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538–587年

仏教伝来と氏族政治

蘇我氏、物部氏、百済との交流

6世紀中頃、ヤマト王権に新しい宗教体系が公的にもたらされました。仏教です。百済の聖明王から仏像、経典などが倭の王権へ贈られたと伝えられ、日本列島の政治と文化は新しい段階へ入りました。

ただし、仏教が伝わった年について史料は一致していません。『日本書紀』は552年と記す一方、『上宮聖徳法王帝説』や『元興寺伽藍縁起并流記資財帳』などの系統から538年とする説があり、奈良国立博物館も現在は538年説が有力と説明しています。本記事では538年を時代の起点としつつ、552年説も併記します。

また、「仏教伝来」とは、日本列島の人々が538年に初めて仏教を知ったという意味ではありません。渡来系集団などを通じて、それ以前から仏教に接していた人々がいた可能性があります。538年あるいは552年が重要なのは、百済王から倭の王権へ仏像・経典などが正式に贈られ、王権内部で公的な受容の可否が政治問題になった点です。

『日本書紀』は、蘇我稲目が仏教受容に賛成し、物部尾輿と中臣鎌子が反対したと記します。その後、疫病の流行を仏教礼拝と結びつけて寺や仏像を破却したという記事が続きます。しかし、これを単純な「進歩的な蘇我氏対保守的な物部氏」という宗教論争だけで理解するのは十分ではありません。王位継承、対外関係、祭祀権、氏族間の政治的競争が重なっていました。

さらに同じ時代、朝鮮半島では高句麗・百済・新羅・加耶諸国の勢力関係が大きく変化します。532年に金官加耶が新羅へ降り、562年には大加耶も新羅に敗れ、加耶諸国は消滅しました。鉄と海上交通を通じて加耶と深い関係を持ってきた倭にとって、半島南部の再編は重大な問題でした。百済との政治・文化的結びつきがさらに強まり、その中で仏教も伝えられたのです。

仏教伝来とは何を意味するのか

仏教はインドで成立し、中央アジア・中国を経て朝鮮半島へ広がりました。6世紀の百済・新羅・高句麗では、仏教はすでに王権と密接に結びつく国際的な宗教でした。

そのため倭への仏教公伝を、単に「新しい宗教が紹介された出来事」と考えるだけでは不十分です。仏教は文字文化、建築、彫刻、金属加工、瓦生産、暦、儀礼、僧侶制度など、多数の知識と専門技術を伴いました。

さらに、仏像や経典を百済王が倭王へ贈ること自体が外交行為でした。仏教受容は、百済との関係をどう構築し、東アジア世界の中で倭王権をどう位置づけるかという国際政治の問題でもありました。

538年説と552年説

仏教が王権へ公的に伝えられた年代には、538年説と552年説があります。

『日本書紀』は欽明13年、552年に百済の聖明王が金銅の釈迦仏、経論などを献上したと記します。明日香村の豊浦寺跡の公式解説も、この『日本書紀』の記事を紹介しています。

一方、『上宮聖徳法王帝説』や『元興寺伽藍縁起并流記資財帳』に基づく538年説があり、奈良国立博物館は現在、538年説が有力としています。

二つの年代が生じた背景には、史料の成立時期、年次計算、仏教伝来をどの出来事に置くかという問題があります。本記事では538年を年代軸に採用しますが、552年説を誤りとして単純に切り捨てることはしません。

公伝以前の仏教

公的な仏教伝来以前にも、日本列島には朝鮮半島や中国大陸から多くの人々が渡来していました。5世紀以来、須恵器、鉄加工、馬飼育、文字などの技術を持つ渡来系集団が各地に定着しています。

明日香村の研究資料は、仏教公伝以前にも渡来系氏族を中心として仏教が列島へ入っていた可能性を指摘しています。

したがって538年または552年は「仏教を知る人間が初めて日本列島へ来た年」ではなく、百済王と倭王権の正式な外交関係の中で、仏像・経典などが公的に献上された節目と理解する方が適切です。

百済からもたらされた仏教

奈良国立博物館によれば、百済の聖明王は倭の朝廷へ仏像、経論などを送り、仏教が優れた教えであることを伝えたとされます。

『日本書紀』の552年記事では、金銅の釈迦仏一体、幡蓋、経論などが献上されたと記されます。仏教は言葉だけで紹介されたのではなく、礼拝対象と経典、儀礼具を伴っていました。

