1960年代
オノ・ヨーコとフルクサス
指示、行為、参加
オノ・ヨーコを「フルクサスの一員」とだけ呼ぶと、重要な順序が消える
1960年代のオノ・ヨーコは、フルクサス、コンセプチュアル・アート、パフォーマンス、実験映画の歴史にまたがる重要な作家である。しかし「フルクサスの作家」と一言で説明すると、彼女自身の活動とフルクサス形成の時間関係を単純化してしまう。
オノは1960年からニューヨークの自宅ロフトでラ・モンテ・ヤングとともに実験音楽・パフォーマンスの発表会を組織し、1961年にはジョージ・マチューナスが共同運営するAGギャラリーで最初の個展を開いた。フルクサスがマチューナスを中心に国際的な活動として明確になるのは1962年である。
つまり、オノが完成済みのフルクサスへ後から加入したというより、彼女のロフト、指示作品、マチューナスとの交流を含むニューヨークの実験芸術ネットワークの中から、フルクサスも形を得ていった。Fluxus Foundation Archiveも、オノは正式にフルクサスへ加入したわけではないが、マチューナスと近い関係を持ち、その作品がネットワークと深く結びついていたと整理している。
作品を「物」から「指示」へ変える
オノの1960年代で最も重要な転換は、絵画の新しいスタイルを発明したことだけではない。「作品は完成した物体でなければならない」という前提そのものを外したことである。
一枚の紙に「こうしてください」と書く。読む人がそれを実行してもよいし、頭の中だけで想像してもよい。実行する人によって結果が違っても構わない。この仕組みでは、作者が完成品を一つ作り、観客がそれを受動的に見るという関係が崩れる。
作品は作者から渡される物ではなく、作者の提案と観客の想像・行為の間でその都度成立する。オノが1960年代初頭に進めたこの方法は、後にコンセプチュアル・アートや参加型芸術と呼ばれる問題を非常に早い段階で含んでいた。
音楽の「楽譜」が、美術を変える
指示作品の背景には実験音楽の環境がある。音楽では、作曲家が書いた楽譜と実際に鳴る音は同じものではない。楽譜は演奏者によって実行され、同じ曲でも演奏ごとに差が生まれる。
Getty Research Instituteは、ジョージ・ブレクト、ラ・モンテ・ヤング、オノ・ヨーコらが1960年前後に発展させた短い文章による作品が、のちにフルクサスで広く用いられる「イベント・スコア」の重要な源流になったと説明している。
美術へこの考えを移せば、作品は「見るべき完成物」ではなく、「実行するためのスコア」にできる。オノの《絵のためのインストラクション》は、絵画と音楽の制度を接続する試みだった。
ジョン・ケージの実験音楽環境
1950年代末から60年代初頭のニューヨークでは、ジョン・ケージの偶然性や無音をめぐる音楽が若い作家へ大きな刺激を与えていた。ケージの周囲では、音楽を旋律や楽器の音だけに限定せず、日常音、沈黙、行為、時間そのものへ拡張する試みが行われた。
オノの当時の夫であった作曲家・一柳慧も、この実験音楽ネットワークと深く関わった。オノ自身もニューヨークの実験音楽家・美術家たちと交流し、視覚芸術と作曲の境界がまだ固定されていない場所で活動した。
オノの指示作品を「文章だけの絵」と考えるより、視覚芸術へ持ち込まれた新しい楽譜として見ると、その革新性が理解しやすい。
1960年、チェンバーズ・ストリートのロフト
MoMAによれば、オノは1960年、マンハッタン南部のチェンバーズ・ストリートにロフトを借り、ラ・モンテ・ヤングとともに実験的なコンサートとパフォーマンスのシリーズを始めた。
当時、ニューヨークの若い実験音楽家には作品を発表できる場所が十分ではなかった。オノは自宅兼制作空間を発表場所として開き、複数の作家・音楽家が作品を試せる場を作った。
これは単なるホームパーティーではない。美術館、コンサートホール、商業画廊とは別の、小規模で柔軟な自主運営の発表回路だった。前の記事で見た日本の前衛グループと同様、「どこで発表するか」そのものが作品を可能にする条件になった。
観客と演者の位置を反転させる
オノの初期イベントでは、演者だけが見られる側にいるとは限らない。《Audience Piece》では、演者が舞台から観客を凝視する。観客が目をそらすと、別の観客へ視線を移す。
通常のコンサートでは観客が演者を見る。ここでは見る/見られる関係が逆転し、観客自身が自分の身体と視線を意識させられる。
作品の材料は、楽器でも絵具でもなく「誰が誰を見るか」という社会的な関係になる。後の《Cut Piece》にもつながる、観客を作品内部へ入れる発想がすでに現れている。
