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710–724年

平城京と奈良時代の始まり

元明・元正朝、古事記、日本書紀、地方支配

710年、元明天皇は藤原京から平城京へ遷都しました。奈良文化財研究所は、平城京が710年から784年まで74年間にわたり首都として機能したと説明しています。藤原京で形成された条坊都市、官僚制、木簡行政、寺院、工人集団は新都へ引き継がれましたが、平城京はさらに大規模な宮都として再編されました。

新しい首都の成立によって律令国家は完成したわけではありません。むしろ710年代から720年代前半は、大宝律令を実際の全国行政へ適用し、その制度を調整する時代でした。中央では官司が文書を大量に作成し、地方では国司・郡司を通じて戸籍・税・労役・軍事を管理します。一方、南九州では隼人と呼ばれた人々が国家支配へ抵抗し、東北でも「蝦夷」と記された地域集団との軍事・交渉が続きました。

同時に、国家は自らの過去と列島各地の情報を文章にまとめ始めます。712年には太安万侶が『古事記』を元明天皇へ献上し、713年には諸国に地名・産物・土地の状態・古老の伝承などを記録する風土記の撰進が命じられました。720年には舎人親王らが編纂した『日本書紀』が完成します。律令国家とは、土地と人民を支配するだけでなく、「この国はどのような過去を持ち、各地域はどのような場所なのか」を中央の文字によって整理する国家でもありました。

715年には元明天皇が娘の氷高内親王へ譲位し、元正天皇が即位します。同年頃には従来の「里」をさらに細分する郷里制が導入されました。717年には平城遷都後初の遣唐使が出発し、吉備真備、阿倍仲麻呂、玄昉らが唐へ渡ります。718年には藤原不比等らによって養老律令が撰定されましたが、この法典が実際に施行されるのは757年であり、元正朝の政治は引き続き大宝律令を基礎として行われました。

723年には、開墾を促進するため三世一身法が出されます。これは班田収授と公地的土地支配を維持しながら、灌漑施設を新設して開墾した土地について一定期間の私的占有を認める政策でした。人口増加や耕地不足に対応しようとする律令国家の政策調整が始まっています。724年、元正天皇が譲位し、首皇子が聖武天皇として即位しました。次の時代には、律令国家の拡大と矛盾がさらに大きく表面化します。

710年 平城遷都

710年、元明天皇は藤原京から平城京へ遷都しました。奈良文化財研究所は、平城京が710年から784年まで74年間にわたり日本の首都として機能したと説明しています。

新しい都へ移ったからといって、藤原京の制度・人材・文化が切断されたわけではありません。2026年の奈良文化財研究所特別展も、平城京が大陸由来の新しい知識・技術を取り込みながら、飛鳥・藤原の宮都で育まれた文化と伝統を基盤として受け継いだことを強調しています。