百済側にとっても、この贈与には政治的意味がありました。新羅・高句麗との競合の中で、海を隔てた倭との関係を強めることは重要でした。宗教外交と軍事外交は別々の世界ではありませんでした。

仏像だけが来たのではない

仏教を実際に社会へ定着させるには、仏像が一体あるだけでは足りません。経典を読める人、儀礼を行う僧侶、寺院を設計する技術者、瓦を作る工人、仏像を作る工人などが必要です。

そのため6世紀後半から7世紀にかけ、百済を中心に朝鮮半島から僧、寺工、瓦博士、画工などが渡来します。588年の飛鳥寺造営では、奈良文化財研究所が百済から寺院建築の専門技術者が招かれたことを説明しています。

仏教受容は、人材移動と技術移転を長期間必要とする巨大事業でした。その政治的・経済的負担を引き受けられる氏族こそが、新しい文化資源を利用して力を拡大できました。

欽明大王と氏族政治

仏教公伝の記事は、後世の史料では欽明朝の出来事として記されています。欽明大王の時代には、大王を中心に蘇我氏、物部氏、大伴氏などの有力氏族が政治を担っていました。

この政治体制では、後世の官僚制のように大王の命令がすべての氏族へ一方的に行き渡るわけではありません。有力氏族はそれぞれ人員、土地、軍事、祭祀、外交などに関わる独自基盤を持っていました。

そのため新しい宗教を王権全体で受け入れるかどうかは、大王一人で決定できる単純な問題ではありませんでした。主要氏族の同意と利益調整が必要だったのです。

蘇我稲目

『日本書紀』では、百済から献上された仏像を受け入れるべきだと主張した人物が蘇我稲目です。

稲目は大臣として王権中枢に位置し、後の蘇我馬子へつながる蘇我氏の政治基盤を強めた人物として描かれます。

蘇我氏は後に大王家との婚姻を積極的に進め、渡来系集団との関係も深めます。仏教受容も、単なる個人的信仰ではなく、蘇我氏が新しい国際文化と人材を自らの政治基盤へ取り込む機会になったと考えられます。

物部尾輿

『日本書紀』で仏教受容に反対した有力者の一人が物部尾輿です。

物部氏は王権の軍事・武器管理などと深く関係する有力氏族で、前の時代から王権中枢に大きな力を持っていました。

尾輿が仏教に反対した理由を「外国文化が嫌いだった」と単純に説明することはできません。史料では国神の怒りを恐れたとされますが、新しい宗教の受容が蘇我氏の政治的優位を強める可能性も、氏族間対立の背景にあったと考えられています。

中臣氏と祭祀

『日本書紀』では中臣鎌子も仏教受容に反対した人物として登場します。中臣氏は王権の神祇祭祀と関係する氏族でした。

仏教の礼拝は、それまで大王や氏族が行ってきた神祇祭祀とは異なる制度・儀礼を持ち込みます。そのため新しい宗教の導入は、既存の祭祀体系とそれを担当する氏族の政治的位置にも影響する可能性がありました。

宗教上の信念と氏族の職掌・政治利益を完全に分けることは難しく、両者が重なっていたと見るべきです。

受容をめぐる最初の対立

『日本書紀』の物語では、欽明大王が仏像の礼拝を臣下に相談すると、蘇我稲目は受容を主張し、物部尾輿・中臣鎌子は反対しました。

大王は王権全体で直ちに仏教を採用するのではなく、仏像を稲目に与え、試みに礼拝させたと記されます。

この構図が史実をどこまで正確に再現しているかは慎重に考える必要がありますが、新宗教の導入が王権内部の合意を得られず、一氏族の信仰として限定的に始まったという理解は重要です。

向原の家と豊浦寺

明日香村の豊浦寺跡は、蘇我稲目が仏像を受け取り、向原の家を寺として礼拝したという『日本書紀』の伝承と結びつく場所です。

同地は後に豊浦寺・向原寺と呼ばれ、推古天皇の豊浦宮との関係も伝えられています。

この最初期段階では、後の飛鳥寺のような塔・金堂・回廊を備えた本格的寺院はまだ存在しません。既存の邸宅を仏教礼拝の場所として用いる「捨宅寺院」「草堂寺院」のような形態だったと考えられています。

疫病と仏教排斥

『日本書紀』は、蘇我稲目が仏像を礼拝した後に疫病が流行すると、物部氏・中臣氏が「異国の神を祀ったため、国神が怒った」と主張したと伝えます。

その結果、寺が焼かれ、仏像が難波の堀江へ捨てられたという物語が記されています。

現代医学の観点では、もちろん仏像礼拝が疫病を発生させたわけではありません。しかし当時の社会では、疫病・災害・政治的異変を祭祀の失敗や神の怒りと結びつけて理解することがありました。