1961年、AGギャラリーで最初の個展
1961年7月、オノはニューヨークのAGギャラリーで「Paintings & Drawings by Yoko Ono」を開催した。マチューナスとアルマス・サルシウスが共同運営していた短命なギャラリーで、これがオノの最初の個展となった。
MoMAによれば、展示された絵画の多くはオノ自身の指示を物理的に実現したものだった。指示は口頭で伝えられたり、カードとして作品の横へ置かれたりし、観客自身が作品へ手を加えることを求められた。
まだこの段階では、「指示」と「実物の絵画」が並存している。翌年、オノはさらに一歩進み、実物を取り去って指示だけを展示する。
《踏まれるための絵》
《Painting to Be Stepped On》は1960年に構想され、1961年のAGギャラリー展で実現された代表的な作品である。床にカンヴァス片を置き、観客がその上を踏むことを許す。
絵画は通常、壁に掛け、触れず、傷つけないように見る。床へ置かれた瞬間、その文化的なルールが逆転する。靴の汚れや踏み跡が作品を壊すのではなく、作品を完成させる。
観客の身体は鑑賞者であると同時に制作道具になる。作品は作者が手を離した後も変化し続ける。
《Smoke Painting》 — 作品は消滅して完成する
1961年のAGギャラリーでは《Smoke Painting》など、観客の行為によって作品が物理的に変化する絵画も発表された。MoMAの資料によれば、火や煙によってカンヴァスへ穴を作り、最終的には作品そのものが消えていくような指示を含んでいた。
作品を保存し続けることが美術館の基本原則なら、「完全に失われることで完成する絵」はその反対側にある。
作者は永続的な物を残すのではなく、変化や消滅の条件を設計する。この発想は、物質より出来事を重視する1960年代前衛の大きな転換と重なる。
1962年、日本へ戻る
オノは1962年に日本へ戻り、東京・草月会館で「小野洋子作品発表会」を開催した。アートプラットフォームジャパンによれば、暗いホールでの相互的なイベントと、ロビーでの作品展示から構成されていた。
この時期の草月アートセンターは、実験音楽、映像、前衛芸術を積極的に紹介する東京の重要拠点だった。ジョン・ケージらの来日公演も同じ1962年に行われる。
オノはニューヨークの実験芸術を日本へ持ち帰るだけでなく、日本の前衛作家とアメリカのネットワークを接続する位置へ立った。
1962年《絵のためのインストラクション》
草月会館で特に重要だったのが、《Instructions for Paintings》である。20点余の紙には完成したイメージではなく、手書きの文章だけが記されていた。
MoMAは、この展示を「アイデアそのものが作品となり、物体へ従属しなくなった非常に早い事例」と評価している。前年のAGギャラリーでは指示と実物作品が並んでいたが、東京では実物を作る必要すらなくなった。
観客は文章を読み、頭の中で絵を作る。あるいは自宅で実行してもよい。作品の「場所」が紙の表面から観客の想像力へ移る。
絵が存在しなくても「絵画」なのか
「こういう絵を作ってください」という文章しかないなら、それを絵画と呼べるのか。この疑問こそ作品の中心である。
物理的な絵具がなければ絵画ではないという定義に従えば、指示は作品の説明にすぎない。しかし、読む人の頭に像が生まれるなら、物質的な画面なしでも絵は成立する。
オノは「作品とは何でできているか」という問題を、絵具から言語と想像へ移した。
想像だけなら、作品は無限に大きくできる
物理的な作品には予算と材料と空間の限界がある。巨大なカンヴァスを作るには布と絵具が必要で、展示場所も必要になる。
指示なら、「空を切る」「雲を集める」「何年も待つ」といった現実には困難な行為も作品にできる。頭の中では物理法則や経済条件を越えられる。
オノの指示作品の詩的な広がりは、貧しい材料で作品を作るための代替手段ではない。物質作品では不可能なスケールと時間を扱う方法だった。
1962年、ジョン・ケージ来日と実験音楽の衝撃
1962年、ジョン・ケージとデイヴィッド・チュードアが来日し、東京文化会館や草月アートセンターなどで公演した。Getty Research Instituteの資料には、同年10月、ケージ、チュードア、オノ、一柳慧らが東京で《Music Walk》を演奏した記録も残る。
ケージの来日は日本の若い美術家・音楽家へ大きな刺激を与え、「ジョン・ケージ・ショック」と呼ばれることもある。
オノはこの国際的な交流の受け手であるだけでなく、すでにニューヨークで同じ実験環境の内部にいた人物として、日本とアメリカをつなぐ側でもあった。