平城京のかたち

奈良文化財研究所によれば、平城京の主要な京域は東西約4.2キロメートル、南北約4.8キロメートルの碁盤目状街区で構成され、その東側に外京が張り出します。

都の北端中央には平城宮が置かれ、南へ朱雀大路が延びました。藤原京では宮が京のほぼ中央に置かれましたが、平城京では宮を北側へ置く構成へ変化しています。

唐の都城制度から影響を受けながらも、日本側の地形・道路・政治条件に合わせた都市でした。

朱雀大路と左京・右京

奈良市の発掘調査資料によれば、平城京は中央を南北に走る朱雀大路によって東の左京と西の右京に分けられました。

その内側を条坊道路が碁盤目状に区切り、道路を基準に住所、宅地、官司、寺院、市などを配置しました。

道路は交通だけでなく、土地を測り、行政区画を設定し、人々を都市空間へ配置する基準でした。

外京

平城京の東側には「外京」と呼ばれる張り出し部分がありました。

奈良文化財研究所は、外京を東西約1.5キロメートル、南北約2.4キロメートルの範囲として紹介しています。

平城京を単純な左右対称の長方形都市と考えると、実際の都市構造を見誤ります。既存地形や寺院、交通条件を取り込みながら都市が形成されました。

平城宮

平城宮には天皇の住居である内裏、国家儀式を行う大極殿院、朝政を行う朝堂院、各種官司、庭園などが置かれました。

宮は王の邸宅であると同時に、中央政府そのものを収容する巨大行政施設です。

発掘調査によって朱雀門、大極殿、東院庭園、官衙地区などが確認され、律令国家がどのような空間で日常的に運営されたのかが明らかになっています。

大極殿と朝堂院

大極殿は即位・朝賀など国家的儀礼で天皇が出御する象徴的な建物でした。

朝堂院では多数の官人が位階に応じて整列し、儀礼・政務に参加します。

律令国家は官人を文書上の位階によって分類するだけでなく、宮廷空間の中でも序列に従って配置しました。政治秩序が建築と儀礼によって目に見える形になっていました。

政府を収容する都市

平城京では、中央政府の官人、その家族、寺院関係者、工人、商人、労働者など多様な人々が生活しました。

地方からは税として布、米、地域産物などが運び込まれ、行政文書も集まります。

平城京は政治都市であると同時に、列島各地から人・物・情報を吸い上げる巨大な消費都市でした。

藤原京から受け継いだもの

藤原京から平城京への遷都では、制度だけでなく資材や人材も移動しました。

奈良文化財研究所は、平城宮・京から飛鳥・藤原地域の宮殿・寺院と関係する瓦や土器が出土し、両地域の連続性を確認できると説明しています。

平城京は新国家のゼロからの出発ではなく、飛鳥・藤原時代に形成した国家装置の移設・拡張でした。

首都へ集まる人と物

律令国家の首都を維持するには大量の食料・燃料・建築資材・衣料などが必要でした。

各地の調・庸などの税物、官人への俸給、寺院への供給、宮殿造営などが平城京へ巨大な物流を発生させます。

都の繁栄は、地方農民の生産と運搬負担の上に成立していたことを忘れてはなりません。

市と流通

平城京には東市・西市が置かれたとされ、発掘調査でも東市に関係すると考えられる地域が調査されています。

国家が発行した和同開珎が用いられる一方、米・布など現物も経済生活で重要でした。

貨幣が発行されたからといって、現代のような全面的な貨幣経済が成立したわけではありません。現物と銭貨が併用される社会でした。

木簡と文書行政

平城宮・京からは膨大な木簡が出土しています。

木簡には人名、地名、役所名、税物、食料支給、命令、荷札など日常行政の情報が記されます。

律令が国家制度の設計図であるなら、木簡はその制度が現場で実際に動いていた痕跡です。

文字を使う国家

奈良文化財研究所の平城京陶硯データベースには、約50年に及ぶ発掘で1000点を超える陶硯が集成されています。

大量の硯が官衙・寺院・都市から出土することは、文字を書く行為が中央官人や寺院社会の日常業務に広がっていたことを示します。

国家は人を動かすだけでなく、書類を作り、複写し、保管し、照合する組織へ変化していました。

元明天皇

元明天皇は草壁皇子の妃で、文武天皇の母です。

707年、文武が死去すると即位し、708年の和同開珎発行、平城遷都決定、710年の平城京遷都、712年の『古事記』完成、713年の風土記編纂命令などを行った時代の君主となりました。