新しい宗教の正当性は思想だけでなく、「社会に災いをもたらすか、利益をもたらすか」という現実の出来事と結びつけて判断されました。

『日本書紀』の物語をそのまま事実にしない

538~587年の仏教受容を考える際、大部分の政治的エピソードは720年に完成した『日本書紀』に依存します。出来事から100年以上後に王権側で編纂された史書です。

そのため、蘇我氏を一貫した崇仏派、物部氏を一貫した排仏派として描く物語が、6世紀の複雑な政治関係を単純化している可能性があります。

一方、豊浦寺跡、飛鳥寺跡、古墳、渡来系遺物などの考古学資料は、新宗教と大陸文化が実際に地域社会へ入っていったことを示します。

文献が語る事件と考古学的変化を照合しながら、確定できる範囲と後世の物語を分ける必要があります。

宗教問題と氏族政治

蘇我氏と物部氏の対立を理解する鍵は、仏教だけではありません。両氏族は王権中枢で異なる政治・軍事・祭祀・外交資源を持ち、王位継承にも深く関与しました。

どの王族を次の大王にするかは、氏族の将来を左右します。王族との婚姻関係、海外外交の担当、軍事組織、地域首長との関係が重なり、有力氏族間の連合と競争が形成されました。

仏教受容は、こうした政治競争を可視化する争点の一つになりました。新しい宗教を支持することは、新しい外交関係・技術・人材を支持する政治的選択でもあったからです。

蘇我氏と大王家の婚姻

蘇我氏は大王家との婚姻を通じて政治的位置を強めました。蘇我稲目の娘たちは欽明大王の妃となり、その子孫から後の大王が出ます。

この婚姻戦略によって、蘇我氏は単なる有力臣下ではなく、次世代の王位継承候補と血縁関係を持つ外戚となりました。

6世紀後半の政治対立で蘇我馬子が王位継承に強い影響力を持てた背景には、父・稲目の時代から築かれた婚姻関係があります。

百済との外交関係

百済と倭の関係は仏教だけに限られません。百済は高句麗・新羅との競争の中で倭との軍事・外交関係を重視し、倭側は百済を通じて大陸の制度・技術・知識へアクセスしました。

6世紀には僧侶、学者、医師、暦・易に関わる知識人、工人などの往来が史料に現れます。

仏教公伝は、この広い人的交流の一部です。百済との外交を維持することは、新しい知識体系を継続的に受け取るルートを確保することでもありました。

技術者・学者・僧侶の移動

倭王権が新しい文化を取り入れる際、最も重要なのは「物」よりも「人」でした。

仏像だけを入手しても作り方は分かりません。経典だけあっても読める人が必要です。寺院建築には設計・測量・瓦・木工・彩色・金工など多くの専門技術が必要です。

588年に飛鳥寺造営が始まる際には、百済から僧や専門技術者が来たと奈良文化財研究所が説明しています。538~587年は、そうした本格的な技術移転を可能にする外交と人材ネットワークが準備された時代でした。

加耶諸国の衰退

朝鮮半島南部の加耶諸国は、3~6世紀に倭と密接に交流していました。文化庁は、加耶が豊富な鉄を背景に発展し、倭・百済・新羅・中国などとの交易を行ったと説明しています。

しかし6世紀に入ると新羅が勢力を拡大します。532年には金官加耶が新羅へ降り、加耶諸国の独立性は次第に失われました。

倭にとって加耶は鉄や技術、人材を得る重要な窓口でした。その衰退は、列島側の対外政策にも直接影響しました。

562年 加耶諸国の終焉

文化庁の特別展「加耶」の解説によれば、562年に大加耶が新羅軍に敗れ、加耶諸国は最終的に滅亡しました。

東京国立博物館も、562年の加耶滅亡によって倭が朝鮮半島における従来の足場を失ったと説明しています。

これは倭と朝鮮半島の交流が終わったことを意味しません。むしろ、百済・新羅との直接的な外交関係の重要性が高まり、倭王権は新しい半島政治への対応を迫られました。

東アジア秩序の変化と倭

6世紀後半の東アジアでは、中国大陸は南北朝の分裂期にあり、朝鮮半島では高句麗・百済・新羅が競争していました。

倭は一つの相手だけと固定的に同盟したわけではありません。百済との関係が特に深い一方、新羅とも外交・交易を持ち、半島情勢によって関係は変化しました。

この国際環境の中で、仏教は単なる信仰ではなく、東アジア諸国が共有する政治文化の一つでした。仏教を理解し寺院を持つことは、国際社会で利用される共通文化を持つことでもありました。