オノ・ヨーコとハイレッド・センター
アートプラットフォームジャパンは、オノが東京滞在中に草月アートセンターの活動、ナムジュン・パイク、ハイレッド・センターのイベントへ関わり、日米の芸術家の回路を作ったと指摘している。
前の記事で見た《シェルター計画》にも、オノは参加者の一人として記録されている。
ニューヨークのフルクサス周辺と東京のハイレッド・センターは同じグループではない。しかしオノのように両都市を往復する人物がいることで、異なる前衛ネットワークが直接接触した。
1962年、フルクサスが国際的な形を取る
ジョージ・マチューナスは1962年、ヨーロッパで「Fluxus Internationale Festspiele Neuester Musik」など一連のコンサートを組織した。Getty Research Instituteは、フルクサスを1962年にマチューナスを中心として形成された国際的ネットワークとして整理している。
短いイベント・スコア、日常的な行為、ユーモア、安価な印刷物や箱入り作品、郵便による流通。フルクサスは「美術作品」を高価な一点物へ限定せず、誰でも実行・複製・配布できる形式を発達させた。
オノの指示作品は、このフルクサス的な考えと非常に近い。しかしその重要作品の一部はフルクサス結成以前から作られていた。
オノは「フルクサスに影響された」だけではない
歴史を単純に書くと、「フルクサスという運動が生まれ、オノ・ヨーコがそこから影響を受けた」と見える。しかし時間順序はもっと複雑である。
マチューナスはオノのチェンバーズ・ストリートのイベントへ足を運び、1961年に彼女の個展を企画した。オノはラ・モンテ・ヤングらと文章による指示を早くから制作していた。
したがってオノはフルクサスの周辺人物であると同時に、フルクサスが成立する前史を作った一人でもある。
1964年『グレープフルーツ』
1964年、オノは東京のWunternaum Pressから『Grapefruit』を私家出版した。MoMAによれば、初版は500部で、1953年から64年に書かれた150点以上の指示作品を収録していた。
初版はMUSIC、PAINTING、EVENT、POETRY、OBJECTの5部に分かれ、視覚芸術、音楽、詩、物体という分野を一冊の中で横断する。
一つの作品を所有する代わりに、一冊の本を買えば多くの「作品を実行する可能性」を持ち帰れる。作家の作品集であり、楽譜集であり、詩集であり、行為の設計書でもあった。
作品は印刷されると何が変わるのか
手書きの指示は一点物だが、本へ印刷すれば同じ文章を多数の読者へ届けられる。オノの作品は「唯一のオリジナル」から「複製可能な提案」へ変わる。
これは美術市場の一点物原理と異なる。読者が別の国・別の時代に同じ指示を読み、自分の方法で実行できる。
『グレープフルーツ』によって、作品は展示会場に集まるのではなく、郵便、書店、個人の本棚へ分散するようになった。
作者はどこまで作品を支配するのか
指示を読んだ人が自由に実行すれば、作者の意図と違う結果が生まれる可能性がある。通常の美術家なら、自分の作品が他人に勝手に変えられることを嫌うかもしれない。
MoMAのインタビューでオノ自身も、他者に作品へ手を加えさせることへの抵抗があり、だからこそ重要だと感じたと語っている。
参加型作品は「観客と仲良く楽しむ作品」ではない。作者が完成を独占しないという、不安定な権限移譲を含んでいる。
1964年《Morning Piece》
《Morning Piece》では、割れたガラス片に特定の日付と朝の時間帯を付け、商品として販売した。MoMAによれば、東京では自宅屋上で、1965年にはニューヨークでこの作品が実施された。
購入者が手にするのは「朝そのもの」ではなく、日付を書かれたガラス片である。物質的には小さな破片だが、作品としては過去や未来の時間を所有するという想像を売る。
美術商品を批判しながら販売行為を使う。この矛盾は、後のコンセプチュアル・アートにも繰り返し現れる。
1964年《Bag Piece》
《Bag Piece》では、一人または複数の参加者が大きな不透明の袋へ入り、その内部で衣服を脱ぐ、動く、静止するなどの行為を行う。観客には袋の外形しか見えない。
MoMAによれば、《Bag Piece》は1964年7月、京都で《Cut Piece》と同じ公演の中で初めて公に実演された。
裸になる可能性のある作品なのに、身体は観客から隠される。露出と不可視性が同時に存在し、観客は袋内部を想像するしかない。
