10–12世紀
やまと絵の成立
日本の風景と物語
「山水(せんずい)屛風」(神護寺)
神護寺の「山水屏風(せんずいびょうぶ)」は、大和絵の伝統を伝える現存最古級の貴重な国宝の屏風です。 鎌倉時代初頭頃制作(平安時代の大和絵の伝統を継承)
「日本の絵」は、何を描くことで生まれたのか
平安時代の美術を考えるとき、「やまと絵」は最も重要な言葉の一つである。東京国立博物館は、やまと絵を平安時代前期に成立し、中国に由来する唐絵や漢画といった外来美術の理念や技法との交渉を繰り返しながら独自に発展した絵画として説明している。そこでは四季の移ろい、月ごとの行事、花鳥、山水、物語など、日本の社会と生活に結びつく多様な主題が描かれた。
しかし「やまと絵」という言葉を、最初から固定された日本固有の画風の名称と考えると分かりにくくなる。やまと絵は、唐絵との対比の中で成立した概念だからである。中国の故事や中国風の風景を描く絵に対して、日本の風景、日本の季節、日本の物語、日本の行事を描く絵が意識されるようになった。つまり、最初の違いは必ずしも筆遣いや色彩だけではなく、「何を描くのか」という主題の選択にあった。
前の記事で見た「和様化」と同じく、ここでも中国文化を捨てることで日本美術が生まれたわけではない。中国から伝わった絵画技術、顔料、画面形式、山水表現を使いながら、日本の宮廷社会が必要とする主題へ描き替える。その翻訳の中から、やまと絵という領域が形成されていった。
やまと絵の成立を示す作品は、ほとんど残っていない
やまと絵は平安時代前期に成立したと考えられているが、その成立期の作品が多数現存しているわけではない。屏風や障子の絵は生活空間の中で使われ、建物の改修や火災、経年劣化によって失われやすかった。紙や絹に描かれた絵画も、木造建築や金属器に比べて保存が難しい。
そのため、9世紀や10世紀のやまと絵の実態は、現存作品だけではなく、文学、日記、記録、後世の模本などを組み合わせて考える必要がある。平安時代の文献には、屏風や障子に日本の風景や年中行事が描かれ、そこへ和歌を書き添えたことが記されている。絵と和歌は別々の文化ではなく、同じ調度の中で組み合わされていた。
やまと絵の歴史には、最初から「失われた作品」が大量に存在する。現在残っている数点だけを見て、当時の絵画文化全体を想像しなければならない。この点は、日本古代・中世絵画を理解するうえで重要な前提である。
唐絵との違い — 国籍ではなく主題と機能
「唐絵」という言葉も注意が必要である。唐絵は必ずしも中国人が中国で描いた絵だけを指すわけではない。日本の絵師が中国の故事、中国風の人物、中国風の山水を描いた作品も、唐絵と呼ばれた。
京都国立博物館所蔵の国宝《山水屏風》は、そのことをよく示す。11世紀のこの屏風は、平安時代に流行した唐絵の珍しい現存例である。草堂で詩作する老翁と、それを訪ねる貴公子たちが描かれ、人物は唐風の装束を身につけている。題材は中国的であり、唐代の詩人・白楽天を描いた可能性も指摘されている。
一方で、京都国立博物館は、この屏風の人物、山、水、樹木、岩石の表現に、温和で情趣的な日本化の傾向が著しいと説明している。e国宝も、青緑山水の系譜を引きながら、平坦な山並みや明るい色調、柔らかな霞などに日本風への変形を認めている。
つまり、唐絵とやまと絵は、中国的技法と日本的技法という二つの完全に独立した様式ではない。中国の主題を描く唐絵の内部でも表現は日本化し、日本の主題を描くやまと絵も大陸由来の技法を用いる。二つは互いに接触し続ける関係の中で成立していた。
屏風 — 絵画は壁ではなく、動く空間だった
平安時代のやまと絵を考えるうえで、屏風は非常に重要である。現代の美術館では、屏風は壁の前に広げられ、一枚の大きな絵画として鑑賞される。しかし本来の屏風は、建物の内部を仕切り、視線や風を遮り、必要に応じて移動させる調度だった。
