Art Library

969–972年

円融朝初期と藤原伊尹

実頼死去、九条流の摂政、摂関家内部の競争

969年(安和2)、冷泉天皇が譲位し、同母弟の守平親王が円融天皇として即位した。新天皇は村上天皇と藤原安子の子で、まだ元服前の幼年だった。その直前には安和の変によって左大臣源高明が政界から排除され、皇位継承をめぐる緊張と有力公卿の再編が一気に進んでいた。したがって円融朝の開始を、単に「藤原氏の摂関政治が完成した」と一行で片づけると、この時期に実際に起きていた複雑な変化が見えなくなる。

円融天皇の即位時に摂政となったのは藤原実頼である。実頼は藤原忠平の長男で、村上朝以来の政務を支えた最上位の公卿だった。しかし970年(天禄元)に実頼が死去すると、摂政職は弟・師輔の長男である藤原伊尹へ移った。ここで政治の重心は、忠平の長男実頼の系統から、村上天皇の中宮安子を出して皇室と強い外戚関係を築いた師輔の子どもたちへ大きく移っていく。伊尹の弟には兼通・兼家らがおり、のちに彼らが摂関職や外戚の地位をめぐって激しく競争することになる。

この数年間は短いが、10世紀後半の政治を理解するうえで非常に重要である。天皇が幼少である場合に摂政が置かれること、摂政の地位が藤原北家内部で継承されていくこと、皇后・女御と皇子の誕生が将来の政治的配置に直結すること、そして一族内部の序列が必ずしも固定されていなかったことが、円融朝初期には集中的に現れるからである。同時に、地方では承平・天慶の乱後に整備された押領使・追捕使などの軍事的仕組みが残り、国司と在地有力者が協力しながら治安維持や徴税を担う体制が進んでいた。中央の摂関政治と地方の軍事化は、別々の歴史ではなかった。

安和の変後の朝廷 — 969年という転換点

円融朝の出発点を理解するには、同じ969年に起きた安和の変を切り離すことができない。源高明は醍醐天皇の皇子で、臣籍降下して源氏となったのち公卿として昇進し、村上朝末には左大臣にまで達していた。高明の娘は村上天皇の皇子である為平親王と婚姻関係を結んでいたため、為平親王が皇位につけば高明が天皇の外戚に近い立場を得る可能性があった。ところが967年、冷泉天皇の皇太弟には為平ではなく、より年少の守平親王が選ばれた。

969年には源満仲らの密告をきっかけとして謀反計画が問題となり、高明は大宰権帥に左遷された。ここで注意すべきなのは、後世の物語や概説書でしばしば語られる「藤原氏が源高明を陥れた」という単純な筋書きを、そのまま確定した史実として扱わないことである。高明失脚によって藤原北家が有利になったことは明らかでも、誰がどこまで事件を設計したのか、高明自身がどの程度計画に関与していたのかについては、利用できる史料の性格と成立時期を考える必要がある。

ただし政治的結果は大きかった。高明という有力な皇族出身公卿が中央政界から消え、源氏系公卿が摂関職に対抗し得る可能性は後退した。さらに冷泉天皇が同年に譲位し、守平親王が円融天皇として即位したことで、村上天皇と藤原安子の間に生まれた皇子を中心とする皇位継承が確定していく。こうした変化は、皇位継承、婚姻政策、公卿の序列が一体となって動く10世紀政治の特徴をよく示している。

安和の変を「藤原氏による他氏排斥の完成」とだけ見る説明も慎重である必要がある。藤原北家内部には実頼系、師輔系という異なる系統があり、さらに師輔の子どもたちの間にも競争があった。「藤原氏」が一枚岩で朝廷を掌握したのではなく、皇室との婚姻関係、官位、年齢、兄弟順、天皇との個人的関係などを利用して、同族内部でも主導権が移動したのである。

守平親王から円融天皇へ — 幼帝即位と摂政

円融天皇は959年(天徳3)に生まれた。父は村上天皇、母は藤原師輔の娘で皇后となった安子である。同母兄には冷泉天皇や為平親王がいた。967年に冷泉天皇が即位すると、守平親王は皇太弟となり、969年の譲位によって皇位を継承した。宮内庁が現在第64代天皇として掲げる円融天皇は、このときまだ11歳ほどで、元服前だった。

幼い天皇の即位は、それ自体が異例というわけではない。858年には9歳の清和天皇が即位し、藤原良房が摂政として政務を補佐した先例がある。平安時代の皇位継承では、成年に達していることだけが即位の条件ではなく、皇統、母方の血縁、先帝との関係、皇太子・皇太弟としての位置づけ、朝廷内の政治的合意などが複合していた。そのため幼帝の即位は、摂政を必要とする政治構造と深く結びついていく。

