1937–1945
戦争と美術
戦争画、国家、プロパガンダ
戦争画は、戦場を描いた絵すべてを同じ意味で呼ぶ言葉ではない
1937年から1945年の日本美術を考えるとき、「戦争画」という言葉は避けて通れない。しかし、この言葉には異なる性格の作品が含まれる。画家が個人的に戦場や兵士を描いた作品、従軍取材をもとにした作品、軍から正式に委嘱された「作戦記録画」、航空や海洋を題材とした公募展の作品、銃後の生活や勤労を描いた作品。それらは制作目的も発表方法も同じではなかった。
特に重要なのが、陸海軍などの依頼によって大画面に制作され、戦闘・占領・降伏などの出来事を公的に表象した戦争記録画である。「記録」という名称を持つが、写真のような中立的資料だったわけではない。軍が何を記録すべき出来事として選び、どの画家を派遣し、どの場面を大画面へ描かせ、どの展覧会で国民へ見せるかという制度的な選択が存在した。
したがって戦争記録画を見るときは、「本当に戦場がこのように見えたか」だけでは足りない。誰が依頼し、何を見せ、何を見せなかったのか。絵画が国家の戦争をどのように可視化したのかを考える必要がある。
1937年、日中戦争の拡大と画家の従軍
1937年7月の盧溝橋事件以後、日中戦争が拡大すると、日本の画家たちが中国大陸へ従軍する機会が増える。東京文化財研究所の1939年の記録では、その時点までに従軍した美術家は二百人を超えていたとされる。
画家は兵士として戦闘するだけでなく、戦地を見てスケッチし、帰国後に大きな絵へまとめる役割を期待された。新聞社や美術雑誌は従軍画家の報告や作品を紹介し、展覧会によって戦場のイメージを国内へ伝えた。
テレビのない時代、戦争の大部分を国民は直接見ることができない。新聞写真、ニュース映画、ラジオ、そして絵画が遠い戦場を想像する媒体になる。戦争画は、その視覚環境の一部だった。
「見て描く」ことと「出来事を再構成する」こと
画家が戦地へ行っても、大規模な戦闘の全体をその場でカンヴァスに描くことはできない。実際の制作では、現地でスケッチや写真資料を集め、兵士や軍関係者から説明を受け、帰国後のアトリエで複数の情報を一枚の大画面へ再構成することが多かった。
この方法は歴史画に近い。画家は一瞬の目撃者であるだけでなく、複数の時間と視点を統合し、「この戦闘はこういう出来事だった」という理解可能な場面へ作り直す。
記録画は現場の直接的なコピーではなく、記憶、取材、写真、軍の説明、画家の構図力を組み合わせた視覚的な物語だった。
油彩の大画面が選ばれた理由
作戦記録画には大型の油彩画が多い。油絵具は細部を描き込み、人物群、煙、炎、機械、地形を一つの画面へ統合できる。さらに大画面なら、多くの観客が展覧会場で同時に見ることができる。
明治以来、日本の洋画家が学んできた西洋の歴史画・戦争画の技術が、ここで国家的な視覚表現へ利用された。人体の解剖、遠近法、群像構成、陰影、物質描写。近代美術教育が蓄積してきた技術が、戦争の劇的場面を作るために使われる。
洋画の制度化と戦争画は別々の歴史ではない。何十年もかけて育成された写実技術と大画面制作能力が、総力戦体制の中で別の役割を与えられた。
1939年、陸軍美術協会
東京文化財研究所によれば、1939年4月14日、陸軍省情報部の賛同を得て陸軍美術協会が結成された。会長は松井石根、副会長には藤島武二が就任した。
設立目的には、軍部との連絡を密にすること、美術家同士の親睦、国策への協力が掲げられていた。画家が個人的に戦場へ行く段階から、軍と美術家を組織的につなぐ制度が作られたのである。
同年には陸軍美術協会が戦争画集『聖戦美術』を刊行している。戦争画は展覧会場だけでなく印刷物としても全国へ流通した。
軍が「描くべき出来事」を選ぶ
1939年の東京文化財研究所の記録には、武漢攻略に関わった部隊の戦功を記念するため、陸軍美術協会へ十二場面の絵画制作が委嘱された事例が残る。清水登之、向井潤吉ら六人の画家が選ばれ、それぞれ複数の油彩画を制作した。