元明朝は、大宝律令成立後の制度を新しい首都で運用し始めた重要な政権です。

元明即位の意味

元明天皇は女性君主ですが、「幼い男性皇族までの単なる中継ぎ」とだけ見ることはできません。

平城遷都という巨大国家事業を完遂し、国家的歴史・地誌編纂を進め、地方制度を運営しました。

一方、王統を文武の子・首皇子へつなぐ政治的役割を持っていたことも重要です。政治主体としての活動と王位継承の役割を同時に見る必要があります。

711年以後の地方行政

平城遷都後、中央政府は全国の国・郡・里を大宝令の制度によって統治しようとしました。

国司は中央から派遣され、郡司には地域の有力豪族が多く任じられました。

つまり律令国家は、中央官人だけで地方社会を直接統治したのではありません。旧来の地域首長層を官人制度へ組み込みながら支配を広げました。

712年 『古事記』

712年、『古事記』が元明天皇へ献上されました。

奈良県の通史資料は、稗田阿礼が誦習した神代から推古天皇までの天皇系譜・王家の伝承を、太安万侶が筆録して献上したものと説明しています。

上・中・下の3巻からなり、日本語の語りを漢字の音・訓を利用して文章化しました。

稗田阿礼と太安万侶

『古事記』序文では、天武天皇が帝紀・旧辞を整理しようとし、稗田阿礼に誦習させたと記されます。

元明朝になって太安万侶がその内容を書きまとめたとされています。

この経緯をすべて逐語的な制作記録として検証できるわけではありませんが、『古事記』が天武朝以来の王統・伝承整理事業と結びついて成立したことは重要です。

『古事記』が記したもの

『古事記』は神々の物語、国土形成、皇統、歴代天皇の系譜・説話などを収めます。

現代の歴史学でいう客観的年代史ではありません。

王権の系譜、各氏族の由来、神々と皇統の関係を一つの物語へまとめることで、現在の政治秩序を過去へ接続する役割を持ちました。

国家の歴史書をどう読むか

『古事記』『日本書紀』は古代史を知る不可欠な史料ですが、書かれている内容すべてを出来事そのものと同一視することはできません。

8世紀初頭の国家が、自らの起源・王統・氏族秩序をどのように説明したかという政治的文脈を持つ史書です。

考古資料、中国・朝鮮半島の史料、同時代木簡と照合しながら利用する必要があります。

713年 風土記編纂命令

713年、朝廷は諸国に地誌の撰進を命じました。後に「風土記」と総称される記録です。

奈良県の通史資料は、各国の地名由来、産物、伝承などをまとめるよう命じられたと説明しています。

国家が各地域について体系的な情報を中央へ提出させた点で、行政史上きわめて重要な事業です。

地名・産物・土地・伝承

風土記には郡郷名、土地の肥沃さ、山川、産物、地名の由来、古老の伝承などが記録されました。

単なる旅行案内や民話集ではありません。

どこにどのような土地・資源があり、どのような人々・伝承が存在するかを国家が把握するための地域情報集でもありました。

地方知識を中央へ集める

律令国家は戸籍によって人を数え、班田によって土地を測り、税制によって産物を集めました。

風土記は、それらの行政数値だけでは分からない地域情報を文章として中央へ集める事業でした。

国家形成は土地を軍事的に支配するだけでなく、「地域を知識として所有する」過程でもありました。

地名表記の整備

8世紀初頭には国・郡・郷などの地名表記も整えられていきました。

中国式の漢字文書行政では、地名を一定した文字で記す必要があります。読みだけが共有されていても、中央政府が全国の帳簿を統一的に扱うことはできません。

地名の標準化は、行政・地誌・税務を共通の文字体系へ組み込む政策でした。

現存する風土記

奈良県の通史資料は、現在まとまった形で伝わる風土記として常陸、出雲、播磨、豊後、肥前の5国を挙げています。

このうち出雲国風土記は比較的まとまった形で残りますが、他国は欠損を含みます。

全国で作成されたはずの記録の大部分は失われました。そのため残存風土記を全国の地域社会へそのまま一般化することには注意が必要です。

713年 大隅国の成立

鹿児島県によれば、大隅国は713年、日向国から肝坏・贈於・大隅・姶良の4郡を分けて成立しました。

律令国家は全国を国郡制で区分していましたが、その行政区画は一度で固定されたわけではありません。

中央支配が拡大する地域では新しい国・郡が設けられ、人員移住や国衙整備が進められました。

「隼人」と呼ばれた人々

南九州の地域集団は中央史料で「隼人」と呼ばれました。

鹿児島県は、彼らが朝廷側から「天皇の政治に従わない化外の民」と見なされた一方、それは中央側からの一方的な見方であり、地域側から見れば支配拡大への抵抗だったと説明しています。