円融天皇の即位後、藤原実頼が摂政となった。実頼はすでに冷泉天皇のもとで関白を務めていたが、幼帝の円融天皇に対しては摂政という立場になった。関白が成人天皇の政務に参与するのに対し、摂政は幼少の天皇を補佐し、その権限をより包括的に代行する地位と説明されることが多い。ただし実際の政治は、摂政一人が国家意思を自由に決める仕組みではない。太政官の公卿会議、天皇への奏聞、官符・宣旨などの文書行政、蔵人を通じた連絡が組み合わさっていた。

この点は摂関政治を理解するうえで重要である。摂政・関白が強い影響力を持ったことは確かだが、天皇という制度的中心が消えたわけではない。研究では、摂関期にも天皇が議題提示や最終的な裁可に関わり、関白の意見が天皇の決定のための助言として機能した事例が指摘されている。円融天皇自身も成長後には人事や政務で意思を示しており、幼少期から成人後までを同じ「藤原氏の傀儡」という言葉で説明することはできない。

藤原実頼 — 関白から摂政へ

実頼は900年(昌泰3)生まれで、藤原忠平の長男だった。弟の師輔とともに村上朝の政治を支え、実頼が左大臣、師輔が右大臣として並び立つ時期もあった。しかし皇室との婚姻関係では、師輔の娘安子が村上天皇の中宮となり、冷泉・円融両天皇を生んだことが決定的な意味を持った。実頼自身は最高位の官職に上ったものの、天皇の直接の外祖父ではなかった。

それでも実頼は、967年に冷泉天皇の関白となり、969年の円融天皇即位後には摂政となった。これは摂政・関白が特定の外戚だけに自動的に与えられる役職ではなく、家格、官位、経験、朝廷内の序列によっても決まることを示している。実頼は藤原北家の長者として長い政治経験を持ち、安和の変後の不安定な朝廷を支える立場にあった。

実頼は970年(天禄元)に死去する。これによって忠平の長男系が政務の中心から一時的に後退し、弟師輔の長男である伊尹が急速に前面へ出た。後世から見ると藤原道長へつながる師輔系の台頭が当然のように見えるが、この時点では将来の勝者が決まっていたわけではない。実頼の子頼忠も後に関白となり、実頼系は政治的重要性を保ち続ける。

こうした人事の変化を家系図だけで追うと、政治が「父から子へ」「兄から弟へ」機械的に継承されたように見える。しかし実際には、摂関職の継承は天皇の判断、官位の序列、外戚関係、先代摂関の意向、同族内部の支持などの組み合わせによって決まった。実頼から伊尹への交代は、摂関家という固定的な家制度がすでに完成していたのではなく、その仕組み自体が形成されつつあったことを示している。

実頼死去と藤原伊尹の台頭

藤原伊尹は924年(延長2)、藤原師輔の長男として生まれた。母は藤原盛子である。村上朝では蔵人頭などを経て昇進し、951年には撰和歌所の別当となって『後撰和歌集』の編纂に関わった。政治家であると同時に和歌文化の中心に近い人物であり、後世には「一条摂政」とも呼ばれ、家集『一条摂政御集』が伝わる。

970年、実頼の死後に伊尹は右大臣となり、摂政および藤氏長者の地位を得た。翌971年には太政大臣に進んだ。伊尹の急速な昇進には、父師輔が築いた政治的基盤に加え、妹安子が村上天皇の后となり、その子である冷泉・円融両天皇が相次いで即位したことが大きく作用した。伊尹は円融天皇にとって母方の伯父にあたり、近い外戚だった。

さらに伊尹自身の娘懐子は冷泉天皇の女御となり、のちの花山天皇を生んでいる。つまり伊尹は円融天皇の伯父であるだけでなく、冷泉上皇の皇子の外祖父となる可能性を持つ位置にもあった。円融天皇の次の皇位をめぐる構図は、すでに円融朝初期の婚姻関係の中で形成され始めていたのである。

このような外戚関係は、単なる私的な親族関係ではない。天皇の母や后の実家は、皇子の養育、宮廷内の居所、女房・家司の配置、儀礼や財政の支援を通じて皇室の日常と政治を支えた。皇子が即位すれば、その母方の親族は天皇に最も近い政治的ネットワークを持つことになる。摂関政治は、官職としての摂政・関白だけでなく、この婚姻と家政組織の構造を基盤としていた。

九条流の外戚関係 — 師輔の子どもたち

藤原師輔の系統は、のちに九条流と呼ばれる。師輔は960年に死去しており円融朝を見ることはなかったが、彼が村上天皇の后に娘安子を入れたことが、その後数十年の政治を大きく方向づけた。安子は冷泉天皇・円融天皇を含む皇子女を生み、師輔の子どもたちは天皇の伯父・叔父として朝廷内で特別な位置を得た。

伊尹の弟には兼通、兼家、高光、為光、公季らがいた。これらの兄弟が一つの意思で動いたわけではない。むしろ伊尹の死後、兼通と兼家は摂関職をめぐって競争し、兼通が優位を得る。さらに兼通の死後には実頼系の頼忠が関白となり、その後ふたたび兼家が権力を強める。藤原北家の優位が拡大する一方で、その内部では複数の家系が天皇との婚姻関係を競い続けた。

