Art Library

1960年代

草間彌生とニューヨーク

日本と国際前衛

草間彌生を「水玉の作家」だけで理解しない

草間彌生(1929–2026)は現在、水玉、カボチャ、鏡張りの部屋によって世界的に知られている。しかし1960年代の草間を振り返ると、一つの象徴的モチーフを繰り返す作家という以上に、絵画、彫刻、インスタレーション、映像、ファッション、新聞、街頭行為まで、自分の表現形式を短期間で次々と拡張した前衛芸術家だったことが分かる。

1958年にニューヨークへ拠点を移した草間は、抽象表現主義がまだ大きな影響力を持つ都市で巨大な白い網目の絵画を発表し、1962年には家具を無数の柔らかな突起で覆い、1963年には部屋全体を作品へ変え、1965年には鏡で空間を無限化した。そして1967年以後は、裸体、水玉、反戦、性的解放を組み合わせたハプニングを街頭へ展開する。

重要なのは、この変化が互いに無関係な方向転換ではないことである。「一つの形を反復し、増殖させ、対象や空間や自分自身まで覆い尽くす」という原理が、媒体を変えながら拡張していった。

1957年、アメリカへ渡る

草間は1929年、長野県松本市に生まれた。京都で日本画を学んだ後、1950年代には日本国内で水彩、インク、油彩などを用いた作品を発表していた。水玉や網目、細胞のような抽象形態も、渡米以前からすでに現れている。

草間彌生公式サイトによれば、1957年に渡米した。スミソニアンのハーシュホーン美術館は、同年にシアトルのゾーイ・デュサンヌ・ギャラリーで個展が開かれたことを紹介している。ニューヨークで突然ゼロから「草間様式」が生まれたのではない。日本で蓄積してきた小さな紙作品と反復モチーフを携え、それをアメリカの巨大な画面と競争的な美術界の中で拡大した。

1958年、ニューヨークへ

草間は1958年にニューヨークへ移り、以後1973年に帰国するまでアメリカを主な活動拠点とした。MoMAは、草間がニューヨーク到着時に、日本で制作した多数の紙作品を持っていたことを記録している。

当時のニューヨークでは、ジャクソン・ポロック、ウィレム・デ・クーニング、マーク・ロスコ、バーネット・ニューマンらに代表される抽象表現主義が大きな存在感を持っていた。若い日本人画家がこの都市で認知されるには、単に日本で作っていた作品をそのまま展示するだけでは難しい。草間は渡米後およそ一年半で、制作のスケールと密度を大きく変えていく。

1959年《Infinity Nets》

1959年10月、草間はニューヨークのブラタ・ギャラリーで最初の個展を開き、白い網目が画面全体を覆う大型絵画を発表した。MoMAの研究によれば、展示されたのは壁面に近い大きさを持つ白い作品5点だった。

《Infinity Nets》では、細かな弧状の筆触が途切れることなく反復され、網目とその隙間が画面全面へ広がる。中心となる人物も物体もなく、どこを見ても同じ運動が続く。作品は一見すると静かな単色画だが、近づくと無数の筆触の蓄積が見える。巨大な画面と非常に小さな身体動作という、相反するスケールが一枚の絵に共存している。

抽象表現主義と似ているが、身体の使い方が違う

《Infinity Nets》は画面全体を均質に扱う点で、ポロックのオールオーヴァー絵画と比較された。しかし制作の身体性は大きく異なる。ポロックの滴下や飛散では、腕や身体の大きな動きが絵具の軌跡として残る。草間の網目は、小さな弧を一つずつ繰り返す極端に細かな労働によって画面を埋める。

大きな身振りで自己を表現するのではなく、同じ動きを延々と繰り返すことで自己を画面の中へ消していく。この差が、後に草間が「自己消滅」と呼ぶ考えへつながる。

批評家たちは早くから草間を認めた

1959年のブラタ・ギャラリー展は、ニューヨークの美術批評で高く評価された。MoMAの展覧会研究では、ドリー・アシュトン、シドニー・ティリム、そして当時批評家として活動していたドナルド・ジャッドらがこの個展を論じている。