「隼人」という名称を、一枚岩の単一民族や現代的民族集団の名称として固定的に理解することには注意が必要です。

国家領域の拡大と地域社会

律令国家の全国支配は、地図上で線を引いただけで完成したわけではありません。

国を置き、国司を派遣し、郡を編成し、戸籍・税制を導入するたびに、既存地域社会との交渉・対立が生じました。

大隅国の成立と後の隼人の抗戦は、中央国家の「地方制度整備」が地域社会にとっては政治的・軍事的な大変化だったことを示します。

715年 元正天皇即位

715年、元明天皇が譲位し、娘の氷高内親王が元正天皇として即位しました。

奈良県立万葉文化館は、霊亀元年9月に受禅・即位したと整理しています。

元正は未婚で子を持たず、文武天皇の子である首皇子へ王統をつなぐ役割を担う一方、約9年間にわたり自ら君主として政治を行いました。

元明から元正への譲位

元明も持統と同じく、生前に後継者へ王位を譲りました。

王位継承を君主死後の争いにしないという7世紀末以来の政治手法が継続しています。

一方、直接の後継候補である首皇子がまだ若かったため、母方の王族女性が政治的空白を埋める構造でもありました。

715年 郷里制

715年には地方末端行政を再編する郷里制が実施されたと年表資料は整理しています。

従来の「里」をより大きな「郷」とし、その内部を複数の「里」に分ける制度です。

大宝令の地方制度を実際に運用する中で、戸数・人口増加や行政の実情に対応するため、末端組織を調整したと考えられます。

里から郷・里へ

地方行政単位は、大化改新から奈良時代に至るまで固定されていません。

「五十戸」から「里」、大宝令で国・郡・里、そして715年頃の郷里制へと名称・編成が変化しました。

制度変更が繰り返されること自体、中央政府が現実の人口・地域社会を一度で把握できず、試行錯誤していたことを示します。

戸と地域行政

郷・里を構成する基礎には「戸」があります。

戸籍によって人々を戸単位に登録し、それを地域行政単位へまとめることで、中央政府は人口、税、土地、兵役を管理しました。

行政地名が変わっても、その背景にある目的は人民を継続的・数値的に把握することでした。

租税を支える地方制度

中央官司や平城京を維持するためには、全国から安定的に税を集める必要があります。

国司・郡司・郷里制は、地方社会を行政単位へ分け、租・調・庸や労役を組織する財政基盤でもありました。

制度の精緻化は中央国家の強化であると同時に、農民にとって国家負担がより直接的・恒常的になることを意味します。

717年 遣唐使

717年、平城遷都後初めての遣唐使が派遣されました。

奈良県の資料は、この使節に吉備真備、阿倍仲麻呂、僧玄昉らが留学生・学問僧として加わったと説明しています。

702年遣唐使が新しい律令国家の外交再開という意味を持ったのに対し、717年使は平城京時代の学問・制度・文化を支える次世代人材を送り出す大きな契機となりました。

吉備真備

吉備真備は717年に唐へ渡り、約18年間滞在しました。

奈良県の資料は、帰国時に法律、天文、暦、音楽、儀礼、兵法関係の書物や器物などを持ち帰ったと説明しています。

後に右大臣まで昇進し、奈良時代政治で重要な役割を果たします。

阿倍仲麻呂

阿倍仲麻呂も717年遣唐使で唐へ渡りました。

奈良県は、仲麻呂が唐の官人登用試験である科挙に合格し、中国名「朝衡」で玄宗皇帝に仕えたと紹介しています。

日本へ帰国しようとする機会もありましたが実現せず、最終的に唐で生涯を終えました。

遣唐留学生が一時的な文化視察ではなく、外国王朝内部で長期に活動する存在にもなった例です。

玄昉

玄昉は717年に学問僧として唐へ渡り、長期間仏教を学びました。

後に吉備真備らと帰国し、多数の経典をもたらしたと伝えられます。

奈良時代の遣唐使は法制度・行政だけでなく、仏教教学を直接唐から導入する重要な回路でした。

留学生・学問僧

遣唐使船には大使・副使など外交官だけでなく、留学生・学問僧・技術者が乗りました。

彼らは数年から十年以上唐に滞在し、帰国後に国家官僚、教育、仏教、医療、暦、音楽など多くの分野で知識を伝えました。

国家が人的資源へ長期間投資する教育制度でもあったと言えます。

玄宗期の唐

717年の中国は唐玄宗の治世初期です。

