇子である川島皇子・志貴皇子なども王族政治に参加します。
天武は血縁の異なる複数の皇子を政治秩序に組み込み、王族全体を政権の基盤としました。
一方で、皇子が多いことは将来の王位継承争いの危険も意味します。679年の吉野の盟約は、この問題への対応として重要になります。
675年 私有民・私有地の再編
奈良県の飛鳥時代年表は675年に「豪族の私有地、私有民などの廃止」を置いています。
『日本書紀』には、天智朝の甲子年に諸氏へ与えられた部曲などを廃止する命令が記されています。
これを「全国のすべての私有地が675年に完全消滅した」と理解することはできません。氏族・寺院・王族の経済基盤はその後も残ります。
重要なのは、氏族が人々を直接保有・支配する従来の仕組みを抑え、王権が土地・人民への支配権をより強く制度化しようとしたことです。
氏族の支配を国家へ組み替える
天武朝の中央集権化は、地方豪族や中央氏族を全員解体する政策ではありません。
王権が氏族を新しい姓・位階・官職へ配置し、彼らが持つ地域支配・専門技術を国家組織の中で利用する方向へ再編することが中心でした。
氏族の権力を「なくす」よりも、「王権が与える地位の中で位置づけ直す」ことが天武朝の特徴です。
地方支配はまだ在地勢力に依存する
中央で制度改革が進んでも、全国の村落を飛鳥の官人が直接統治できたわけではありません。
地方では旧来の首長層が評などの行政単位を担い、税・兵力・労働力の徴収に関わりました。
天武朝の国家形成は、中央政府が地方首長を排除する過程ではなく、彼らを行政官的な地位へ組み込む過程でもありました。
唐・新羅戦争後の東アジア
天武が即位した673年頃、朝鮮半島では唐と新羅が旧百済・高句麗領の支配をめぐって争っていました。
676年頃までに新羅は唐軍を半島の主要地域から後退させ、朝鮮半島南部から中部にかけて支配を広げます。
白村江直後に倭が最も恐れた唐・新羅の共同侵攻という構図は変化しました。
天武朝では大規模な遣唐使派遣が見られず、新羅との使節往来が外交の大きな比重を占めます。
新羅との外交
壬申の乱後、新羅使はたびたび倭へ来訪しました。
天武朝の外交は、白村江の敗戦直後の軍事的恐怖から、朝鮮半島情勢の変化を見ながら関係を再構築する段階へ移ります。
686年にも新羅使を筑紫で饗応したことが『日本書紀』系の記録に見えます。
外交使節の受け入れは、海外情報を得る手段であると同時に、王権が外国使節をどの位置に置くかを儀礼によって示す政治行為でもありました。
唐との距離
天武朝に唐との関係が完全に途絶えたわけではありませんが、遣唐使を積極的に繰り返した推古・舒明・孝徳朝とは異なる局面にあります。
唐は高句麗滅亡後、新羅との戦争や国内・周辺政治への対応を抱え、倭側も壬申の乱後の国内再編を優先しました。
「唐風制度を導入したから親唐」「遣唐使を送らないから反唐」という単純な分類はできません。天武政権は唐の制度を参照しながら、自国の政治秩序を組み直しました。
南島への使者と王権の視野
天武朝の史料には、多禰・掖玖・阿麻彌など南島地域と考えられる地名・人々との往来が現れます。
奈良文化財研究所系の鞠智城研究資料には、679年に多禰島へ使者を派遣し、681年には使者が多禰国の地図・情報を持ち帰ったという『日本書紀』記事が整理されています。
これらを近代的領土編入と同じ意味で理解するべきではありません。王権が南方の島々について情報を収集し、使節・貢納・饗宴を通じて関係を組織しようとした動きとして見る必要があります。
北方集団との関係
天武朝にも、史料上「蝦夷」「粛慎」と呼ばれる北方集団との関係が続きます。
682年には陸奥の蝦夷に爵位を与えた記事などがあり、中央王権は軍事だけでなく位階・贈与を通じて北方地域との関係を整理しようとしました。