草間は「日本の伝統を紹介する異国的な作家」としてだけ評価されたのではない。ニューヨークの同時代抽象絵画そのものを更新する作家として議論された。

「日本的かアメリカ的か」という問いを越える

日本人作家が海外で活動すると、その作品の中に「日本らしさ」があるかが問われやすい。墨、余白、装飾、禅といった既成の文化イメージへ回収されることもある。

しかし草間の《Infinity Nets》は、ニューヨークの抽象表現主義、のちのミニマリズム、ヨーロッパの単色・反復表現と比較されながらも、そのどれかへ完全には収まらない。国際的に活動することは、日本らしい記号を海外へ運ぶことと同じではない。同時代の問題へ直接参加しながら、自分固有の方法を作ることも国際化の一つの形である。

巨大化する網

1961年のステファン・ラディチ・ギャラリーでの個展では、さらに巨大な《Infinity Nets》が展示された。MoMAの調査では、現存しない作品の中に長さ約33フィートに達したと推定されるものもあった。

網目が大きな画面へ広がるほど、一枚の絵を見るというより、観客の視界を網が覆う感覚に近づく。絵画の縁は存在していても、模様は縁の外へ無限に続くように感じられる。この「画面を越えて増殖する」という感覚が、数年後に本当に部屋全体を覆うインスタレーションへ展開する。

自己消滅という考え

草間は反復と増殖によって、個人の身体と周囲の環境との境界が消える状態を「自己消滅」と呼んだ。公式サイトも、単一モチーフの強迫的な反復と増殖によって自己消滅の芸術哲学を形成したと説明している。

自画像を描いて自己を強調するのではなく、同じ網や水玉によって自分も物も空間も覆ってしまう。草間の1960年代を理解するには、この「自己を表現する芸術」から「自己そのものを反復の中へ消す芸術」への反転が重要である。

1962年、絵画からソフト・スカルプチャーへ

1962年、草間は《Accumulation No. 1》を制作した。普通の肘掛け椅子の表面へ、布を縫い、綿を詰めた多数の突起物を取り付けた作品である。MoMAはこれを草間最初の彫刻であり、初期ソフト・スカルプチャーの重要例として位置づけている。

硬い彫刻材料ではなく、布と綿で柔らかな立体を作り、それを既製の家具へ増殖させる。網目がカンヴァスの表面を覆ったのと同じ原理が、三次元の家具へ移った。

突起物は「ファルス」だった

《Accumulation》の柔らかな突起は、草間自身によって男性器を示す形として説明されている。椅子、ソファ、梯子、靴、調理器具など、日常生活の物が無数のファルス状形態に覆われる。

MoMAとホイットニー美術館は、草間が性に対する恐怖を、対象を反復制作することで扱おうとした側面を紹介している。重要なのは性的な形を一つ巨大化するのではなく、小さな形を数え切れないほど増殖させることである。恐怖の対象を過剰生産し、自分自身がそれに埋没する。

家庭用品とジェンダー

椅子、ソファ、靴、調理器具は日常生活、とりわけ当時女性と結びつけられやすかった家庭空間の物でもある。そこへ無数の男性器状形態を縫い付けると、家庭用品は奇妙で攻撃的な存在へ変わる。

MoMAは《Accumulation No. 1》を、後世から見ればフェミニズム的問題を先取りする彫刻として評価している。当時の男性批評家の多くは、作品の明確な性的内容を十分には論じなかったとも指摘されている。草間自身の制作を後世のフェミニズム理論へそのまま当てはめる必要はないが、1960年代の男性中心的なニューヨーク美術界と作品の性的なユーモアを切り離すこともできない。

男性中心のニューヨーク美術界

MoMAの1998年回顧展研究は、1960年代のニューヨーク美術界が女性作家にとって極めて厳しい環境だったことを指摘している。主要画廊、批評、収集の中心で男性作家が圧倒的な権威を持っていた。

草間は日本から来た女性作家として、その構造の中で活動しなければならなかった。しかし、自分を周辺的な存在として扱わせない強い自己宣伝と制作量によって存在感を作った。ポスター、写真、服装、声明、メディア戦略も、誰が前衛の中心にいると認識されるかを争う活動だった。