ここで重要なのは、画家が自由に「戦争について何を描くか」を選んでいないことである。どの部隊のどの出来事を後世へ残すかが先に選定され、その後に画家が配置される。
戦争記録画は、画家の表現であると同時に、軍が自らの歴史をどのように記憶させたいかという記念事業でもあった。
1940年、陸軍が画家を中国戦線へ派遣する
東京文化財研究所の1940年の記録では、陸軍省が川端龍子、川崎小虎、中村研一、小磯良平、宮本三郎ら十二人を中国戦線へ軍嘱託として派遣することを決めている。
日本画家と洋画家の両方が選ばれていた。戦争表現は洋画だけの仕事ではなかった。
ただし大型の戦闘場面では、写実的な人物群や近代兵器を立体的に描ける油彩技術が非常に有効だった。そのため現在「戦争記録画」として強く記憶されている作品には、大型油彩画が目立つ。
日本画も戦争へ動員される
日本画家は伝統的な花鳥・風景だけを描いていたわけではない。川端龍子、山口蓬春、福田豊四郎、吉岡堅二、堂本印象らも従軍や戦争記録画制作へ関わった。
紙本彩色は、油彩とは異なる平面性、色面、線によって戦場を描く。飛行機、船、ジャングル、兵士といった近代戦争の主題が、日本画材へ入ってくる。
「日本画=伝統」「洋画=近代」という明治以来の二分は、戦時下では同じ国家的課題へ動員されることで別の形に組み替えられた。
1941年、大日本海洋美術協会
1941年2月には、海軍省と海軍協会の後援を受けて大日本海洋美術協会が発足した。東京文化財研究所によれば、「海洋精神の昂揚」を掲げ、従来の洋画家中心の海洋美術会を拡大して日本画家も加え、海洋美術展、研究会、洋上観察などを行うことになった。
海そのものを美術主題として研究する活動と、海軍を支える国策的目的が重なる。海景画、軍艦、海戦、港湾といった主題が一つの組織へ集められた。
戦争美術の制度は陸軍だけでなく、海軍の活動を可視化する方向にも専門化していく。
1941年、大日本航空美術協会
同年5月には大日本航空美術協会も結成された。東京文化財研究所の記録では、航空知識の普及、航空画の制作、美術館構想に加え、軍用機の迷彩研究まで事業として挙げられている。
ここまで来ると、美術は単に戦争を「描く」だけではない。航空機を国民へ理解させ、航空思想を普及し、さらに実際の軍事技術へ美術家の色彩感覚や造形知識を使うことが想定される。
芸術、デザイン、軍事技術の境界が総力戦の中で接近していた。
展覧会が、戦場を国内の観客へ届ける
従軍画家が制作した大画面は、軍施設だけに保管されたわけではない。聖戦美術展、大東亜戦争美術展、陸軍美術展、百貨店の従軍画展などで一般観客へ公開された。
1941年には陸軍省所蔵の戦争画十五点が宮中で天覧に供され、その後上野で聖戦美術展が開催されたことが東京文化財研究所に記録されている。
作品は軍の内部記録であると同時に、国民が「戦争を見る」ための公共的イメージでもあった。
写真があるのに、なぜ絵画が必要だったのか
1930〜40年代にはすでに報道写真とニュース映画が存在した。それでも大規模な戦争画が制作された。
写真は特定の瞬間を写す力を持つが、戦闘全体を一つの視点から見せることは難しい。絵画なら複数の出来事を再構成し、中心人物を配置し、光を操作し、劇的な瞬間を強調できる。
東京国立近代美術館は近年の戦争と美術の展示で、こうした絵画の「スペクタクル化」の能力を重要な問題としている。絵画は現実を記録するだけでなく、出来事を見やすく、記憶しやすい劇的な像へ変換できた。
戦争画は「報道」と「歴史画」の間にある
戦争記録画は同時代の出来事を扱うため、報道的な性格を持つ。しかし制作には数か月以上かかり、完成時には戦況が変化している場合もある。
その一方で、大画面の群像構成や英雄的な中心人物は、西洋美術史の歴史画に近い。現在進行中の出来事を、すでに「後世へ残す歴史」のように描く。