1964年《Cut Piece》
《Cut Piece》では、オノが舞台に静かに座り、観客が順番に近づいて鋏で彼女の衣服を一片ずつ切り取り、持ち帰る。MoMAによれば、最初の公演は1964年7月の京都で行われ、その後東京、ニューヨーク、ロンドンなどで再演された。
観客は作品を見るだけでは終われない。舞台へ上がるか、上がらないかを選び、鋏をどこへ入れるか決める。参加者の判断によって、オノの身体が少しずつ露出していく。
作品の緊張は、作者ではなく観客の行為がどこまで進むか予測できないことから生まれる。
観客は「共同制作者」なのか「加害者」なのか
参加型作品では、観客を共同制作者と呼ぶことが多い。しかし《Cut Piece》では、その言葉だけでは足りない。
鋏を持つ観客は作品を完成させる協力者であると同時に、他人の衣服を切り、身体の安全と尊厳へ接近する人物になる。見ているだけの観客も、場面を止めずに見守る。
アートプラットフォームジャパンは、この作品が暴力における傍観者の共犯性と、個人と集団の関係を可視化したと説明している。参加は必ずしも自由で楽しいものではない。
ジェンダーの問題
女性の身体が観客によって徐々に露出されるため、《Cut Piece》はジェンダーと性的暴力の問題から強く読まれてきた。MoMAも、ジェンダー、階級、文化的アイデンティティを問い直す作品として位置づけている。
一方、1970年版『Grapefruit』に掲載された指示では、演者は必ずしも女性である必要がないとされた。
つまり作品は女性身体への暴力という具体的な歴史を持ちながら、それだけに限定されない。与える/奪う、観客/演者、個人/集団、無抵抗/攻撃という広い関係を含んでいる。
「何もしない」ことも行為になる
《Cut Piece》でオノは、観客が衣服を切る間、基本的に抵抗せず座り続ける。表面的には「何もしていない」ように見える。
しかし動かないことを選び続けることは、非常に強い身体行為である。観客の行為が激しくなるほど、演者の静止が作品の緊張を高める。
パフォーマンスは激しい身体運動だけで成立するわけではない。静止、待機、沈黙も時間を構成する行為になり得る。
東京からニューヨークへ戻る
1964年後半から65年にかけて、オノは再びニューヨークで活動し、フルクサスのメンバーと同じ公演へ参加する。1965年6月のPerpetual Fluxfestでは《Bag Piece》が上演され、ジョージ・マチューナスが写真を撮影した。
アートプラットフォームジャパンは、《Sky Piece to Jesus Christ》などフルクサス周辺のステージへオノが参加したことを記録している。
ここでも「正式メンバーか否か」より、作品と人がどのネットワークを移動したかを見ることが重要である。
フルクサスの「安価で配布できる作品」
マチューナスは、イベント・スコア、カード、小冊子、箱入りの小作品などを安価に複製・配布することを重視した。高価な絵画や彫刻を少数のコレクターが所有する構造への対抗でもあった。
オノの『Grapefruit』も、作品を本の形で多数の人へ届ける。この点でフルクサスと強く共鳴する。
ただし、オノの指示はしばしば非常に詩的で、現実には実行不能な想像を含む。短い日常行為を際立たせるブレクトのイベント・スコアと似ていても、同じ美学ではない。
1966年、ロンドンへ
オノは1966年、破壊芸術シンポジウムへの参加を機にロンドンへ渡り、その後インディカ・ギャラリーで個展を開いた。1967年にはリッスン・ギャラリーでも「Half-A-Wind Show」を開催する。
ニューヨーク、東京に続き、活動拠点がロンドンへ移る。オノの1960年代は一つの都市の美術史へ収まらない。
同じ作品が都市を移動しながら異なる観客と制度に出会い、指示、参加、映像、平和運動へ展開していく。
1966年《Apple》
《Apple》は透明な台座の上に本物のリンゴを一個置き、作品名と作者名を示す簡潔な作品である。リンゴは時間が経てば萎み、腐り、交換しなければならない。
ブロンズ彫刻のように永続する物を作るのではなく、日常の果物とその変化を作品へする。
作品の「同一性」は最初のリンゴという物体にあるのではない。リンゴを台座へ置くという構造と考えが持続し、物質は交換可能になる。
1966年《White Chess Set》
《White Chess Set》では、チェス盤も双方の駒もすべて白く塗られている。ゲーム開始時には自分の駒を覚えていても、対局が進み互いの駒が入り混じると、敵味方を区別することが難しくなる。