東京国立博物館は、神護寺に伝わる13世紀の国宝《山水屏風》について、屏風が建物の中を仕切る調度品であり、貴族たちはやまと絵を描かせ、画面上部の色紙形へ和歌を書き、身近に置いて日常生活を彩ったと説明している。この作品自体は鎌倉時代の作だが、平安時代以来の宮廷的な屏風絵のあり方を伝える重要な例である。
この形式では、絵画は固定された壁ではない。屏風を立てる場所を変えれば、室内の景観も変わる。折り曲げる角度によって絵の見え方が変化し、人が移動すれば複数の扇が異なる角度から見える。絵画は建築内部へ置かれる可動的な面だった。
やまと絵は、美術館の壁に掛かる独立した「絵画作品」として始まったのではない。人が座り、歌を詠み、手紙を書き、会話をする生活空間の中で、室内を作る調度の一部として機能していた。
四季を描く — 時間を一つの画面へ置く
やまと絵の中心的な主題の一つが四季である。桜、藤、柳、紅葉、雪、月、鹿、雁など、季節を示す景物が繰り返し描かれた。東京国立博物館も、やまと絵の大きな主題として四季の景物や名所の情景を挙げている。
四季を描くということは、単に自然を写生することではない。花が咲く春、緑が深まる夏、紅葉する秋、雪の積もる冬という時間の変化を、画面上の象徴的な景物によって示すことである。一本の桜を描けば春を、紅葉した楓を描けば秋を示すことができる。
場合によっては、一つの屏風の中に複数の季節が並置される。現実には同じ瞬間に存在しない春と秋の景色が、一つの画面上で共存する。ここでは絵画が現実の一瞬を切り取るのではなく、一年という長い時間を一つの空間へ圧縮する。
この時間感覚は、後世のやまと絵や琳派にまで受け継がれる。日本美術で季節の景物が繰り返し重要になる背景には、平安宮廷文化の中で、自然の変化を和歌と絵によって読み取る習慣が形成されたことがある。
月次絵 — 暦を視覚化する
四季よりさらに細かく時間を区切るのが月次絵である。一月から十二月まで、それぞれの月の行事や景物を描く。宮廷では一年を通じて多くの年中行事が行われ、それらは政治、宗教、遊興、季節の感覚と結びついていた。
月次絵は、カレンダーの数字を並べる代わりに、行事や自然の景色によって時間を示す。見る人は、描かれた人物の行動や植物、祭礼から「何月なのか」を読み取ることができた。
この形式は後世にも長く受け継がれ、室町時代の《月次風俗図屏風》などへつながる。現存する後世の作品からも、やまと絵が風景だけでなく、人間の生活と時間を一緒に描く絵画だったことが分かる。
名所絵 — 場所を和歌の記憶と結びつける
やまと絵のもう一つの重要な主題が名所絵である。吉野、宇治、嵐山、住吉、難波、武蔵野など、和歌に繰り返し詠まれた場所が絵の主題となった。
ここで「名所」とは、現代の観光地のように、有名だから描かれる場所というだけではない。特定の場所に、和歌、伝説、季節、歴史上の出来事が重なり、文化的な記憶を持つ場所になっている。ある山や川を描けば、それを見た人は過去の和歌や物語を連想する。
そのため、名所絵は地形を正確に記録する地図とは異なる。場所の特徴を示す景物を選び、和歌の世界と結びつけながら構成する。実際の風景が、文学によって意味づけられた風景へ変換されるのである。
やまと絵では、自然は中立的な背景ではない。山、川、植物、月、雪には、すでに言葉と記憶が重なっている。絵を見ることと、和歌を思い出すことが同時に起こる。
屏風歌 — 絵を見ることから歌が生まれる
平安宮廷では、屏風に描かれた絵を題として和歌を詠み、その歌を画面の色紙形へ書き込むことが行われた。絵を見て歌を作り、その歌が再び絵の一部になる。視覚と言語が往復する文化である。
東京国立博物館の国宝《山水屏風》の解説でも、やまと絵屏風の画面上部に和歌を記す色紙形が設けられていたことが説明されている。平安時代の屏風歌の実物は多く残っていないが、文学資料には屏風絵を題材に詠まれた和歌が多数伝わっている。
ここでは、絵が歌の挿絵になるのでも、歌が絵の説明文になるのでもない。絵によって言葉が生まれ、言葉によって絵の見方が変わる。視覚と言語が相互に補い合う関係が、王朝美術の重要な特徴となった。