速報性は新聞写真へ、意味づけと記念性は大画面絵画へ。それぞれの媒体が異なる役割を担った。
1942年、陸軍が十六人の画家を南方へ派遣
太平洋戦争開戦後の1942年3月、陸軍は戦争記録画制作のため十六人の画家を現地へ派遣した。東京文化財研究所には、藤田嗣治、伊原宇三郎、中村研一、宮本三郎、猪熊弦一郎、小磯良平、川端龍子、山口蓬春、吉岡堅二らの名前が記録されている。
洋画、日本画の主要作家が同じ派遣事業に選ばれている。すでに評価を確立した画家の専門技術が、国家の戦争記録へ投入された。
壮行会を朝日新聞社が主催している点も重要である。軍と作家だけの閉じた関係ではなく、新聞メディアもこの事業を社会へ見せる役割を担った。
1942年、海軍も十六人を派遣
同年5月には海軍省も十六人の美術家を南方へ派遣した。藤田嗣治、中村研一、宮本三郎らは陸軍だけでなく海軍の記録画制作にも関わった。
一人の画家が複数の軍組織から依頼を受けることで、戦争記録画の制作は大規模な専門仕事になる。
戦争画家という独立した職業が新設されたわけではない。平時には人物画、風景画、前衛絵画を制作していた既存の美術家が、その技能を戦争の主題へ振り向けた。
小磯良平《娘子関を征く》
小磯良平《娘子関を征く》は1941年制作、260×193センチの大画面油彩で、現在は東京国立近代美術館がアメリカ合衆国から無期限貸与を受けて保管する作品である。
小磯は人物素描と群像構成に優れた洋画家だった。戦時下では、そのアカデミックな人体表現が兵士の集団を描くために使われた。
画家が平時に培った技術と戦争画の技術は分離していない。むしろ戦争記録画は、近代日本洋画が制度的に育ててきた写実力を大規模に使用する場所になった。
戦場の兵士を「個人」として描くのか「集団」として描くのか
戦争画では多数の兵士が一つの部隊として描かれることが多い。軍隊という組織そのものを見せるには、個人肖像より集団構成が有効である。
しかし画家が一人一人の顔を描き込めば、兵士は匿名の記号ではなく個別の身体を持つ。反対に、遠景や密集構図では個人性が失われ、軍事行動そのものが主題になる。
戦争画が見る人へ与える印象は、何人をどの距離から描くかという構図によって大きく変わる。
宮本三郎《山下、パーシバル両司令官会見図》
宮本三郎《山下、パーシバル両司令官会見図》は1942年制作。シンガポールで日本軍の山下奉文とイギリス軍のアーサー・パーシバルが会見する場面を描いた大型油彩である。
戦闘そのものではなく「降伏をめぐる会見」を歴史的瞬間として表象した作品で、同年の第1回大東亜戦争美術展に出品された。宮本はこの作品で翌年、帝国芸術院賞を受けた。
軍事的勝利を、指揮官の人物配置、室内の緊張、視線によって一つの象徴的場面へまとめる。戦争画が「戦う兵士」だけでなく、政治的・軍事的な決定の瞬間を歴史画へ変える例である。
会見図は、出来事の「代表画像」になる
歴史的出来事は実際には多くの交渉、文書、移動、命令から成る。しかし一枚の絵は、その複雑な過程を一つの場面へ圧縮する。
《山下、パーシバル両司令官会見図》を見ると、「シンガポール陥落」という巨大な出来事を、テーブルを挟んだ人物群として記憶できる。
絵画の力は、複雑な歴史を一つのアイコンへ変えることにある。それは記憶しやすさを生む一方、出来事の複雑さを単純化する力でもある。
藤田嗣治 — パリ帰りの国際的画家が戦争画の中心へ
藤田嗣治は1910年代からパリで活躍し、「乳白色の肌」で国際的な名声を得た画家だった。1930年代に日本へ戻り、1937年の日中戦争以後は従軍画家として中国大陸や南方へ赴く。
東京文化財研究所によれば、1942年には陸軍省・海軍省双方から戦争記録画制作のため派遣され、同年の大東亜戦争美術展へ複数の戦争画を出品した。
日本の近代洋画が西洋で認められることを目指した時代を象徴する画家が、戦争期には国家的な戦争表象の代表的作家になる。この変化は、近代日本美術と国家の関係を考える上で非常に重い。