このことは「摂関家」という言葉を後世の完成形から遡って理解しないために重要である。11世紀の藤原道長・頼通期になると、摂関家の中心が明確になったように見える。しかし10世紀後半には、どの系統が摂政・関白を継ぐかはまだ流動的だった。年長順、官位、天皇との血縁、娘が生んだ皇子の存在などが複雑に作用し、家の主導権は何度も移動した。

その競争は皇位継承とも表裏一体だった。冷泉上皇には伊尹の娘懐子が入り、円融天皇にはのちに兼通の娘媓子、兼家の娘詮子、頼忠の娘遵子などが入内する。后妃の入内は単なる婚礼ではなく、将来の皇子誕生と外戚形成を見据えた政治的選択でもあった。しかし皇子が生まれるかどうかは人間の計画通りにはならない。摂関政治には、制度だけでは統御できない出生と寿命という偶然性が常につきまとっていた。

公家の「家」と国家 — 家司・政所・荘園経営

10世紀後半の政治を理解するには、国家の官職だけでなく、有力貴族が持つ「家」の組織にも目を向ける必要がある。藤原実頼や伊尹のような上級公卿は、太政官の官人であると同時に、大規模な家政を運営する貴族家の当主でもあった。その家には家司と呼ばれる職員が仕え、邸宅管理、収入と支出、贈答、儀礼、所領との連絡などを担った。摂関家の権力は朝廷の官職だけでは支えきれず、こうした私的な家政組織があって初めて日常的に維持できた。

家司には、中央官人として実務経験を持つ者が起用されることもあった。彼らは文書作成、会計、地方との交渉に習熟し、主人の所領や経済活動を支えた。とくに後世の摂関家では政所が家政の中心となり、荘園管理や課役の徴収、訴訟、国司との交渉などを扱うようになる。ただし、後世に完成した摂関家政所の仕組みをそのまま970年前後へ遡らせることはできない。10世紀は、上級貴族の家政機構が国家行政と並行して発達し、後の大規模な摂関家組織へつながっていく途中の段階として見るべきである。

ここで重要なのは「国政」と「家政」を同じものにしないことである。摂政伊尹の家司が伊尹個人の邸宅や所領を運営することと、太政官が国司を任命し諸国へ命令を出すことは制度上別である。摂関家の政所が国家そのものを運営した、と説明するのは正確ではない。実際の国政は天皇、摂政・関白、公卿、弁官、蔵人などの公的機構を通じて処理された。

しかし両者が完全に切り離されていたわけでもない。家司を務める人物が国司などの官職を経験することもあり、有力貴族は官職上の人脈と家政上の人脈を重ねて利用した。国司として地方へ赴任した者が、任期後に摂関家へ接近したり、貴族家の所領管理に関わったりすることもある。朝廷内での官位と、特定の有力家に仕える人的関係が重なり合うことで、摂関家の影響力は広がった。

荘園もこの構造の一部だった。平安時代中期の荘園は、後世の中世荘園と同じ形ですべてが完成していたわけではないが、寺社・皇族・貴族が各地の土地や収益に権利を持つ事例は増えていた。地方の土地支配は、国衙領と荘園が明確に二分された単純なものではなく、複数の権利や負担が重なることもあった。中央の有力家が地方に経済的基盤を持つことは、その家の政治活動や儀礼、婚姻政策を支える財源になった。

后妃を入内させることにも大きな費用が必要だった。装束、調度、女房、住居、儀礼、贈答などを整え、宮廷内で継続的に生活を支援するには、実家側の経済力と組織力が欠かせない。外戚政治は「娘を天皇に嫁がせれば権力を得られる」という単純な仕組みではなく、その后妃の生活と皇子の養育を長期にわたって支えられる家政基盤が必要だった。

この意味で、師輔流の強さは血縁だけに求められない。安子が村上天皇の后となり皇子を生んだこと、その兄弟が高位の官職へ進んだこと、家司や所領を通じて家を運営する能力を持ったことが組み合わさっていた。円融朝初期は、国家の官職体系と有力貴族の家政が重なりながら、のちの摂関家社会の基礎が形成されていく時期でもあった。

后妃と女房の政治空間 — 外戚を血縁だけで見ない

摂関政治を説明するとき、「藤原氏が娘を天皇に入内させ、その子を天皇にして外祖父となった」という図式がよく使われる。仕組みを理解する入口としては有効だが、この説明だけでは后妃本人や、その周囲で働いた女性たちの存在が見えなくなる。后妃の住まいには女房や乳母、家司など多数の人々が関わり、そこは宮廷内の情報、人間関係、贈答、文学活動が集まる政治的・文化的空間でもあった。

円融天皇の母安子は964年にすでに死去していたが、彼女が村上天皇との間に複数の皇子女をもうけたことによって、死後も師輔流の政治的位置を規定する大きな条件を残した。冷泉天皇と円融天皇がともに安子所生であったため、伊尹・兼通・兼家らは二代の天皇に対して母方の伯父・叔父となった。これは安子を単なる「藤原氏の娘」として扱うだけでは捉えきれない、皇統形成そのものへの影響だった。