和歌が風景を見る方法をつくる
平安時代に和歌が宮廷文化の中心へ入ると、人びとが自然を見る方法そのものも文学と結びついていった。桜を見れば春の歌を思い出し、月を見れば秋や恋の歌が呼び起こされる。自然現象は、それ自体として見るだけでなく、過去の言葉を通して経験される。
やまと絵は、そのような「言葉によって見られた自然」を描く絵画だったとも言える。写生的に一つの場所を正確に記録するより、ある季節や感情を喚起するために、必要な要素を選び、並べる。
この点で、やまと絵の風景は現実と虚構の中間にある。山や川は実在するが、画面では和歌や物語に合わせて再構成される。見る者が知っている文学的な記憶が加わることで、絵の中の風景が完成するのである。
宮廷の室内が絵画の舞台になる
東京国立博物館は、やまと絵の成立と発展に王朝貴族の文化的な営みが大きな基盤となったと説明している。平安時代の宮廷文化では、屏風、障子、几帳、御簾などによって空間が柔らかく区切られ、絵画や文様が生活空間の中へ入り込んでいた。
壁面へ固定された巨大な絵画を見るのではなく、座っている人の周囲に複数の装飾面が存在する。衣装の色、調度の蒔絵、屏風の絵、手紙の料紙、庭の植物が同じ視野に入る。やまと絵は、この総合的な宮廷空間の一部として発達した。
そのため、絵の大きさや構成も建築と関係する。屏風は複数の扇からなり、障子絵は建具に描かれる。絵巻は手元で少しずつ開きながら見る。現代の額装された一枚絵とは異なり、画面形式そのものが見る人の身体と空間の関係を決めていた。
巨勢金岡 — 名前だけが残る宮廷画家
平安時代前期のやまと絵を語るとき、巨勢金岡の名が重要である。9世紀後半に宮廷画家として活躍し、文献には多くの制作が記されているが、金岡の真筆と確定できる作品は現存していない。
この「作品がない有名画家」という状態は、平安前期絵画の保存状況を象徴している。後世の記録では、金岡は山水表現に優れた画家として高く評価され、巨勢派と呼ばれる画家の系譜へつながった。
京都国立博物館の《山水屏風》解説は、後世の『雅兼卿記』に記された、金岡は山を十五重に重ね、11世紀初頭の巨勢広高は五、六重に描いたという伝承を紹介している。厳しく重層的な山岳表現から、より柔らかく穏やかな表現へ移ったことを示す証言として興味深い。
私たちは作品そのものを比較することはできないが、文献から、宮廷絵画の風景表現が数世代の間に変化していたことを知ることができる。
11世紀《山水屏風》 — 唐絵の中に見える日本化
京都国立博物館の国宝《山水屏風》は、やまと絵そのものではなく唐絵である。しかし、やまと絵の成立を考えるうえで非常に重要な作品である。11世紀後半にさかのぼる平安時代屏風絵の唯一の現存例であり、宮廷調度として使われた絵画の実態を伝えているからである。
中国風の物語を描きながら、風景は険しい大山岳ではなく、横へ広がるなだらかな丘陵、水景、霞によって構成される。人物よりも風景全体に静かな情趣があり、明るく穏やかな空間が作られている。
この作品を見ると、「唐絵からやまと絵へ」という変化が単純な主題の交換だけではなかったことが分かる。中国を描きながら、画面の感覚は次第に平安宮廷の美意識へ合わせて変化している。同じ技術や構図を用いても、見る者が求める風景が変われば、絵の形も変化する。
1053年の鳳凰堂壁扉画 — 日本の風景の中へ仏が現れる
平等院鳳凰堂の壁と扉に描かれた《九品来迎図》は、11世紀のやまと絵を考えるうえで重要な現存例である。平等院は、これを現存する日本最古の大和絵風の九品来迎図として紹介している。
描かれているのは仏教的な来迎の場面である。しかし背景には、日本的な情景や風俗、四季の風物が取り入れられている。阿弥陀如来と菩薩たちが、抽象的な金色の空間に現れるのではなく、山、水、樹木、建築のある風景の中へ降りてくる。
ここでは外来宗教である仏教の図像と、日本の風景を描くやまと絵が結びつく。来迎という宗教的な出来事が、見る人にとって親しみのある自然環境へ移されることで、極楽と現世の距離が縮まる。