藤田の戦争画も、すべて同じ性格ではない
藤田の戦争画には、初期の勝利を描く作品と、1943年以後の大量の死を前面に出す作品がある。ひとまとめに「勝利宣伝画」として見るだけでは、その変化を捉えられない。
1942年にはシンガポールや真珠湾に関わる作品を発表し、戦勝を視覚化する。一方、戦局が悪化すると《アッツ島玉砕》《血戦ガダルカナル》《サイパン島同胞臣節を全うす》のように、死体が画面を覆う作品へ進む。
どちらも戦時体制の中で制作されたが、観客へ与える感情は大きく異なる。
1943年《アッツ島玉砕》
藤田《アッツ島玉砕》は1943年制作、193.5×259.5センチ。東京国立近代美術館がアメリカ政府から無期限貸与を受ける戦争記録画の一つである。
同年9月の国民総力決戦美術展へ出品された。画面では日本兵と米兵が密集し、誰がどちらの兵士か一見して判別しにくいほど身体が絡み合う。明確な英雄一人を中心に置く構図ではない。
アッツ島の日本軍守備隊が壊滅した出来事を、藤田は大量の身体と暗い色調によって表した。戦勝の晴れやかな記念画とは異なる、「死そのもの」が中心となる戦争画である。
「玉砕」という言葉が敗北を別の物語へ変える
アッツ島で日本軍が壊滅したことは軍事的には敗北だった。しかし戦時下では「玉砕」という言葉によって、最後まで戦い抜いた自己犠牲と名誉の物語として表象された。
絵画もその言語環境から自由ではない。《アッツ島玉砕》の凄惨な死は、戦争の悲惨さを見せると同時に、当時の公的文脈では戦死者を顕彰する像として受け取られた。
同じ画面が「戦争の恐怖」と「自己犠牲の称揚」という異なる意味を持ち得る。戦争画は作品だけで意味が決まらず、展示場所、題名、解説、時代の言葉によって読まれ方が変わる。
死体を描くことは、反戦表現なのか
死体が大量に描かれているからといって、その作品が自動的に反戦画になるわけではない。戦死を英雄化するために死を描くこともできる。
逆に国家の依頼で作られた作品であっても、現在の観客が画面の身体から戦争の暴力を強く感じることはある。
制作意図、当時の展示文脈、後世の鑑賞は一致しない。戦争画を現在見る難しさは、この意味のずれにある。
1944年《血戦ガダルカナル》
藤田《血戦ガダルカナル》は1944年制作で、262×265センチの大型油彩である。画面には戦闘中の兵士と倒れた身体が密集し、空間全体が暗く圧迫されている。
1943年以降の藤田は、敵味方を明快に分けた勝利の図より、肉体が混ざり合う激しい戦闘を繰り返し描く。
そこにはルネサンスやバロックの大画面歴史画、宗教画で培われた群像構成の知識も活用されている。西洋美術史の技術が、20世紀の太平洋戦争を描くために転用された。
古典絵画の技術が、近代戦争を神話化する
宗教画や歴史画では、多数の人物を一つの劇的な出来事へまとめるため、光、身体、視線、対角線構図が発達した。戦争画はその技術を現代の兵士、銃、戦車、航空機へ適用できる。
この方法を使うと、昨日の出来事でも何百年前の歴史的事件のような重みを持つ。画家は現在進行中の戦争を、すでに「記念される歴史」へ変換する。
戦争記録画の大きさと古典的構成には、出来事を神話化する力があった。
「記録」と「プロパガンダ」は両立する
プロパガンダという言葉を使うと、「事実ではない嘘の絵」という意味に聞こえることがある。しかし宣伝は必ずしも虚偽だけで成立するわけではない。
実際に起きた戦闘、会見、占領を描きながら、その中から国家にとって重要な場面を選び、英雄性、犠牲、勝利、団結を強調することができる。記録機能と宣伝機能は同じ作品の中で共存する。
戦争画を見るときは、「事実か宣伝か」という二択より、「どの事実を、どの構図と題名で、誰へ見せたのか」を見る方が有効である。
大東亜戦争美術展と新聞社
1942年12月には東京府美術館で第1回大東亜戦争美術展覧会が開催され、翌1943年にも第2回展が行われた。藤田嗣治、宮本三郎、小磯良平らの大型戦争画が発表される重要な場となった。