ここでも「征服」だけではなく、外交、交易、服属儀礼、地域首長の取り込みが混在しています。
679年 吉野の盟約
679年、天武天皇と鸕野讃良皇女は、草壁皇子、大津皇子、高市皇子、川島皇子、忍壁皇子、志貴皇子の六皇子を伴って吉野へ赴きました。
奈良県立万葉文化館は、六皇子が異腹であっても同腹の兄弟のように天皇を支えることを誓い、天武と鸕野讃良が六人を一母同産のように慈しむと盟約したと説明しています。
壬申の乱が王位継承争いから始まった経験を持つ天武政権にとって、次世代皇族の秩序づくりは国家安定の中心課題でした。
草壁皇子
草壁皇子は天武天皇と鸕野讃良皇女の子です。
吉野の盟約では複数の皇子の中で重要な位置に置かれ、681年には皇太子となったと『日本書紀』は伝えます。
天武・持統政権が草壁を後継者の中心に置こうとしていたことは、その後の政治を理解する上で重要です。
鸕野讃良皇女
鸕野讃良皇女は天智天皇の娘であり、天武天皇の皇后です。後の持統天皇となります。
壬申の乱では大海人皇子とともに吉野を出ており、天武朝では皇后として王族秩序の中心に位置しました。
天武死後には即位前の称制によって政務を引き継ぎ、飛鳥浄御原令、戸籍、藤原京など天武の国家形成政策を継続します。
皇子間の秩序を作る
吉野の盟約は、単なる家族仲の確認ではありません。
王位継承候補になり得る複数皇子の間に序列と連帯を作り、壬申の乱のような内戦を繰り返さないための政治的意味を持ちました。
しかし、686年の天武死後には大津皇子が謀反の疑いで処刑されます。盟約が王位継承競争を完全に消滅させたわけではありませんでした。
680年 薬師寺建立の発願
奈良県の年表は680年に天武天皇が薬師寺建立を発願したと整理しています。
『日本書紀』では皇后の病気平癒を願って寺の建立を誓ったとされます。
現在の奈良市西ノ京の薬師寺は後に平城京へ移された寺院で、天武・持統朝に造られた最初の寺は橿原市の本薬師寺跡に比定されています。
天武朝でも仏教は国家・王家の祈願と密接に結びつきました。
王権と仏教
天武は神祇祭祀を重視した君主として語られることがありますが、仏教を排除したわけではありません。
寺院・僧尼に関する政策を行い、自ら薬師寺建立を発願しました。
古代王権では在来祭祀と仏教が排他的な二者択一ではなく、異なる目的に応じて並行して利用されました。国家鎮護、病気平癒、祖先・王権の正統性など、多様な政治・宗教実践が重なっていました。
681年 律令編纂の開始
681年、『日本書紀』は天武天皇と皇后が「律令を定め、法式を改める」ことを命じたと記します。
奈良県立万葉文化館の天武天皇解説も、天武10年に律令制定・法式改定の詔が出されたことを整理しています。
「律」は刑罰法、「令」は行政・身分・官制など国家運営の規則を中心とする法体系です。
天武朝は、個別の詔や慣行で動いていた政治を、より体系的な成文法によって運営する方向へ進めました。
飛鳥浄御原令はまだ完成していない
681年に編纂が始まった法体系を、完成した「飛鳥浄御原令」と同一視することには注意が必要です。
奈良県の年表では飛鳥浄御原令の施行は689年、持統称制期に置かれています。
つまり天武は法典編纂を開始しましたが、生前に全国的施行まで完了しませんでした。
天武・持統二代を通じて進められた国家事業として理解する必要があります。
681年 国史編纂の開始
同じ681年、『日本書紀』は川島皇子・忍壁皇子らに「帝紀及び上古の諸事」を記録・整理させたと記します。
奈良県も681年を「国史の編纂がはじまる」年として位置づけています。