やまと絵は世俗的な宮廷絵画だけではない。仏教美術の中にも取り込まれ、宗教的な物語を日本の視覚環境へ翻訳する役割を果たした。
物語を描くということ
やまと絵が発展すると、風景だけでなく物語が重要な主題になる。『伊勢物語』『源氏物語』をはじめ、日本語で書かれた物語世界が絵画化されていく。
物語を絵にするには、文章のすべてを描くことはできない。どの場面を選ぶのか、誰を描くのか、人物の関係をどのように見せるのか、室内と屋外をどう配置するのか。絵師は長い文章から、視覚的に意味のある瞬間を選び出す必要がある。
ここで絵画は文学の単なる挿絵ではなくなる。同じ場面でも、どこから見るかによって人物関係の意味が変わる。屋根を省いて室内を上から見せる構図、建築の柱や襖で画面を分割する方法、色彩によって人物を囲む方法など、物語を視覚化するための独自の工夫が発達する。
その到達点の一つが12世紀の《源氏物語絵巻》である。ただし、この作品については後の記事で詳しく扱う。ここで重要なのは、やまと絵の成立によって、日本語文学の世界を大規模に視覚化するための基盤が整ったことである。
「引目鉤鼻」は、やまと絵そのものではない
やまと絵というと、細い目と鉤形の鼻で人物を描く「引目鉤鼻」を思い浮かべることが多い。しかし、これはやまと絵すべてに共通する固定的な人物表現ではない。やまと絵は長い歴史の中で変化し、人物の顔も作品や時代によって異なる。
同じように、「鮮やかな色彩」「吹抜屋台」「金銀の装飾」といった特徴も、すべてのやまと絵へ一律に当てはまるわけではない。やまと絵とは特定の技法セットではなく、時代ごとに唐絵・漢画などとの関係を変えながら継承された大きな絵画領域である。
東京国立博物館も、やまと絵を優美・繊細という固定的なイメージだけで捉えず、それぞれの時代の最先端の様式を取り込み、伝統と革新を繰り返したものとして位置づけている。この視点は、やまと絵を理解するうえで非常に重要である。
絵所 — 宮廷が絵師を必要とする
やまと絵の発展には、宮廷と絵師の組織的な関係も重要だった。宮廷では儀礼、建築、調度、屏風、障子など、多くの場面で絵画が必要とされた。その制作を担う絵師たちは、宮廷の画事に関わる組織や工房を通じて活動した。
東京国立博物館は、平安時代以来、日本美術における「和」の領域を宮廷絵所の絵師たちが担ってきたと説明している。後世には土佐派が宮廷絵所と強く結びつき、やまと絵の伝統を継承することになる。
ここでも、一人の芸術家が自由に作品を制作する近代的なモデルとは異なる。何を描くかは依頼、儀礼、建築、文学と関係し、複数の職人が制作に関わることもある。やまと絵は、宮廷社会の制度と需要によって維持された視覚文化でもあった。
美術、文学、書、工芸が分かれていなかった
平安王朝文化では、現代のように絵画、書、文学、工芸を完全に別ジャンルとして考えることが難しい。屏風には絵と和歌が共存し、色紙や料紙には金銀の装飾と書が組み合わされ、蒔絵の調度には和歌や物語と関係する意匠が施される。
東京国立博物館がやまと絵の成立を、調度手本、装飾経、工芸品、絵巻とともに紹介しているのも、この文化の複合性を示している。やまと絵は絵師だけの世界ではなく、歌人、能書、工芸の職人、宮廷貴族の教養が交差する場所にあった。
たとえば秋の野を描いた屏風に和歌が書かれ、その前で秋の装束を身につけた人物が歌を詠む。その人の手元には蒔絵の硯箱があり、書かれる料紙にも装飾がある。絵画は単独で存在するのではなく、生活の中にある複数の美的要素の一つだった。
「日本の風景」は最初から自然だったわけではない
やまと絵が日本の自然を描いたと聞くと、画家が目の前の風景を観察し、それをそのまま絵にしたように考えがちである。しかし、平安時代の風景は、和歌、物語、名所の伝承、季節の象徴によって選別された風景だった。