朝日新聞社は展覧会や従軍画家の壮行会、画集出版に深く関わった。戦争画の社会的な影響は軍の命令だけでは作れない。新聞社が宣伝し、百貨店や美術館が会場を提供し、多数の観客が見ることで初めて国民的な視覚文化になる。
戦争と美術を考えるには、画家と国家だけでなく、メディア企業と展示制度も含める必要がある。
画集によって戦争画は家庭へ入る
大画面の原作を見るには展覧会へ行かなければならない。しかし『聖戦美術』『大東亜戦争美術展集』『海軍美術』などの画集が出版されれば、作品のイメージは全国へ広がる。
昭和館の資料には、1939年の『聖戦美術』、1942年の『海軍美術』『大東亜戦争美術展集』、1943年以降の『大東亜戦美術』など複数の戦争画集が記録されている。
絵画は一点物でも、その写真製版は複製できる。戦争画の社会的機能は、原作品より印刷図版の方が広範囲だった可能性がある。
美術批評も戦争の言葉へ変わる
戦時体制が強まると、美術作品を語る批評の言葉も変化する。「国民」「報国」「国土」「建設」「大東亜」といった言葉が美術団体や展覧会の名称へ入り込む。
作品だけが国家へ協力したのではない。展覧会案内、批評、授賞制度、団体宣言が「戦時下で美術は何をすべきか」という共通の枠組みを作る。
表現の内容と制度の言葉は相互に影響し、美術界全体の選択肢を狭めていった。
1942年、日本画家報国会
1942年3月には、文展系、日本美術院、青龍社などの日本画家を広く集めた日本画家報国会が結成された。東京文化財研究所によれば、約百名が結成式に参加し、最初の事業として展覧会を開催した。
同会は飛行機献納のため作品展を行い、売上金を陸海軍へ献納した。ここでは絵の主題が直接戦争でなくても、作品販売によって軍事資金へ協力することができる。
戦時協力は戦争画を描くことだけではなかった。展覧会収益、献納、慰問、資金調達など、美術活動全体が複数の形で戦争と結びついた。
1943年、日本美術報国会
1943年5月、大政翼賛会文化部が文部省・情報局と協力し、日本美術報国会を設立した。東京文化財研究所によれば、発起人二百八十余名が参加し、横山大観が会長となった。
日本画、油絵、彫塑、工芸など既存の分野を一つの報国組織へまとめ、美術家を全国的に動員する枠組みが整えられた。
1930年代初頭まで多数の在野団体が自由に競争していた美術界は、戦争末期には統合と統制を強く受ける方向へ変化した。
版画・漫画・挿絵も「戦力化」される
同じ1943年には日本版画奉公会も結成され、版画家が漫画・挿絵とともに日本美術報国会の一部を構成した。東京文化財研究所の当時の記録には、「版画芸術を戦力化する」という表現が残る。
版画、漫画、挿絵は油彩画より複製しやすく、大量印刷へ向いている。そのため宣伝、慰問、啓発、ポスターといった社会的な利用に適していた。
美術の戦時利用は、美術館に入る大作だけでなく、日常で目にする複製画像にも広がっていた。
女性美術家も組織化される
1943年2月には、文展、二科会、国画会などで活動していた女性作家およそ五十名による女流美術奉公隊が結成された。理事長は長谷川春子で、三岸節子らも役員として記録されている。
これは戦時体制が男性画家だけを組織化したわけではないことを示す。女性美術家にも「銃後」の文化活動と奉公が求められた。
戦争とジェンダーの関係を見ると、誰が前線へ派遣され、誰が国内の慰問・献納・生産活動へ配置されたのかという役割差も見えてくる。
材料の統制が、制作の自由を左右する
1943年には日本美術及び工芸統制協会が設立され、絵具、カンヴァスなどの材料配給も統制対象となった。東京文化財研究所の記録には、保存すべき美術家・技術者の資格認定と、資材配給の管理が主要事業として挙げられている。
これは非常に具体的な力を持つ。作品を作りたくても、絵具や布がなければ制作できない。誰を「保存すべき作家」と認定するかが、制作を継続できるかどうかに関わる。