MoMAは、この作品によって競争ゲームの性質そのものが変えられると説明している。ルールは通常のチェスでも、色という識別装置を一つ取り除くだけでゲームが成立しにくくなる。
平和という主題を鳩や握手の絵で表すのではなく、敵味方の区別を物理的に困難にするゲームを作る。観客は実際にプレイしながら、その問題を経験する。
「参加」は思想を体験へ変える
《White Chess Set》へ「戦争はよくない」という文章を書き添えるだけなら、観客は賛成・反対を判断して終わる。
しかし自分で駒を動かし、途中から敵と味方が分からなくなると、二項対立の不安定さを身体的に経験する。
オノの参加作品では、政治的・哲学的な考えを説明するより、単純なルールによって観客自身に状況を発生させる。
《Ceiling Painting》と「YES」
1966年のロンドン個展では、梯子を上り、天井近くの小さな文字を虫眼鏡で読む《Ceiling Painting》も展示された。そこに書かれていたのは肯定を示す「YES」だった。
作品を見るためには、観客自身が梯子を上る必要がある。遠くにある小さな肯定へ、身体を移動させて到達する。
「YES」という単語自体は単純だが、それを読むまでの行為が作品になる。オノの指示作品は、言葉と身体を切り離さず結びつけていく。
1966–67年《Film No. 4 (Bottoms)》
ロンドンで制作された《Film No. 4》は、多数の人の裸の臀部を歩行中に近接撮影し、連続して映す実験映画である。MoMA所蔵資料では長編版は約80分に及ぶ。
顔を映さず、社会的地位、服装、職業を示す背景も取り去り、身体の一部だけを同じ条件で繰り返す。
オノはこの映画を、階級や社会的な差を越えて身体を並べる抗議の一つとして捉えていた。視覚的な反復が社会的分類を一時的に外す。
カメラは「背景」を消す
通常の人物映画では、顔、服装、建物、持ち物からその人物の情報を読み取る。《Film No. 4》はそれらをほとんど消し、身体の一部分だけを画面いっぱいにする。
情報を増やして人物を説明するのではなく、情報を減らして共通性を見せる。
《White Chess Set》で敵味方の色を消したのと同じように、違いを作る記号を取り除く操作が作品構造になる。
1967年《Half-A-Room》
《Half-A-Room》では、椅子、テーブル、棚、ティーポットなどの家庭用品が文字通り半分に切断された状態で展示される。部屋は存在するが、日用品の半分が欠けている。
生活空間を成立させる普通の物が途中で切られることで、不在や分離が可視化される。
既製品をそのまま美術館へ持ち込むだけでなく、欠落という簡単な操作によって日常物を心理的な空間へ変える。
オノの作品は「説明が簡単」なのに意味が一つではない
踏む、切る、包まれる、駒を白くする、リンゴを置く。オノの作品は手順だけなら非常に短く説明できる。
しかし実行すると、暴力、所有、身体、ジェンダー、平和、時間、記憶、作者と観客の権力など、複数の問題が現れる。
複雑な理論を作品の見た目へ詰め込むのではなく、単純な仕組みから意味を増殖させる。この構造が『Grapefruit』の短い文章から《Cut Piece》まで一貫している。
1968年以降、ジョン・レノンとの協働
1968年以降、オノはジョン・レノンと共同で映像、音楽、イベントを制作する機会を増やす。ここから一般大衆への知名度は飛躍的に高まった。
しかしオノの前衛的な方法がレノンとの出会いから始まったわけではない。チェンバーズ・ストリート、AGギャラリー、《Instructions for Paintings》《Grapefruit》《Cut Piece》はそれ以前に成立している。
レノンとの協働は、すでに確立していた「指示・参加・メディアを使って社会へ働きかける」という方法を、さらに大規模な大衆メディアへ拡張した段階として見るべきである。
1969年《Bed-In》
1969年、オノとレノンは結婚後、アムステルダムとモントリオールで《Bed-In for Peace》を行った。ホテルのベッドに滞在し、報道陣を招き、平和について語る。
政治集会の壇上ではなく、新婚旅行のホテルという私的空間をマスメディアへ開く。日常生活と政治的メッセージを切り離さない。
ハイレッド・センターがホテルや街路を作品化したのと同時代に、オノも社会制度とメディアの既存形式を使って「作品の場所」を拡張していた。
1969年《WAR IS OVER! if you want it》
同年末、オノとレノンは「WAR IS OVER! IF YOU WANT IT」というメッセージをポスター、新聞広告、ビルボードへ展開した。