長安は東アジアを代表する国際都市であり、唐の官僚制度、仏教、学問、都市文化は日本の知識人に大きな影響を与えました。

ただし日本は唐の制度をそのまま複製したわけではありません。帰国者の知識は日本側の政治・社会条件に合わせて選択・再編されました。

唐から直接学ぶ

飛鳥時代には百済・高句麗・新羅を経由して入る技術・知識も大きな比重を持ちました。

奈良時代には遣唐使によって中国から直接学ぶ回路がさらに強化されます。

一方、朝鮮半島との外交・人材交流が消えたわけではありません。日本の古代国家文化は複数の東アジア交流経路から形成されました。

718年 養老律令の撰定

718年、大宝律令を修訂した養老律令が撰定されました。

奈良県の通史資料は、養老律令を「大宝律令を日本の国情に適合した内容に改修したもの」と説明しています。

大宝律令施行からわずか17年で改訂作業が行われたことは、律令制度が固定された完成品ではなく、運用を通して修正される制度だったことを示します。

藤原不比等と法典編纂

養老律令編纂には藤原不比等が中心的に関わったとされます。

不比等は大宝律令編纂にも参加し、文武・元明・元正朝を通じて律令政治の中枢にありました。

しかし養老律令を「不比等個人が作った法律」とみなすのは適切ではありません。多数の官人・法制知識を集めた国家事業でした。

757年まで施行されない

718年に撰定された養老律令は、その年からただちに全面施行されたわけではありません。

奈良県の資料にもあるように、実際の施行は757年、藤原仲麻呂が政治力を強めた時期です。

したがって710~724年の行政を説明する際、「養老律令の下で政治が行われた」と書くのは正確ではありません。この時期の基本法は引き続き大宝律令です。

大宝律令と養老律令

大宝律令の原文は失われ、養老律令も律本文の多くが散逸していますが、後世の注釈書などから養老令の内容はかなり復元されています。

そのため現在「律令制」として説明される内容の多くは、養老律令系統の史料から知られています。

それを大宝律令の時代へ遡及して使う際には、両者の差を意識する必要があります。

719年 按察使

元正天皇の経歴を整理する奈良県立万葉文化館の資料は、719年に按察使が置かれたと記しています。

按察使は複数国の行政状況を監察するため設けられた地方監督官です。

中央から国司を派遣するだけでは、地方官の統治を十分に監督できないという制度上の問題への対応でした。

地方官を監督する

国司には徴税・裁判・兵役・公共事業など大きな権限がありました。

遠隔地の国司が中央命令どおり政治を行っているかを確認するには、監察制度が必要になります。

律令国家の中央集権化は「地方官へ権限を与えること」と「地方官を中央が監督すること」の両方によって成立しました。

720年 『日本書紀』完成

720年、『日本書紀』が完成しました。

国立国会図書館の書誌解説は、『古事記』に8年遅れて成立した、日本最初の正史と説明しています。

神代から持統天皇までを30巻の編年体で記し、系図1巻もあったとされますが系図は散逸しました。

舎人親王と編纂

『日本書紀』編纂の中心人物として舎人親王が知られます。

奈良県の資料では舎人親王、藤原不比等らによって編纂され、720年に完成したと整理されています。

編纂は一人の著者による文学作品ではなく、天武朝以来の国史編纂を引き継ぐ長期国家事業でした。

編年体の国家史

『日本書紀』は出来事を天皇の治世と年月日に沿って並べる編年体を採用しました。

外交記事、政変、法令、災害、祭祀、王族・氏族の動向など多様な情報を、王統を軸に一つの時間へ整理します。

年号、暦、戸籍と同じように、過去の時間も国家が統一的に編成する対象になりました。

『古事記』との違い

『古事記』と『日本書紀』は同じ内容の別版ではありません。

『古事記』は王統神話・系譜・歌謡などを独特の日本語表記でまとめています。一方、『日本書紀』は漢文による編年体史書で、中国王朝史に対応し得る公式史書としての性格がより強くあります。

両書の違いそのものが、8世紀初頭の国家が国内の王統伝承と対外的な国家史表現を複数の方法で整理したことを示します。

後世から古代を記す史書

『日本書紀』は720年に完成しました。したがって3世紀の神功皇后、5世紀の雄略、7世紀の大化改新などの記事も、出来事から数十年から数百年後に国家が編集した記録です。