一方で、后妃が皇子を生めば必ずその実家が勝つわけではない。皇子が幼くして亡くなることもあれば、別の皇子が皇太子に選ばれることもある。后妃本人が早世する場合もある。皇位継承は出生だけで決まるのではなく、天皇・上皇・公卿の判断、兄弟間の年齢差、母の出自、政治的支持などが重なって決まった。外戚政治には常に不確実性があった。

また女房は宮廷文化の重要な担い手だった。10世紀後半から11世紀にかけて、后妃の御所を中心とする女性の人的ネットワークは、和歌・消息・物語文学が発達する場となっていく。円融朝初期は『源氏物語』や『枕草子』より前の時代だが、『後撰和歌集』に私的な贈答歌や女性の歌が多く収められていることからも、宮廷社会の人間関係を和歌が支えていたことがうかがえる。

したがって「外戚」を、男性政治家が女性を道具として使った制度とだけ表現するのも不十分である。もちろん婚姻は家の政治戦略と深く結びついていたが、后妃の居所とその周囲の人々が独自の社会空間を形成し、皇子の養育や宮廷内の交流を支えたことも同時に見る必要がある。摂関政治とは、太政官の官職と男性公卿の競争だけではなく、皇室と貴族家を結ぶ家族・家政・宮廷生活全体の構造だった。

摂政は何をしていたのか — 天皇・太政官との関係

平安時代の摂政・関白を現代の「首相」と同一視することはできない。律令国家の基本的な官制としては、太政官の太政大臣・左大臣・右大臣・大納言などが政務を審議し、天皇が国家意思の最終的な中心に位置する構造が続いていた。摂政・関白は律令に最初から規定された常設官ではなく、天皇の政務を補佐・代行するために発達した令外の職である。

摂政は幼帝のもとで強い代理権を持ったが、行政実務そのものは多くの官司、公卿、弁官、蔵人、国司などによって動いていた。地方からの報告は太政官へ上申され、必要に応じて官符や宣旨が下される。除目では官人の任命が行われ、叙位では位階が授けられた。年中行事や祭祀も国家運営の重要部分であり、摂政はこうした手続きを取りまとめながら天皇の権威と結びついて政治を行った。

円融朝についての研究では、成長後の円融天皇が人事や政務の最終判断に積極的に関与した事例が検討されている。これは摂関政治を「天皇が政治から消えた時代」と見る理解を修正する。摂政・関白は天皇権力を奪って別の国家を作ったのではなく、天皇を中心とする朝廷制度の内部で、天皇との近接性を利用して巨大な影響力を得たのである。

また摂関職と太政大臣・左大臣・右大臣などの官職は別の仕組みだった。伊尹は摂政となったのち太政大臣にも進んでいるが、摂政だから自動的に太政大臣になるわけではない。この複数の地位を兼ねることで、藤原北家の有力者は天皇への近接と太政官内の官位序列の双方を押さえることができた。

文書と意思決定 — 宣旨・官符・除目が支えた国家

円融朝初期の政治を「天皇と摂政の二人」だけで考えると、国家が実際にどのように動いたのかが見えにくい。平安時代の政務は、口頭の命令だけではなく、太政官符、宣旨、解、牒など多様な文書によって伝達された。中央の決定が地方へ届き、地方の事情が中央へ報告されるためには、文書を作成し、署名・押印し、使者によって運び、受け取った側が保存・執行する一連の仕組みが必要だった。国立歴史民俗博物館の古文書研究が示すように、10世紀までの宣旨は、律令的な官符とは異なる命令伝達の形式として発達し、後世の中世文書へもつながっていく。

天皇の意思を具体的な行政命令へ変える過程では、蔵人や弁官の役割も重要だった。蔵人所は9世紀初頭に成立し、天皇と太政官の間の連絡、機密文書、宮中の実務などを担うようになった。伊尹自身も若い時期に蔵人頭を経験している。摂政となる以前から、天皇の身近で政務文書がどのように処理されるかを知る職歴を持っていたことになる。

官人の任命を行う除目も、国家運営の核心だった。国司の任命は地方行政と中央貴族社会を結ぶ制度であり、誰をどの国へ赴任させるかは財政、昇進、家計に直接影響した。近年の国立歴史民俗博物館の研究では、平安中期の受領国司の任官を、単なる地方官人事ではなく、太政官の官職体系と貴族社会の人事秩序の双方から捉え直している。受領は任国の徴税・裁判・治安維持を実質的に負担し、その職務成績は本人と家族の昇進にも関係した。

ここから見えるのは、摂政の権力が「命令すればすべて動く」という個人的支配ではなく、文書行政と官僚組織の上に成り立っていたということである。摂政が天皇に近く、重要案件を先に見ることができても、国司交代、租税免除、寺社への命令、治安対策などを実行するには、それぞれに適した形式の文書を発給し、担当官司を通して地方へ届けなければならなかった。