敏達大王の時代

欽明大王の後、敏達大王の時代になると、蘇我氏と物部氏の次世代が王権政治の前面へ現れます。

蘇我氏では馬子、物部氏では守屋が有力者となり、外交、王位継承、仏教受容をめぐる対立が次第に明確になります。

この時代にも倭王権は百済・新羅などとの外交を続けており、氏族間の政治競争は国内問題だけではなく、どの対外関係を重視するかという問題ともつながっていました。

蘇我馬子の登場

蘇我馬子は稲目の子で、6世紀後半から7世紀初頭の王権政治で中心的役割を担います。

父の時代から続く大王家との婚姻関係、渡来系人材との結びつき、仏教支持を政治基盤として、馬子は王位継承にも強い影響力を持つようになります。

587年の物部氏との戦争に勝利した後は、飛鳥寺の造営を開始し、蘇我氏の政治・宗教的拠点を飛鳥に築きます。

物部守屋

物部守屋は6世紀後半の物部氏を代表する人物で、敏達・用明朝に大連として王権中枢で大きな力を持ちました。

文化遺産オンラインは、6世紀中葉以降に大連の地位を物部氏が独占し、587年に守屋が蘇我馬子に滅ぼされたことで大連職が廃止されたと説明しています。

守屋は『日本書紀』では排仏側の中心人物として描かれますが、同時に軍事・王位継承をめぐる大政治勢力の指導者でもありました。

584年 馬子の仏教信仰

明日香村の研究資料によれば、584年頃、蘇我馬子は仏像を得て自らの邸宅周辺に仏殿を設け、仏教礼拝を進めたと『日本書紀』に記されています。

この段階でも、まだ王権全体が仏教を正式な国家宗教として採用したわけではありません。蘇我氏を中心とする有力者の信仰として進んでいました。

しかし稲目の時代と比べると、仏教を実際に継続して信仰し、出家者を養成し、寺院的施設を持とうとする動きが強くなっています。

善信尼らと最初期の出家者

『日本書紀』は、蘇我馬子が司馬達等の娘・嶋ら三人の女性を出家させたと記します。嶋は善信尼と呼ばれました。

明日香村の研究資料は、最初期の出家者がいずれも渡来系の女性だったことに注目しています。

これは初期仏教が、蘇我氏の政治保護だけでなく、渡来系集団の人的ネットワークによって支えられていたことを示します。

出家とは髪を剃れば完成するものではなく、戒律、経典、儀礼の体系を学ぶ必要があります。後に善信尼らが百済へ渡って受戒したとされることからも、日本列島だけで仏教制度を完結できない段階だったことが分かります。

585年 疫病と再びの排仏

585年頃、疫病が流行すると、再び仏教信仰を原因とする議論が起きたと『日本書紀』は記します。

物部守屋らは寺塔を破壊し、仏像を焼き、善信尼らを弾圧したとされます。一方、その後に大王や守屋自身も病にかかると、今度は仏教を迫害したためだとする見方が生じ、馬子の仏教信仰が限定的に認められたと伝えられます。