この事業がそのまま現在の『日本書紀』になったわけではありませんが、8世紀の『古事記』『日本書紀』につながる国家的歴史編纂の重要な出発点でした。
歴史を書くことと統治
国史編纂は過去を記録する文化事業だけではありません。
誰が正統な君主か、各氏族はどの祖先から分かれ、王権とどのような関係を持つのかを整理することは、現在の政治秩序を正当化する行為でもあります。
684年の八色の姓が氏族を新しく序列化する制度であるなら、系譜・歴史編纂はその序列の根拠となる「過去」を整理する作業でもありました。
飛鳥池工房
天武・持統朝の国家形成を考える上で重要な考古遺跡が飛鳥池遺跡です。
奈良文化財研究所によれば、飛鳥池遺跡には7世紀後半を中心に、金・銀・銅・鉄、ガラス、水晶、琥珀、漆、瓦などを加工する大規模な工房群が存在しました。
飛鳥浄御原宮の近くに位置し、木簡には皇族名や物資供給に関する内容が記されることから、宮廷・寺院・国家需要に応える総合工房だったと考えられています。
国家的な総合工房
国家制度を作るには、法律や官職だけでは足りません。宮殿、寺院、武器、工具、装身具、儀礼具、文書用品など大量の物資が必要です。
飛鳥池工房では複数素材を扱う専門工人が集中して生産していました。
技術者を一か所へ集め、原料を供給し、完成品を宮廷・寺院へ配分する仕組みは、国家が生産組織を直接管理する段階へ進んだことを示します。
683年 銅銭使用の詔
『日本書紀』天武12年、683年の記事には、今後は銅銭を用い、銀銭を用いないよう命じた詔があります。
この記述は長く、具体的な銅銭が何だったのか不明でした。
しかし飛鳥池遺跡から富本銭の鋳型、未完成品、鋳造廃棄物が発見され、奈良文化財研究所は富本銭が683年の銅銭に対応する可能性が高いと説明しています。
富本銭
飛鳥池遺跡の発掘によって、富本銭は7世紀後半に列島内で鋳造されたことが確認されました。
奈良文化財研究所は、富本銭を現在確認されている日本最古の鋳造貨幣と位置づけています。
唐の開元通宝の規格を意識した円形方孔銭であり、東アジアの貨幣制度を王権が取り込もうとした試みとして重要です。
貨幣経済が完成したわけではない
富本銭が作られたからといって、683年に全国の日常取引が銭によって行われる貨幣経済になったわけではありません。
米・布など現物が交換・税・給与で重要な役割を持ち続けました。
富本銭の流通範囲や使用方法にも研究上の議論があります。
重要なのは、王権が重量銀だけではなく、自ら規格を定めた鋳造銭を生産・使用させようとする政策を始めた点です。後の和同開珎へつながる制度的実験でした。
684年 八色の姓
684年、天武天皇は八色の姓を定めました。
奈良県立万葉文化館によれば、真人、朝臣、宿禰、忌寸、道師、臣、連、稲置の八種です。
これは古い臣・連などの姓を単に増やしたものではなく、各氏族の系譜と王権との関係を基準に、氏族の身分秩序を再編する政策でした。
氏族秩序を再編する
古墳時代以来、姓は各氏族の政治的位置を示してきました。しかし長い歴史の中で、同じ「臣」「連」を持つ氏族でも実際の政治力には大きな差が生じていました。
八色の姓は、その古い秩序を王権側から組み直す試みでした。
奈良県立万葉文化館は、皇室との系譜的な親疎を基準として諸氏の身分秩序を再整理した制度と説明しています。
王権が氏族の由緒そのものを序列化する点で、非常に強い政治的介入でした。
渡来系氏族と忌寸
八色の姓では、渡来系氏族の多くに「忌寸」が与えられました。
渡来系氏族は外交文書、漢字、技術、医薬、工芸など国家形成に必要な専門知識を担っていました。
天武朝は彼らを外部者として排除するのではなく、姓による官人秩序の中へ明確に位置づけます。
古代国家形成は、在来氏族だけで完結した過程ではありませんでした。