1962年、ポップ・アート形成期の同じ会場に立つ

《Accumulation No. 1》は1962年末、ニューヨークのグリーン・ギャラリーのグループ展に出品された。MoMAによれば、同展にはクレス・オルデンバーグ、ジェームズ・ローゼンクイスト、ジョージ・シーガル、アンディ・ウォーホルらが参加し、アメリカ最初期のポップ・アート展の一つとして知られる。

草間はポップ・アートの外側から後で加わったのではなく、ポップの歴史がまだ確定していない同じ時期・同じ会場で作品を発表していた。ただし《Accumulation》は商品イメージを複製するポップとは異なり、既製品を強迫的な手仕事で覆い、使用不能にする。似た場所に置かれながら、異なる論理を持っていた。

「誰が誰に影響したか」だけで1960年代を見ない

草間は後年、同時代の男性作家が自分のアイデアを取り入れたと語っている。実際、オルデンバーグのスタジオは草間と同じ建物にあり、ウォーホルらとも同じ美術環境で活動していた。

ただし個々の発明を単純な先取り競争として整理すると、1960年代ニューヨークの密接な人的交流を見失う。重要なのは、草間がポップやミニマリズムの「後追い」ではなく、それらが形成される現場の内部にいたことである。

1963年《Aggregation: One Thousand Boats Show》

1963年12月、草間はニューヨークのガートルード・スタイン・ギャラリーで《Aggregation: One Thousand Boats Show》を発表した。MoMAはこれを草間最初の本格的なインスタレーションとして紹介している。

無数の柔らかな突起で覆った実物のボートを一艘置き、そのボートを撮影した白黒写真の複製999枚を壁へ貼り巡らせる。一つの立体作品と、その同じ作品の複製イメージが部屋を埋め尽くす。観客は「本物」に出会う前から写真のボートに包囲される。

オリジナルとコピーの境界

《One Thousand Boats Show》では、実物のボートは一つしかない。しかし視覚的には同じボートが千回近く存在する。美術作品では通常、オリジナルが唯一で、写真複製はその代用品と考えられる。草間はその上下関係を一つの部屋へ同時に置いた。

写真が大量に反復されることで、唯一の立体作品より複製の方が空間を支配する。大量複製社会における「原作」の意味を問い直す環境になった。

1964年《Driving Image Show》

1964年、ニューヨークのリチャード・カステレーン・ギャラリーで《Driving Image Show》が開催された。ハーシュホーン美術館によれば、椅子、梯子、机などの《Accumulations》がまとめて展示され、部屋全体が一つの環境として構成された。

作品一個ずつを見る展覧会から、観客が部屋へ入った瞬間に全体へ包まれる展示へ変化する。「一つの対象を反復する」という草間の制作原理が、個別彫刻から展示空間そのものへ移った。

ヨーロッパとのつながり

草間の1960年代はニューヨークだけで完結していない。ハーシュホーン美術館は、草間がイタリア、ドイツ、オランダで広く展示し、Nul、ZERO、新傾向の作家と展覧会を共にしたことを紹介している。

MoMAの1998年回顧展研究はさらに、1960年代には草間作品がニューヨーク以上にヨーロッパで頻繁に展示された時期さえあり、ルーチョ・フォンタナ、ピエロ・マンゾーニ、イヴ・クライン、ドイツZERO、オランダNulなどと同じ国際的な新傾向のネットワークへ組み込まれていたと論じている。

草間を「日本からニューヨークへ渡った作家」という二国間の物語だけで見ると、このヨーロッパ回路が抜け落ちる。

1962年、アムステルダムのNul展

MoMAの年譜によれば、草間は1962年3月、アムステルダム市立美術館の「Nul」展へ参加した。Nul、ZERO、Azimuth、ヌーヴォー・レアリスムなど国際的な作家が集まる展覧会で、草間はアメリカから参加した唯一の作家として記録されている。

一つの作品は、展示される地域によって異なる美術史の中へ入る。草間の網目はニューヨークでは抽象表現主義やミニマリズムと比較され、ヨーロッパではZEROやNulと接続された。