芸術統制は題材を命令するだけではない。材料へのアクセスを管理することでも成立する。
戦争に協力しないという選択は、どの程度可能だったのか
戦争画制作へ積極的に参加した画家もいれば、別の主題を描き続けた画家もいた。すべての美術家が同じ程度に国家へ協力したわけではない。
しかし1940年代になると、展覧会、材料配給、団体加入、出版、徴兵、疎開など制作環境全体が戦争によって変化する。単純に「描きたくなければ描かなければよい」と言える状況ではなくなる。
一方、制度的圧力が存在したからといって、すべての制作を強制の結果だけで説明することもできない。画家自身が国家の戦争目的に共感し、名誉ある大仕事として戦争画を望んだ例もあった。個人の動機と制度の圧力は作家ごとに異なる。
「協力/抵抗」の二分では足りない
敗戦後、戦争期の作家を評価するとき、「戦争に協力したか、抵抗したか」という二分法が強くなる。しかし実際の行動はその間に多数存在した。
軍から依頼を受けて制作する、従軍する、作品を献納する、報国団体へ入る、戦争主題を避ける、私的な作品を作る、材料不足で制作を縮小する。さらに同じ作家でも時期によって態度が変わる。
歴史を理解するためには、後世の道徳的な二択へ急いで整理するより、具体的に何を制作し、どの制度へ参加し、どのような条件に置かれていたかを確認する必要がある。
前衛美術は戦時下で縮小する
前の記事で見たように、1941年にはシュルレアリスムを紹介した瀧口修造と福沢一郎が検挙された。国際的な前衛思想そのものが政治的に疑われる状況が生まれる。
その一方で、戦争記録画や報国美術のためには大規模な展覧会と資材が用意される。美術界の可能性は均等に縮小したのではない。国家の目的に合う表現へ制度的な資源が集中した。
戦争期の美術を理解するには、「何が禁止されたか」と同時に「何が奨励されたか」を見る必要がある。
1944年、戦況悪化と美術
1944年になると日本の戦況は悪化し、本土空襲の危険も高まる。作家の疎開、徴兵、物資不足が進み、通常の展覧会活動を続けることが難しくなる。
それでも陸軍美術展、戦時特別美術展覧会、献納展などは行われた。藤田は《血戦ガダルカナル》《大柿部隊の奮戦》などを発表し、宮本三郎も戦争記録画制作を続けた。
戦争が現実として国内生活を破壊し始めても、戦争を表象する制度は終戦直前まで続いた。
日本国内の空襲は、戦争画でどう描かれたか
戦争初期の大画面には海外での進軍・占領・戦闘が多い。しかし戦争末期になると、日本本土への空襲、防空、特攻など国内側の戦争経験も題材になる。
中村研一《北九州上空野辺軍曹機の体当りB29二機を撃墜す》は1945年制作で、東京国立近代美術館が無期限貸与を受ける戦争記録画の一つである。
戦場が「遠い外地」にある時代から、日本の上空そのものが戦場になる。戦争画の地理も戦況とともに移動した。
戦場に存在しなかった人々は、どこまで描かれたのか
戦争記録画の中心は軍事作戦と兵士であり、中国・東南アジア・太平洋諸島の現地住民や民間被害は、同じ比重で描かれたわけではない。
これは「何を記録するか」の選択に関わる。軍の作戦を記録するという目的なら、軍事的成功や兵士の行動が中心になる。その外側にある占領地の日常、被害、植民地支配は画面から抜け落ちやすい。
戦争画を見るとき、描かれているものだけでなく、画面の外に置かれた人々を想像することも必要になる。
絵画は、戦争の全体を描けない
どれほど大きなカンヴァスでも、一枚で戦争全体を表すことはできない。画家は必ず一場面を選び、他を捨てる。
軍艦の沈没を描けば、工場で兵器を作る人は見えない。兵士の突撃を描けば、その後の負傷者や遺族は画面にいない。降伏会見を描けば、占領地の社会は見えない。
記録画という言葉に反して、絵画は常に部分的である。その部分性を理解することが、戦争画を史料として読むための前提になる。