桜は春、紅葉は秋、雪は冬というように、自然の一部が季節を代表する記号になる。吉野と桜、住吉と松、武蔵野と秋草のように、場所と景物の組み合わせが文学的な約束として共有される。
つまり「日本の風景」は、単にそこに存在していた自然ではなく、何世代にもわたって言葉と絵によって意味づけられた文化的な風景だった。やまと絵は、その選ばれた自然を視覚化することで、見る人が共有できる「日本」のイメージを作っていった。
やまと絵は「日本らしさ」を固定したのか
やまと絵の成立は、日本の風景、季節、物語を絵画の主題として自覚的に扱う大きな転換だった。しかし、それを一つの固定した「日本らしさ」の誕生と考えるのは危険である。
東京国立博物館が指摘するように、やまと絵はその後も唐絵、漢画、水墨画など外来系統の美術と交渉し続けた。鎌倉時代には新しい写実性を取り入れ、室町時代には水墨画との関係の中で色彩と金銀装飾を発達させ、近世には狩野派や琳派もやまと絵の要素を取り込んだ。
つまり、やまと絵の伝統とは同じ形を守ることではない。何を「やまと」の側に置くかを、その時代ごとに更新していくことだった。唐絵との対比から始まった概念が、後には漢画、水墨画、狩野派などとの関係の中で別の意味を持つようになる。
10~12世紀のやまと絵が残したもの
10~12世紀に形成されたやまと絵の重要性は、一つの画風を生み出したことだけにあるのではない。自然、季節、場所、文学、生活を、絵画によって相互に結びつける方法を作ったことにある。
四季絵は一年の時間を画面へ配置し、名所絵は場所と和歌の記憶を結びつけ、屏風歌は絵と文字を一つの面へ重ね、物語絵は日本語文学を視覚的な場面へ変換した。鳳凰堂の来迎図では、仏教の救済物語さえ日本の風景の中へ置き直された。
さらに、絵画は建築から独立していなかった。屏風や障子は室内空間を作り、そこへ描かれた風景は人間の生活環境を変える。やまと絵は「日本を描いた絵」であるだけでなく、宮廷社会が日本という場所や季節をどのように経験するかを形づくる装置でもあった。
12世紀になると、この視覚文化は絵巻という形式で大きく展開する。巻物を少しずつ開きながら見ることで、時間と物語を連続する画面へ変換する新しい経験が生まれる。《源氏物語絵巻》《伴大納言絵巻》《信貴山縁起絵巻》《鳥獣人物戯画》など、平安末期から鎌倉期へ続く絵巻の世界は、やまと絵が育てた風景・人物・物語表現の上に成立していく。
やまと絵の成立の意味
やまと絵は、中国絵画から独立して純粋な日本様式を作った運動ではない。むしろ中国由来の絵画技法と日本の宮廷文化が長く接触した結果、「自分たちの季節、場所、物語を描く」という新しい要求が生まれ、その要求に合わせて絵画が変化したものだった。
唐絵とやまと絵は互いを排除する関係ではなく、同じ宮廷空間の中に共存した。中国的主題を描く《山水屏風》にも日本化された穏やかな景観が現れ、仏教的主題を描く鳳凰堂壁扉画には日本の風景が入り込む。境界は固定されず、常に相互に影響し合っている。
その一方で、日本の四季、名所、和歌、物語を絵画の中心へ置いたことは、その後の日本美術にきわめて大きな影響を与えた。季節の景物、文学との結びつき、装飾的な画面、絵と書の共存、物語を連続して描く方法は、中世から近世へさまざまな形で受け継がれていく。
やまと絵の成立とは、「日本的な絵」が一度完成した出来事ではない。外から来た美術を使いながら、自分たちが暮らす土地、時間、物語をどのように描くのかという問いが始まった出来事だったのである。
参考資料
- 東京国立博物館「特別展 やまと絵 — 受け継がれる王朝の美」
- 東京国立博物館「国宝 山水屏風」
- 東京国立博物館「宮廷の美術 — 平安~室町」
- 東京国立博物館「近世のやまと絵 — 王朝美の伝統と継承」
- 京都国立博物館「国宝 山水屏風」
- 京都国立博物館 館蔵品データベース「山水屏風」
- e国宝「山水屏風」
- 平等院「絵画 — 鳳凰堂中堂壁扉画」
- 平等院「舞い降りる花と仏の荘厳美 — 九品来迎図」
資料確認日:2026年10月1日