また、文書が残るかどうかは現代の歴史理解にも大きく影響する。宮廷の日記や太政官文書の多くは失われ、後世の史書に引用された断片だけが伝わる場合も多い。したがって「記録がない」ことと「出来事がなかった」ことは同じではない。円融朝初期の数年間についても、現存する記録の偏りを踏まえながら、制度の継続性と個別の事件を組み合わせて復元する必要がある。

972年、円融天皇の元服

972年(天禄3)正月、円融天皇は元服した。古代・中世の皇族や貴族男性にとって元服は、単なる成人式ではない。髪型や装束を改め、社会的に成人男性として扱われる重要な通過儀礼であり、天皇の場合には政治的意味も伴った。元服前の幼帝と、成人儀礼を終えた天皇とでは、摂政の必要性や政務参加のあり方が変化し得るからである。

ただし元服した瞬間に摂関政治が終わるわけではない。円融天皇のもとでは、その後も関白が置かれた。摂政から関白への移行は、天皇自身が政務を行うことと藤原氏の補佐が共存する仕組みを示している。成人天皇が主体的に判断しつつ、関白が重要案件について先に文書を閲覧し、意見を述べる「内覧」などを通じて政務へ関与する体制が発達していく。

元服は婚姻政策にもつながった。成人した天皇には后妃を入内させ、皇子誕生を期待する政治的動きが本格化する。972年の時点では伊尹が摂政として強い位置を占めていたが、その死によって状況は急変し、翌973年には兼通の娘媓子が入内する。円融天皇の元服と伊尹の死が同じ年に起きたことは、政治構造を切り替える大きな契機となった。

伊尹死去と兼通・兼家の競争

972年11月、藤原伊尹は49歳で死去した。摂政就任からおよそ2年半という短期間である。伊尹の死は、師輔流の主導権が自動的に次の人物へ継承されるわけではないことを露呈させた。弟の兼通と兼家の間で、次の政務主導者をめぐる競争が表面化する。

兼家は官位の上では兼通に先行していた時期があり、後世には兄弟の激しい確執を描く説話が残されている。一方、円融天皇は兼通を抜擢し、内覧を経て関白としたとされる。『大鏡』や『栄花物語』など後世の物語は、この兄弟対立を印象的な逸話として描くが、それらは同時代の日記ではない。物語的な人物像と、官職任命という確認可能な政治過程は分けて読む必要がある。

兼通が選ばれた背景については、母安子の遺言を円融天皇が尊重したとする伝承が知られる。しかしこれも、どの史料がいつ記したのかを意識する必要がある。少なくとも結果として、972年末以降の政治では兼通が中心となり、兼家は一時的に後退する。この兄弟間競争は、藤原北家内部で摂関職がまだ固定的な相続制度になっていなかったことをよく示している。

伊尹の短い摂政期を単なる「兼通・兼家時代へのつなぎ」と見るべきではない。実頼から伊尹への交代によって、師輔流が皇室との外戚関係を政治的な基盤として前面化したこと、そして伊尹の死によってその内部競争が顕在化したことが、のちの摂関政治の形を準備した。

地方社会 — 国司、押領使、追捕使と在地武力

京都では摂政の交代や皇位継承が政治の中心課題となっていたが、地方社会では別の変化が進んでいた。930年代から940年代の承平・天慶の乱は、東国の平将門と瀬戸内海の藤原純友をめぐる大規模な軍事衝突を経験させた。その後、朝廷は地方の治安維持を中央から派遣した軍隊だけで担うのではなく、国司が在地の有力者を動員する仕組みを強めていった。

その代表が押領使・追捕使である。これらは律令に最初から規定された官職ではなく、治安悪化や武装蜂起に対応するために発達した令外官だった。10世紀中葉以降、諸国では国司が国内の有力者を推薦し、彼らが「凶党」や盗賊の追捕にあたる例が増えていく。ここで重要なのは、朝廷と地方武力が単純に敵対していたわけではないことである。

平将門を討った藤原秀郷や平貞盛のように、地方に軍事的基盤を持つ人物は朝廷の命令を受けて反乱鎮圧に参加し、その功績を通じて地位を高めた。10世紀後半には、国司行政の内部に軍事力を持つ在地有力者が組み込まれる傾向がさらに明瞭になる。「武士」がある日突然誕生したのではなく、郡司層、富豪層、軍事貴族、受領の子弟、武装した従者などが長期的に再編される中で、後世の武士団につながる基盤が形成されていった。

同時に、押領使や追捕使が常に秩序の守護者だったわけでもない。福井県史が紹介する952年の越前国の事例では、追捕・押領使の兵卒が権威を利用して人民を脅かすとして停止が申請されている。治安維持のための武力が、地域社会にとって新たな圧力になることもあった。国家が地方武力を利用することは、統治能力の強化であると同時に、武力の担い手へ一定の権限を与えることでもあった。