記事の中には古い原史料を利用した部分もあると考えられますが、編纂時の制度用語や政治観が入り込む可能性があります。

古代史を読むときは、同時代木簡、考古学、中国・朝鮮史料との照合が不可欠です。

720年 隼人の抗戦

720年、南九州で大規模な軍事衝突が起きました。

鹿児島県は、720年から翌721年にかけての戦いを、中央政府による支配に対する隼人の事実上最後の大規模な抗戦と説明しています。

朝廷側史料では「反乱」とされますが、地域側から見れば、国郡制・国司支配の拡大への抵抗という側面があります。

大隅国支配への抵抗

713年に大隅国が設置され、中央政府は国司を置き、他地域から住民を移す政策も進めました。

鹿児島県によれば、豊前国から200戸、約5000人とされる人々が移住させられたと伝えられます。

こうした行政区画編成と人口移動は、在地社会の政治・土地利用を大きく変えるものでした。

大伴旅人と征隼人軍

奈良県立万葉文化館によれば、720年4月、大伴旅人が征隼人持節大将軍に任じられました。

大規模な中央軍が南九州へ派遣され、戦争は長期化しました。

旅人は後に大宰帥として『万葉集』の梅花宴で知られますが、それ以前には律令国家の軍事を担った高級官人でもありました。

「反乱」という中央側の言葉

律令史料では、中央政府の命令に従わない地方集団を「反」「叛」などと表現します。

しかしその語を現代の説明者が無批判に使うと、中央支配が当然であり、抵抗側が秩序破壊者だったという史書側の視点を再生産してしまいます。

本記事では史料上の呼称として「隼人の反乱」に触れる場合もありますが、基本的には「抗戦」「抵抗」と記述します。

律令国家への組み込み

鹿児島県は、720~721年の抗戦後、南九州が徐々に律令国家体制へ組み込まれていったと説明しています。

ただし地域独自の社会・文化が一度の戦争で消滅したわけではありません。

「隼人」と呼ばれる人々はその後も朝廷儀礼などに現れ、律令国家内部で独特な位置づけを持ち続けました。

北方の「蝦夷」

720年頃には東北でも中央政府と「蝦夷」と呼ばれる地域集団との軍事的緊張が続いていました。

奈良県立万葉文化館の元正天皇解説にも、720年に蝦夷の動きに対して将軍を派遣した記事が整理されています。

「蝦夷」は中央史料による広い呼称であり、一つの統一民族・政治組織を意味するものではありません。

東北への行政・軍事拡大

7世紀以来、王権は日本海側・太平洋側の北方へ城柵・国郡制を拡大してきました。

奈良時代には陸奥国などを通じて中央行政を広げ、城柵を軍事・行政拠点として利用します。

この過程は一方向の「征服」だけではなく、地域首長との交渉、交易、位階授与、移住、軍事衝突が混在する長期過程でした。

「辺境」は無人地帯ではない

律令国家の史料は、中央支配が及ばない地域を「化外」などの概念で表現しました。

しかし東北や南九州は無人の空白地ではありません。独自の集落、交易、政治関係、生活文化を持つ人々が暮らしていました。

国家領域の拡大とは、その既存社会の上に新しい行政・税・軍事秩序を重ねる過程でした。