この一連の記事は、疫病という社会的危機が宗教政策の正当性を左右し、それが氏族間の政治争いと直結したことを物語っています。

用明大王と仏教

敏達大王の死後、用明大王が即位します。用明は蘇我稲目の娘を母に持ち、蘇我氏との血縁が強い王族でした。

『日本書紀』では用明大王自身が仏法を信じたとされ、蘇我氏側に有利な政治環境が形成されます。

しかし用明の在位は短く、587年に死去します。その死によって、次の大王を誰にするかという王位継承問題が一気に表面化しました。

王位継承問題が重なる

587年の政治危機を「仏教を信じる蘇我氏と、神道を守る物部氏の宗教戦争」とだけ説明することはできません。

用明大王の死後、複数の王族が次期大王候補となり、蘇我馬子と物部守屋は異なる王族を支持する政治陣営を形成しました。

どの王族が即位するかによって、外戚関係を持つ氏族の政治的位置が大きく変わります。仏教政策はこの王位継承問題と重なり、対立が武力衝突まで拡大しました。

穴穂部皇子をめぐる政治

『日本書紀』では、穴穂部皇子が王位を狙う有力候補として登場し、物部守屋と接近したと描かれます。

一方、蘇我馬子側は別の王族を支持し、穴穂部皇子は物部氏との決戦前に殺害されます。

この経過からも、587年の戦争が仏教受容だけを目的としたものではなく、次期王位と王権中枢の主導権をめぐる政治闘争だったことが分かります。

厩戸皇子の登場

587年の物部守屋との戦いには、若い厩戸皇子も蘇我馬子側で参加したと『日本書紀』は記します。後世に聖徳太子として知られる人物です。

八尾市も、物部守屋と蘇我馬子・厩戸皇子の連合軍が同地域で戦った伝承を紹介しています。

ただし、厩戸皇子をこの時点ですでに後世の「聖徳太子」像として扱うことには注意が必要です。587年の彼は王族の一人であり、後に推古朝で政治的役割を持つ人物として歴史の前面に現れていきます。

587年 蘇我・物部戦争

587年、蘇我馬子を中心とする勢力と物部守屋を中心とする勢力が武力衝突しました。一般に「丁未の乱」「丁未の役」「蘇我・物部戦争」などと呼ばれます。

明日香村は、仏教受容をめぐる対立が豪族間の権力争いとともに激化し、馬子・厩戸皇子側が守屋を討ったと説明しています。

戦争には多くの氏族と王族が参加しました。つまり蘇我氏と物部氏という二家族だけの私闘ではなく、王権全体の政治秩序を再編する内戦でした。

河内渋川の戦闘

戦いの重要な舞台となったのが河内国渋川、現在の大阪府八尾市周辺です。

八尾市は、この地域を拠点とした物部守屋と、蘇我馬子・厩戸皇子側の連合軍が戦ったと説明しています。

『日本書紀』には蘇我側が何度も退けられた後、守屋が討たれて戦況が決したという物語が記されます。後世には厩戸皇子が四天王像を作って戦勝を祈願したという伝承も発達します。

ただし、個々の戦闘描写や伝説的エピソードを同時代の軍事記録と同じ精度で扱うことはできません。

物部守屋の敗死

587年、物部守屋は戦闘で敗死し、物部氏の王権中枢における政治的優位は大きく失われました。

文化遺産オンラインは、守屋が蘇我馬子に滅ぼされた後、大連の職が廃止されたと説明しています。

ただし物部氏という氏族全体が日本列島から消滅したわけではありません。一族や関係集団は各地に残ります。失われたのは、守屋を中心とする物部氏主流が王権中枢で持っていた最高級の政治的位置でした。

「崇仏派対排仏派」だけではない

587年の戦争を、仏教を支持する蘇我氏と日本古来の宗教を守る物部氏の対立として説明すると分かりやすくなります。

しかし実際には、王位継承、有力氏族間の権力競争、婚姻関係、軍事組織、対百済・新羅外交、祭祀権などが重なっていました。

また「神道」という後世に体系化された概念を、そのまま6世紀へ当てはめることにも注意が必要です。当時の在来祭祀は氏族や地域ごとに多様で、後世の神道制度と同じものではありません。

仏教は対立の象徴的争点でしたが、戦争の唯一の原因ではありません。

勝者となった蘇我氏

物部守屋の敗北後、蘇我馬子は王権中枢で最大級の政治力を持つ氏族指導者となります。

蘇我氏は大王家との婚姻、渡来系集団との関係、仏教支援、飛鳥地域の拠点を組み合わせ、次の崇峻・推古朝で政治の中心を担います。

しかし「蘇我氏が王権を乗っ取った」と単純化することもできません。王族、有力氏族、地域首長との連合を維持しなければ、馬子一人で政治を動かすことはできませんでした。

寺院建立という戦勝誓願

『日本書紀』は、物部守屋との戦いの際、蘇我馬子と厩戸皇子が勝利したなら寺塔を建立すると誓願したと記します。

明日香村の飛鳥寺跡解説も、この誓願と法興寺建立の関係を紹介しています。

戦争の勝利と寺院建立が結びつけられたことは、仏教が個人的礼拝から政治権威を示す公共的施設へ変わり始めたことを象徴します。

飛鳥寺造営へ

587年に物部守屋が敗れた翌588年、蘇我馬子は法興寺、後の飛鳥寺の造営を本格的に開始します。

奈良文化財研究所は飛鳥寺を、日本で最初に本格的な伽藍配置を備えた寺院と説明し、百済から専門技術者を招いて建設したことを紹介しています。

飛鳥寺の造営は次の記事の時代に属しますが、587年の政治決着なしには理解できません。物部氏の敗北によって、仏教寺院建設へ王権・有力氏族の資源を大規模に投入できる政治環境が生まれました。