重要なのは末尾の条件である。「戦争は終わった」と完成した事実を告げるのではなく、「あなたがそれを望むなら」という観客の意志を作品へ組み込む。
これは1960年代初頭の指示作品と遠く離れていない。作者が完成した答えを渡すのではなく、受け手の選択と行動によって作品の意味を完成させる。
指示作品から平和運動まで、参加の構造が続く
《Painting to Be Stepped On》では観客が踏む。《Cut Piece》では切る。《White Chess Set》では対局する。《WAR IS OVER!》ではメッセージを受け、自分がどう望むかを問われる。
媒体と規模は変わっても、観客を受動的な見る人から決定する人へ移す構造が続いている。
オノの政治活動を前衛美術とは別の人生章として切り離すより、参加という制作原理が社会運動へ拡大したと見ると連続性が見える。
オノ・ヨーコを「ジョン・レノンの妻」から美術史へ戻す
20世紀後半の大衆文化では、オノは長くジョン・レノンとの関係を通して語られることが多かった。その結果、1960年代初頭からの美術実践が十分に知られない時期があった。
しかし現在、MoMAをはじめ多くの美術館は、オノをコンセプチュアル・アート、パフォーマンス、実験映画の形成に重要な役割を果たした作家として明確に位置づけている。
2015年のMoMA「Yoko Ono: One Woman Show, 1960–1971」は、レノンとの共同活動以前を含む約125点の作品・記録を通して、その美術史的な位置を大規模に再検証した。
日本美術史だけでも、アメリカ美術史だけでも足りない
オノは東京に生まれ、幼少期から日米を往復し、1960年代にはニューヨーク、東京、ロンドンを移動した。日本の草月アートセンター、ハイレッド・センター、ナムジュン・パイクと接続しながら、ニューヨークではラ・モンテ・ヤング、マチューナス、フルクサスのネットワークへ入る。
そのため「日本人作家が西洋美術を学んだ」という一方向の受容史では説明できない。オノ自身が都市間の情報と人を動かす媒介者だった。
草間彌生と同様、戦後の日本人作家は「日本代表として海外へ行く」だけでなく、複数都市の前衛ネットワーク内部で作品を作るようになった。
フルクサスを「運動」より「ネットワーク」として見る
フルクサスにはマチューナスによる強い編集・組織化があったが、参加者全員が一つの思想へ従ったわけではない。作家は出入りし、互いに違う活動を続けた。
オノのように正式な所属が曖昧でも、作品がFluxusの出版物・公演・人脈へ深く入っている作家がいる。
このためフルクサスは「会員制の美術団体」と考えるより、イベント・スコア、出版物、郵便、コンサートを通して国境を越えたネットワークとして見る方が理解しやすい。
「指示」は作品を軽くし、遠くへ運ぶ
巨大彫刻を海外へ送るには輸送費が必要だが、短い文章なら手紙一通で送れる。印刷すれば何百人にも配布できる。
作品を物体から指示へ変えることは、哲学的な転換であると同時に、国際流通の方法を変える。
フルクサスが郵便と印刷を多用したこと、オノが『Grapefruit』を出版したことは、国際前衛が「軽い媒体」によって広がった歴史でもある。
物がない作品を美術館はどう保存するのか
指示作品や行為作品は、完成したオリジナル物体を保存するだけでは継承できない。紙の指示、写真、映像、証言、実演条件を組み合わせる必要がある。
MoMAでは《Painting to Be Stepped On》や《Bag Piece》《White Chess Set》などを展示用に再制作・再実演し、観客が参加できる形で紹介してきた。
ここでは「同じ物体を保存する」ことより、「作品のルールを再び作動させる」ことが保存になる。現代美術館の役割そのものが変化する。
再演すると同じ作品なのか
1964年の《Cut Piece》を今日別の演者が行えば、社会のジェンダー意識、観客の知識、撮影環境が異なるため、同じ出来事にはならない。
しかし指示が同じだからこそ、時代差がはっきり現れる。作品は固定された意味を保存するのではなく、再演のたびに社会との関係を更新する。
イベント・スコア型作品の保存は、過去をそのまま復元することではなく、同じルールを別の現在へ置くことでもある。
コンセプチュアル・アートの「前史」だけにしない
オノの指示作品は、1960年代後半に国際的に確立するコンセプチュアル・アートを先取りしたものとして高く評価される。
しかし「後に登場する概念芸術の準備段階」とだけ説明すると、1960年代当時の実験音楽、演者と観客、女性身体、日米交流といった作品固有の条件を失う。