1945年8月、敗戦によって意味が反転する
1945年8月、日本の敗戦によって、戦時中に国家の勝利・犠牲・軍事行動を記念していた作品の社会的意味は急激に変化した。
昨日まで国民へ公開され、賞を受け、新聞で称賛された作品が、敗戦後には軍国主義や戦争協力の象徴として問題視される。
作品そのものの絵具は変わらない。しかし政治体制と社会の言葉が変わることで、同じ画面がまったく別の意味を持つ。戦争画は、美術作品の意味が歴史状況によって大きく変化する最も強い例の一つである。
戦後、戦争記録画は米軍に接収される
敗戦後、戦争記録画の一群は連合国軍によって接収され、その後米国で長期間保管された。東京国立近代美術館は、これらが交渉の末、1970年にアメリカ政府から「無期限貸与」という形で日本へ戻ったと説明している。
現在、藤田嗣治《アッツ島玉砕》、宮本三郎《山下、パーシバル両司令官会見図》、小磯良平《娘子関を征く》などの作品情報には、来歴として「アメリカ合衆国無期限貸与」と記載されている。
「返還」ではなく法的には無期限貸与である点が、この作品群の戦後史を象徴している。
153点という特殊なコレクション
戦後に米国で保管され、1970年に東京国立近代美術館へ無期限貸与された戦争記録画は153点にのぼる。現在も同館の通常の購入・寄贈作品とは異なる来歴を持つ作品群として扱われている。
戦時中には国家的な記録として集められ、敗戦後には占領軍によって移動し、さらに数十年後に日本の国立美術館へ戻る。一枚の作品の所有・管理関係そのものが、戦争と占領の歴史を背負っている。
戦争記録画は描かれた内容だけでなく、「どこに置かれてきたか」という物としての履歴も歴史資料なのである。
なぜ戦後すぐに大規模公開されなかったのか
戦争記録画は、敗戦後の日本社会にとって扱いの難しい存在だった。国家の戦争に協力した美術をどう評価するか、戦争被害国・地域の視点をどう考えるか、作者の戦争責任をどう扱うかという問題がある。
東京国立近代美術館も、1970年に戻った後、作品を段階的に公開しながら、戦争画を近代美術史の中でどう位置づけるかを長く検討してきた。
「名作だから展示する」「プロパガンダだから隠す」という二択ではなく、制作と受容の歴史を説明しながら公開する方法が求められた。
美術館で戦争画を見る意味
戦時中の展覧会では、作品が戦意高揚や戦没者顕彰の文脈で見られた。現在の美術館で同じ作品を見るとき、その目的をそのまま再現する必要はない。
画家の技術、軍と美術界の制度、宣伝の構造、死の表象、作品の戦後史を同時に考えることができる。美術館は作品を称賛する場所であるだけでなく、過去の視覚文化を検証する場所にもなり得る。
戦争画を公開することは、その戦争観を肯定することと同じではない。どのように文脈化して見せるかが重要になる。
藤田嗣治の戦後と「戦争責任」
藤田嗣治は戦後、戦争画制作をめぐる批判の中心的な人物の一人となった。国際的な名声があり、戦争記録画でも大きな存在感を持ったため、その責任が象徴的に問われた。
しかし戦時中の美術組織は藤田一人で作られたものではない。多数の作家、軍、官庁、美術団体、新聞社、展覧会制度が関わっていた。
一人の有名画家へ責任を集中させると、美術界全体を戦争へ接続した制度が見えなくなる。個人の選択を検討すると同時に、組織と制度の責任も見る必要がある。
戦争画の技術的完成度を評価してよいのか
戦争記録画には、近代日本洋画の高度な技術が投入されている。群像構成、人体、遠近、光、材料処理という点で重要な作品が存在する。
しかし「上手い絵だから素晴らしい」とだけ評価すれば、その技術が何を見せるために使われたかを無視することになる。逆に戦争協力作品だから造形を見る必要がないとすれば、美術がプロパガンダとして機能できた理由を理解できない。
高い技術と政治的機能は両立する。むしろ絵が強いからこそ、見る人へ大きな感情的効果を与える。戦争画では、造形評価と歴史的評価を切り離さず、同時に考える必要がある。