具体美術協会ともヨーロッパで並ぶ

1965年のアムステルダム市立美術館「Nul 1965」には、Nul、ZERO、イタリアのGruppo Tなどとともに日本の具体美術協会も紹介された。草間も《Aggregation: One Thousand Boats Show》を出品した。

日本国内では草間と具体は別の活動史を持つ。しかしヨーロッパの国際展では、反復、物質、光、環境といった同時代の問題の中で日本の異なる作家たちが並べられる。「日本美術」という一つの代表様式が海外へ出たのではなく、複数の作家・集団が別々のネットワークを通して国際美術界へ入っていた。

1965年《Infinity Mirror Room—Phalli’s Field》

1965年、草間はニューヨークのカステレーン・ギャラリーで《Infinity Mirror Room—Phalli’s Field》を発表した。ハーシュホーン美術館は、この作品を草間の鏡の部屋の最初の重要な突破口と位置づけている。

床には赤い水玉を持つ柔らかな突起物が多数並び、壁は鏡で覆われる。実物の突起は有限でも、鏡の反射によって無限に続くように見える。それまで草間は一つ一つ突起を縫って増殖させていた。鏡は、人間の手では不可能な量の反復を光学的に作り出した。

手作業の限界をテクノロジーが越える

ハーシュホーン美術館は、1962年から64年に大量のソフト・スカルプチャーを縫い続けた草間が、その膨大な労働負担への応答として鏡による増殖へ進んだことを説明している。

反復を手作業で実現するのではなく、鏡の性質へ任せる。作者の身体労働から、装置が自動的に無限を生む構造へ移る。素材の選択そのものが制作方法を変えた。

観客自身も無限化される

鏡の部屋へ観客が入れば、突起物だけでなく観客の身体も無数に反射される。作品を見る主体が、作品内部の像になる。

《Infinity Nets》では観客は網目を外から見ていた。《Infinity Mirror Room》では自分自身も反復の中へ取り込まれる。「自己消滅」は作家個人の心理的な問題だけでなく、鑑賞者が実際に体験できる空間構造へ変わった。

1966年《Peep Show / Endless Love Show》

1966年、草間は鏡、電球、光を用いた《Peep Show》、別名《Endless Love Show》をニューヨークで発表した。六角形の鏡張り構造に覗き穴を設け、内部の色光が無限に反射する。

ハーシュホーン美術館によれば、二つの覗き穴から複数の観客が同時に内部を見ることができ、互いの像も反射される。鏡の作品は単なる幻想的な美しさではない。誰が見る側で誰が見られる側なのかを不安定にし、観客参加によって完成する。

1966年《Narcissus Garden》

1966年、草間は第33回ヴェネツィア・ビエンナーレ会場で《Narcissus Garden》を展開した。芝生に約1500個の銀色の球体を敷き詰め、その表面に空、建物、人、周囲の景色を反射させた。

MoMA PS1は、この作品をビエンナーレでの「非公式のインスタレーションとパフォーマンス」と明記している。草間は正式な日本館出品作家ではなかった。アートプラットフォームジャパンが記録する第33回ヴェネツィア・ビエンナーレの日本側正式出品作家は靉嘔、池田満寿夫、オノサト・トシノブ、篠田守男であり、草間の名前はない。

「日本代表」でなくても、国際舞台へ出られる

1950年代まで国際展への参加は、国家や美術団体が「日本を代表する作家」を選ぶ構造が大きかった。ヴェネツィア・ビエンナーレの日本館も、その制度の一部である。

草間は1966年、その公式代表制度とは別の経路からビエンナーレの国際空間へ介入した。これは戦後日本美術の国際化が、国家による公式派遣だけで進んだのではないことを象徴している。個人の画廊、人脈、ヨーロッパの前衛ネットワークを利用して、作家自身が国際舞台へ入り込むことが可能になっていた。

「あなたのナルシシズム売ります」

《Narcissus Garden》で草間は、銀色の球を来場者へ一個1200リラ、約2ドルで販売しようとした。「YOUR NARCISSISM FOR SALE」という看板も掲げた。ビエンナーレ主催者は販売を止めさせた。