685年 新しい位階
奈良県の年表は685年に新しい位階が定められたとしています。
天武朝では、皇族と臣下それぞれの位階をより細かく整理する制度改革が進みました。
位階は個人の官人としての位置を示し、姓は氏族集団の出自・身分を示します。
八色の姓と位階制度を組み合わせることで、王権は「どの氏族に属するか」と「国家官人としてどの順位にいるか」という二つの軸で政治社会を整理しようとしました。
官人制への移行
氏族社会では、役割は血縁集団単位で継承される傾向が強くありました。
律令国家では、氏族的地位を背景にしつつも、官職・位階によって個人を行政組織へ配置します。
天武朝の改革は氏族制から官僚制へ一気に切り替えたものではありません。氏族制度を残しながら、その上に官位・官職という国家制度を重ねる過程でした。
都城構想
天武朝には、飛鳥の宮だけではなく、より大規模で恒常的な都城を造ろうとする動きも進みます。
684年には畿内で都を造る土地を視察させた記事があり、679年には難波に羅城を築く記事もあります。
飛鳥は地形的に狭く、宮・寺院・官衙・工房が複雑に密集していました。発達する官僚機構を収容するには、より計画的な都市が必要になっていきます。
藤原京への前段階
天武天皇の死後、持統天皇は藤原京建設を本格化し、694年に遷都します。
奈良県は、藤原京を天武が新しい国づくりを目的に構想し、持統が造営を推進した都として説明しています。
したがって藤原京を持統朝だけの事業と見るより、天武・持統二代にわたる国家制度・都城整備の一部として理解する必要があります。
686年 朱鳥改元
686年、天武朝では「朱鳥」の年号が用いられます。
『日本書紀』には天武15年7月に改元したと記されます。
大化・白雉以来途絶えていた年号が再び用いられたことになり、王権が時間を政治的に区分する制度を改めて示したものと考えられます。
ただし7世紀の年号制度を8世紀以後の継続的な公年号制度と完全に同じものとみなすことには注意が必要です。
天武天皇の病
686年、天武天皇は病に倒れます。
皇后・皇子・官人・僧尼が病気平癒のためさまざまな祈願を行ったことが『日本書紀』に記されています。
天武の病は、単なる個人の健康問題ではありません。君主へ政治権限が強く集中していた政権だからこそ、その死後に誰が政治を継承するかが重大な国家問題となりました。
686年 天武天皇の死
686年9月、天武天皇が死去しました。
奈良県の年表も686年を天武天皇死去、皇后による称制開始の年として整理しています。
天武の死によって、壬申の乱以来約14年間続いた政権は大きな転換を迎えます。
しかし国家形成政策は中断されません。鸕野讃良皇女が政務を引き継ぎ、天武が始めた律令・戸籍・都城・王位継承政策を継続します。
殯と政治
天武の死後、長期間にわたる殯の儀礼が行われました。
殯は遺体を最終埋葬するまで安置し、皇族・氏族が死者を悼み、その功績や系譜を語る政治的葬送儀礼でもありました。
古墳時代以来の王の葬送文化が、仏教・新しい官人秩序と共存しながら続いていたことが分かります。
大津皇子事件
天武死後まもなく、大津皇子が謀反を企てたとして逮捕され、死を命じられました。
奈良県立万葉文化館は、大津皇子が天武と大田皇女の子であり、686年に謀反の疑いで処刑されたと説明しています。
鸕野讃良皇女が実子・草壁皇子の即位を確実にするため大津を排除したとする説がありますが、事件の動機を直接証明する同時代資料はありません。
重要なのは、679年に皇子間の盟約を結んでいても、天武死後の継承問題がなお深刻だったことです。
持統称制へ
天武死後、鸕野讃良皇女はすぐに天皇として即位せず、称制によって政務を執りました。