徴税と土地支配 — 受領制へ向かう変化

10世紀の地方行政では、律令制初期の戸籍・計帳にもとづく個々の人民把握が次第に機能しにくくなり、国司が国内から一定の税収を確保する責任を強く負う方向へ変化していた。中央政府は地方社会の細部を直接管理するよりも、国司、とくに任国へ赴任して実務を掌握する受領に徴税と行政の責任を集中させていく。

この変化を「律令国家の崩壊」とだけ呼ぶと、その後も太政官、国司、国衙、官符、租税輸送などが長く機能し続けたことを説明できない。制度は消滅するのではなく、運用の仕方を変えていた。国衙は郡司や在地有力者、田堵などと関係を結び、官物や臨時雑役を確保する。中央の貴族や寺社が荘園を持つ一方で、国衙領もまた重要な財政基盤となった。

地方から京へ運ばれる米や特産物は、宮廷と貴族社会の生活を支えた。輸送路の安全確保は行政と軍事の双方に関わり、海上では海賊、陸上では群盗への対策が必要だった。承平・天慶の乱後に追捕機構が整えられた背景には、反乱鎮圧だけでなく、税物と交通路を守る必要もあった。

円融朝初期の宮廷政治は、この地方からの財政資源なしには成り立たない。摂政・関白を中心とした上級貴族は京都に集まっていたが、その家政を支える収入、寺院造営、儀礼、衣食、贈答は全国的な徴税と流通に依存していた。中央政治史と経済史を分けずに見ると、摂関政治とは地方社会から集められる資源を朝廷と貴族社会がどのように組織するかという問題でもあったことがわかる。

都と地方を結ぶ交通 — 税物、使者、情報の移動

10世紀の国家を支えたのは、京都の官庁だけではなく、人と物と情報を移動させる交通網だった。諸国で徴収された米、布、特産物などは国衙を経て都へ送られ、官人や寺社、宮廷儀礼を支える財源となった。海路・河川・陸路のいずれでも輸送には大きな労力が必要であり、途中で盗賊や海賊に襲われる危険もあった。地方の治安維持が中央財政の問題でもあった理由はここにある。

国司が中央へ送る報告も、使者が物理的に移動して届けた。972年の高麗使に関する情報が対馬から大宰府、さらに京都へ伝わったことは、その仕組みを具体的に示している。現代の通信のように即時ではなく、海況、道路事情、宿泊、馬の手配などに左右されながら情報が移動した。そのため地方で事件が起きてから中央の判断が届くまでには時間差が生じた。

この時間差は、国司や在地有力者に一定の裁量を必要とさせた。盗賊の発生、争論、外国船の来着、災害など、すべてについて京都から逐一指示を待つことはできない。現地で暫定的な対応を取り、その後に太政官へ報告し、正式な承認や追加指示を求める運用が行われた。受領に権限が集中していく背景には、こうした現実的な行政条件もあった。

一方で、交通網は地方を中央に従属させるだけの仕組みでもなかった。都から国司として赴任した貴族は任期を終えると京へ戻り、地方で得た情報、人脈、財産を持ち帰った。寺社の僧侶、商人、工人、武装した従者も地域間を移動した。瀬戸内海、北九州、日本海沿岸、東海道・東山道などには、それぞれ異なる人と物の流れが存在した。

この移動性を考えると、平安時代中期を「京都の貴族と閉ざされた地方」という図式で捉えることは難しい。京都の政治は全国から集められる資源に依存し、地方の有力者は中央の官位や権威を利用した。10世紀後半の国家は、強い中央集権がすべてを直接管理した社会でも、地方が完全に自立した社会でもなく、交通と文書と人的ネットワークによって結ばれた多層的な秩序だった。

藤原伊尹と宮廷文化 — 『後撰和歌集』の時代

伊尹は政治家としてだけでなく、和歌史でも重要な人物である。951年、村上天皇の命によって宮中の梨壺に撰和歌所が置かれた際、伊尹は別当に任じられた。大中臣能宣、清原元輔、源順、紀時文、坂上望城のいわゆる「梨壺の五人」が『万葉集』の訓読と勅撰和歌集の編纂にあたり、のちに『後撰和歌集』として伝わる作品群が形成された。

『後撰和歌集』の完成時期については諸説があり、現存本文にも複雑な問題があるため、951年に命令が出てその年に現在の形が完成した、と単純に書くことはできない。それでも伊尹が編纂事業の責任者として関わったことは、10世紀の上級貴族にとって政治と文学が別世界ではなかったことを示す。宮廷での和歌は、恋愛や季節感を表すだけでなく、贈答、人間関係、儀礼、社交の重要な手段だった。

伊尹自身にも家集『一条摂政御集』が伝わる。そこから見えるのは、摂政という最高政治権力者が同時に和歌を詠み、宮廷文化の担い手でもあった社会である。政治家が文学に関心を持ったというより、和歌・漢詩・音楽・儀礼への習熟が上級貴族としての能力や教養の一部を構成していた。