723年 三世一身法

723年、三世一身法が出されました。

国立国会図書館には、この法を奈良朝の墾田政策として扱う研究が所蔵されています。制度は、新たに灌漑施設を設けて開墾した土地などについて、一定期間の私的占有を認めて開墾を促すものでした。

班田収授制の原則を全面的に廃止した法律ではなく、耕地拡大を促すための例外的・調整的政策として位置づける必要があります。

なぜ開墾を促したのか

律令国家では人口に応じて口分田を班給することが制度の前提でした。

人口が増え、既存耕地だけでは十分な田地を確保しにくくなると、新しい農地開発が必要になります。

しかし開墾には水路、池、堤などの灌漑施設と大きな労働力が必要で、土地をすぐ国家へ返還しなければならない制度では開発意欲が生まれにくい問題がありました。

灌漑施設と土地開発

水田農業では水の確保が土地開発の中心です。

新しい溝・池を造るには個人一人では難しく、豪族・寺院・有力者などが多数の人々を動員する必要があります。

三世一身法は、そうした投資に一定期間の土地保有という利益を与える政策でした。

期限付きの私的占有

三世一身法という名称が示すように、開墾地を永遠に私有できる制度ではありませんでした。

新しい灌漑施設を設けた場合は三世代、既存水利を利用する開墾の場合は一代など、条件に応じて期限付きの占有を認める仕組みとして説明されます。

国家は公地的原則を維持しながら、現実の耕地不足へ対応しようとしました。

墾田永年私財法への前段階

三世一身法だけでは開墾促進が十分でなかったと考えられ、743年には墾田永年私財法が出されます。

そこでは一定条件のもと、開墾地の永年私有が認められるようになります。

三世一身法は、律令的土地制度が現実社会に合わせて修正され始める重要な第一段階でした。

724年 聖武天皇即位

724年、元正天皇が譲位し、首皇子が聖武天皇として即位しました。

奈良県立万葉文化館の元正天皇解説は、神亀元年2月に聖武天皇へ譲位したと整理しています。

首皇子は文武天皇と藤原宮子の子で、天武・持統から草壁・文武へ続く王統を継ぎました。

長屋王

聖武即位時、王族政治の中心にいた一人が長屋王です。

長屋王は天武天皇の孫にあたり、元正朝末には左大臣級の高い地位に進みました。

723年の三世一身法を含む政策を長屋王政権と関連づけて説明する研究もありますが、一つの法令を長屋王個人の発案と断定するのではなく、当時の政府政策として見る必要があります。

藤原氏と王族政治

720年に藤原不比等が死去すると、政権内では長屋王をはじめ皇族勢力の比重が高まりました。

一方、不比等の子である武智麻呂、房前、宇合、麻呂ら藤原四兄弟も官人として成長していきます。

奈良時代の政治は「皇族対藤原氏」という固定した二陣営だけで動いたのではなく、婚姻、官職、王位継承、政策をめぐって連携と対立を繰り返しました。

日本史の中でこの時代を見る意味

710~724年は、「奈良時代が始まり、文化が栄えた」というだけでは捉えられない時代です。律令国家が実際に全国を管理しようとしたことで、その力と限界が同時に現れました。