草壁皇子が後継者として期待されていましたが、689年に草壁が死去します。そのため690年、鸕野讃良自身が持統天皇として即位します。
天武朝で始まった律令編纂は689年の飛鳥浄御原令施行へ、戸籍制度は690年の庚寅年籍へ、都城構想は694年の藤原京遷都へつながります。
天武と持統の時代は、別々の二政権というより、壬申の乱後に始まった国家再編を二代にわたって進めた連続した時期として見ることができます。
日本史の中でこの時代を見る意味
672~686年は、日本古代国家の形成過程で大きな転換となる時代です。
第一に、壬申の乱によって王位をめぐる政治構造が再編されました。大海人皇子は有力氏族に擁立されて即位したのではなく、自ら軍を動員して内戦に勝利しました。その結果、従来より強い政治的主導権を持つ君主が成立します。
第二に、氏族秩序が国家制度へ組み替えられました。675年の部曲などの再編、684年の八色の姓、685年の位階再編は、氏族を排除する政策ではなく、王権が氏族の地位を決め直し、官人秩序へ組み込む政策でした。
第三に、法と歴史が国家事業になりました。681年には律令の編纂と帝紀・上古諸事の記録が並行して始まります。法律によって現在の社会を整理し、歴史によって王統と氏族の過去を整理する二つの事業が同時に進みました。
第四に、生産・貨幣・技術の中央集積が進みました。飛鳥池工房では金属・ガラス・漆など多様な物品が生産され、富本銭も鋳造されました。国家は人と土地だけでなく、技術者と生産物を組織する存在へ変わり始めます。
第五に、王位継承を制度化しようとする努力と、その限界が同時に見えます。679年の吉野の盟約は皇子間の秩序を作ろうとする試みでしたが、天武死後には大津皇子事件が起こりました。強い中央国家を作っても、君主の継承はなお政治最大の不安定要因でした。
そして天武朝の最大の特徴は、多くの制度が「始まったが完成しなかった」ことです。律令、国史、都城、戸籍、官人制度は、持統朝以後に完成へ向かいます。天武朝を完成した律令国家とするより、壬申の乱で得た政治力を使い、後の国家制度の設計図を一気に作り始めた時代として見ることで、その歴史的位置が明確になります。
主な流れ
- 672年6月 — 大海人皇子が吉野を出て挙兵。壬申の乱が始まる。
- 672年6月 — 大海人皇子が伊賀・伊勢を経て美濃方面へ進み、鈴鹿・不破方面の交通路を確保する。
- 672年 — 東国の軍事動員に成功し、大海人側が近江・大和へ軍を展開する。
- 672年7月 — 瀬田橋付近の戦闘などを経て近江朝廷軍が敗北する。
- 672年7月 — 大友皇子が自害したと『日本書紀』は記し、壬申の乱が終結する。
- 672年9月 — 大海人皇子が飛鳥の岡本宮方面へ移る。
- 673年 — 大海人皇子が飛鳥浄御原宮で即位し、天武天皇となる。
- 673年 — 鸕野讃良皇女が皇后となる。
- 675年 — 『日本書紀』に諸氏の部曲などを廃止する政策が記される。
- 676年頃 — 唐・新羅戦争の進展により、朝鮮半島の国際関係が白村江直後とは大きく変化する。
- 677年 — 小野毛人墓誌の紀年にあたる年。後世追納の墓誌には天武を「飛鳥浄御原宮治天下天皇」と記す。
- 679年 — 天武・鸕野讃良と六皇子が吉野で盟約する。
- 679年 — 南島方面への使者派遣が史料に記される。
- 680年 — 天武天皇が薬師寺建立を発願したとされる。
- 681年 — 律令を定め法式を改める詔が出される。
- 681年 — 草壁皇子が皇太子となったとされる。
- 681年 — 帝紀・上古の諸事を記録・整理する国史編纂事業が始まる。
- 681年 — 多禰方面へ派遣された使者が地域情報を持ち帰ったと史料に記される。