この文化的環境は、のちの一条朝に『枕草子』『源氏物語』などが生まれる背景へつながっていく。もちろん円融朝初期から一条朝へ一直線に文学が発展したわけではないが、村上朝以来の宮廷文化、女房社会、和歌の贈答、后妃を中心としたサロン的空間が次第に厚みを増していく時期として位置づけられる。

国家儀礼と宗教 — 幼帝を支える政治文化

平安時代の国家運営では、政治と宗教を現代のように明確に分離することはできない。天皇の即位、大嘗祭、節会、祈雨、疫病への祈祷などは国家儀礼の一部であり、神祇官、寺院、僧侶、陰陽寮などが朝廷の秩序維持に関わっていた。天変地異や疫病は政治的にも重大な意味を持ち、改元や大赦、祈祷が行われることがあった。

円融天皇は969年に即位し、翌970年には安和から天禄へ改元された。改元は単なる暦上の名称変更ではなく、天皇の治世と時代秩序を更新する政治的・宗教的行為でもあった。同年には大嘗祭も行われ、新天皇の統治を儀礼的に確立する過程が続いた。

また10世紀には、天台宗・真言宗など既存の国家仏教が大きな寺院勢力として存続する一方、空也の活動や浄土信仰の広がりなど、都市や民衆の宗教実践にも変化が見られる。円融朝初期だけに限定できる現象ではないが、政治秩序の再編と同じ時代に宗教の担い手や信仰形態も多様化していた。

天皇や摂関家は寺院建立や法会への支援を通じて宗教的権威とも結びついた。後年、円融天皇自身も出家し、御願寺を建立することになる。平安中期の王権は、官僚制度だけでなく、神仏への祈願、祖先祭祀、儀礼空間を含む広い文化的秩序の中で成立していた。

972年の高麗使 — 海を越える情報と外交

円融朝初期の日本を京都だけで見ると、東アジアとの関係がほとんど存在しなかったように見える。しかし唐が907年に滅亡した後も、日本列島と朝鮮半島・中国大陸との人と物の移動は続いていた。朝鮮半島では918年に高麗が成立し、936年には半島を統一した。日本側の外交制度は遣唐使時代と同じ形ではなくなったが、大宰府・対馬などを窓口とした接触は継続した。

972年(天禄3)には、高麗側の使者が牒を携えて対馬へ到着したことを大宰府が朝廷へ報告した記録がある。『日本紀略』や後世に引用された公卿日記類によって確認される出来事で、日本側は高麗からの文書を受け取り、その扱いを朝廷で検討した。これは正式な国交が安定して再開していたという意味ではないが、海を越える外交文書と使者の往来が現実に存在したことを示す。

大宰府は西海道の行政機関であると同時に、対外関係の最前線でもあった。外国船や使者が九州・対馬周辺に到来すると、現地だけで処理せず、その情報が京都へ送られ、朝廷で対応が検討された。この情報伝達には時間がかかったが、列島西端の出来事が太政官の政治課題となる制度的経路は維持されていた。

10世紀後半には高麗との間で使節、商人、漂着者などさまざまな形の接触が記録される。のちには中国大陸で宋が成立し、博多などを通じた民間交易も発展していく。国家間の公式使節だけを「外交」と考えると見落とされるが、海商、僧侶、漂流民、地方官司を介した海域交流が続いていたことは、日本の経済・文化・情報環境を考えるうえで重要である。

史料から見る円融朝初期

969〜972年を研究するうえで大きな問題となるのは、六国史のような同時代国家編纂史書がこの時期には存在しないことである。『日本三代実録』は887年までを対象とするため、それ以後の10世紀政治は、公卿の日記、太政官文書、後世に編纂された『日本紀略』『扶桑略記』、系図、物語文学などを組み合わせて復元する必要がある。

『日本紀略』は平安時代の歴史を知るうえで重要だが、同時代に毎年編纂された正史ではなく、先行する記録を利用して後世にまとめられた編年史である。国文学研究資料館の国書データベースには複数の伝本が登録されており、本文が写本によって伝わったことそのものを確認できる。したがって一つの記述を読む場合でも、可能であれば引用元の日記や文書、他の史料と照合する必要がある。

また『大鏡』や『栄花物語』は、藤原氏の人物像や宮廷社会を理解するうえで非常に豊かな史料だが、出来事から時間を隔てて成立した文学作品でもある。兼通と兼家の兄弟対立、天皇や后妃をめぐる逸話などは印象的であるほど後世の歴史イメージを形作ってきた。記事では、そうした物語が伝える内容と、官職就任・死去・即位といった年代的に確認しやすい事実を区別して扱う必要がある。

一方で、後世史料だから価値が低いという意味ではない。後世の人々が10世紀をどのように理解し、藤原氏の権力や皇位継承をどのような物語として記憶したのかを知るためには、これらの作品が欠かせない。歴史研究では「史料に書いてあること」と「実際に起きたこと」を同一視せず、史料がいつ、誰によって、何の目的で書かれたかを考えることが重要である。