第一に、平城京という首都によって中央政府が恒常化しました。宮殿、官司、寺院、宅地、市を同じ都市へ集め、大量の官人が文書で日常行政を行う体制が成立します。都は国家の象徴ではなく、全国から税と情報を集める行政機械でした。

第二に、国家は自らの過去と地域社会を文章にしました。『古事記』『日本書紀』は王統と国家の歴史を整理し、風土記は各地の地名、産物、伝承を記録します。戸籍が「人」を登録する制度なら、国史・風土記は「過去」と「地域」を国家の知識として整理する制度だったと言えます。

第三に、制度は完成後も変化し続けました。715年の郷里制、718年の養老律令撰定、719年の按察使などは、大宝律令の制度を運用する中で生じた問題に対応する改革です。律令国家は固定された仕組みではなく、現場の問題に応じて修正される行政国家でした。

第四に、中央国家の拡大は地域社会との衝突を生みました。大隅国設置と隼人の抗戦、東北の蝦夷との軍事的緊張は、中央側から見る「全国統一」が地域側には新しい行政・税・軍事秩序の押し付けとして作用する場合があったことを示します。

第五に、土地制度の矛盾が見え始めます。戸籍と班田収授による土地配分を維持するには、増加する人口に対応する新しい農地が必要でした。723年の三世一身法は、公地的原則を守りながら私的な開墾利益を導入する政策であり、後の墾田永年私財法へつながる重要な制度転換です。

724年に聖武天皇が即位すると、律令国家はさらに大きな課題へ直面します。疫病、飢饉、政争、東北・南九州の支配、寺院政策、土地開発が同時に進み、国家は仏教を政治的危機への対応として大規模に利用するようになります。奈良時代の象徴となる東大寺・国分寺・大仏は、この安定した制度の上に自然に生まれたのではなく、深刻な社会危機の中から形成されます。

主な流れ

次の時代へ — 聖武朝、疫病、国分寺

724年、聖武天皇が即位しました。律令制度、平城京、国史、地方行政を受け継いだ若い国家は、一見すると安定した中央集権国家へ成長したように見えます。

しかし730年代には飢饉と天然痘が列島を襲い、737年には藤原四兄弟が相次いで死亡します。政治では長屋王の変、橘諸兄政権など大きな変化が起こり、地方では東北支配と土地開発が続きます。

聖武天皇は社会危機に対して仏教による国家安定を強く求め、741年に国分寺建立を命じ、743年には盧舎那大仏造立を発願します。同じ743年には墾田永年私財法が出され、土地制度にも大きな転換が起こります。

次の記事では、724–743年|聖武朝の危機と国家仏教 — 長屋王の変、天然痘、国分寺、墾田永年私財法として、聖武即位、長屋王の変、藤原四子政権、天然痘大流行、橘諸兄政権、恭仁京遷都、国分寺建立詔、東大寺大仏発願、墾田永年私財法までを扱います。

参考資料・出典

本ページは、奈良県、奈良県立万葉文化館、奈良文化財研究所、奈良市、国立国会図書館、鹿児島県等の公開資料を参照してART LIBRARYが独自に構成・執筆しています。『古事記』『日本書紀』は8世紀初頭の国家によって編纂された史書であり、そこに記された古い時代の記事を同時代記録と同一視していません。風土記については全国の記録が現存するわけではなく、残存5国の内容を列島全体へそのまま一般化しないよう注意しました。養老律令は718年撰定ですが施行は757年であるため、元正朝を養老律令施行下とは記述していません。また「隼人の反乱」「蝦夷征討」など中央史料側の政治的呼称をそのまま評価語として用いず、地域社会側からの抵抗・交渉という視点を併記しています。三世一身法についても公地公民制の即時崩壊とはせず、班田・開墾制度を現実に合わせて調整する政策として位置づけました。