- 682年 — 陸奥の蝦夷への爵位授与など、北方集団を王権秩序へ位置づける記事が見える。
- 683年 — 銅銭を用い、銀銭を用いないよう命じた詔が『日本書紀』に記される。
- 683年頃 — 飛鳥池工房で富本銭が鋳造されていたことが発掘資料から確認される。
- 684年 — 八色の姓を制定し、氏族秩序を再編する。
- 684年 — 新たな都城候補地の調査を命じる記事が見える。
- 685年 — 皇族・臣下の新しい位階制度を定める。
- 686年7月 — 「朱鳥」へ改元したと『日本書紀』は記す。
- 686年9月 — 天武天皇が死去する。
- 686年 — 鸕野讃良皇女が即位せずに称制し、政務を引き継ぐ。
- 686年10月 — 大津皇子が謀反の疑いで処刑される。
- 689年 — 次の時代、飛鳥浄御原令が施行される。
次の時代へ — 持統朝と律令国家
天武天皇は686年に死去しましたが、天武朝で始められた国家制度の多くは未完成でした。
皇后の鸕野讃良皇女は称制によって政治を引き継ぎ、689年に飛鳥浄御原令を施行します。同年には後継者と期待された草壁皇子が死去し、690年に自身が持統天皇として即位しました。
持統朝では庚寅年籍、班田、官人制度、地方行政がさらに整えられ、694年には藤原京へ遷都します。飛鳥の谷間に宮殿を重ねてきた政治から、条坊を持つ大規模な計画都市を国家の中心とする政治へ移ります。
次の記事では、686–697年|持統朝と律令国家の形成 — 飛鳥浄御原令、庚寅年籍、藤原京として、天武死後の称制、大津皇子事件、草壁皇子の死、持統即位、689年の飛鳥浄御原令、690年の庚寅年籍、藤原京造営、694年遷都、697年の文武天皇への譲位までを扱います。
参考資料・出典
本ページは、奈良県、奈良県立万葉文化館、明日香村、奈良文化財研究所・飛鳥資料館、三重県、亀山市、国立国会図書館等の公開資料を参照してART LIBRARYが独自に構成・執筆しています。壬申の乱の詳細な戦闘経過は主として720年成立の『日本書紀』に依存するため、勝者である天武側の国家史であることを踏まえて記述しました。天武朝については「律令国家が完成した」とせず、681年に編纂が始まり689年に飛鳥浄御原令が施行されるまでの連続した制度形成として扱っています。「天皇」号と「日本」国号の成立時期には研究上の議論があるため、天武朝との強い関連を示しつつ特定年の成立を断定していません。683年の銅銭については飛鳥池遺跡出土の富本銭との対応可能性を奈良文化財研究所の研究に基づいて記述し、全国的貨幣経済が同時に成立したとはしていません。
- 奈良県立万葉文化館 — 壬申の乱
- 奈良県 — 深掘り!歴史文化資源「壬申の乱」
- 三重県 — 壬申の乱と古代の伊賀・伊勢
- 亀山市 — 関宿の歴史と文化・鈴鹿関と壬申の乱
- 奈良県立万葉文化館 — 天武天皇
- 奈良県立万葉文化館 — 飛鳥浄御原宮
- 明日香村 — 飛鳥宮跡保存活用構想検討報告書
- 奈良県 — 飛鳥時代年表(672–686年)
- 奈良県立万葉文化館 — 吉野の盟約
- 奈良県立万葉文化館 — 八色の姓
- 奈良文化財研究所 — 天武・持統朝の世界
- 奈良文化財研究所 — 飛鳥池遺跡出土品・国家的工房
- 奈良文化財研究所 — 飛鳥池工房と富本銭
- 奈良文化財研究所 木簡庫 — 「天皇」木簡
- 奈良県立万葉文化館 — 大津皇子の謀反
- 奈良県 — 天武・持統と藤原京
- 国立国会図書館 — 寺西貞弘『天武天皇』
- 国立国会図書館 — 「『日本』国号と天武天皇」
- 国立国会図書館 — 冨谷至『日本国号と天皇号の誕生と展開』
資料確認日:2026年10月2日 / ART LIBRARY