MoMAは、この行為が自己宣伝であると同時に、現代美術の商品化への批評として受け取られてきたと説明している。美術市場では、希少で高価な一点物ほど価値が上がる。草間は同じ鏡球を大量に並べ、来場者が商品を買うように購入できる状況を作ろうとした。

鏡球は観客自身を商品に映す

ナルシスはギリシア神話で、水面に映る自分の像へ魅せられた人物である。銀色の球を覗けば、鑑賞者自身の姿が歪んで映る。そしてその球には価格が付いている。

《Narcissus Garden》は、美術市場への批判と、自己愛、観客参加、反射する環境を一つの仕組みに重ねた。

ヴェネツィアの経験からパフォーマンスへ

MoMA PS1は、《Narcissus Garden》を、草間がインスタレーション中心の活動から1960年代後半の政治的な公共パフォーマンスへ移る転換点として位置づけている。

作品を展示し、その前で自分自身が販売行為を行う。ここでは作者の身体と振る舞いが作品から切り離せない。鏡球を置くだけでなく、「作家がその場で何をするか」が意味を作るようになった。

1967年からハプニングが本格化する

MoMAの研究によれば、草間は1965年頃から街頭で撮影を伴う行為を試し、1967年からBody FestivalやAnatomic Explosionなど、公の場所でのハプニングを本格化させた。

参加者の裸体へ水玉を描き、ニューヨークの公園や歴史的建造物の周辺で身体を動かす。網目がカンヴァスを覆い、突起物が家具を覆い、鏡が空間を覆った後、今度は水玉が人間の身体を覆う。自己消滅の原理が、生きた身体へ移っていく。

水玉は「ブランドマーク」になる前に身体を消す装置だった

現在、水玉は草間彌生を即座に識別できる視覚的なサインになっている。しかし1960年代のハプニングでは、識別のためだけに使われたわけではない。

裸体の皮膚へ同じ水玉を描けば、個々の身体の差が模様の反復へ吸収される。人と背景、人と物の境界が曖昧になる。水玉は自己を目立たせるロゴであると同時に、自己を環境へ溶かす「自己消滅」の逆説的な道具だった。

裸体、性的解放、反戦

1960年代後半のニューヨークでは、ヒッピー文化、反戦運動、性的解放、公民権運動など、身体と社会規範をめぐる大きな変化が起きていた。草間のハプニングも、このカウンターカルチャーと接続した。

公式サイトは、この時期の活動に反戦運動を含むハプニングがあったことを明記している。ベトナム戦争が激化する中、裸体、愛、性的自由を暴力や軍事権力に対置した。ただし裸体表現を単純な自由な性の礼賛とみなすことはできない。初期ソフト・スカルプチャーから続く性への恐怖、支配、反復という個人的な問題も重なっている。

1967年《Kusama’s Self-Obliteration》

草間は映画作家ジャド・ヤルカットと協働し、1967年に映画《Kusama’s Self-Obliteration》を制作した。MoMAの研究では、ニューヨーク各地で行われたハプニングの映像を組み合わせた作品として紹介されている。

映画では草間が馬、自然環境、人体などへ水玉を描き、異なる対象が同じ反復パターンへ包まれていく。一度きりのハプニングはその場で消えるが、映画にすれば編集し、上映し、別の都市へ流通できる。草間はパフォーマンスと映像を組み合わせ、自己消滅を時間芸術へ拡張した。

ハプニングとマスメディア

草間の1960年代後半の活動では、写真家や新聞を呼び、ポスターやプレスリリースを大量に作ることも重要だった。街頭ハプニングはニュースとして報道されることで、実際にその場にいた人数をはるかに超える観客へ届く。

草間はマスメディアに利用されるだけではなく、その仕組みを自分の活動拡大へ積極的に使った。自分の姿、水玉の衣服、印刷物、写真、新聞報道は、制作から完全に分離した広報活動ではなかった。

自己消滅と自己ブランドの逆説

「自己消滅」を目指すなら、作者名を消し匿名で活動する方が論理的に見える。しかし草間は逆に「YAYOI KUSAMA」という名前と自分自身のイメージを強く前面へ出した。