後世がつくった「摂関政治」の像

円融朝初期の政治は、後世の歴史叙述によって強いイメージを与えられてきた。とくに『大鏡』は藤原北家の系譜と人物を中心に過去を語り、摂関家の権力形成を印象的な逸話として描く。兼通と兼家の対立、后妃をめぐる駆け引き、天皇と公卿の個人的なやり取りなどは、政治史を理解するうえで魅力的な材料である一方、それが事件当時の録音記録のようなものではないことを忘れてはならない。

物語文学には、人物の性格や因果関係を分かりやすくするための構成がある。ある人物が成功した理由を「賢明だったから」、失脚した理由を「傲慢だったから」と説明する語りは、読者には理解しやすい。しかし実際の政治変化には、病死、皇子の出生、官位の序列、他家との婚姻、天皇の年齢、災害、地方情勢など多くの要因が絡む。伊尹が972年に比較的若く死去したこと一つを取っても、その後の兼通・兼家競争は大きく変化した。

近代以降の日本史叙述でも、「摂関政治」という便利な時代区分が使われてきた。これは政治構造を理解するうえで有効だが、摂政・関白が置かれたすべての時期が同じ仕組みだったわけではない。858年の良房、930年の忠平、970年の伊尹、995年以降の道長では、皇室との関係も公卿社会の配置も異なる。摂関政治は完成済みの制度が長期間そのまま続いたのではなく、世代ごとに調整されながら形成された。

また「藤原氏が天皇から実権を奪った」という表現も、政治の一面しか示さない。摂関家の権力は天皇制を否定することで成立したのではなく、天皇の外戚となり、天皇の権威に最も近い位置を占めることで成立した。円融朝研究では、天皇自身が人事や政務判断に関与したことも指摘されている。天皇と摂関は常に敵対する二つの権力ではなく、競合しながらも同じ朝廷機構を運営する関係だった。

この視点を持つと、969〜972年は「藤原氏が勝った三年間」ではなく、天皇を中心とする政治制度の中で、どの家がどのように最も有利な位置を得るかという競争が新しい形に変わった時期として見えてくる。そこには制度、家族、文化、文書行政、地方支配がすべて関わっていた。

日本史の中でこの時代を見る意味

969〜972年は、安和の変と円融天皇即位、実頼の死、伊尹の摂政就任と死という大きな出来事が短期間に連続した。そのため「藤原北家が権力を独占していく時代」と説明されやすい。しかし実際には、ここで完成したのは固定的な一族支配ではなく、天皇との婚姻、摂政・関白という職、太政官の官位序列、家政機構を組み合わせた新しい政治競争のルールだった。

藤原氏が強くなった一方で、その内部では実頼系と師輔系、さらに師輔の子どもたちが競争した。皇位継承も一方的に摂関家が決められるものではなく、皇統、天皇本人の意向、公卿社会の合意、后妃と皇子の存在が関係した。円融天皇も成長とともに政治的意思を示していくため、摂関政治を「天皇から藤原氏へ権力が移った」という一本線だけで理解することはできない。

また同じ時期、地方では受領を中心とする国司行政と、押領使・追捕使などを通じた在地武力の組み込みが進んだ。これはのちの武士社会へつながる長い変化の一部である。京都の摂関家と地方武士は、最初から別々の世界にいたのではない。地方で徴収された税や物資が京都を支え、中央の官位や追捕命令が地方有力者の地位を高めるという相互依存が形成されていた。

さらに972年の高麗使到来は、遣唐使停止後の日本が「鎖国」状態になったわけではないことを示している。公式使節のあり方が変わっても、大宰府と対馬を通じて海外情報や人の移動は続いた。10世紀後半は、摂関政治、受領制、地方軍事力、東アジア海域交流が同時に組み替えられていく時代だった。

円融朝初期を見る意味は、後世の藤原道長時代を「完成形」として逆算しないことにある。970年代初頭には、誰が次の摂関になるのか、どの后妃が皇子を生むのか、どの皇統が続くのかはまだ決まっていなかった。政治制度は固定された設計図ではなく、人の死、出生、婚姻、昇進、失脚という偶然を取り込みながら形成されていったのである。

主な流れ

次の時代へ — 兼通・兼家の時代

伊尹の死後、藤原北家の主導権は弟たちへ移る。しかしそこで起きたのは安定した世襲ではなく、兼通と兼家の激しい競争だった。兼通は円融天皇の信任を得て関白となり、娘媓子を入内させる。一方の兼家も、娘詮子を円融天皇の女御とし、のちの一条天皇となる懐仁親王の誕生によって大きく地位を高めることになる。

次の時代では、972年以降の円融朝をたどりながら、兼通と兼家の対立、后妃政策、関白藤原頼忠への交代、天皇自身の政治的判断を見ていく。ここから摂関政治は、単に摂政・関白という官職だけでなく、「誰が天皇の外祖父になるか」をめぐる家同士の競争として、さらに明確な形をとっていく。

参考資料・出典