古墳から寺院へ向かう政治表現

6世紀まで、有力者の政治力を最も大規模に表現する建造物は古墳でした。しかし6世紀末以降、巨大寺院が新しい権威表現として重要になります。

寺院は死者のためだけの施設ではありません。生きている氏族が継続して管理し、僧侶が活動し、外交使節や人々が目にする公共的な施設です。

巨大な土の墓へ権威を固定する社会から、建物・仏像・文字・儀礼を継続的に運営する社会へ移ることは、政治組織そのものの変化とも関係していました。

ただし古墳築造が587年に突然終わったわけではなく、寺院と古墳はしばらく並存します。

まだ「国家仏教」ではない

538~587年の仏教を、奈良時代のような国家仏教と同一視することはできません。

明日香村の研究資料も、公伝当初から仏教が国策として全面導入されたわけではなく、崇仏と排仏が繰り返されたと指摘しています。

王権が仏教を積極的に保護し、寺院建設が広がるのは587年の政治決着後です。さらに推古朝になると、仏教と国家形成の関係はより明確になります。

538~587年は、仏教を受け入れるかどうかを王権と氏族が試行錯誤した「選択の時代」でした。

日本史の中でこの時代を見る意味

538~587年は、日本史を「仏教が伝わった時代」とだけ覚えると、本質を見落とします。

第一に、仏教公伝は東アジア外交の出来事でした。百済王から倭王へ仏像・経典が送られ、宗教と外交が一体となっています。

第二に、仏教は氏族政治を揺さぶりました。新宗教を受け入れることは、新しい専門家、技術、外交ルート、権威を誰が管理するかという問題でした。

第三に、この時代の政治はまだ大王の独裁ではありません。蘇我氏・物部氏など有力氏族が王位継承や軍事を左右し、587年には王権内部が実際に内戦へ発展しました。

第四に、日本列島の変化は朝鮮半島情勢と直結していました。加耶諸国の消滅、新羅の拡大、百済との関係強化が、倭の外交・技術・宗教政策へ影響しました。

そして587年の物部氏敗北によって、蘇我氏を中心とする新しい政治体制が成立します。その翌年には飛鳥寺造営が始まり、政治の中心も巨大古墳の時代から寺院と宮が集中する飛鳥へ移っていきます。古墳時代から飛鳥時代への転換は、文化様式の変化ではなく、政治・外交・宗教・技術が同時に組み替えられる過程でした。

主な流れ

次の時代へ — 蘇我馬子と厩戸皇子

587年の物部守屋敗北によって、王権中枢の政治バランスは大きく変わりました。蘇我馬子が最有力氏族の指導者となり、仏教を公然と支援できる環境が生まれます。

翌588年には飛鳥寺の造営が始まり、百済から僧侶、寺院建築・瓦生産などの技術者が渡来します。王権の権威を示す中心的建造物は、巨大古墳だけでなく、寺院と宮へ移り始めます。

一方、王位継承をめぐる争いは終わりません。蘇我馬子は崇峻大王を擁立しますが、のちに対立し、592年には崇峻が殺害されます。その後、推古大王が即位し、厩戸皇子が政治の中心へ進出します。

次の記事では、587–622年|蘇我馬子と厩戸皇子 — 飛鳥寺、推古朝、遣隋使と新しい王権政治として、物部氏敗北後の政権再編、崇峻大王、推古大王、厩戸皇子、飛鳥寺、冠位十二階、十七条憲法、遣隋使までを扱います。

参考資料・出典

本ページは、奈良国立博物館、明日香村、奈良文化財研究所・飛鳥資料館、文化庁、東京国立博物館、八尾市等の公開資料を参照してART LIBRARYが独自に構成・執筆しています。仏教公伝年については538年説を現在の有力説として採用し、『日本書紀』が記す552年説も併記しました。蘇我稲目・物部尾輿、蘇我馬子・物部守屋の対立、疫病と仏教排斥、587年の戦争については後世に編纂された『日本書紀』の叙述に依存する部分が大きいため、考古学的に確認できる寺院跡・遺物と区別しています。また、587年の戦争を宗教対立だけに還元せず、王位継承・氏族間競争・外交関係を含む政治対立として構成しました。