プロパガンダは「下手な宣伝」だけでは成立しない
プロパガンダという言葉から、単純な標語や粗雑なポスターを想像するかもしれない。しかし効果的な宣伝は、優れた技術、強い物語、魅力的な画像を必要とする。
著名画家を戦地へ派遣し、大画面を制作させ、主要な展覧会で公開し、画集へ複製する仕組みは、美術の権威を戦争の表象へ使うものだった。
戦争画を美術史から切り離してしまうと、「美術の質の高さが政治的機能へ利用され得る」という重要な問題を見落とす。
戦争画は、日本近代美術の例外ではない
戦争画を「正常な日本美術史の中に突然現れた異常な期間」と考えると、その成立条件が見えにくい。東京美術学校の写実教育、官展制度、新聞社主催展、帝国芸術院、作家団体という平時の制度が、そのまま戦時へ転用されたからこそ、大規模な戦争美術が成立した。
画家も突然別人になったのではない。平時に人物画、風景画、歴史画を描いていた技術を戦場へ持ち込んだ。
戦争と美術の問題は、日本近代美術の外部ではなく、その制度が国家とどのような関係を持ち得たかを示す内部の歴史である。
1937–1945|戦争と美術
1937年の日中戦争以後、日本の美術界は従軍、展覧会、献納、団体組織、材料配給を通して総力戦体制へ深く組み込まれた。1939年の陸軍美術協会、1941年の海洋・航空美術団体、1942年の陸海軍による多数の画家派遣、1943年の日本美術報国会へ進むにつれ、戦争と美術を接続する制度は広範囲になった。
小磯良平、宮本三郎、藤田嗣治らの大型戦争記録画は、単なる現場スケッチではない。軍が出来事を選び、画家が取材と資料から再構成し、展覧会と画集によって観客へ届ける「歴史を作る画像」だった。《山下、パーシバル両司令官会見図》は軍事的勝利を象徴的場面へ圧縮し、《アッツ島玉砕》《血戦ガダルカナル》は戦況悪化の中で大量の死を画面中心へ置いた。
これらをすべて同じ意味の「宣伝画」と呼ぶだけでも、反対に純粋な「芸術作品」として造形だけを見るだけでも不十分である。記録と宣伝、画家の主体性と制度的圧力、技術的達成と政治的機能は同時に存在した。さらに戦争へ直接的に協力した程度も作家ごとに異なり、戦時下で取り得た選択肢そのものも平時とは異なっていた。
敗戦後、戦争記録画の一群は米国へ移され、153点が1970年に「無期限貸与」という形で東京国立近代美術館へ戻った。現在、それらを見ることは戦時中の目的を再現することではなく、美術が国家・メディア・戦争と結びついた過程を検証する行為になっている。次の記事では1945年以後へ進み、敗戦、占領、焼け跡、価値体系の崩壊の中から、日本の美術家がどのように制作を再開し、戦前の制度と前衛を組み替えていったのかを見る。
参考資料
- 東京国立近代美術館「コレクションを中心とした特集 記録をひらく 記憶をつむぐ」
- Art Platform Japan「藤田嗣治《アッツ島玉砕》」
- Art Platform Japan「藤田嗣治《血戦ガダルカナル》」
- Art Platform Japan「宮本三郎《山下、パーシバル両司令官会見図》」
- Art Platform Japan「小磯良平《娘子関を征く》」
- Art Platform Japan「藤田嗣治」
- Art Platform Japan「宮本三郎」
- 東京文化財研究所「1939年 美術界年史」
- 東京文化財研究所「1940年 美術界年史」
- 東京文化財研究所「1941年 美術界年史」
- 東京文化財研究所「陸軍省派遣画家壮行会」
- 東京文化財研究所「海軍省美術家派遣」
- 東京文化財研究所「日本美術報国会創立」
- 東京文化財研究所「日本美術及び工芸統制協会創立」
- 東京文化財研究所「藤田嗣治」
- 東京文化財研究所「宮本三郎」
- 国立国会図書館レファレンス協同データベース「戦争画集が見たい」
資料確認日:2026年10月2日