これは国際美術界で存在を認知させる現実的な戦略とも関係する。無名の外国人女性作家が作品を発表するだけで中心へ入れる状況ではなかった。個人を宇宙へ消滅させる作品思想と、社会の中で個人名を確立する必要性。この二つが同時に存在していた。

1968年、政治化するイベント

1968年にはLove-In Festival、Flower Orgyなど、愛、反戦、性的解放をより明確に掲げるハプニングが行われた。ハーシュホーン美術館は、同年の映像作品を政治性の強い活動として紹介している。

1960年代前半の草間がニューヨーク美術界の内部で絵画・彫刻・環境を更新したとすれば、後半には対象が美術界そのものを越え、社会運動と大衆文化へ広がっていく。作家、パフォーマー、活動家、ファッションデザイナー、出版者という複数の役割が一人の活動へ重なった。

1969年《Grand Orgy to Awaken the Dead at MoMA》

1969年8月、草間はニューヨーク近代美術館の彫刻庭園で、許可を得ず《Grand Orgy to Awaken the Dead at MoMA》を行った。複数の裸体の参加者が庭園の池や彫刻の間で行為し、草間は美術館に対する声明を読み上げた。

MoMA自身も現在、この出来事を美術館への批評的介入として歴史化している。生きた裸体が亡くなった作家の彫刻作品のポーズを模倣することで、美術館を「死んだ作品を保存する場所」として挑発した。制度の外からMoMAへ入り込み、その事件が後にMoMAの歴史そのものへ収蔵されるという逆説が生まれた。

日本の反芸術との同時代性

草間がニューヨークで家具を突起物で覆い、都市でハプニングを行っていた頃、日本では読売アンデパンダン、ネオ・ダダ、ハイレッド・センターが日用品、廃材、身体、都市へ作品を広げていた。

草間がこれら日本の運動をそのまま海外へ持ち出したわけではないし、日本側が草間を模倣したわけでもない。1960年代には、ニューヨーク、東京、関西、ヨーロッパの複数地域で「完成した美術作品」から、行為、環境、日用品、身体へ表現を広げる動きが同時に起きていた。草間の活動は、その国際的な同時代性を日本美術史へ接続する重要な例である。

「日本人作家」と「ニューヨーク作家」の両方だった

草間は日本で生まれ、日本で初期制作を行い、1957年に海外へ出た。その後の1960年代作品はニューヨークとヨーロッパの現場で形成された。

そのため「日本美術史に含めるか、アメリカ美術史に含めるか」という二択では捉えにくい。MoMAやホイットニーは草間をニューヨーク前衛の重要作家として収蔵し、日本の美術館も戦後日本美術史の重要作家として位置づける。国籍は一つでも、美術史上の所属は一つに限定されない。

国家代表から個人ネットワークへ

明治期以来、日本美術を海外へ紹介する大きな回路は万国博覧会や国家主導の文化事業だった。戦後のヴェネツィア・ビエンナーレでも日本館という国家単位の展示制度がある。

一方、草間は個人画廊、批評家、作家仲間、ヨーロッパのZERO/Nulネットワークを通して活動し、1966年には公式日本代表ではないままヴェネツィアで大きな注目を集めた。ここに戦後国際美術の構造変化が見える。国家が「日本代表」を決める回路と並行して、作家個人が国境を越えるネットワークへ直接参加する回路が強くなる。

ポップでもミニマルでもない位置

MoMAは1998年の回顧展で、草間の1960年代作品にはポップ、ミニマリズム、ポスト・ミニマリズムに先行・並行する特徴がある一方、そのどれにもきれいに収まらないと説明した。

大量反復はミニマルに近く、既製家具はポップに近く、柔らかな突起はポスト・ミニマルやフェミニズム彫刻へつながって見える。しかし草間自身の反復、自己消滅、身体経験は、運動名だけでは説明できない。

媒体を変えても、同じ問題が続く

《Infinity Nets》では小さな網目が画面を覆う。《Accumulations》では突起物が家具を覆う。《One Thousand Boats Show》では写真が壁を覆う。《Infinity Mirror Room》では鏡が像を増殖させる。ハプニングでは水玉が身体を覆う。