歴史的には後続運動と接続しながらも、オノの仕事はそれ自体の問題を持つ独立した実践として見る必要がある。
1960年代|オノ・ヨーコとフルクサス
1960年代のオノ・ヨーコは、絵画を新しい見た目へ更新する以上に、「作品は誰が、いつ、どこで完成させるのか」という制度そのものを組み替えた。1960年にニューヨークのチェンバーズ・ストリートのロフトを借り、ラ・モンテ・ヤングと実験的な発表会を組織する。1961年のAGギャラリー個展では《踏まれるための絵》など、観客が行為して完成する絵画を発表し、翌1962年の草月会館では物体をさらに取り去り、《絵のためのインストラクション》という文章だけを展示した。
この展開はフルクサスと密接に接続するが、オノを「フルクサスへ加入した作家」と単純化できない。彼女のロフト活動と指示作品はマチューナスがフルクサスを組織化する以前から存在し、フルクサス形成の前史を構成していた。1962年以後、イベント・スコア、安価な出版物、国際的な公演ネットワークがフルクサスの重要な方法になると、オノの作品もその回路を通して流通する。正式所属より、作品と人がどのようにつながったかを見ることが重要である。
1964年の『グレープフルーツ』は150点を超える指示を本へまとめ、作品を一点物から複製可能な提案へ変えた。同年、京都で初演された《Cut Piece》では観客がオノの衣服を切り取り、《Bag Piece》では演者の身体が袋の内部へ隠れる。観客は見るだけの存在ではなく、作品を完成させると同時に倫理的な判断を引き受ける存在になった。ここで「参加」は自由や交流の美しい理想だけでなく、暴力、責任、見える/見えない身体の問題を含む。
1966年以後、ロンドンでは《Apple》《White Chess Set》《Film No. 4》《Half-A-Room》など、さらに簡潔な構造から社会的・心理的な意味を引き出す作品を展開した。1968年からジョン・レノンとの協働が増え、1969年の《Bed-In》や《WAR IS OVER! if you want it》では、指示と参加の原理がマスメディアと平和運動へ拡張される。オノの1960年代を貫くのは、一つの様式ではない。作者が作り終えた物を見る芸術から、観客が想像し、実行し、選択することでその都度成立する芸術への転換である。次の記事では、同じ1960年代に写真そのものの言語を壊そうとした『PROVOKE』へ進み、森山大道、中平卓馬らが「見ること」と「記録すること」をどう再構成したのかを見る。
参考資料
- Art Platform Japan「オノ・ヨーコ」
- The Museum of Modern Art「Yoko Ono: One Woman Show, 1960–1971」
- The Museum of Modern Art「Chambers Street Loft Series」
- The Museum of Modern Art「Painting to Be Stepped On」
- The Museum of Modern Art「Instructions for Paintings」
- The Museum of Modern Art「Cut Piece」
- The Museum of Modern Art「Grapefruit」
- The Museum of Modern Art「Morning Piece」
- The Museum of Modern Art「White Chess Set」
- The Museum of Modern Art「Film No. 4」
- The Museum of Modern Art「Yoko Ono’s 22 Instructions for Paintings」
- Getty Research Institute「The Scores Project: Introduction」
- Getty Research Institute「George Brecht: Drip Music and the Event Score」
- Getty Research Institute「Fluxus Internationale Festspiele Neuester Musik, 1962」
- Fluxus Foundation Archive「Yoko Ono, Grapefruit, 1964」
- The Museum of Modern Art「Notes on Yoko Ono’s White Chess Set」
資料確認日:2026年10月2日