見た目は大きく変わっているが、反復、増殖、境界の消滅という構造は持続している。優れた作家の一貫性は、同じ見た目を繰り返すことだけではない。同じ根本問題を別の媒体へ移すことで、作品の形式を変え続けることにも現れる。

1973年、日本へ戻る

草間は1973年に日本へ帰国した。公式サイトとハーシュホーン美術館はいずれもこの年を帰国時期としている。ニューヨークで国際的な活動を経験したからといって、帰国後すぐ日本の美術界で同じ評価が続いたわけではない。

その後1980年代以降に再評価が進み、1990年代から国際的な大規模回顧展が続く。現在知られる草間像は、1960年代の成功が一直線に拡大した結果ではなく、忘却と再評価を経て作られた。

1998年の回顧展が1960年代を再発見する

1998年、ロサンゼルス郡立美術館、ニューヨーク近代美術館などを巡回した「Love Forever: Yayoi Kusama, 1958–1968」は、草間のニューヨーク時代を大規模に検証した重要な回顧展だった。

この展覧会によって、《Infinity Nets》《Accumulations》《One Thousand Boats Show》《Narcissus Garden》などが、戦後国際美術史の中心的実践として改めて整理された。美術史の評価は制作時に確定するわけではない。1960年代に存在した作品の意味が、数十年後のフェミニズム、インスタレーション、パフォーマンス、グローバル美術史の視点から再発見された。

1960年代|草間彌生とニューヨーク

草間彌生は1957年に渡米し、翌1958年からニューヨークを拠点とした。日本で既に使っていた網目や水玉を、ニューヨークでは巨大なカンヴァスへ拡張し、1959年のブラタ・ギャラリー個展で《Infinity Nets》を発表した。抽象表現主義の巨大画面と同時代にありながら、大きな身振りではなく微細な筆触の反復によって画面を覆い、自己を消滅させる独自の方向を作った。

1962年には家具を柔らかな男性器状突起で覆う《Accumulation No. 1》へ進み、同作はオルデンバーグ、ウォーホル、ローゼンクイストらが参加したグリーン・ギャラリーの初期ポップ展へ出品された。1963年の《Aggregation: One Thousand Boats Show》では一艘のボートと999枚の写真複製で部屋を覆い、1964年の《Driving Image Show》では複数の彫刻を一つの環境へ統合した。反復は絵画から彫刻、複製画像、展示空間へ広がった。

同時に草間はニューヨークだけでなく、ヨーロッパのZERO、Nul、新傾向の展覧会へ継続的に参加した。1965年の《Infinity Mirror Room—Phalli’s Field》では、鏡によって手作業の物理的限界を超え、作品と鑑賞者を無限の反射へ取り込む。翌1966年のヴェネツィア・ビエンナーレでは、公式日本館出品作家ではないまま《Narcissus Garden》を非公式に設置し、約1500個の鏡球を来場者へ販売しようとした。国家代表ではなく個人ネットワークから国際美術界へ介入した象徴的な出来事である。

1967年以後は裸体へ水玉を描くBody FestivalやAnatomic Explosion、反戦ハプニング、映画《Kusama’s Self-Obliteration》などへ活動を移し、1969年にはMoMA彫刻庭園で無許可の《Grand Orgy to Awaken the Dead at MoMA》を行った。網目が画面を覆い、突起物が家具を覆い、鏡が空間を覆い、水玉が身体と都市へ広がる。草間の1960年代は、媒体を変えながら「反復と増殖によって自己と環境の境界を消す」という一つの問題を拡張した十年間だった。そしてその活動は、日本美術の国際化が「日本代表を海外へ送る」だけではなく、作家自身がニューヨークとヨーロッパの同時代前衛へ直接参加する時代へ変わったことを示している。次の記事では、同じニューヨークを舞台に、作品を「作る」ことから「指示する」ことへ大きく転換したオノ・ヨーコとフルクサスを扱う。

参考資料

資料確認日:2026年10月2日